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title: "大般涅槃經 · 2"
description: "大般涅槃经是北凉时期著名译经师昙无谶所译的重要佛教经典，属于大乘涅槃部经典。该经主要阐述佛陀入灭前的最后教法，核心思想包括佛性论、常乐我净、涅槃四德等大乘佛教重要思想。经文详细记载了佛陀涅槃前后的经过，并系统论述了一切众生皆有佛性、皆能成佛的理论。此经在中国佛教史上影响深远，为天台宗、华严宗等宗派的重要理论依据，对汉传佛教的发展产生了重大影响。昙无谶译本语言优美流畅，是研究大乘佛教思想的重要文献。"
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## 大般涅槃經卷第十六

北涼天竺三藏曇無讖譯

> 北涼天竺三蔵曇無讖訳

### 梵行品第八之二

迦葉菩薩白佛言：「世尊！菩薩摩訶薩所有思惟，悉是真實，聲聞緣覺非真實者；一切眾生何故不以菩薩威力，等受快樂？若諸眾生實不得樂，當知菩薩所修慈心為無利益。」

> 迦葉菩薩が仏に申し上げました： 「世尊よ、菩薩摩訶薩のすべての思いは真実であり、声聞や縁覚のそれは真実ではありません。では、なぜ一切衆生は菩薩の威神力によって平等に安楽を受けることができないのでしょうか。もし衆生が実際に安楽を得られないのであれば、菩薩が修める慈心は無益であると言わざるを得ません。」

佛言：「善男子！菩薩之慈，非不利益。善男子！有諸眾生，或必受苦，或有不受。若有眾生必受苦者，菩薩之慈為無利益，謂一闡提。若有受苦不必定者，菩薩之慈則為利益，令彼眾生悉受快樂。善男子！譬如有人，遙見師子、虎豹、犲狼、羅剎鬼等，自然生怖，夜行見杌亦生怖畏。善男子！如是諸人自然怖畏。眾生如是，見修慈者自然受樂。善男子！以是義故，菩薩修慈是實思惟，非無利益。

> 仏は言われた。「善男子よ、菩薩の慈しみは、利益をもたらさないものではない。善男子よ、衆生には、必ず苦しみを受ける者もいれば、受けない者もいる。もし必ず苦しみを受ける衆生がいるならば、菩薩の慈しみは利益にならない。それは一闡提（仏法を信じない者）のことである。もし苦しみを受けるかどうかが定まっていない衆生がいるならば、菩薩の慈しみは利益となり、その衆生をしてすべて安楽を受けさせることができる。善男子よ、たとえば人が、遠くから獅子や虎、豹、狼、羅刹鬼などを見て、自然に恐怖を生じるように、夜道で切り株を見ても恐怖を抱く。善男子よ、このように人々は自然に怖れる。衆生もまた同じで、慈しみを修める者を見れば、自然に安楽を受けるのである。善男子よ、この意味において、菩薩が慈しみを修めることは真実の思惟であり、利益のないことではない。」

「善男子！我說是慈，有無量門，所謂神通。善男子！如提婆達，教阿闍世，欲害如來。是時我入王舍大城，次第乞食，阿闍世王即放護財狂醉之象，欲令害我及諸弟子。其象爾時，蹋殺無量百千眾生，眾生死已，多有血氣，是象嗅已，狂醉倍常。見我翼從，被服赤色，謂呼是血，而復見趣。我弟子中未離欲者，四怖馳走，唯除阿難。爾時王舍大城之中一切人民，同時舉聲啼哭號泣，作如是言：『怪哉，如來今日滅沒，如何正覺一旦散壞？』是時調達，心生歡喜：『瞿曇沙門滅沒甚善，從今已往真是不現。快哉此計，我願得遂。』善男子！我於爾時，為欲降伏護財象故，即入慈定，舒手示之，即於五指出五師子。是象見已，其心怖畏，尋即失糞，舉身投地，敬禮我足。善男子！我於爾時，手五指頭實無師子，乃是修慈善根力故，令彼調伏。

「復次善男子！我欲涅槃，始初發足向拘尸那城，有五百力士，於其中路，平治掃灑，中有一石，眾欲舉棄，盡力不能。我時憐愍，即起慈心，彼諸力士，尋即見我，以足母指舉此大石，擲置虛空，還以手接，安置右掌，吹令碎末，復還聚合。令彼力士貢高心息，即為略說種種法要，令其俱發阿耨多羅三藐三菩提心。善男子！如來爾時，實不以指舉此大石在虛空中，還置右掌吹令碎末復合如本。善男子！當知即是慈善根力，令諸力士見如是事。

> さらに善男子よ、私は涅槃に入ろうとし、最初に足を踏み出して拘尸那城へ向かう途中、五百人の力士が道を掃除し整えていました。その中に一つの大きな石があり、皆で持ち上げて捨てようとしましたが、力を尽くしても動かすことができませんでした。私はその様子を見て憐れみの心を起こし、慈しみの念を抱きました。すると、その力士たちはすぐに私を見つけ、私が足の親指でその大石を軽々と持ち上げ、虚空に投げ上げ、再び手で受け止め、右手のひらに置き、吹きかけて粉々にし、また元通りに合わせるのを目撃しました。これにより、彼ら力士の傲慢な心は静まり、私はさまざまな法の要諦を簡潔に説き、彼ら全てが阿耨多羅三藐三菩提心を発するように導いたのです。善男子よ、如来がその時、実際に指で大石を持ち上げ虚空に投げ、再び右手のひらに置き、吹きかけて粉々にし元に戻したわけではありません。善男子よ、知るがよい、これこそが慈しみの根の力であり、その力によって力士たちがあのようなことを見たのである。

「復次善男子！此南天竺有一大城名首波羅，於是城中有一長者，名曰盧至，為眾導主，已於過去無量佛所，殖眾善本。善男子！彼大城中一切人民，信伏邪道，奉事尼犍。我時欲度彼長者故，從王舍城至彼城邑，其路中間相去六十五由旬，步涉而往，為欲化度彼諸人故。彼眾尼犍，聞我欲至首波羅城，即作是念：『沙門瞿曇若至此者，此諸人民便當捨我，更不供給，我等窮悴，奈何自活。』諸尼犍輩，各各分散告彼城人：『沙門瞿曇今欲來此。然彼沙門，委棄父母，東西馳騁，所至之處，能令土地穀米不登，人民飢饉，死亡者眾，病瘦相尋，無可救解。瞿曇無賴，純將諸惡、羅剎鬼神以為侍從。無父無母、孤窮之人，而來諮啟，為作門徒。所可教詔，純說虛空，隨其至處，初無安樂。』彼人聞已，即懷怖畏，頭面敬禮尼犍子足，白言：『大師！我等今者，當設何計？』尼犍答言：『沙門瞿曇，性好叢林、流泉、清水，外設有者，宜應破壞。汝等便可相與出城，諸有之處斫伐令盡，莫使有遺。流泉井池，悉置糞屍。堅閉城門，各嚴器仗，當壁防護，勤自固守。彼設來者，莫令得前，若不前者，汝當安隱。我等亦當作種種術，令彼瞿曇，復道還去。』彼諸人民聞是語已，敬諾施行，斬伐樹木，污辱諸水，莊嚴器仗，牢自防護。

「善男子！我於爾時至彼城已，不見一切樹木叢林，唯見諸人莊嚴器仗，當壁自守。見是事已，尋生憐愍，慈心向之，所有樹木還生如本，復更生長其餘諸樹不可稱計；河池井泉，其水清淨，盈滿其中，如青琉璃，生眾雜花，彌覆其上，變其城壁為紺琉璃；城內人民悉得徹見我及大眾。門自開闢，無能制者，所嚴器仗，變成雜花。盧至長者而為上首，與其人民，俱共相隨往至佛所。我即為說種種法要，令彼諸人，一切皆發阿耨多羅三藐三菩提心。善男子！我於爾時，實不化作種種樹木、清淨流水、盈滿河池，變其本城為紺琉璃，令彼人民徹見於我，開其城門，器仗為花。善男子！當知皆是慈善根力，能令彼人見如是事。

> 善男子よ、その時、私はその城に至ると、一切の樹木や叢林は見えず、ただ人々が武器を整え、城壁に沿って自らを守っている姿を見た。この光景を見て、私はすぐに憐れみの心を起こし、彼らに慈しみの心を向けた。すると、すべての樹木は元のように生い茂り、さらに数え切れないほどの他の木々も成長した。川や池、井戸や泉の水は清らかで、青い瑠璃のように満ち溢れ、さまざまな花が咲き乱れ、その上を覆った。城壁は紺瑠璃に変わり、城内の人々は私と大衆をはっきりと見ることができた。門はひとりでに開き、それを阻む者はいなかった。整えられていた武器は、色とりどりの花へと変わった。盧至長者を先頭に、人々は共に私のもとへとやって来た。私は彼らに様々な教えを説き、すべての人々が阿耨多羅三藐三菩提心を発するように導いた。善男子よ、その時、私は実際には様々な樹木や清らかな流水、満ちた川や池を作り出したわけではなく、元の城を紺瑠璃に変え、人々に私を見えるようにし、城門を開き、武器を花に変えたわけではない。善男子よ、知るがよい、これらはすべて慈しみの根の力であり、その力によって人々はこのようなことを見ることができたのだ。

「復次善男子！舍衛城中有婆羅門女，姓婆私吒，唯有一子，愛之甚重，遇病命終。爾時女人，愁毒入心，狂亂失性，裸身無恥，遊行四衢，啼哭失聲，唱言：『子子，汝何處去？』周遍城邑，無有疲已。而是女人，已於先佛殖眾德本。善男子！我於是女起慈愍心。是時女人即得見我，便生子想，還得本心，前抱我身，嗚唼我口。我時即告侍者阿難：『汝可持衣與是女人。』既與衣已，便為種種說諸法要。是女聞法，歡喜踊躍，發阿耨多羅三藐三菩提心。善男子！我於爾時實非彼子，彼非我母，亦無抱持。善男子！當知皆是慈善根力，令彼女人見如是事。

> さらに、善き男子よ。舎衛城に婆羅門の女がおり、姓は婆私吒といった。彼女にはただ一人の子があり、たいへん深く愛していたが、病にかかり命を落とした。その時、女は悲しみの毒が心に入り、狂乱して正気を失い、裸身で恥じることもなく、街の四つの大通りを歩き回り、声を枯らして泣き叫びながら、「子よ、子よ、どこへ行ってしまったのか」と唱えていた。城の中をくまなく歩き回り、疲れを知らなかった。しかし、この女はすでに過去の仏のもとで多くの善根を積んでいたのである。善き男子よ、私はこの女に慈しみの心を起こした。すると、女はたちまち私の姿を見て、自分の子と思い、正気を取り戻し、前に進み出て私の体を抱き、私の口に口づけした。私はすぐに侍者の阿難に告げた。「お前が衣をこの女に与えよ」と。衣を与えた後、私は様々な法の要点を説いた。女は法を聞き、歓喜して踊り上がり、阿耨多羅三藐三菩提心を発した。善き男子よ、私はその時、実は彼女の子ではなく、彼女も私の母ではなく、抱き合うこともなかった。善き男子よ、知るがよい。これらすべては慈善の根の力によって、あの女にそのような事を見させたのである。

「復次善男子！波羅㮈城有優婆夷，字曰摩訶斯那達多，已於過去無量先佛種諸善根。是優婆夷，夏九十日，請命眾僧，奉施醫藥。是時眾中有一比丘，身嬰重病。良醫診之，當須肉藥，若得肉者，病則可除，若不得肉，命將不全。時優婆夷聞醫此言，尋持黃金，遍至市𠪩，唱如是言：『誰有肉賣，吾以金買，若有肉者，當等與金。』周遍城市，求不能得。是優婆夷尋自取刀割其髀肉，切以為臛，下種種香，送病比丘。比丘服已，病即得差。是優婆夷患瘡苦惱，不能堪忍，即發聲言：『南無佛陀南無佛陀。』我於爾時在舍衛城，聞其音聲，於是女人起大慈心，是女尋見，我持良藥，塗其瘡上，還合如本。我即為其種種說法，聞法歡喜，發阿耨多羅三藐三菩提心。善男子！我於爾時，實不往至波羅㮈城，持藥塗是優婆夷瘡。善男子！當知皆是慈善根力，令彼女人見如是事。

> さらに、善き男子よ。波羅奈の都に摩訶斯那達多という名の優婆夷がおりました。彼女は過去無量の仏のもとで、多くの善根を積んできた人です。 この優婆夷は、夏の九十日間、僧侶たちを招き、医薬を施す供養を行いました。そのとき、僧侶の中に重い病にかかった比丘がいました。良医が診たところ、肉の薬が必要で、肉を得れば病は癒えるが、肉がなければ命は保たれないと言いました。 優婆夷はこの言葉を聞くと、すぐに黄金を持って町中を巡り、こう呼びかけました。「肉を売る者はいるか。私は金で買おう。肉があれば、金と等しく交換しよう」と。しかし、町中を探しても、肉はどこにも見つかりませんでした。 そこで優婆夷は自ら刀を取って自分の腿の肉を切り、細かく刻んで薬膳とし、さまざまな香りを加えて、病の比丘に届けました。比丘がそれを服用すると、病はたちまち癒えました。 一方、優婆夷は傷の痛みに苦しみ、耐えられなくなって、声をあげて叫びました。「南無仏陀、南無仏陀」と。 そのとき、私は舎衛城にいましたが、彼女の声を聞き、この女性に対して大いなる慈しみの心を起こしました。すると女性は、私が良薬を持って現れ、その傷に塗って元通りに治すのを見たのです。 私はすぐに彼女にさまざまな法を説きました。彼女は法を聞いて喜び、阿耨多羅三藐三菩提心を発しました。 善き男子よ。あの時、私は実際には波羅奈城へ行って、優婆夷の傷に薬を塗ったわけではありません。善き男子よ、知るがよい。これらすべては、慈しみの根の力によって、あの女性にそのようなことが見えたのだと。

「復次善男子！調達惡人，貪不知足，多服穌故，頭痛腹痛，受大苦惱，不能堪忍，發如是言：『南無佛陀南無佛陀。』我時住在優禪尼城，聞其音聲，即生慈心。爾時調達尋便見我，往至其所，手摩頭腹，授與鹽湯，而令服之，服已平復。善男子！我實不往調婆達所，摩其頭腹授湯令服。善男子！當知皆是慈善根力，令調婆達見如是事。

> さらに、善き男子よ、提婆達多という悪しき者は、貪欲で満足を知らず、多くの蘇（乳製品）を摂りすぎたために、頭痛と腹痛に襲われ、激しい苦痛を受け、耐えがたい思いをして、このように言いました。『南無仏陀、南無仏陀』と。その時、私は優禅尼城に住んでいましたが、その声を聞いて、ただちに慈しみの心を起こしました。すると、提婆達多はすぐに私を見つけ、私のところに来て、私は彼の頭と腹を手でさすり、塩湯を与えて飲ませました。飲んだ後、彼は平癒しました。善き男子よ、実は私は提婆達多のもとに行き、彼の頭と腹をさすり、湯を与えて飲ませたわけではありません。善き男子よ、知るがよい、これらすべては慈しみの根の力によって、提婆達多にこのようなことが見せられたのです。

「復次善男子！憍薩羅國有諸群賊，其數五百，群黨抄劫，為害滋甚。波斯匿王患其縱暴，遣兵伺捕，得已挑目，遂著黑闇叢林之下。是諸群賊，已於先佛殖眾德本，既失目已，受大苦惱，各作是言：『南無佛陀南無佛陀，我等今者無有救護。』啼哭號咷。我時住在祇洹精舍，聞其音聲，即生慈心，時有涼風，吹香山中種種香藥，滿其眼眶，尋還得眼，如本不異。諸賊開眼，即見如來，住立其前而為說法。賊聞法已，發阿耨多羅三藐三菩提心。善男子！我於爾時實不作風，吹香山中種種香藥，住其人前而為說法。善男子！當知皆是慈善根力，令彼群賊見如是事。

> さらに、善き男子よ、憍薩羅国には五百人の盗賊の一団がおり、徒党を組んで略奪を繰り返し、害をなすことが甚だしかった。波斯匿王は彼らの暴虐を憂い、兵を遣わして捕らえさせ、捕らえた後、目をえぐり、暗闇の叢林の下に置き去りにした。これらの盗賊たちは、すでに先の仏の時代に多くの善根を積んでいた。目を失った後、大きな苦しみを受け、それぞれこう言った。『南無仏陀、南無仏陀、我らには今、救ってくれる者がない』と。彼らは泣き叫んだ。 その時、私は祇園精舎におり、彼らの声を聞いて、直ちに慈しみの心が起こった。すると涼しい風が吹き、香山にある様々な香薬を運び、彼らの眼窩を満たした。たちまちにして目は元通りに戻った。盗賊たちが目を開けると、如来が眼前に立ち、説法をしているのが見えた。賊たちは法を聞き、阿耨多羅三藐三菩提心を発した。 善き男子よ、私はその時、実際には風を起こしたり、香山の種々の香薬を運んだり、彼らの前に立って説法したりしたわけではない。善き男子よ、知るがよい、これらすべては慈善の根の力によって、あの盗賊の一団にこのようなことが見せられたのである。

「復次善男子！琉璃太子以愚癡故，廢其父王，自立為主。復念宿嫌，多害釋種，取萬二千釋種諸女，刵劓耳鼻，斷截手足，推之坑塹。時諸女人，身受苦惱，作如是言：『南無佛陀南無佛陀，我等今者無有救護。』復大號咷。是諸女人，已於先佛種諸善根，我於爾時在竹林中，聞其音聲，即起慈心。諸女爾時，見我來至迦毘羅城，以水洗瘡，以藥傅之，苦痛尋除，耳鼻手足，還復如本。我時即為略說法要，悉令俱發阿耨多羅三藐三菩提心，即於大愛道比丘尼所，出家受具足戒。善男子！如來爾時實不往至迦毘羅城，以水洗瘡傅藥止苦。善男子！當知皆是慈善根力，令彼女人得如是事，悲喜之心亦復如是。善男子！以是義故，菩薩摩訶薩修慈思惟，即是真實，非虛妄也。善男子！夫無量者不可思議，菩薩所行不可思議，諸佛所行亦不可思議，是大乘典大涅槃經亦不可思議。

> さらに、善き男子よ、毘琉璃太子は愚かさゆえに、父王を廃し、自ら主となった。また宿怨を思い、多くの釈迦族を害し、一万二千人の釈迦族の女性たちを捕らえ、耳や鼻を削ぎ、手足を切り落とし、穴に投げ落とした。その時、女性たちは身に苦痛を受け、このように言った。「南無仏陀、南無仏陀、私たちには今、救う者も守る者もありません」。そして大声で泣き叫んだ。これらの女性たちは、すでに過去の仏のもとで善根を積んでいた。私はその時、竹林の中にいて、彼女たちの声を聞き、すぐに慈しみの心を起こした。女性たちはその時、私が迦毘羅城に来るのを見て、水で傷を洗い、薬を塗ると、苦痛はたちまち消え、耳や鼻、手足は元通りになった。私はその時、法の要を簡潔に説き、彼女たちすべてを阿耨多羅三藐三菩提心に目覚めさせ、すぐに大愛道比丘尼のもとで出家し、具足戒を受けた。善き男子よ、如来はその時、実際には迦毘羅城に行って傷を洗い、薬を塗って苦しみを止めたわけではない。善き男子よ、知るがよい、これらすべては慈の根の力によって、あの女性たちがこのようなことを得たのである。悲しみと喜びの心もまた同じである。善き男子よ、この意味によって、菩薩摩訶薩が慈を修め思惟することは、すなわち真実であり、虚妄ではないのである。善き男子よ、無量なるものは思議すべからず、菩薩の行いは思議すべからず、諸仏の行いもまた思議すべからず、この大乗の教典『大涅槃経』もまた思議すべからず。

「復次善男子！菩薩摩訶薩修慈悲喜已，得住極愛一子之地。善男子！云何是地名曰極愛？復名一子？善男子！譬如父母，見子安隱，心大歡喜。菩薩摩訶薩住是地中，亦復如是，視諸眾生同於一子，見修善者生大歡喜，是故此地名曰極愛。善男子！譬如父母見子遇患，心生苦惱，愍之愁毒，初無捨離。菩薩摩訶薩住是地中亦復如是，見諸眾生，為煩惱病之所纏切，心生愁惱，憂念如子，身諸毛孔，血皆流出，是故此地，名為一子。善男子！如人小時，拾取土塊、糞穢、瓦石、枯骨、木枝，置於口中，父母見已，恐為其患，左手捉頭，右手挑出。菩薩摩訶薩住是地中，亦復如是，見諸眾生法身未增，或行身口意業不善，菩薩見已，則以智手拔之令出，不欲令彼流轉生死受諸苦惱，是故此地，復名一子。善男子！譬如父母，所愛之子捨而終亡，父母愁惱，願與併命。菩薩亦爾，見一闡提墮於地獄，亦願與俱生地獄中。何以故？是一闡提若受苦時，或生一念改悔之心，我即當為說種種法，令彼得生一念善根。是故此地，復名一子。善男子！譬如父母，唯有一子，其子睡寤、行住、坐臥，心常念之；若有罪咎，善言誘喻，不加其惡。菩薩摩訶薩亦復如是，見諸眾生若墮地獄、畜生、餓鬼，或人、天中，造作善惡，心常念之，初不放捨。若行諸惡，終不生瞋，以惡加之，是故此地，復名一子。」

> さらに、善き男子よ。菩薩摩訶薩が慈悲喜を修めたならば、極愛一子の境地に安住することができるのです。 善き男子よ。なぜこの境地を「極愛」といい、また「一子」というのでしょうか。 善き男子よ。たとえば、父母が子が安らかで無事なのを見て、心に大きな喜びを抱くように、菩薩摩訶薩がこの境地に住するときも、まさにそのように、すべての衆生をたった一人のわが子のように見て、善を修める者を見れば大きな喜びを生じるのです。それゆえに、この境地を「極愛」というのです。 善き男子よ。たとえば、父母が子が災いに遭うのを見て、心に苦悩を生じ、憐れみ憂い、決して見捨てることがないように、菩薩摩訶薩がこの境地に住するときも、まさにそのように、すべての衆生が煩悩の病に縛られ苦しむのを見て、心に憂い悩み、わが子を思うように思いやり、身の毛穴から血が流れ出るほどに痛むのです。それゆえに、この境地を「一子」というのです。 善き男子よ。人が幼いとき、土塊や糞尿、瓦石、枯れ骨、木の枝などを拾って口に入れると、父母はそれを見て、子に害があることを恐れ、左手で頭を押さえ、右手でそれをかき出します。菩薩摩訶薩がこの境地に住するときも、まさにそのように、衆生の法身がまだ成長せず、あるいは身・口・意の不善な行いをするのを見て、菩薩は智慧の手でそれを引き出し、彼らが生死を流転してさまざまな苦しみを受けることのないようにするのです。それゆえに、この境地をまた「一子」というのです。 善き男子よ。たとえば、父母が愛する子が亡くなると、父母は憂い悩み、共に命を終えたいと願います。菩薩もまた同じで、一闡提が地獄に堕ちるのを見れば、共に地獄に生まれたいと願うのです。なぜなら、その一闡提が苦しみを受けるとき、ひょっとしたら一念の悔い改める心が生じるかもしれず、私はそのときさまざまな法を説いて、彼に一念の善根を生じさせることができるからです。それゆえに、この境地をまた「一子」というのです。 善き男子よ。たとえば、父母にたった一人の子がいるとき、その子が寝ているときも起きているときも、歩くときも立つときも、座るときも臥すときも、心は常にその子を思っています。もし罪や過ちがあれば、優しい言葉で諭し導き、悪意を加えることはしません。菩薩摩訶薩もまた同じで、衆生が地獄・畜生・餓鬼に堕ちようと、あるいは人・天に生まれようと、善悪を造作するのを見て、心は常に彼らを思い、決して見捨てることはありません。もし彼らが悪を行っても、決して怒りを生じず、悪意を加えることはないのです。それゆえに、この境地をまた「一子」というのです。

迦葉菩薩白佛言：「世尊！如佛所說，其言祕密，我今智淺，云何能解？若諸菩薩住一子地，能如是者，云何如來昔為國王行菩薩時，斷絕爾所婆羅門命？若得此地，則應護念。若不得者，復何因緣不墮地獄？若使等視一切眾生，同於子想如羅睺羅，何故復向提婆達多說如是言：『癡人無羞，食人涕唾。』令彼聞已，生於瞋恨，起不善心，出佛身血。提婆達多造是惡已，如來復記，當墮地獄一劫受罪。世尊！如是之言云何於義不相違背？世尊！須菩提者住虛空地，凡欲入城求乞飲食，要先觀人，若有於己生嫌嫉心，則止不行，乃至極飢，猶不行乞，何以故？是須菩提常作是念：『我憶往昔於福田所生一惡念，由是因緣墮大地獄，受種種苦。我今寧飢，終日不食，終不令彼於我起嫌，墮於地獄受苦惱也。』復作是念：『若有眾生嫌我立者，我當終日端坐不起。若有眾生嫌我坐者，我當終日立不移處，行臥亦爾。』是須菩提，護眾生故，尚起是心，何況菩薩？菩薩若得一子地者，何緣如來出是麁言，使諸眾生起重惡心。」

> 迦葉菩薩が仏に申し上げました。「世尊よ、仏がおっしゃった言葉は深遠で、私の智慧は浅く、どうして理解できましょうか。もし菩薩が一子の地に住んでそのように振る舞うならば、なぜ如来は昔、国王として菩薩行をなさっていた時に、あれほどの婆羅門の命を絶たれたのですか。もしその境地を得ていたならば、慈しみ護るはずです。もし得ていなかったなら、どうして地獄に堕ちずに済んだのでしょうか。 もし一切の衆生を等しくわが子のように思い、羅睺羅と同様に思うならば、なぜ提婆達多に向かって『愚か者よ、恥を知らず、人の涕唾を食らう者よ』などと言われたのですか。その言葉を聞いて提婆達多は瞋恚を起こし、不善の心を生じ、仏の身より血を流させました。提婆達多がこの悪をなした後、如来はさらに『一劫の間、地獄で罪を受けるだろう』と記されました。世尊よ、このような言葉はどうして義に背かないのでしょうか。 世尊よ、須菩提は空の境地に住み、町に入って飲食を乞う時には、まず人々を観察します。もし自分に対して嫌悪や嫉妬の心を抱く者がいれば、たとえひどく飢えていても、乞食に行くことを止めます。なぜなら、須菩提は常にこう考えるからです。『私は過去に福田に対して一つの悪念を起こしたことを思い出す。その因縁によって大地獄に堕ち、さまざまな苦しみを受けた。今はたとえ一日中飢えていても、決して彼らに嫌悪の念を起こさせて地獄に堕ち苦しむようなことはさせまい』と。 さらにこうも考えます。『もし私が立っているのを嫌う衆生がいれば、私は一日中端坐して起たないだろう。もし私が座っているのを嫌う衆生がいれば、一日中立ったまま動かないだろう。歩くのも臥すのも同様である』と。この須菩提でさえ、衆生を護るためにそのような心を起こすのです。まして菩薩であればなおさらです。菩薩がもし一子の地を得ているならば、なぜ如来はあのような厳しい言葉を発して、衆生に重い悪心を起こさせられたのですか。」

「善男子！汝今不應作如是難，言佛如來為諸眾生作煩惱因緣。善男子！假使蚊𭉨能盡海底，如來終不為諸眾生作煩惱因緣。善男子！假令大地悉為非色，水為堅相，火為冷相，風為住相；三寶佛性及以虛空，作無常相；如來終不為諸眾生作煩惱因緣。善男子！假使毀犯四重禁罪及一闡提、謗正法者，現身得成十力、無畏、三十二相、八十種好，如來終不為諸眾生作煩惱因緣。善男子！假使聲聞辟支佛等常住不變，如來終不為諸眾生作煩惱因緣。善男子！假使十住諸菩薩等，犯四重禁、作一闡提、誹謗正法，如來終不為諸眾生作煩惱因緣。善男子！假使一切無量眾生喪滅佛性，如來究竟入般涅槃，如來終不為諸眾生作煩惱因緣。善男子！假使擲羂能繫縛風，齒能破鐵，爪壞須彌，如來終不為諸眾生作煩惱因緣。寧與毒蛇同共一處，內其兩手餓師子口，佉陀羅炭用洗浴身，不應發言，如來世尊為諸眾生作煩惱因緣。善男子！如來真實能為眾生斷除煩惱，終不為作煩惱因也。

> 善男子よ、あなたは今、このような難題を唱えてはなりません。「仏如来は、すべての衆生のために煩悩の因縁を作られた」などと言ってはならないのです。 善男子よ、たとえ蚊や虻が海底を飲み尽くすことができたとしても、如来は決して衆生のために煩悩の因縁を作られることはありません。 善男子よ、たとえ大地がすべて色のないものとなり、水が堅い性質に、火が冷たい性質に、風が静止する性質になったとしても、三宝や仏性、そして虚空さえもが無常の相を現したとしても、如来は決して衆生のために煩悩の因縁を作られることはありません。 善男子よ、たとえ四重禁罪を犯した者や一闡提、正法を謗る者が、この身で十力や四無畏、三十二相、八十種好を成就したとしても、如来は決して衆生のために煩悩の因縁を作られることはありません。 善男子よ、たとえ声聞や縁覚などが常住不変の存在となったとしても、如来は決して衆生のために煩悩の因縁を作られることはありません。 善男子よ、たとえ十住の菩薩たちが四重禁を犯し、一闡提となり、正法を誹謗したとしても、如来は決して衆生のために煩悩の因縁を作られることはありません。 善男子よ、たとえすべての無量の衆生が仏性を失い、如来が究竟の涅槃に入られたとしても、如来は決して衆生のために煩悩の因縁を作られることはありません。 善男子よ、たとえ投げ縄で風を縛ることができ、歯で鉄を砕き、爪で須弥山を壊すことができたとしても、如来は決して衆生のために煩悩の因縁を作られることはありません。 毒蛇と共に一つの場所にいることや、両手を飢えた獅子の口に入れること、あるいは佉陀羅炭で身を洗うことさえも、如来世尊が衆生のために煩悩の因縁を作られたなどと言うことよりは、まだましなのです。 善男子よ、如来は真実をもって、衆生の煩悩を断ち切ることがおできになりますが、決して煩悩の因を作られることはないのです。

「善男子！如汝所言，如來往昔殺婆羅門者；善男子！菩薩摩訶薩乃至蟻子尚不故殺，況婆羅門？菩薩常作種種方便，惠施眾生無量壽命。善男子！夫施食者則為施命，菩薩摩訶薩行檀波羅蜜時，常施眾生無量壽命。善男子！修不殺戒得壽命長，菩薩摩訶薩行尸波羅蜜時，則為施與一切眾生無量壽命。善男子！慎口無過得壽命長，菩薩摩訶薩行羼提波羅蜜時，常勸眾生莫生怨想，推直於人，引曲向己，無所諍訟得壽命長，是故菩薩行羼提波羅蜜時，已施眾生無量壽命。善男子！精勤修善得壽命長，菩薩摩訶薩行毘梨耶波羅蜜時，常勸眾生勤修善法；眾生行已，得無量壽命；是故菩薩行毘梨耶波羅蜜時，已施眾生無量壽命。善男子！修攝心者得壽命長，菩薩摩訶薩行禪波羅蜜時，勸諸眾生修平等心，眾生行已得壽命長，是故菩薩行禪波羅蜜時，已施眾生無量壽命。善男子！於諸善法不放逸者得壽命長，菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時，勸諸眾生於諸善法不生放逸，眾生行已以是因緣得壽命長，是故菩薩行般若波羅蜜時，已施眾生無量壽命。善男子！以是義故，菩薩摩訶薩於諸眾生終無奪命。

> 善男子よ、あなたが言うように、如来がかつてバラモンを殺したという話がありますね。しかし、善男子よ、菩薩摩訶薩はたとえ蟻一匹でさえ故意に殺すことはありません。ましてやバラモンを殺すことなどないのです。菩薩は常に様々な方便をもって、すべての生きとし生けるものに無量の寿命を施すのです。 善男子よ、食物を施すことは、すなわち命を施すことです。菩薩摩訶薩が布施波羅蜜を行じるとき、常にすべての生きとし生けるものに無量の寿命を施しているのです。 善男子よ、殺生をしない戒めを修めることで寿命は長くなります。菩薩摩訶薩が持戒波羅蜜を行じるとき、それはすべての生きとし生けるものに無量の寿命を施していることになるのです。 善男子よ、言葉を慎んで過ちを犯さなければ寿命は長くなります。菩薩摩訶薩が忍辱波羅蜜を行じるとき、常に生きとし生けるものに怨みの心を起こさないよう勧め、正しさを他人に譲り、過ちを自らに引き受けます。争いごとがなければ寿命は長くなるのです。それゆえ、菩薩が忍辱波羅蜜を行じるとき、すでに生きとし生けるものに無量の寿命を施しているのです。 善男子よ、精進して善を修めれば寿命は長くなります。菩薩摩訶薩が精進波羅蜜を行じるとき、常に生きとし生けるものに善い行いを勤め修めるよう勧めます。生きとし生けるものがそれを行えば、無量の寿命を得るのです。それゆえ、菩薩が精進波羅蜜を行じるとき、すでに生きとし生けるものに無量の寿命を施しているのです。 善男子よ、心を整えることを修めれば寿命は長くなります。菩薩摩訶薩が禅定波羅蜜を行じるとき、すべての生きとし生けるものに平等の心を修めるよう勧めます。生きとし生けるものがそれを行えば、寿命が長くなるのです。それゆえ、菩薩が禅定波羅蜜を行じるとき、すでに生きとし生けるものに無量の寿命を施しているのです。 善男子よ、すべての善い法に対して放逸にならなければ寿命は長くなります。菩薩摩訶薩が智慧波羅蜜を行じるとき、すべての生きとし生けるものに、すべての善い法に対して放逸にならないよう勧めます。生きとし生けるものがそれを行えば、この因縁によって寿命が長くなるのです。それゆえ、菩薩が智慧波羅蜜を行じるとき、すでに生きとし生けるものに無量の寿命を施しているのです。 善男子よ、この道理によって、菩薩摩訶薩はすべての生きとし生けるものから、決して命を奪うことはないのです。

「善男子！汝向所問，殺婆羅門時得是地不？善男子！時我已得。以愛念故，斷其命根，非惡心也。善男子！譬如父母，唯有一子，愛之甚重，犯官憲制，是時父母以怖畏故，若擯若殺，雖復擯殺，無有惡心。菩薩摩訶薩為護正法亦復如是，若有眾生謗大乘者，即以鞭撻，苦加治之，或奪其命，欲令改往，遵修善法。菩薩常當作是思惟：『以何因緣，能令眾生發起信心？隨其方便，要當為之。』諸婆羅門命終之後，生阿鼻地獄，要有三念：一者自念：『我從何處而來生此？』即便自知，從人道中來。二者自念：『我今所生為是何處？』即便自知是阿鼻獄。三者自念：『乘何業緣而來生此？』即便自知乘謗方等大乘經典，不信因緣，為國主所殺，而來生此。念是事已，即於大乘方等經典，生信敬心，尋時命終，生甘露鼓如來世界，於彼壽命具足十劫。善男子！以是義故，我於往昔乃與是人十劫壽命，云何名殺？善男子！有人掘地、刈草斫樹、斬截死屍、罵詈鞭撻，以是業緣，墮地獄不？」

> 善きかな、男子よ。あなたが先ほど問われた、婆羅門を殺した時にこの境地を得たかという問いについて。善きかな、男子よ、その時、私はすでに得ていました。慈愛の心から、その命の根を断ったのであり、悪意によるものではありません。 善きかな、男子よ。たとえば父母が、ただ一人の子を非常に深く愛しているとします。その子が法を犯した時、父母は恐れおののき、子を追放したり、あるいは殺したりします。たとえ追放し、殺したとしても、そこに悪意はありません。菩薩摩訶薩が正法を護るためにも、これと同じです。もし大乗を誹謗する衆生があれば、鞭打って苦痛を与え、あるいはその命を奪うこともあります。それは、彼らが過ちを改め、善き法を修めるようにと願ってのことです。 菩薩は常にこう考えなければなりません。「どのような縁によって、衆生に信心を起こさせることができるだろうか」と。そして、その方便に従い、必ずそれを為さねばなりません。 諸々の婆羅門は命終えた後、阿鼻地獄に生まれます。そこでは三つの思いが起こります。第一に、「私はどこから来てここに生まれたのか」と自ら思い、直ちに人道から来たことを知ります。第二に、「私は今、どこに生まれたのか」と自ら思い、直ちにここが阿鼻地獄であることを知ります。第三に、「どのような業の縁によってここに生まれてきたのか」と自ら思い、直ちに方等の大乗経典を誹謗し、因果の道理を信じなかったが故に、国王に殺され、ここに生まれてきたことを知ります。 これらのことを思い至ると、彼らは大乗方等経典に対して信敬の心を生じます。そしてすぐに命を終え、甘露鼓如来の世界に生まれ、そこで十劫の寿命を具足します。 善きかな、男子よ。この意味において、私は過去に、この人に十劫の寿命を与えたのです。どうしてそれを「殺した」と言えましょうか。 善きかな、男子よ。もし人が地を掘り、草を刈り、木を切り、死屍を断ち切り、罵り、鞭打つ。そのような業の縁によって、地獄に堕ちるでしょうか？

迦葉菩薩白佛言：「世尊！如我解佛所說義者，應墮地獄。何以故？如佛昔為聲聞說法：『汝諸比丘，於餘焦木，莫生惡心。何以故？一切眾生因惡心故墮于地獄。』」

> 迦葉菩薩が仏に申し上げました。「世尊よ、私が仏の説かれた意味を理解する限りでは、私は地獄に堕ちるべきです。なぜなら、かつて仏が声聞のために説かれたように、『比丘たちよ、枯れた木に対しても悪い心を起こしてはならない。なぜなら、すべての衆生は悪い心によって地獄に堕ちるからである』とおっしゃったからです。」

爾時佛讚迦葉菩薩：「善哉，善哉！如汝所說，應善受持。善男子！若因惡心墮地獄者，菩薩爾時實無惡心。何以故？菩薩摩訶薩於一切眾生乃至虫蟻，悉生憐愍利益心故。所以者何？善知因緣諸方便故，以方便力，欲令眾生種諸善根。善男子！以是義故，我於爾時，以善方便，雖奪其命而非惡心。善男子！婆羅門法，若殺蟻子，滿足十車，無有罪報。蚊虻、蚤虱、猫狸師子、虎狼熊羆、諸惡虫獸、及餘能為眾生害者，殺滿十車；鬼神羅剎、拘槃茶、迦羅、富單那、顛狂乾枯諸鬼神等、能為眾生作嬈害者，有奪其命，悉無罪報；若殺惡人，則有罪報；殺已不悔，則墮餓鬼；若能懺悔，三日斷食，其罪消滅，無有遺餘。若殺和上、害其父母女人及牛，無數千年在地獄中。善男子！佛及菩薩知殺有三，謂下中上。下者蟻子乃至一切畜生，唯除菩薩示現生者。善男子！菩薩摩訶薩以願因緣，示受畜生，是名下殺；以下殺因緣，墮於地獄、畜生、餓鬼，具受下苦。何以故？是諸畜生有微善根，是故殺者具受罪報，是名下殺。中殺者，從凡夫人至阿那含是名為中，以是業因墮於地獄、畜生、餓鬼，具受中苦，是名中殺。上殺者，父母乃至阿羅漢、辟支佛、畢定菩薩，是名為上，以是業因緣故，墮於阿鼻大地獄中，具受上苦，是名上殺。善男子！若有能殺一闡提者，則不墮此三種殺中。善男子！彼諸婆羅門等一切皆是一闡提也。譬如掘地、刈草斫樹、斬截死屍罵詈鞭撻，無有罪報，殺一闡提亦復如是，無有罪報。何以故？諸婆羅門乃至無有信等五根，是故雖殺不墮地獄。

> その時、仏は迦葉菩薩をほめて言われた。「善いかな、善いかな！あなたの言う通りである。よく受け持つがよい。善男子よ、もし悪心によって地獄に堕ちるならば、菩薩はその時、実には悪心を持っていない。なぜなら、菩薩摩訶薩は一切の衆生、虫や蟻に至るまで、すべて憐れみの心と利益の心を起こすからである。なぜそうなのか。因縁と諸々の方便をよく知っているからであり、方便の力によって、衆生にさまざまな善根を植えさせようとするからである。善男子よ、この意味によって、私はその時、善き方便をもって、その命を奪ったが、悪心ではなかったのである。善男子よ、婆羅門の法では、もし蟻の子を殺しても、十車に満ちるほど殺しても、罪報はない。蚊や虻、蚤や虱、猫や狸、獅子、虎や狼、熊や羆、諸々の悪しき虫や獣、およびその他、衆生に害をなすことができるもの、それらを殺して十車に満たしても、鬼神や羅刹、拘槃茶、迦羅、富単那、顛狂や乾枯などの諸鬼神など、衆生に害をなすことができるもの、その命を奪っても、すべて罪報はない。もし悪人を殺せば、罪報がある。殺して悔いなければ、餓鬼に堕ちる。もし懺悔することができ、三日間断食すれば、その罪は消滅し、残るものはない。もし和尚を殺し、父母や女人、牛を害すれば、無数の千年の間、地獄の中にある。善男子よ、仏と菩薩は殺しに三種あることを知っている。下・中・上である。下とは、蟻の子から一切の畜生に至るまで、ただし菩薩が示現して生まれたものを除く。善男子よ、菩薩摩訶薩は願いの因縁によって、畜生の身を受けることを示す。これを下殺という。下殺の因縁によって、地獄・畜生・餓鬼に堕ち、下の苦しみをすべて受ける。なぜか。これらの畜生には微かな善根があるからであり、それゆえ殺す者は罪報をすべて受ける。これを下殺という。中殺とは、凡夫人から阿那含に至るまでをいう。これを中という。この業の因によって、地獄・畜生・餓鬼に堕ち、中の苦しみをすべて受ける。これを中殺という。上殺とは、父母から阿羅漢・辟支仏・必ず仏となる菩薩に至るまでをいう。これを上という。この業の因縁によって、阿鼻大地獄に堕ち、上の苦しみをすべて受ける。これを上殺という。善男子よ、もし一闡提を殺すことができる者がいれば、この三種の殺しに堕ちることはない。善男子よ、あの諸々の婆羅門など一切は、すべて一闡提である。譬えば、地を掘り、草を刈り、木を切り、死屍を断ち切り、罵り、鞭打つに罪報がないように、一闡提を殺すこともまた同様に、罪報がない。なぜか。諸々の婆羅門には、信などの五根さえもないからである。それゆえ、たとえ殺しても地獄に堕ちることはない。」

「善男子！汝先所言，如來何故罵提婆達多癡人食唾？汝亦不應作如是問。何以故？諸佛世尊，凡所發言，不可思議。善男子！或有實語，為世所愛，非時非法，不為利益，如是之言，我終不說。善男子！或復有言，麁獷虛妄、非時非法，聞者不愛，不能利益，我亦不說。善男子！若有語言，雖復麁獷，真實不虛，是時是法能為一切眾生利益，聞雖不悅，我要說之。何以故？諸佛世尊、應、正遍知，知方便故。善男子！如我一時，遊彼壙野、聚落叢樹，在其林下，有一鬼神，即名壙野，純食肉血多殺眾生，復於其聚，日食一人。善男子！我於爾時，為彼鬼神廣說法要；然彼暴惡、愚癡無智、不受教法，我即化身為大力鬼，動其宮殿，令不安所。彼鬼于時將其眷屬，出其宮殿，欲來拒逆。鬼見我時，即失心念，惶怖躄地，迷悶斷絕，猶如死人。我以慈愍，手摩其身。即還起坐，作如是言：『快哉，今日還得身命。是大神王，具大威德，有慈愍心，赦我愆咎。』即於我所，生善信心。我即還復如來之身，復更為說種種法要，令彼鬼神，受不殺戒。即於是日，壙野村中，有一長者次應當死，村人已送付彼鬼神。鬼神得已，即以施我；我既受已，便為長者，更立名字，名手長者。爾時彼鬼即白我言：『世尊！我及眷屬，唯仰血肉，以自存活。今以戒故，當云何活？』我即答言：『從今當勅聲聞弟子，隨有修行佛法之處，悉當令其施汝飲食。』善男子！以是因緣，為諸比丘制如是戒，汝等從今，常當施彼壙野鬼食，若有住處不能施者，當知是輩，非我弟子，即是天魔徒黨眷屬。善男子！如來為欲調伏眾生故，示如是種種方便，非故令彼生怖畏也。

> 善男子よ、あなたが先に申されたように、なぜ如来は提婆達多を愚か者で唾を食らう者と罵ったのか、という問いは、あなたもすべきではありません。なぜなら、諸仏世尊の言葉はすべて、思いはかることのできないものだからです。 善男子よ、ある言葉は真実であっても、世に好まれ、時や法にそぐわず、利益をもたらさないものがあります。そのような言葉は、私は決して説きません。また、ある言葉は粗暴で虚偽に満ち、時や法にそぐわず、聞く者が好まず、利益をもたらさないものもあります。それも私は説きません。 しかし善男子よ、もし言葉がたとえ粗暴であっても、真実で虚偽がなく、時と法にかなって一切衆生の利益となるものであれば、聞く者が喜ばなくても、私は必ず説きます。なぜなら、諸仏世尊、応供・正遍知は、方便を知っておられるからです。 善男子よ、かつて私はある時、広野の村の林の中におりました。そこには広野という名の鬼神がいて、肉と血ばかりを食べ、多くの衆生を殺し、さらにその村で毎日一人を食らっていました。私はその時、その鬼神に広く法の要を説きました。しかし、その鬼神は暴悪で愚かであり、教えを受け入れませんでした。そこで私は大力鬼に化身し、その宮殿を揺るがして安住できなくしました。鬼神は眷属を連れて宮殿を出て、私に逆らおうとしましたが、私を見ると正気を失い、恐怖のあまり地面に倒れ、気を失って死人のようになりました。私は慈しみの心でその体を手でなでると、彼は起き上がって座り、こう言いました。「ああ、今日また命が戻った。この大神王は大いなる威徳と慈しみの心をお持ちで、私の過ちを赦してくださった。」そして私に善い信心を抱きました。私は如来の姿に戻り、さらに種々の法の要を説いて、その鬼神に不殺生戒を受けさせました。 その日、広野の村には一人の長者がいて、次に死ぬべき順番になっていました。村人はすでにその長者を鬼神に差し出していました。鬼神は彼を受け取ると、すぐに私に施しました。私はそれを受け、その長者に「手長者」という新しい名前を与えました。その時、鬼神は私に申しました。「世尊よ、私と眷属は血肉に頼って生きています。今、戒を受けた以上、どうやって生きればよいのでしょうか。」私は答えました。「今から声聞の弟子たちに命じて、仏法を修行する所があれば、必ずあなたに飲食を施すようにさせましょう。」 善男子よ、この因縁によって、私は比丘たちにこのような戒を制定しました。あなたたちは今から常に広野の鬼神に食物を施しなさい。もし住む所で施すことができない者がいれば、その者は私の弟子ではなく、天魔の仲間であると知りなさい。 善男子よ、如来は衆生を調伏するために、このような種々の方便を示されるのであって、故意に彼らを怖がらせるためではありません。

「善男子！我亦以木打護法鬼。又於一時，在一山上，推羊頭鬼，令墮山下。復於樹頭，撲護獼猴鬼；令護財象，見五師子；使金剛神怖薩遮尼犍；亦以針刺箭毛鬼身。雖作如是，亦不令彼諸鬼神等有滅沒者，直欲令彼，安住正法，故示如是種種方便。善男子！我於爾時，實不罵辱提婆達多；提婆達多亦不愚癡食人㖒唾，亦不生於惡趣之中，阿鼻地獄受罪一劫，亦不壞僧出佛身血，亦不違犯四重之罪、誹謗正法大乘經典，非一闡提，亦非聲聞、辟支佛也。善男子！提婆達多者，實非聲聞緣覺境界，唯是諸佛之所知見。善男子！是故汝今不應難言，如來何緣呵責罵辱提婆達多？汝於諸佛所有境界，不應如是生於疑網。」

> 善男子よ、私もまた木で護法の鬼神を打ったことがある。またある時、一つの山の上で、羊頭の鬼神を押し倒し、山の下に落とさせた。また樹の上で、護獼猴の鬼神を打ち据え、護財の象に五頭の獅子を見せ、金剛の神に薩遮尼犍を怖れさせ、また針で箭毛の鬼神の体を刺したこともある。このようなことをしたが、それによって諸の鬼神たちが滅び失せるようなことは決してさせなかった。ただ彼らが正法に安住するよう、このような種々の方便を示したのである。 善男子よ、私はその時、実は提婆達多を罵り辱めるようなことはしていない。提婆達多もまた愚かで人の唾を食らうような者ではなく、悪趣に生まれて阿鼻地獄で一劫もの罪を受けることもなく、僧を破り仏身より血を流させることもなく、四重の罪を犯すことも、正法や大乗の経典を誹謗することもなかった。一闡提でもなく、声聞や辟支仏でもない。 善男子よ、提婆達多という存在は、実は声聞や縁覚の境界で理解できるものではなく、ただ諸仏のみが知り見ることのできる境地なのである。善男子よ、だからそなたは今、「如来はなぜ提婆達多を責め罵ったのか」などと問い詰めてはならない。そなたは諸仏の境界について、このように疑いの網を張り巡らしてはならないのだ。

迦葉菩薩白佛言：「世尊！譬如甘蔗，數數煎煮，得種種味；我亦如是，從佛數聞，多得法味，所謂出家味、離欲味、寂滅味、道味。世尊！譬如真金，數數燒打，融消鍊治，轉更明淨，調和柔軟，光色微妙，其價難量，然後乃為人天寶重。世尊！如來亦爾，鄭重諮問，則得聞見甚深之義，令深行者受持奉修，無量眾生發阿耨多羅三藐三菩提心，然後為諸人天所宗，恭敬供養。」

> 迦葉菩薩が仏に申し上げました。 「世尊よ、ちょうどサトウキビを繰り返し煮詰めると、さまざまな味が得られるように、私もまた、仏から繰り返しお聞きすることで、多くの法の味わいを得ました。すなわち、出家の味、欲を離れる味、寂滅の味、道の味です。 世尊よ、ちょうど純金を繰り返し焼き打ちし、溶かし鍛えることで、より一層明るく清らかになり、調和して柔らかく、光と色が微妙で、その価値は測り難くなり、それから初めて人々や天の宝として重んじられるように。 世尊よ、如来もまた同じです。丁寧に尋ね問うことで、甚深なる義を聞き見ることができ、深く修行する者がそれを受け持ち奉じ修め、無量の衆生が阿耨多羅三藐三菩提心を発し、それから諸々の人々や天の宗仰するところとなり、恭敬供養されるのです。」

爾時佛讚迦葉菩薩：「善哉，善哉！菩薩摩訶薩為欲利益諸眾生故，諮啟如來如是深義。善男子！以是義故，我隨汝意，說於大乘方等甚深祕密之法，所謂極愛如一子地。」

> その時、仏は迦葉菩薩を称えて言われた。 「善きかな、善きかな！菩薩摩訶薩よ、あらゆる衆生の利益のために、このように深遠な意義を如来に問い啓いたことを。善男子よ、この意義によって、私は汝の意に従い、大乗の広大で平等なる甚深秘密の法を説こう。いわゆる『極愛一子の地』である。」

迦葉菩薩白佛言：「世尊！若諸菩薩修慈、悲、喜，得一子地者，修捨心時，復得何地？」

> 迦葉菩薩が仏に申し上げました。「世尊よ、もし諸々の菩薩が慈・悲・喜を修めて一子地を得たならば、捨心を修める時には、さらにどのような境地を得るのでしょうか。」

佛言：「善哉，善哉！善男子！汝善知時，知我欲說，汝則諮問。菩薩摩訶薩修捨心時，則得住於空平等地，如須菩提。善男子！菩薩摩訶薩住空平等地，則不見有父母、兄弟、姊妹、兒息、親族、知識、怨憎中人，乃至不見陰界諸入、眾生、壽命。善男子！譬如虛空，無有父母、兄弟、妻子，乃至無有眾生、壽命。一切諸法，亦復如是，無有父母乃至壽命。菩薩摩訶薩見一切法，亦復如是，其心平等，如彼虛空。何以故？善能修習諸空法故。」

> 仏は言われた。「善きかな、善きかな！善男子よ、汝は時をよく知り、我が説かんとすることを知って、問いを発した。菩薩摩訶薩が捨の心を修める時、空平等の地に住することを得る。須菩提の如くである。善男子よ、菩薩摩訶薩が空平等の地に住すれば、父母、兄弟、姉妹、子孫、親族、知人、怨憎する者すら見ず、ましてや五陰・十八界・十二入、衆生、寿命をも見ない。善男子よ、譬えば虚空に、父母、兄弟、妻子が無く、ましてや衆生、寿命が無いが如くである。一切の諸法もまた如是にして、父母より寿命に至るまで無い。菩薩摩訶薩が一切の法を見ることもまた如是にして、その心は平等、あの虚空の如し。何故か。諸の空法を善く修習するが故である。」

迦葉菩薩白佛言：「世尊！云何名空？」

> 迦葉菩薩が仏に尋ねました：「世尊、空とは何でしょうか？」

「善男子！空者，所謂內空、外空、內外空、有為空、無為空、無始空、性空、無所有空、第一義空、空空、大空。菩薩摩訶薩云何觀於內空？是菩薩摩訶薩觀內法空，是內法空，謂無父母、怨親中人、眾生壽命、常樂我淨、如來、法、僧、所有財物。是內法中，雖有佛性，而是佛性，非內非外。所以者何？佛性常住，無變易故，是名菩薩摩訶薩觀於內空。外空者，亦復如是，無有內法。內外空者，亦復如是。善男子！唯有如來、法、僧、佛性，不在二空。何以故？如是四法，常、樂、我、淨，是故四法，不名為空。是名內外俱空。善男子！有為空者，有為之法悉皆是空，所謂內空、外空、內外空、常樂我淨空、眾生壽命如來法僧第一義空。是中佛性，非有為法，是故佛性非有為法空。是名有為空。善男子！云何菩薩摩訶薩觀無為空？是無為法，悉皆是空，所謂無常、苦、不淨、無我、陰界入、眾生、壽命相、有為、有漏、內法、外法。無為法中，佛等四法，非有為，非無為。性是善故，非無為，性常住故，非有為。是名菩薩觀無為空。云何菩薩摩訶薩觀無始空？是菩薩摩訶薩見生死無始，皆悉空寂。所謂空者，常樂我淨，皆悉空寂，無有變易，眾生壽命三寶佛性及無為法，是名菩薩觀無始空。云何菩薩觀於性空？是菩薩摩訶薩觀一切法，本性皆空，謂陰界入、常、無常、苦、樂、淨、不淨、我、無我，觀如是等一切諸法，不見本性，是名菩薩摩訶薩觀於性空。云何菩薩摩訶薩觀無所有空？如人無子，言舍宅空，畢竟觀空，無有親愛。愚癡之人，言諸方空。貧窮之人，言一切空。如是所計，或空、或非空。菩薩觀時，如貧窮人，一切皆空，是名菩薩摩訶薩觀無所有空。云何菩薩摩訶薩觀第一義空？善男子！菩薩摩訶薩觀第一義時，是眼生時，無所從來，及其滅時，去無所至；本無今有，已有還無；推其實性，無眼無主。如眼無性，一切諸法亦復如是。何等名為第一義空？有業、有報，不見作者，如是空法，名第一義空，是名菩薩摩訶薩觀第一義空。云何菩薩摩訶薩觀於空空？是空空中，乃是聲聞辟支佛等所迷沒處。善男子！是有、是無，是名空空；是是、非是是，是名空空。善男子！十住菩薩尚於是中，通達少分猶如微塵，況復餘人。善男子！如是空空，亦不同於聲聞所得空空三昧，是名菩薩觀於空空。善男子！云何菩薩摩訶薩觀於大空？善男子！言大空者，謂般若波羅蜜，是名大空。善男子！菩薩摩訶薩得如是空門，則得住於虛空等地。

「善男子！我今於是大眾之中說如是等諸空義時，有十恒河沙等菩薩摩訶薩，即得住於虛空等地。善男子！菩薩摩訶薩住是地已，於一切法中，無有滯礙、繫縛、拘執，心無迷悶，以是義故，名虛空等地。善男子！譬如虛空，於可愛色，不生貪著；不愛色中，不生瞋恚。菩薩摩訶薩住是地中，亦復如是，於好惡色，心無貪、恚。善男子！譬如虛空，廣大無對，悉能容受一切諸法。菩薩摩訶薩住是地中亦復如是，廣大無對，悉能容受一切諸法，以是義故，復得名為虛空等地。

> 善男子よ、今、私はこの大衆の中で、このようなさまざまな空の教えを説いたとき、十のガンジス川の砂の数ほどの菩薩摩訶薩が、ただちに虚空等地に住する境地を得ました。 善男子よ、菩薩摩訶薩がこの地に住するとき、一切の法に対して、滞りもなく、縛られることもなく、執われることもなく、心に迷いやもやもやとした苦しみはありません。このゆえに、虚空等地と名づけられるのです。 善男子よ、ちょうど虚空が、好ましい色に対して貪り執着せず、好ましくない色に対して怒りを抱かないように、菩薩摩訶薩がこの地に住するときも同じです。良い色にも悪い色にも、心に貪りも怒りもありません。 善男子よ、ちょうど虚空が広大で比べるものもなく、一切の諸法をすべて受け入れることができるように、菩薩摩訶薩がこの地に住するときも同じです。広大で比べるものもなく、一切の諸法をすべて受け入れることができるのです。このゆえに、再び虚空等地と名づけられるのです。

「善男子！菩薩摩訶薩住是地中，於一切法亦見、亦知，若行、若緣，若性、若相、若因若緣、若眾生心、若根、若禪定、若乘，若善知識、若持禁戒、若所施，如是等法一切知見。復次善男子！菩薩摩訶薩住是地中，知而不見。云何為知？知自餓法、投淵赴火、自墜高巖、常翹一脚、五熱炙身、常臥灰土、棘刺編椽、樹葉惡草牛糞之上，衣麁麻衣、塚間所棄糞掃氀褐、欽婆羅衣、麞鹿皮革、芻草衣裳，茹菜、噉草、藕根、油滓、牛糞根果。若行乞食，限從一家，主若言無，即便捨去，設復還喚，終不迴顧。不食鹽肉五種牛味，常所飲服糠汁沸湯，受持牛戒、狗鷄雉戒、以灰塗身、長髮為相，以羊祠時，先呪後殺。四月事火，七日服風，百千億花，供養諸天。諸所欲願、因此成就。如是等法，能為無上解脫因者，無有是處。是名為知。云何不見？菩薩摩訶薩不見一人，行如是法，得正解脫，是名不見。

> 善男子よ、菩薩摩訶薩はこの境地に住して、一切の法について見もすれば知りもする。行いであれ、縁であれ、性質であれ、相であれ、因であれ、縁であれ、衆生の心であれ、根機であれ、禅定であれ、乗であれ、善知識であれ、戒律を保つことであれ、施しであれ、このようなすべての法を一切知見するのである。 さらに善男子よ、菩薩摩訶薩はこの境地に住して、知りつつも見ない。何を知るというのか？　自ら飢える法、淵に飛び込み火に身を投げる、高い岩から自ら落ちる、常に片足を上げ続ける、五つの熱で身を炙る、常に灰や土の上に臥す、棘や刺で編んだ敷物、木の葉や悪草、牛糞の上に座る、粗末な麻の衣を着る、墓場で捨てられた糞掃衣や毛織りのぼろ、欽婆羅衣、麞や鹿の皮革、刈り草で作った衣、野菜を食べ、草を噛み、蓮根や油かす、牛糞や根菜を食す。もし乞食を行うなら、一軒の家に限り、家主が「ない」と言えばすぐに去り、たとえ呼び戻されても決して振り返らない。塩や肉、五種類の牛の味を食べず、常に飲むのは糠汁や沸騰した湯、牛の戒め、犬や鶏や雉の戒めを受持し、灰を身に塗り、長い髪を特徴とし、羊を祀る時にはまず呪文を唱えてから殺す。四か月火を祀り、七日間風を服し、百千億の花で諸天を供養する。このような願いがそれによって成就するというのである。このような法が無上の解脱の因となり得るということは、決してありえない。これを「知る」というのである。 何を見ないというのか？　菩薩摩訶薩は、一人としてこのような法を行い、正しい解脱を得た者を見ない。これを「見ない」というのである。

「復次善男子！菩薩摩訶薩亦見、亦知。何等為見？見諸眾生，行是邪法，必墮地獄，是名為見。云何為知？知諸眾生，從地獄出，生於人中，若能修行檀波羅蜜，乃至具足諸波羅蜜，是人必得入正解脫，是名為知。復次善男子！菩薩摩訶薩復有亦見、亦知。云何為見？見常無常、苦樂、淨不淨、我無我，是名為見。云何為知？知諸如來定不畢竟入於涅槃，知如來身金剛無壞，非是煩惱所成就身，又非臭穢腐敗之身，亦復能知一切眾生悉有佛性，是名為知。復次善男子！菩薩摩訶薩復有亦知、亦見。云何為知？知是眾生信心成就，知是眾生求於大乘；是人順流，是人逆流，是人正住，知是眾生已到彼岸。順流者謂凡夫人，逆流者從須陀洹乃至緣覺，正住者諸菩薩等，到彼岸者所謂如來、應、正遍知。是名為知。云何為見？菩薩摩訶薩住於大乘大涅槃典，修梵行心，以淨天眼，見諸眾生造身、口、意三業不善，墮於地獄、畜生、餓鬼。見諸眾生修善業者，命終當生天上、人中。見諸眾生從闇入闇，有諸眾生從闇入明，有諸眾生從明入闇，有諸眾生從明入明。是名為見。

> さらに、善男子よ。菩薩摩訶薩は、見るとともに知るのである。何を「見る」というか。あらゆる衆生が邪なる法を行えば、必ず地獄に堕ちることを見る。これを「見る」という。何を「知る」というか。地獄から出て人間に生まれた衆生が、もし布施波羅蜜を修行し、さらにすべての波羅蜜を具足するならば、その人は必ず正しい解脱に入ることを知る。これを「知る」という。 さらに、善男子よ。菩薩摩訶薩には、また見るとともに知るということがある。何を「見る」というか。常と無常、苦と楽、浄と不浄、我と無我を見る。これを「見る」という。何を「知る」というか。如来は決して畢竟涅槃に入ることはなく、如来の身は金剛のように壊れず、煩悩によって成った身でもなく、また臭く穢れた腐敗する身でもないことを知る。さらに、すべての衆生がことごとく仏性をそなえていることを知る。これを「知る」という。 さらに、善男子よ。菩薩摩訶薩には、また知るとともに見るということがある。何を「知る」というか。この衆生は信心が成就し、大乗を求めることを知る。この人は順流であり、この人は逆流であり、この人は正住であり、この衆生はすでに彼岸に到ったことを知る。順流とは凡夫のことであり、逆流とは須陀洹から縁覚までのことであり、正住とは諸菩薩などのことであり、彼岸に到った者とは、いわゆる如来・応供・正遍知である。これを「知る」という。何を「見る」というか。菩薩摩訶薩は大乗の大涅槃経に住し、清らかな行いの心を修め、浄い天眼をもって、諸々の衆生が身・口・意の三業の不善を造り、地獄・畜生・餓鬼に堕ちるのを見る。また、善い業を修める衆生が命終わって天上や人間に生まれるのを見る。闇から闇に入る衆生を見、闇から明に入る衆生を見、明から闇に入る衆生を見、明から明に入る衆生を見る。これを「見る」という。

「復次善男子！菩薩摩訶薩復有亦知、亦見。菩薩摩訶薩知諸眾生修身、修戒、修心、修慧；是人今世惡業成就，或因貪欲、瞋恚、愚癡，是業必應地獄受報；是人直以修身、修戒、修心、修慧，現世輕受，不墮地獄。云何是業能得現報？懺悔發露所有諸惡，既悔之後更不敢作。慚愧成就故、供養三寶故、常自呵責故，是人以是善業因緣，不墮地獄現世受報。所謂頭痛、目痛、腹痛、背痛、橫羅死殃，呵責罵辱、鞭杖閉繫、飢餓困苦，受如是等現世輕報。是名為知。云何為見？菩薩摩訶薩見如是人，不能修習身、戒、心、慧，造少惡業，此業因緣，應現受報。是人少惡不能懺悔，不自呵責、不生慚愧、無有怖懼，是業增長，地獄受報。是名為見。

> また、善き男子よ、菩薩摩訶薩にはさらに「知る」ことも「見る」こともあります。 菩薩摩訶薩は、衆生が身を修め、戒を修め、心を修め、慧を修めることを知っています。その人が今世で悪業を成し遂げ、あるいは貪欲・瞋恚・愚癡によって、その業は必ず地獄で報いを受けるべきものであったとします。しかし、その人がただ身・戒・心・慧を修めることによって、現世で軽い報いを受け、地獄に堕ちることはありません。 どうしてその業が現世で報いを受けることができるのでしょうか。すべての悪を懺悔し、露わにし、悔いた後は二度と行わないからです。慚愧が成就し、三宝を供養し、常に自らを呵責するからです。この人はこの善業の因縁によって、地獄に堕ちずに現世で報いを受けます。いわゆる頭痛、目痛、腹痛、背痛、不慮の死や災い、呵責や罵辱、鞭打ちや投獄、飢餓や困苦など、このような現世の軽い報いを受けるのです。これを「知る」と言います。 では、「見る」とはどういうことでしょうか。菩薩摩訶薩は、このような人が身・戒・心・慧を修習せず、少しの悪業を造り、この業の因縁によって現世で報いを受けるべきであるのを見ます。この人は少しの悪でも懺悔せず、自らを呵責せず、慚愧を生ぜず、怖れも恐れもありません。そのため、この業は増長し、地獄で報いを受けることになります。これを「見る」と言います。

「復有知而不見。云何知而不見？知諸眾生皆有佛性，為諸煩惱之所覆蔽，不能得見，是名知而不見。復有知而少見，十住菩薩摩訶薩，等知諸眾生皆有佛性，見不明了，猶如闇夜所見不了。復有亦見、亦知，所謂諸佛如來，亦見亦知。復有亦見亦知、不見不知，亦見亦知者，所謂世間文字、言語、男女、車乘瓶瓫、舍宅城邑、衣裳飲食、山河園林、眾生壽命，是名亦知亦見。云何不見不知？聖人所有微密之語，無有男女乃至園林，是名不見不知。復有知而不見，知所惠施、知所供處、知於受者、知因果報，是名為知。云何不見？不見所施、供處受者、及以果報，是名不見。菩薩摩訶薩知有八種，即是如來五眼所知。」

> また、知っていても見えないということがあります。どういうことかというと、すべての衆生には仏性があると知っていながら、煩悩に覆われて見ることができない、これを知っていても見えないといいます。 また、知っていてもわずかにしか見えないということがあります。十住の菩薩摩訶薩は、すべての衆生に仏性があることを等しく知っていますが、その見方は明らかではなく、まるで闇夜にものを見るようにはっきりしません。 また、見ても知ることもある、ということがあります。諸仏如来がそれで、見ても知ることもあるのです。 また、見ても知ることもあり、見えず知らないこともある、ということがあります。見ても知ることもあるとは、世間の文字や言葉、男女、車や瓶、家や町、衣服や飲食、山河や庭園、衆生の寿命などを指し、これを知っても見えるといいます。では、見えず知らないとは何か。聖人の秘められた言葉には、男女や庭園といったものはなく、これが見えず知らないということです。 また、知っていても見えないということがあります。施しをすることを知り、供養する場所を知り、受け取る者を知り、因果の報いを知る、これを知っているといいます。では、見えないとはどういうことか。施すもの、供養する場所、受け取る者、そして果報を見ることができない、これが見えないということです。 菩薩摩訶薩には八種類の知り方がありますが、これこそが如来の五眼によって知られるものなのです。

## 大般涅槃經卷第十六

> 大般涅槃経　巻第十六