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title: "正法念處經 · 27"
description: "正法念处经是佛教重要经典，由元魏时期译经师瞿昙般若流支翻译。该经属于小乘佛教典籍，成书于古印度，后传入中国。经文主要阐述通过正念观察身心现象，达到解脱的修行方法，详细分析六道轮回、因果业报等佛教核心教义。内容涵盖四念处修法、三十七道品等修行体系，强调通过观照身、受、心、法来破除执着。在佛教史上具有重要地位，是研究早期佛教禅修理论的重要文献，对后世禅修实践影响深远，被列为汉传佛教基本经典之一。"
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## 正法念處經卷第六十二

> 正法念処経 巻第六十二

元魏婆羅門瞿曇般若流支譯

> 元魏の婆羅門瞿曇般若流支訳

### 觀天品之四十一夜摩天之二十七

> 天界の観察 第41章<note>夜摩天 その27</note>

「時，孔雀王菩薩知天眾心，復為宣說第十六法，告諸天眾：『復有善法、可愛樂法，能制放逸猶如鐵鉤，應念修行。何等善法？所謂念死。若人念死，常勤修習，不休不息。無等大惡惱亂一切諸眾生等，無能逃避，決定無免。有生必死，能令一切恩愛別離，令人喪滅，生於異處，或有從樂生於苦處，業繩繫縛，自業所資，墮於地獄、餓鬼、畜生。於命終時，無有伴侶，唯有善業及不善業以為同伴。所作善業猶如父母，將至樂處；不善惡業猶如大怨，將至地獄、餓鬼、畜生。以是義故，應修善業，捨離諸惡。若能如是修行念死，其心則不著於境界，不著貪欲、瞋恚、愚癡。怖畏死故，不為妻子眷屬因緣作不善業。一切在家若修此念，尚得寂靜，何況出家。若有沙門修於念死，則不犯戒，不樂境界，不處憒閙。若處憒閙，心則散亂，多言之本，多見女人。能生一切貪欲之處應當捨離，思惟念死。若處憒閙，心意不善，於命終時，當得一切無利衰惱，不得安樂。臨死之時，刀風、劍風之所解截，無歸無救，業繩所縛，將至餘世，非父母兄弟妻子眷屬所能救護。若能如是修念死相，是人則樂持戒智慧，如是修行，是則能令善業增長，不善消滅，以善業故，受人天樂，後得涅槃。

> 「時に、孔雀王菩薩は天人の心を知り、さらに第十六の法を説き示して、天衆に告げました。『さらに善なる法、愛すべき楽しい法があり、それは放逸を制する鉄の鉤のようなものです。心して修行すべきです。その善法とは何か？それは“死を念じる”ことです。人が死を念じ、常に努め励み、休まず止まなければ、比類なき大いなる悩みはすべての生きとし生けるものを煩わせますが、そこから逃れることはできず、必ず免れられません。生ある者は必ず死に、それは全ての恩愛を別離させ、人を滅ぼし、異なる場所に生まれさせます。あるいは楽しい境遇から苦しい境遇に生まれ変わります。業の縄に縛られ、自らの業によって支えられ、地獄・餓鬼・畜生に堕ちます。命終わりの時には、伴侶はなく、ただ善業と不善業だけが仲間となります。なした善業は父母のように、人を楽しい場所へ導きます。不善の悪業は大きな怨みのように、人を地獄・餓鬼・畜生へ導きます。このような理由から、善業を修め、諸々の悪を捨て去るべきです。もしこのように死を念じる修行ができれば、その心は境界に執着せず、貪欲・瞋恚・愚癡に執着しません。死を恐れるがゆえに、妻や子や親族の因縁のために不善の業を作ることはありません。在家の者がこの念を修めれば、それでもなお寂静を得られるのです。ましてや出家者はなおさらです。もし沙門が死を念じる修行をすれば、戒律を破らず、境界を楽しまず、騒がしい場所に居ません。もし騒がしい場所にいれば、心は散乱し、多弁のもととなり、多くの女人を見ることになります。一切の貪欲を生じさせる場所をこそ、捨て去り、死を念じることを思惟すべきです。もし騒がしい場所にいれば、心は不善となり、命終わりの時に、一切の無益な衰えや悩みを得て、安楽を得ることはできません。臨終の時には、刀風・剣風により体を切り裂かれ、帰る場所も救いもなく、業の縄に縛られて、来世に運ばれます。父や母、兄弟、妻子、親族であっても、それを救うことはできません。もしこのように死の相を念じる修行ができれば、その人は戒律と智慧を楽しみ、このように修行すれば、善業を増長させ、不善を消滅させることができます。善業によって、人の天の楽を受け、後に涅槃を得るのです。』」

「『若男、若女知此功德，若在家、出家，若沙門、婆羅門，常應念死。以念死故，其心怖畏，不作一切不善之業，心作是念：「一切眾生皆當歸死，天人、地獄、餓鬼境界無處不死。」若能如是修行念死，畏未來世，其心不著色聲香味觸。如是境界非常不變、非不壞法，常念無常、苦、空、無我。若心念死，不為諸惡之所惱亂，常當數數修不淨觀，善觀增長。數數念死，修習增長，係念無常。「無有常處而不破壞、不變不滅。可愛山峯百千萬億乃至須彌山王，劫火所燒，皆當摧滅，況人、天身。大海無邊，一切大河、一切龍王所住之處，一切諸龍及阿修羅，七日既出，則皆乾竭，何況我身。舉要言之，欲界、色界、無色界，一切三界無常變動皆當破壞，況我身命當是常住不動、不破壞法？」若能如是心意常念，意善觀察，如是修心，無處可樂、無處可貪、無處可瞋。貪瞋淨故，癡亦隨滅，離三過故，得第一處，不老不死、不盡不滅。如是念死，無所緣念，是故念死於一切念最為第一。

> 「もし男であれ女であれ、この功徳を知る者がいるならば、在家も出家も、沙門もバラモンも、常に死を念じるべきである。死を念じるゆえに、その心は恐れを抱き、あらゆる不善の業を行わなくなる。心にこう思う——『すべての衆生は必ず死に至る。天人の世界、地獄、餓鬼の境涯にも、死なない場所はどこにもない』と。 このようにして死を念じ、来世を畏れれば、その心は色・声・香・味・触に執着しなくなる。なぜなら、これらの境涯は常住ではなく、変わらず、壊れることのない法ではないからだ。常に無常・苦・空・無我を思いなさい。 もし心に死を念じるならば、諸々の悪に悩まされることはない。常に繰り返し不浄観を修め、善き観察を増長させなさい。繰り返し死を念じ、修行を積み重ね、無常を心に留めなさい。 『常住であって壊れることがなく、変わることなく滅しない場所などない。愛でたい山々や数え切れない峰、さらには須弥山の王でさえも、劫の火に焼かれて皆、滅びてしまう。ましてや人の身や天の身はなおさらである。広大無辺な大海も、すべての大河も、すべての龍王の住む場所も、すべての龍や阿修羅も、七日が昇れば皆、干上がってしまう。ましてや私の身はなおさらである。要するに、欲界・色界・無色界、この三界すべては無常であり、変動し、皆、壊れるべきものである。ましてや私の命が、常住不変で壊れることのない法などであろうか？』 このように心に常に思い、心をよく観察して、このように心を修めるならば、楽しいと感じる場所もなく、貪る場所もなく、怒る場所もなくなる。貪りと怒りが清まるゆえに、愚かさもまた共に滅する。三つの過ちを離れるゆえに、最上の境地を得る。老いることなく、死ぬことなく、尽きることなく、滅することもない。 このように死を念じることは、何かに執着して念じるのではない。ゆえに、死の念じ方はすべての念じ方の中で最も優れているのである。」

「『修念死相，復有功德。若沙門、婆羅門如是修行，諦觀此身猶如虎檻。云何觀苦？「如我此身，身心病惱，為老所壞，死王將去，死網所縛，為何所作，不能修行布施、持戒及修智慧。是故應當於死未至，修行施、戒及以智慧，不久死至，壞於一切眾生之命。」若沙門、婆羅門如是係心念於死相，所作不空，必得涅槃。「『復次念死，所謂「此身唯有無常，一切諸行皆悉無常、苦、空、無我，念念變壞，速疾不停，破壞之法，空無所有，非堅固法，如旋火輪、乾闥婆城，一切諸行皆亦如是。我之身命亦復如是，無有堅固，猶如水沫、乾闥婆城。如是死法，一切皆有，畢定來至，甚可怖畏；是故當修堅固之法，攝三善業，捨三不善。」當作如是念於死想。若沙門、婆羅門自心修念，修是念故，得大利益。』

> 「死の相を観想することには、さらに功徳があります。もし修行僧やバラモンがこのように修行し、この身を虎の檻のように観察するならば、どのように苦を観るのでしょうか。『この私の身体は、心身ともに病や悩みに苛まれ、老いに衰え、死神に連れ去られようとし、死の網に捕らえられている。何ができるというのか、布施や戒律の修行、智慧の修行もできない。だからこそ、死が訪れる前に、布施、戒律、智慧の修行を行うべきである。間もなく死が訪れ、すべての生きとし生けるものの命を壊してしまうのだ』と。もし修行僧やバラモンがこのように心を集中して死の相を観想すれば、その行いは無駄にならず、必ず涅槃に至るでしょう。 「さらに、死の観想とは、すなわち『この身体は無常である。すべての営みは無常であり、苦であり、空であり、我ならざるものである。瞬間瞬間に変化し、速やかにとどまらず、壊れゆく性質を持ち、空しく何も無く、堅固ではない。それは火の輪や蜃気楼のようなものであり、すべての営みもまた同様である。私の命もまた同じく、堅固ではなく、水の泡や蜃気楼のようなものである。このような死のあり方は、すべての者に等しく、必ず訪れ、非常に恐ろしいものである。ゆえに堅固な法を修行し、三つの善業を積み、三つの不善を捨てるべきである』と。このように死の観想をなすべきです。もし修行僧やバラモンが自らの心を修行し、この観想を修行すれば、大きな利益を得るでしょう。」

「爾時，孔雀王菩薩以先佛偈，而作頌曰：

> その時、孔雀王菩薩は、過去の仏の偈を用いて、次のように詠じました。

「『此六惡怨家，破壞於世間，老病死不斷，由於三毒故。五境界大賊，能劫於善財，此怨詐親善，行於嶮惡處。放逸不善心，堅著於境界，能將諸眾生，疾至三惡道。若有能覺知，苦等真實諦，是人則能得，安隱寂靜處。拔斷諸毒根，增長功德行，應離懈怠心，莫近惡知識。若比丘精進，勤修念死觀，則得無上處，永離老病死。若有能如實，覺知於根塵，依止正智慧，則能渡有海。念死常生怖，離慢及懈怠，親近智慧人，眾惡不污心。精進心柔軟，修法離眾惡，正見心不動，此人應親近。若近惡知識，則不得善法；若近於勝者，則不畏眾過。一念及須臾，晝夜常不離，智者常念死，無有逃避處。念死最殊勝，諸念無與等，修行得寂滅，永離諸塵垢。若有念死畏，則不起心惡，心離一切過，當得寂滅處。不放逸勝果，世尊如是說，若常念死畏，則離諸不善。』

> 「この六つの悪しき怨敵は、世の中を壊し続ける。 老いと病と死は絶えることなく、それは三毒が原因である。 五つの境界という大いなる賊は、善い財産を奪い去る。 この怨敵は親しげに装いながら、危険な場所へと導く。 放逸で善くない心は、境界に強く執着する。 そして多くの生きとし生けるものを、速やかに三悪道へと落とす。 もしも苦しみなどの真実の真理に気づくことができたなら、 その人は安らかで静かな境地を得ることができる。 諸々の毒の根を断ち切り、功徳の行いを増やし、 怠ける心から離れ、悪しき友人に近づいてはならない。 もし比丘が精進し、死を観じる瞑想に努めるなら、 最も優れた境地を得て、老いと病と死から永遠に離れることができる。 もしある人が如実に、感覚器官とその対象を覚知し、 正しい智慧に依って立つなら、迷いの海を渡ることができる。 死を思って常に畏れ、傲慢と怠け心を離れ、 智慧ある人に親しみ、様々な悪が心を汚すことはない。 精進して心は柔らかく、法を修め様々な悪を離れ、 正しい見解を持ち心が動かない、このような人に親しむべきである。 もし悪しき友人に近づけば、善い法を得ることはできない。 もしすぐれた人に近づけば、多くの過ちを恐れることはない。 一つの思い、ほんの一瞬であっても、昼夜その思いから離れず、 智慧ある者は常に死を思う。逃れられる場所などないのだから。 死を思うことは最も優れており、他のどのような観想にも勝る。 修行によって寂滅を得て、永遠に全ての汚れを離れる。 もし死を畏れる心があれば、悪い心は起きない。 心が全ての過ちを離れるなら、まさに寂滅の境地を得るであろう。 怠らないことによる優れた結果を、世尊はこのように説かれた。 もし常に死を畏れるなら、様々な不善を離れることができるのである。」

「時，孔雀王菩薩為諸天眾說如斯法：『復次，第十七法能多利益沙門、婆羅門，有何等法？所謂離於色慢、種姓之慢及財富慢。若有色慢、種姓之慢及財富慢，是愚癡人口行惡業、身行惡業、意行惡業，以此因緣，身壞命終墮於地獄、餓鬼、畜生，於彼生處處處輪轉，無量生死受大苦惱，不可稱說。既知過已，不起色慢、種姓之慢及財富慢。若有人能離於色慢、種姓之慢及財富慢，當知是人則不造作身口惡業，如實見色無常、苦、空、無我，空無所有，無有堅固，是不淨器，髮毛爪齒、皮肉和合，無量骨鎖筋髓脂肉，屎尿膿血充滿其中。「我此色身初亦不淨，中亦不淨，後亦不淨，無量業煩惱因緣所生，無堅無常、無實無我。今我此身若至死時，不為我伴乃至一步，棄於塚間或以火燒，或為雕鷲烏鵄狐狗之所啖食。」若人如是思惟憶念，於色慢中，或滅或薄。

> 時に、孔雀王菩薩は天の衆生たちに次のように説かれた。「さらに、第十七の法は、沙門やバラモンに多くの利益をもたらす。いかなる法か。それはすなわち、『色慢』（容姿への慢心）と『種姓慢』（家柄への慢心）、そして『財富慢』（財産への慢心）を離れることである。もし色慢、種姓慢、財富慢があれば、愚かな人は口で悪業を造り、身体で悪業を造り、心で悪業を造る。その因縁により、命終われば地獄・餓鬼・畜生に堕ち、その生まれたところで絶えず輪廻し、計り知れない生死の中で大きな苦しみを受け、言葉に尽くせないほどである。この過ちを知ったならば、色慢、種姓慢、財富慢を起こしてはならない。もし人がこれらの慢心を離れることができれば、その人は身体と口で悪業を造らず、あるがままに色（物質的存在）が無常・苦・空・無我であること、空であり何もなく、堅固なものではなく、不浄の器であり、髪・毛・爪・歯・皮・肉が集まり、無量の骨・関節・筋・髄・脂肪・肉・糞尿・膿血がその中に満ちていることを観じる。『この私の身体も、最初から不浄であり、中も不浄であり、最後も不浄である。無量の業と煩悩の因縁によって生じ、堅固ではなく、無常であり、実体はなく、我もない。今、この私の身体は、やがて死ぬ時には、一歩たりとも私の伴侶とはならず、墓場に捨てられるか、火で焼かれるか、あるいは鳶・鷲・烏・梟・狐・犬の餌食となるであろう。』と。もし人がこのように思い考え、記憶するならば、色慢の中にあっても、それは滅するか、あるいは薄らぐであろう。」

「『復次，若沙門、婆羅門起種姓慢，自言：「我種姓勝。」若以實觀於真諦中，無有種姓，但妄分別。以愚癡故，妄生分別：「此種姓勝。」「此種姓不如。」如實不然。何以故？以有生故，是故有姓，如是變易。隨何等人有實布施、持戒、智慧、定心調伏，有此功德：其人雖生下姓之中，名大種姓。何以故？以有功德勝種姓故，非生種姓；功德因緣，非生因緣，若無功德，則無因緣。是故沙門、婆羅門不應起於種姓憍慢。

> 「また、修行者やバラモンの中には、家柄に対する慢心を起こし、『私の家柄は勝れている』と言う者がいる。しかし、真理を真実に基づいて観察すれば、家柄というものは本来存在せず、ただ誤った分別によって生じたものにすぎない。愚かさゆえに、誤って『この家柄は勝れている』『この家柄は劣っている』と分別するのである。実際はそうではない。なぜなら、生を受けることによって家柄があり、それは変化するものだからだ。実際に布施を行い、戒律を守り、智慧をそなえ、心を定めて調伏する者には、そのような功徳がある。その人の生まれが低い家柄であっても、『大いなる家柄』と呼ばれる。なぜなら、功徳によって家柄に勝るからであり、生まれの家柄によるのではないからだ。功徳は因縁によるものであり、生まれという因縁によるものではない。もし功徳がなければ、因縁も存在しない。ゆえに、修行者やバラモンは家柄によって驕り高ぶってはならない。」

「『復次觀於色慢。若沙門、婆羅門及餘行人，觀我此色於嬰兒時，雖有色貌，昂面不動非動時色，動時之色非匍匐色，乃至少年非中年色，中年之色非老年色，老年之色非死時色，如新死色非久死色。如我死屍，眾蠅唼食、蛆蟲所啖，風吹日曝、雨漬濕爛，一切破壞分散狼藉滿於塚間，此身分散為無量分，骨節分張，髑髏異處，咽喉肩臂、手指爪甲諸節異處，脊骨、臗骨、髀骨、脛骨、踝骨、足骨、指骨。以斯如實觀於色故，離於色慢。

> 「次に、色についての慢心を観察しましょう。 修行者や僧侶、あるいは一般の修行者が、自分のこの身体を観るとき、次のように見ます。 赤ん坊の時の姿は、確かにあったけれども、 顔を上げて動かない時と、動く時の姿は違い、 這う時の姿とも違う。 同様に、少年の時の姿は中年の時とは違い、 中年の時の姿は老年の時とは違い、 老年の時の姿は死ぬ時の姿とは違う。 死んですぐの姿は、長く経った死体の姿とは違う。 自分の死体が、多くの蝿にたかられ、蛆虫に食われ、 風に吹かれ、日差しにさらされ、雨に濡れて腐り、 すべてが壊れ散らばり、墓場に無残に広がっている。 この身体は無数の部分に分かれ、 関節はバラバラになり、 頭蓋骨はあちら、喉や肩、腕、指、爪などの関節は別々の場所にあり、 背骨、腰骨、腿骨、脛骨、足首の骨、足の骨、指の骨がある。 このようにして、身体をあるがままに観察するので、 色についての慢心から離れることができるのです。」

「『云何如實觀財富慢，觀已，遠離一切世間？如實觀知，一切世間皆無自在，無量種法皆無自在，云何此法當有自在？以一切有為諸法因緣所縛，不得自在，從因緣生。譬如屋宅，集眾材木、塼墼合和，互相依止，名之為屋；身亦如是，皮肉脂骨、筋髓和合，名之為身，無有自在，是身色相亦無作者。如是沙門、婆羅門如實觀察色慢、種姓慢、財富慢，一切皆滅，或令薄少。

> 『どのようにして、富への慢心をあるがままに観察し、その観察によって、一切の世間的執着から遠ざかるのか。あるがままに観察して知るべきである。一切の世間には自由自在なものはなく、無数の現象すべてに自在な支配者は存在しない。どうしてこれらの現象に自在があるはずがあろうか。なぜなら、すべての因縁によって生じた現象は、因や縁に束縛され、自在ではなく、因縁から生じるからである。譬えば、家屋は、多くの木材や煉瓦を集めて組み合わせ、互いに依存し合うことで「家」と名づけられる。身体もまた同じで、皮膚、肉、脂、骨、筋、髄が組み合わさって「身体」と名づけられるのであり、そこに自在な実体はなく、この身体の色形にも作り手は存在しない。このように、沙門や婆羅門は、色の慢心、家柄の慢心、富の慢心をあるがままに観察するとき、それらすべてが消滅するか、あるいは薄く少なくなるのである。』

「『復次，以不實觀故起種姓慢，若如實觀，如是種姓但有分別，無目之人妄生憶念。若布施、持戒、智慧、淨行、正見和合，如是種姓則為殊勝，非如愚癡妄起慢心念種姓勝。若沙門、婆羅門及以餘人，若能如實知於種姓，於種姓慢一切皆滅，或令薄少。』

> 「さらに、虚偽の見方にとらわれることで、人は自分の家柄や身分を誇る慢心を起こします。しかし、物事をあるがままに観察すれば、そうした家柄や身分は単なる分別（観念）に過ぎず、目の見えない人が無意味に記憶を巡らせるようなものだと分かります。もし人が布施、戒律を守ること、智慧、清らかな行い、正しい見解をそなえていれば、その人の家柄や身分は真に勝れたものとなります。決して、愚かな人が誤った慢心から自分の身分を勝れていると考えるのとは異なります。修行者やバラモン、あるいはその他の人々も、もし家柄や身分をあるがままに理解することができれば、そうした家柄に対する高ぶりの心はすべて消え去り、あるいはせいぜい薄らぐだけになるのです。」

「爾時，孔雀王菩薩以迦迦村陀如來經偈而作頌曰：

> その時、孔雀王菩薩はカカーカンダ如来の経典の偈をもって、次のように讃え歌いました。

「『若有人常起，色姓財富慢，是人如醉象，不見嶮惡岸。一切諸憍慢，放逸亂諸根，現在人所輕，命終墮惡道。若人起憍慢，色富慢所盲，其人則無樂，命終墮惡道。若恃色富慢，非為如實見，愚癡無智慧，不能渡苦海。色種姓財富，及以諸樂具，一切皆無常，智者不應信。若離施戒智，則無有種姓；若有施戒智，是種姓最勝。愚者不名富，非善道種姓，是故智為因，離智無種姓。若有持淨戒，猶如清涼池，斯人大種姓，是名勝種子。布施戒及智，勇猛實精進，能與此相應，是名勝種姓。若離於正法，非剃髮種姓，名之為沙門，名為婆羅門；若修於正法，有施戒智慧，乃名為沙門，乃名婆羅門。老能奪壯色，死能斷命根，財物必散壞，一切法如是。病能壞強健，令眾生流轉；若有智慧者，應離色財慢，知如是惡已，誰有起憍慢？是故色財慢，智人所捨離，以修行善法，則無諸苦惱。』

> 「もし人が常に、容姿や家柄や財産などで高慢を起こすならば、 その人は酔った象のようであり、危険な岸壁が見えていない。 あらゆる傲慢や、心の乱れから生じる放逸は、 現世では人に軽んじられ、命終われば悪道に堕ちる。 もし人が傲慢を起こし、容姿や財産の慢心に目を曇らされるならば、 その人には楽しみはなく、命終われば悪道に堕ちる。 もし容姿や財産の慢心に頼るならば、それは真実の見方ではない。 愚かで智慧のない者は、苦しみの海を渡ることができない。 容姿や家柄、財産、そして様々な楽しみの道具も、 すべては無常である。賢者はこれに執着すべきではない。 もし施しや戒律や智慧がなければ、本当の家柄はない。 もし施しや戒律や智慧があれば、それが最も優れた家柄である。 愚か者は富んでいるとは言えず、善い道の家柄でもない。 ゆえに智慧こそが根本であり、智慧を離れて家柄はない。 もし清らかな戒律を保つならば、それは涼しげな池のようであり、 その人は大いなる家柄を持ち、優れた種子であると言える。 施しと戒律と智慧、そして勇猛で真実の努力 – これらと相応するならば、それが最も優れた家柄である。 もし正しい法から離れるならば、剃髪したからといって 沙門（修行者）とも婆羅門とも呼ばれない。 もし正しい法を修め、施しと戒律と智慧があるならば、 それが沙門と呼ばれ、婆羅門と呼ばれるのである。 老いは若さを奪い、死は命の根を断ち、 財物は必ず散り壊れる。すべての法はこのようである。 病は健康を壊し、衆生を流転させる。 もし智慧ある者ならば、容姿や財産の慢心を離れるべきである。 このような悪事を知ったなら、誰が傲慢を起こせようか？ ゆえに、容姿や財産の慢心は、賢者によって捨てられる。 善い法を修行することで、あらゆる苦悩はなくなるのである。」

「上顯文中少第十八標文或合或闕本同未詳。

> <note>上記の文中、第十八の標文については、あるものは合体し、あるものは欠けており、もともと同一かどうかは詳らかではない。</note>

「如是孔雀王菩薩為諸天眾如是說法：『復次，沙門、婆羅門復有行法，謂第十九，於一切眾生起平等心。若沙門、婆羅門及以餘眾，若平等心，得第一樂，一切眾生之所愛敬，身壞命終生於善道天世界中。云何於一切眾生起平等心？若沙門、婆羅門捨於諍論，不與人諍，既捨諍亂，於一切眾生得平等心。是故沙門、婆羅門能捨諍論，則於一切眾生得平等心。

> 「このようにして、孔雀王菩薩は天の大衆のために説法されました。『さらに、修行者やバラモンには、また実践すべき教えがあります。その第十九は、“すべての生きとし生けるものに対して平等の心を起こすこと”です。もし修行者やバラモン、またはその他の人々が、平等の心を持つならば、最も優れた安らぎを得ることができ、すべての生きとし生けるものから愛され敬われ、この世を終えた後には善い世界、天の世界に生まれ変わることができます。では、どのようにしてすべての生きとし生けるものに対して平等の心を起こすのでしょうか。それは、修行者やバラモンが議論や争いを捨て、人と争わないことです。この争いや混乱を捨てることによって、すべての生きとし生けるものに対して平等の心を得ることができるのです。ですから、修行者やバラモンが議論や争いを捨てることができるならば、すべての生きとし生けるものに対して平等の心を得ることができるのです。』」

「『復次，有法能令沙門、婆羅門於一切眾生得平等心：觀一切眾生皆為衰惱，觀於怨家猶如親友。「此諸眾生生死所攝，生死不斷，以有生故，有老病死憂悲苦惱、寒熱飢渴、打縛鞭撻、怨憎會苦、愛別離苦。」如是觀於苦惱眾生得大衰惱，於怨親中修平等觀。若沙門、婆羅門作是觀已，於一切眾生中得平等心。若沙門、婆羅門復作是念：「此諸眾生眾苦所惱，所謂疾病惱諸眾生身心疾病，以病衰惱，得大苦惱。」於怨親中如是思惟，作是念故，心得清淨；以心淨故，血則清淨；以血淨故，顏色清淨，一切諸根皆亦清淨。如是觀察，得現果報，一切眾生之所樂見，愛敬瞻仰，以是因緣，身壞命終生於天上。

> 「さらに、修行者やバラモンが全ての生きとし生けるものに対して平等の心を持つことができる修行法があります。まず、全ての生きとし生けるものを、衰えや悩みを抱える存在として観察します。たとえ敵であっても、親しい友人と同じように見るのです。『これらの生きとし生けるものは、みな生死の世界に捕らわれ、生死の連鎖は絶えることがない。生があるがゆえに、老い、病、死、憂い、悲しみ、苦しみ、悩み、寒さ、暑さ、飢え、渇き、打たれること、縛られること、鞭打たれること、嫌な者と会う苦しみ、愛する者と別れる苦しみがある。』このように、苦しみ悩む生きとし生けるものが大きな衰えや悩みを抱えていると観察し、敵と味方の間で平等に見る心を育てます。もし修行者やバラモンがこのような観察を行うならば、全ての生きとし生けるものに対して平等の心を得ることができます。さらに、修行者やバラモンがこのように考えるならば、『これらの生きとし生けるものは、多くの苦しみに悩まされている。すなわち、疾病の悩みが生きとし生けるものの心身を苦しめ、病の衰えによって大きな苦しみを得ているのである。』と。敵と味方の間でこのように思惟し、こうした思いを持つことで、心は清らかになります。心が清らかになれば血も清らかになり、血が清らかになれば顔色も清らかになり、全ての感覚器官もまた清らかになります。このように観察することで、現世における良い報いが得られ、全ての生きとし生けるものから愛され、敬われ、慕われ、仰ぎ見られる存在となります。この因縁によって、命終の後には天界に生まれ変わることができるのです。」

「『復次，沙門、婆羅門復以異法觀諸親友猶如怨家。「一切眾生無有不死，不離生死，生已復死。如是眾生以自業故，墮於地獄、餓鬼、畜生，此等眾生諸苦所惱。」如是思惟，利益一切眾生，心則清淨；心清淨故，血則清淨；血清淨故，顏色清淨；顏色淨故，端正無比，一切眾生愛樂瞻仰，得現果報，身壞命終生於善道天世界中。如是比丘修大善業，於諸眾生起平等心。「『復次，沙門、婆羅門及餘世間復以異法修平等觀。此諸眾生業與業藏，因業流轉，如業所作，或善不善，皆悉成就。以善業故，生人、天中；以惡業故，墮於地獄、餓鬼、畜生。若沙門、婆羅門及餘人、天如是修行，心則清淨；心清淨故，血則清淨；血清淨故，顏色清淨；顏色淨故，一切眾生愛樂瞻仰，身壞命終生於善道，受諸天身，必得涅槃。心清淨故，於一切眾生起平等心，得如是果。

> 「さらに、修行者や宗教家たちは、別の方法によって、親しい友人たちをも怨みのように観察します。 『すべての生きとし生けるものは、必ず死を免れず、生死の輪廻から離れることはありません。生まれては死に、死んではまた生まれ変わります。こうした生きとし生けるものは、自らの業によって地獄、餓鬼、畜生の道に堕ち、様々な苦しみに悩まされるのです。』 このように思い巡らし、全ての生きとし生けるものを利益しようと心がければ、心は清らかになります。心が清らかになれば、血液も清らかになります。血液が清らかになれば、顔色も清らかになります。顔色が清らかになれば、比べるものがないほど端正になり、全ての生きとし生けるものから愛され、敬われ、仰ぎ見られるようになります。こうして現世での報いを得、命終われば善い世界、天の世界に生まれ変わります。このように修行者は大きな善い業を実践し、全ての生きとし生けるものに対して平等の心を起こすのです。 「さらに、修行者や宗教家たち、また世の人々は、別の方法によって平等の観察を修めます。『これらの生きとし生けるものは、業と業の蓄積を持ち、業によって流転します。業によって為されたこと、善も不善も、すべてが成就します。善い業によって人間や天の世界に生まれ、悪い業によって地獄、餓鬼、畜生の道に堕ちます。』 もし修行者や宗教家たち、また人間や天の者たちがこのように修行すれば、心は清らかになります。心が清らかになれば、血液も清らかになります。血液が清らかになれば、顔色も清らかになります。顔色が清らかになれば、全ての生きとし生けるものから愛され、敬われ、仰ぎ見られるようになります。命終われば善い道に生まれ、天の身を受け、必ず涅槃に達します。心が清らかになることによって、全ての生きとし生けるものに対して平等の心を起こし、このような果報を得るのです。」

「『復次，若沙門、婆羅門復有異法於一切眾生修平等心。何等異法？所謂一切眾生共愛別離。一切眾生生死所攝，無一眾生非愛別離，此愛別離甚為大惡。如是修行，心則清淨；心清淨故，血則清淨；血清淨故，顏色清淨；顏色淨故，端正無比。以端正故，一切人見心得清淨，愛樂瞻仰。以於一切眾生起平等故，得現果報，身壞命終生於善道，受諸天身。以餘業故，後得涅槃。

> 「さらに、修行者や婆羅門の中には、別の方法で全ての生きとし生けるものに対して平等の心を修める人がいます。その別の方法とは何か？それは『全ての生きとし生けるものは、等しく愛する者との別れを経験する』ということです。全ての生きとし生けるものは生と死に支配されており、愛する者との別れを経験しない者は一人もいません。この別れの苦しみは、実に大きな苦しみです。このように心を修めれば、心は清らかになります。心が清らかになれば、血が清らかになります。血が清らかになれば、顔色が清らかになります。顔色が清らかになれば、この上なく美しくなります。その美しさによって、全ての人々が見て心が清らかになり、敬い慕い、仰ぎ見るようになります。このように全ての生きとし生けるものに平等の心を起こすことで、現世でその果報を得ることができます。肉体が滅び、命が終われば、善き世界に生まれ変わり、天人の身を受けます。そして、その余りの業によって、後には涅槃に至るのです。」

「『復次，若沙門、婆羅門及以餘人復以異法於一切眾生修平等心。何等異法？所謂是心輕轉，速行不住，若欲心起，修不淨觀；若瞋心起，修慈心觀；若癡心起，當觀察思惟十二因緣。是三種心，三法對治，於一切眾生起平等心，於怨親中修平等心。意清淨故，一切行處心無疑慮，則得第一清淨樂行，覺安臥安，諸天所護，無能得便，有大威德。以心淨故，血則清淨；血清淨故，顏色清淨；顏色淨故，端正無比，一切眾生愛樂瞻仰。於一切眾生起平等心，得現果報，身壞命終生於善道，天世界中受諸天身。以是業故，終得涅槃。』

> 「また、出家修行者やバラモン、あるいはその他の人々が、別の方法であらゆる生きとし生けるものに対して平等の心を修めるとしよう。その別の方法とは何か。すなわち、この心は軽く動きやすく、速やかに流れ、とどまることがない。もし欲の心が起きたなら、不浄の観想を修めなさい。もし怒りの心が起きたなら、慈しみの心の観想を修めなさい。もし無知の心が起きたなら、十二の因縁についてよく考え観察しなさい。この三つの心には、三つの教えをもって対処し、すべての生きとし生けるものに対して平等の心を起こし、怨みある者や親しい者の間にも平等の心を修めるのです。 心が清らかになるので、すべての行動の場において心に疑いや迷いがなくなり、第一の清らかな安楽の行いを得られます。目覚めも安らかで、眠りも安らかであり、天の神々に守護され、悪い者たちに隙を与えず、大きな威徳をそなえます。心が清らかなので、血も清らかになります。血が清らかになると、顔色も清らかになります。顔色が清らかになると、端正で比べるものなく、すべての生きとし生けるものから愛され、喜ばれ、仰ぎ見られます。このようにすべての生きとし生けるものに平等の心を起こすことで、現世においてその報いを得、身体が壊れ命が終われば善い道に生まれ、天の世界において天人の身を受けます。この善い行いによって、ついには涅槃に至るのです。」

「爾時，孔雀王菩薩以偈頌曰：

> そこで、孔雀王菩薩は詩句をもって讃えました。

「『若於怨親中，其心常平等，如法無偏黨，牟尼說智慧。若人心清淨，不為過所污，獨行林樹間，牟尼說無貪。心無悕望垢，遠離一切濁，不樂諸境界，牟尼說寂靜。一切無常等，如實諦觀察，知世間明闇，牟尼說勇猛。不厭世間法，而修行善法，於苦樂平等，牟尼說離垢。心常知止足，常遠離諸欲，不悕重供養，牟尼說清淨。不近惡親友，不行非義處，獨行自堅心，牟尼說正業。遠離喜及畏，愛力不能壞，諸根悉寂靜，聖說不悕望。平等平等心，境界常平等，於一切平等，牟尼說智慧。了知一切法，善不善業果，捨於善不善，牟尼為人說。精進斷諸惡，常修身念處，如實知受生，牟尼說為智。若人畏生死，時處常作業，法語攝諸根，牟尼說寂滅。』

> 「『怨みと親しみの間で、心が常に平等であり、 法のままに偏ることがなければ、牟尼はそれを智慧と説く。 人の心が清らかで、過ちに汚されることなく、 ただ独り林の中に歩むなら、牟尼はそれを無貪と説く。 心に執着の汚れがなく、あらゆる濁りから遠く離れ、 あらゆる境界に執着しないなら、牟尼はそれを寂静と説く。 あらゆるものは無常であると、真実のままに観察し、 世の中の明暗を知るなら、牟尼はそれを勇猛と説く。 世間の法を厭わずに、善い法を修行し、 苦楽に平等であるなら、牟尼はそれを離垢と説く。 心は常に足ることを知り、常に様々な欲から離れ、 厚い供養を望まなければ、牟尼はそれを清浄と説く。 悪い友人に近づかず、正しくない場所には行かず、 独りで心を堅く保つなら、牟尼はそれを正業と説く。 喜びと恐れから遠く離れ、愛欲の力に打ち砕かれず、 すべての感覚が静かであれば、聖者はそれを望みなきものと説く。 平等で平等な心、境界は常に平等、 すべてにおいて平等であること、牟尼はそれを智慧と説く。 あらゆる法、善悪の業の果報を了知し、 善も不善も捨てることを、牟尼は人々のために説く。 精進して諸々の悪を断ち、常に身の念処を修め、 生まれることを真実に知るなら、牟尼はそれを智慧と説く。 もし人が生死を畏れ、時と場所に応じて常に業を行い、 法の言葉で諸々の感覚を制するなら、牟尼はそれを寂滅と説く。』

「如是孔雀王菩薩為夜摩天、兜率陀天眾，以無量種方便說法。時諸天眾一心正念，捨諸欲樂，以柔軟心樂聞說法。

> かくのごとく、孔雀王菩薩は夜摩天や兜率陀天の衆のために、無数の方法をもって説法を行われました。 そのとき、天の衆は一心に正しい念を持ち、すべての欲の楽しみを捨て、柔らかな心で喜んで説法を聞きました。

「時，孔雀王知諸天眾心調伏故，復為說法：『復次，若沙門、婆羅門及餘世間，心當念法。念何等法？所謂第二十，知足之法。知足法者，利益安樂。若沙門、婆羅門身心知足，知足為伴、知足為救，成就安樂。知足之人於一切處無所追求，第一安樂，眼不貪色，於無量色不生悕望亦不分別。若見色相，心不憶念，不求過去可愛之色，不愛不樂亦不悕求，不生欲心亦不生念，不生味著。若沙門、婆羅門如是知足，常得安樂。

> 時に、孔雀王は諸天の衆が心を調えたことを知り、さらに法を説いた。 「さらにまた、修行者や聖者、その他世の人々は、心を法に向けるべきである。何を法として念ずるのか。すなわち、第二十に『知足（足ることを知る）』という法である。知足の法は、利益と安楽をもたらす。修行者や聖者が、身心ともに足ることを知れば、足ることを知る心が伴侶となり、救いとなり、安楽を成就する。足ることを知る人は、すべての場所において追い求めることがなく、最も優れた安楽を得る。目は色に執着せず、無数の色に対して望みを起こさず、分別することもない。もし形を見ても、心に留めず、過ぎ去った愛しい色を求めず、愛着せず、楽しまず、望まず、欲の心を起こさず、思いをめぐらさず、味わい執着することもない。修行者や聖者が、このように足ることを知れば、常に安楽を得るのである。」

「『如是，耳聞可愛之聲，不愛不樂亦不心念，於過去境界若起貪欲，心不分別，如實觀之：「此聲非常、非樂、非我，但有分別，害諸眾生。愚癡凡夫妄念分別，聲至耳根，令心惱亂。」如實觀之，如是善觀，如實知足。如實觀聲，空無所有，無堅無實，但有分別。如是觀察，於一切愛美妙音聲、一切愛境不生貪著。以知足故，得如是樂。

> 「このようにして、耳に愛しい声を聞いても、それを愛でず、楽しみもせず、心に留めません。過ぎ去った境界に対して、もし貪りの欲望が生じても、心は分別せず、ありのままに観察します。『この声は常住ではなく、楽ではなく、我でもない。ただ分別があるだけで、多くの生きとし生けるものを害するものだ。愚かな凡夫は誤った分別を起こし、声が耳に届くと、心を悩み乱れさせる。』と。このように如実に観察し、善く観察し、如実に知足します。声を如実に観察すれば、それは空にして何もなく、堅固なものも実体もなく、ただ分別があるだけです。このように観察することで、あらゆる愛しい美しい声や、あらゆる愛しい境界に対して、執着が生じることはありません。知足することで、このような楽を得るのです。」

「『若沙門、婆羅門及以餘人，鼻所聞香，不生分別，不起惡覺亦不思惟。鼻聞香已，如實觀之：「如此香者，無常敗壞，變易不實，空無所有。若著此香，則不能脫惡覺亂心。」是名知足。若沙門、婆羅門鼻不愛樂，如是境界皆悉觀察。以知足故，則得第一清淨之樂，修習增廣，得第一樂。

> 「もし修行者や聖職者、あるいは他の人が、鼻で香りを嗅いでも、それについて分別を起こさず、悪しき感覚も起こさず、また思惟することもありません。鼻で香りを嗅いだ後、ありのままに観察します——『この香りは無常であり、壊れゆき、変化して実体がなく、空であり何もないものである。もしこの香りに執着すれば、悪しき感覚と乱れた心から逃れられない』と。これを『知足（足るを知る）』と言います。もし修行者や聖職者が、このような境界に愛着を持たず、すべてを観察するならば、知足のゆえに、最も清らかな安らぎを得ます。それを修行してさらに広めれば、最も優れた安らぎを得るのです。」

「『復次，若沙門、婆羅門及以餘人於舌味中，心不貪著、不念、不分別，於過去味不念不思惟，不善憶念亦不悕求，非不知足。如實觀味：「此味無常，敗壞變易，但以分別而生貪著，謂為可取。」若如實觀，於味不樂，心不貪著，不生味愛。若能如是於味知足，則得安樂。

> 「また、修行者や聖職者、あるいはそれ以外の人でも、舌の味わいに対して心で執着せず、思い悩まず、分別を起こさないこと。過去の味わいに思いを馳せず、考え巡らせず、良くない記憶にも固執せず、むやみに求めることもなく、足ることを知っている。 味わいをあるがままに見つめる：「この味わいは無常であり、壊れ、変化するものだ。ただ分別によって執着が生まれ、それを『取るべきもの』と考えるのだ」と。 このようにあるがままに見つめれば、味わいを楽しむことなく、心で執着せず、味わいへの愛着も生まれない。 このようにして味わいに対して足ることを知れば、安らぎを得ることができるのである。」

「『復次，沙門、婆羅門及餘世間，如實觀觸：「如此觸者，非有自性，無常敗壞，變易之法，如是觸者，空無所有，無堅無實，先無今有，已有還無。」若能如是如實觀觸，於過去觸不生係念，不愛不樂，於觸不求，隨何等觸來觸其身，離貪欲觸。是名知足。

> さらに、修行者や婆羅門、その他の世の人々は、触れるということをあるがままに観察します。「この触れるという現象には、それ自体の不変の本質はなく、常に変化し壊れていくものである。この触れることは、実体がなく、堅固なものも真実のものもない。元々なかったものが今現れ、現れたものはやがて消え去る」と。このように触れることをあるがままに観察できるならば、過去の触れることに執着せず、愛着も楽しまず、触れることを追い求めない。どのような触れ方が身に触れようとも、欲望の触れ方から離れる。これを知足といいます。

「『復次，若沙門、婆羅門觀於意法，愛以不愛，如實思惟：「觀法無常，敗壞變易，空無所有，無堅無實。此法無常、苦、空、無我，先無今有，已有還無，一切磨滅。」如是憶念愛不愛法，則知止足。於不愛法不生憎嫉，於可愛法不生喜樂，於過去法，心不係念亦不味著。如是善觀意所樂法，於一切意法不念不味、不愛不樂。諸沙門、婆羅門以知足故，於六愛中而得解脫。』

> 「さらに、修行者や婆羅門が、心の対象となるものを、好きなものと嫌なものとに分けて、ありのままに観察する。『心の対象は無常であり、壊れ、変化し、空であり、何も実体はなく、堅固でもなく、真実でもない。この心の対象は無常であり、苦しみであり、空であり、私ではない。先には存在せず、今生じ、すでにあったものは消え去り、すべては滅びる』と。このように、好きなものと嫌なものとを思い観察すれば、足ることを知るようになる。嫌なものに対して憎しみや妬みを生じず、好きなものに対して喜びや執着を生じない。過ぎ去ったことに対して心をとどめず、味わい求めもしない。このように、心が楽しいと感じる対象を良く観察すれば、すべての心の対象に対して、思いを馳せず、味わわず、愛着せず、喜ばない。修行者や婆羅門は、足ることを知るゆえに、六つの愛執から解放されるのである。」

「爾時，孔雀王以偈頌曰：

> その時、クジャク王が詩句を唱えました。

「『若能觀知足，脫六愛境界，不念不悕望，是人常得樂。若以正念心，如實觀於色，其人於色愛，不能亂其心。鼻與境相應，若能不貪著，其人意清淨，鼻過不能亂。智者得舌味，正觀不貪著，其人於味過，不能污其心。身受種種觸，得之不貪著，其人知觸故，常得安隱樂。於愛不愛法，其意不貪著，善住如大山，是意世所讚。』

> 「もしも足ることを知る心を修めれば、 六つの愛欲の世界から脱することができる。 執着せず、望みも持たなければ、 その人は常に安らかな楽しみを得る。 正しい心の持ち方で、 色（かたち）をあるがままに見つめれば、 その人は色への愛欲に 心を乱されることはない。 鼻と香りが出会っても、 それに執着しなければ、 その人の心は清らかであり、 鼻の過ちに惑わされることはない。 賢者は舌で味わいを得ても、 正しく観察して執着しない。 その人は味への過ちに 心を汚されることはない。 体はさまざまな感触を受けるが、 それらを得ても執着しない。 その人は感触の本質を知っているから、 常に安全で安らかな楽しみを得る。 好ましいものにも好ましくないものにも、 心を執着させずにいれば、 大山のようにしっかりと安住し、 その心は世間から称賛されるのである。」

「『若沙門、婆羅門行知足法，能離如是六種之愛，佛所讚歎。』如是孔雀王菩薩為夜摩天、兜率陀天眾說斯真法：『復次，若沙門、婆羅門思惟念法，念何等法？所謂第二十一，畏於境界，畏惡境界，不實之見，不得利益。若沙門、婆羅門如實觀色境界，如眼緣色而生眼識，意識決了，分別觀察。若境界來，生於貪欲，如是貪欲境界來惱亂我，當生恐怖。若見境界，斷欲貪愛而不觀視。如所分別，意亦如是，或貪或瞋，皆如實知。若煩惱起，如實觀起，得無利益，現在、未來以此煩惱不得安樂，一切眾生由此煩惱不得利益、不得安樂。如此煩惱，悉能繫縛一切眾生。沙門、婆羅門若能如是觀境界者，貪欲心生，一切能滅，或令薄少。

> 比丘や修行者で、足ることを知る行いを実践し、この六種の愛執から離れることができるならば、それは仏に称賛される。 こうして、孔雀王の菩薩は、夜摩天と兜率天の衆生に向けて、この真実の法を説いた。 さらに、比丘や修行者が法を思念し、どのような法を念ずるべきか。いわゆる第二十一は、境界を畏れること。悪しき境界を畏れ、虚妄の見解のために利益を得られないこと。 もし比丘や修行者が、色の境界をあるがままに観察し、眼が色に縁って眼識を生じ、意識がそれを決定し、分別し観察する。もし境界が現れて貪欲が生じたならば、「この貪欲の境界が私を悩ませ、乱している」と知って、恐怖を抱くべきである。 また、境界を見たならば、欲望や貪愛を断ち切り、それを見つめないこと。心が分別するように、そのまま貪りや怒りが生じても、すべてをあるがままに知る。 もし煩悩が起これば、それが起こるのをあるがままに観察し、「これは利益をもたらさない。現在も未来も、この煩悩のために安楽を得られない。すべての衆生は、この煩悩のために利益を得ず、安楽を得ないのだ。この煩悩は、すべての衆生を縛りつける」と知る。 比丘や修行者が、このように境界を観察することができるならば、貪欲の心が生じても、すべてを滅ぼすことができ、あるいはそれを薄くすることができる。

「『如是如實觀於眼色，復觀於耳，因緣和合而生耳識，因耳因聲而生於念，或生苦受或生樂受。如是觀識，或復多生貪、瞋與癡，或生餘識，猶如然燈。觀不善念：「我生不善念，知不善念。」知不善念從緣而生，當斷滅之。若斷不善，善法滿足，實觀境界，善念增長。不善之念，憙愛共生、有愛共生，皆悉令滅，以滅除故，而得清淨，離濁惡垢，得一切樂。是故沙門、婆羅門及餘世間，初觀境界中，若生惡欲，即應斷滅，觀於善法，滅諸不善。如是於耳聲中如實了知，應生善念。

> 『このように、あるがままに眼と色を観察し、さらに耳を観察する。因縁が和合して耳識が生じ、耳と音声によって念が生じ、あるいは苦受が生じ、あるいは楽受が生じる。このように識を観察すると、あるいは多く貪・瞋・癡が生じ、あるいは他の識が生じる。それは灯を灯すようなものである。 不善の念を観じて、「私は不善の念を生じた。不善の念を知る」と知る。不善の念は縁によって生じるものであると知り、それを断ち滅ぼすべきである。もし不善を断ち切れば、善法が満ち足り、真実に境界を観察し、善念が增長する。不善の念、喜愛と共に生じるもの、有愛と共に生じるもの、すべてを滅ぼし尽くす。滅し除くがゆえに、清浄を得て、濁りや悪しき垢を離れ、一切の楽を得る。 それゆえに、沙門、婆羅門、およびその他の世間の人々は、最初に境界を観察する中で、もし悪い欲が生じたら、直ちに断ち滅ぼすべきである。善法を観察し、諸々の不善を滅ぼすべきである。このように耳と音声において、あるがままに了知し、善念を生じるべきである。』

「『復次，若沙門、婆羅門及餘世間，鼻所聞香，云何生識？因鼻因香而生鼻識。若不善念生，知不善念。若沙門、婆羅門作如是念：「我今若生不善之念，不得利益、不得安樂，今當斷滅。如實觀察則能斷滅不善之念。」作是念已，如實觀香，生於善念，以善念故，則能滅於共喜生愛。如是觀已，於一切香不生樂著，以斷著故，而得安樂。如是如實知於境界，則得如實安隱之處。若能如是如實觀香，鼻雖聞香，於香不樂。

> 「また、修行者やバラモン、あるいは世の人々が、鼻で香りを嗅ぐ時、どのようにして認識が生じるのか。鼻と香りによって鼻の認識が生じる。もし、よくない思いが生じたら、よくない思いが生じたと知る。修行者やバラモンが『もし今、よくない思いが生じたら、益もなく安楽も得られない。今すぐに断ち滅ぼさねばならない。ありのままに観察すれば、よくない思いを断ち滅ぼすことができる』と、このように思うならば、そのように考えて、ありのままに香りを観察し、善い思いを生じさせる。善い思いによって、喜びと共に生じる執着を滅ぼすことができる。このように観察すれば、すべての香りに対して楽しみや執着を生じることなく、執着を断つことによって安楽を得る。このようにして境界をありのままに知れば、真実の安らぎの境地を得る。このようにしてありのままに香りを観察することができれば、鼻で香りを嗅いでも、香りに執着することはない。」

「『若沙門、婆羅門舌得味時，若生不善貪欲，如實念知，因舌因味而生舌識，作是念時，於味不樂不貪不著。如實知舌識，若知舌識喜愛於味，於識得脫，得第一樂。如是如是實知境界，如是如是得無上樂，不為喜愛之所壞也。

> もし修行者やバラモンが舌で味を感じるとき、不善な貪欲が生じたなら、それをありのままに気づき知るのです。「舌と味という縁によって舌識が生じる」と、このように観じるとき、その人は味に対して楽しみを抱かず、貪らず、執着しません。舌識をありのままに知り、もし舌識が味への愛着を喜びとするなら、その認識から解脱して、最高の安らぎを得ます。このように境界をありのままに知るならば、このようにして無上の喜びを得て、愛着に損なわれることはありません。

「『於舌味中如實觀已，復觀身觸，因身因觸而生身識，三法和合而生於觸，以共觸故，生受、想、思。若沙門、婆羅門如實觀觸，此觸無常，動壞變易，若生不善覺觀，得無利益，不得安樂。如實知觸，善念觀察，不為喜愛之所惱亂，不樂境界。

> 舌と味においてありのままに観察したならば、次に身体の触れ合いを観察します。 身体という基盤と、触れ合いという基盤から、身体の認識が生じます。 これら三つの要素が集まって、「触（接触）」が生じます。 その「触」があることによって、「受（感覚）」「想（イメージ）」「思（意志）」が生じます。 もし修行者やバラモンが、「触」をありのままに観察するなら—— この「触」は無常であり、動き、壊れ、変化するものであると理解します。 もし善くない想念や観察が生じても、それは利益をもたらさず、安らぎを得るものではありません。 「触」をありのままに知り、善い心でよく観察するならば、 好ましい感覚に悩まされることなく、また、そこにある境地に執着することもありません。

「『以諸方便觀身觸已，復觀意法云何而生？因意因法而生意識，或善不善或無記。若緣不善，起不善念，如實了知：「我緣不善而生意識，我生喜愛，不得利益，惱亂不安。」如是思惟，觀法出沒則順法行。順法行故，如實見於一切諸法自相同相，不為喜愛之所惱亂。以愛薄故，而得解脫；以解脫愛故，得第一樂，知一切法皆悉生滅。以能如是觀諸境界，則生正智，能滅一切諸結煩惱。煩惱盡故，得無漏智。以得無漏智相應故，得第一處。是故沙門、婆羅門莫信境界，一切境界猶如怨家，一切眾生境界如蛇，若人未得無漏智慧，莫信境界。境界輕動，猶如怨賊，詐為親友，如此境界悉能繫縛一切眾生。』

> 「さまざまな方法で身体に触れる感覚を観察したならば、次に心と現象はどのように生じるのかを観察しなさい。心と現象に基づいて意識が生じ、それは善であるか不善であるか、あるいは善でも不善でもないもの（無記）となる。もし不善に縁（よ）れば、不善の念が生じる。その時、ありのままに知るのだ——『私は不善に縁って意識を生じている。私は愛着（喜愛）を生じ、利益を得ず、悩み乱れて安らかではない』と。このように思考し、現象の生じる様（でぼつ）を観察すれば、真理（法）に従った行いとなる。真理に従って歩むゆえに、すべての現象（諸法）の自己の特質（自相）と共通の特質（共相）をありのままに見ることができ、愛着によって悩まされることはない。愛着が薄らいだからこそ、解脱を得る。愛着から解き放たれたゆえに、最高の安らぎ（第一楽）を得て、すべての現象は生じては滅するものであると知る。このように諸々の対象（境界）を観察することができるならば、正しい智慧が生じ、あらゆる束縛や煩悩（結煩悩）を滅ぼすことができる。煩悩が尽きたからこそ、漏（ろ）れのない智慧（無漏智）を得る。無漏智との対応を得たゆえに、最も優れた境地（第一処）に至る。それゆえ、修行者（沙門）やバラモンよ、対象（境界）を信じてはならない。すべての対象はまるで仇（かたき）のようなものであり、すべての衆生にとっての対象は蛇のようなものである。もし人がいまだ無漏智を得ていないならば、対象を信じてはならない。対象は軽々しく動き、まるで賊が親友を装うかのようであり、このような対象はすべての衆生を縛りつけてしまうのである。」

「爾時，孔雀王菩薩以偈頌曰：

> そこで、孔雀王菩薩は詩句をもって讃えました。

「『若實知境界，如以鐵鉤持，馳散輕動故，作諸不利益。悕望迷境界，樂於分別心，死網羂欲至，能斷眾生命。為境界所牽，令人心躁擾，為愚癡所誑，而不能覺知。境界無定實，如乾闥婆城，能增長眾苦，為地獄因緣。境界火所燒，愚癡欲所誑，輪轉不停息，不覺燒其身。因念故生欲，因欲生瞋恚，瞋恚覆人心，死則入地獄。是故有智者，離欲滅瞋恚，速遠離愚癡，則能到涅槃。知境界如怨，遮之而不樂，智者厭境界，畢定到涅槃。』

> 「もし本当に境界の本質を理解すれば、まるで鉄の鉤で（心を）制御するかのようだ。 心は散乱しやすく軽々と動くため、様々な不利益を生み出す。 （人は）境界に惑いを抱き、執着し、分別する心を楽しむ。 死の網が迫り来て、衆生の命を断とうとしている。 境界に引きずられると、人の心は乱れ騒ぐ。 愚かさに欺かれ、それに気づくことがない。 境界には確かな実体はなく、蜃気楼の城のようなものだ。 それは苦しみを増大させ、地獄に落ちる因縁となる。 境界の火に焼かれ、愚かさと欲に欺かれ、 輪廻の中を休むことなく巡り、その身が焼かれていることに気づかない。 心の働き（念）があるから欲が生まれ、欲から怒りが生まれる。 怒りは人の心を覆い、死ねば地獄に落ちる。 ゆえに智慧ある者は、欲を離れ怒りを滅ぼし、 素早く愚かさを遠ざけるならば、涅槃に至ることができる。 境界を怨敵のように知り、それを遮って楽しもうとしない。 智慧ある者は境界を厭い、必ず涅槃に達するのである。」

「是為孔雀王菩薩為諸天眾說佛經法。

> これが孔雀王菩薩が天の衆生のために説いた仏の経典の教えです。

「『復次，第二十二法得大利益，何等法耶？所謂不信心。若沙門、婆羅門及餘善人，乃至盡命，不應信心。如此心者，輕躁難攝，自性曲戾，不住一境，樂於異境。一切愚癡凡夫以此心故，流轉地獄、餓鬼、畜生。此心一切不可親友，輕躁緣境，迷惑一切愚癡凡夫，令其流轉在於地獄、餓鬼、畜生，雖常流轉而不厭離如此惡習，於生死中受大苦惱。是故不應信此惡心，乃至未得聖印所印、不得須陀洹——閉惡道門。若不如是，遍行諸道受一切苦。一切繫縛、一切羂縛，諸使和合，甚難調伏，是故沙門、婆羅門不應信心。』

> 「さらに、第二十二番目の大いなる利益を得る教えとは何でしょうか。それは『心を信じないこと』です。修行者やバラモン、その他の善き人々は、命ある限り、この心を信じてはいけません。なぜなら、この心は軽々しく揺れ動き、とらえ難く、性質はねじ曲がっており、一つの対象に留まらず、異なる対象を好むからです。全ての愚かな凡夫たちは、この心のために地獄、餓鬼、畜生の世界を流れ巡るのです。この心は決して親しむべきものではなく、軽々しく対象に移り、全ての愚かな凡夫たちを惑わし、地獄、餓鬼、畜生の世界を流れ巡らせます。たとえ常に流れ巡っていても、このような悪い習慣から厭い離れることなく、生死の中で大きな苦しみを受け続けます。それゆえ、聖なる証しを得るまでは、つまり悪道の門を閉ざす預流果に達するまでは、この悪しき心を信じてはいけません。もしそうしなければ、あらゆる道を巡り歩き、全ての苦しみを受けます。あらゆる束縛、あらゆる罠、あらゆる煩悩と結びつき、極めて調伏しがたいものだからです。ゆえに、修行者やバラモンはこの心を信じてはいけません。」

「爾時，孔雀王菩薩以偈頌曰：

> そこで、孔雀王菩薩は詩句をもって讃えました。

「『深速而無垢，遍一切眾生，是心猶如王，流轉諸世間，難見甚可畏，輕躁造惡業，若人能攝心，則至第一道。能將至善處，亦至於惡道，若調伏離垢，則至於涅槃。心能作苦樂，心勢力流轉，能作種種業，調伏則得樂，是故應護心，護心則得樂。若人於境界，諸根心寂滅，脫生死憂悲，則到無住處。』

> 心は深く速やかで、汚れがない。 すべての生きとし生けるものに行き渡り、 この心はまるで王のように、この世を巡り続ける。 見えにくく、恐れ多いもの。 落ち着かず、悪い行いを簡単に作り出す。 もし人がこの心をしっかりと押さえられるなら、 最高の道に至ることができる。 心は善いところへも導き、悪い道へも導く。 もし心を調え、汚れを離れるならば、 静けさの境地・涅槃に至る。 心は苦しみと楽しみを作り出し、 その力によって私たちは巡り続ける。 さまざまな行いを作り出し、 心を調えれば、本当の幸せを得る。 だから、心をしっかり守りなさい。 心を守れば、幸せを得るのだ。 もし人が、外の世界に対して、 心や感覚を静めるならば、 生まれ変わりや悲しみから脱し、 どこにも捕らわれない境地に到達するのである。

「如是孔雀王為諸天眾說迦迦村陀如來真法。

> このようにして、クジャク王は天の人々にカーカサンダ如来の真実の教えを説きました。

「爾時，諸天眾皆悉歡喜，敬心圍遶作如是言：『善哉，善哉！大士快說妙法，初中後善，為天眾說，能至涅槃。』

> その時、天の衆は皆、大いに喜び、敬いの心で囲み、こう言った。「素晴らしい、素晴らしい。大士が見事に妙法を説かれました。初めも中も後も善く、天の衆のために説き、涅槃に至らせてくださいます。」

「爾時，孔雀王復為天眾說如是言：『我於迦迦村陀如來所，聞二十二法，以義利益安樂天人，能到涅槃。我以此法利益天眾，是故宣說。』

> その時、孔雀王は再び天の衆に向かって次のように語りました。「私は迦迦村陀如来のもとで、二十二の教えを聞きました。これらの教えは、その意味において天と人の利益と安楽をもたらし、涅槃に至ることができるものです。私はこの法をもって天の衆を利益しようと思い、そのためにここに説き明かすのです。」

「時，諸天眾歡喜讚歎，合掌敬禮，供養孔雀王菩薩。既禮拜已，夜摩天眾入蓮花林遊戲受樂，兜率天眾上昇虛空歸兜率天。

> そのとき、天の衆たちは歓喜して称賛し、手を合わせて敬礼し、孔雀王菩薩を供養しました。礼拝を終えると、夜摩天の衆は蓮花林に入って遊び楽しみ、兜率天の衆は虚空に昇って兜率天へと帰っていきました。

「爾時，夜摩天眾於園林中遊戲受樂，乃至愛善業盡，隨其自業墮於地獄、餓鬼、畜生。若有餘業，生於人中，生大種姓，常順法行，顏貌端正，財富具足，處好國土或王大臣。以餘業故。

> その時、夜摩天（やまてん）の者たちは園林の中で楽しみ遊び、善い行いの功徳が尽きるまでその報いを受けました。そして、自らの行いに応じて地獄、餓鬼、畜生の世界に堕ちていきます。もしも余った善業があれば、人間として生まれ、大きな家系に育ち、常に教えに従って生き、顔立ちは整い、富も十分に備わり、良い国や王室、大臣の家に生まれることもあります。それは、残された善業の力によるものです。

「復次，比丘知業果報，觀夜摩天所住之地，彼見：有地名曰樂行。眾生何業生於彼地？彼見聞知：若人大心善行，直心持戒，不殺不盜，如前所說，復離邪婬。若見素畫女人，不生邪觀，見作勸捨，令住持戒，常為眾生數數說法，令住法中，為一切眾生說邪婬過，說業果報。『若人邪婬，甚為下賤，身壞命終墮於地獄，以是業報受大苦惱。作是觀已，不應邪婬，勿於後悔。邪婬之罪，受報大苦。』為諸眾生說如是法，令住正行，救惡道行。如是之人，自利利他，持戒依戒，盡形持戒，不破戒、不缺戒、不穿戒，不外實內空，身壞命終生於善道，夜摩天中名樂行地。生彼天已，受無等樂。有一大池名曰樂行，縱廣五百由旬，其池清涼，湛然清淨。復有摩偷甜美飲樹，周遍皆是毘琉璃樹，真金為葉，青寶玉枝圍遶此池五百由旬，蓮華充滿遍覆池水。其諸蓮華，真金為葉，毘琉璃莖，琉璃為鬚。復有蓮華，七寶莊嚴。種種蓮華遍覆池中，種種眾鳥七寶莊嚴，出妙音聲。無量百千天子天女圍遶此池，一一天子，無量百千天女以為眷屬，與此天子娛樂受樂，自善業故。復於池邊有七寶林，名曰心樂。於此林中有種種鳥，一百流水而以莊嚴，無量眾寶莊嚴其林。天子天女或在樂池或於此林，於五根中受境界樂，以善業故。生此天中，聞歌所牽，向於岸林。復有餘天於此天中命終退歿，有諸天女天衣莊嚴，見新生天子速馳往趣，求為給事。

> また、比丘たちは業（カルマ）の報いを理解し、夜摩天（やまてん）の領域を観察する。そこに「楽行」と名づけられた地があるのを見る。いかなる業によって、衆生はその地に生まれるのか。 その者たちが見聞きしたところによれば、もしある人が大いなる心で善行を実践し、まっすぐな心で戒律を守り、殺さず、盗まず（前の通り）、さらに邪な婬（みだらな行い）から遠ざかるならば――たとえ彩色された女の絵を見ても、邪な思いを起こさず、それを見た者にはそれをやめるよう勧め、戒律を守らせる。常に衆生のために繰り返し法を説き、彼らを正しい道に留めさせ、一切の衆生に邪婬の過ちと業の報いを説く。「もし人が邪婬を行えば、これは非常に卑しいことであり、身が壊れ命が終われば地獄に堕ち、その業の報いとして大きな苦しみを受ける。このように観じて、邪婬を行うべきではない。後で悔やむことのないように。邪婬の罪は、その報いとして大きな苦しみをもたらす」と。 このように法を説いて、衆生を正しい行いに留め、悪道への行いから救う。このような人は、自らを利し他を利し、戒律を守り戒律に依り、生涯にわたり戒律を守り抜き、戒律を破らず、欠かさず、損なわず、外見だけの空虚なものではない。身が壊れ命が終われば善道に生まれ、夜摩天の中でも「楽行」という名の地に生まれる。その天に生まれた後は、比類なき楽しみを受ける。 そこには「楽行」と名づけられた大きな池があり、縦横五百由旬（ゆじゅん）もある。その池は清らかで冷たく、澄み切って清らかである。さらに、甘美な飲み物をもたらす樹々や、一面に毘瑠璃（びるり）の樹が広がり、真金の葉、青宝玉の枝を持つ。この樹々が池を五百由旬にわたって囲み、蓮華（はす）が満ちて池の水を覆っている。その蓮華は真金の葉、毘瑠璃の茎、瑠璃の花びらを持つ。また、七宝で飾られた様々な蓮華が池を覆い、さまざまな鳥たちが七宝に飾られて美しい声を響かせる。 無量の百千の天子や天女たちがこの池を取り囲み、一人ひとりの天子には無量の百千の天女が眷属として従い、この天子とともに楽しみ遊ぶ。それは自らの善業によるものである。また、池のほとりには「心楽」と名づけられた七宝の林があり、この林の中には様々な鳥がいる。百の流れる水がこれを飾り、無量の宝が林を飾る。天子や天女たちは、楽行の池かこの林のいずれかにいて、五根（五感）の対象とする境界の楽しみを受ける。善業によってこの天に生まれたのである。歌の音に引き寄せられて、彼らは岸辺の林へと向かう。 また、この天の中で命を終えて退転する天人がいるが、天衣で飾られた天女たちは、新たに生まれた天子を見ると、素早く駆け寄り、給仕を求める。

「是諸天眾，不殺不盜，不行邪婬，善業果報生此天中。不邪婬故，命未終時，天女不捨趣於異天，命終乃去。四天王天、三十三天不離邪婬，未命終時，天女背叛，捨之而去如捨晝燈，往趣餘天，與新生天子而共娛樂歌舞遊戲。時，彼天子臨欲命終，見諸天女背叛趣他，心生嫉妒，生大苦惱如地獄苦，以心瞋故，墮於地獄。夜摩天中離邪婬故，無此果報。以是因緣，先退天子諸天女等，皆共往詣新生天子，到已圍遶，入大林中為受欲樂，向諸天眾。時，諸天眾見新生天子，心皆歡喜，與諸天眾及諸天女，或萬或億，往詣園林。其園林中，如意之樹以為莊嚴，多有無量種種眾樹，無量百千蓮華莊嚴，鵝鴨鴛鴦充滿池中。無量百千功德大池，久於此池作天伎樂，受五欲樂。久受樂已，於境界中不知厭足，復與新生天子向普光明山遊戲受樂，歌舞戲笑一一華池、一一園林、一一流泉、一一山峯、一一山原、一一山谷、一一榛林、一一花林、一一河中、一一山窟。一一如意林中，一一樹枝蔭覆宮室，一切天眾五樂音聲，受五欲樂，不可為喻，以其自業相似相應。一切往詣普光明山，歌舞遊戲互相娛樂，於境界樂不知厭足。一切歡喜，諸欲具足，向普光明山。

> これらの天人は、殺生をせず、盗みをせず、邪な姦淫も行いません。善い行いの果報によって、この天界に生まれたのです。邪な姦淫を行わないため、命が終わるまでは、天女が他の天人のもとへ去ることはなく、命が終わって初めて去ります。 しかし、四天王天や三十三天の天人は、邪な姦淫から離れていないため、命が終わる前に天女が裏切り、その者を捨てて去ります。それは、昼間の灯火を捨てるかのようです。天女は他の天人のもとへ行き、新たに生まれた天子とともに楽しみ、歌い、舞い、遊びます。 そのとき、その天子はまさに命終わろうとして、天女たちが自分を裏切って他へ行くのを見て、心に嫉妬を生じ、地獄の苦しみのような大きな苦悩を味わいます。心に怒りを抱くがゆえに、地獄に堕ちてしまうのです。 夜摩天では、邪な姦淫から離れているため、このような報いはありません。 このような因縁により、先に退いた天子の天女たちは、皆、新たに生まれた天子のもとへ共に行き、到着するとその周りを囲み、大きな林の中に入って、欲の楽しみを受けるために天人の集まりへと向かいます。そのとき、天人の集まりは新たに生まれた天子を見て、心から喜び、天人の集まりや天女たちとともに、あるいは一万、あるいは一億の数で、園林へと向かいます。 その園林は、如意樹によって飾られ、数えきれないほどの様々な種類の木々が無数にあり、無量の百千の蓮華によって荘厳されています。また、鵞鳥、鴨、鴛鴦が池の中に満ちています。無量の百千の功徳からなる大きな池があり、長い間、この池のほとりで天の音楽に合わせて楽しみ、五つの欲の楽しみを受けます。 長く楽しんだ後も、天人はその境地に飽き足りることを知りません。そして、新たに生まれた天子とともに、普光明山へと向かい、遊戯し、楽しみ、歌い、舞い、笑います。一つ一つの蓮華の池、一つ一つの園林、一つ一つの流れ、一つ一つの山峰、一つ一つの山の原、一つ一つの谷、一つ一つのやぶ林、一つ一つの花林、一つ一つの河、一つ一つの山の窟。一つ一つの如意林の中では、それぞれの木の枝の陰が宮殿を覆い、すべての天人は五つの楽しみの音声によって五つの欲の楽しみを受けます。それらは譬えようもなく、それぞれの自らの業が似通い、相応しているのです。 すべての天人は普光明山へと向かい、歌い、舞い、遊び戯れて互いに楽しみ合い、その境地の楽しみに飽き足りることを知りません。皆が喜び、すべての欲を満たして、普光明山へと向かいます。

「爾時，山中有舊住天，聞歌音聲，生希有心，觀諸天眾。時，諸天眾即皆昇於普光明山，舊天見之皆大歡喜。初來天眾皆昇虛空，無量莊嚴，威德光明，互相瞻仰。一切天眾於此可愛山峯之中，河泉流水、華池園林、七寶光明莊嚴宮殿，林樹莊嚴，諸樂行天而受快樂。或在華池或在河岸，或在林中或在如意林樹之間，或在虛空飛至異處，或有歌舞，或有無量天女圍遶，飲天上味，離於醉亂。既飲上味，轉增歡喜，為如是等二種所轉，境界火燒，歡喜如煙。「爾時，有鳥名曰實智，見諸天眾受放逸樂，以偈頌曰：

> その時、山中に古くから住む天人がおり、歌声を聞いて稀有な心を起こし、天衆たちを眺めました。すると、天衆たちは皆、普光明山に昇りました。旧住の天人はそれを見て大いに喜びました。新たに来た天衆は皆、虚空に昇り、限りない荘厳と威徳の光明を放ち、互いに仰ぎ見合いました。すべての天衆は、この愛すべき山の峰々、河川や泉の流れ、花の池や林園、七宝の光明が荘厳する宮殿、林の木々の荘厳の中で、様々な楽行の天として楽しみを受けました。ある者は花の池に、ある者は河岸に、ある者は林の中に、あるいは如意の林の間に、あるいは虚空に飛んで別の場所へと行き、ある者は歌舞を楽しみ、無数の天女に囲まれ、天上の味を飲みつつも、酔い乱れることはありませんでした。上味を飲んだ後は、さらに喜びが増し、このような二種のものに転じ、境界の火に焼かれ、喜びは煙のようでありました。その時、実智という名の鳥が、天衆たちが放逸の楽に耽る様を見て、偈を唱えました。

「『五炎遍熾然，愛風之所吹，諸欲所迷惑，放逸火焚燒；故業將欲盡，而不作新業，業盡故還退，諸天皆如是。若至欲退時，苦惱破壞心，無有能救者，唯除於善業。喜樂於富樂，常愛諸天女，自心之所誑，當至大惡處，為無常所壞，云何不覺知？終至於命盡，一切皆別離。以心貪境界，為自業所誑，天命念念過，以愛破壞心；譬如畫壁滅，彩畫皆亦亡，以其業盡故，天報亦隨失。五根貪境界，未曾有厭足，如蘇油投火，熾然無厭足。』

> 「五つの炎が燃え盛り、愛欲の風に吹き飛ばされ、 様々な欲望に惑わされ、放逸という火に焼かれる。 だから、過去の業が尽きようとしているのに、新たな業を作らず、 業が尽きてしまえば、天人は皆、退転してしまうのだ。 もし退転の時が来れば、苦しみ悩みで心は破れ、 誰も救うことはできない。ただ善い行いだけが頼りだ。 楽しみや富に浮かれ、いつも天の女神を愛し、 自分の心に欺かれて、やがて大きな苦しみの場所へ行く。 無常によって壊されてしまうのに、どうして気づかないのか？ ついには命が尽きて、すべてのものと別れ別れになる。 心が対象に執着し、自分の業に欺かれ、 天命は一瞬ごとに過ぎ去り、愛欲によって心は壊れる。 まるで壁に描かれた絵が消えるように、その彩りもまた失われる。 業が尽きれば、天の報いもまた失われてしまうのだ。 五つの感覚は対象を貪り、決して満足することがない。 それは油を火に注ぐように、燃え盛って決して飽くことがない。」

「如是實智鳥為斷天眾放逸心故，說偈頌法。時，諸天眾以放逸故，迷惑不受，以放逸心，共諸天女，或飛虛空，或有昇大普光明山，昇彼山已，其身光明勝百千日。其山先有七寶光明，以天光故，山轉殊勝。山中無量眾寶園林，以天光故，十倍轉勝。復有餘天在園林中或蓮華中，或在枝葉蔭覆宮室眾寶光明莊嚴之處，遊戲歌舞受天之樂，見此光明，得未曾有。爾時，天眾於園林中既遊戲已，一切皆向樂蓮華池遊戲受樂，互相愛樂，不起嫉姤，安詳昇於七寶光山歌舞戲笑，離於怖畏，離瞋憂悲，離他所攝，隨念而行，受第一樂，音聲遊戲，歌舞如意，所念須陀之食，上味美飲，第一歡喜，遊戲娛樂，受自業樂。如是久時受天樂已，向喜見池。

> そこで、真実の智慧を持つ鳥は、天人の心にある放逸を断ち切らせようと、偈頌をもって法を説きました。しかし、天人は放逸の心に惑わされ、その教えを受け入れません。放逸の心に従い、天女たちと共に、ある者は虚空を飛び、ある者は大いなる普光明山に登りました。その山に登ると、彼らの身の光は百千の太陽よりも輝きました。もともと七宝の光明があったその山は、天人の光によってさらに一層素晴らしいものとなりました。山の中には無数の宝で飾られた園林があり、それもまた天人の光によって十倍も美しくなりました。他の天人は園林の中で、あるいは蓮の中、あるいは枝葉の陰に覆われた宮殿や、宝の光が飾る荘厳な場所で、遊び、舞い、歌って天の楽しみを受け、この光明を見て、かつてない喜びを得ました。 やがて天人は園林で遊び終えると、皆で楽蓮華池へ向かい、そこで遊び楽しみました。互いに愛し合い、嫉妬を起こさず、安らかに七宝の光の山に登って、舞い、歌い、笑いました。そこには恐れもなく、怒りも悲しみもなく、誰かに支配されることもなく、思いのままに行動し、最高の楽しみを受けました。音声で遊び、思いのままに舞い、望むままに須陀の食や上味の飲み物を得て、最高の歓喜のうちに遊び楽しみ、自らの業による楽しみを受けました。こうして長い間、天の楽しみを受けた後、喜見池へと向かいました。

「其蓮華池長十由旬，廣五由旬，甚可愛樂，多有眾鳥、鵝鴨鴛鴦充滿池中，金色蓮華遍覆池水，一切皆以青毘琉璃、青因陀寶、大青寶王、赤蓮華寶以砌池底。於此池岸周遍生樹，黃金為莖，白銀枝葉，或青寶枝，赤蓮華葉。毘琉璃樹，頗梨為枝，黃金為葉。大青寶樹，白銀為枝，黃金為葉，青寶為枝。金毘琉璃以為其樹，大青寶枝，真金、硨磲二寶為葉。或有金樹，金葉金枝勝於日光。或有金樹，毘琉璃枝，毘琉璃葉猶如雲聚，莊嚴可愛。或有金樹，金枝金葉猶如火聚。或有銀樹，銀枝銀葉光明端正，如月盛滿。或青寶王樹，青寶王枝，青寶王葉，如沈水煙，色相端嚴。或有寶樹，種種枝條以為莊嚴，或白銀枝，青寶挍飾。復有寶樹，金銀挍飾。復有寶樹，金、銀、頗梨三種挍飾。復有寶樹，赤蓮華寶、白銀挍飾。復有寶樹種種諸色，眾花具足，曼陀羅花、俱賒耶舍花以為莊嚴。復有果樹果汁之味，天上味酒所不能及。復有花樹熏百由旬。復有聲樹，微風吹動，其音勝於乾闥婆音。復有眾樹，見之悅樂，其樹色相，彩畫莊嚴所不能及。復有寶樹名曰香煙，種種香煙從樹而出，諸天嗅已，皆大歡喜。多有如是種種寶樹遶喜見池。

> その蓮池は長さ十由旬、幅五由旬あり、実に愛らしい。多くの鳥やガチョウ、アヒル、オシドリが池の中に満ち、金色の蓮華が池一面を覆っている。池の底はすべて、青く美しい琉璃（るり）、青の因陀羅宝（いんだらほう）、大青宝王（だいしょうほうおう）、赤蓮華宝（せきれんげほう）で敷き詰められている。 この池の岸辺には一面に木々が生い茂り、黄金の茎に白銀の枝や葉をつけるものもあれば、青宝の枝に赤蓮華の葉をつけるものもある。毘琉璃（びるり）の木は玻璃（はり）の枝に黄金の葉をつける。大青宝の木は白銀の枝に黄金の葉、青宝の枝をつける。金と毘琉璃でできた木は、大青宝の枝に、真金と硨磲（しゃこ）の二宝を葉とする。 あるいは、金の木があり、金の枝と金の葉は日光よりも輝く。あるいは、金の木があり、毘琉璃の枝と毘琉璃の葉は雲が集まったように荘厳で愛らしい。あるいは、金の木があり、金の枝と金の葉は火が集まったように見える。あるいは、銀の木があり、銀の枝と銀の葉は、満ちた月のように輝き、端正である。 あるいは、青宝王の木があり、青宝王の枝と青宝王の葉は、沈水香（じんすいこう）の煙のように色相が端厳（たんごう）である。あるいは、宝の木があり、種々の枝が荘厳をなす。白銀の枝に青宝を飾ったものもある。また、金と銀で飾られた宝の木もある。また、金、銀、玻璃の三種で飾られた宝の木もある。また、赤蓮華宝と白銀で飾られた宝の木もある。 また、様々な色をそなえ、多くの花を豊かに持つ宝の木もある。曼陀羅華（まんだらげ）や俱賖耶舍華（くしゃやしゃげ）で荘厳されている。また、果実の木があり、その果汁の味は天上の味酒をもってしても及ばない。 また、香りを放つ花の木があり、その香りは百由旬に及ぶ。また、音を奏でる木があり、微風が吹くと、その音は乾闥婆（けんだつば）の音よりも勝れる。また、多くの木々があり、見るだけで喜び楽しくなる。その木々の色合いは、絵画の荘厳をもってしても及ばない。 また、香煙（こうえん）という名の宝の木があり、種々の香りの煙が木々から立ち上る。天の人々がそれを嗅ぐと、皆大いに喜ぶ。 このように、多くの様々な宝の木々が、喜見池を囲んでいる。

「時，諸天眾見此池已，得未曾有，或食其果或飲果汁，或共天女採華莊嚴，或有入於天園林中飲於上味，與諸天女戲笑歌舞，或有入於蓮華林中遊戲受樂，或有食於須陀味食，或有天子與諸天女飛昇虛空，或有天子共諸天女昇七寶殿，受諸欲樂。如是天眾於蓮華池受五欲樂，於境界中不知厭足。以愛心故，不知厭足，如酥投火、如燒乾薪，於愛欲境不知厭足亦復如是。

> 時に、その天の衆はこの池を見て、かつてなかったような喜びを得た。ある者はその果実を食べ、ある者は果汁を飲み、あるいは天女と共に花を摘んで飾り、ある者は天の園林に入って最上の味を味わい、天女たちと笑い戯れ、歌い踊った。ある者は蓮華林に入って遊び楽しみ、ある者は須陀味の食べ物を味わい、ある天人は天女と共に虚空に飛び上がり、ある天人は天女と共に七宝の殿に昇って、様々な欲望の楽しみを受けた。このように天の衆は蓮華池で五欲の楽しみを受け、境界の中にあっても飽き足りることを知らない。愛欲の心があるからである。飽き足りることを知らない様は、ちょうど酥を火に投じるように、乾いた薪が燃えるように、愛欲の境涯に飽き足りることを知らないのもまた同じである。

「時，蓮華池多有眾鳥，有一鵝王名曰善時，是大菩薩，以願力故，生夜摩天，無量百千鵝眾圍遶，如閻浮提滿月處空眾星圍繞。如是鵝王，眾鳥圍遶亦復如是。為利天眾，以偈頌曰：

> その時、蓮華の池には多くの鳥たちが集まっていた。その中に一羽のガチョウの王がおり、名を善時といった。彼は大いなる菩薩であり、願いの力によって夜摩天に生まれ、無数の百千のガチョウの群れに囲まれていた。まるで閻浮提に満月が空に浮かび、無数の星々に囲まれているかのようである。このガチョウの王もまた、多くの鳥たちに囲まれている様子は、まさにそのようであった。天の衆生の利益のために、次の詩を唱えた。

「『如是去來住，遊戲歌舞笑，無比最大惡，不覺死欲至。隨其所至處，死怨不可避，如是愚癡人，而猶不覺知。不擇於貧富，少壯及老年，若在家出家，無不為死壞。樂人及苦人，功德無功德，有戒及無戒，無不為死壞。若持戒破戒，智慧及愚癡，諸王及庶民，皆為死所壞。若天若地獄，若餓鬼畜生，放逸不放逸，皆為死所壞。若生於欲界、色界無色界，如是三界中，皆為死所壞。業網老所壞，病苦有大力，是死如夜叉，攝縛諸眾生。如是死怖畏，第一大暴惡，天為欲所迷，應泣而更笑。如是習近欲，欲為苦惱因，習近轉增長，如蘇油投火。欲能壞善法，初味後不安，欲為眾苦因，後得大衰惱。欲初無安隱，中後亦如是，非悕望非得，非為寂靜因。諸根於塵境，迷著各差別，愚人愛欲樂，是故墮地獄。若共癡受樂，隨受得苦惱，此怨詐親善，能害一切人。』

> 「かくのごとく来たり、去り、とどまり、戯れ、舞い、歌い、笑う。 比類なく最大の悪、死の訪れを悟らない。 その赴くところどこでも、死という怨みは避けられない。 このように愚かな人々は、なおも気づかない。 貧富を選ばず、若者も老人も、 在家も出家も、死によって滅びない者はない。 楽しい人も苦しい人も、功徳ある者もなき者も、 戒律を保つ者も破る者も、すべて死によって滅びる。 戒を守る者も破る者も、智慧ある者も愚かな者も、 王も民も、すべて死によって滅びる。 天も地獄も、餓鬼も畜生も、 放逸な者も不放逸な者も、すべて死によって滅びる。 欲界に生まれても、色界や無色界に生まれても、 この三界の中では、すべて死によって滅びる。 業の網は老いに滅ぼされ、病苦は大きな力を持つ。 この死は夜叉のように、あらゆる衆生を縛り取る。 この死の怖れは、最大の暴悪である。 天は欲に迷わされ、泣くべき時に笑うのだ。 このように欲に親しむことは、苦しみの因であり、 親しむほどに増長して、油を火に投じるようだ。 欲は善法を壊し、最初は味わいがあっても後には安らぎがない。 欲はあらゆる苦しみの因となり、後には大きな衰えと悩みをもたらす。 欲には初めから安らぎはなく、中も後も同じである。 それは希望することでも、得ることでもなく、寂静の因ではない。 諸々の根は、塵の境に執着してそれぞれ異なる。 愚かな人は欲の楽しみを愛するゆえに、地獄に堕ちる。 もし愚かさと共に楽しめば、その楽しみに従って苦しみを得る。 この怨みは親しげに装い、すべての人を害するのだ。」

「如是善時鵝王為放逸諸天說如是偈時，諸天眾為欲所迷，雖聞鵝王說如此法而不聽受。於園林中、蓮華林中、果樹林中，樹枝蔭覆香淨之室，無量百千眾蜂妙音，天眾天女各共歌舞出妙音聲，不可譬喻。復有天眾坐天寶地，觀於可愛蓮華之池，受自業果。

> このように、善き時、鵞王（がおう）が放逸な天人のためにこの偈（うた）を説いたとき、天の衆たちは欲望に惑わされていて、鵞王がこのような法を説いているのを耳にしながらも、聞き受け入れようとはしませんでした。園林の中、蓮華の林の中、果樹の林の中、枝の陰が覆い、香り清らかな部屋では、無量百千の蜂たちが美しい音を奏で、天の衆と天女たちがそれぞれに歌い踊り、言葉に尽くせないほど見事な音声を響かせていました。また、天の衆の中には、天の宝でできた地面に座り、愛らしい蓮華の池を眺めながら、自らの業の果報を受けている者もいました。

「遍觀天眾，菩薩鵝王作是思惟：『此諸天眾無心識耶？不知必定受大苦惱。天中欲退，有五怖相。何等為五？一者，一切可愛可樂愛重天女，與天同業，不復和合，愛別大苦，是為初苦。二者，可愛可樂天之境界，不復和合，與之離別。是為第二退沒大苦。三者，退時見異天眾遊戲受樂，自觀己身如燈將盡，業風所吹，不知何趣，心生苦惱過於地獄。是名第三退沒大苦。四者，欲退沒時，隨所生處，或生地獄、餓鬼、畜生，了了自見，見生處故，心生大悔，悔火所燒，受無量苦。是名第四退沒大苦。五者，退時受大苦惱，作如是念：「我本曾聞知識說法，以放逸故，貪著境界而不聽受，亦不修行。以放逸故、貪境界故。」復作是念：「我作惡法，不聽受法，不持禁戒，不集智慧。我從生來放逸所誑，今為悔火而燒我心，業繩繫縛而將我去，由放逸故。」是為諸天於退沒時五種大苦。如是天眾不覺不知，放逸所誑，貪心所壞。』

> 天界の仲間たちをあまねく見渡して、菩薩である鵞王はこう思案した。「この天の衆生たちには心が無いのだろうか？必ずや大いなる苦しみを受けることになると知らないのか。天の位から退く時には、五つの恐ろしい相がある。 その五つとは、第一に、愛しく楽しい、すべての愛しい天女たちが、同じ天の業を共にしながらも、もはや和合することがなくなり、愛するものと別れる大いなる苦しみがある。これが第一の苦しみである。 第二に、愛しく楽しい天の境界が、もはや和合できず、それと別れることになる。これが第二の退没の大いなる苦しみである。 第三に、退く時、他の天の仲間たちが遊戯して楽しんでいるのを見て、自分の身は灯火が尽きんとするかのようであり、業の風に吹かれ、どこへ行くのかも分からず、心に苦しみが生じて地獄よりも甚だしい。これを第三の退没の大いなる苦しみという。 第四に、退没しようとする時、生まれるところに従って、あるいは地獄・餓鬼・畜生に生まれることを、はっきりと自ら見る。生まれるところを見るがゆえに、心に大いなる後悔が生じ、後悔の火に焼かれて無量の苦しみを受ける。これを第四の退没の大いなる苦しみという。 第五に、退く時に大いなる苦しみを受け、こう思う。『私はかつて善知識が説法するのを聞いた。しかし放逸のゆえに、境界に貪着してそれを聴き受けず、修行もしなかった。放逸のゆえに、境界に貪ったゆえに』と。さらにまた思う。『私は悪い行いをし、法を聴き受けず、禁戒を守らず、智慧を積まなかった。私は生まれてこのかた、放逸に欺かれてきた。今や後悔の火が私の心を焼き、業の縄が私を縛り、私を連れて行く。すべては放逸のゆえである』と。これが諸天が退没する時の五つの大いなる苦しみである。」 このように、天の衆生たちは気づきもせず、知りもしない。放逸に欺かれ、貪りの心に壊されているのだ。

「善時鵝王一心思惟，欲設方便：『我當以何方便為天說法，令得善業？』爾時，菩薩鵝王久思惟已，為利他故，說願偈言：

> 「時も善き鵞鳥の王は、一心に考えて、方便を設けようと思いました。『私はどのような方便をもって天人のために法を説き、善い行いをさせることができるだろうか？』その時、菩薩たる鵞鳥の王は長く考えた後、他を利するために、願いの偈を説いて言いました。

「『常行於戒施，哀愍諸眾生，成就一切事，是故應持戒。與慈悲和合，遠離於悕望，利益諸眾生，所作必成就。勇猛無虛誑，常行於法施，遠離慳嫉姤，所作必成就。持戒寂滅人，尊重供養師，知應作不作，所作必成就。不諂曲憎愱，常說於愛語，誠實不虛誑，所作必成就。知處及知時，知可作不作，知有力無力，所作必成就。』

> 常に戒律を守り布施を行い、 あらゆる衆生を哀れみ、 すべてのことを成し遂げるため、戒律を堅持すべきである。 慈悲と調和し、期待を離れ、 衆生を利益するなら、なすことは必ず成就する。 勇猛で偽りがなく、常に法施を行い、 吝嗇や妬みを遠ざけるなら、なすことは必ず成就する。 戒律を守る静かな人は、師を敬い尊び、 なすべきこととなすべきでないことを知るなら、なすことは必ず成就する。 媚びへつらったり、憎んだり妬んだりせず、優しい言葉を語り、 誠実で偽りがないなら、なすことは必ず成就する。 場処を知り時を知り、 なすべきこととなすべきでないことを知り、 力のあることとないことを知るなら、なすことは必ず成就する。

「如是鵝王知法修行為說法師，以法成就利益眾生。『此天放逸，我當云何為之說法令離放逸？』久思惟已，憶念本生：『我於往昔生閻浮提，於迦那迦牟尼世尊所曾聞之法，我今應說。我於爾時生閻浮提大長者家，作長者子，名優鉢羅達多。彼佛如來知我命終，生夜摩天樂行之地，願生鵝王，當為放逸諸天子等宣說我法，今正是時，當為宣說。』

> このように、鵞鳥の王は法を悟り、修行を積んで説法師となり、法の成就によって衆生を利益した。 「この天人は放逸に耽っている。私はどのようにして彼らに教えを説き、放逸から離れさせようか。」 長い間考えた後、自らの前世を思い出した。 「私はかつて閻浮提に生まれ、迦那迦牟尼仏世尊のもとで聞いた法がある。今こそそれを説くべきだ。その時、私は閻浮提の大長者の家に生まれ、長者の子となり、名を優鉢羅達多といった。かの仏・如来は、私の命が終わって夜摩天の楽行の地に生まれ、鵞鳥の王となることを知っておられた。そして、『放逸な諸天の天子たちのために、私の法を説くであろう』と。今こそその時であり、説くべき時である。」

「爾時，鵝王思惟是已，以清淨心利益天眾，以慈悲心念阿耨多羅三藐三菩提心故，往詣天眾受五欲處，與諸鵝眾圍遶而住。見彼天眾遊戲山林，或遊花園或遊枝葉蔭覆宮室，或於虛空坐寶宮殿，或有天子共諸天女食須陀味。「爾時，菩薩鵝王作如是念：『今正是時，當為放逸諸天說法。我今當以美妙音聲演說偈頌，掩蔽天子天女歌音。天子天女著欲放逸，不得聞法，聞我音聲，耳識愛樂，必至我所。』作是念已，出妙音聲，念佛功德，起慈悲心，昇七寶山，鵝眾圍遶滿十由旬，無等妙音，以偈頌曰：

> その時、鵞王はこう考えました。清らかな心で天の衆生に利益をもたらそう、慈しみの心で阿耨多羅三藐三菩提（無上正等正覚）を思い起こそうと。そして、天の衆が五欲を楽しむ場へと向かい、多くの鵞の群れに囲まれて留まりました。彼らが山や林で遊び、花園や木陰に覆われた宮殿で戯れ、虚空に浮かぶ宝の宮殿に座り、天子たちが天女と共に須陀味（甘露の味）を味わうのを見て、菩薩たる鵞王はこう思いました。 「今こそ、放逸にふける天の衆に法を説く時だ。私は美しい声で偈を唱え、天子や天女の歌声を超えよう。彼らは欲望に溺れ、法を聞くことができないが、私の声を聞けば耳に心地よく、自ずと私のもとに集まるだろう。」 こう思って、仏の功徳を念じ、慈悲の心を起こし、鵞の群れに十由旬（約百二十キロメートル）にわたって囲まれながら、比類なき美しい声で七宝の山に昇り、次の偈を唱えました。

「『及死時未至，應修行福德，勿自保其命，於後生悔恨。若行於放逸，是名為死處；若不放逸行，第一不死句。若行於放逸，此道非寂滅；依不放逸故，智慧得涅槃。天眾莫放逸，放逸非寂滅，非寂滅行故，則墮於地獄。若已失當失，若今現在失，皆由放逸過，如來如是說。是故一切時，當勤加精進，遠離於放逸，則得寂滅法。』

> 「死が訪れる前に、善行を積みなさい。 生きていることに安心して、後悔してはなりません。 もし放逸に生きるなら、それは死の道です。 しかし、放逸に生きなければ、それは不死の最高の教えです。 放逸に生きる道は、決して静けさに至りません。 放逸でないことによって、智慧は涅槃を得るのです。 天の皆さん、放逸であってはなりません。放逸は静けさではありません。 静けさに向かわない行いをするなら、地獄に落ちることになります。 すでに失ったもの、これから失うもの、今まさに失っているもの、 それらはすべて放逸の過ちによるものです。如来はそう説かれました。 それゆえ、常に、努め精進しなさい。 放逸から遠ざかるなら、静けさの境地を得ることができます。」

「如是菩薩鵝王昇彼山上，以美妙音說此偈頌，令天女歌皆悉掩蔽，其聲不美。時，諸天眾聞鵝王音，皆生愛樂。遍於山上一切諸天，得未曾有，謂是歌音——以貪著心，非敬重法——一切皆來向山峯中，至鵝王所。爾時，菩薩鵝王復以偈頌，如前所說，時諸天眾天子天女聞其音聲，心皆隨順。

> そのように、菩薩なる鵝王はその山の上に昇り、美しい声でこの偈頌を唱えました。すると、天女たちの歌声はすべてかき消され、その声は美しくなくなりました。その時、天の衆生たちは鵝王の声を聞いて、皆、愛着と喜びの心を生じました。山の上の全ての天人は、かつてない経験をし、それを歌声だと思い——敬うべき法としてではなく、貪りの心で——皆、山の頂に向かい、鵝王のいるところに集まりました。その時、菩薩なる鵝王は再び、先に述べたのと同じ偈頌を唱えました。天の衆生たち、天子や天女たちはその声を聞いて、心が皆、従順になりました。

「如是鵝王於人中時，大長者子，名優鉢羅達多，於迦那迦牟尼佛所，得聞正法，而來生此。今以妙音敷揚宣說，勝妙無等，天子天女一心諦聽鵝王所說。

> このように、鵞王はかつて人間だった時、大長者の子で、名をウッパラダッタといい、迦那迦牟尼仏のもとで正しい教えを聞き、ここに生まれ変わりました。今、見事な声で、この上なく素晴らしい教えを説き明かしています。天の子や天の乙女たちよ、心を一つにして、鵞王の説法をよく聞きなさい。

## 正法念處經卷第六十二

> 正法念処経 巻第六十二