---
title: "中阿含經 · 81 念身經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma7j42u102t6jl0ahvp9zg7t"
---

## 中阿含經卷第二十

> 中阿含経 第二十巻

東晉罽賓三藏瞿曇僧伽提婆譯

> 東晋・罽賓三蔵・瞿曇僧伽提婆 訳

### （八一）中阿含長壽王品念身經第十第二小土城誦

> （八一）中阿含 長壽王品 念身經 第十

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊鴦祇國中，與大比丘眾俱，往詣阿惒那揵尼住處。

> ある時、仏はアンギの国を遊行され、大勢の比丘たちと共に、アーヘナ・ジャイニの住処へ向かわれた。

爾時，世尊過夜平旦，著衣持鉢，入阿惒那而行乞食。食訖，中後收舉衣鉢，澡洗手足，以尼師檀著於肩上，往詣一林，入彼林中，至一樹下，敷尼師檀，結跏趺坐。

> ある時、世尊は夜が明けて朝になると、衣を着け、鉢を持って、アハナという村に托鉢にお出かけになった。食事が済んだ後、衣と鉢を片づけ、手と足を洗い、坐具を肩にかけて、林の中にある一本の木の下に赴かれた。そこに坐具を敷き、結跏趺坐を組まれた。

爾時，眾多比丘於中食後，集坐講堂，共論此事。「諸賢！世尊甚奇！甚特！修習念身，分別廣布，極知極觀，極修習，極護治，善具善行，在一心中，佛說念身有大果報，得眼、有目見第一義。」

> その頃、多くの比丘たちは昼食の後、講堂に集まって座り、次のように語り合っていました。「尊い方々よ、世尊はまことに素晴らしく、また特別なお方です。身体を観察する念を修め、詳細に理解し、広く行き渡らせ、極めて深く知り、極めて深く観察し、極めて徹底的に修習し、極めてよく心を整え、善く身に着け、善く実践し、一つの心に集中されます。仏は、この身体の観察を修めることには大きな果報があり、智慧の眼を得て、第一義をはっきりと見ることができるとお説きになりました。」

爾時，世尊在於宴坐，以淨天耳出過於人，聞諸比丘於中食後，集坐講堂，共論此事。「諸賢！世尊甚奇！甚特！修習念身，分別廣布，極知極觀，極修習，極護治，善具善行，在一心中，佛說念身有大果報，得眼、有目見第一義。」世尊聞已，則於晡時從宴坐起，往詣講堂比丘眾前，敷座而坐。

> その時、世尊は静かに坐っておられましたが、清らかな天耳（人間を超えた聴力）によって、食事の後、比丘たちが講堂に集まって次のように話し合っているのをお聞きになりました。 「皆さん、世尊はまことに不思議であり、特別なお方です。世尊は身体に気をつけること（念身）を修め、それを広く説き、深く知り、深く観察し、よく修習し、よく守り、善く整え、心を一つにして実践されました。仏は『身体を観想することには大きな果報があり、眼を得て、真実の第一義を見る』と説かれました。」 世尊はこれを聞かれると、夕方の坐禅から立ち上がり、講堂にいる比丘たちの前に進んで、座を設けて坐られました。

爾時世尊告諸比丘：「汝等向共論何事耶？以何事故集坐講堂？」

> その時、世尊は比丘たちに告げられました。「あなたたちは何について話し合っていたのですか。どのような用事で講堂に集まっていたのですか。」

時，諸比丘白曰：「世尊！我等諸比丘於中食後，集坐講堂，共論此事。諸賢！世尊甚奇！甚特！修習念身，分別廣布，極知極觀，極修習，極護治，善具善行，在一心中，佛說念身有大果報，得眼、有目見第一義。世尊！我等向共論如此事，以此事故，集坐講堂。」

> その時、比丘たちは釈尊に申し上げました。「世尊よ。私たち比丘たちは午後の食事の後、講堂に集まって坐し、共にこのことについて論じておりました。『尊き方々よ。世尊はまことに稀有であり、殊勝であられます。念身を修行し、広く説き示し、深く知り深く観察し、しっかりと修行し、よく守り整え、善く具え善く行じ、一心に集中なさいます。世尊は、念身には大きな果報があり、眼を得て、よく見ることのできる者は第一義を悟るとお説きになりました』と。世尊よ。私たちはかねてよりこのようなことを論じ合い、そのために講堂に集まって坐しておりました。」

世尊復告諸比丘曰：「云何我說修習念身，分別廣布，得大果報？」

> 釈尊はさらに比丘たちに語りました。「私がどのように、身体の気づき（念身）の修行を説き、それを詳細に分かち広めることで、大きな果報が得られると言うのか、その理由を聞きなさい。」

時，諸比丘白世尊曰：「世尊為法本，世尊為法主，法由世尊，惟願說之，我等聞已，得廣知義。」

> その時、比丘たちは世尊に申し上げた。「世尊こそが法の根本であり、世尊こそが法の主であります。法は世尊より出ております。どうかお説きください。私たちがそれを聞いて、広くその意味を知ることができますように。」

佛便告曰：「汝等諦聽，善思念之，我當為汝分別其義。」時，諸比丘受教而聽。

> 仏は告げて言われた。「あなたがたはよく聞き、よく心にとめて考えなさい。私はあなたがたにその意味を詳しく説きましょう。」すると、諸々の比丘たちは教えを受け、耳を傾けた。

佛言：「云何比丘修習念身？比丘者行則知行，住則知住，坐則知坐，臥則知臥，眠則知眠，寤則知寤，眠寤則知眠寤；如是比丘隨其身行，便知上如真。彼若如是在遠離獨住，心無放逸，修行精勤，斷心諸患而得定心，得定心已，則知上如真。是謂比丘修習念身。

> ブッダがおっしゃいました。「では、比丘がどのようにして身の観念を修習するのか。 比丘は、歩くときには歩いていると知り、立つときには立っていると知り、座るときには座っていると知り、横になるときには横になっていると知る。眠るときには眠っていると知り、目覚めるときには目覚めていると知り、眠りと目覚めの間もそれを知っている。 このように比丘は、自分の身体の動きに従って、あるがままに正しく知る。 彼がこのように、遠く離れて独り住み、心を放逸にせず、修行に精進し、心の諸々の煩悩を断ち切って心を定めるならば、心が定まった後に、あるがままに正しく知る。 これを比丘の身の観念の修習というのです。」

「復次，比丘修習念身，比丘者正知出入，善觀分別，屈伸低仰，儀容庠序，善著僧伽梨及諸衣鉢，行住坐臥、眠寤語默皆正知之；如是比丘隨其身行便知上如真。彼若如是在遠離獨住，心無放逸，修行精勤，斷心諸患而得定心，得定心已，則知上如真。是謂比丘修習念身。

> さらに、比丘は身体の気づきを修めます。比丘は呼吸の出入りを正しく知り、屈伸や上下の動作をよく観察し分別します。態度は穏やかで、僧伽梨や衣鉢を適切に身に付けます。歩く、立つ、座る、横たわる、眠る、目覚める、話す、黙するというすべての行いを正しく知るのです。このように、比丘は身体のありのままの働きに従い、その本質をあるがままに知ります。 もし彼が遠く離れた場所に独り住み、心を放逸にせず、精進に励み、心の悩みを断ち切って心を定めるならば、心が定まった後に、その本質をあるがままに知ります。これを比丘の身体の気づきの修習といいます。

「復次，比丘修習念身，比丘者生惡不善念，以善法念治斷滅止，猶木工師、木工弟子，彼持墨繩，用拼於木，則以利斧斫治令直。如是比丘生惡不善念，以善法念治斷滅止。如是比丘隨其身行，便知上如真。彼若如是在遠離獨住，心無放逸，修行精勤，斷心諸患而得定心，得定心已，則知上如真。是謂比丘修習念身。

> 「また、比丘たちよ、身体を観察する修行について説こう。比丘が、もし悪しき不善の念を起こしたならば、善い法（教え）の念をもってそれを対処し、断ち切り、滅ぼし、止めるのである。それはあたかも、大工や大工の弟子が、墨縄で材木に線を引き、鋭い斧でまっすぐに削り整えるようなものである。このように比丘は、悪しき不善の念が生じたとき、善い法の念をもって対処し、断ち切り、滅ぼし、止めるのである。このように比丘は、身体の行為（行ない）に従って、あるがままに知るのである。彼がこのように遠離した場所に独り住み、心を放逸にせず、修行に精進し、心のさまざまな煩悩を断って心を安定させたならば、その安定した心をもって、あるがままに知るのである。これを、比丘が身体を観察する修行を行う、というのである。」

「復次，比丘修習念身，比丘者齒齒相著，舌逼上齶，以心治心，治斷滅止。猶二力士捉一羸人，處處旋捉，自在打鍛，如是比丘齒齒相著，舌逼上齶，以心治心，治斷滅止。如是比丘隨其身行，便知上如真。彼若如是在遠離獨住，心無放逸，修行精勤，斷心諸患而得定心，得定心已，則知上如真。是謂比丘修習念身。

> さらに、修行者よ、身体への気づきを修習するとは、以下の通りである。修行者は歯をしっかりと噛み合わせ、舌を上あごに押し当て、心によって心を制御し、煩いを断ち滅ぼし止める。例えるなら、二人の力士が一人の痩せた男を捕まえ、あちこちで自由に打ち鍛えるように、修行者は歯を噛み合わせ、舌を上あごに押し当て、心によって心を制御し、煩いを断ち滅ぼし止める。このように修行者は、自らの身体の状態に従いながら、それをあるがままに知る。そして、もし遠く離れた場所に独り住み、心を怠ることなく、修行に励み、心の煩いを断ち切って心を統一するならば、心を統一した後に、あるがままの真理を知るのである。これが、修行者による身体への気づきの修習と呼ばれる。

「復次，比丘修習念身，比丘者念入息即知念入息，念出息即知念出息，入息長即知入息長，出息長即知出息長，入息短即知入息短，出息短即知出息短。學一切身息入，學一切身息出，學止身行息入，學止口行息出。如是比丘隨其身行，便知上如真。彼若如是在遠離獨住，心無放逸，修行精勤，斷心諸患而得定心，得定心已，則知上如真。是謂比丘修習念身。

> さらに、比丘たちよ、身体への気づきを修行するには、こう行う。比丘は息を吸い込むとき、それをはっきりと知る。息を吐き出すときも、それをはっきりと知る。長く息を吸うときは、長く吸っていると知る。長く息を吐くときは、長く吐いていると知る。短く息を吸うときは、短く吸っていると知る。短く息を吐くときは、短く吐いていると知る。 「全身をもって息を吸い込む」と学び、「全身をもって息を吐き出す」と学ぶ。「身体の働きを静めて息を吸い込む」と学び、「口の働きを静めて息を吐き出す」と学ぶ。 このようにして、比丘は身体の状態に従って、それをあるがままに知る。そのようにして、遠く離れた静かな場所に独り住み、心を放逸にせず、精進に励み、心の悩みを断ち切って、心を定める。心が定まったならば、さらに物事をあるがままに知る。これを、比丘が身体への気づきを修行する、と言うのである。

「復次，比丘修習念身，比丘者，離生喜樂，漬身潤澤，普遍充滿於此身中，離生喜樂無處不遍。猶工浴人器盛澡豆，水和成摶，水漬潤澤，普遍充滿無處不周。如是比丘離生喜樂，漬身潤澤，普遍充滿於此身中，離生喜樂無處不遍。如是比丘隨其身行，便知上如真。彼若如是在遠離獨住，心無放逸，修行精勤，斷心諸患而得定心，得定心已，則知上如真，是謂比丘修習念身。

> さらに、比丘が身体の瞑想（念身）を修行するには、こうするのです。比丘は、欲から離れて生じる喜びと楽（離生喜楽）を得、その喜びと楽で全身を浸し、潤し、満たし、身体のどこにも行き渡らないところがありません。ちょうど、上手な浴場の係の人が、器に洗浄用の豆の粉を入れ、水を加えて練り固め、水で浸し潤し、全体に満たして、どこにも行き渡らないところがないように。同じように、比丘は欲から離れて生じる喜びと楽で、全身を浸し、潤し、満たし、身体のどこにも行き渡らないところがありません。 このように、比丘は身体の状態に従って、ありのままをあるがままに知ります。彼が、このように遠く離れた静かなところに独り住み、心を放逸にせず、修行に精進し、心の様々な悩みを断ち切って、心を定めることができたなら、心が定まったのちに、ありのままをあるがままに知るのです。これが、比丘が身体の瞑想（念身）を修行することです。

「復次，比丘修習念身，比丘者定生喜樂，漬身潤澤，普遍充滿於此身中，定生喜樂無處不遍。猶如山泉，極淨澄清，充滿盈流，四方水來，無緣得入，即彼泉底，水自涌出，盈流於外，漬山潤澤，普遍充滿無處不周。如是比丘定生喜樂，漬身潤澤，普遍充滿於此身中，定生喜樂無處不遍。如是比丘隨其身行，便知上如真。彼若如是在遠離獨住，心無放逸，修行精勤，斷心諸患而得定心，得定心已，則知上如真。是謂比丘修習念身。

> さらに、比丘（僧侶）は、身体を観察する修行（念身）を行います。比丘は、瞑想から生まれる喜びと安楽を感じ、その身体を浸して潤し、全身に満たしていきます。この瞑想から生まれる喜びと安楽は、身体のどこにも行き渡らない場所はありません。 ちょうど山の泉が、とても澄み切って清らかで、溢れんばかりに満ちているとします。四方から水が流れてきても、その泉の中に入ることはできません。泉の底から水が自然に湧き出て、外に溢れ、山を浸し潤し、どこにでも行き渡ります。このように比丘は、瞑想から生まれる喜びと安楽を感じ、その身体を浸して潤し、全身に満たしていきます。この喜びと安楽は、身体のどこにも行き渡らない場所はありません。 このように比丘は、身体の状態に随って、あるがままをありのままに知ります。彼がこのように静かな場所に独りで住み、心を放逸にせず、熱心に修行を続けると、心のさまざまな煩悩を断ち切り、心を定めることができます。心が定まったならば、あるがままをありのままに知ります。これが比丘が行う、身体を観察する修行（念身）なのです。

「復次，比丘修習念身，比丘者無喜生樂，漬身潤澤，普遍充滿於此身中，無喜生樂無處不遍。猶青蓮華，紅、赤、白蓮，水生水長，在於水底，根莖華葉，悉漬潤澤，普遍充滿無處不周。如是比丘無喜生樂，漬身潤澤，普遍充滿於此身中，無喜生樂無處不遍。如是比丘隨其身行，便知上如真。彼若如是在遠離獨住，心無放逸，修行精勤，斷心諸患而得定心，得定心已，則知上如真。是謂比丘修習念身。

> さらに、比丘は身体への気づきを修めます。その比丘は、喜びなくして楽（安らぎ）が生じ、全身に潤いが行き渡り、この身体の内に喜びなくして生じた楽が隅々まで満ちています。ちょうど青蓮華や紅蓮華、赤蓮華、白蓮華が、水の中で生まれ水の中で育ち、水中にありながら、根・茎・花・葉のすべてが水に浸かり潤い、どこも余すところなく満たされているように、比丘は喜びなくして楽が生じ、全身が潤い、この身体の内に喜びなくして生じた楽が隅々まで満ちています。 このように比丘は、身体の状態に従って観察し、そのまま如实に知ります。彼がこのように遠離の境地に独り住み、心を放逸にせず、修行に精進し、心の煩悩を断ち切って心の安定を得ると、心が安定したならば、そのまま如实に知るのです。これが比丘の身体への気づきの修習と呼ばれます。

「復次，比丘修習念身，比丘者於此身中，以清淨心意解遍滿成就遊，於此身中，以清淨心無處不遍。猶有一人，被七肘衣或八肘衣，從頭至足，於此身體無處不覆。如是比丘於此身中，以清淨心意解遍滿成就遊，於此身中，以清淨心無處不遍。如是比丘隨其身行，便知上如真。彼若如是在遠離獨住，心無放逸，修行精勤，斷心諸患而得定心，得定心已，則知上如真。是謂比丘修習念身。

> さらに、比丘が身体を観察する修行について、比丘はこの身体の中で、清らかな心をすべてに浸透させて成就し遊ぶのです。この身体の中で、清らかな心が至らないところはありません。まるで一人の人が、七肘や八肘の衣を着て、頭から足まで、その身体のどこも覆われていないところがないようにです。このように比丘は、この身体の中で、清らかな心をすべてに浸透させて成就し遊び、この身体の中で、清らかな心が至らないところはありません。このように比丘は、その身体の動きに従って、ありのままを正しく知ります。彼がこのように遠く離れて独り住み、心を放逸にせず、修行に精進し、心の悩みを断ち切って定まった心を得るならば、定まった心を得てから、ありのままを正しく知ります。これが比丘が身体を観察する修行を実践するということです。

「復次，比丘修習念身，比丘者念光明想，善受善持，善意所念，如前後亦然，如後前亦然，如晝夜亦然，如夜晝亦然，如下上亦然，如上下亦然，如是不顛倒，心無有纏，修光明心，心終不為闇之所覆。如是比丘隨其身行，便知上如真。彼若如是在遠離獨住，心無放逸，修行精勤，斷心諸患而得定心，得定心已，則知上如真。是謂比丘修習念身。

> また、比丘よ、身体への気づきを修めるとは、次の通りである。比丘は光明の想い（光のイメージ）を心に浮かべ、それをよく受け止め、よく保ち、心によく留める。前も後も同じように、後も前も同じように、昼も夜も同じように、夜も昼も同じように、下も上も同じように、上も下も同じように。このようにして、心は逆転せず、とらわれることなく、光明の心を修める。心はついにもう闇に覆われることはない。 このように比丘は、身体に沿って行動しながら、その道理をありのままに知る。彼がそのようにして、遠く離れた静かな場所に独り住み、心を放逸にせず、精進に励み、心の悩みを断ち切って、心を定めることができるならば、心を定めた後に、その道理をありのままに知る。これが比丘による身体への気づきの修習である。

「復次，比丘修習念身，比丘者觀相善受、善持、善意所念。猶如有人，坐觀臥人，臥觀坐人。如是比丘觀相善受、善持、善意所念。如是比丘隨其身行，便知上如真。彼若如是在遠離獨住，心無放逸，修行精勤，斷心諸患而得定心，得定心已，則知上如真。是謂比丘修習念身。

> さらに、比丘たちよ、身体への気づきを修習するとはこうである。比丘は、身体の特徴（相）をよく受け止め、よく保ち、よく心に念じる。それはまるで、座っている人が横になっている人を見、横になっている人が座っている人を見るかのようである。このように比丘は、特徴をよく受け止め、よく保ち、よく心に念じる。こうして比丘は、自らの身体の動きに従いながら、ありのままを如実に知るのである。 彼がこのように遠く離れて独り住み、心を放逸にせず、修行に精進し、心の悩みを断ち切って心を定めるならば、心を定めた後に、ありのままを如実に知るのである。これを比丘の身体への気づきの修習という。

「復次，比丘修習念身，比丘者此身隨住，隨其好惡，從頭至足，觀見種種不淨充滿，謂此身中有髮、毛、爪、齒、麁細薄膚、皮、肉、筋、骨、心、腎、肝、肺、大腸、小腸、脾、𦝩、摶糞、腦及腦根、淚、汗、涕、唾、膿、血、肪、髓、涎、膽、小便。猶以器盛若干種子，有目之士，悉見分明，謂稻、粟種、大麥、小麥、大小麻豆、菘菁芥子。如是比丘此身隨住，隨其好惡，從頭至足，觀見種種不淨充滿，謂此身中有髮、毛、爪、齒、麁細薄膚、皮、肉、筋、骨、心、腎、肝、肺、大腸、小腸、脾、𦝩、摶糞、腦及腦根、淚、汗、涕、唾、膿、血、肪、髓、涎、膽、小便。如是比丘隨其身行，便知上如真。彼若如是在遠離獨住，心無放逸，修行精勤，斷心諸患而得定心，得定心已，則知上如真。是謂比丘修習念身。

> また、比丘は、身体への気づきを修めます。比丘は、この身体をそのまま観察し、好き嫌いに関わらず、頭から足の先まで、様々な不浄が満ちているのを見ます。すなわち、この身体には、髪、毛、爪、歯、粗い皮膚や薄い皮膚、皮、肉、筋、骨、心臓、腎臓、肝臓、肺、大腸、小腸、脾臓、胃、食べかす、脳と脳膜、涙、汗、鼻水、唾、膿、血、脂肪、髄、よだれ、胆汁、小便があるのです。 ちょうど、様々な種子を入れた容器を、目のある人がはっきりと見分けるように。すなわち、稲、粟、大麦、小麦、大小の豆、菜種、からし種のように。このように比丘は、この身体をそのまま観察し、好き嫌いに関わらず、頭から足の先まで、様々な不浄が満ちているのを見ます。 このように比丘は、身体のありようを観察しながら、あるがままを如実に知ります。彼が、このように遠く離れた場所に独り住み、心を放逸にせず、熱心に精進し、心の煩悩を断ち切って心を統一すると、心が統一されたならば、あるがままを如実に知るのです。これが、比丘が身体への気づきを修めるということです。

「復次，比丘修習念身，比丘者觀身諸界，我此身中有地界、水界、火界、風界、空界、識界。猶如屠兒殺牛，剝皮布於地上，分作六段。如是比丘觀身諸界，我此身中，地界、水界、火界、風界、空界、識界。如是比丘隨其身行，便知上如真。彼若如是在遠離獨住，心無放逸，修行精勤，斷心諸患而得定心，得定心已，則知上如真。是謂比丘修習念身。

> さらに、比丘は身体への気づきを修行するにあたり、自分の身体を様々な要素に観察します。「この私の身体には、地の要素、水の要素、火の要素、風の要素、空の要素、識の要素がある」と。ちょうど屠殺者が牛を殺し、皮を剥いで地上に広げ、六つに切り分けるように。このように比丘は身体の諸要素を観察し、「この私の身体には、地の要素、水の要素、火の要素、風の要素、空の要素、識の要素がある」と見ます。このように比丘は身体に沿って実践を続ければ、それらの本質をあるがままに知ることができます。彼がこのように遠離の場所に独り住み、心を放逸にせず、修行に励み、心の悩みを断ち切って心を定めれば、心が定まったならば、それらの本質をあるがままに知ることができます。これが比丘の身体への気づきの修行と呼ばれます。

「復次，比丘修習念身，比丘者觀彼死屍，或一、二日，至六、七日，烏鵄所啄，犲狗所食，火燒埋地，悉腐爛壞，見已自比，今我此身亦復如是，俱有此法，終不得離。如是比丘隨其身行，便知上如真。彼若如是在遠離獨住，心無放逸，修行精勤，斷心諸患而得定心，得定心已，則知上如真。是謂比丘修習念身。

> また、比丘は身体の観察を修めます。比丘は死体を観察します。それは一、二日から六、七日までのもので、烏や鳶に啄まれ、豺や狗に食べられ、火に焼かれ、土に埋められ、すべて腐敗し、朽ち果てます。それを見て、自分自身にたとえます。「今、この私の身体もまた同じであり、すべてこの法（真理）を具えていて、最後にはそこから逃れられない」と。このように、比丘は身体の状態に従って行じ、そのままあるがままに知ります。彼がこのように離れて独り住み、心を放逸にせず、修行に励み精進し、心の諸々の煩悩を断ち切って定心を得るならば、定心を得た後に、あるがままを了知します。これを比丘の身体の観察の修習といいます。

「復次，比丘修習念身，比丘者如本見息道骸骨青色，腐爛食半，骨鎖在地，見已自比，今我此身亦復如是，俱有此法，終不得離。如是比丘隨其身行，便知上如真。彼若如是在遠離獨住，心無放逸，修行精勤，斷心諸患而得定心，得定心已，則知上如真。是謂比丘修習念身。

> 「さらに、僧侶たちよ、身体を観察する修行について語りましょう。 僧侶は、あたかも墓場に捨てられた死体が、青黒く変色し、腐敗し始め、半分は朽ち果てて骨となり、地面に散らばっているのを見るかのように、自分の身体を観察します。そして、こう考えます。 『この私の身体もまた、まさに同じ性質を持っている。このような運命から逃れることはできない。』 このように、僧侶は身体の状態に沿って、あるがままをありのままに知るのです。 彼が、こうして遠く離れた静かな場所に独り住み、心を放逸にせず、努力と熱意を持って修行すれば、心の煩いを断ち切り、心を統一することができます。心が統一されると、あるがままをありのままに知ることができるのです。 これこそが、僧侶による身体の観察の修行、と説かれています。

「復次，比丘修習念身，比丘者如本見息道離皮肉血，唯筋相連，見已自比，今我此身亦復如是，俱有此法，終不得離。如是比丘隨其身行，便知上如真。彼若如是在遠離獨住，心無放逸，修行精勤，斷心諸患而得定心，得定心已，則知上如真。是謂比丘修習念身。

> 「また、比丘たちよ、身体を観察する修行とは、次のように行うものだ。比丘は、ある人が体内の息が通る道を見るように、皮や肉や血を取り去り、ただ骨が連なっている状態を観想する。そのように観じて、『今のこの我が身もまた同じであり、すべてがこのような性質を持ち、決してこれを逃れることはできない』と自らに照らし合わせて理解する。 このように比丘は、身体のありのままに従い観察し、その真実を如実に知る。もしそのような比丘が、遠く離れた場所に独りで住み、心を放逸にせず、精進修行に励み、心の煩悩を断ち切って心を統一するならば、心を統一した後に、その真実を如実に知るのである。 これこそが、比丘が身体を観察する修行であると、私は説く。」

「復次，比丘修習念身，比丘者如本見息道骨節解散，散在諸方，足骨、膊骨、髀骨、臗骨、脊骨、肩骨、頸骨、髑髏骨，各在異處，見已自比，今我此身亦復如是，俱有此法，終不得離。如是比丘隨其身行，便知上如真。彼若如是在遠離獨住，心無放逸，修行精勤，斷心諸患而得定心，得定心已，則知上如真。是謂比丘修習念身。

> さらに、比丘たちよ、身体についての気づきを修習するとはこうである。比丘は、すでに見たように息の道をたどり、骨の節々が解け離れて四方に散らばる様子を観じる。すなわち、足の骨、すねの骨、腿の骨、腰の骨、背骨、肩の骨、首の骨、頭蓋骨が、それぞれ異なる場所にあるのを見る。そして、自らに照らし合わせて、「今、この我が身体もまた、まさに同じであり、これらの要素をすべて有し、ついにそれらから離れることはない」と知る。このように比丘は、身体のありのままに随って行じ、それによって真実を如実に知るのである。彼がもし、このように遠離の地に独り住み、心を放逸にせず、精進して修行に励めば、心の諸々の煩悩を断ち切り、定まった心を得る。定まった心を得たならば、さらに真実を如実に知る。これが、比丘が身体についての気づきを修習するということである。

「復次，比丘修習念身，比丘者如本見息道骨白如螺，青猶鴿色，赤若血塗，腐壞碎末，見已自比，今我此身亦復如是，俱有此法，終不得離。如是比丘隨其身行，便知上如真。彼若如是在遠離獨住，心無放逸，修行精勤，斷心諸患而得定心，得定心已，則知上如真。是謂比丘修習念身。

> さらに、比丘たちよ、身体への気づき（念身）を修めるにはこうするのだ。比丘は、先に見た呼吸の道のように、骨が白く螺鈿のように、青く鳩の色のようであり、赤く血を塗ったように、腐敗し壊れて粉々になるのを見る。それを見て、自らを比べる。「今のこの我が身もまた、同じように、すべてこれらの性質（法）を持っており、決してそれらから逃れられない」と。このように比丘は、自らの身に随って行動し、そのままの真理（如真）を悟るのである。 彼が、このように遠く離れた場所に独り住み、心を放縦にせず、修行に励み精進し、心の煩悩を断ち切って、心を定める（定心）。心を定めたならば、そのままの真理を悟る。これこそが、比丘が身体への気づきを修めることである。

「若有如是修習念身、如是廣布者，彼諸善法盡在其中，謂道品法也。若彼有心意解遍滿，猶如大海，彼諸小河盡在海中。若有如是修習念身、如是廣布者，彼諸善法盡在其中，謂道品法也。

> このように身体の観念を修め、広く実践するならば、あらゆる善い教えはその中にすべて含まれます。すなわち、悟りに至る修行の道の教えです。その心が理解によって広く満たされること、ちょうど大海にすべての小さな川が流れ込むように。このように身体の観念を修め、広く実践するならば、あらゆる善い教えはその中にすべて含まれます。すなわち、悟りに至る修行の道の教えです。

「若有沙門、梵志不正立念身、遊行少心者，彼為魔波旬伺求其便，必能得也。所以者何？彼沙門、梵志空無念身故，猶如有瓶，中空無水，正安著地，若人持水來瀉瓶中，於比丘意云何？彼瓶如是當受水不？」

> 修行者や聖職者であっても、心を正しく落ち着けず、怠けながら過ごしている人がいるなら、悪魔はその隙を狙って確実につけ込むでしょう。なぜなら、そのような修行者は自分の心を見失っているからです。それはちょうど、壺が空っぽで水が入っていない状態を思い浮かべてください。その壺が地面に置かれているところに、水を注ぎに来た人がいるとします。あなたはどう思いますか？その壺は水を受け入れられるでしょうか？

比丘答曰：「受也。世尊！所以者何？彼空無水，正安著地，是故必受。」

> 比丘が答えて言いました。「受けます、世尊。なぜなら、その手は空っぽで水もなく、地面にしっかりと置かれているからです。だから必ず受け取るのです。」

「如是若有沙門、梵志不正立念身、遊行少心者，彼為魔波旬伺求其便，必能得也。所以者何？彼沙門、梵志空無念身故。若有沙門、梵志正立念身、遊行無量心者，彼為魔波旬伺求其便，終不能得。所以者何？彼沙門、梵志不空有念身故，猶如有瓶，水滿其中，正安著地，若人持水來瀉瓶中，於比丘意云何？彼瓶如是復受水不？」

> このように、もし修行者や聖者が、身体への気づき（念身）を正しく確立せず、心が狭く落ち着かない状態で行動するならば、悪魔マーラはその隙を狙ってつけ入ることができる。どうしてか？その修行者や聖者は、身体への気づきが欠けているからだ。 逆に、もし修行者や聖者が、身体への気づきを正しく確立し、心を限りなく広げて行動するならば、悪魔マーラがその隙を狙っても、決してつけ入ることはできない。どうしてか？その修行者や聖者は、身体への気づきが満ち足りているからだ。 例えば、瓶に水が満たされて、まっすぐに置かれているとする。そこに人がさらに水を注ごうとしても、比丘よ、どう思うか？その瓶は、そんな風にしてさらに水を受け入れることができるだろうか？

比丘答曰：「不也。世尊！所以者何？彼瓶水滿，正安著地，是故不受。」

> 比丘が答えた。「いいえ、世尊。なぜなら、その瓶は水で満たされ、しっかりと地面に置かれているからです。ですから、受け入れることはありません。」

「如是若有沙門、梵志，有正立念身、遊行無量心者，彼為魔波旬伺求其便，終不能得。所以者何？彼沙門、梵志不空有念身故。若有沙門、梵志不正立念身、遊行少心者，彼為魔波旬伺求其便，必能得也。所以者何？彼沙門、梵志空無念身故，猶如力士，以大重石擲淖泥中，於比丘意云何？泥為受不？」

> 「このように、もし修行者や聖者が、身体に対する正しい気づきを確立し、限りのない心を持って生きるなら、魔王マーラはその機会をうかがっても、決してとらえることはできません。なぜなら、その修行者や聖者には、身体に対する気づきが欠けることがないからです。 もし修行者や聖者が、身体に対する正しい気づきを確立せず、狭い心で生きるなら、魔王マーラはその機会をうかがい、必ずとらえることができます。なぜなら、その修行者や聖者には、身体に対する気づきが欠けているからです。 ちょうど力持ちの人が、大きな重い石を泥の中に投げ入れるようなものです。比丘たちよ、どう思いますか。その泥は石を受け止めるでしょうか？」

比丘答曰：「受也。世尊！所以者何？泥淖石重，是故必受。」

> 比丘が答えた。「受けます、世尊。なぜならば、泥沼の石は重いからです。ですから必ず受け取るのです。」

「如是若有沙門、梵志不正立念身、遊行少心者，彼為魔波旬伺求其便，必能得也。所以者何？彼沙門、梵志空無念身故。若有沙門、梵志正立念身、遊行無量心者，彼為魔波旬伺求其便，終不能得。所以者何？彼沙門、梵志不空有念身故，猶如力士，以輕毛毱擲平戶扇，於比丘意云何？彼為受不？」

> このように、修行者やバラモンで、身体への気づきを正しく確立せず、心が狭いまま暮らす者は、悪魔の波旬がその隙を狙って、必ず捕らえることができる。なぜなら、その修行者やバラモンは身体への気づきが空虚だからである。 また、修行者やバラモンで、身体への気づきを正しく確立し、限りない心で暮らす者は、悪魔の波旬がその隙を狙っても、決して捕らえることはできない。なぜなら、その修行者やバラモンは身体への気づきが満ち足りているからである。 例えば、力持ちが軽い毛の毬を平らな戸の板に投げつけるようなものだ。比丘たちよ、あなた方はどう思うか。それは受け止められるだろうか？」

比丘答曰：「不也。世尊！所以者何？毛毱輕闡，戶扇平立，是故不受。」

> 比丘が答えた。「いいえ、世尊。なぜでしょうか？毛の敷物は軽くて柔らかく、戸の扇は平らに立っているからです。ですから受けることはありません。」

「如是若有沙門、梵志正立念身、遊行無量心者，彼為魔波旬伺求其便，終不能得。所以者何？彼沙門、梵志不空有念身故。若有沙門、梵志不正立念身、遊行少心者，彼為魔波旬伺求其便，必能得也。所以者何？彼沙門、梵志空無念身故，猶人求火，以槁木為母，以燥鑽鑽，於比丘意云何？彼人如是，為得火不？」

> このように、もし修行者や聖者が、身体への気づきを正しく確立し、無限の心をもって行動するならば、悪魔マーラはその隙をうかがっても、決して捉えることはできない。なぜなら、その修行者や聖者は、身体への気づきを空しくしないからである。 しかし、もし修行者や聖者が、身体への気づきを正しく確立せず、狭い心で行動するならば、悪魔マーラはその隙をうかがい、必ず捉えることができる。なぜなら、その修行者や聖者は、身体への気づきを欠いているからである。 それはちょうど、人が火をおこそうとして、枯れた木を母材とし、乾いた棒でこすった場合を考えてみなさい。比丘よ、あなたはどう思うか。その人は、そうすることで火を得ることができるだろうか？

比丘答曰：「得也。世尊！所以者何？彼以燥鑽鑽於槁木，是故必得。」

> 比丘が答えました。「得られます、世尊。なぜなら、乾いた木を乾いた火鑽でこすれば、必ず火が得られるからです。」

「如是若有沙門、梵志不正立念身、遊行少心者，彼為魔波旬伺求其便，必能得也。所以者何？彼沙門、梵志空無念身故。若有沙門、梵志正立念身、遊行無量心者，彼為魔波旬伺求其便，終不能得。所以者何？彼沙門、梵志不空有念身故，猶人求火，以濕木為母，以濕鑽鑽，於比丘意云何？彼人如是，為得火不？」

> このように、もし修行者や聖職者で、身体に対する気づき（念身）を正しく確立せず、心を狭くして生活する者がいるならば、魔王マーラはその隙を狙い、必ず捉えることができる。なぜなら、その修行者や聖職者は、身体に対する気づきを持たず、空っぽの状態だからである。しかし、もし修行者や聖職者で、身体に対する気づきを正しく確立し、広い心で生活する者がいるならば、魔王マーラがその隙を狙っても、決して捉えることはできない。なぜなら、その修行者や聖職者は、身体に対する気づきで満たされており、欠けることがないからである。例えば、火を起こそうとして、濡れた木を台とし、濡れた棒を錐にして火を起こそうとする人がいる。比丘たちよ、あなたがたはどう思うか。その人はそうやって火を得ることができるだろうか。」

比丘答曰：「不也。世尊！所以者何？彼以濕鑽鑽於濕木，是故不得。」

> 比丘が答えた。「いいえ、世尊（※注：仏陀への敬称）。なぜならば、それは湿った道具で湿った木を鑽（き）ろうとするから、火を得ることはできません。」

「如是若有沙門、梵志正立念身、遊行無量心者，彼為魔波旬伺求其便，終不能得。所以者何？彼沙門、梵志不空有念身故。」

> このように、もし修行者やバラモンが正しく身を念じて心を限りなく広げて修行するならば、悪魔の波旬がその隙をうかがっても、決してつけ込むことはできません。なぜなら、その修行者やバラモンは、身の念を空しくすることがないからです。

「如是修習念身、如是廣布者，當知有十八德。云何十八？比丘者，能忍飢渴、寒熱、蚊虻、蠅蚤、風日所逼，惡聲、捶杖亦能忍之，身遇諸疾，極為苦痛，至命欲絕，諸不可樂，皆能堪耐，如是修習念身，如是廣布者，是謂第一德。

> このように身体への気づき（念身）を修行し、広く実践する者には、十八の功徳があると知るべきである。その十八とは何か。 比丘（修行者）は、飢えや渇き、寒さや暑さ、蚊や虻（あぶ）、蠅（はえ）や蚤（のみ）、風や日差しの厳しさに耐えることができる。また、悪態や杖で打たれることにも耐え、身体に様々な病が生じ、極めて苦しく痛み、命が絶えようとするような、あらゆる不快なことにも耐え忍ぶことができる。このように身体への気づきを修行し、広く実践する者は、これを第一の功徳とする。

「復次，比丘堪耐不樂，若生不樂，心終不著，如是修習念身、如是廣布者，是謂第二德。

> また、比丘（修行者）は、心が満たされない思いをよく耐え忍びます。もし心に満たされなさが生じても、それに心がとらわれることは決してありません。このようにして身体への気づきを修め、広く実践する者には、これが第二の功徳となります。

「復次，比丘堪耐恐怖，若生恐怖，心終不著，如是修習念身、如是廣布者，是謂第三德。

> さらに、比丘たちよ、修行者は恐怖に耐えることができる。たとえ恐怖が生じても、心はそれに執着しない。このように身体への気づきを修習し、広く実践する者は、これが第三の功徳である。

「復次，比丘生三惡念：欲念、恚念、害念。若生三惡念，心終不著，如是修習念身、如是廣布者，是謂第四、五、六、七德。

> さらに、比丘たちよ、三つの悪しき思いが生じる。欲望の思い、怒りの思い、害をなす思いである。もしこれらの三つの悪しき思いが生じても、心がそれに執着することなく、このように身体への気づきを修行し、広く実践するならば、これが第四、第五、第六、第七の功徳である。

「復次，比丘離欲、離惡不善之法，至得第四禪成就遊，如是修習念身、如是廣布者，是謂第八德。

> さらに、比丘は、欲望を離れ、悪しき不善の法を離れ、第四禅に至り、成就して安住する。このようにして身に関する念を修習し、このようにして広く行じるならば、これを第八の徳という。

「復次，比丘三結已盡，得須陀洹，不墮惡法，定趣正覺，極受七有，天上人間一往來已而得苦際，如是修習念身、如是廣布者，是謂第九德。

> さらに、比丘たちよ、三つの束縛を断ち切れば、須陀洹果（初果）を得て、悪しき境地に堕ちることなく、必ず悟りへと向かい、せいぜい七回の生存を経て、天界と人間界を一度ずつ往来した後に、苦しみの終わりに達する。このように身体への気づきを修習し、広く実践すること、これを第九の功徳という。

「復次，比丘三結已盡，婬怒癡薄，得一往來天上人間，一往來已而得苦際，如是修習念身、如是廣布者，是謂第十德。

> また、比丘たちよ。三つの束縛を尽くし、貪り・怒り・無知が薄くなり、一度だけ天と人の間を往来して、その一度の往来の後に苦しみの終わりに達する。このように身体の観察を修め、広く行き渡らせるならば、これが第十の功徳である。

「復次，比丘五下分結盡，生於彼間，便般涅槃，得不退法，不還此世，如是修習念身、如是廣布者，是謂第十一德。

> さらに比丘たちよ、五つの下分結（下の世界に縛りつける五つの煩悩）が尽きると、その境地に生まれ、そこで完全な涅槃に入り、退転しない法を得て、この世に戻ってくることはありません。このように身の念を修習し、このように広く行じるならば、これが第十一の功徳である。

「復次，比丘若有息解脫，離色得無色，如其像定身作證成就遊，而以慧觀知漏、斷漏，如是修習念身、如是廣布者，是謂第十二、十三、十四、十五、十六、十七德。

> さらに、比丘たちよ、もしも息による解脱があり、色を離れて無色の境地を得るならば、そのような定のままに身をもって実証し、それを成就して安住し、智慧によって煩悩を見極め、煩悩を断ち切るのです。このようにして念身を修習し、このように広く実践するならば、これこそ第十二、十三、十四、十五、十六、十七の徳とされるのです。

「復次，比丘如意足、天耳、他心智、宿命智、生死智，諸漏已盡，得無漏心解脫、慧解脫，於現法中自知自覺，自作證成就遊，生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。如是修習念身、如是廣布者，是謂第十八德。如是修習念身、如是廣布者，當知有此十八功德。」

> さらに、比丘たちは、如意足、天耳、他心智、宿命智、生死智を具え、全ての煩悩を尽くし、汚れなき心の解脱と智慧の解脱を得て、現世において自ら覚り、自ら証し、実践を完成させる。すなわち、「生は尽きた。清らかな行いは既に確立された。なすべきことは成し遂げられた。もはや新たな存在を受けることはない」と、あるがままに知るのである。このように「身の観察」の修行を修め、広く実践するならば、これが第十八の功徳となる。このように「身の観察」の修行を修め、広く実践するならば、これら十八の功徳があると知るべきである。

佛說如是。彼諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。

> このように仏は説かれました。比丘たちは仏の説かれたことを聞き、喜んでお受け取りになりました。

念身經第十竟四千二百二十五字

> 身を念ずる経 第十 終わり<note>四二二五字</note>

十八德內關六七八并十三至十七者，應在第五、第十八德內也。南本結在第四、第十二中，理猶難曉。

> 十八徳のうち、第六・第七・第八、および第十三から第十七までのものは、本来は第五徳と第十八徳の中に含められるべきものです。南本ではこれらを第四徳と第十二徳の中にまとめていますが、その理趣はやはり理解しにくいものです。