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title: "楞嚴經纂註 · No. 300-B"
description: "楞嚴經纂註是明代高僧真界对《楞严经》的重要注释著作。真界为明末佛教天台宗代表人物，精通经论，其纂註以天台宗思想为基础，融合诸家学说，对《楞严经》进行了系统阐释。该书从教理、修行、证果等多角度解析经文，尤其对“二十五圆通”“五十阴魔”等核心内容有独到见解，为研究《楞严经》提供了重要参考。作为汉传佛教重要经典，《楞严经》素有“开悟楞严”之称，真界纂註因其权威性成为后世研究该经的必读注疏，在佛教思想史与修行实践上均具深远影响。"
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### No. 300-B

> No. 300-B

歲戊寅，予於山中讀楞嚴，時諸名衲畢集。予訊經中如是世界，因動有聲，因聲有色，義酬者悉枝蔓。幻居上人獨謂予曰：動為業本，一切諸法，本自寂滅，一念心動，六亂橫生。其言因動有聲，因聲有色，謂一涉於有，則法法皆有耳。予灑然異之。乃上人於此經，朝夕探索不已。逮甲午，越十有七年，其所纂註，四易藁而成，以示予於秣陵。且謂予曰：曩子所問，予所告者，何獨一章之旨，實囊括全經矣。夫因動有聲，顛倒眾生因之輪轉也；入流亡所，觀音大士以之圓通也。蓋心本無心，相元無相，而眾生不覺，一念妄動。由塵發知，妄見於心；因根起相，妄見於相。由是而七趣昏擾，沒溺長夜，動也。若達相見無性，猶若交蘆，則內無能推之心，外無所現之相。由是而動靜二相，了然不生，空所空滅，寂滅現前，亡也。動則見空見色，故曰：迷妄有虗空，依空立世界也。亡則空色皆真，故曰：一人發真歸元，十方虗空悉皆銷殞也。是故七徵之所破者，破此動也；八還之不可還者，還此亡也。動則聽不越聲，視不踰色，一身且胡越；亡則陰入處界莫非妙圓，地水火風不相陵滅，殫二十五聖之所證，窮五十五位之所詣，皆盡此動，竟此亡耳。故曰：入於如來妙莊嚴海，圓滿菩提，歸無所得。予曰：歸無所得，又何以見？何以修？何以證也？曰：動則有苦，非見無所得，修無所得，證無所得，無以息苦也。雖在十地，猶有學佛煩惱，況具縛哉？予聞之，若喝者之得泠風。上人命予卒讀其書，意或有所異同乎？予掩卷曰：子既已示我矣，見狻猊而復欲試其猛力，不亦過計乎？註之得於長水、溫陵者十之七，得於泐潭、孤山諸家者十之二，得於上人之獨見者十之一。諸師名號不復錄，以融而為一，則經旨脉絡相屬，讀者為便。且諸師所說，世習見之，讀可自見也。此上人所語予者，卒之卷未嘗展也。

> 歳は戊寅、私は山中で『楞厳経』を読んでいた。その時、有名な高僧たちが皆集まっていた。私は経典の中の「このような世界は、動きによって音が生じ、音によって色が生じる」という意味を尋ねたが、答える者たちは皆、枝葉末節にこだわっていた。すると幻居上人が私に一言告げた。「動きは業の根本である。すべての諸法は本来寂滅しているが、一念の心が動くと六つの乱れが横たわって生じる。『動きによって音が生じ、音によって色が生じる』という言葉は、一たび『有』に関われば、あらゆる法が『有』となるということを言っているのだ。」私は、はっと驚き、その意見に異を唱えた。上人はこの経典を朝夕休むことなく探求し続けた。やがて甲午年、十七年が過ぎて、彼が編纂した注釈は四度の改稿を経て完成し、秣陵で私に見せてくれた。そして私にこう言った。「かつてあなたが質問し、私が答えたことは、一つの章の趣旨にとどまらず、実は全経をおさめているのだ。」「動きによって音が生じる」というのは、迷いの凡夫がそれによって輪廻する所以であり、「流れに入り、消える所」とは、観音菩薩がそれによって円通を得た所以である。心はもともと無心であり、相はもともと無相である。しかし凡夫は気づかず、一念の妄動を起こす。塵から知覚を発し、心に妄見を生じる。根に基づいて相を起こし、相に妄見を生じる。これによって七つの趣（地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天）は暗く乱れ、長い夜に溺れ沈む。これが「動」である。もし相と見に実体がないことを悟り、まるで重なり合った葦のようなものであると知れば、内には推し量る心なく、外には現れる相もない。これによって動と静の二相は、はっきりと生じず、空も空にするものも消え去り、寂滅が現前する。これが「亡」である。「動」ならば空を見、色を見る。ゆえに「迷妄に虚空があり、空に依って世界を立てる」という。「亡」ならば空も色も真実となる。ゆえに「一人が真に帰依し元に戻れば、十方の虚空はすべて消え失せる」という。ゆえに七つの徴証が破るものは、この「動」を破るのである。八つの還すべきものは、この「亡」を還すのである。「動」ならば耳は音を超えず、目は色を超えず、一つの身体さえも遠く離れてしまう。「亡」ならば、五陰・十二入・十八界のすべてが妙円であり、地・水・火・風も互いに侵し滅ぼさない。二十五聖の悟りの境地も、五十五位の修行の到達点も、すべてこの「動」を極め、この「亡」を究めるにすぎない。ゆえに「如来の妙荘厳海に入り、円満な菩提を成就し、帰するところは得るものなし」というのである。私は言った。「帰するところ得るものなし、では、どうやって見、どうやって修し、どうやって証するのですか？」上人は答えた。「動きがあるから苦しみがある。得るものなしに見、得るものなしに修し、得るものなしに証しなければ、苦しみを止めることはできない。たとえ十地にあっても、なお仏道を学ぶ煩悩がある。ましてや煩悩に縛られた凡夫がどうして免れられようか。」私はこれを聞いて、まるで熱い時に冷たい風に当たったような心地がした。上人は私にその書を最後まで読むよう求めた。もしかすると私に異論があるかと思ったのだろう。私は書を閉じて言った。「あなたはすでに私に示してくださった。獅子を見て、さらにその猛力を試そうとするのは、あまりにやりすぎというものではないだろうか。」この注釈は、長水と温陵から十の七を得、泐潭や孤山などの諸家から十の二を得、上人の独自の見解から十の一を得ている。諸師の名号はあえて記さず、それらを一つに融合することで、経典の主旨と脈絡がつながり、読者にとって分かりやすくなっている。また、諸師の説は世に広く知られているので、読めば自然に理解できるだろう。これが上人が私に語ったことであり、結局、私はその書を最後まで開くことはなかった。

萬歷甲午十月晦日，那羅延窟學人瞿汝稷槃談撰

> （原文なし：上記は著作情報のみであり、本文がないため翻訳できません）