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title: "中阿含經 · 85 真人經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
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### （八五）中阿含長壽王品真人經第十四第二小土城誦

> 第十四品 真人経

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊舍衛國，在勝林給孤獨園。

> ある時、お釈迦さまは舎衛国に滞在され、勝林給孤独園におられました。

爾時，世尊告諸比丘：「我今為汝說真人法及不真人法，諦聽，諦聽，善思念之。」

> その時、世尊は比丘たちに告げられました。「今、あなたたちに真人の法と、真人でない者の法について説こう。よく聞き、よく聞き、よく心に留めて考えなさい。」

時，諸比丘受教而聽。

> さあ、諸々の比丘たちは教えを受け、それを聞こうとしました。

佛言：「云何不真人法？或有一人是豪貴族出家學道，餘者不然，彼因是豪貴族故，自貴賤他，是謂不真人法。真人法者作如是觀：『我不因此是豪貴族故，斷婬、怒、癡。』或有一人不是豪貴出家學道，彼行法如法，隨順於法，向法次法，彼因此故，得供養恭敬，如是趣向得真諦法者，不自貴、不賤他，是謂真人法。

> 仏陀は説かれた。「では、『真人（真の人）ではない者のあり方』とは何か？ある者は高貴な家柄の生まれで修行者となり、そうでない者もいる。その者はその高貴な家柄の生まれであることを理由に、自らを高く見せ、他者を卑しめる。これを『真人ではない者のあり方』という。 『真人のあり方』とは、次のように観じることだ。『私は、この高貴な家柄の生まれだからといって、欲望・怒り・無知が断たれるわけではない。』と。 また、ある者は高貴な家柄ではなく修行者となり、教えの通りに実践し、教えに従い、教えへと向かい、教えを順に実践する。その者はそのゆえに、尊敬と供養を得る。このようにして真実の教えに到達した者は、自らを高く見せず、他者を卑しめない。これを『真人のあり方』という。」

「復次，或有一人端正可愛，餘者不然，彼因端正可愛故，自貴賤他，是謂不真人法。真人法者作如是觀：『我不因此端正可愛故，斷婬、怒、癡。』或有一人不端正可愛，彼行法如法，隨順於法，向法次法，彼因此故，得供養恭敬，如是趣向得真諦法者，不自貴、不賤他，是謂真人法。

> また、ある人は容姿が美しく愛らしいが、他の人はそうではない。その人は自分の美しさゆえに自らを高く見積もり、他者を軽蔑する。これは真人（真の修行者）の道ではない。 真人の道を歩む者は、こう考える。 「私はこの容姿の美しさゆえに、欲望・怒り・無知を断ち切ったわけではない。」 また、ある人は容姿が美しくなく愛らしくないとしても、その人は教えに従って行動し、教えに随順し、教えに向かい、教えに沿って進む。そのゆえに供養や敬いを受ける。このようにして真理の教えに向かう者は、自らを高くせず、他者を軽蔑しない。これが真人の道である。

「復次，或有一人才辯工談，餘者不然，彼因才辯工談故，自貴賤他，是謂不真人法。真人法者作如是觀：『我不因此才辯工談故，斷婬、怒、癡。』或有一人無才辯工談，彼行法如法，隨順於法，向法次法，彼因此故，得供養恭敬，如是趣向得真諦法者，不自貴、不賤他，是謂真人法。

> さらに、ある人は弁舌が巧みで議論が上手く、他の人はそうでないとする。その人が弁舌の巧みさゆえに自らを高く見せ、他者を低く見る。これは「真人（真の人間）の道」ではない。真人の道とは、次のように観じるものである。「私はこの弁舌の巧みさによって、欲望や怒りや無知を断ち切ったわけではない」と。 また、ある人は弁舌が巧みでなく議論も上手くないが、法（真理）に従って行い、法に随順し、法を目指して進む。その人はそのゆえに、供養や敬いを受ける。このようにして真実の法（真理）に到達する人は、自らを高くせず、他者を低く見ない。これが「真人の道」である。

「復次，或有一人是長老，為王者所識及眾人所知，而有大福，餘者不然，彼因是長老，為王者所識及眾人所知，而有大福故，自貴賤他，是謂不真人法。真人法者作如是觀：『我不因此是長老，為王者所識及眾人所知，而有大福故，斷婬、怒、癡。』或有一人非是長老，不為王者所識及眾人所知，亦無大福，彼行法如法，隨順於法，向法次法，彼因此故，得供養恭敬，如是趣向得真諦法者，不自貴、不賤他，是謂真人法。

> 「また、ある人は長老であり、王者から認められ、人々にも知られ、大いなる福徳があるが、他の人にはそれが無い場合がある。その人は、自分が長老であり、王者から認められ、人々にも知られ、大いなる福徳があるという理由で、自分を高くし他人を卑しめる。これは真の人ではない者の道である。真の人の道は、次のように観ずる。『私はこのことで長老であるわけではなく、王者から認められ、人々にも知られ、大いなる福徳があるからといって、欲望、怒り、愚かさを断ち切ったわけではない。』 あるいは、ある人は長老ではなく、王者からも認められず、人々にも知られず、大いなる福徳も無い。しかし、その人が法に従い、法のままに行い、法に順応し、法に向かい、法に次いで進むなら、その人はそのことによって供養や敬いを得る。このように真理の法を体得することを志す者は、自分を高くせず、他人を卑しめない。これが真の人の道である。」

「復次，或有一人誦經、持律、學阿毘曇，諳阿含慕，多學經書，餘者不然，彼因諳阿含慕，多學經書故，自貴賤他，是謂不真人法。真人法者作如是觀：『我不因此諳阿含慕，多學經書故，斷婬、怒、癡。』或有一人不諳阿含慕，亦不多學經書，彼行法如法，隨順於法，向法次法，彼因此故，得供養恭敬，如是趣向得真諦法者，不自貴、不賤他，是謂真人法。

> また、ある人は経典を誦し、戒律を保ち、アビダルマを学び、アーガマに精通し、多くの経典を学んでいるが、他者はそうではないとする。その者は、アーガマに精通し、多くの経典を学んでいるがゆえに、自らを貴び他者を軽んじる。これを、真の人ではない者のあり方という。真の人である者のあり方は、次のように観じる。「私は、アーガマに精通し、多くの経典を学んでいるからといって、それによって欲望、怒り、無知を断ち切ったわけではない」と。あるいは、アーガマに精通せず、多くの経典を学んでいなくても、その者が法に従い、法に沿って実践し、法に向かい、法に次いで進むならば、その者はそのゆえに供養や敬いを得る。このように真実の法へと向かう者は、自らを貴ばず、他者を軽んじない。これを、真の人である者のあり方という。

「復次，或有一人著糞掃衣，攝三法服，持不慢衣，餘者不然，彼因持不慢衣故，自貴賤他，是謂不真人法。真人法者作如是觀：『我不因此持不慢衣故，斷婬、怒、癡。』或有一人不持不慢衣，彼行法如法，隨順於法，向法次法，彼因此故，得供養恭敬，如是趣向得真諦法者，不自貴、不賤他，是謂真人法。

> また、ある人は糞掃衣（ふんぞうえ）をまとい、三つの法衣を身に着け、慢心なく衣を持つが、他の人はそうではない。その慢心なく衣を持つことによって、自らを尊び他を軽んじる。これを「真人にあらざる者の行い」という。真人の行いとは、次のように観じるものである。「私はこの慢心なく衣を持つことによって、欲望や怒りや無知を断ったわけではない」と。あるいは、ある人は慢心なく衣を持たないとしても、その人は法に従って行い、法のままに生き、法に向かい、法に次いで進む。そのことによって供養や敬いを得たとしても、そのようにして真実の法に向かう人は、自らを尊ばず、他を軽んじない。これを「真人の行い」という。

「復次，或有一人常行乞食，飯齊五升，限七家食，或復一食，過中不飲漿，餘者不然，彼因過中不飲漿故，自貴賤他，是謂不真人法。真人法者作如是觀：『我不因此過中不飲漿故，斷婬、怒、癡。』或有一人不斷過中飲漿，彼行法如法，隨順於法，向法次法，彼因此故，得供養恭敬，如是趣向得真諦法者，不自貴、不賤他，是謂真人法。

> さらに、ある人は常に托鉢（たくはつ）行を行い、一度に五升の飯を食べず、七軒までしか乞食をしない。あるいは一日一食だけにし、昼を過ぎると水さえも飲まない。しかし他の修行者はそうではない。そして、その人は「自分は正午以降に水を飲まない」という行いのために、自分を偉いと思い、他人を見下す。これが「真人（しんじん）の道ではない」と私は説く。真人の道とは、次のように観じるものである：「私は正午以降に水を飲まないという行いによって、煩悩（欲望、怒り、無知）の一切を断ったわけではない。」ある人は正午以降に水を飲むことを続けながらも、法に従い、法に沿って修行し、法へと向かい、法に従って進む。そしてその人は、行いのゆえに供養や尊敬を受けるとしても、「真実の法」に趣く者は、自分を偉いと思わず、他人を見下さない。これが「真人の道」である。

「復次，或有一人在無事處、山林樹下，或住高巖，或止露地，或處塚間，或能知時，餘者不然，彼因此知時故，自貴賤他，是謂不真人法。真人法者作如是觀：『我不因此知時故，斷婬、怒、癡。』或有一人而不知時，彼行法如法，隨順於法，向法次法，彼因此故，得供養恭敬，如是趣向得真諦法者，不自貴、不賤他，是謂真人法。

> また、ある人は静かな場所や山の中の木の下、高い岩の上、露天下、墓地などに住み、時機を知ることができるが、他の人はそうではないとする。そのため、その人は自分を高く評価し他人を見下す。これは真人の正しい在り方ではない。真人の正しい在り方は、こう考える。「私は時機を知っているからといって、欲望や怒り、無知を断ち切ったわけではない」と。また、ある人は時機を知らなくても、教えに従い、法に随順し、正しい道を歩む。その結果、供養や敬いを受けることになろうとも、真実の教えに目覚めた人は、自らを高くせず、他者を見下さない。これこそが真人の在り方である。

「復次，或有一人逮得初禪，彼因得初禪故，自貴賤他，是謂不真人法。真人法者作如是觀：『初禪者，世尊說無量種，若有計者是謂愛也。』彼因此故，得供養恭敬，如是趣向得真諦法者，不自貴、不賤他，是謂真人法。

> また、ある人が初禅（最初の瞑想段階）に達したとします。そのため、自分を高く見積もり、他人を軽く見る。これが「正しくない人のやり方」です。 一方、正しい人のやり方とは、次のように考えます。 「初禅について、世尊（お釈迦様）は無数の種類があると説かれました。もしそれに執着するなら、それは渇愛（とらわれ）である、と。」 そのように見ることで、たとえ供養や尊敬を受けても、それに執着せず、自分を高くせず、他人を軽くしない。これが「正しい人のやり方」なのです。

「復次，或有一人得第二、第三、第四禪，得空處、識處、無所有處、非有想非無想處，餘者不然，彼因得非有想非無想處故，自貴賤他，是謂不真人法。真人法者作如是觀：『非有想非無想處，世尊說無量種，若有計者是謂愛也。』彼因此故，得供養恭敬，如是趣向得真諦法者，不自貴、不賤他，是謂真人法。

> さらに、ある人は第二禅、第三禅、第四禅を得て、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処に達するが、他の人はそうでないとする。その人は非想非非想処を得たという理由で、自分を貴び他者を軽んじる。これが真人ではない者の在り方である。真人の在り方とは、次のように観じるものである。「非想非非想処について、世尊は無量の仕方を説かれた。もしこれを執着するならば、それは愛着である」と。そのため、彼は供養や敬いを受けるとしても、このようにして真実の教えに向かう者は、自分を貴びず他者を軽んじない。これが真人の在り方である。

「諸比丘！是謂真人法、不真人法，汝等當知真人法、不真人法，知真人法、不真人法已，捨離不真人法，學真人法，汝等當學如是。」

> 「比丘たちよ、これが真人の教えであり、また真人でない者の教えである。あなたたちは真人の教えと真人でない者の教えをよく知り、それを知った上で、真人でない者の教えを捨て、真人の教えを学びなさい。そのように学ぶべきである。」

佛說如是。彼諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。

> このように仏は説かれました。比丘たちは仏の説かれたことを聞き、喜んでお受け取りになりました。

豪貴、端正、談 長老、誦諸經衣、食、無事、禪 四無色在後

> 高貴な家柄、端正な容姿、弁舌、そして年長者としての地位、経典を暗誦すること 衣服や食べ物に執着せず、雑事を離れて坐禅すること、その後の四無色界の境地

真人經第十四竟千二百九十三字

> 真人の経、第十四章 終わり<note>千二百九十三字</note>