---
title: "中阿含經 · 15 思經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma7j3z5n01a1jl0avtel6kzs"
---

### （一五）中阿含業相應品思經第五初一日誦

> （一五）中阿含 業相応品 思経 第五<note>初一日誦</note>

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊舍衛國，在勝林給孤獨園。

> ある時、お釈迦さまは舎衛国に滞在され、勝林給孤独園におられました。

爾時，世尊告諸比丘：「若有故作業，我說彼必受其報，或現世受，或後世受；若不故作業，我說此不必受報。於中，身故作三業，不善與苦果受於苦報；口有四業，意有三業，不善與苦果受於苦報。

> その時、世尊は比丘たちに告げられた。 「もし故意に行った行いがあれば、その報いは必ず受けることになる。現世で受けることもあれば、後の世で受けることもある。しかし、故意でない行いに対しては、必ずしも報いを受けるわけではない。 その中で、身体による故意の行いは三つあり、善くないものは苦い結果をもたらし、苦しい報いを受けることになる。口による行いは四つ、心による行いは三つある。それらも善くないものは苦い結果をもたらし、苦しい報いを受けることになる。」

「云何身故作三業，不善與苦果受於苦報？一曰殺生，極惡飲血，其欲傷害，不慈眾生，乃至蜫蟲。二曰不與取，著他財物以偷意取。三曰邪婬，彼或有父所護，或母所護，或父母所護，或姉妹所護，或兄弟所護，或婦父母所護，或親親所護，或同姓所護，或為他婦女，有鞭罰恐怖，及有名假賃至華鬘，親犯如此女。是謂身故作三業，不善與苦果受於苦報。

> 身によってつくられる三つの悪い行いとは何か。それは不善であり、苦しみという結果をもたらし、苦しい報いを受けることになる。 第一に、殺生である。これは極めて悪質で、血を流すことを厭わず、害を加えようと欲し、生きとし生けるものに対して慈しみの心を持たず、小さな虫にいたるまで殺してしまうことである。 第二に、盗みである。他人の財物を欲しがり、盗む心でそれを自分のものとすることである。 第三に、邪淫である。すなわち、父親に守られている女性、母親に守られている女性、両親に守られている女性、姉妹に守られている女性、兄弟に守られている女性、舅や姑に守られている女性、親族に守られている女性、同姓に守られている女性、あるいは他の男性の妻であり、鞭打ちなどの罰や恐怖から守られている女性、さらには約束や仮の関係で花飾りを与えられた女性など、そのような女性とみだりに関係を持つことである。 これらを、身によってつくられる三つの悪い行いという。これらは不善であり、苦しみという結果をもたらし、苦しい報いを受けることになる。

「云何口故作四業，不善與苦果受於苦報？一曰妄言，彼或在眾，或在眷屬，或在王家，若呼彼問，汝知便說，彼不知言知，知言不知，不見言見，見言不見，為己為他，或為財物，知已妄言。二曰兩舌，欲離別他，聞此語彼，欲破壞此，聞彼語此，欲破壞彼，合者欲離，離者復離，而作群黨，樂於群黨，稱說群黨。三曰麤言，彼若有言，辭氣麤獷，惡聲逆耳，眾所不喜，眾所不愛，使他苦惱，令不得定，說如是言。四曰綺語，彼非時說，不真實說，無義說，非法說，不止息說，又復稱歎不止息事，違背於時而不善教，亦不善訶。是謂口故作四業，不善與苦果受於苦報。

> 「口で行う四つの悪い行いとは何か。それは善ではなく、苦しみという結果をもたらすものである。 第一に、偽りの言葉（妄語）である。例えば、大勢の人々の中や、親族の中、あるいは王様の前で呼ばれて『知っていることを話しなさい』と問われた時、知らないのに知っていると言い、知っているのに知らないと言い、見ていないのに見たと言い、見たのに見ていないと言う。自分のため、他人のため、あるいは財物のために、知りながら偽りの言葉を語ることである。 第二に、仲違いの言葉（両舌）である。人々を離別させようとして、こちらで聞いたことをあちらに話し、あちらで聞いたことをこちらに話す。仲良くしている人を引き裂こうとし、離ればなれになった人をさらに遠ざける。また、仲間を作り、仲間に加わることを楽しみ、仲間の良さを褒め称えることである。 第三に、荒々しい言葉（麤語）である。語気が荒く乱暴で、耳に障り、多くの人の好みに合わず、人々に愛されず、他人を苦しめ、心の安らぎを得させないような言葉を発することである。 第四に、無駄な言葉（綺語）である。時機に適さない時に話し、真実でないことを話し、意味のないことを話し、道理に反することを話し、際限なく話し、また際限のないことを称賛し、時節に反し、善い教えともならず、善い戒めともならないことを話すことである。 これらを、口で行う四つの悪い行いという。これらは善ではなく、苦しみという結果をもたらすのである。」

「云何意故作三業，不善與苦果受於苦報？一曰貪伺，見他財物諸生活具，常伺求望，欲令我得。二曰嫉恚，意懷憎嫉而作是念：『彼眾生者，應殺、應縛、應收、應免、應逐擯出。』其欲令彼受無量苦。三曰邪見，所見顛倒，如是見、如是說：無施、無齋、無有呪說，無善惡業，無善惡業報，無此世彼世，無父無母，世無真人往至善處、善去、善向，此世彼世，自知、自覺、自作證成就遊。是謂意故作三業，不善與苦果受於苦報。

> 意によって三つの業が作られ、不善で苦い果報をもたらし、苦しい報いを受けるとは、どのようなものか。 第一に、貪欲な思い（貪伺）である。他人の財産や生活に必要な品々を見て、常にそれを欲しがり、「どうか私のものになりますように」と願い求めることである。 第二に、嫉妬と怒り（嫉恚）である。心に憎しみと嫉みを抱いて、こう思う。「あの生き物は、殺されるべきだ。縛られるべきだ。捕らえられるべきだ。追放されるべきだ」と。そして、その者に限りない苦しみを受けさせたいと願うことである。 第三に、間違った見解（邪見）である。見方が逆さまになっており、次のように見、次のように言う。「施しには意味がない。斎戒には意味がない。呪文の唱えには意味がない。善悪の業は存在しない。善悪の業の報いも存在しない。この世もあの世も存在しない。父も母も存在しない。世の中には、善いところへ行き、善く向かい、この世とあの世を自ら知り、自ら悟り、自ら証して成就する、真の聖者など存在しない」と。 これらが、意によって作られる三つの業であり、不善で苦い果報をもたらし、苦しい報いを受けるものである。

「多聞聖弟子捨身不善業，修身善業，捨口、意不善業，修口、意善業。彼多聞聖弟子如是具足精進戒德，成就身淨業，成就口、意淨業，離恚離諍，除去睡眠，無調貢高，斷疑、度慢，正念正智，無有愚癡，彼心與慈俱，遍滿一方成就遊，如是二三四方、四維上下，普周一切，心與慈俱，無結無怨，無恚無諍，極廣甚大，無量善修，遍滿一切世間成就遊。彼作是念：『我本此心少不善修，我今此心無量善修。』多聞聖弟子其心如是無量善修，若本因惡知識，為放逸行，作不善業，彼不能將去，不能穢汙，不復相隨。若有幼少童男、童女，生便能行慈心解脫者，而於後時，彼身、口、意寧可復作不善業耶？」

> よく学んだ聖なる弟子は、身体の不善な業を捨て、身体の善い業を修めます。口と意の不善な業を捨て、口と意の善い業を修めます。そのよく学んだ聖なる弟子は、このように戒と徳を精進して備え、身体の清らかな業を成就し、口と意の清らかな業を成就し、怒りを離れ、争いを離れ、眠気を除き、高ぶりや慢心がなく、疑いを断ち、思い上がりを超え、正しい念と正しい知恵を持ち、愚かさがありません。その心は慈しみと共にあり、一つの方向に遍く満たして安住します。同様に二、三、四の方向、四隅と上下、あまねく一切にわたって、心は慈しみと共にあり、とどこおりなく、怨みなく、怒りなく、争いなく、極めて広く大きく、無量に善く修められ、一切の世間に遍く満たして安住します。 その者はこう考えます。「かつてこの心はほんのわずかしか善く修められていなかったが、今、この心は無量に善く修められている」と。よく学んだ聖なる弟子の心は、このように無量に善く修められているので、たとえ以前に悪知識につき従い、放逸な行いをして不善な業を作っていたとしても、それは彼を連れ去ることもできず、汚すこともできず、もはや付きまとうことはありません。 例えば、幼い少年や少女が生まれながらにして慈しみによる心の解放を行うことができるなら、その後、その身体、口、意で再び不善な業を作ることがあり得るでしょうか？

比丘答曰：「不也。世尊！所以者何？自不作惡業，惡業何由生？」

> 比丘がお答えしました。「いいえ、世尊。どうしてでしょうか。自ら悪い行いをしなければ、悪い行いなどどうして生じるでしょうか。」

「是以男女在家、出家，常當勤修慈心解脫，若彼男女在家、出家修慈心解脫者，不持此身往至彼世，但隨心去此。比丘應作是念：『我本放逸，作不善業，是一切今可受報，終不後世。』若有如是行慈心解脫無量善修者，必得阿那含，或復上得。如是，悲、喜、心與捨俱，無結無怨，無恚無諍，極廣甚大，無量善修，遍滿一切世間成就遊，彼作是念：『我本此心少不善修，我今此心無量善修。』多聞聖弟子其心如是無量善修，若本因惡知識，為放逸行，作不善業，彼不能將去，不能穢汙，不復相隨。若有幼少童男、童女，生便能行捨心解脫者，而於後時，彼身、口、意寧可復作不善業耶？」

> そこで、在家であれ出家であれ、男性も女性も、常に慈心による解脱を修行すべきです。もし在家や出家の男女が慈心による解脱を修行するならば、この身を持ってあの世へ行くのではなく、心だけが赴くのです。 比丘はこう考えるべきです。「かつて私は放逸で、不善の業をなした。その報いはすべてこの世で受け、来世に持ち越さないようにしよう。」と。 このように慈心による解脱を無限に善く修行するならば、必ず阿那含（不還果）を得るか、あるいはさらに上の果を得るでしょう。 同様に、悲・喜・捨の心と共にあり、結びつきなく、怨みなく、怒りなく、諍いなく、極めて広大で、無限に善く修行し、一切の世間に満ち渡って成就して遊ぶのです。 その人はこう思います。「私はかつてこの心をわずかにしか善く修行していなかった。今、この心は無限に善く修行されている。」と。 よく学んだ聖弟子は、その心がこのように無限に善く修行されています。もし以前に悪知識のゆえに放逸な行いをし、不善の業をなしていたとしても、それらは彼を連れ去ることも、汚すことも、もはや従うこともありません。 もし幼い少年・少女が生まれながらにして捨心による解脱を行えるとしても、その後、その身・口・意が再び不善の業をなすことがあり得るでしょうか？

比丘答曰：「不也。世尊！所以者何？自不作惡業，惡業何由生？」

> 比丘がお答えしました。「いいえ、世尊。どうしてでしょうか。自ら悪い行いをしなければ、悪い行いなどどうして生じるでしょうか。」

「是以男女在家、出家，常當勤修捨心解脫。若彼男女在家、出家修捨心解脫者，不持此身往至彼世，但隨心去此。比丘應作是念：『我本放逸，作不善業，是一切今可受報，終不後世。』若有如是行捨心解脫無量善修者，必得阿那含，或復上得。」

> それゆえ、在家の男女も出家者も、常に心を離れる修行（捨心解脱）を努め励むべきである。もし在家や出家の男女が捨心解脱を修行すれば、この身を持ってあの世に行くのではなく、心とともに去っていくのである。比丘はこう考えるべきだ——「私はかつて放逸であり、不善の業をなした。これらの報いは今この身で受け尽くし、決して来世に持ち越さない」と。このように捨心解脱を無量に善く修めるならば、必ず阿那含（不還果）を得るか、あるいはさらに上の境地に達するであろう。

佛說如是。彼諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。

> このように仏は説かれました。比丘たちは仏の説かれたことを聞き、喜んでお受け取りになりました。

思經第五竟千一百七十四字

> 思経第五終わり<note>千百七十四字</note>