---
title: "準提心要 · 準提心要序"
description: "《準提心要》由明代佛教居士施堯挺所撰，是一部阐述準提法门的修行要典。该书成书于明代，融合了汉传佛教与密宗思想，系统论述了準提菩萨的修持仪轨、真言持诵及观想方法，强调通过身口意三密相应达成解脱。作为準提法的重要文献，该书在明清佛教中影响深远，为修行者提供了简明实用的实践指南，至今仍被汉传佛教徒奉为修持準提法门的核心典籍之一，体现了显密圆融的佛教特色。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cm9wmcp1q0wd8js0vart88z8j"
---

### 準提心要序

經言佛國無諸女人。解之者曰。女人作佛者皆變成佛相。不復有女人舊相也。而準提王獨以佛母名者何哉。一日瞻拜之下。忽有思曰。母者養育之義也。慈愛之稱也。葢父師之督責不能施於有生之初。母氏之劬勞偏能適其赤子之性。古佛之戒律甚嚴。父師教誨之道也。準提之接引甚寬。母氏慈祥之德也。何者古佛欲眾生之出世也。必嚴其防而正告之。曰。人生好色者不能成佛。爾之妻子不必有也。人生殘忍者不能成佛。爾於有情之肉不必食也。人生迷亂其性者不能成佛。爾於清酒美醴不必染指而沾唇也。其教可謂嚴矣。於是眾生能者從之。不能者去之。準提王慮其從之者少。去之者多也。因立一法。以誘之曰。爾能從吾教。吾聽爾有妻子也。但勿邪淫足矣。爾能從吾教。吾聽爾食肉以果腹也。但一月數齋戒足矣。爾能從吾教。吾聽爾取旨酒而少甞之也。但令溫克不沉湎焉亦足矣。若爾不吾信。將爾所欲求如官爵。如眷屬。如寶珠。仙藥之難致者。第從吾教而誦吾呪皆可大慰其懷。來吾教不以飲酒食肉有妻子之故而拒絕於爾也。亦見吾教之寬而可從乎。於是眾生之從佛者。聞準提之名而信之向之。即眾生之不從佛者。亦聞準提之名而信之向之。所以然者何也。人情畏父師之嚴。樂母氏之寬。故世尊之法人畏其難。準提之法人樂其寬。此佛母之名所由來也歟。雖然立教者既寬而奉教者又欲嚴。必體慈母愛子之心。如臨深如履薄。有善必進。有過必知而改。然後可以立身揚名耳。倘恃母氏之寬而不吾責也。遂肆情欲以自陷於罪戾。雖有聖善之母不能為之地。是可悲也。夫是可畏也。夫奉準提者必作如是觀。方有合於準提之旨也。請以是言為序。

> 経典には、仏の国には女性はいないと説かれています。これを解釈する人は、女性が仏となる時は皆、仏の相に変わり、もはや女性の旧い相は残らないと説明します。ではなぜ、准提王だけが「仏母」という名で呼ばれるのでしょうか。ある日、礼拝しているうちに、ふと思い至りました。「母」とは養育の意味であり、慈愛の呼び名です。父や師の厳しい督責は、生まれたばかりの子には行えませんが、母の労苦は、まさに赤子の性質に適っています。古仏の戒律は非常に厳しく、これは父や師が教え諭す道です。准提の衆生を導く方法は非常に寛大で、これは母の慈しみに満ちた徳です。なぜなら、古仏は衆生をこの世から解脱させようとすれば、必ず厳しく防ぎ、正しく告げるからです。「人生において好色な者は仏になれない。お前の妻子は必ずしも持つ必要はない。人生において残忍な者は仏になれない。お前は有情の肉を必ずしも食べる必要はない。人生において自らの本性を迷わす者は仏になれない。お前は清酒や美酒に必ずしも手を染め、唇を濡らす必要はない」と。その教えは厳しいと言えるでしょう。そこで、衆生はできる者は従い、できない者は去ります。准提王は、従う者が少なく、去る者が多いことを憂い、一つの法を立てて彼らを誘います。「もしお前が我が教えに従えるなら、妻子を持つことを許そう。ただ邪淫さえしなければ十分だ。もし我が教えに従えるなら、腹を満たすために肉を食べることを許そう。ただ月に数回の斎戒があれば十分だ。もし我が教えに従えるなら、旨い酒を取って少し味わうことを許そう。ただ温和に自制し、深く溺れなければそれで十分だ。もしお前が我を信じないなら、お前が求めるもの、例えば官位や爵位、家族、宝珠、仙薬など、手に入れにくいものであっても、ただ我が教えに従い、我が呪文を唱えれば、皆、大いに心を慰められるだろう。我が教えは、酒を飲み、肉を食べ、妻子を持つことを理由にお前を拒絶することはない。我が教えの寛大さと従いやすさを見よ」と。こうして、仏に従う衆生は、准提の名を聞いて信じ、向かいます。仏に従わない衆生でさえも、准提の名を聞いて信じ、向かいます。なぜそうなるのでしょうか。人情として、父や師の厳しさを恐れ、母の寛大さを喜ぶからです。だから、世尊の法は人々にその難しさを恐れさせ、准提の法は人々にその寛大さを喜ばせる。これが「仏母」という名の由来なのでしょう。しかしながら、教えを立てる者が寛大であっても、教えを奉じる者はさらに厳しくあろうとしなければなりません。慈母が子を愛する心を必ず体現し、深淵に臨むがごとく、薄氷を踏むがごとく、善があれば必ず進み、過ちがあれば必ず知って改めなければなりません。そうして初めて、身を立て名を揚げることができるのです。もし母の寛大さを頼みにして、自分を責めないからといって、情欲にふけり、自ら罪に陥るならば、たとえ聖なる善なる母であっても、その場を救うことはできません。これは悲しむべきことです。これは恐るべきことです。准提を奉じる者は、必ずこのように観想し、初めて准提の趣旨に合致するのです。この言葉を序とさせていただきます。

天運壬子歲長至日閩中佛弟子施堯挺薰沐拜撰

> 天運壬子の年の長至の日に、閩中の仏弟子施堯挺、身を清めて拝みて撰す。