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title: "中阿含經 · 97 大因經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
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### （九七）中阿含因品大因經第一

> （九七）中阿含 因品 大因經 第一

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊拘樓瘦，在劍磨瑟曇拘樓都邑。

> ある時、仏さまはコーラヴィヤ（拘樓瘦）の国を遊行され、剣磨瑟曇（ケーマセーダン）というコーラの都に滞在されました。

爾時，尊者阿難閑居獨處，宴坐思惟，心作是念：「此緣起甚奇，極甚深，明亦甚深，然我觀見至淺至淺。」於是，尊者阿難則於晡時從宴坐起，往詣佛所，稽首佛足，却住一面，白曰：「世尊！我今閑居獨處，宴坐思惟，心作是念：『此緣起甚奇，極甚深，明亦甚深，然我觀見至淺至淺。』」

> ある時、尊者アーナンダが一人静かに座って瞑想し、こう思いました。「この縁起の教えは実に不思議で、非常に深遠である。その智慧もまた深い。しかし、私が見る限り、それはとても浅く感じられる。」そこで、尊者アーナンダは夕方に瞑想から立ち上がり、仏のもとへ向かい、仏の足に礼拝して、一方に立ち、こう申し上げました。「世尊よ、私は先ほど一人静かに座って瞑想し、こう思いました。『この縁起の教えは実に不思議で、非常に深遠である。その智慧もまた深い。しかし、私が見る限り、それはとても浅く感じられる。』」

世尊告曰：「阿難！汝莫作是念，此緣起至淺至淺。所以者何？此緣起極甚深，明亦甚深。阿難！於此緣起不知如真，不見如實，不覺不達故。念彼眾生如織機相鎖，如蘊蔓草，多有調亂，怱怱喧閙，從此世至彼世，從彼世至此世，往來不能出過生死。阿難！是故知此緣起極甚深，明亦甚深。

> 世尊が仰せになりました。「阿難よ、あなたはこう思ってはならない——『この縁起は非常に浅い、非常に浅い』と。なぜなら、この縁起は極めて深遠であり、その智慧もまた極めて深遠だからである。阿難よ、この縁起を真実のとおりに知らず、如実に見ず、覚らず、悟らなかったがゆえに、あの衆生たちは、機を織る梭（ひ）が絡み合うように、蔓草（つるくさ）がからみ合うように、多く乱れ、慌ただしく騒ぎ立て、この世からあの世へ、あの世からこの世へと輪廻し、生死の苦しみを超え出ることができないのである。阿難よ、だからこそ、この縁起は極めて深遠であり、その智慧もまた極めて深遠であると知るべきなのだ。」

「阿難！若有問者：『老死有緣耶？』當如是答：『老死有緣。』若有問者：『老死有何緣？』當如是答：『緣於生也。』阿難！若有問者：『生有緣耶？』當如是答：『生亦有緣。』若有問者：『生有何緣？』當如是答：『緣於有也。』阿難！若有問者：『有有緣耶？』當如是答：『有亦有緣。』若有問者：『有有何緣？』當如是答：『緣於受也。』阿難！若有問者：『受有緣耶？』當如是答：『受亦有緣。』若有問者：『受有何緣？』當如是答：『緣於愛也。』阿難！是為緣愛有受，緣受有有，緣有有生，緣生有老死，緣老死有愁慼，啼哭、憂苦、懊惱皆緣老死有，如此具足純生大苦陰。

「阿難！緣生有老死者，此說緣生有老死，當知所謂緣生有老死。阿難！若無生，魚、魚種，鳥、鳥種，蚊、蚊種，龍、龍種，神、神種，鬼、鬼種，天、天種，人、人種，阿難！彼彼眾生隨彼彼處，若無生，各各無生者，設使離生，當有老死耶？」

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！是故當知是老死因、老死習、老死本、老死緣者，謂此生也。所以者何？緣生故則有老死。

「阿難！緣有有生者，此說緣有有生，當知所謂緣有有生。阿難！若無有，魚、魚種，鳥，鳥種，蚊、蚊種，龍、龍種，神、神種，鬼、鬼種，天、天種，人、人種。阿難！彼彼眾生隨彼彼處無有，各各無有者，設使離有，當有生耶？」

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！是故當知是生因、生習、生本、生緣者，謂此有也。所以者何？緣有故則有生。

> 阿難よ、それゆえに知るべきである。生の因、生の習慣、生の根本、生の縁とは、すなわち「有」であることを。なぜなら、「有」があるから、生が生じるからである。

「阿難！緣受有有者，此說緣受有有，當知所謂緣受有有。阿難！若無受，各各無受者，設使離受，當復有有，施設有有耶？」

> 「阿難よ。感受（受）があるから存在（有）が生じる、という説があります。この『感受の条件によって存在がある』という意味について、よく理解しなさい。阿難よ。もし感受がなく、あらゆる感受が存在せず、感受から離れて何かがあるとしたら、『存在がある』などと言えるでしょうか。」

答曰：「無也。」

「阿難！是故當知是有因、有習、有本、有緣者，謂此受也。所以者何？緣受故則有有。

> 「阿難よ、それゆえ知るがよい。因があり、習いがあり、もとがあり、縁があるもの、それが〈受〉というものだ。なぜなら、〈受〉を縁として〈有〉が生じるからである。

「阿難！緣愛有受者，此說緣愛有受，當知所謂緣愛有受。阿難！若無愛，各各無愛者，設使離愛，當復有受立於受耶？」

> 「アーナンダよ、「渇愛を縁として感受が生じる」と言うが、それは渇愛が縁となって感受が生じる、と知るべきである。アーナンダよ、もし渇愛がなく、全く渇愛が存在しないならば、渇愛を離れて、いったい感受が確立されることがあるだろうか？」

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！是故當知是受因、受習、受本、受緣者，謂此愛也。所以者何？緣愛故則有受。

> 「阿難よ、ゆえに知るがよい。受の因、受の習い、受の本、受の縁となるもの、それがすなわち愛である。なぜならば、愛を縁として受が生じるからである。」

「阿難！是為緣愛有求，緣求有利，緣利有分，緣分有染欲，緣染欲有著，緣著有慳，緣慳有家，緣家有守。阿難！緣守故便有刀杖，鬪諍、諛諂、欺誑、妄言、兩舌，起無量惡不善之法，有如此具足純生大苦陰。阿難！若無守，各各無守者，設使離守，當有刀杖、鬪諍、諛諂、欺誑、妄言、兩舌，起無量惡不善之法耶？」

> 「アーナンダ、このように愛執から求めることが生じ、求めることから利得が生じ、利得から分別が生じ、分別から欲望への執着が生じ、欲望への執着から固執が生じ、固執から吝嗇が生じ、吝嗇から家庭生活が生じ、家庭生活から守りの心が生じるのです。 アーナンダ、守りの心があるからこそ、武器、争い、お世辞、欺瞞、うそ、二枚舌など、無数の悪しき行為が生まれ、これらが集まって大きな苦しみの塊が形成されるのです。 アーナンダ、もし守りの心がなく、それぞれがそれを手放したならば、武器、争い、お世辞、欺瞞、うそ、二枚舌など、無数の悪しき行為が生まれるでしょうか？」

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！是故當知是刀杖、鬪諍、諛諂、欺誑、妄言、兩舌，起無量惡不善之法。因是習、是本、是緣者，謂此守也。所以者何？緣守故則有刀杖、鬪諍、諛諂、欺誑、妄言、兩舌，起無量惡不善之法，有如此具足純生大苦陰。

> 「阿難よ、ゆえに知るがよい。刀や杖、争い、へつらい、欺き、偽りの言葉、仲違いさせる言葉、これらによって無数の悪しき不善の法が生じる。その原因、基盤、縁となるもの、それは『守り』である。なぜなら、『守り』に執着するからこそ、刀や杖、争い、へつらい、欺き、偽りの言葉、仲違いさせる言葉が生じ、無数の悪しき不善の法が現れ、このようにして苦しみの大きな塊が完全に生じるからである。」

「阿難！緣家有守者，此說緣家有守，當知所謂緣家有守。阿難！若無家，各各無家者，設使離家，當有守耶？」

> 「アーナンダ（阿難）よ。家には守る者がいる。これは「家には守る者がいる」と言われる理由であり、その意味するところを知るべきである。アーナンダよ、もし家がなく、それぞれに家がないのならば、家を離れて守る者が存在するだろうか？」

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！是故當知是守因、守習、守本、守緣者，謂此家也。所以者何？緣家故則有守。

> 阿難よ、それゆえに知るがよい。守るための因、守るための習い、守るための根本、守るための縁とは、すなわちこの「家」のことである。なぜならば、家という縁があるからこそ、守るということが生じるからである。

「阿難！緣慳有家者，此說緣慳有家，當知所謂緣慳有家。阿難！若無慳，各各無慳者，設使離慳，當有家耶？」

> 「アーナンダ、吝嗇によって『家（家庭）がある』と言えるのです。『吝嗇によって家がある』とは、まさにこの吝嗇によって家が成り立っていると知るべきです。 アーナンダ、もし吝嗇がなく、一切の吝嗇が存在しないならば、それによって家というものがあるでしょうか？」

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！是故當知是家因、家習、家本、家緣者，謂此慳也。所以者何？緣慳故則有家。

> 「阿難よ、ゆえに知るがよい。家の原因、家の習慣、家の根本、家の縁となるもの、それはこの「むさぼり（慳）」である。なぜなら、むさぼりを縁として家があるからだ。」

「阿難！緣著有慳者，此說緣著有慳，當知所謂緣著有慳。阿難！若無著，各各無著者，設使離著，當有慳耶？」

> 「アーナンダよ。ここで『執着ある者が物惜しみする』と言われるのは、まさに執着があるからこそ物惜しみが生じると知るべきである。アーナンダよ、もし執着が全くなく、あらゆる執着が消え去ったなら、その執着を離れたところに、はたして物惜しみが存在するだろうか？」

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！是故當知是慳因、慳習、慳本、慳緣者，謂此著也。所以者何？緣著故則有慳。

> 阿難よ、それゆえに知るべきである。この慳吝（けんりん）の原因、習い、根本、縁となるもの、それがこの「執着」であると。なぜなら、執着があるからこそ、慳吝が生じるからである。

「阿難！緣欲有著者，此說緣欲有著，當知所謂緣欲有著。阿難！若無欲，各各無欲者，設使離欲，當有著耶？」

> 「阿難よ。欲望に基づいて執着が生じるとは、欲望に基づいて執着が生じるという意味です。欲望がなければ、あるいはそれぞれに欲望がなければ、欲望を離れて執着などありえましょうか。」

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！是故當知是著因、著習、著本、著緣者，謂此欲也。所以者何？緣欲故則有著。

> 阿難よ、それゆえに知るがよい。この「執着の因」、執着の習い、執着の根本、執着の縁となるもの――それは、この「欲望」である。なぜなら、欲望を縁として、執着が生じるからだ。

「阿難！緣分有染欲者，此說緣分有染欲，當知所謂緣分有染欲。阿難！若無分，各各無分者，設使離分，當有染欲耶？」

> 「アーナンダよ、縁（よすが）によって欲望が生じるのです。『縁によって欲望がある』とは、まさにこのことを指して言うのです。アーナンダよ、もし縁というものがなければ、それぞれに縁がなかったならば、縁を離れて欲望が存在するでしょうか？」

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！是故當知是染欲因、染欲習、染欲本、染欲緣者，謂此分也。所以者何？緣分故則有染欲。

> 「阿難よ、それゆえに知るがよい。汚れた欲望の原因、汚れた欲望の習慣、汚れた欲望の根本、汚れた欲望のきっかけとは、まさにこの「分（ぶん）」のことである。なぜなら、この「分」があるからこそ、汚れた欲望が生じるのだから。」

「阿難！緣利有分者，此說緣利有分，當知所謂緣利有分。阿難！若無利，各各無利者，設使離利，當有分耶？」

> 「アーナンダ、利益があって分け前があるということは、つまり利益があるから分け前があるのだと知るべきです。アーナンダ、もし利益がなく、それぞれに利益が全くなければ、利益を離れて分け前などあり得るでしょうか？」

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！是故當知是分因、分習、分本、分緣者，謂此利也。所以者何？緣利故則有分。

> 「阿難よ、それゆえに知るがよい。分けることの原因、分けることの習慣、分けることの根源、分けることの縁とは、すなわちこの「利（利益）」である。なぜなら、利に縁って、分けが生じるからである。」

「阿難！緣求有利者，此說緣求有利，當知所謂緣求有利。阿難！若無求，各各無求者，設使離求，當有利耶？」

> 「アーナンダよ、『求めがあるからこそ利益がある』と言われるのは、このようにして『求めがあるからこそ利益がある』と知られるべきである。アーナンダよ、もし求めがなく、それぞれに求める者がいなければ、求めを離れて、果たして利益があるだろうか？」

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！是故當知是利因、利習、利本、利緣者，謂此求也。所以者何？緣求故別有利。

> 阿難よ、それゆえに知るべきである。すなわち、執着の原因、執着の発生、執着の基盤、執着の縁となるもの、それは「求め（欲望）」である。なぜなら？ 求めに縁って、別の執着が生じるからである。

「阿難！緣愛有求者，此說緣愛有求，當知所謂緣愛有求。阿難！若無愛，各各無愛者，設使離愛，當有求耶？」

> 「アーナンダよ、「愛執から執着の追求が生じる」という教えがあります。それを今から示しましょう。アーナンダよ、もし愛執が存在しなければ、愛執に関わるあらゆるものもありません。そうであれば、愛執から離れたところに、はたして執着の追求があり得るでしょうか？」

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！是故當知是求因、求習、求本、求緣者，謂此愛也。所以者何？緣愛故則有求。

> 「アーナンダよ、このように知るべきです。つまり、求めの原因、求めの生じるもと、求めの根源、求めの縁とは、この『渇愛』である。なぜなら、渇愛を縁として、求めが生じるからである。」

「阿難！欲愛及有愛，此二法因覺、緣覺致來。阿難！若有問者：『覺有緣耶？』當如是答：『覺亦有緣。』若有問者：『覺有何緣？』當如是答：『緣更樂也。』當知所謂緣更樂有覺。阿難！若無有眼更樂，各各無眼更樂者，設使離眼更樂，當有緣眼更樂生樂覺、苦覺、不苦不樂覺耶？」

> 「阿難、欲望の愛と存在への愛、この二つの法は、感受作用によって生じ、感受作用を縁として現れます。 阿難、もし誰かが『感受作用には原因があるのですか？』と尋ねたら、こう答えるべきです。『感受作用には確かに原因があります。』 さらに『その原因とは何ですか？』と尋ねられたなら、こう答えなさい。『原因は接触（触）です。』 つまり、接触を縁として感受作用が生じることを、よく知らねばなりません。 阿難、もし眼の接触がなく、あらゆる眼の接触が存在せず、仮に眼の接触を離れたとしたら、眼の接触を縁として楽の感受、苦の感受、苦でも楽でもない感受が生じるでしょうか？」

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！若無耳、鼻、舌、身、意更樂，各各無意更樂者。設使離意更樂，當有緣意更樂生樂覺、苦覺、不苦不樂覺耶？」

> 「阿難よ、もし耳、鼻、舌、身、意のそれぞれに触れ合うことがなければ、それぞれに意の触れ合いもないでしょう。もし意の触れ合いが離れてしまったなら、その意の触れ合いを縁として、楽の感覚、苦の感覚、苦でも楽でもない感覚が生じることがあるでしょうか。」

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！是故當知是覺因、覺習、覺本、覺緣者，謂此更樂也。所以者何？緣更樂故則有覺。

> 阿難よ、ゆえに知るべきである。この「感受」には因があり、習（習慣）があり、本（根本）があり、縁（条件）がある。その縁となるものとは、すなわちこの「接触（触）」である。なぜなら、接触を縁として、感受が生じるからである。

「阿難！若有問者：『更樂有緣耶？』當如是答：『更樂有緣。』若有問者：『更樂有何緣？』當如是答：『緣名色也。』當知所謂緣名色有更樂。阿難！所行、所緣有名身，離此行、離此緣有有對更樂耶？」

> 「アーナンダよ、もし『触には原因があるのか？』と問う者がいたなら、こう答えるべきです。『触には原因があります。』そして『触の原因は何か？』と問う者がいたなら、こう答えるべきです。『名色が原因です。』知るべきです、名色を縁として触が生じると。アーナンダよ、行じられるもの、縁とされるものとして名身がある。この行いと、この縁を離れて、物質的な対象との接触は存在するでしょうか？」

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！所行、所緣有色身，離此行、離此緣有增語更樂耶？」

> 「阿難よ、色身という行為と縁（よりどころ）がある。この行為と縁を離れて、言葉による表現や触れる感覚が存在するだろうか？」

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「設使離名身及色身，當有更樂施設更樂耶？」

> 仮に、名前や形という概念を離れて、感覚や接触の体験が存在すると言えるでしょうか？

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！是故當知是更樂因、更樂習、更樂本、更樂緣者，謂此名色也。所以者何？緣名色故則有更樂。

> 「阿難よ、それゆえに知るがよい。この接触（更楽）の因、接触の習、接触の本、接触の縁となるものは、すなわち、この名色である。なぜなら、名色を縁として接触が生じるからだ。」

「阿難！若有問者：『名色有緣耶？』當如是答：『名色有緣。』若有問者：『名色有何緣？』當如是答：『緣識也。』當知所謂緣識有名色。阿難！若識不入母胎者，有名色成此身耶？」

> 阿難よ、もし誰かが「名色（名前と形ある存在）には原因があるのか？」と尋ねたら、こう答えなさい。「名色には原因がある。」と。さらに「名色の原因は何か？」と尋ねられたら、こう答えなさい。「識（認識）が原因である。」と。つまり、識を縁として名色があると知るべきである。阿難よ、もし識（認識）が母胎に入らなければ、名色がこの身体として形成されるだろうか。

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！若識入胎即出者，名色會精耶？」

> 「アーナンダよ、もし識が胎内に入ってすぐに出てしまうならば、名色（こころとからだ）は結びつくことができるだろうか？」

答曰：「不會。」

> 「わかりません」と答えました。

「阿難！若幼童男童女、識初斷壞不有者，名色轉增長耶？」

> 「阿難よ。もし幼い男子や女子の意識が、最初に断たれてなくなってしまったならば、名前や形（心身）はさらに成長することができるだろうか？」

答曰：「不也。」

> いいえ、違います。

「阿難！是故當知是名色因、名色習、名色本、名色緣者，謂此識也。所以者何？緣識故則有名色。

> 「アーナンダよ、このように知るがよい。名と形あるもの（名色）の原因、その起こるもと、その根本、その縁（よすが）とは、すなわちこの識（認識）である。なぜならば、識を縁として名と形あるものが生じるからである。」

「阿難！若有問者：『識有緣耶？』當如是答：『識亦有緣。』若有問者：『識有何緣？』當如是答：『緣名色也。』當知所謂緣名色有識。阿難！若識不得名色，若識不立、不倚名色者，識寧有生、有老、有病、有死、有苦耶？」

> 「アーナンダよ、もし誰かが『認識（識）にはよりどころ（縁）があるのか？』と尋ねたら、こう答えなさい。『認識にもよりどころがあります。』と。では、『その認識のよりどころは何か？』と尋ねられたら、こう答えなさい。『名前と形（名色）がそのよりどころです。』と。なぜなら、名前と形をよりどころとして認識が生じるからです。アーナンダよ、もし認識が名前と形に拠り所を持たず、それに基づいて存在したり頼ったりしなかったなら、その認識に生・老・病・死・苦が起こるでしょうか？」

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！是故當知是識因、識習、識本、識緣者，謂此名色也。所以者何？緣名色故則有識。阿難！是為緣名色有識，緣識亦有名色，由是增語，增語說傳，傳說可施設有，謂識、名色共俱也。阿難！云何有一見有神耶？」

> 「阿難よ、ゆえに知るべきである。この識には原因があり、識には習いがあり、識には根本があり、識には縁がある。それを名色というのである。なぜなら、名色を縁として識があるからだ。阿難よ、これが名色を縁として識があり、識を縁としてまた名色があるという道理である。このようにして言葉が生まれ、言葉が伝えられ、伝承されて存在が説かれる。すなわち、識と名色は共存しているのである。阿難よ、どのようにして『神（我）が存在する』と見る人がいるのだろうか。」

尊者阿難白世尊曰：「世尊為法本，世尊為法主，法由世尊，唯願說之，我今聞已，得廣知義。」

> 阿難尊者が仏陀に申し上げました。「世尊は教えの根本です。世尊は教えの主です。教えは世尊から生まれます。どうかお説きください。私たちがそれを聞いて、その意味を深く理解できますように。」

佛便告曰：「阿難！諦聽，善思念之，我當為汝分別其義。」尊者阿難受教而聽。

> そこで仏は阿難に告げられました。 「阿難よ、よく聞き、よく心に思いなさい。これから、あなたにその意味を詳しく説き明かしましょう。」 尊者阿難は、その教えを謹んでお聞きしました。

佛言：「阿難！或有一見覺是神，或復有一不見覺是神，見神能覺，然神法能覺。或復有一不見覺是神，亦不見神能覺，然神法能覺，但見神無所覺。阿難！若有一見覺是神者，應當問彼：『汝有三覺：樂覺、苦覺、不苦不樂覺，汝此三覺為見何覺？是神耶？』阿難！當復語彼：『若有覺樂覺者，彼於爾時二覺滅：苦覺、不苦不樂覺，彼於爾時唯覺樂覺。樂覺者，是無常法、苦法、滅法。若樂覺已滅，彼不作是念，非為神滅耶？』阿難！若復有一覺苦覺者，彼於爾時二覺滅：樂覺、不苦不樂覺，彼於爾時唯覺苦覺。苦覺者，是無常法、苦法、滅法。若苦覺已滅，彼不作是念，非為神滅耶？阿難！若復有一覺不苦不樂覺者，彼於爾時二覺滅：樂覺、苦覺，彼於爾時唯覺不苦不樂覺。不苦不樂覺者，是無常法、苦法、滅法。若不苦不樂覺已滅，彼不作是念，非為神滅耶？阿難！彼如是無常法但離苦樂，當復見覺是神耶？」

> 仏は言われた。「阿難よ、ある人は、この認識（感受）を自己（神我）であると見る。またある人は、認識そのものを自己であるとは見ないが、認識する能力を持つものを自己であると見る。あるいはまた、認識そのものを自己と見ず、認識する能力を持つものを自己とも見ず、ただ自己には認識作用がないと見る者もいる。 阿難よ、もし誰かが『認識が自己である』と見るならば、その人にこう問うべきだ。『あなたには三つの認識がある。楽の認識、苦の認識、苦でも楽でもない認識である。この三つの認識のうち、どれを自己だと見るのか？』 阿難よ、さらにその人にこう語るべきだ。『もし楽の認識を感じるならば、その時には他の二つの認識（苦と不苦不楽）は消えている。ただ楽の認識だけがある。楽の認識とは、無常であり、苦しみであり、滅びゆくものである。もし楽の認識が滅びたなら、その人は「自己が滅びたのではないか」と思わないだろうか？』」 「阿難よ、もし苦の認識を感じるならば、その時には他の二つの認識（楽と不苦不楽）は消えている。ただ苦の認識だけがある。苦の認識とは、無常であり、苦しみであり、滅びゆくものである。もし苦の認識が滅びたなら、その人は「自己が滅びたのではないか」と思わないだろうか？） 「阿難よ、もし苦でも楽でもない認識を感じるならば、その時には他の二つの認識（楽と苦）は消えている。ただ不苦不楽の認識だけがある。不苦不楽の認識とは、無常であり、苦しみであり、滅びゆくものである。もし不苦不楽の認識が滅びたなら、その人は「自己が滅びたのではないか」と思わないだろうか？」 「阿難よ、このように認識（感受）は無常であり、苦と楽を離れてただ滅びゆくものである。それでもなお、この認識を自己であると見ることを続けるのだろうか？」

答曰：「不也。」

> いいえ、違います。

「阿難！是故彼如是無常法但離苦樂，不應復見覺是神也。阿難！若復有一不見覺是神，然神能覺，見神法能覺者，應當語彼：『汝若無覺者，覺不可得，不應說是我所有。』阿難！彼當復如是見覺不是神，然神能覺，見神法能覺耶？」

> 「阿難よ、それゆえに、このようにして無常なるものは、ただ苦しみや楽しみから離れている。だから、もはや『感覚作用が自己である』と見なすべきではないのだ。 阿難よ、もしまた、『感覚作用は自己ではないが、自己が感覚する』と見なし、『自己が感覚するという性質がある』と見る者がいるとすれば、その者にこう言うべきである。『もしあなたに感覚作用がなければ、感覚というものは得られない。だから、それを“私のもの”と言ってはならない』と。 阿難よ、その者は、このように『感覚作用は自己ではなく、しかし自己が感覚する』と見て、『自己が感覚するという性質がある』と見るだろうか？」

答曰：「不也。」

> いいえ、違います。

「阿難！是故彼不應如是見覺非神，神能覺，見神法能覺。阿難！若復有一不見覺是神，亦不見神能覺，然神法能覺，但見神無所覺者，應當語彼：『汝若無覺都不可得，神離覺者，不應神清淨。』阿難！彼當復見覺非神，亦不見神能覺、神法能覺，但見神無所覺耶？」

> 「阿難よ。ゆえに、そのように『感覚は我（神）ではない』『我が感覚する』『我（神）という法が感覚する』と見なしてはならない。阿難よ。もし再び、『感覚は我である』と見なさず、『我が感覚する』とも見なさず、『我という法が感覚する』と見なすこともなく、ただ『我には感覚するものがない』と見なす者がいれば、その者にこう語るべきである。『あなたがもし感覚を持たないのならば、それは全く得ることができない。我を感覚から離れたものとするならば、我は清らかではないと見なすべきである。』阿難よ。その者はさらに、『感覚は我ではない』と見なし、『我が感覚する』とも見なさず、･･･『我という法が感覚する』と見なすこともなく、ただ『我には感覚するものがない』と見なすのである。」

答曰：「不也。」

> いいえ、違います。

「阿難！是故彼不應如是見覺非神，亦不見神能覺、神法能覺，但見神無所覺，是謂有一見有神也。阿難！云何有一不見有神耶？」

> 「阿難よ、それゆえに、こう見るべきではない——『感覚は我（永遠の自己）ではない』とも、『我が感覚する』とも、『我の働きとして感覚がある』とも見てはならない。ただ『我には感覚というものはない』と見なすこと、これを『一つの見解として我があると見る』というのだ。阿難よ、では『一つの見解として我がないと見る』とはどのようなことか。」

尊者阿難白世尊曰：「世尊為法本，世尊為法主，法由世尊，唯願說之，我今聞已，得廣知義。」

> 阿難尊者が仏陀に申し上げました。「世尊は教えの根本です。世尊は教えの主です。教えは世尊から生まれます。どうかお説きください。私たちがそれを聞いて、その意味を深く理解できますように。」

佛便告曰：「阿難！諦聽，善思念之，我當為汝分別其義。」尊者阿難受教而聽。

> そこで仏は阿難に告げられました。 「阿難よ、よく聞き、よく心に思いなさい。これから、あなたにその意味を詳しく説き明かしましょう。」 尊者阿難は、その教えを謹んでお聞きしました。

佛言：「阿難！或有一不見覺是神，亦不見神能覺，然神法能覺，亦不見神無所覺。彼如是不見已，則不受此世間，彼不受已，則不疲勞，不疲勞已，便般涅槃，我生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。阿難！是謂增語，增語說傳，傳說可施設有，知是者，則無所受。阿難！若比丘如是正解脫者，此不復有見如來終、見如來不終、見如來終不終、見如來亦非終亦非不終，是謂有一不見有神也。阿難！云何有一有神施設而施設耶？」

> 仏は言われた。「アーナンダよ。或る人は、『我』（神）を見ることなく、また『我』が感覚するのを見ることもない。しかし『我』という法（原理）は感覚することができるが、『我』に感覚がないのを見ることもない。彼はこのように見ないので、この世に執着しない。執着しないので疲労することなく、疲労しないので完全に涅槃に入る。『我が生は尽き、梵行は立ち、なすべきことは成し遂げられ、もはや再び生存を受けることはない』と、あるがままに知る。アーナンダよ、これを増語（付加的な言説）という。増語として語られ、伝えられ、伝承として設定できるものがあるが、これを知る者は何ものにも執着しない。アーナンダよ、もし比丘がこのように正しく解脱しているならば、ここに『如来は終わる』『如来は終わらない』『如来は終わりかつ終わらない』『如来は終わるのでも終わらないのでもない』という見解は再び存在しない。これを『一つのものとして、我を見ることがない』というのである。アーナンダよ、どのようにして『一つのものとして、我という施設がある』という施設が設けられるのだろうか。」

尊者阿難白世尊曰：「世尊為法本，世尊為法主，法由世尊，唯願說之，我今聞已，得廣知義。」

> 阿難尊者が仏陀に申し上げました。「世尊は教えの根本です。世尊は教えの主です。教えは世尊から生まれます。どうかお説きください。私たちがそれを聞いて、その意味を深く理解できますように。」

佛便告曰：「阿難！諦聽，善思念之，我當為汝分別其義。」尊者阿難受教而聽。

> そこで仏は阿難に告げられました。 「阿難よ、よく聞き、よく心に思いなさい。これから、あなたにその意味を詳しく説き明かしましょう。」 尊者阿難は、その教えを謹んでお聞きしました。

佛言：「阿難！或有一少色是神施設而施設。或復有一非少色是神施設而施設，無量色是神施設而施設。或復有一非少色是神施設而施設，亦非無量色是神施設而施設，少無色是神施設而施設。或復有一非少色是神施設而施設，亦非無量色是神施設而施設，亦非少無色是神施設而施設，無量無色是神施設而施設。

> 仏は言われた。「阿難よ、ある者は、少しばかりの色（物質的なもの）を‘自己’の拠り所として、それを‘自己’と見なす。またある者は、少しばかりの色ではなく、無量の色を‘自己’の拠り所として、それを‘自己’と見なす。またある者は、少しばかりの色でもなく、無量の色でもなく、少しばかりの無色（物質を超えたもの）を‘自己’の拠り所として、それを‘自己’と見なす。さらにまたある者は、少しばかりの色でもなく、無量の色でもなく、少しばかりの無色でもなく、無量の無色を‘自己’の拠り所として、それを‘自己’と見なす。」

「阿難！若有一少色是神施設而施設者，彼今少色是神施設而施設，身壞命終，亦如是說、亦如是見，有神若離少色時，亦如是如是思，彼作如是念。阿難！如是有一少色是神施設而施設，如是有一少色是神見著而著。

> 「阿難よ、もしわずかな色彩（身体的なもの）に基づいて自我を仮設し、それを固定して捉える者がいるとすれば、その人は、そのわずかな色彩に自我を仮設しているのです。身体が壊れ、命が終わるときにも、同じように語られ、同じように見られます。自我がそのわずかな色彩から離れる時にも、そのように考え、そのように思います。阿難よ、このようにして、わずかな色彩に基づいて自我を仮設し、それに執着するのです。」

「阿難！若復有一非少色是神施設而施設，無量色是神施設而施設者，彼今無量色是神施設而施設，身壞命終，亦如是說、亦如是見，有神若離無量色時，亦如是如是思，彼作如是念。阿難！如是有一無量色是神施設而施設，如是無量色是神見著而著。

> 阿難よ、もしもまた、ある者が「わずかな色形（物質的なもの）が自我の現れである」と見なすのではなく、「無量の色形が自我の現れである」と見なすとするならば、その者は今、無量の色形を自我の現れと見なしている。身体が壊れ、命が終わるときも、同じように説き、同じように見て、「もし自我が無量の色形から離れるとしても、そのように思い、そのように考える」と彼は思うのである。阿難よ、このようにして、ある者は「無量の色形が自我の現れである」と見なし、その無量の色形に執着し、それに固執するのである。

「阿難！若復有一非少色是神施設而施設，亦非無量色是神施設而施設，少無色是神施設而施設者，彼今少無色是神施設而施設，身壞命終，亦如是說、亦如是見，有神若離少無色時，亦如是如是思，彼作如是念。阿難！如是有一少無色是神施設而施設，如是有一少無色是神見著而著。

> 「アーナンダよ。また、もし何者かが、『神の存在（自我）の表現』として、少しばかりの色（物質的なもの）に執着するわけでもなく、無量の色に執着するわけでもなく、少しばかりの無色のもの（非物質的なもの）に執着するならば、その者は今、少しばかりの無色のものを『神の表現』としている。 その者は肉体が壊れ、命が終わった時にも、そのように説き、そのように見る。すなわち、『神の存在が、この少しばかりの無色のものから離れる時』にも、そのような考えを抱き、こう思うのだ。 アーナンダよ。このようにして、少しばかりの無色のものを『神の表現』とする者がいる。このようにして、少しばかりの無色のものに 『神の存在』を見て執着する者がいるのだ。」

「阿難！若復有一非少色是神施設而施設，亦非無量色是神施設而施設，亦非少無色是神施設而施設，無量無色是神施設而施設者，彼今無量無色是神施設而施設，身壞命終，亦如是說、亦如是見，有神若離無量無色時，亦如是如是思，彼作如是念。阿難！如是有一無量無色是神施設而施設，如是有一無量無色是神見著而著，是謂有一有神施設而施設也。

> 「阿難、ある人は、わずかな色（物質的なもの）を自己の存在基盤として捉えるわけではなく、また無量の色を自己の存在基盤として捉えるのでもなく、わずかな無色（非物質的なもの）を自己の存在基盤として捉えるのでもありません。しかし、無量の無色を自己の存在基盤として捉える人がいます。その人は、無量の無色を自己の存在基盤として捉え、身体が壊れ、命が終わる時にも、そのように説き、そのように見ます。すなわち、「もし無量の無色から離れた場所に自我があるとしても、そのように考え、そのように思いを巡らせるのだ」と。阿難、このように、無量の無色を自己の存在基盤として捉え、それに執着して住む人がいます。これが、「自我という基盤を設けて住む」ということの一つです。

「阿難！云何有一無神施設而施設耶？」

> 「阿難よ。どのようにして、一つの『無神』という教えを説き示すのでしょうか。」

尊者阿難白世尊曰：「世尊為法本，世尊為法主，法由世尊，唯願說之，我今聞已，得廣知義。」

> 阿難尊者が仏陀に申し上げました。「世尊は教えの根本です。世尊は教えの主です。教えは世尊から生まれます。どうかお説きください。私たちがそれを聞いて、その意味を深く理解できますように。」

佛便告曰：「阿難！諦聽，善思念之，我當為汝分別其義。」尊者阿難受教而聽。

> そこで仏は阿難に告げられました。 「阿難よ、よく聞き、よく心に思いなさい。これから、あなたにその意味を詳しく説き明かしましょう。」 尊者阿難は、その教えを謹んでお聞きしました。

佛言：「阿難！或有一非少色是神施設而施設，亦非無量色是神施設而施設，亦非少無色是神施設而施設，亦非無量無色是神施設而施設。阿難！若有一非少色是神施設而施設者，彼非今少色是神施設而施設，身壞命終，亦不如是說、亦不如是見，有神若離少色時，亦不如是如是思，亦不作如是念。阿難！如是有一非少色是神施設而施設，如是有一非少色是神不見著而著。

> 仏が言われた。「アーナンダよ、あるいは、一つのものとして、少ない色（物質）が〈自己〉の仮の現れ（神施設）として仮に現れている（施設されている）わけではない。また、無量の色が〈自己〉の仮の現れとして仮に現れているわけでもない。また、少ない無色（非物質）が〈自己〉の仮の現れとして仮に現れているわけでもない。また、無量の無色が〈自己〉の仮の現れとして仮に現れているわけでもない。 アーナンダよ、もし一つのものとして、少ない色が〈自己〉の仮の現れとして仮に現れているならば、その者は、今現在、少ない色が〈自己〉の仮の現れとして仮に現れているとは言えない。身体が壊れ、命が終わった後も、そのように説かず、そのように見ない。もし〈自己〉が少ない色から離れる時も、そのように思いを巡らせず、そのような考えを起こさない。 アーナンダよ、このように、一つのものとして、少ない色が〈自己〉の仮の現れとして仮に現れているのではない。このように、一つのものとして、少ない色が〈自己〉ではないと見て、執着することなく、よく執着しているのである。」

「阿難！若復有一非無量色是神施設而施設者，彼非今無量色是神施設而施設，身壞命終，亦不如是說、亦不如是見，有神若離無量色時，亦不如是如是思，亦不作如是念。阿難！如是有一非無量色是神施設而施設，如是有一非無量色是神不見著而著。

> 「阿難よ、もしも、無量の色（物質的なもの）を神の働きとして捉えずに、それを心の拠り所とする者がいたとする。その者は、『今、無量の色こそが神の働きである』とは考えない。そして、身体が壊れ、命が終わった後も、そのように説かず、そのように見ることもない。また、無量の色を離れた時に神がある、というような考えもしないし、そんな思いも起こさない。阿難よ、このようにして、ある者は無量の色を神の働きと見なさずに、それに執着しないのである。このようにして、ある者は無量の色を神として見ることなく、それに執着しないのである。」

「阿難！若復有一非少無色是神施設而施設者，彼非今少無色是神施設而施設，身壞命終，亦不如是說、亦不如是見，有神若離少無色時，亦不如是如是思，亦不作如是念。阿難！如是有一非少無色是神施設而施設，如是有一非少無色是神不見著而著。

> 「阿難よ、もしも『無色界の一部ではないものが神の仕組みとして存在する』と説く者がいるとしても、その者は現在において「無色界の一部ではないものが神の仕組みとして存在する」とは説かない。そして、身体が壊れ命が終わった後も、そのように語らず、そのように見ない。また、神が仮に無色界の一部から離れる時にも、そのように考えず、そのように思いを巡らせない。阿難よ、このようにして、ある者は『無色界の一部ではないものが神の仕組みとして存在する』と説き、またある者は『無色界の一部ではない神は見えないが、それに執着する』のである。」

「阿難！若復有一非無量無色是神施設而施設者，彼非今無量無色是神施設而施設，身壞命終，亦不如是說、亦不如是見，有神若離無量無色時，亦不如是如是思，亦不作如是念。阿難！如是有一非無量無色是神施設而施設，如是有一非無量無色是神不見著而著。阿難！是謂有一無神施設而施設也。

> 「阿難、もしも『無量無色の神の仮の現れではないもの』という考え方に基づいて、この世に存在を仮に立てる者がいるとしましょう。その者は、今ここで『無量無色の神の仮の現れではないもの』として仮に立てているわけではありません。たとえ肉体が滅び、命が終わっても、そのように語ることも、そのように見ることもありません。そして、『無量無色の状態から離れた神』についても、そのように思いめぐらすことも、そのような思いを抱くこともありません。 阿難、このようにして、『無量無色の神の仮の現れではないもの』として存在を仮に立てる者がいるのです。また、『無量無色の神の仮の現れではないもの』を見て執着することなく、ただ執着するように見える状態があるのです。 阿難、これが『神（自我）の仮の現れではないものによって仮に立てられている』という状態なのです。」

「復次，阿難！有七識住及二處。云何七識住？有色眾生若干身、若干想，謂人及欲天，是謂第一識住。復次，阿難！有色眾生若干身、一想，謂梵天初生不夭壽，是謂第二識住。復次，阿難！有色眾生一身、若干想，謂晃昱天，是謂第三識住。復次，阿難！有色眾生一身、一想，謂遍淨天，是謂第四識住。復次，阿難！有無色眾生度一切色想，滅有對想，不念若干想，無量空處，是空處成就遊，謂無量空處天，是謂第五識住。復次，阿難！有無色眾生度一切無量空處，無量識處，是識處成就遊，謂無量識處天，是謂第六識住。復次，阿難！有無色眾生度一切無量識處，無所有處，是無所有處成就遊，謂無所有處天，是謂第七識住。

> さらに、阿難よ。七つの識の住処と二つの場所がある。七つの識の住処とは何か。 まず、異なる身体と異なる認識を持つ色界の衆生がいる。これを人間と欲界の天人の世界という。これが第一の識の住処である。 次に、阿難よ。異なる身体を持つが一つの認識を持つ色界の衆生がいる。これを梵天の世界、すなわち生まれてすぐに命を落とさない天の世界という。これが第二の識の住処である。 さらに、阿難よ。一つの身体を持つが様々な認識を持つ色界の衆生がいる。これを晃昱天の世界という。これが第三の識の住処である。 さらに、阿難よ。一つの身体と一つの認識を持つ色界の衆生がいる。これを遍浄天の世界という。これが第四の識の住処である。 さらに、阿難よ。あらゆる色の想いを超越し、対立する想いを滅ぼし、様々な想いを思わず、無限の虚空の領域に達した無色界の衆生がいる。これを無量空処天の世界という。これが第五の識の住処である。 さらに、阿難よ。あらゆる無限の虚空の領域を超越し、無限の識の領域に達した無色界の衆生がいる。これを無量識処天の世界という。これが第六の識の住処である。 さらに、阿難よ。あらゆる無限の識の領域を超越し、何もない領域に達した無色界の衆生がいる。これを無所有処天の世界という。これが第七の識の住処である。

「阿難！云何有二處，有色眾生無想無覺，謂無想天，是謂第一處。復次，阿難！有無色眾生度一切無所有處，非有想非無想處，是非有想非無想處成就遊，謂非有想非無想處天，是謂第二處。

> 「阿難よ、二つの場所がある。一つ目は、色（物質的な姿）を持つ生きとし生けるものたちが、思考も感覚も持たずにいる場所――これを無想天（むそうてん）という。これが第一の場所である。 次に、阿難よ、物質的な姿を持たない生きとし生けるものたちが、すべての無所有処（むしょうじょ）を超え、『有想でもなく、無想でもない』境地に達し、そこにとどまり遊ぶ場所――これを非有想非無想処天（ひうそうひむそうてん）という。これが第二の場所である。」

「阿難！第一識住者，有色眾生若干身、若干想，謂人及欲天。若有比丘知彼識住、知識住習，知滅、知味、知患、知出要如真。阿難！此比丘寧可樂彼識住，計著住彼識住耶？」

> 「阿難よ。第一の識の住処とは、様々な身体と様々な思いを持つ衆生のことであり、それは人間と欲界の天人のことです。もし比丘が、その識の住処を真実のとおりに知り、識の住処の発生、消滅、その味わい、危険、そしてそこから出離する方法を真実のとおりに知るならば、阿難よ、その比丘は、はたしてその識の住処を楽しみ、それに執着してとどまるでしょうか。」

答曰：「不也。」

> いいえ、違います。

「阿難！第二識住者，有色眾生若干身、一想，謂梵天初生不夭壽。若有比丘知彼識住、知識住習，知滅、知味、知患、知出要如真。阿難！此比丘寧可樂彼識住，計著住彼識住耶？」

> 「阿難よ。第二の識の住処とは、物質的な身体を持つ生きとし生けるものたちで、様々な姿を持ちながら一つの思いを持つものたちである。すなわち梵天（初めて生まれ、寿命が尽きない者たち）のことである。もし修行者が、その識の住処をありのままに知り、その生じる原因を知り、その消滅を知り、その味わいを知り、その危険を知り、そこからの離脱をありのままに知るならば、阿難よ、その修行者ははたして、その識の住処を楽しみ、それに執着し、そこに住み続けるだろうか？」

答曰：「不也。」

> いいえ、違います。

「阿難！第三識住者，有色眾生一身、若干想，謂晃昱天。若有比丘知彼識住、知識住習，知滅、知味、知患、知出要如真。阿難！此比丘寧可樂彼識住，計著住彼識住耶？」

> 「阿難よ。第三の識の安住とは、色を持つ衆生（有情）で、一つの身体でありながら様々な想いを持つもの、いわゆる『晃昱天』である。もし比丘が、その識の安住をあるがままに知り、識の安住の生起する原因を知り、その消滅を知り、その味わいを知り、その危険を知り、そこからの離脱（出離）をあるがままに知るならば、阿難よ、その比丘は、その識の安住を楽しみ、それに執着し、そこに止まったりするだろうか、いや、そうではない。」

答曰：「不也。」

> いいえ、違います。

「阿難！第四識住者，有色眾生一身、一想，謂遍淨天。若有比丘知彼識住、知識住習，知滅、知味、知患、知出要如真。阿難！此比丘寧可樂彼識住，計著住彼識住耶？」

> 「阿難（アーナンダ）、第四の識住（しきじゅう）とは、色を持つ生きとし生けるものたちのうち、一つの身体と一つの想いを持つ者たちのことだ。これを遍浄天（へんじょうてん）と呼ぶ。もし比丘（びく）が、この識住をあるがままに理解し、その識住が生じる条件を理解し、それが滅することを理解し、その味わいを理解し、その危険を理解し、そこからの離脱を真実の通りに理解するならば――阿難よ、その比丘は、果たしてその識住を楽しんだり、それに執着して留まったりするだろうか？」

答曰：「不也。」

> いいえ、違います。

「阿難！第五識住者，無色眾生度一切色想，滅有對想，不念若干想，無量空處，是空處成就遊，謂無量空處天。若有比丘知彼識住、知識住習，知滅、知味、知患、知出要如真。阿難！此比丘寧可樂彼識住，計著住彼識住耶？」

> 「阿難よ。第五の識住とは、色の想いをすべて超越し、対立する想いを滅ぼし、様々な想いを心にとどめず、無限の虚空の領域に達した無色の衆生のことである。これは空無辺処の天と呼ばれる。もし比丘が、その識住をあるがままに知り、識住の発生、消滅、味わい、危険、そしてそこからの脱出をあるがままに知るならば、阿難よ、その比丘は、その識住を楽しいと見なし、それに執着し、そこに住まうだろうか、いや、そうではない。」

答曰：「不也。」

> いいえ、違います。

「阿難！第六識住者，無色眾生度一切無量空處，無量識處，是識處成就遊，謂無量識處天。若有比丘知彼識住、知識住習，知滅、知味、知患、知出要如真。阿難！此比丘寧可樂彼識住，計著住彼識住耶？」

> 「アーナンダよ。第六の識の住処とは、すべての無限量の空の領域を超え、無限量の識の領域に至った無色の衆生たちのことである。これは識無量処（むりょうしきじょ）と呼ばれる領域であり、そこに住む天の者たちがいる。もし比丘が、その識の住処をあるがままに知り、識の住処の生起を知り、その滅を知り、その味わいを知り、その危険を知り、そこからの出離の道をあるがままに知るならば、アーナンダよ、その比丘は、その識の住処に喜びを見出し、そこに執着してとどまることがあるだろうか。」

答曰：「不也。」

> いいえ、違います。

「阿難！第七識住者，無色眾生度一切無量識處，無所有處，是無所有處成就遊，謂無所有處天。若有比丘知彼識住、知識住習，知滅、知味、知患、知出要如真。阿難！此比丘寧可樂彼識住，計著住彼識住耶？」

> 「阿難、第七の識住についてですが、色なき世界の衆生が、あらゆる無限の識の領域を超え、無所有処（何もない領域）に達し、その境地を完成して安住しています。これを無所有処天といいます。比丘が、その識住を知り、識住が生じる原因を知り、その滅を知り、その味わいを知り、その過患を知り、そこからの出離をあるがままに知っているならば、阿難よ、はたしてその比丘は、その識住を楽しみ、それに執着し、そこに留まり住むであろうか？」

答曰：「不也。」

「阿難！第一處者，有色眾生無想無覺，謂無想天。若有比丘知彼處、知彼處習，知滅、知味、知患、知出要如真。阿難！此比丘寧可樂彼處，計著住彼處耶？」

> 「阿難、第一の場所とは、色のある衆生で、想いもなく、感じることもない、いわゆる無想天のことです。もし比丘が、その場所を知り、その場所が生じる原因を知り、その滅びる様子を知り、その味わいを知り、その危険性を知り、そこから解脱する道をあるがままに知るならば、阿難よ。その比丘は、その場所を喜び、それに執着してそこに住むでしょうか？」

答曰：「不也。」

> いいえ、違います。

「阿難！第二處者，無色眾生度一切無所有處，非有想非無想處，是非有想非無想處成就遊，謂非有想非無想處天。若有比丘知彼處、知彼處習，知滅、知味、知患、知出要如真。阿難！此比丘寧可樂彼處，計著住彼處耶？」

> 「阿難よ。第二の境地とは、すべての無所有処を超えた、非有想非無想の境地のことである。それは、想いがあるともなく、ないとも言いがたい領域であり、非有想非無想処の天と称される。もし比丘が、その境地をありのままに知り、その境地の起こり、滅び、味わい、危険、そしてそこからの離れ方を真実に理解するならば、阿難よ、その比丘は、その境地を楽しみ、それに執着し、そこに留まるであろうか。」 （いや、そのようなことはない。）

答曰：「不也。」

> いいえ、違います。

「阿難！若有比丘彼七識住及二處知如真，心不染著，得解脫者，是謂比丘阿羅訶，名慧解脫。

> 「阿難よ、もし比丘が、この七つの識の住処と二つの領域についてあるがままに知り、心がそれらに執着せず、解脱を得るならば、その比丘は阿羅漢と呼ばれ、慧解脱と名づけられる。」

「復次，阿難！有八解脫。云何為八？色觀色，是謂第一解脫。復次，內無色想外觀色，是謂第二解脫。復次，淨解脫身作證成就遊，是謂第三解脫。復次，度一切色想，滅有對想，不念若干想，無量空處，是無量空處成就遊，是謂第四解脫。復次，度一切無量空處，無量識處，是無量識處成就遊，是謂第五解脫。復次，度一切無量識處，無所有處，是無所有處成就遊，是謂第六解脫。復次，度一切無所有處，非有想非無想處，是非有想非無想處成就遊，是謂第七解脫。復次，度一切非有想非無想處，想知滅解脫身作證成就遊，及慧觀諸漏盡知，是謂第八解脫。阿難！若有比丘彼七識住及二處知如真，心不染著，得解脫，及此八解脫，順逆身作證成就遊，亦慧觀諸漏盡者，是謂比丘阿羅訶，名俱解脫。」

> 「また、阿難よ、八つの解脱がある。どのような八つか。第一に、色について色を観じる。これを第一の解脱という。第二に、内に色の想いなく、外に色を観じる。これを第二の解脱という。第三に、清らかな解脱を身をもって実証し、成就して安住する。これを第三の解脱という。第四に、あらゆる色の想いを超え、対立する想いを滅ぼし、様々な想いを念じず、無量の空なる処に達し、無量の空なる処を成就して安住する。これを第四の解脱という。第五に、あらゆる無量の空なる処を超え、無量の識なる処に達し、無量の識なる処を成就して安住する。これを第五の解脱という。第六に、あらゆる無量の識なる処を超え、無所有なる処に達し、無所有なる処を成就して安住する。これを第六の解脱という。第七に、あらゆる無所有なる処を超え、想いあるのでもなく想いないのでもない処に達し、想いあるのでもなく想いないのでもない処を成就して安住する。これを第七の解脱という。第八に、あらゆる想いあるのでもなく想いないのでもない処を超え、想いと知覚の滅尽による解脱を身をもって実証し、成就して安住し、さらに智慧によってあらゆる煩悩の尽きるのを観る。これを第八の解脱という。 阿難よ、もし比丘がこれら七つの識の住処と二つの領域（無想有情処・非想非非想処）をあるがままに知り、心が執着せず解脱を得、さらにこの八つの解脱を順逆に身をもって実証し成就して安住し、また智慧によってあらゆる煩悩の尽きるのを観るならば、この比丘は阿羅漢と呼ばれ、倶解脱と呼ばれるのである。」

佛說如是。尊者阿難及諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。

> 仏様はこのようにお説きになりました。尊者アーナンダや修行者たちは、仏様の教えを聞いて、喜び、その通りに実践しました。

大因經第一竟五千四百七十二字

> 大いなる因縁の経　第一　終わり<note>五四七二字</note>