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title: "中阿含經 · 75 淨不動道經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
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### （七五）中阿含長壽王品淨不動道經第四第二小土城誦

> （七五）中阿含 長寿王品 浄不動道経 第四

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊拘樓瘦，在劒磨瑟曇拘樓都邑。

爾時，世尊告諸比丘：「欲者無常、虛偽、妄言，是妄言法，則是幻化、欺誑、愚癡。若現世欲及後世欲，若現世色及後世色，彼一切是魔境界，則是魔餌，因此令心生無量惡不善之法，增伺、瞋恚及鬪諍等，謂聖弟子學時為作障礙。多聞聖弟子作如是觀，世尊所說，欲者無常、虛偽、妄言，是妄言法，則是幻化、欺誑、愚癡。若現世欲及後世欲，若現世色及後世色，彼一切是魔境界，則是魔餌，因此令心生無量惡不善之法，增伺、瞋恚及鬪諍等，謂聖弟子學時為作障礙。彼作是念：『我可得大心成就遊，掩伏世間，攝持其心。若我得大心成就遊，掩伏世間，攝持其心者，如是心便不生無量惡不善之法，增伺、瞋恚及鬪諍等，謂聖弟子學時為作障礙。』彼以是行、以是學，如是修習而廣布，便於處得心淨。於處得心淨已，比丘者或於此得入不動，或以慧為解。彼於後時，身壞命終，因本意故，必至不動。是謂第一說淨不動道。

> その時、世尊は比丘たちに告げられた。 「欲望とは、無常であり、偽りであり、虚言であり、まさに虚言の法である。それは幻であり、人を欺き、愚か者を惑わせるものだ。現在の欲望であれ、未来の欲望であれ、現在の色（物質的なもの）であれ、未来の色であれ、それらはすべて魔の領域であり、魔の餌である。それによって心には無数の悪しき不善の法が生まれ、ねたみ、怒り、争いなどが増え広がり、聖なる弟子が学ぶ際の障りとなる。 よく学んだ聖なる弟子はこのように観察する。世尊が説かれた通り、欲望とは無常であり、偽りであり、虚言であり、幻であり、人を欺き、愚か者を惑わせるものだと。現在の欲望も未来の欲望も、現在の色も未来の色も、すべては魔の領域、魔の餌であり、それによって心に無数の悪しき不善の法が生まれ、ねたみ、怒り、争いなどが増え広がり、学びの障りとなるのだと。 そうして彼はこう思う。『私は大いなる心を成就させ、その境地に遊びながら、世間をおおい伏せ、心をしっかりと捉えることができるだろう。もし私が大いなる心を成就させ、世間をおおい伏せ、心を捉えることができたなら、その心には無数の悪しき不善の法、ねたみ、怒り、争いなどは生まれず、学びの障りとなることはないだろう』と。 彼はそのように行い、そのように学び、このように修習し広めることで、その場において心の清らかさを得る。その場で心の清らかさを得たなら、比丘はここから不動の境地に入るか、あるいは智慧によって解脱する。彼はその後、身が壊れ命が尽きるとき、もとのその心のあり方によって、必ず不動の境地に至る。これが第一の清らかで不動なる道の説示である。」

「復次，多聞聖弟子作如是觀，若有色者，彼一切四大及四大造，四大者是無常法，是苦、是滅。彼如是行、如是學，如是修習而廣布，便於處得心淨。於處得心淨已，比丘者或於此得入不動，或以慧為解。彼於後時，身壞命終，因本意故，必至不動。是謂第二說淨不動道。

> また、よく聞き学ぶ聖なる弟子は、こう観じるべきです。「もし色（かたちあるもの）があるなら、それはすべて四大（地・水・火・風）と四大から成るものに過ぎない。四大そのものは無常なる法であり、苦しみであり、滅びゆくものである。」と。 そのように行い、そのように学び、そのように修習して広く実践すれば、心は清らかさを得るでしょう。心の清らかさを得たなら、比丘（僧）はここから動じない境地に入るか、あるいは智慧によって解脱するでしょう。 その後、肉体が壊れ命が尽きるとき、もとの心の向かうところによって、必ず動じない境地に至るのです。これを第二の「清らかな動じない道」の説示とします。

「復次，多聞聖弟子作如是觀，若現世欲及後世欲，若現世色及後世色，若現世欲想、後世欲想，若現世色想、後世色想，彼一切想是無常法、是苦、是滅，彼於爾時必得不動想。彼如是行、如是學，如是修習而廣布，便於處得心淨，於處得心淨已，比丘者或於此得入不動，或以慧為解。彼於後時，身壞命終，因本意故，必至不動。是謂第三說淨不動道。

> さらに、多くの学ある聖なる弟子は、このように観じる。「現在の欲望と未来の欲望、現在の色形と未来の色形、現在の欲望に関する想いと未来の欲望に関する想い、現在の色形に関する想いと未来の色形に関する想い――それら一切の想いは、無常であり、苦しみであり、消え去るものである」と。そのとき、彼は必ず不動の想いを得る。彼がこのように行い、このように学び、このように修習して広く実践するならば、まさにその境地において心は清らかとなる。心が清らかとなったならば、比丘はここにおいて不動に入るか、あるいは智慧によって解脱するかのいずれかである。その後、身が壊れ命が終わるとき、もとの心の働きによって、必ず不動の境地に至る。これが第三の、清らかで不動の道についての説示である。

「復次，多聞聖弟子作如是觀，若現世欲想、後世欲想，若現世色想、後世色想及不動想；彼一切想是無常法、是苦、是滅，彼於爾時得無所有處想。彼如是行、如是學，如是修習而廣布，便於處得心淨，於處得心淨已，比丘者或於此得入不動，或以慧為解。彼於後時，身壞命終，因本意故，必至不動。是謂第一說淨無所有處道。

> さらに、よく学んだ聖なる弟子は次のように観じる。すなわち、今の世の欲望の想い、来世の欲望の想い、今の世の色の想い、来世の色の想い、そして動きのない想い――これらのすべての想いは、無常なる法であり、苦しみであり、消え去るものであると。そのとき、彼は無所有処の想いを得る。彼はこのように行い、このように学び、このように修習して広く実践するならば、その境地において心は清らかとなる。心が清らかとなったならば、比丘はここから動きのない境地に入るか、あるいは智慧によって解脱する。彼はその後、身体が壊れ命が終わるとき、もとよりの意図によって、必ず動きのない境地に至る。これが第一に説かれた、清らかな無所有処への道である。

「復次，多聞聖弟子作如是觀，此世空，空於神、神所有，空有常，空有恒，空長存，空不變易。彼如是行、如是學，如是修習而廣布，便於處得心淨，於處得心淨已，比丘者或於此得入無所有處，或以慧為解。彼於後時，身壞命終，因本意故，必至無所有處。是謂第二說淨無所有處道。

> さらに、多くの教えを聞いた聖なる弟子は、このように観じる。「この世は空である。自己（神）も自己に属するものも空であり、常住なるものは空、永遠なるものは空、長く存続するものは空、不変のものは空である」と。彼がそのように実践し、学び、修習し、広く行き渡らせれば、その境地において心は清らかになる。心が清らかになったならば、比丘（修行者）はあるいはここから「無所有処」に入るか、あるいは智慧によって解脱する。彼はその後、身体が壊れ命が終わるとき、元々の志に従って、必ず無所有処に至る。これを第二の「清らかな無所有処の道」という。

「復次，多聞聖弟子作如是觀，我非為他而有所為，亦非自為而有所為。彼如是行、如是學，如是修習而廣布，便於處得心淨，於處得心淨已，比丘者或於此得入無所有處，或以慧為解。彼於後時，身壞命終，因本意故，必至無所有處。是謂第三說淨無所有處道。

> また、よく学んだ聖なる弟子は、このように観察します。「私は他の者のために何かをするのでもなく、また自分のために何かをするのでもない」と。 そのように行い、学び、修行を広めてゆけば、心が清らかになる場所を得ます。心が清らかになる場所を得たならば、比丘はここから「無所有処（何もない境地）」に入るか、あるいは智慧によって解脱します。 その後、身体が壊れ命が終わるとき、元々の心の向かう方向によって、必ず無所有処に至ります。これが、清らかな無所有処の道についての第三の教えです。

「復次，多聞聖弟子作如是觀，若現世欲及後世欲，若現世色及後世色，若現世欲想、後世欲想，若現世色想、後世色想及不動想、無所有處想，彼一切想是無常法、是苦、是滅，彼於爾時而得無想。彼如是行、如是學，如是修習而廣布，便於處得心淨，於處得心淨已，比丘者或於此得入無想，或以慧為解。彼於後時，身壞命終，因本意故，必至無想處。是謂說淨無想道。」

> さらに、多く聞いた聖なる弟子は、このように観じる。「現在の欲望と未来の欲望、現在の色（物質的なもの）と未来の色、現在の欲望の想いと未来の欲望の想い、現在の色の想いと未来の色の想い、そして動かない想い、何もないところの想い――それらすべての想いは、無常であり、苦しみであり、消え去るものである。」と。その時、彼は無想（想いを超えた境地）に達する。このように行い、学び、修習し、広く実践することで、心の清らかさを得る場所に至る。心の清らかさを得たなら、修行者はここで無想に入るか、あるいは智慧によって解脱する。その後、身体が壊れ命が終わるとき、もとの心の働きによって、必ず無想処に至る。これが「清らかな無想の道」と説かれるものである。

是時，尊者阿難執拂侍佛。於是，尊者阿難叉手向佛，白曰：「世尊！若有比丘如是行，無我、無我所，我當不有、我所當不有，若本有者，便盡得捨。世尊！比丘行如是，彼為盡，得般涅槃耶？」

> その時、尊き阿難尊者は払子を持って仏陀にお仕えしていました。 そこで阿難尊者は合掌して仏陀に向かい、申し上げました。 「世尊よ。もし比丘がこのように修行し、『我は無く、我が所有も無い。我というものは有るべきでなく、我が所有というものも有るべきではない。かつて有ったものは、ことごとく捨て去られる』と実践するならば、その比丘は完全に解脱し、涅槃に入ることができるのでしょうか。」

世尊告曰：「阿難！此事不定，或有得者，或有不得。」

> 世尊はおっしゃいました。「阿難よ、このことは必ずしも決まってはいない。ある者はそれを得ることができ、ある者は得ることができないのだ。」

尊者阿難白曰：「世尊！比丘云何行不得般涅槃？」

> 尊者アーナンダがお尋ねしました。「世尊よ、比丘はどのような行いをすると、完全な涅槃に入ることができないのでしょうか？」

世尊告曰：「阿難！若比丘如是行，無我、無我所，我當不有、我所當不有，若本有者，便盡得捨。阿難！若比丘樂彼捨、著彼捨、住彼捨者，阿難！比丘行如是，必不得般涅槃。」

> 釈尊はおっしゃいました。「アーナンダよ、もし比丘がこのように修行し、『私』も『私のもの』もなく、『私は存在しない』『私のものは存在しない』と考え、かつてあったものがあれば、それをすべて手放し捨て去ることができるならば、アーナンダよ、その比丘がその捨てることを楽しみ、それに執着し、それに住むならば、アーナンダよ、そのように修行する比丘は、必ず般涅槃（完全な悟り）を得ることはできない。」

尊者阿難白曰：「世尊！比丘若有所受，不得般涅槃耶？」

> 尊者アーナンダが尋ねました。「世尊よ、比丘が何らかの執着（受）があるならば、完全な涅槃に入ることはできないのでしょうか。」

世尊告曰：「阿難！若比丘有所受者，彼必不得般涅槃也。」

> 世尊がおっしゃいました。「阿難よ。もし比丘が何かに執着するなら、その人は必ず涅槃に達することはできないのだ。」

尊者阿難白曰：「世尊！彼比丘為何所受？」

> 尊者アーナンダが尋ねました。「世尊よ、その比丘は何を受けていたのでしょうか？」

世尊告曰：「阿難！行中有餘，謂有想、無想處，於有中第一，彼比丘受。」

> 世尊はおっしゃった：「阿難よ、修行の過程には残りの活動があり、それは有想処と無想処である。諸々の在り方の中でこれが第一である。その比丘はそれを受ける。」

尊者阿難白曰：「世尊！彼比丘受餘行耶？」

> 尊者アーナンダが尋ねました。「世尊よ、あの比丘は別の行を受けているのですか？」

世尊告曰：「阿難！如是比丘受餘行也。」

> 世尊がおっしゃいました。「阿難よ、このように比丘は、残された行いを受けているのです。」

尊者阿難白曰：「世尊！比丘云何行必得般涅槃？」

> 尊者のアーナンダがお尋ねしました。 「世尊よ、比丘はどのように実践すれば、必ず涅槃に至ることができるのでしょうか？」

世尊告曰：「阿難！若比丘如是行，無我、無我所，我當不有、我所當不有，若本有者，便盡得捨。阿難！若比丘不樂彼捨、不著彼捨、不住彼捨者，阿難！比丘行如是，必得般涅槃。」

> 世尊が阿難尊者にお示しになりました。 「阿難よ。もし比丘がこのように実践するならば、『私』というものはなく、『私のもの』というものもない。『私は存在しない』、『私のものは存在しない』とあるべきである。もしもかつて執着していたものがあったとしても、それをすべて手放し、捨て去ることができるのである。 阿難よ。もし比丘が、その捨てることを喜ばず、それに執着せず、そこに安住しないならば、その比丘はこのように実践することによって、必ず涅槃（完全な解脱）に達するであろう。」

尊者阿難白曰：「世尊！比丘若無所受，必得般涅槃耶？」

> 尊者アーナンダがお尋ねしました。「世尊よ、比丘が何ものにも執着しなければ、必ず涅槃に至ることができるのでしょうか？」

世尊告曰：「阿難！若比丘無所受，必得般涅槃。」

> 世尊がおっしゃいました。「アーナンダよ、もし比丘が何ものにも執着しなければ、必ず完全な涅槃に達するであろう。」

爾時，尊者阿難叉手向佛，白曰：「世尊已說淨不動道，已說淨無所有處道，已說淨無想道，已說無餘涅槃。世尊！云何聖解脫耶？」

> その時、尊者アーナンダは合掌して仏に向かい、こう申し上げました。 「世尊はすでに『清らかな不動の道』を説き、『清らかな無所有処の道』を説き、『清らかな無想の道』を説き、『余なき涅槃』を説かれました。では世尊、聖者の解脱（しょうじゃのだつげつ）とは、どのようなものでしょうか？」

世尊告曰：「阿難！多聞聖弟子作如是觀，若現世欲及後世欲，若現世色及後世色，若現世欲想、後世欲想，若現世色想、後世色想及不動想、無所有處想、無想想，彼一切想是無常法、是苦、是滅，是謂自己有。若自己有者，是生、是老、是病、是死。阿難！若有此法，一切盡滅無餘不復有者，彼則無生，無老、病、死。聖如是觀，若有者必是解脫法，若有無餘涅槃者是名甘露，彼如是觀、如是見，必得欲漏心解脫，有漏、無明漏心解脫。解脫已，便知解脫，生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。

> 世尊はお告げになりました。「阿難よ、よく聞きながら学ぶ聖なる弟子は、次のように観察する。現在の欲望と未来の欲望、現在の物質的存在と未来の物質的存在、現在の欲望についての想いと未来の欲望についての想い、現在の物質的存在についての想いと未来の物質的存在についての想い、そして不動の想い、無所有処の想い、無想の想い――これらすべての想いは、無常の法であり、苦しみであり、消滅するものである。これこそが『自己がある』という捉え方である。もし『自己がある』という捉え方があるならば、それは生まれ、老い、病み、死ぬことである。 阿難よ、もしもこのような法（すべての想いや自己への執着）が、すべて尽き果て、余すところなく消え去り、二度と現れないならば、そこには生はなく、老いもなく、病もなく、死もない。 聖者はこのように観察する。『もし執着の対象があるならば、それは必ず解脱すべき法である。もし余すところのない涅槃があるならば、それを甘露という』と。彼はこのように観察し、このように見ることで、必ず欲望の煩悩から心が解脱し、生存への渇愛の煩悩と無知の煩悩からも心が解脱する。 解脱したならば、自ら『解脱した』と知る。『生は尽きた。清らかな修行は完成した。為すべきことは為し終えた。もはや新たな生存を受けることはない』と、ありのままに知るのである。」

「阿難！我今為汝已說淨不動道，已說淨無所有處道，已說淨無想道，已說無餘涅槃，已說聖解脫。如尊師所為弟子起大慈哀，憐念愍傷，求義及饒益，求安隱快樂者，我今已作；汝等當復自作，至無事處，至林樹下，空安靜處，燕坐思惟，勿得放逸，勤加精進，莫令後悔。此是我之教勅，是我訓誨。」

> 「阿難よ、私は今、汝のために清らかな不動の道を説き、清らかな無所有処の道を説き、清らかな無想の道を説き、無余涅槃を説き、聖なる解脱を説き終えた。尊師が弟子に対して大いなる慈しみと哀れみを抱き、顧みて傷み、義と利益を求め、安らかな楽しみを求めるように、私は今、為し終えた。汝らは自ら努め、閑静な場所、林の下、静かな空き地に行き、坐って静かに考え、放逸であってはならず、精進を怠ってはならない。後悔することのないようにせよ。これが私の教えであり、訓戒である。」

佛說如是。尊者阿難及諸比丘，聞佛所說，歡喜奉行。

> このように仏は説かれました。尊者アーナンダと諸々の比丘たちは、仏の説かれたことを聞き、歓喜してこれを行いました。

淨不動道經第四竟千七百八十七字

> 清らかで動きのない道についての経典 第四 終了<note>千七百八十七字</note>