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title: "大莊嚴論經 · 90"
description: "大莊嚴論經是古印度著名佛教論師馬鳴菩薩所造的一部重要佛教經典，由後秦時期高僧鳩摩羅什翻譯為漢文。該經成書於公元1-2世紀，屬於大乘佛教早期論典，以詩偈與散文相間的形式闡述佛法要義。內容主要圍繞佛陀本生故事與菩薩修行展開，通過生動譬喻闡明因果業報、六度波羅蜜等核心教義，強調發菩提心與積累功德的重要性。作為大乘佛教重要論著，該經對漢傳佛教思想發展產生深遠影響，被歷代高僧視為修學菩薩道的重要指南，在佛教典籍中具有崇高地位。"
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### （九〇）

> (九十)

復次，我昔曾聞，竺叉尸羅國有博羅吁羅村，有一估客名稱伽拔吒，作僧伽藍，如今現在。稱伽拔吒先是長者子，居室素富，後因衰耗遂至貧窮，其宗親眷屬盡皆輕慢不以為人，心懷憂惱遂棄家去，共諸伴黨至大秦國，大得財寶還歸本國。時諸宗親聞是事已，各設飲食香華妓樂於路往迎。時稱伽拔吒身著微服在伴前行，先以貧賤年歲又少，後得財寶其年轉老，諸親迎者並皆不識，而問之言：「稱伽拔吒為何所在？」尋即語言：「今猶在後。」至大伴中而復問言：「稱伽拔吒為何所在？」諸伴語言：「在前去者即是其人。」時宗親往到其所，而語之言：「汝是稱伽拔吒，云何語我乃云在後？」稱伽拔吒語諸宗親言：「稱伽拔吒非我身是，乃在伴中駝驢駄上。所以然者？我身頃來，宗親輕賤初不與語，聞有財寶乃復見迎，由是之故在後駄上。」宗親語言：「汝道何事，不解汝語？」稱伽拔吒即答之言：「我貧窮時共汝等語不見酬對，見我今者多諸財寶，乃設供具來迎逆我，乃為財來，不為我身。」發此喻者，喻如世尊，稱伽拔吒為得財物，鄉曲宗眷設供來迎，佛亦如是，既得成佛，人天鬼神諸龍王等悉來供養，非來供養我，乃供養作佛功德。我未得道時、無功德時，諸眾生等不共我語，況復供養？是故當知供養功德不供養我，雖復廣得一切諸天人等之所供養亦無增減，以觀察故。

> また、私はかつてこう聞きました。竺叉尸羅国に博羅吁羅村という村があり、そこにガンバータという商人がいて、僧伽藍（僧院）を建立したそうです。それは今も存在しています。 ガンバータはもともと裕福な家の息子で、財産がありましたが、後に衰えて貧乏になりました。彼の親族や親戚は皆、彼を軽蔑し、人間扱いしませんでした。彼は心配と苦しみから家を捨て、仲間と共に大秦国へ旅立ちました。そしてそこで莫大な財宝を得て、故郷に戻ってきました。 そのことを聞いた親族たちは、飲食や花や香、音楽や踊りを用意して、道まで迎えに出ました。その時、ガンバータは質素な服を着て、仲間の先頭に立って歩いていました。以前は貧しく年も若かった彼は、財宝を得た後は歳をとっており、迎えに来た親族たちは誰一人として彼だと気づきませんでした。彼らは尋ねました。「ガンバータはどこにいるのか？」すると彼は言いました。「今は後ろにいます。」彼らが仲間の集まりに行き、再び尋ねました。「ガンバータはどこにいるのか？」仲間たちは言いました。「先頭を歩いている人が彼です。」 親族たちは彼のところへ行き、言いました。「あなたこそがガンバータなのに、なぜ『後ろにいる』などと言うのですか？」ガンバータは親族たちに言いました。「ガンバータはこの私ではありません。ラクダやロバの背中の荷物の中にいるのです。なぜなら、私が貧しかった間、親族たちは私を軽んじて一言も話しかけてくれませんでした。財宝があると聞いて、初めて私を迎えに来たのです。だから私は後ろの荷物の中にいるのです。」親族たちは言いました。「あなたは何を言っているのですか？意味がわかりません。」ガンバータは答えました。「私が貧しかった時、あなたたちに話しかけても返事すらありませんでした。私が多くの財宝を持っていると見て、供え物を用意して迎えに来たのです。それは財宝のためであって、私自身のためではありません。」 このたとえ話が示すのは、世尊のようなものです。ガンバータが財物を得たために、故郷の親族たちが供え物を用意して迎えに来たように、仏もまた、悟りを開かれた後、人間、天人、鬼神、竜王など、すべての者がやって来て供養したのです。しかし彼らは私を供養しているのではなく、仏を成就させる功徳を供養しているのです。私がまだ道を得ていなかった時、功徳がなかった時、衆生は私に話しかけることすらしませんでした。ましてや供養などあり得ませんでした。だから知るべきです。彼らが供養しているのは功徳であって、私自身ではありません。たとえ多くの天人などすべての者から広く供養を受けても、私に増減はありません。このことをよく観察するからです。

「人天阿修羅，夜叉乾闥婆，如是等諸眾，亦廣設供養。佛無歡喜心，以善觀察故，是供諸功德，非為供養我。如稱伽拔吒，指示諸眷屬，稱己在後者，其喻亦如是。」

> 人間、天、阿修羅、 夜叉、乾闥婆といった 様々な者たちが、広く供養を施しました。 しかし仏は、その善く観察する智慧によって 喜ばれることはありませんでした。 これらの供養の功徳は、 私を供養するためのものではないからです。 ちょうど、秤伽抜吒が 自分の眷族に「後にいるのが私だ」と 指さして教えたという例えと同じです。

## 大莊嚴論經卷第十五

> 大荘厳論経 巻第十五