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title: "正法念處經 · 1"
description: "正法念处经是佛教重要经典，由元魏时期译经师瞿昙般若流支翻译。该经属于小乘佛教典籍，成书于古印度，后传入中国。经文主要阐述通过正念观察身心现象，达到解脱的修行方法，详细分析六道轮回、因果业报等佛教核心教义。内容涵盖四念处修法、三十七道品等修行体系，强调通过观照身、受、心、法来破除执着。在佛教史上具有重要地位，是研究早期佛教禅修理论的重要文献，对后世禅修实践影响深远，被列为汉传佛教基本经典之一。"
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### 身念處品第七初

> 第七章 身念処

爾時，世尊遊王舍城，在那羅帝婆羅門聚落，告諸比丘：「我今為汝說身念處，初善、中善、後善，善義善味純備具足，清淨梵行，所謂身念處法門。汝今諦聽，善思念之，當為汝說。」

> その時、世尊（ブッダ）は王舎城（ラージャガハ）に滞在し、ナーラディバラモンの村で比丘たちに告げられました。 「今、あなたたちに身の観察（身念処）について説きましょう。それは最初も良く、途中も良く、最後も良く、意味も味わいも素晴らしく、完全に備わった清らかな修行（梵行）です。いわゆる身の観察の教えです。あなたたちは今、よく聞いて、心に留め、しっかりと考えなさい。あなたたちのために説きましょう。」

諸比丘言：「唯然，世尊！願樂欲聞。」

> 比丘たちが申し上げました。「はい、世尊よ。喜んでお聞きいたします。」

佛告諸比丘：「云何名為身念處法門？所謂內身循身觀，比丘觀已，則不住於魔之境界，能捨煩惱。如實觀身，既得知見證如是法，我說是人涅槃所攝。如是比丘實見身已，不為諸惡之所亂也，能斷眼耳鼻舌身意內染，及外色聲香味觸法，如是循身觀，能到涅槃。如是比丘，眼雖見色，不生分別，不起染欲歡喜之心，如實觀身，此身唯有髮毛爪齒、薄皮脂血、筋肉骨髓、生藏熟藏、黃白痰癊、冷熱風病、大腸小腸、屎尿不淨、肝膽腸胃、脂髓精血、涕唾目淚、頭頂髑髏。如是觀身，隨順係念，若如是念，則不著色聲香味觸外境界也。

> 仏は比丘たちに告げられた。「では、身念処の法門とは何か。それは、自らの身体を内側から繰り返し観察することである。比丘がこのように観察すれば、悪魔の領域に留まらず、煩悩を捨て去ることができる。身体をあるがままに観察し、その道理を見極め、自ら証するならば、その人は涅槃に至る者である、と私は説く。このようにして身体を本当に見極めた比丘は、いかなる悪にも乱されることなく、眼・耳・鼻・舌・身・意の内なる汚れ、そして外なる色・声・香・味・触・法を断ち切ることができる。こうした身体の観察を繰り返すことこそが、涅槃に至る道なのである。 このようにして比丘は、眼で色を見ても分別を起こさず、欲望や歓喜の心を生じさせない。身体をあるがままに観察する。この身体は、ただ髪・毛・爪・歯、薄い皮・脂肪・血液・筋肉・骨・髄、内臓・胃袋、黄・白の痰、冷・熱・風の病、大腸・小腸、大小便の不浄物、肝臓・胆のう・腸・胃、脂・髄・精・血、涙・唾・鼻水・目やに、頭蓋骨などから成るに過ぎない。このように身体を観察し、心をそれに向けてしっかりと留めよ。もしこのように心を留めるならば、色・声・香・味・触という外なる境界に囚われることはないのだ。」

「初觀眼色，如實見眼，但是肉摶，四大所成。云何行者如實觀眼？觀於眼根，此肉堅分，內有覺法，是名眼根肉摶內地界也。復觀眼根肉摶之中，內有覺法——目淚濕等，是名眼根肉摶之中內水界也。復觀眼根肉摶之中，內有覺法——有暖、有熱，是名眼根肉摶之中內火界也。復觀眼根肉摶之中，內風輕動，是名眼根肉摶之中內風界也。於內風界如實觀察，耳鼻舌身隨順觀察亦復如是，如是觀已，於可愛色不生樂著，不為愛境之所破壞。

> まず、目と色の関係を観察します。眼をありのままに見ると、それは単なる肉の塊であり、四大要素から成り立っています。では、修行者はどのようにして眼をありのままに観察するのでしょうか。眼根（視覚器官）を観察するとき、この肉の塊の中の堅い部分で、内部に感覚を有するものを、眼根の肉の塊における内地界（固体の要素）と呼びます。さらに眼根の肉の塊の中の、内部に感覚を有する——目の涙や湿り気など——を観察し、これを眼根の肉の塊における内水界（液体の要素）と呼びます。さらに眼根の肉の塊の中の、内部に感覚を有する——温かさや熱さ——を観察し、これを眼根の肉の塊における内火界（熱の要素）と呼びます。さらに眼根の肉の塊の中の、内部の風のような軽やかな動きを観察し、これを眼根の肉の塊における内風界（気体の要素）と呼びます。このように内風界をありのままに観察します。耳、鼻、舌、身についても、これに従って同様に観察します。このように観察したならば、愛着を感じさせる色に対して楽しみや執着を生じず、愛欲の対象によって心が乱されることはありません。

「復次，修行者內身循身觀。如此身者，念念生滅，生老病死，此身如幻，空無所有，無實無堅，如水泡沫，眾苦集處、眾苦所依、眾苦之藏，如是身中無有少樂，一切皆苦、一切無常、一切破壞，衰變之法，磨滅不淨。

> さらに、修行者は自身の身体を繰り返し観察しなさい。この身体は、瞬間ごとに生まれては消え去り、生・老・病・死があるものです。この身体は幻のように実体がなく、空であり、何も所有せず、確かなものも堅固なものもありません。水の泡のようなものであり、あらゆる苦しみが集まる場所、あらゆる苦しみの拠り所、あらゆる苦しみの器です。この身体の中には、ほんのわずかな楽しみもなく、すべては苦しみであり、すべては無常であり、すべては壊れゆくものなのです。衰え、変化し、すり減り、清らかでない法則そのものです。

「復次，修行者觀身循身觀。如是身者，孰為其本？云何順行？誰為救護？云何而住？是比丘如實觀察，復作是念：『如是身者，以業為本，由業順行，業為能救。若集善業，生天人中。惡業相應，墮於地獄、餓鬼、畜生。如是身者，不淨不堅，無常不住。』如是比丘如實觀身，於愛欲中不復生念。

> さらに、修行者は身体を観察し、繰り返し身体を観察する。この身体の根本は何か。どのようにして進むのか。誰が救うのか。どのようにして存在するのか。この比丘はあるがままに観察し、さらにこう思う。『この身体は、行為（業）を根本とし、行為によって進み、行為が救うものである。もし善い行いを積めば、天や人の世界に生まれる。悪い行いと結びつけば、地獄、餓鬼、畜生に落ちる。この身体は、清らかでもなく、堅固でもなく、永遠ではなく、留まることがない。』このように比丘はあるがままに身体を観察し、愛欲の中に再び心を生じることがない。

「復次，修行者如實觀眼。如閻浮提人所有眼根，有虛空處得見色像，餘方所見如是不耶？若諸弟子或聞我所說，或以天眼、智慧觀察：閻浮提人見色之時，有眼、有色、有明、有空無礙、有意念心，五因緣故，而得見色；欝單越人則不如是，設無空處，亦得見色，猶如魚等水中見色，欝單越人於山障外徹見無礙亦復如是。

> さらに、修行者よ、眼（げん）をあるがままに観察しなさい。 閻浮提（えんぶだい）の人々は、眼の根（能力）によって、虚空（空間）がある所で初めて色の形を見ることができる。では、他の地域の人々も同じように見ているのだろうか。 もし私の弟子たちが、私の教えを聞き、あるいは天眼（てんげん）や智慧によって観察するなら、こう悟るだろう。閻浮提の人々が色を見るとき、そこには五つの条件がそろっている──眼があること、色があること、明かりがあること、空間が妨げなくあること、そして意識（念心）があること。これらの五つの因縁によって、色を見ることができるのだ。 しかし、欝単越（うったんえん）の人々はそうではない。たとえ空間がなくても、色を見ることができる。まるで魚などが水中で色を見るように、欝単越の人々は山々に遮られていても、その向こう側を透き通り、妨げなく見ることができるのである。

「復次，修行者隨順觀身。如閻浮提人耳之所聞愛不愛聲，近則了了，遠則不了，大遠不聞；欝單越人則不如是。是比丘如實觀於欝單越人耳之所聞，若近若遠、若大若小、若愛不愛，以報勝故，而皆能聞。譬如日光，近遠麁細、若淨不淨，光明悉照。欝單越人所聞音聲亦復如是。

> また、修行者は体を観察する。 例えば、閻浮提（人間界）の人々が耳で聞く音について考えてみよう。 好きな音も嫌いな音も、近くにあればはっきり聞こえるが、遠くなればぼんやりとしか聞こえず、あまりに遠ければ全く聞こえない。 しかし、欝単越（北倶盧洲）の人々はそうではない。 この比丘は、欝単越の人々の耳で聞く音をあるがままに観察する。 近くても遠くても、大きくても小さくても、好きな音でも嫌いな音でも、彼らは優れた業の報いによって、すべてを聞き取ることができる。 それはちょうど、日光が近くも遠くも、細かいものも粗いものも、清らかなものも清らかでないものも、すべてを照らし出すのと同じである。 欝単越の人々が聞く音も、まさにこのようなのである。

「復次，修行者隨順觀身。如閻浮提人鼻根所聞，欝單越人如是不耶？彼以聞慧或以天眼見：欝單越人以報勝故，但聞眾香，不聞臭氣。譬如水乳同置一器，鵝王飲之，但飲乳汁，其水猶存。欝單越人亦復如是，但聞眾香，不聞臭氣。

> さらに、修行者は順に従って身を観察します。閻浮提（えんぶだい）の人が鼻で嗅ぐように、欝単越（うったんえつ）の人も同じでしょうか？ 彼らは聞慧（もんえ）によって、あるいは天眼（てんげん）で見ると、欝単越の人は業報が勝れているため、ただ多くの香りを嗅ぎ、悪臭を嗅ぐことはありません。例えば、水と乳を同じ器に入れても、鵞鳥の王が飲むときは乳だけを飲み、水はそのまま残るようなものです。欝単越の人も同じで、ただ多くの香りを嗅ぎ、悪臭を嗅ぐことはありません。

「復次，修行者隨順觀身。如閻浮提人舌所得味，欝單越人如是不耶？彼以聞慧或以天眼見：閻浮提人上中下食，欝單越人則不如是。欝單越人無我所心，常自行善，自然粳米，其食一味，閻浮提人則不如是。

> さらに、修行者は身の観察を順に学びなさい。 たとえば、閻浮提（えんぶだい）の人々が舌で感じる味は、欝単越（うったんえつ）の人々も同じでしょうか？ 彼は聞いた智慧か、または天眼によって、次のように見ます。 閻浮提の人々には上・中・下の食べ物がありますが、欝単越の人々はそうではありません。 欝単越の人々は「我（じが）」や「所有（しょゆう）」の執着心がなく、常に自ら善行を行い、自然の粳米（こうべい）を食べ、その食べ物は一つの味（ひとつの味わい）です。 閻浮提の人々はこれとは異なります。

「復次，修行者隨順觀身。如閻浮提人種種色身，欝單越人如是不耶？彼以聞慧或以天眼觀：閻浮提人種種色身，欝單越人則不如是，以善業故，純一色身，道等、身等，其色猶如閻浮檀金，其身圓直柔軟端正，其報不比閻浮提人。閻浮提人無量種業，其行不同，是故則有無量種身、無量種色。

> さらに、修行者は順を追って身を観察する。閻浮提（えんぶだい）の人々は様々な色の身を持つが、鬱単越（うたんえつ）の人々はそうではないのだろうか？ 彼は聞いた智慧、あるいは天眼をもって観る。閻浮提の人々は多種多様な身の色を持つが、鬱単越の人々はそうではない。善い業のゆえに、一様な色の身を持ち、道も等しく、身も等しく、その色はあたかも閻浮檀金（えんぶだんごん）のようである。その身はまっすぐで、柔らかく、端正であり、その報いは閻浮提の人々に比べることはできない。 閻浮提の人々は無量の種類の業を持ち、その行いが同じではない。それゆえ、無量の種類の身、無量の種類の色があるのである。

「如是比丘於二天下人世界中隨順觀已，次觀第三弗婆提國。如閻浮提人、欝單越人所有諸入，與弗婆提人諸入所見，為同不耶？彼以聞慧或以天眼見：弗婆提人於黑闇中亦見眾色，如閻浮提中猫虎兕馬、角鵄之屬，無光明處能見眾色；弗婆提人亦復如是，於夜闇中如眼境界，能見一切麁細眾色。

> このように比丘は、二つの天下（閻浮提と欝単越）の人の世界を観察した後、次に第三の弗婆提（ふばだい）の国について観察します。「閻浮提の人や欝単越の人が持つ全ての感官の働きは、弗婆提の人の感官の認識と同じだろうか、違うのだろうか？」と。 彼は、聞き知った智慧や天眼によって、次のことを見極めます。弗婆提の人は、暗闇の中でも様々な色や形を見ることができます。それはちょうど、閻浮提でいう猫や虎、犀（さい）、馬、あるいは角のある梟（みみずく）などのように、光のない場所でも物の形を見分けられる生き物と似ています。弗婆提の人もまた同じで、夜の暗闇の中でも、まるで目がはっきりと見える時のように、すべての粗いものも細かいものも見ることができるのです。

「復次，修行者隨順觀身，云何觀於閻浮提人？如前所說，如閻浮提人所聞之音，弗婆提人如是不耶？彼以聞慧或以天眼見：弗婆提人聞怖畏聲，耳識所緣，盡一箭道，以福德故，不聞遠處怖畏之聲。

> さらに、修行者は身を観察します。では、閻浮提（えんぶだい）の人々をどのように観るのでしょうか？先に述べたように、閻浮提の人が聞く音を、弗婆提（ふばだい）の人も同じように聞くのでしょうか？修行者は聞慧（もんえ）または天眼（てんげん）によって、次のことを見ます。弗婆提の人々は恐れの声を聞くとき、その耳の認識が及ぶ範囲は一箭道（いっせんどう）ほどです。彼らは福徳があるため、遠くの恐ろしい声を聞くことはありません。

「復次，修行者隨順觀身已，觀三天下眾生住處。如閻浮提人、欝單越人鼻識所緣，弗婆提人如是不耶？彼以聞慧或以天眼見：弗婆提人晝所聞香，鼻識嗅已，夜亦如是，以報勝故。

> さらに、修行者は身体の観察を終えたならば、三つの世界（三天下）に住む生き物たちの在り処を観察します。閻浮提（えんぶだい）の人々や欝単越（うったんえつ）の人々が鼻の認識において対象とするものを、弗婆提（ふばだい）の人々も同じようにするのでしょうか。 彼は、聞いた教えや天の眼によって次のことを見ます。弗婆提の人々は、昼間に香りを嗅ぐと、その鼻の認識は夜になっても同様に働きます。これは、彼らの前世の行いの結果が優れているからです。

「復次，修行者隨順觀身。如閻浮提人、欝單越人舌識知味，如是弗婆提人所得之味如是不耶？彼以聞慧或以天眼見：弗婆提人一食賒盧迦，三日不飢。弗婆提人乃至命終，身無病惱，以法勝故；若臨命終遇病五日，爾乃命終。

> さらに、修行者は身体を観察する。閻浮提（えんぶだい）の人々や欝単越（うったんえつ）の人々が舌で味わうように、弗婆提（ふばだい）の人々の味もまた同じであろうか？彼らは聞いた智慧や天の眼によって、次のことを見る。弗婆提の人々は一度シャルーカを食べると、三日間も空腹にならない。弗婆提の人々は命が終わるまで、身体に病の苦しみがない。それは法が勝れているからである。もし命の終わりに臨んで五日間病にかかることがあれば、その後に命は終わる。

「復次，修行者隨順觀身。如閻浮提人、欝單越人身之形相，弗婆提人如是不耶？彼以聞慧或以天眼見：弗婆提人其身圓滿如尼俱陀樹。

> さらに、修行者は身体を観察する。閻浮提（えんぶだい）の人々や欝単越（うったんえつ）の人々の身体の形相を、弗婆提（ふばだい）の人々もそうではないのだろうか？修行者は、聞いた教えや天眼によって次のように見る。弗婆提の人々の身体は、ニグンダ樹のように丸く満ち足りている。

「復次，修行者隨順觀身，於三天下如實觀已，觀於第四瞿陀尼人所住之處。云何瞿陀尼人緣身境界？彼以聞慧或以天眼見：瞿陀尼人眼識所緣山壁無礙，如於頗梨琉璃之中見眾色像，瞿陀尼人亦復如是。

> さらに、修行者たちは身を観察する修行を順に進め、三大洲（※原文の「三天下」を三洲と解釈）をありのままに観終えた後、第四の瞿陀尼人の住む場所を観察します。では、瞿陀尼人はどのような身の境涯を縁としているのでしょうか？彼らは聞慧（教えを聞く智慧）によって、あるいは天眼によって、次のように見ます。瞿陀尼人の眼識が縁とする山や壁は障害となることがなく、あたかも水晶や瑠璃の中に様々な色や形を見るように、瞿陀尼人の認識もまた同じである、と。

「復次，修行者隨順觀身。如閻浮提中、欝單越中、弗婆提中，三天下人聞聲差別，瞿陀尼人耳識緣聲，如是不耶？彼以聞慧或以天眼見：瞿陀尼人眼識聞聲，如閻浮提中蛇虺之類眼中聞聲，瞿陀尼人亦復如是，如隔障礙，聞眾音聲、見眾色像亦復如是，以法勝故。

> さらに、修行者は身を観察していきます。閻浮提（えんぶだい）・鬱単越（うったんえつ）・弗婆提（ふばだい）の三天の人々は、音を聞き分ける能力を持ちますが、瞿陀尼（くだに）の人々は耳の認識で音を感じるのでしょうか？彼らは聞慧や天眼によって、瞿陀尼の人々が蛇や虫のように眼で音を聞くことを知ります。ちょうど閻浮提の蛇や虫が目で音を聞くように、瞿陀尼の人々も同様に、あたかも障りがあるかのようにして、さまざまな音声を聞き、さまざまな色や形を見ます。これらはその法が優れているがゆえです。

「復次，修行者隨順觀身。如閻浮提人、弗婆提人鼻識緣香，瞿陀尼人如是不耶？瞿陀尼人嗅香法異，眼等別緣。云何瞿陀尼人鼻識緣香？彼以聞慧或以天眼見：瞿陀尼人若眼見色，即亦知香，若眼不見亦聞其香，以法勝故。

> さらに、修行者は身について観察する。閻浮提（えんぶだい）の人々や弗婆提（ふつばだい）の人々は鼻の意識によって香りを感じるが、瞿陀尼（くだに）の人々も同じであろうか？瞿陀尼の人々の香りを嗅ぐ方法は異なり、眼などの別の器官が関わっている。では、瞿陀尼の人々の鼻の意識はどのように香りを感じるのか？彼らが聞いた教えや天の眼で見ると、次のようである：瞿陀尼の人々は、もし眼で色を見れば、同時にその香りも知る。もし眼で見えなくても、その香りを嗅ぐことができる。これは、彼らの方法が優れているからである。

「復次，修行者隨順觀身。云何瞿陀尼人舌識緣味？彼以聞慧或以天眼見：瞿陀尼人食於稗子、飲於牛味，如閻浮提人飲苷󰈕酒、蒲桃之酒，瞿陀尼人飲牛五味，能令惽醉亦復如是。瞿陀尼人食於稗子，如閻浮提人食粳糧飯，充足飽滿。

> さらに、修行者は身に従って観察する。では、牛貨洲（瞿陀尼）の人々は、どのように舌の識（舌識）で味を縁（よ）るのか。彼は聞く智慧（聞慧）か、または天眼によってこれを見る。すなわち、牛貨洲の人々は、雑穀（ひえ）を食べ、牛乳の味を飲む。それは、閻浮提（えんぶだい、我々の世界）の人々がブドウ酒や白酒を飲むのと同じで、牛貨洲の人々は牛乳五味（ごみ）を飲み、それで酔うことも、全く同じである。牛貨洲の人々は、雑穀を食べるが、それは閻浮提の人々が精米された米飯を食べ、十分に満ち足りるのと同じである。

「復次，修行者隨順觀身。云何觀於瞿陀尼人身之量耶？彼以聞慧或以天眼見：瞿陀尼人其身長短——半多羅樹，如業相似，自業色身。

> さらに、修行者は身体を観察します。どのようにして瞿陀尼人の身体の大きさを観るのでしょうか。彼は聞いた智慧によって、あるいは天の眼によって見ます。瞿陀尼人は、その身の丈が半多羅樹ほどであり、自らの業に応じた色と身体を持っています。

「復次，修行者思惟觀察四天下中何等住處，性等相似、意等相似、行等相似？互對觀察。彼以聞慧或以天眼見：四天下眾生心意，無有一人心意相似，無有一人行等相似，無有一人身等相似，一切無有一人相似。是名比丘隨順觀身。

> さらに、修行者はよく考え観察します。この四つの大陸の住まいの中で、どのような性質が似ていて、どのような心の持ちようが似ていて、どのような行いが似ているのか。互いに見比べて観察します。彼は教えを聞く智慧や天眼によって見ます。四つの大陸の生きとし生けるものの心や意図は、全く同じ心や意図を持つ者は一人もいません。全く同じ行いをする者も、全く同じ姿をした者も一人としていません。すべてのものに、全く同じ者は一人もいません。これを比丘がその身をよく観察することに従う、といいます。

「復次，修行者隨順觀身。云何四天下人頗有一人無業無因來生不耶？無業藏耶？無業流轉耶？頗有不行習欲法耶？如是比丘不見一人無業藏者，無有一人無業而生，無有一人無業流轉，無有一人不習欲法，隨所作業，或善或不善，隨業受報，無有一人不為怨親中人所攝。是名修行者隨順觀身。

> さらに、修行者は身（からだ）をあるがままに観察します。どのように観察するのかというと、「四天下（全世界）の人々の中に、業（行い）もなく、因（原因）もなくして生まれてくる者が一人でもいるだろうか。業を持たずに隠れている者がいるだろうか。業なくして生死を繰り返す者がいるだろうか。欲望の行いを習わない者がいるだろうか」と問いかけます。 このように、比丘（修行者）は、業を持たずに隠れている者を一人も見ません。業なくして生まれる者も、業なくして生死を繰り返す者も、欲望の行いを習わない者も一人もいません。すべての者は、その行いに従って、善であれ不善であれ、その業に応じて報いを受けます。怨みを持つ者、親しい者、中立的な者に分類されない者も一人もいません。 これが、修行者が身（からだ）をあるがままに観察するということです。

「復次，隨順觀身。云何集業而得天身？云何天中受五欲樂？彼以聞慧或以天眼觀：諸眾生生四天王天處，受天五欲，眼視美色，不知厭足，或細或麁，自以天眼見萬由旬，若化神通，能見無量百千由旬。如是修行者觀天無量善業勢力，四天王天所見色貌皆悉可愛，心生愛樂，不見惡色。

> さらに、身体を観察しましょう。どのような業によって天の身を得るのか。天において五つの欲望の楽しみを受けるとはどういうことか。彼は聞いた智慧か、あるいは天眼によって観る——様々な生き物が四天王天に生まれ、天の五つの欲望を享受することを。目で美しい色を見て、満足することを知らない。微細なものも粗いものも、自らの天眼で一万由旬を見渡す。もし神通を現わせば、無量の百千由旬を見ることができる。このように修行する者は、天の無量の善業の力を観る。四天王天で見る色や姿は全て愛しく、心に愛楽を生じ、悪い色を見ることはない。

「復次，修行者隨順觀身。云何四天王天耳聞音聲？彼以聞慧或以天眼見：四天王天若聞天聲，甚可愛樂，若以報耳聞三千由旬，若化神通，則能聞於二萬由旬，所聞音聲皆可愛樂。

> さらに、修行者は体に従って観察します。では、四天王天の者たちはどのように音声を耳で聞くのでしょうか？彼らは聞く智慧によって、あるいは天の眼によって次のように見ます。四天王天の者たちは、天の音声を聞くと、それは非常に愛しく楽しいものです。もし報いの耳で聞くならば、三千由旬の範囲を聞くことができ、もし神通力によって変化して聞くならば、二万由旬の範囲を聞くことができます。聞こえる音声はすべて愛しく楽しいものです。

「復次，修行者隨順觀身。云何四天王天鼻聞香耶？彼以聞慧或以天眼見：四天王天自報鼻根，聞於眾香二百由旬，若化神通，聞於百千由旬之香。

> さらに、修行者は身に従って観察します。では、四天王天の鼻は香りを嗅ぐのでしょうか？彼らは聞慧（智慧による理解）または天眼によって見ます。四天王天は、自身の報いとして得た鼻根（鼻の能力）によって、二百由旬の範囲の様々な香りを嗅ぐことができます。もし神通力を用いるならば、百千由旬の香りをも嗅ぐことができるのです。

「復次，修行者隨順觀身。云何觀於四天王天舌根充滿？彼以聞慧或以天眼見：四天王天舌根無厭亦無不愛，如業所得，以善業故，於味不厭。

> また、修行者は身体について観察を深めます。では、四天王天の舌根がどのように満たされているのかを観察しましょう。彼は聞慧（聞く智慧）あるいは天眼によって、次のように見ます。四天王天の舌根には飽きることがなく、また好まないものもありません。業によって得られたものであり、善業のゆえに、味に対して厭うことがないのです。

「復次，修行者隨順觀身。云何觀於諸天身耶，若麁若細、若速疾行？彼以聞慧或以天眼見：諸天身有大勢力，神通微細，於一手中置五百天在手而住，各令諸天身不妨礙，亦不迫隘。譬如一室燃五百燈，其燈光明不相逼迫，諸天手中置五百天亦復如是不迮不妨。

> さらに、修行者は身体について正しく観察しなければなりません。では、どのように諸天の身体を観察するのでしょうか。それは粗いものや細かいもの、素早く動くものも含みます。彼らは聞いた智慧や天眼によって見るのです。 諸天の身体は大きな力を持ち、神通力によって微細であり、一つの手の中に五百の天を置いて留まらせることができます。それぞれの天の身体が互いに妨げ合うこともなく、窮屈になることもありません。例えば、一つの部屋に五百の灯を灯しても、その灯の光が互いに圧迫し合わないように、諸天の手の中に五百の天を置いても同様に、窮屈にもならず妨げにもならないのです。

「復次，諸天若化大身無量由旬，若好若醜，若有見者或怖不怖。

> さらに、天人は巨大な身体を何由旬（ゆじゅん）にもわたって変化させることができます。その姿は美しいこともあれば醜いこともあり、見る人によっては恐れを感じる者もいれば、恐れを感じない者もいます。

「復次，修行者隨順觀身。云何觀於速行天耶？彼以聞慧或以天眼見：速行天一眴目頃能行無量百千由旬還至本處，隨天憶念所往之處，無所障礙。若有所欲，皆悉具足，無能奪者，於一切處所得之物皆悉自在，於他無畏，無能為礙，天境界樂念念增長，以善業故，受五欲樂。是名行者隨順觀身。

> また、修行者は身を観察します。速行天（そくぎょうてん）とはどのような存在でしょうか。彼らは聞法の智慧や天眼によって知ることができます。速行天は、まばたきする一瞬のうちに、無量百千由旬（むりょうひゃくせんゆじゅん）もの距離を自在に往復し、元の場所に戻ることができます。心に思った場所へ、一切の障害なく赴くことができます。また、欲するものはすべて具わっており、それを奪う者はいません。あらゆる場所で得たものはすべて自在であり、他者に怖れることなく、妨げられることもありません。天界の楽しみは、瞬間瞬間に増大していきます。善行の果報によって、五感の快楽を享受しているのです。これが、修行者が速行天を観察する方法です。

「復次，修行者隨順觀身。云何觀於三十三天身耶？云何緣於境界受樂？彼以聞慧或以天眼觀：三十三天如四天王天受境界樂。三十三天受於愛色聲香味觸，勝四天王天足一千倍。何以故？三十三天所作之業，勝愛大力可愛樂故，勝於四天王天所作業故。以三十三天所作業勝，是故四天王天不及上天，如是三十三天所受樂勝不可具說。是名修行者隨順觀身。

> さらに、修行者は身体を観察する順序に従います。どのようにして三十三天の身体を観察するのでしょうか？また、どのようにして外界の対象に触れて快楽を得るのでしょうか？彼は聞いた教えや天の眼によって、次のように観察します。三十三天は、四天王天が外界の快楽を享受するのと同じように、愛する色・声・香・味・触の快楽を受けています。その快楽は、四天王天よりも千倍も勝っています。なぜでしょうか？三十三天が行う業は、より強い愛と、愛しく楽しいものへと導く力を持つからです。また、四天王天の業よりも優れているからです。三十三天の業が優れているため、四天王天はこの上の天に及びません。このように、三十三天が享受する快楽の素晴らしさは、詳細に語り尽くせないほどです。これを、修行者が身体を観察する順序に従う、といいます。

「復次，修行者隨順觀身。云何觀於地獄？地獄眾生所受之身，謂活地獄、黑繩地獄、大合地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、焦熱地獄、大焦熱地獄、阿鼻地獄。彼以聞慧或以天眼見：諸眾生所作之業——不可愛業、不喜樂業、不善之業，謂三種業，於身口意造集業故，墮地獄中。集惡業故，受地獄苦，於地獄中受諸劇苦，乃至惡業不盡終不得脫。是名修行者隨順身觀。

> さらに、修行者は身（からだ）を観察していきます。では、どのように地獄を観察するのでしょうか。地獄の衆生が受ける身体とは、すなわち活動地獄、黒縄地獄、大合地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、焦熱地獄、大焦熱地獄、阿鼻地獄のことです。 彼らは聞き覚えた智慧や天の眼によって、さまざまな衆生が行った業（カルマ）を見ます。それは、愛すべきでない業、喜ばしくない業、善でない業です。つまり、身・口・意の三つの行いによって業を積み重ね、地獄に堕ちるのです。悪業を集めたがゆえに、地獄の苦しみを受け、その地獄において激しい苦しみをすべて味わい、悪業が尽きないかぎり、ついにそこから逃れられません。これを、修行者が身を順に観察するということといいます。

「復次，修行者作是思惟：『作何等業墮於地獄？』彼以聞慧或以天眼見：此眾生習近殺害，樂習增長，以是因緣，墮活地獄。又見眾生習近殺生偷盜，喜樂習近，增長斯惡，以此因緣，墮黑繩地獄。又見眾生習近殺生偷盜邪婬，習近喜樂，增長斯惡，以是因緣，墮眾合地獄。又見眾生習近殺生偷盜、邪婬妄語，習近喜樂，增長斯惡，以是因緣，墮叫喚地獄。又見眾生殺生偷盜、邪婬妄語、勸人飲酒，以是因緣，墮大叫喚地獄。又見眾生殺生偷盜、邪婬妄語、飲酒、邪見，以是因緣，墮焦熱地獄。又見眾生殺生偷盜、邪婬妄語、以酒飲人、邪見不信，或破比丘、比丘尼戒，以是因緣，墮大焦熱地獄。又見眾生作五逆業五種惡業，以是因緣，墮阿鼻地獄。云何五逆？若有眾生殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、若以惡心出佛身血，如是五種大惡業故，墮阿鼻地獄。思惟如是地獄業報，於諸眾生起悲愍心。

> さらに、修行者はこのように思惟する。「どのような業によって地獄に堕ちるのか」。彼は、聞いた智慧、あるいは天眼によって、この众生が殺生に親しみ、それを楽しみ、増長させた因縁によって、等活地獄に堕ちるのを見る。また、杀生と盗みに親しみ、それを楽しみ、増長させた悪行によって、黒縄地獄に堕ちる众生を見る。また、杀生、盗み、邪淫に親しみ、それを楽しみ、増長させた悪行によって、衆合地獄に堕ちる众生を見る。また、杀生、盗み、邪淫、妄語に親しみ、それを楽しみ、増長させた悪行によって、叫喚地獄に堕ちる众生を見る。また、杀生、盗み、邪淫、妄語を行い、さらに他人に飲酒を勧めた因縁によって、大叫喚地獄に堕ちる众生を見る。また、杀生、盗み、邪淫、妄語、飲酒、邪見を行った因縁によって、焦熱地獄に堕ちる众生を見る。また、杀生、盗み、邪淫、妄語、他人への飲酒勧め、邪見と不信、あるいは比丘や比丘尼の戒を破った因縁によって、大焦熱地獄に堕ちる众生を見る。また、五逆の罪という五種の悪業を行った因縁によって、阿鼻地獄に堕ちる众生を見る。では五逆とは何か。それは、父を殺す、母を殺す、阿羅漢を殺す、和合僧を破る、悪意によって仏の身から血を出すことである。このような五種の大悪業によって、阿鼻地獄に堕ちるのである。このように地獄の業報を思惟して、一切の众生に対して哀れみの心を起こすのである。

「復次，修行者隨順觀身。云何眾生墮餓鬼道？彼以聞慧或以天眼見：無量餓鬼以慳嫉故，墮餓鬼中，在於地下五百由旬。無量餓鬼惡食、無食或食不淨，互相食噉，飢渴所逼，受大苦惱，上雨大火以燒其身。此諸餓鬼隨惡業故，受如是苦。

> さらに、修行者は身を観察することができる。どのような衆生が餓鬼道に堕ちるのか。彼らは聞いた智慧や天眼によって見る。無数の餓鬼が、もの惜しみと嫉妬のゆえに餓鬼道に堕ち、地下五百由旬のところにいる。無数の餓鬼は、悪い食べ物しか得られないか、まったく食べ物がなく、あるいは不浄なものを食べ、互いに食べ合い、飢えと渇きに苦しめられ、大きな苦しみを受ける。上からは火の雨が降り、その身を焼く。これらの餓鬼は、それぞれの悪業に従って、このような苦しみを受けるのである。

「復次，修行者隨順觀身。彼以聞慧或以天眼見畜生道，彼見無量種種畜生，略說三處：一者水行，所謂魚等；二者陸行，所謂象馬牛羊、麞鹿猪等；三者空行，所謂無量眾飛鳥等。

> さらに、修行者は身に沿って観察します。聞いた智慧あるいは天の眼によって、畜生道を見ます。そこには無数の様々な生き物がおり、大まかに三つの場所に分けられます。第一に水中に生きるもの、すなわち魚などです。第二に陸に生きるもの、すなわち象・馬・牛・羊・シカ・イノシシなどです。第三に空に生きるもの、すなわち数え切れないほどの鳥類などです。

「復次，修行者隨順觀身。彼以聞慧或以天眼觀於畜生有幾種生？彼以聞慧或以天眼見：諸畜生有四種生。何等為四？一者胎生，所謂象馬水牛、牛羊之類；二者卵生，所謂蛇蚖鵝鴨、鷄雉種種眾鳥；三者濕生，蚤虱蚊子之類；四者化生，如長面龍等。是修行者如實觀畜生已，若天若人、若地獄餓鬼畜生，不見一處不為恩愛別離所惱，一切眾生輪轉生死，或作怨家或為親友，無有一處不生不滅。如是比丘於生死處不生愛心，如是心不喜樂，如是厭離不隨，如是破壞，如是滅法，不可久住一切眾生眾苦之處。是故比丘生死之中多苦少味、無常破壞，當應厭離，厭離生死便得解脫。

> 次に、修行者は心を落ち着けて、自身の身体を観察します。彼は教えを聞いて得た智慧、あるいは天眼によって、畜生には何種類の生まれ方があるかを観察します。彼は教えを聞いて得た智慧、あるいは天眼によって、あらゆる畜生には四種類の生まれ方があると見ます。その四種類とは何でしょうか。 第一に胎生です。これは象、馬、水牛、牛、羊などの類です。 第二に卵生です。これは蛇、蚰蜒、鵞鳥、鴨、鶏、雉などの様々な鳥類です。 第三に湿生です。これは蚤、虱、蚊などの類です。 第四に化生です。これは長面龍のように、突然に生まれるものです。 この修行者は、畜生をあるがままに観察した後、天界、人間界、地獄、餓鬼、畜生のいずれの世界においても、愛別離苦（愛する者との別れの苦しみ）に悩まされない場所は一つとしてないと知ります。すべての生きとし生けるものは生死の輪廻を巡り、時に怨み合う者となり、時に親しい友人となります。生まれては滅びないものは、どこにもありません。 このように観察する比丘（修行者）は、生死の世界に愛情を抱くことなく、その世界に喜びや楽しみを見出すこともなく、厭離の心を起こしてそれに従わず、執着を壊し、すべては滅びゆく法であり、永遠に留まることはできず、あらゆる生き物が苦しむ場所であると悟ります。 それゆえ、比丘は生死の世界において、苦しみが多く楽しみはほとんどなく、無常であり壊れゆくものであると知り、厭離すべきです。生死を厭い離れるならば、解脱を得ることができるのです。

「如是那羅帝婆羅門聚落比丘修行者，內身循身觀，觀於內身——於此身中分分不淨。如實見身，念念思惟，從頭至足循身觀察。是修行者初觀頭頂，彼以聞慧或以天眼觀：頭髑髏以為四分，於頭骨內自有蟲行，名曰腦行，遊行骨內，生於腦中，或行或住，常食此腦。於髑髏中復有諸蟲住髑髏中，若行若食，還食髑髏。復有髮蟲住於骨外，食於毛根，以蟲瞋故，令髮墮落。復有耳蟲住在耳中，食耳中肉，以蟲瞋故，令人耳痛或令耳聾。復有鼻蟲住在鼻中，食鼻中肉，以蟲瞋故，能令其人飲食不美；腦涎流下，蟲食腦涎，是故令人飲食不美。復有脂蟲生在脂中，住於脂中，常食人脂，以蟲瞋故，令人頭痛。復有續蟲生於節間，有名身蟲住在交牙，以蟲瞋故，令人脈痛猶如針刺。復有諸蟲名曰食涎，住舌根中，以蟲瞋故，令人口燥。復有諸蟲名牙根蟲，住於牙根，以蟲瞋故，令人牙疼。是名內修行者循身身觀，是十種蟲，住於頭中。

> かくのごとく、ナーラーディのバラモンの集落に住む修行者は、内身についての循身観（順を追って身体を観察する瞑想）を修める。すなわち、この身体の中に、部分ごとに不浄なものがあると、あるがままに見る。そして、一念ごとに、「頭から足へ」と身体を順に観察する。 修行者はまず頭頂を観察する。彼は聞慧（教えを聞いて得た智慧）または天眼（超自然的な視力）によって観る。頭蓋骨は四分されており、その骨の内側には「脳行」という虫がいて、骨の中を這い巡り、脳の中に住み、歩いたり止まったりしながら、常にこの脳を食べている。また、頭蓋骨の中には別の虫たちが住み、歩いたり食べたりしながら、頭蓋骨そのものを食べる。 さらに、骨の外側には「髪虫」がいて、毛根を食べる。この虫が怒ると、髪の毛が抜け落ちる。また、「耳虫」が耳の中に住み、耳の肉を食べる。この虫が怒ると、耳が痛くなったり、耳が聞こえなくなったりする。さらに、「鼻虫」が鼻の中に住み、鼻の肉を食べる。この虫が怒ると、食べ物の味が美味しく感じられなくなる。また、脳の涎（よだれ）が流れ下ると、虫がその脳の涎を食べるため、さらに食べ物の味が悪くなる。 また、「脂虫」は脂肪の中に生まれ、脂肪の中に住み、常に人の脂肪を食べている。この虫が怒ると、頭痛がする。「続虫」は関節の間に生まれ、「身虫」という名の虫は、歯と歯の間に住んでいる。この虫が怒ると、脈が針で刺されるように痛む。さらに、「食涎（しょくぜん）」という虫は舌の根元に住み、この虫が怒ると、口が渇く。「牙根虫」という虫は歯の根元に住み、この虫が怒ると、歯が痛む。 これが、内身を観察する修行者の循身観である。頭の中には、この十種の虫が住んでいるのである。

「復次，修行者觀身循身觀。頭肉中有幾骨耶？彼以聞慧或以天眼見：髑髏骨頭有四分，額骨、頰骨合有三分，鼻骨一分。交牙二骨，頤有一骨，牙齒合有三十二骨，齒根亦爾。咽喉二骨，如是項中有十五骨。

> さらに、修行者は身体を観察し、繰り返し身体に注目します。頭の肉の中にはいくつの骨があるのでしょうか？彼は聞いた教えや、あるいは天眼によって見ます。頭蓋骨には四つの部分があります。額の骨と頬の骨を合わせて三つの部分、鼻の骨は一つです。上下の顎の骨が二つ、あごの骨が一つ、歯は全部で三十二本あり、歯の根も同様です。喉の骨が二つあり、このように首には十五の骨があります。

「復次，修行者內身循身觀。云何頭肉以食增長，和合有覺？彼以聞慧或以天眼觀：於頭肉則有四分，兩頰二分，咽喉及舌肉段一分，上下兩脣及其兩耳皮肉四分。其舌根者，名為脈肉，貪嗜上饍，樂於六味。

> 次に、修行者は内なる身体を身体として観察します。では、頭の肉はどのように食物によって増え、調和して感覚を持つのでしょうか。彼は聞いた智慧あるいは天眼によって観察します：頭の肉には四つの部分があります。両頬に二分、喉と舌の肉の塊に一分、上下の唇と両耳の皮肉に四分です。その舌の根元は「脈肉」と呼ばれ、ごちそうを貪り好み、六つの味を楽しみます。

「復次，修行者內身循身觀。有何等蟲？住在何處？作何等業，或病或安？彼以聞慧或以天眼：初觀咽喉，咽喉有蟲，名曰食涎，咀嚼食時，猶如嘔吐，唌唾和雜，欲咽之時，與腦涎合，喉中涎蟲共食此食，以自活命。若蟲增長，令人瘶病。若多食膩或多食甜，或食重食或食醋食，或食冷食，蟲則增長，令人咽喉生於疾病。觀涎蟲已，如實知身。

> さらに、修行者は自身の身体を内側から観察する。どのような虫が存在し、どこに住み、どのような働きをし、病を引き起こすのか、あるいは安らぎをもたらすのか。彼は聞いた智慧と天眼によって観察する。 まず喉の内部を観察する。喉の中には「食涎（しょくぜん）」という虫がいる。食べ物を噛む時、その虫はちょうど吐き戻すかのように、唾液と混ざり合う。飲み込もうとする時、脳の涎と融合し、喉の中の涎虫がこの食物を共に食べて、命をつないでいる。この虫が増殖すると、咳の病を引き起こす。もし油っぽいものや甘いものを多く摂りすぎたり、消化に重い食べ物、酸っぱいもの、冷たいものを食べすぎると、虫は増え、喉に病気をもたらす。この涎虫を観察した後、修行者は身体の実相をありのままに知るのである。

「復次，修行者內身循身觀。觀於唾蟲能消諸唾，或能為病或令安隱。彼以聞慧或以天眼見：消唾蟲住咽喉中，若人不食如上膩等，蟲則安隱，能消於唾，於十脈中流出美味，安隱受樂。若人多唾，蟲則得病，以蟲病故，則吐冷沫，吐冷沫故，胸中成病。觀唾蟲已，如實知身。

> さらに、修行者は自己の身体を繰り返し観察する。その観察において、唾液に住む虫が唾液を消化し、時に病気を引き起こし、時に健康を保つことを観じる。彼は聞慧あるいは天眼によって次のように見る：唾液を消化する虫は咽喉に住み、もし人が先に述べたような脂っこいものを摂らなければ、この虫は安稳に過ごし、唾液を消化し、十の脈の中から美味を流し出し、安稳で楽を受ける。もし人が唾液が多いと、虫は病気になり、虫が病むがゆえに冷たい泡を吐き、冷たい泡を吐くがゆえに胸中が病を成す。この唾液の虫を観察したならば、身を如実に知る。

「復次，修行者內身循身觀。觀於吐蟲，云何令人安隱疾病？住在何處？食何等食？彼以聞慧或以天眼：見於吐蟲住人身中，住於十脈流注之處。若人食時，如是之蟲從十脈中，踊身上行至咽喉中，即令人吐，令人生於五種嘔吐。何等為五？一者風吐；二者陰吐；三者唾吐；四者雜吐；五者蠅吐。若蟲安隱，食則調順，入於腹中。

> さらに、修行者は自身の身体を繰り返し観察する。吐き気を起こす虫について観察せよ。いかにして人を病気にし、あるいは安穏にするのか。どこに住み、何を食すのか。彼は聞き知った智慧、あるいは天眼によって、吐く虫が人の身体の中にいて、十の脈管の流れる場所に住むのを見る。人が食事をする時、この虫は十の脈管から跳ね上がり、喉元に上ってくると、すぐに人を吐かせ、五種類の嘔吐を生じさせる。五種類とは何か。第一に風による嘔吐、第二に陰による嘔吐、第三に唾による嘔吐、第四に雑多な嘔吐、第五に虫による嘔吐である。もしこの虫がおとなしくしていれば、食事は整い、腹の中に収まる。

「云何吐蟲生於風吐？彼以聞慧或以天眼見：食輕冷，若無膩食，則發風病，令人大小便利難通，眼不能睡。風入咽喉，風動吐蟲，以此過故，是名風吐。觀吐蟲已，如實知身。

> 風による吐虫（とちゅう）はどのようにして生じるのでしょうか。彼は聞慧（もんえ）または天眼（てんげん）によって、次のように観察します。 軽くて冷たい食べ物や、油気のない食べ物をとると、風の病が起こります。その結果、大小便が出にくくなり、目も眠れなくなります。風が喉に入り込み、風が吐虫を動かすことで、このような過ちが生じます。これを風吐（ふうと）と呼びます。 吐虫を観察したならば、そのようにして身をありのままに知るのです。

「復次，修行者觀內身循身觀。云何吐蟲令人吐陰？彼以聞慧或以天眼見：人食辛，醎熱和合，令人發熱，惱於吐蟲，從其住處動而上行，令人吐陰。觀吐蟲已，如實知身。

> 次に、修行者は自分の身体を観察し、身体を繰り返し観察します。では、吐き気を起こす虫がどのようにして吐き気の病気を引き起こすのでしょうか？彼は聞いた教えや天眼によって、人が辛いものや塩辛いもの、熱いものを食べると、それが体内で混ざり合い熱を発生させ、吐き気を起こす虫を悩ませると見ます。その虫は本来の住処から動き出して上に上がり、人に吐き気の病気をもたらします。この吐き気の虫を観察した後、修行者は身体の実相をありのままに知るのです。

「復次，修行者觀內身循身觀。云何吐蟲令人吐唾？彼以聞慧或以天眼見：人食於甜冷重食、膩滑之食，或食已睡眠，令唾增長，唾增長故，唾蟲增長，為咽喉病，令身沈重，則有冷唾。觀吐蟲已，如實知身。

> また、修行者は内身を観察し、身体を隅々まで観じます。では、吐く虫が人に吐き気を催させるのはなぜでしょうか。彼は聞いた教えや天眼によって、次のように見ます。人は甘く冷たいものや、重く油っこい食べ物を摂ったり、食後に眠ったりすることで唾液が増えます。唾液が増えると、唾の虫が増え、のどの病気を引き起こし、体が重だるくなり、冷たい唾液が出るようになります。この吐く虫を観察した後、身体の実態をありのままに知るのです。

「復次，修行者觀內身循身觀。云何吐蟲生於雜吐？彼以聞慧或以天眼見：食輕冷無膩之食、辛酢醎食、滑冷重膩，能令吐蟲行咽喉中，以是三過，能令人吐。觀吐蟲已，如實知身。

> また、修行者は内なる身について、身を循り観察します。どのようにして吐く虫が、混ざり合った吐物から生まれるのでしょうか。彼は聞いた智慧によって、あるいは天の眼によって見ます。軽く冷たく、油気のない食べ物、辛いもの、酢っぱいもの、塩辛いもの、滑らかで冷たく重く油気のあるものを食べると、吐く虫が喉のあたりに動き出します。これらの三つの過ちによって、人を吐かせることができるのです。この吐く虫を観察したならば、そのままのすがたで身を知ります。

「復次，修行者觀內身循身觀。云何蠅吐令人嘔吐？彼以聞慧或以天眼見：蠅食不淨故，蠅入咽喉，令吐蟲動，則便大吐。觀吐蟲已，如實知身。

> また、修行者は身体の内側を観察し、身体に沿って行う観察をします。なぜ蠅の吐き出すものが人に嘔吐を引き起こすのでしょうか？彼は聞いた智慧、あるいは天の眼によって見ます。蠅が汚れたものを食べるからです。蠅が喉に入ると、吐き出す虫が動き、その結果、激しく吐きます。このようにして吐き出す虫を観察した後、身体をありのままに知るのです。

「復次，修行者觀內身循身觀。彼以聞慧或以天眼見：醉味蟲行於舌端乃至命脈，於其中間或行或住，微細無足。若食美食，蟲則惽醉增長，若食不美，蟲則萎弱。此蟲食時如蜂食花，微細甜味以用作蜜，嗜味蟲食亦復如是。然其所食雖復微細亦得充足，若蟲得味，我亦如是得此食味；若蟲憶食，我亦憶食；若我不食，如是醉蟲則亦病苦，不得安隱。觀醉蟲已，如實知身。

> さらに、修行者は内身を観察し、体を順に見つめる。彼は聞いた智慧（もんえ）または天眼によって見る。酔味虫（すいみちゅう）は舌の先端から命脈に至るまで巡り、その途中で歩んだり留まったりし、微細で足がない。もし美味しい食べ物を食べれば、虫は酔って成長する。もし美味しくない食べ物を食べれば、虫は萎え弱る。この虫が食べるとき、蜂が花を吸って微細な甘味から蜜を作るように、嗜味虫（しみちゅう）の食べ方もまた同じである。しかし、その食べるものは微細であっても、十分に満たされる。もし虫が味を得れば、私もまたこの食べ物の味を得る。もし虫が食べ物を欲すれば、私もまた食べ物を欲する。もし私が食べなければ、この酔虫もまた病み苦しみ、安らかでいられない。この酔虫を観察した後、ありのままに身を知る。

「復次，修行者觀內身循身觀。觀放逸蟲，云何此蟲為我病惱或作安隱？彼以聞慧或以天眼見：放逸蟲住於頂上，若至腦門，令人疾病；若至頂上，令人生瘡；若至咽喉，猶如蟻子，滿咽喉中；若住本處，病則不生。是名觀於放逸之蟲。觀放逸蟲已，如實知身。

> さらに、修行者は内なる身体を観察し、身体に沿って観察を進める。放逸の虫について観察する。この虫はどのようにして私に病をもたらし、あるいは安穏をもたらすのか？彼は聞いた教えの智慧、あるいは天の眼によって見る。放逸の虫は頭頂に住み、もし脳の門に至れば、人に病気をもたらす。もし頭頂に至れば、人に腫れ物を生じさせる。もし喉に至れば、蟻のように喉の内側に充満する。もし元の場所に留まれば、病は生じない。これが放逸の虫についての観察である。放逸の虫を観察し終えたならば、身体をあるがままに知る。

「復次，修行者內身循身觀。觀於貪嗜六味之蟲，云何病惱？云何安隱？彼以聞慧或以天眼見：六味蟲所貪嗜者，我亦貪嗜，隨此味蟲所不嗜者，我亦不便。若得熱病，蟲亦先得如是熱病，以是過故，令於病人所食不美，無有食味。觀味蟲已，如實知身。

> 次に、修行者は自身の身体を内側から観察します。人は六つの味を好む虫にどのように悩まされ、またどのように安らぎを得るのでしょうか。彼は聞いた智慧や天眼によって見ます。「私が好む六つの味は、まさにこの虫たちも好むもの。そして、この虫たちが好まない味は、私もまた不快に感じる。もし熱病にかかれば、虫たちも先に同じ熱病にかかる。そのため病人は、食べ物が美味しくなく、味を感じなくなる。」このように味を好む虫を観察して、身体の真実をありのままに知るのです。

「復次，修行者內身循身觀。觀抒氣蟲住於頂下，彼以聞慧或以天眼見：抒氣蟲以瞋恚故，食腦作孔，或咽喉痛或咽喉塞，咽喉風噎，生於死苦。此抒氣蟲共咽喉中一切諸蟲，皆悉撩亂，生諸病惱。此抒氣蟲常為唾覆，其蟲短小，有面有足。觀抒氣蟲已，如實知身。

> さらに、修行者は体内をくまなく観察します。特に、「はき気の虫」と呼ばれるものが頭蓋骨の下に住んでいるのを観察します。彼は、経典の教えを聞いて得た智慧、あるいは天の眼によって、次のように見ます。「はき気の虫」は怒りのために脳を食べて穴をあけ、あるいは喉の痛みや詰まりを引き起こし、喉が息でふさがれて、死の苦しみをもたらします。この「はき気の虫」は、喉の中にいるすべての虫たちを混乱させ、様々な病気や悩みを生み出します。この虫は常に唾液で覆われており、体は短く、顔と足があります。「はき気の虫」をこのように観察したならば、修行者は自分の体をあるがままに知ることができます。

「復次，修行者內身循身觀。彼以聞慧或以天眼見：憎味蟲住於頭下咽喉根中。云何此蟲為我病惱或作安隱？彼見：此蟲憎嫉諸味，唯嗜一味，或嗜甜味，憎於餘味；或嗜酢味，憎於餘味；或嗜辛味，憎於餘味；或嗜醎味，憎於餘味；或嗜苦味，憎於餘味；或嗜醈味，憎於餘味；隨所憎味，我亦憎之，隨蟲所嗜，我亦嗜之。舌端有脈，隨順於味，令舌乾燥。以蟲瞋故，令舌㿇㿇而腫或令咽喉即得瘶病。若不瞋恚，咽喉則無如上諸病。觀憎味蟲已，如實知身。

> さらに、修行者は自身の身体を観察する。その者は聞いた教えや天眼により、憎味虫が頭の下、喉の付け根に住んでいるのを見る。では、この虫はいかにして我々に病や苦しみをもたらし、あるいは安楽をもたらすのか。その者は見る―この虫は様々な味を嫌い、ただ一つの味だけを好む。ある者は甘い味を好み、他の味を嫌う。ある者は酸っぱい味を好み、他の味を嫌う。ある者は辛い味を好み、他の味を嫌う。ある者は塩辛い味を好み、他の味を嫌う。ある者は苦い味を好み、他の味を嫌う。ある者は淡い味を好み、他の味を嫌う。虫が嫌う味に対しては、私もまたそれを嫌い、虫が好む味に対しては、私もまたそれを好む。舌の先には味覚に従う脈があり、そのために舌が乾燥する。虫が怒ると、舌がひりひりと腫れたり、喉が咳の病になることがある。虫が怒らなければ、喉には上記のような病は起こらない。このように憎味虫を観察して、身体をあるがままに知る。

「復次，修行者內身循身觀。見：嗜睡蟲其形微細，狀如牖塵，住一切脈，流行趣味，住骨髓內，或住肉內或髑髏內，或在頰內或齒骨內或咽骨中，或在耳中或在眼中，或在鼻中或在鬚髮。此嗜睡蟲風吹流轉，若此蟲病，若蟲疲極，住於心中。心如蓮花，晝則開張，無日光故，夜則還合，心亦如是。蟲住其中，多取境界，諸根疲極，蟲則睡眠，蟲睡眠故，人亦睡眠。一切眾生悉有睡眠，若此睡蟲晝日疲極，人亦睡眠。觀睡蟲已，如實知身。

> さらに、修行者は内身において身体を観察する。すなわち、眠気を起こす虫が存在する。その形は非常に微細で、窓から差し込む塵のように、全身の脈に宿り、体中を巡り流れ、骨髄の中、あるいは肉の中、頭蓋骨の中、頬の中、歯の骨の中、喉の骨の中、耳の中、目の中、鼻の中、髪のひげの中にまでも住み着く。 この眠気の虫は、風に吹かれて体内を巡る。もしこの虫が病にかかったり、ひどく疲れたりすると、心臓の中に留まる。心臓はちょうど蓮の花のようなもので、昼には開き、日光がなくなると夜には閉じる。心もまた同じである。虫が心臓の中に留まると、多くの対象（境）を取り込み、諸々の感覚器官がひどく疲れると、虫は眠る。虫が眠るので、その人の意識も眠りに落ちる。すべての生きとし生けるものには眠りがある。もしこの眠気の虫が昼間にひどく疲れると、その人もまた眠りに落ちるのである。この眠気の虫をよく観察することで、修行者は身体の実相をあるがままに知ることができるのである。

「復次，修行者內身循身觀，見：有腫蟲行於身中，或住頭中或住項中，行於血中或行脂中，其身微細，隨飲血處則有腫起㿇㿇而疼。或在面上或在項上，或在咽喉或在腦門，或在餘處，所在之處能令生腫，若住筋中則無病苦。觀腫蟲已，如實知身。

> さらに、修行者は自身の身体を隅々まで観察する。すると、体内には腫れを起こす虫がいて、頭の中や首の中、血液の中や脂肪の中に棲みついているのが見える。その虫は非常に細かく、血を吸うところに腫れが生じて、ひりひりと痛む。あるいは顔や首、喉や頭頂、その他の場所に現れ、その場所に腫れを引き起こす。しかし、もし筋の中に留まれば、病の苦しみはない。この腫れを起こす虫を観察して、修行者は身体をありのままに知るのである。

「如是那羅帝婆羅門長者、聚落比丘修行者觀蟲種類，從於頭中、舌耳腦門、毛孔髮中、皮肉骨血筋脈之中如實觀之，既觀察已，於舌味中生厭離心，於後生處不復愛味，於無量無邊由旬愛縛味海能生厭離。以厭離故，不為食愛之所亂惱，不復親近豪貴長者，離於多欲，於食知足，取得支身。以是義故，不嫉他人得供養利，不樂多言、不樂住寺，不起身慢，不生色慢，不恃衣服而生憍慢，不恃袈裟鉢盂而生憍慢，不恃弟子而生憍慢，不恃聚落而生憍慢，不恃親里而生憍慢，獨一無貪，遠離塵垢，住寂靜處，近於涅槃。若貪嗜美味，沒於味海，為魔所攝，去涅槃遠。是修行者觀諸蟲已，於味厭離，不貪飲食。

> このように、ナラディというバラモンの長者や、村々の修行僧たちは、蟲の種類を観察する。すなわち、頭の中、舌・耳・脳の入り口、毛穴・髪の毛の中、皮・肉・骨・血・筋の中から、あるがままに観察する。これを観察したあと、舌の味に対して厭離の心を生じ、その後の生存において再び味を愛好することがなくなる。無量無辺の由旬にわたる愛の結びつきである味の海に対して、厭離を生じることができる。厭離したがゆえに、食べ物への愛執によって心を乱し悩まされることがなくなり、もはや権力ある長者に近づかず、多くの欲望から離れ、食べ物に満足し、身体を保つのに十分なだけを得る。この意味によって、他人が供養の利益を得るのを妬まず、多弁を好まず、寺に住むことを好まず、身体による慢心を起こさず、色による慢心を生じず、衣服によって驕り高ぶらず、袈裟や鉢によって驕り高ぶらず、弟子によって驕り高ぶらず、村によって驕り高ぶらず、親族によって驕り高ぶらず、独りで貪欲なく、塵や汚れから遠く離れ、静かなところに留まり、涅槃に近づく。もしも美味を貪り好み、味の海に没するならば、悪魔に捕らえられ、涅槃から遠く離れてしまう。この修行者は、蟲たちを観察したのち、味に対して厭離し、飲食に貪らなくなるのである。

「復次，修行者內身循身觀，如實觀於脊骨。彼以聞慧或以天眼見：其脊有四十五骨，胸十四骨，左右脇肋各十二骨，節亦如是，胞骨亦然。如是分別觀骨節已，復觀從肩至髖幾分肉臠？如是左右各十二臠。作是觀已，如實知身。

> さらに、修行者は自身の身体を観察し、背骨をありのままに観察します。 その人は、教えを聞く智慧（聞慧）あるいは天眼によって、次のように見ます。 背骨には四十五の骨があり、胸には十四の骨があります。左右の脇の骨はそれぞれ十二本ずつあり、関節もまた同様です。胎児の骨もまた同じです。 このように骨の節を一つ一つ観察したなら、次に肩から腰にかけて、何切れの肉片があるかを観察します。 左右それぞれに十二切れずつあります。 このように観察した後、身体をありのままに知るのです。

「復次，修行者內身循身觀。有幾許筋，連綴繫縛？彼以聞慧或以天眼見：左右脇除於皮肉，一百細筋以為纏縛。觀筋纏已，如實知身。

> さらに、修行者は自身の身体を観察し、その中をくまなく見つめます。 「この身体には、どれほどの筋が張り巡らされ、繋ぎとめられているのか？」 修行者は、教えを聞いて得た智慧、あるいは天の眼によって、左右の脇腹から皮と肉を取り除いたところ、百本の細い筋が絡み合っているのを見ます。 このように筋の絡まりを観察したならば、身体の実相をあるがままに知ることができるのです。

「復次，修行者內身循身觀。觀於此身從膊至髖有幾許脂？彼以聞慧或以天眼自見己身：以食因緣，脂則增長；以食因緣，令脂損減。極羸瘦人——摩伽陀等，有五兩脂。既觀察已，如實知身。

> さらに、修行者は自己の身体を内側から観察する。この身体において、肩から腰までどれほどの脂肪があるかを観察する。彼は聞いた智慧（教え）によって、あるいは天眼によって、自らの身体を観る。食べ物の因縁によって脂肪は増え、また食べ物の因縁によって脂肪は減る。非常に痩せている人、例えばマガダ国の人の場合、五両（約187グラム）の脂肪がある。このように観察した後、身体をあるがままに知る。

「復次，修行者內身循身觀。觀我此身有幾許水？彼以聞慧或以天眼自見：身中有十掬水，從毛孔出，名之為汗。於諸根中，眼則出淚，名為濕界。以食因緣，脂血增長。觀身水已，如實知身。

> さらに、修行者は内身において身を循ねて観察する。この我が身にどれほどの水があるかを観察する。彼は聞慧をもって、あるいは天眼をもって自ら見る。身の中には十掬の水があり、毛孔から出るものを汗と名づける。諸根の中では、眼から涙が出る。これを湿界と名づける。食物の因縁によって、脂と血が増長する。身の水を観察して、如実に身を知る。

「復次，修行者內身循身觀。觀其身中幾許糞穢？彼以聞慧或以天眼見：其身中有七掬屎，有六掬唾。作此觀已，如實知身。

> また、修行者は自身の身体を繰り返し観察する。その身体の中にどれだけの汚れがあるのかを観じる。彼は聞いた智慧や天眼によって、自分の体内に七掬（ひともと）の糞便と六掬の唾液があるのを見る。このように観察したならば、身体をありのままに知るのである。

「復次，修行者內身循身觀。觀我身中幾許痰癊及尿？彼以聞慧或以天眼見：其身中五掬黃癊，尿有四掬，除其病時，或增或減。如是觀已，如實知身。

> さらに、修行者は自分の身体を内側から順に観察します。自分の身体の中にどれだけの痰や胆汁、尿があるかを観察します。彼は聞いた智慧（聞慧）あるいは天眼によって、自分の身体の中に痰が五掬（一掬は両手ですくう量）、胆汁の塊が五掬、尿が四掬あることを見ます。病気の時はこれが増えたり減ったりします。このように観察して、身体をありのままに知るのです。

「復次，修行者內身循身觀。觀我身中幾許脂髓、不淨穢精？彼以聞慧或以天眼見：其身中十二掬脂，髓有一掬，精有一掬。如是觀已，如實知身。

> さらに、修行者は自身の身体を繰り返し観察します。自分の体内にどのくらいの脂肪や骨髄、汚れた精液があるのかを観察します。 彼は教えを聞く智慧、または天眼によって、次のように見ます。自分の体内には、脂肪が十二掬（きく）、骨髄が一掬、精液が一掬あることを。 このように観察したならば、ありのままに身体を知ることができます。

「復次，修行者內身循身觀。觀其身中有幾許風？彼以聞慧或以天眼見：身空處有三掬風。如是觀已，如實知身。

> さらに、修行者は自らの身体を繰り返し観察しなさい。その身体の中に、どれほどの風があるかを観察するのです。修行者は、教えを聞く智慧によって、あるいは天眼によって、身体の空いているところに三掬（さんきく）の風があるのを見ます。こうして観察したならば、身体をあるがままに知るのです。

「復次，修行者內身循身觀。觀其身中幾脈常流，飲食消化？彼以聞慧或以天眼見：其身中有十三脈，若脈流注，令身肥悅。譬如𣚃槹汲水流注溉灌，令其增長，身脈溉灌亦復如是。何等十三？一名命流脈；二名隨順流脈；三名水流脈；四名汗流脈；五名尿流脈；六名糞流脈；七名十流脈；八名汁流脈；九名肉流脈；十名脂流脈；十一名骨流脈；十二名髓流脈；十三名精流脈。觀流脈已，如實知身。

> 次に、修行者は自身の身体を繰り返し観察します。 その身体の中に、常に流れて食物を消化する脈がいくつあるのかを観察します。 彼は聞いた智慧（もんえ）か、あるいは天眼によって、次のように見ます。 身体の中には十三の脈がある。 これらの脈が流れ込むことで、身体は豊かで満ち足りたものとなる。 それはちょうど、釣瓶（つるべ）で水を汲み上げて田んぼに流し灌漑（かんがい）することで作物が育つのと同じように、身体の脈もまた流れ灌ぐことで身体を成長させるのである。 その十三の脈とは何か。 一つ目は「命流脈」 二つ目は「随順流脈」 三つ目は「水流脈」 四つ目は「汗流脈」 五つ目は「尿流脈」 六つ目は「糞流脈」 七つ目は「十流脈」 八つ目は「汁流脈」 九つ目は「肉流脈」 十つ目は「脂流脈」 十一つ目は「骨流脈」 十二つ目は「髄流脈」 十三つ目は「精流脈」 これらの流れる脈を観察して、修行者は身体をあるがままに知るのである。

「復次，修行者內身循身觀。如彼流脈與誰為本，令身肥悅，復有諸蟲處處遍行？彼以聞慧或以天眼見：命流脈，心為其本；隨順流脈，兩脇為本；水流脈者，生藏腭心以為根本；汗流脈者，毛根及脂以為根本；尿流脈者，根胞為本；糞流脈者，熟藏下門為本；十流脈者，咽喉及心以為其本；汁流脈者，肺為其本；肉脂流脈者，筋皮為本；骨流脈者，一切續節為本；髓精流脈者，卵及身根為本。如是行者觀流脈已，如實知身。

> また、修行者は内なる身体を観察する。 あの流れる脈は何を根本としているのか。それによって身体は豊かに潤い、また多くの虫が至る所を巡っているのだ。 修行者は聞いた智慧によって、あるいは天の眼によって見る。 命を流す脈は、心をその根本とする。 全身に沿って流れる脈は、両脇を根本とする。 水の流れの脈は、胃と口蓋と心を根本とする。 汗の流れの脈は、毛根と脂肪を根本とする。 尿の流れの脈は、膀胱を根本とする。 糞の流れの脈は、大腸と肛門を根本とする。 十の流れの脈は、喉と心をその根本とする。 体液の流れの脈は、肺を根本とする。 肉と脂肪の流れの脈は、筋と皮を根本とする。 骨の流れの脈は、すべての継ぎ目である関節を根本とする。 髄と精の流れの脈は、精巣と身体の根元を根本とする。 このように修行者は流れの脈を観察して、身体をありのままに知るのである。

「復次，修行者觀身循身觀。有何等蟲何處流行，或為疾病或為安隱，從於髖骨乃至遍身？彼以聞慧或以天眼見：十種蟲至於肝肺，人則得病。何等為十？一名食毛蟲；二名孔穴行蟲；三名禪都摩羅蟲；四名赤蟲；五者食汁蟲；六名毛燈蟲；七名瞋血蟲；八名食血蟲；九名㿇㿇蟲；十名酢蟲。此諸蟲等，其形微細，無足、無目，行於血中，痛痒為相。

> 「また、修行者は身体を観じ、身体を繰り返し観察する。どのような虫がいて、どこを動き回り、それが病気の原因となったり、あるいは健康をもたらしたりするのか。それは腰の骨から全身に至るまで及んでいる。彼は聞いた教えや天の眼によって、十種の虫が肝臓や肺に達すると、人は病気になるのを見る。その十種とは何か。第一に毛を食べる虫、第二に穴を行く虫、第三にゼンドモラ虫、第四に赤い虫、第五に汁を食べる虫、第六に毛燈虫、第七に血を怒らせる虫、第八に血を食べる虫、第九にシシ虫、第十に酢虫である。これらの虫はその形が非常に微細で、足もなく目もなく、血の中を動き、痛みや痒みとして現れる。」

「復次，修行者內身循身觀，觀一一諸蟲在於身中，為何所作？彼以聞慧或以天眼見：食毛蟲若起瞋恚，能噉鬚眉，皆令墮落，令人癩病；若孔行蟲而起瞋恚，行於血中，令身麁澁，頑痺無知；若禪都摩羅蟲流行血中，或在鼻中或在口中，令人口鼻皆悉臭惡；若其赤蟲而起瞋恚，行於血中，能令其人咽喉生瘡；若食汁蟲而起瞋恚，行於血中，令人身體作青痶瘓，或黑或黃痶瘓之病；若毛燈蟲起於瞋恚，血中流行，則生病苦，瘡癬熱黃，疥癩破裂；若瞋血蟲以瞋恚故血中流行，或作赤病，女人赤下，身體搔痒，疥瘡膿爛；若食血蟲瞋而生病腦，頭旋迴轉，於咽喉中口中生瘡，下門生瘡；若㿇㿇蟲血中流行，則生疾病，疲頓困極，不欲飲食；若酢蟲瞋恚，亦令其人得如是病。如是一切諸蟲及其種類，既觀察已，如實知身。

> さらに、修行者は自身の身体を観察し、身体の中にいる様々な虫たちが何をしているのかを観察する。彼は聞いた教えや天眼によって、以下の通りに知る。 毛を食べる虫が怒りを起こせば、眉やひげを食い尽くし、それらを落とさせ、人をハンセン病にさせる。 穴を行く虫が怒りを起こし血の中を動けば、体をざらつかせ、麻痺させて感覚を失わせる。 ゼンドウマラ虫が血の中、あるいは鼻や口の中で動けば、人の口や鼻をひどく臭くさせる。 赤い虫が怒りを起こして血の中を動けば、人の喉に腫れ物を生じさせる。 汁を吸う虫が怒りを起こして血の中を動けば、人の体に青い痣や、黒や黄色の腫れ物の病を生じさせる。 毛灯虫が怒りを起こして血の中を動けば、病の苦しみを生み、できもの・苔癬・熱病・黄疸・疥癬・ひび割れを引き起こす。 血を瞋る虫が怒りのために血の中を動けば、赤い病や、女性の場合はおりものの異常を引き起こし、体が痒くなり、疥癬や膿爛を生じさせる。 血を食べる虫が怒れば、脳の病を生じ、頭がくらくらと回り、喉や口の中に腫れ物ができ、肛門にも腫れ物ができる。 シキシキ虫が血の中を動けば、病気を生じ、ひどく疲れ果て、食事を欲しがらなくなる。 酢虫が怒れば、やはり人にそのような病をもたらす。 このように、あらゆる虫とその種類を観察したならば、身体をあるがままに知るのである。

「復次，修行者內身循身觀。觀十種蟲行於陰中。何等為十？一名生瘡蟲；二名刺蟲；三名閉筋蟲；四名動脈蟲；五名食皮蟲；六名動脂蟲；七名和集蟲；八名臭蟲；九名濕蟲；十名熱蟲。

> 次に、修行者は自分の身体を繰り返し観察します。体内には十種類の虫が存在し、それぞれ皮下（陰）の中で活動しています。その十種類とは、以下の通りです。 第一に、できものを作る虫。第二に、刺す虫。第三に、筋を塞ぐ虫。第四に、脈を動かす虫。第五に、皮を食べる虫。第六に、脂肪を動かす虫。第七に、集めて混ぜる虫。第八に、臭い虫。第九に、湿った虫。第十に、熱を持つ虫。

「復次，修行者內身循身觀。觀何等蟲住我身中，或為疾病或為安隱？彼以聞慧或以天眼見於：瘡蟲隨有瘡處，諸蟲圍遶噉食此瘡，或於咽喉而生瘡病。觀瘡蟲已，如實知身。

> さらに、修行者は自身の身体を観察します。どのような虫が自分の体の中に住み、病気を引き起こしたり、あるいは健康をもたらしたりしているのでしょうか。仏の教えを聞く智慧、あるいは天眼によって、次のことを見ます。傷口の虫は、傷のあるところに現れ、その虫たちが周りを取り巻いてその傷を食べます。あるいは喉に傷ができて病気になります。この傷口の虫を観察したならば、その通りに身体を理解するのです。

「復次，修行者內身循身觀。觀於刺蟲作何等病？彼以聞慧或以天眼見於：刺蟲若生瞋恚，令人下痢猶如火燒，口中乾燥，飲食不消，其身剎剎，水入熟藏，晝夜不睡，於熟藏中撓攪糞穢令尿冷等，與尿和合，住如是處，作下痢病，令不憶食劣弱不健；若人愁惱，蟲則歡喜，嚙人血脈以為衰惱，或下赤血或不消下痢。如是觀刺蟲已，如實知身。

> また、修行者は自己の身体を観察します。刺虫（しちゅう）がどのような病を引き起こすのかを観察します。彼は聞き分けた智慧によって、あるいは天眼によって次のことを見ます。刺虫が怒りを生じると、人に下痢を起こさせます。それはまるで火に焼かれるようで、口の中は乾燥し、飲食は消化されず、身体はひどくやつれ、水が熟蔵（じゅうぞう）に入ります。昼も夜も眠ることができず、熟蔵の中で糞尿をかき混ぜ、尿を冷たくし、尿と混ざり合ってその場所にとどまり、下痢の病を起こします。食べ物を欲しがらず、弱って健康ではありません。もし人が憂い悩むと、虫は喜び、人の血脈をかじって衰え悩ませ、あるいは赤い血を下し、あるいは消化されずに下痢をします。このように刺虫を観察して、身体をありのままに知るのです。

## 正法念處經卷第六十四

> 正法念処経 巻第六十四