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title: "大般涅槃經 · 4"
description: "大般涅槃经是北凉时期著名译经师昙无谶所译的重要佛教经典，属于大乘涅槃部经典。该经主要阐述佛陀入灭前的最后教法，核心思想包括佛性论、常乐我净、涅槃四德等大乘佛教重要思想。经文详细记载了佛陀涅槃前后的经过，并系统论述了一切众生皆有佛性、皆能成佛的理论。此经在中国佛教史上影响深远，为天台宗、华严宗等宗派的重要理论依据，对汉传佛教的发展产生了重大影响。昙无谶译本语言优美流畅，是研究大乘佛教思想的重要文献。"
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## 大般涅槃經卷第十四

> 大般涅槃経 第十四巻

北涼天竺三藏曇無讖譯

> 北涼天竺三蔵曇無讖訳

### 聖行品第七之四

> 第七品 聖行品（その四）

「善男子！我觀諸行悉皆無常。云何知耶？以因緣故。若有諸法從緣生者，則知無常。是諸外道無有一法不從緣生。善男子！佛性無生、無滅、無去、無來，非過去、非未來、非現在，非因、所作、非無因作，非作、非作者，非相、非無相，非有名、非無名，非名、非色、非長、非短、非陰界入之所攝持，是故名常。善男子！佛性即是如來，如來即是法，法即是常。善男子！常者即是如來，如來即是僧，僧即是常。以是義故，從因生法，不名為常。是諸外道無有一法，不從因生。善男子！是諸外道不見佛性、如來及法，是故外道所可言說，悉是妄語，無有真諦。諸凡夫人，先見瓶衣、車乘舍宅、城郭河水、山林男女、象馬牛羊，後見相似，便言是常。當知其實，非是常也。善男子！一切有為，皆是無常；虛空無為是故為常，佛性無為是故為常。虛空者即是佛性，佛性者即是如來，如來者即是無為，無為者即是常。常者即是法，法者即是僧，僧即無為，無為者即是常。善男子！有為之法，凡有二種：色法、非色法。非色法者，心心數法。色法者，地、水、火、風。善男子！心名無常。何以故？性是攀緣相，應分別故。善男子！眼識性異，乃至意識性異，是故無常。善男子！色境界異，乃至法境界異，是故無常。善男子！眼識相應異，乃至意識相應異，是故無常。善男子！心若常者，眼識應獨緣一切法。善男子！若眼識異乃至意識異，則知無常。以法相似，念念生滅，凡夫見已，計之為常。善男子！諸因緣相，可破壞故，亦名無常。所謂因眼、因色、因明、因思惟、生於眼識，耳識生時，所因各異，非眼識因緣，乃至意識異亦如是。

> 「善男子よ、私はあらゆる営みがすべて無常であると観じています。どうして知るのでしょうか？それは原因と条件があるからです。もしどのような法であっても条件に従って生じるものであれば、それは無常であると知るべきです。これらの外道たちの説く法で、条件によらずに生じるものは一つもありません。 善男子よ、仏性は生じることもなく、滅することもなく、去ることもなく、来ることもありません。過去でもなく、未来でもなく、現在でもありません。因によって作られたものでもなく、因なくして作られたものでもなく、作るものでもなく、作る者でもなく、形のあるものでもなく、形のないものでもなく、名前のあるものでもなく、名前のないものでもなく、名前でもなく、形でもなく、長くもなく、短くもなく、五陰・十八界・十二入によって把握されるものではないのです。それゆえに「常」と名づけるのです。 善男子よ、仏性とはすなわち如来であり、如来とはすなわち法であり、法とはすなわち常なのです。 善男子よ、常なるものとはすなわち如来であり、如来とはすなわち僧であり、僧とはすなわち常なのです。この意味により、原因と条件から生じる法は「常」とは呼ばれません。これらの外道たちの説く法で、原因と条件によらずに生じるものは一つもないのです。 善男子よ、これらの外道たちは仏性・如来・法を見ることができないのです。それゆえに外道たちが語るところはすべて虚偽の言葉であり、真実の道理はありません。 普通の凡人たちは、まず瓶や衣、車や乗り物、家屋や家宅、城壁や堀、河や水、山や林、男や女、象や馬や牛や羊を見て、その後で似たようなものを見ると、「これは常である」と言います。しかし実際には、それは常ではないと知るべきです。 善男子よ、すべての作られたものはすべて無常です。虚空は作られたものではないので、それゆえに常であり、仏性も作られたものではないので、それゆえに常なのです。 虚空とはすなわち仏性であり、仏性とはすなわち如来であり、如来とはすなわち作られたものではなく、作られたものでないものとはすなわち常です。常とはすなわち法であり、法とはすなわち僧であり、僧とはすなわち作られたものではなく、作られたものでないものとはすなわち常なのです。 善男子よ、作られた法には、おおよそ二種類あります。物質的な法と、物質的でない法です。物質的でない法とは、心と心の働きに関わる法です。物質的な法とは、地・水・火・風です。 善男子よ、心は無常と名づけられます。なぜでしょうか？その性質が対象に向かって働き、それに応じて区別するからです。 善男子よ、眼の認識の性質も異なり、さらには意識の性質も異なるので、それゆえに無常なのです。 善男子よ、色の対象も異なり、さらには法の対象も異なるので、それゆえに無常なのです。 善男子よ、眼の認識に伴う働きも異なり、さらには意識に伴う働きも異なるので、それゆえに無常なのです。 善男子よ、もし心が常であるならば、眼の認識だけで全ての法を認識できるはずです。 善男子よ、もし眼の認識も異なり、さらには意識も異なるならば、それが無常であると知るべきです。法は互いに似通っており、瞬間瞬間に生まれては滅びていきます。凡人はそれを見て、「常である」と計り誤るのです。 善男子よ、様々な原因と条件の働きは壊れることができるものであるから、これもまた無常と名づけられます。すなわち、眼と色と光と思考によって眼の認識が生じます。耳の認識が生じるとき、その原因はそれぞれ異なっており、眼の認識の原因や条件ではありません。さらには意識が異なる場合も、これと同じように理解すべきです。」

「復次善男子！壞諸行因緣異故，心名無常。所謂修無常心異，修苦、空、無我心異。心若常者，應常修無常，尚不得觀苦、空、無我，況復得觀常、樂、我淨？以是義故，外道法中，不能攝取常樂我淨。善男子！當知心法必定無常。復次善男子！心性異故，名為無常。所謂聲聞心性異，緣覺心性異，諸佛心性異。一切外道心有三種：一者出家心，二者在家心，三者在家遠離心。樂相應心異，苦相應心異，不苦不樂相應心異，貪欲相應心異，瞋恚相應心異，愚癡相應心異。一切外道心相亦異，所謂愚癡相應心異，疑惑相應心異，邪見相應心異，進止威儀其心亦異。善男子！心若常者，亦復不能分別諸色，所謂青黃赤白紫色。善男子！心若常者，諸憶念法不應忘失。善男子！心若常者，凡所讀誦不應增長。復次善男子！心若常者，不應說言已作、今作、當作，若有已作、今作、當作，當知是心必定無常。善男子！心若常者，則無怨、親、非怨、非親。心若常者，則不應言我物、他物，若死、若生。心若常者，雖有所作，不應增長。善男子！以是義故，當知心性各各別異，有別異故當知無常。

> 「さらに、善男子よ。諸々の行を壊す因縁が異なることによって、心は無常と名づけられる。すなわち、無常の心を修することは異なり、苦・空・無我の心を修することも異なる。もし心が常であるならば、常に無常を修すべきであり、苦・空・無我を観ずることすらできないであろう。ましてや常・楽・我・浄を観ることなどできようか。この理によって、外道の教えには常・楽・我・浄を取り入れることができないのである。善男子よ、心という法は必ず無常であると知るべきである。 さらに、善男子よ。心の性質が異なることによって、無常と名づけられる。すなわち、声聞の心の性質は異なり、縁覚の心の性質は異なり、諸仏の心の性質も異なる。すべての外道の心には三種がある。一つは出家の心、二つは在家の心、三つは在家にありながら遠離する心である。楽に相応する心は異なり、苦に相応する心は異なり、苦でも楽でもないことに相応する心は異なり、貪欲に相応する心は異なり、瞋恚に相応する心は異なり、愚癡に相応する心も異なる。すべての外道の心の相もまた異なる。すなわち、愚癡に相応する心は異なり、疑惑に相応する心は異なり、邪見に相応する心は異なり、進み止まり威儀をとる時もその心は異なるのである。 善男子よ。もし心が常であるならば、種々の色を分別することもできないはずである。すなわち、青・黄・赤・白・紫の色である。善男子よ。もし心が常であるならば、諸々の記憶すべきことは忘れ去られるべきではない。善男子よ。もし心が常であるならば、読誦するものも増長すべきではない。 さらに、善男子よ。もし心が常であるならば、「すでに作った」「今作る」「将来作るであろう」と言うべきではない。もし「すでに作った」「今作る」「将来作るであろう」ということがあるならば、この心は必ず無常であると知るべきである。 善男子よ。もし心が常であるならば、怨み、親しみ、怨みでもなく親しみでもないものもないはずである。もし心が常であるならば、「我が物」「他人の物」「死ぬ」「生まれる」と言うべきではない。もし心が常であるならば、何かを作っても増長すべきではない。 善男子よ。この理によって、心の性質はそれぞれ異なるものであり、異なるものがあるがゆえに無常であると知るべきである。」

「善男子！我今於此非色法中，演說無常，其義已顯。復當為汝說色無常。是色無常，本無有生，生已滅故。內身處胎歌羅邏時，本無有生，生已變故；外諸牙莖，本亦無生，生已變故；是故當知一切色法，悉皆無常。善男子！所有內色，隨時而變，歌羅邏時異、安浮陀時異、伽那時異、閉手時異、諸疱時異、初生時異、嬰孩時異、童子時異、乃至老時各各變異。所謂外色亦復如是，牙異、莖異、枝異、葉異、花異、果異。復次善男子！內味亦異，歌羅邏時乃至老時，各各變異。外味亦爾，牙、莖、枝、葉、花、果味異。歌羅邏時力異，乃至老時力異。歌羅邏時狀貌異，乃至老時狀貌亦異。歌羅邏時果報異，乃至老時果報亦異。歌羅邏時名字異，乃至老時名字亦異。所謂內色，壞已還合，故知無常。外諸樹木，亦壞已還合，故知無常。次第漸生，故知無常。次第生歌羅邏時乃至老時，次第生牙乃至果子，故知無常。諸色可滅，故知無常。歌羅邏滅時異，乃至老滅時異。牙滅時異乃至果滅時異，故知無常。凡夫無知，見相似生，計以為常。以是義故，名曰無常。若無常即是苦，若苦即是不淨。

> 「善男子よ、私は今この色ではない法について、無常を説き明かした。その意味はすでに明らかとなった。次に、あなたのために色の無常について説こう。この色の無常というのは、本来、生じることがない。生じたものはすでに滅するからである。体内で胎児の初期段階にある時、本来、生じることはない。生じたものはすでに変化するからである。外の芽や茎も、本来、生じることはない。生じたものはすでに変化するからである。それゆえ、すべての色法は、ことごとく無常であると知るべきである。 善男子よ、すべての内なる色は、時とともに変化する。胎児の初期段階である時も異なり、次の段階である時も異なり、その次の段階である時も異なり、さらに後の段階である時も異なり、諸々の塊ができる時も異なり、生まれたばかりの時も異なり、幼児の時も異なり、少年の時も異なり、ついには老年の時にも、それぞれ変化していくのである。 外なる色もまた、これと同じである。芽も異なり、茎も異なり、枝も異なり、葉も異なり、花も異なり、果実も異なるのである。 さらに善男子よ、内なる味も異なる。胎児の初期段階の時から老年の時に至るまで、それぞれ変化していくのである。外なる味もまた、これと同じである。芽、茎、枝、葉、花、果実の味も、それぞれ異なるのである。 胎児の初期段階の時には力も異なり、老年の時に至るまで力も異なる。胎児の初期段階の時には姿形も異なり、老年の時に至るまで姿形も異なる。胎児の初期段階の時には果報も異なり、老年の時に至るまで果報も異なる。胎児の初期段階の時には名前も異なり、老年の時に至るまで名前も異なるのである。 いわゆる内なる色は、壊れた後に再び結び合わさる。それゆえ、無常であると知るべきである。外なる樹木もまた、壊れた後に再び結び合わさる。それゆえ、無常であると知るべきである。順を追って徐々に生じる。それゆえ、無常であると知るべきである。 順を追って胎児の初期段階から老年の時に至るまで生じ、順を追って芽から果実に至るまで生じる。それゆえ、無常であると知るべきである。 諸々の色は滅することができる。それゆえ、無常であると知るべきである。胎児の初期段階が滅する時も異なり、老年に至って滅する時も異なる。芽が滅する時も異なり、果実が滅する時まで異なる。それゆえ、無常であると知るべきである。 凡夫は無知であるがゆえに、似たようなものが生じるのを見て、これを永遠のものであると思い込むのである。 このような理由によって、これを無常と名付ける。もし無常であるならば、それはすなわち苦である。もし苦であるならば、それはすなわち清らかならざるものである。」

「善男子！我因迦葉先問是事，於彼已答。

> 善男子よ、私は迦葉が先にこのことを尋ねたので、その時にすでに答えを述べたのだ。

「復次善男子！諸行無我。善男子！總一切法，謂色、非色。色非我也。何以故？可破、可壞、可裂、可打、生增長故。我者不可破壞、裂打、生長，以是義故，知色非我。非色之法亦復非我。何以故？因緣生故。善男子！若諸外道以專念故，知有我者，專念之性實非我也。若以專念為我性者，過去之事則有忘失，有忘失故定知無我。善男子！若諸外道以憶想故知有我者，無憶想故定知無我。如說見人手有六指，即便問言：『我先何處共相見耶？』若有我者，不應復問；以相問故，定知無我。善男子！若諸外道以有遮故，知有我者，善男子！以有遮故，定知無我。如言調達，終不發言非調達也。我亦如是，若定是我，終不遮我；以遮我故，定知無我。若以遮故，知有我者，汝今不遮，定應無我。善男子！若諸外道，以伴非伴知有我者，以無伴故，應無有我。有法無伴，所謂如來、虛空、佛性，我亦如是實無有伴，以是義故，定知無我。復次善男子！若諸外道以名字故，知有我者，無我法中，亦有我名，如貧賤人名字富貴。如言我死，若我死者，我則殺我，而我實不可殺，假名殺我；亦如矬人，名為長者。以是義故，定知無我。

> 「さらに、善男子よ。すべての行（形成されたもの）は無我である。善男子よ。すべての法を総じて言えば、色（物質的なもの）と非色（物質でないもの）とに分けられる。色は我ではない。なぜか。色は壊れ、破られ、裂かれ、打たれ、生じ成長するからである。我とは壊れず、破られず、裂かれず、打たれず、生じ成長することのないものである。この道理により、色が我でないと知るべきである。非色の法もまた我ではない。なぜか。因縁によって生じるからである。 善男子よ。もし外道たちが、専念（心を一つの対象に集中すること）によって我があると知ると言うならば、その専念という性質そのものは実に我ではない。もし専念を我の性質とするならば、過去のことは忘れられることがある。忘れられることがある以上、我はないと確かに知るべきである。 善男子よ。もし外道たちが、記憶や想念によって我があると知ると言うならば、記憶や想念がない時がある以上、我はないと確かに知るべきである。たとえば、人の手に六本の指があるのを見て、その人に『私は以前、どこであなたに会ったでしょうか』と尋ねるようなものである。もし本当に我があるならば、そのような質問はしないはずである。質問をするということは、我がないと確かに知るべきである。 善男子よ。もし外道たちが、否定すること（遮）によって我があると知ると言うならば、善男子よ。否定があることによって、我はないと確かに知るべきである。たとえば、『調達』と言えば、決して『調達ではない』とは言わない。我もまた同じである。もし我が確かに我であるならば、決して我を否定することはないはずである。我を否定するということは、我がないと確かに知るべきである。もし否定によって我があると知るならば、あなたが今否定しない時には、必ず我がないはずである。 善男子よ。もし外道たちが、伴（とも）があるかないかによって我があると知ると言うならば、伴がない以上、我はないはずである。伴のない法がある。すなわち如来、虚空、仏性である。我もまた実に伴がない。この道理により、我がないと確かに知るべきである。 さらに、善男子よ。もし外道たちが、名前によって我があると知ると言うならば、我のない法にも我という名前はあるものである。たとえば、貧しく賤しい人に富貴という名前を付けるようなものである。また、『我が死ぬ』と言うことがある。もし我が死ぬならば、我が我を殺すことになるが、我は実に殺されることのないものであり、仮に名前だけで『我を殺す』と言うのである。また、背の低い人を長者と呼ぶようなものである。この道理により、我がないと確かに知るべきである。」

「復次善男子！若諸外道，以生已求乳知有我者，善男子！若有我者，一切嬰兒不應執持糞穢、火蛇、毒藥，以是義故，定知無我。復次善男子！一切眾生於三法中，悉有等智，所謂婬欲、飲食恐怖，是故無我。復次善男子！若諸外道以相貌故，知有我者，善男子！相故無我，無相故亦無我。若人睡時，不能進止、俯仰視眴、不覺苦樂，不應有我。若以進止、俯仰視眴，知有我者，機關木人亦應有我。善男子！如來亦爾，不進、不止、不俯、不仰、不視、不眴，不苦、不樂、不貪、不恚、不癡、不行，如來如是真實有我。復次善男子！若諸外道以見他食果口中生涎，知有我者，善男子！以憶念故，見則生涎，涎非我也。我亦非涎、非喜非悲、非欠非笑，非臥非起、非飢非飽，以是義故，定知無我。

> 「また、善男子よ。もし外道たちが、生まれた後に乳を求めることから私（我）があると知るならば、善男子よ。もし私（我）があるならば、すべての幼児が糞尿や火、蛇、毒薬を握るはずがない。この理由により、必ず無我であると知るべきである。 また、善男子よ。すべての衆生は三つのことについて、みな等しく知る智慧を持っている。それは、欲望、飲食、恐怖である。ゆえに無我である。 また、善男子よ。もし外道たちが外見や形によって私（我）があると知るならば、善男子よ。形によっても無我であり、形がなくても無我である。人が眠っているときは、進んだり止まったり、うつむいたり仰いだり、見つめたりまばたきしたりすることができず、苦しみも楽しみも感じない。それならば私（我）があるべきではない。もし進んだり止まったり、うつむいたり仰いだり、見つめたりまばたきしたりすることによって私（我）があると知るならば、からくり人形もまた私（我）があることになるだろう。善男子よ。如来もまた同じである。進まず、止まらず、うつむかず、仰がず、見ず、まばたきせず、苦しまず、楽しまず、貪らず、怒らず、痴れず、行じない。如来はこのように真実の私（我）を持つのである。 また、善男子よ。もし外道たちが、他人が果物を食べるのを見て口の中に唾液が生じることから私（我）があると知るならば、善男子よ。記憶・回想によって、見れば唾液が生じるのであり、唾液は私（我）ではない。私（我）は唾液でもなく、喜びでもなく、悲しみでもなく、あくびでも笑いでもなく、横になるのでも起きるのでもなく、飢えでも満腹でもない。この理由により、必ず無我であると知るべきである。」

「善男子！是諸外道癡如小兒，無慧方便，不能了達常與無常、苦樂、淨不淨、我無我、壽命非壽命、眾生非眾生、實非實、有非有，於佛法中取少許分，虛妄計有常、樂、我、淨，而實不知常樂我淨。如生盲人不識乳色，便問他言：『乳色何似？』他人答言：『色白如貝。』盲人復問：『是乳色者如貝聲耶？』答言：『不也。』復問：『貝色為何似耶？』答言：『猶稻米末。』盲人復問：『乳色柔軟如稻米末耶？稻米末者復何所似？』答言：『猶如雨雪。』盲人復言：『彼稻米末冷如雪耶？雪復何似？』答言：『猶如白鶴。』是生盲人雖聞如是四種譬喻，終不能得識乳真色。是諸外道亦復如是，終不能識常樂我淨。善男子！以是義故，我佛法中有真實諦，非於外道。」

> 「善男子よ。これらの外道たちは愚かで、まるで幼い子供のようなものです。智慧も方便もなく、常と無常、苦と楽、清浄と不清浄、我と無我、寿命と非寿命、衆生と非衆生、実と非実、有と非有を正しく理解することができません。彼らは仏法の中からわずかな部分だけを取り出して、誤って「常・楽・我・浄」があると妄想しますが、実際には常・楽・我・浄の真の意味を知らないのです。 ちょうど生まれつき目の見えない人が乳の色を知らずに、他人に「乳の色はどのようなものか」と尋ねるようなものです。相手が「貝殻のように白い」と答えると、盲人はまた尋ねます。「乳の色は貝殻の音のようなものか？」相手は「違う」と答えます。盲人はさらに尋ねます。「では貝殻の色はどのようなものか？」相手は「稲の粉のようなものだ」と答えます。盲人はまた尋ねます。「乳の色は稲の粉のように柔らかいのか？ 稲の粉とはどのようなものか？」相手は「雪のようなものだ」と答えます。盲人は言います。「稲の粉は雪のように冷たいのか？ 雪とはどのようなものか？」相手は「白い鶴のようなものだ」と答えます。 この生まれつき目の見えない人は、このような四つの譬えを聞いても、結局乳の本当の色を認識することはできません。これらの外道たちもまったく同じで、常・楽・我・浄の真実を認識することが決してできないのです。 善男子よ。そのようなわけで、私の仏法の中には真実の諦があり、それは外道にはないものなのである。」

文殊師利白佛言：「希有世尊！如來於今臨般涅槃，方更轉於無上法輪，乃作如是分別真諦。」

> 文殊師利が仏に申し上げた。「稀有なことです、世尊よ。如来は今まさに涅槃に入ろうとしておられるのに、改めてこの上ない法の輪を転じ、このように真実の教えを詳しく説かれるのです。」

佛告文殊師利：「汝今云何故於如來生涅槃想？善男子！如來實是常住不變，不般涅槃。善男子！若有計我是佛，我成阿耨多羅三藐三菩提。我即是法，法是我所。我即是道，道是我所。我即世尊，世尊即是我所。我即聲聞，聲聞即是我所。我能說法，令他聽受，我轉法輪，餘人不能。如來終不作如是計，是故如來不轉法輪。善男子！若有人作如是妄計，我即是眼，眼即是我所，耳鼻舌身意亦復如是。我即是色，色是我所，乃至法亦如是。我即是地，地即是我所，水火風等亦復如是。善男子！若有人言，我即是信，信是我所。我是多聞，多聞即是我所。我是檀波羅蜜，檀波羅蜜即是我所。我是尸波羅蜜，尸波羅蜜即是我所。我是羼提波羅蜜羼提波羅蜜，即是我所。我是毘梨耶波羅蜜，毘梨耶波羅蜜即是我所。我是禪波羅蜜，禪波羅蜜即是我所。我是般若波羅蜜，般若波羅蜜即是我所。我是四念處，四念處即是我所。四正勤、四如意足、五根五力、七覺分八聖道分，亦復如是。善男子！如來終不作如是計，是故如來不轉法輪。善男子！若言常住無有變易，云何說言佛轉法輪？是故汝今不應說言，如來方更轉於法輪。

> 仏は文殊師利に告げられた。「あなたはなぜ、如来について涅槃に入ったという考えを起こすのか。善男子よ、如来は実に常住であり、変わることがなく、涅槃に入ることはないのである。善男子よ、もし『私は仏である、私は無上正等覚を成就した』と考える者がいるならば――『私は法であり、法は私のものである。私は道であり、道は私のものである。私は世尊であり、世尊は私のものである。私は声聞であり、声聞は私のものである。私は説法して他者に聴かせることができ、私は法輪を転じ、他の者にはそれができない』と考える者があっても、如来は決してそのような考えを持たない。それゆえ、如来は法輪を転じることはないのである。善男子よ、もし人がこのような誤った考えを起こすならば――『私は眼であり、眼は私のものである。耳・鼻・舌・身・意もまた同様である。私は色であり、色は私のものである。さらに法に至るまでも同様である。私は地であり、地は私のものである。水・火・風などもまた同様である』と。善男子よ、もし人がこう言うならば――『私は信であり、信は私のものである。私は多聞であり、多聞は私のものである。私は檀波羅蜜（布施の完成）であり、檀波羅蜜は私のものである。私は尸波羅蜜（戒の完成）であり、尸波羅蜜は私のものである。私は羼提波羅蜜（忍辱の完成）であり、羼提波羅蜜は私のものである。私は毘梨耶波羅蜜（精進の完成）であり、毘梨耶波羅蜜は私のものである。私は禅波羅蜜（禅定の完成）であり、禅波羅蜜は私のものである。私は般若波羅蜜（智慧の完成）であり、般若波羅蜜は私のものである。私は四念処であり、四念処は私のものである。四正勤・四如意足・五根・五力・七覚分・八聖道分もまた同様である』と。善男子よ、如来は決してそのような考えを持たない。それゆえ、如来は法輪を転じることはないのである。善男子よ、もし『常住であり変化がない』と言うならば、どうして『仏が法輪を転じた』と言えるだろうか。それゆえ、あなたは今、『如来が再び法輪を転じる』と言うべきではないのである。」

「善男子！譬如因眼，緣色、緣明、緣思惟，因緣和合，得生眼識。善男子！眼不念言，我能生識；色乃至思惟，終不念言我生眼識，眼識亦復不作念言，我能自生。善男子！如是等法，因緣和合，得名為見。善男子！如來亦爾，因六波羅蜜、三十七助菩提之法，覺了諸法，復因咽喉、舌齒脣口、言語音聲，為憍陳如初始說法，名轉法輪。以是義故，如來不名轉法輪也。

> 「善き人よ。例えば、眼という器官と、色という対象と、光と、心の働きが、縁として集まり合わさって、初めて眼識（視覚の認識）が生じる。善き人よ、眼は『私が認識を生み出すのだ』とは思わない。色（対象）から心の働きに至るまで、『私が眼識を生み出すのだ』とは決して思わない。また眼識もまた、『私が自ら生じるのだ』とは考えない。善き人よ、このように様々な要素が縁によって集まり合わさって、初めて『見る』と名付けられるのである。 善き人よ、如来もまた同じである。六波羅蜜（布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つの修行）と三十七種の悟りへ至る善法によって、すべての真理を悟られる。さらに、のど・舌・歯・唇・口・声・言葉という縁に基づいて、最初の弟子である憍陳如のために説法を始められた。これを『法輪を回す』と名付ける。 しかし、このような意味において、如来は決して『法輪を回す者』と思っておられるわけではないのだ。」

「善男子！若不轉者，即名為法，法即如來。善男子！譬如因燧、因鑽、因手、因乾牛糞，而得生火，燧亦不言我能生火，鑽手牛糞各不念言我能生火，火亦不言我能自生。如來亦爾，因六波羅蜜，乃至憍陳如，名轉法輪。如來亦復不生念言，我轉法輪。

> 「善男子よ。もし転じないのであれば、それを法と名づけ、法こそが如来である。善男子よ、たとえば、火打ち石と、きりもみ棒と、手と、乾いた牛の糞とによって火が生じるように、火打ち石も「私が火を生じる」とは言わず、きりもみ棒も手も牛の糞も「私が火を生じる」とは思わない。火もまた「私が自ら生じた」とは言わない。如来もまた同じである。六波羅蜜から、さらには橋陳如（きょうちんにょ）に至るまで、これを法輪を転ずると名づける。如来もまた、「私が法輪を転じた」という思いを起こすことはないのである。」

「善男子！若不生者，是則名為轉正法輪，是轉法輪，即名如來。善男子！譬如因酪、因水、因攢、因瓶、因繩、因人手捉，而得出蘇，酪不念言我能出蘇，乃至人手亦不念言我能出蘇，蘇亦不言我能自出，眾緣和合，故得出蘇。如來亦爾，終不念言我轉法輪。

> 「善男子よ。もし生ずることがないならば、これを正しい法輪を転ずる、と名づける。この法輪を転ずることは、すなわちこれを如来と名づける。善男子よ。たとえば、酪（らく）と水と攢（さん）と瓶（へい）と縄と人が手で持つことによって、酥（そ）が得られる。酪は『私が酥を出すのだ』とは思わない。人手もまた『私が酥を出すのだ』とは思わない。酥もまた『私が自分で出るのだ』とは言わない。すべての条件が寄り集まって、はじめて酥が得られるのである。如来もまた同じで、決して『私が法輪を転ずるのだ』とは思われないのである。」

「善男子！若不出者，是則名為轉正法輪，是轉法輪即是如來。善男子！譬如因子、因地、因水、因火、因風、因糞、因時、因人作業，而牙得生。善男子！子亦不言我能生牙，乃至作業亦不念言我能生牙，牙亦不言我能自生。如來亦爾，終不念言，我轉法輪。

> 「善男子よ。もし（世間から）出て行かないのであれば、これを『正しい法の輪を回す』と呼び、その法の輪を回すことこそが如来である。善男子よ、たとえば、種子、土地、水、火、風、肥料、季節、人の働きかけによって、芽が生じるようなものだ。善男子よ、種子も『私は芽を生じさせる』とは言わず、働きかけも『私は芽を生じさせる』とは思わない。芽も『私が自ら生じる』とは言わない。如来も同じで、決して『私は法の輪を回す』とは思われないのだ。」

「善男子！若不能者，是則名為轉正法輪，是轉法輪即是如來。善男子！譬如因鼓、因空、因皮、因人、因桴和合出聲，鼓不念言我能出聲，乃至桴亦如是，聲亦不言我能自生。善男子！如來亦爾，終不念言我轉法輪。善男子！轉法輪者名為不作，不作者即轉法輪。轉法輪者即是如來。善男子！轉法輪者乃是諸佛世尊境界，非諸聲聞緣覺所知。善男子！虛空非生、非出、非作、非造、非有為法。如來亦爾，非生、非出、非作、非造、非有為法。如如來性，佛性亦爾，非生、非出、非作、非造、非有為法。

> 善き男子よ！もしそれができないならば、これを正法輪を転ずると名づける。この法輪を転ずることは、すなわち如来である。善き男子よ！たとえば、鼓と、その中の空間と、皮と、人と、ばちとが和合して音を生じるようなものである。鼓は「私が音を出すのだ」と思わない。ばちもまた同様であり、音も「私が自ら生じたのだ」とは言わない。善き男子よ！如来もまた同じであり、決して「私が法輪を転ずるのだ」とは思われない。善き男子よ！法輪を転ずると名づけられるものは、「なすことのない」ものとされる。「なすことのない」ものが、すなわち法輪を転ずることである。法輪を転ずるもの、それがすなわち如来である。善き男子よ！法輪を転ずることは、諸仏世尊の境地であって、声聞や縁覚の知るところではない。善き男子よ！虚空は、生ぜず、出でず、作らず、造らず、有為の法ではない。如来もまた同様に、生ぜず、出でず、作らず、造らず、有為の法ではない。如来の性質がそのままであるように、仏性もまたそのとおりであり、生ぜず、出でず、作らず、造らず、有為の法ではないのである。

「善男子！諸佛世尊語有二種：一者世語，二者出世語。善男子！如來為諸聲聞緣覺說於世語，為諸菩薩說出世語。善男子！是諸大眾復有二種：一者求小乘，二者求大乘。我於昔日波羅㮈城，為諸聲聞轉于法輪；今始於此拘尸那城，為諸菩薩轉大法輪。復次善男子！復有二人：中根、上根。為中根人，於波羅㮈轉於法輪；為上根人，人中象王，迦葉菩薩等，今於此間拘尸那城，轉大法輪。善男子！極下根者如來終不為轉法輪，極下根者即一闡提。復次善男子！求佛道者復有二種：一中精進，二上精進。於波羅㮈，為中精進轉於法輪；今於此間拘尸那城，為上精進轉大法輪。復次善男子！我昔於彼波羅㮈城初轉法輪，八萬天人得須陀洹果；今於此間拘尸那城，八十萬億人不退轉於阿耨多羅三藐三菩提。復次善男子！波羅㮈城，大梵天王稽首請我轉於法輪；今於此間拘尸那城，迦葉菩薩稽首請我轉大法輪。復次善男子！我昔於彼波羅㮈城轉法輪時，說無常、苦、空、無我；今於此間拘尸那城轉法輪時，說常、樂、我、淨。

> 「善男子よ、諸仏世尊の教えには二種ある。一つは世俗の言葉、二つ目は世俗を超えた言葉である。善男子よ、如来は声聞や縁覚のために世俗の言葉を説き、菩薩たちのために世俗を超えた言葉を説くのだ。 善男子よ、この大衆にもまた二種ある。一つは小乗を求める者、二つ目は大乗を求める者である。私はかつてバラナシの都で、声聞たちのために法の輪を回した。そして今、このクシナガラの都で、菩薩たちのために大いなる法の輪を回すのである。 また、善男子よ、人には二種ある。中ぐらいの素質の人と、すぐれた素質の人である。中ぐらいの素質の人には、バラナシで法の輪を回した。すぐれた素質の人―人の中の象王たる迦葉菩薩などのために、今ここクシナガラの都で、大いなる法の輪を回すのである。 善男子よ、最も劣った素質の人には、如来は決して法の輪を回さない。最も劣った素質の人とは、すなわち一闡提のことである。 また、善男子よ、仏道を求める者にも二種ある。一つは中ぐらいの精進、二つ目はすぐれた精進である。バラナシでは、中ぐらいの精進の人々のために法の輪を回した。今ここクシナガラの都では、すぐれた精進の人々のために大いなる法の輪を回すのである。 また、善男子よ、私はかつてあのバラナシの都で初めて法の輪を回したとき、八万の天人は須陀洹の悟りを得た。今ここクシナガラの都では、八十万億の人が、阿耨多羅三藐三菩提から退くことのない境地に至ったのである。 また、善男子よ、バラナシの都では、大梵天王が頭を下げて私に法の輪を回すよう願った。今ここクシナガラの都では、迦葉菩薩が頭を下げて私に大いなる法の輪を回すよう願っているのである。 また、善男子よ、私はかつてあのバラナシの都で法の輪を回したとき、無常・苦・空・無我を説いた。今ここクシナガラの都で法の輪を回すときには、常・楽・我・浄を説くのである。」

「復次善男子！我昔於彼波羅㮈城轉法輪時，所出音聲聞于梵天；如來今於拘尸那城轉法輪時，所出音聲，遍於東方二十恒河沙等諸佛世界，南西北方、四維上下，亦復如是。復次善男子！諸佛世尊凡有所說，皆悉名為轉法輪也。善男子！譬如聖王所有輪寶，未降伏者能令降伏，已降伏者能令安隱。善男子！諸佛世尊凡所說法，亦復如是，無量煩惱未調伏者，能令調伏，已調伏者令生善根。善男子！譬如聖王所有輪寶，則能消滅一切怨賊。如來演法亦復如是，能令一切諸煩惱賊，皆悉寂靜。復次善男子！譬如聖王所有輪寶，下上迴轉。如來說法亦復如是，能令下趣諸惡眾生，上生人天乃至佛道。善男子！是故汝今不應讚言，如來於此更轉法輪。」

> また、善男子よ。私は昔、波羅㮈城で法輪を転じたとき、その音声は梵天にまで届いた。如来が今、拘尸那城で法輪を転じるならば、その音声は東方の二十恒河沙の諸仏の世界に広がり、南・西・北の方角、四隅、上下にも、同じように届くであろう。 さらに善男子よ。諸仏世尊が説くところのものは、すべて法輪を転ずると名づけられる。善男子よ。たとえば聖王が持つ輪宝は、まだ降伏していない者を降伏させ、すでに降伏した者を安らかにする。善男子よ。諸仏世尊が説く法もまた同じで、無量の煩悩をまだ調伏していない者は調伏させ、すでに調伏した者には善根を生じさせる。 善男子よ。たとえば聖王の輪宝が、すべての怨敵や賊を滅ぼすように、如来の説法もまた同じで、すべての煩悩という賊を静まり寂れさせることができる。 さらに善男子よ。たとえば聖王の輪宝が、上下に回転するように、如來說法もまた同じで、下の悪趣に堕ちた衆生を、人や天の世界、さらには仏道にまで上らせることができる。 善男子よ。それゆえ、あなたは「如来はここでさらに法輪を転じた」と讚えてはならないのである。

爾時文殊師利白佛言：「世尊！我於此義非為不知，所以問者，為欲利益諸眾生故。世尊！我已久知轉法輪者，實是諸佛如來境界，非是聲聞緣覺所知。」

> その時、文殊師利（もんじゅしり）は仏に申し上げました。「世尊よ、私はこの意味を知らないわけではありません。あえて問うのは、すべての衆生を利益するためです。世尊よ、私はすでに長い間、法輪を転じることが、実に諸仏如来の境地であり、声聞や縁覚の知るところではないと理解しております。」

爾時世尊告迦葉菩薩：「善男子！是名菩薩住於大乘大涅槃經所行聖行。」

迦葉菩薩白佛言：「世尊！復以何義名為聖行？」「善男子！聖名諸佛世尊，以是義故，名為聖行。」

「世尊！若是諸佛之所行者，則非聲聞、緣覺、菩薩所能修行。」

「善男子！是諸世尊安住於此大般涅槃，而作如是開示分別，演說其義，以是義故，名曰聖行。聲聞緣覺及諸菩薩如是聞已，則能奉行，故名聖行。善男子！是菩薩摩訶薩得是行已，則得住於無所畏地。善男子！若有菩薩得住如是無所畏地，則不復畏貪恚愚癡、生老病死，亦復不畏惡道、地獄、畜生餓鬼。善男子！惡有二種：一者阿修羅，二者人中。人中有三種惡：一者一闡提，二者誹謗方等經典，三者犯四重禁。善男子：住是地中諸菩薩等，終不畏墮如是惡中；亦復不畏沙門、婆羅門、外道邪見、天魔波旬；亦復不畏受二十五有；是故此地，名無所畏。善男子！菩薩摩訶薩住無畏地，得二十五三昧，壞二十五有。善男子！得無垢三昧能壞地獄有，得無退三昧能壞畜生有，得心樂三昧能壞餓鬼有，得歡喜三昧能壞阿修羅有，得日光三昧能斷弗婆提有，得月光三昧能斷瞿耶尼有，得熱炎三昧能斷欝單越有，得如幻三昧能斷閻浮提有，得一切法不動三昧能斷四天處有，得難伏三昧能斷三十三天處有，得悅意三昧能斷炎摩天有，得青色三昧能斷兜率天有，得黃色三昧能斷化樂天有，得赤色三昧能斷他化自在天有，得白色三昧能斷初禪有，得種種三昧能斷大梵天有，得雙三昧能斷二禪有，得雷音三昧能斷三禪有，得霔雨三昧能斷四禪有，得如虛空三昧能斷無想有，得照鏡三昧能斷淨居阿那含有，得無礙三昧能斷空處有，得常三昧能斷識處有，得樂三昧能斷不用處有，得我三昧能斷非想非非想處有。善男子！是名菩薩得二十五三昧，斷二十五有。

「善男子！如是二十五三昧，名諸三昧王。善男子！菩薩摩訶薩入如是等諸三昧王，若欲吹壞須彌山王隨意即能，欲知三千大千世界所有眾生心之所念亦悉能知，欲以三千大千世界所有眾生內於己身一毛孔中隨意即能，亦令眾生無迫迮想，若欲化作無量眾生悉令充滿三千大千世界中者亦能隨意，欲分一身以為多身，復合多身以為一身，雖作如是，心無所著，猶如蓮花。善男子！菩薩摩訶薩得入如是三昧王已，即得住於自在之地。菩薩得住是自在地，得自在力，隨欲生處，即得往生。善男子！譬如聖王領四天下，隨意所行無能障礙。菩薩摩訶薩亦復如是，一切生處若欲生者，隨意往生。善男子！菩薩摩訶薩若見地獄一切眾生，有可化令住善根者，菩薩即往而生其中。菩薩雖生，非本業果；菩薩摩訶薩住自在地力因緣故，而生其中。善男子！菩薩摩訶薩雖在地獄，不受熾然、碎身等苦。善男子！菩薩摩訶薩所可成就如是功德，無量無邊百千萬億尚不可說，何況諸佛所有功德而當可說？」

爾時眾中有一菩薩，名住無垢藏王，有大威德，成就神通，得大總持三昧，具足得無所畏，即從座起，偏袒右肩，右膝著地，長跪合掌白佛言：「世尊！如佛所說，諸佛菩薩所可成就功德智慧無量無邊百千萬億實不可說。我意猶謂，故不如是大乘經典。何以故？因是大乘方等經力故，能出生諸佛世尊阿耨多羅三藐三菩提。」

時佛讚言：「善哉，善哉！善男子！如是，如是，如汝所說。是諸大乘方等經典，雖復成就無量功德，欲比是經不得為喻，百倍、千倍、百千萬億倍，乃至算數譬喻所不能及。善男子！譬如從牛出乳，從乳出酪，從酪出生穌，從生穌出熟穌，從熟穌出醍醐，醍醐最上，若有服者眾病皆除，所有諸藥，悉入其中。善男子！佛亦如是，從佛出生十二部經，從十二部經出修多羅，從修多羅出方等經，從方等經出般若波羅蜜，從般若波羅蜜出大涅槃，猶如醍醐。言醍醐者，喻於佛性，佛性者即是如來。善男子！以是義故，說言如來所有功德無量無邊不可稱計。」

迦葉菩薩白佛言：「世尊！如佛所讚，大涅槃經猶如醍醐最上最妙，若有能服，眾病悉除，一切諸藥悉入其中。我聞是已，竊復思念，若有不能聽受是經，當知是人，為大愚癡無有善心。世尊！我於今者，實能堪忍剝皮為紙、刺血為墨、以髓為水、折骨為筆，書寫如是大涅槃經，書已讀誦，令其通利，然後為人廣說其義。世尊！若有眾生貪著財物，我當施財，然後以是大涅槃經，勸之令讀。若尊貴者，先以愛語而隨其意，然後漸當以是大乘大涅槃經勸之令讀。若凡庶者，當以威勢，逼之令讀。若憍慢者，我當為其而作僕使，隨順其意令其歡喜，然後當以大般涅槃而教導之。若有誹謗大乘經者，當以勢力摧之令伏，既摧伏已，然後勸之令讀大涅槃經。若有愛樂大乘經者，我躬當往，恭敬供養、尊重讚歎。」

爾時佛讚迦葉菩薩：「善哉，善哉！汝甚愛樂大乘經典、貪大乘經、愛大乘經、味大乘經，信敬尊重供養大乘。善男子！汝今以此善心因緣，當得超越無量無邊恒河沙等諸大菩薩，在前得成阿耨多羅三藐三菩提，汝亦不久復當如我，廣為大眾演說如是大般涅槃、如來、佛性，諸佛所說祕密之藏。善男子！過去之世，佛日未出，我於爾時，作婆羅門，修菩薩行，悉能通達一切外道所有經論。修寂滅行，具足威儀，其心清淨，不為外來能生欲想之所破壞，滅瞋恚火，受持常、樂、我、淨之法，周遍求索大乘經典，乃至不聞方等名字。我於爾時住於雪山，其山清淨，流泉浴池、樹林藥木，充滿其地，處處石間有清流水，多諸香花周遍嚴飾，眾鳥禽獸不可稱計，甘果滋繁種別難計。復有無量藕根、甘根、青木香根。我於爾時獨處其中，唯食諸果，食已繫心思惟坐禪，經無量歲，亦不聞有如來出世大乘經名。善男子！我修如是難行、苦行時，釋提桓因等諸天人心大驚怪，即共集會，各各相謂，而說偈言：

「『各共相指示， 清淨雪山中，寂靜離欲主， 功德莊嚴王。以離貪瞋慢， 永斷諂愚癡，口初未曾說， 麁惡等語言。』

「爾時眾中有一天子，名曰歡喜，復說偈言：

「『如是離欲人， 清淨勤精進，將不求帝釋， 及以諸天耶？若是外道者， 修行諸苦行，是人多欲求， 帝釋所坐處。』

「爾時復有一仙天子，即為帝釋而說偈言：

「『天主憍尸迦！ 不應生此慮，外道修苦行， 何必求帝處？』

「說是偈已復作是言：『憍尸迦！世有大士，為眾生故不貪己身，為欲利益諸眾生故，而修種種無量苦行。如是之人，見生死中諸過咎故，設見珍寶滿此大地、諸山、大海，不生貪著，如視涕唾。如是大士，棄捨財寶、所愛妻子、頭目髓腦、手足支節、所居舍宅、象馬車乘、奴婢僮僕，亦不願求生於天上，唯求欲令一切眾生得受快樂。如我所解，如是大士清淨無染，眾結永盡，唯欲求於阿耨多羅三藐三菩提。』

「釋提桓因復作是言：『如汝言者，是人則為攝取一切世間所有眾生。大仙！若此世間有佛樹者，能除一切諸天世人及阿修羅煩惱毒蛇。若諸眾生住是佛樹陰涼中者，煩惱諸毒悉得消滅。大仙！是人若當未來世中作善逝者，我等悉當得滅無量熾然煩惱。如是之事實為難信。何以故？無量百千諸眾生等發於阿耨多羅三藐三菩提心，見少微緣於阿耨多羅三藐三菩提，即便動轉。如水中月，水動則動。猶如畫像，難成易壞。菩提之心亦復如是，難發易壞。大仙！如有多人，以諸鎧仗牢自莊嚴，欲前討賊，臨陣恐怖則便退散。無量眾生亦復如是，發菩提心，牢自莊嚴，見生死過，心生恐怖，即便退散。大仙！我見如是無量眾生發心之後，皆生動轉，是故我今雖見是人修於苦行，無惱、無熱、住於險道，其行清淨未能信也。我今要當自往試之，知其實能堪任荷負，阿耨多羅三藐三菩提大重擔不？大仙！猶如車有二輪，則能載用。鳥有二翼，堪任飛行。是苦行者，亦復如是。我雖見其堅持禁戒，未知其人有深智不？若有深智，當知則能堪任荷負阿耨多羅三藐三菩提之重擔也。大仙！譬如魚母，多有胎子，成就者少。如菴羅樹，花多果少。眾生發心乃有無量，及其成就，少不足言。大仙！我當與汝俱往試之。大仙！譬如真金三種試已，乃知其真，謂燒、打、磨。試彼苦行者，亦當如是。』

「爾時釋提桓因，自變其身作羅剎像，形甚可畏，下至雪山，去其不遠而便立住。是時羅剎，心無所畏，勇健難當，辯才次第，其聲清雅，宣過去佛所說半偈：

「『諸行無常， 是生滅法。』

「說是半偈已，便住其前，所現形貌甚可怖畏。顧眄遍視，觀於四方。是苦行者，聞是半偈，心生歡喜。譬如估客，於險難處夜行失伴，恐怖推求，還遇同侶，心生歡喜，踊躍無量。亦如久病，未遇良醫，瞻病好藥後卒得之。如人沒海，卒遇船舫。如渴乏人，遇清冷水。如為怨逐，忽然得脫。如久繫人卒聞得出。亦如農夫炎旱值雨。亦如行人還得歸家，家人見已，生大歡喜。善男子！我於爾時聞是半偈，心中歡喜亦復如是，即從座起，以手舉髮，四向顧視而說是言：『向所聞偈，誰之所說？』爾時亦更不見餘人，唯見羅剎。即說是言：『誰開如是解脫之門，誰能雷震諸佛音聲？誰於生死睡眠之中，而獨覺寤唱如是言？誰能於此，示道生死飢饉眾生無上道味？無量眾生沈生死海，誰能於中作大船師？是諸眾生常為煩惱重病所纏，誰能於中為作良醫？說是半偈啟悟我心，猶如半月漸開蓮花。』善男子！我於爾時更無所見，唯見羅剎。復作是念：『將是羅剎說是偈耶？』仍復生疑：『或非其說，何以故？是人形容甚可怖畏。若有得聞是偈句者，一切恐怖、醜陋即除。何有此人形貌如是，能說此偈？不應火中出於蓮花，非日光中出生冷水。』善男子，我於爾時復作是念：『我今無智，而此羅剎或能得見過去諸佛，從諸佛所聞是半偈，我今當問。』即便前至是羅剎所，作如是言：『善哉，大士！汝於何處得是過去離怖畏者所說半偈？大士！復於何處而得如是半如意珠？大士！是半偈義，乃是過去、未來、現在諸佛世尊之正道也。一切世間無量眾生，常為諸見羅網所覆，終身於此外道法中，初不曾聞，如是出世十力、世雄所說空義。』

「善男子！我問是已，即答我言：『大婆羅門！汝今不應問我是義。何以故？我不食來已經多日，處處求索，了不能得。飢渴苦惱，心亂讇語，非我本心之所知也。假使我今力能飛行虛空至欝單越，乃至天上，處處求食亦不能得，以是之故，我說是語。』善男子！我時即復語羅剎言：『大士！若能為我說是偈竟，我當終身為汝弟子。大士！汝所說者，名字不終，義亦不盡。以何因緣不欲說耶？夫財施者則有竭盡，法施因緣不可盡也。雖無有盡，多所利益。我今聞此半偈法已，心生驚疑，汝今幸可為我除斷，說此偈竟，我當終身為汝弟子。』羅剎答言：『汝智太過，但自憂身，都不見念，今我定為飢苦所逼，實不能說。』我即問言：『汝所食者，為是何物？』羅剎答言：『汝不足問，我若說者，令多人怖。』我復問言：『此中獨處，更無有人，我不畏汝，何故不說？』羅剎答言：『我所食者，唯人暖肉。其所飲者，唯人熱血。自我薄福，唯食此食，周遍求索困不能得。世雖多人，皆有福德，兼為諸天之所守護，而我無力不能得殺。』善男子！我復語言：『汝但具足，說是半偈，我聞偈已，當以此身奉施供養。大士！我設命終，如此之身無所復用，當為虎狼、鵄梟、鵰鷲之所噉食，然復不得一毫之福。我今為求阿耨多羅三藐三菩提，捨不堅身，以易堅身。』羅剎答言：『誰當信汝如是之言，為八字故，棄所愛身？』善男子！我即答言：『汝真無智，譬如有人，施他凡器，得七寶器。我亦如是，捨不堅身，得金剛身。汝言誰當信者？我今有證，大梵天王、釋提桓因及四天王，能證是事。復有天眼諸菩薩等，為欲利益無量眾生，修行大乘具六度者，亦能證知。復有十方諸佛世尊利眾生者，亦能證我，為八字故，捨於身命。』羅剎復言：『汝若如是能捨身者，諦聽諦聽，當為汝說，其餘半偈。』

「善男子！我於爾時聞是事已，心中歡喜，即解己身所著鹿皮，為此羅剎敷置法座，白言：『和上！願坐此座。』我即於前，叉手長跪，而作是言：『唯願和上！善為我說，其餘半偈，令得具足。』羅剎即說：

「『生滅滅已， 寂滅為樂。』

「爾時羅剎說是偈已復作是言：『菩薩摩訶薩，汝今已聞具足偈義，汝之所願為悉滿足，若必欲利諸眾生者，時施我身。』善男子！我於爾時深思此義，然後處處，若石、若壁、若樹、若道，書寫此偈，即便更繫所著衣裳，恐其死後身體露現，即上高樹。爾時樹神復問我言：『善哉，仁者！欲作何事？』善男子！我時答言：『我欲捨身，以報偈價。』樹神問言：『如是偈者，何所利益？』我時答言：『如是偈句，乃是過去、未來、現在諸佛所說開空法道，我為此法，棄捨身命。不為利養、名聞、財寶、轉輪聖王、四大天王、釋提桓因、大梵天王、人天中樂，為欲利益一切眾生，故捨此身。』善男子！我捨身時，復作是言：『願令一切慳惜之人，悉來見我，捨離此身。若有少施起貢高者，亦令得見，我為一偈捨此身命，如棄草木。』我於爾時說是語已，尋即放身自投樹下，下未至地時，虛空之中出種種聲，其聲乃至阿迦尼吒。爾時羅剎還復釋身，即於空中接取我身，安置平地。

「爾時釋提桓因及諸天人、大梵天王，稽首頂禮於我足下，讚言：『善哉，善哉，真是菩薩，能大利益無量眾生，欲於無明黑闇之中然大法炬。由我愛惜如來大法，故相嬈惱，唯願聽我懺悔罪咎。汝於未來必定成就阿耨多羅三藐三菩提，願見濟度。』爾時釋提桓因及諸天眾，頂禮我足，於是辭去，忽然不現。

「善男子！如我往昔為半偈故，捨棄此身，以是因緣，便得超越足十二劫，在彌勒前成阿耨多羅三藐三菩提。善男子！我得如是無量功德，皆由供養如來正法。善男子！汝今亦爾，發於阿耨多羅三藐三菩提心，則已超過無量無邊恒河沙等諸菩薩上。善男子！是名菩薩住於大乘大般涅槃修於聖行。

## 大般涅槃經卷第十四