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title: "中阿含經 · 98 念處經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
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### （九八）中阿含因品念處經第二第二小土城誦

> 中阿含経 因品 念処経 第二<note>第二小土城誦</note>

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊拘樓瘦，在劒磨瑟曇拘樓都邑。

> ある時、お釈迦様はクル国におられ、剣磨瑟曇という町に滞在されていました。

爾時，世尊告諸比丘：「有一道淨眾生，度憂畏，滅苦惱，斷啼哭，得正法，謂四念處。若有過去諸如來、無所著、等正覺，悉斷五蓋——心穢、慧羸，立心正住於四念處，修七覺支，得覺無上正盡之覺。若有未來諸如來、無所著、等正覺，悉斷五蓋——心穢、慧羸，立心正住於四念處，修七覺支，得覺無上正盡之覺。我今現在如來、無所著、等正覺，我亦斷五蓋——心穢、慧羸，立心正住於四念處，修七覺支，得覺無上正盡之覺。

> ある時、世尊は比丘たちに告げられた。 「衆生を清らかにし、憂いや恐れを超え、苦しみや悩みを滅し、泣き叫びを断ち、正しい法を得るための一つの道がある。それは四念処である。もし過去の如来・阿羅漢・正等覚者たちがいたなら、そのすべては五つの蓋（心の汚れと智慧の弱まり）を断ち切り、心を正しく四念処に安住させ、七覚支を修行し、無上の正しい覚りを完成された。また、未来の如来・阿羅漢・正等覚者たちがいたとしても、そのすべては五つの蓋を断ち切り、心を正しく四念処に安住させ、七覚支を修行し、無上の正しい覚りを完成するだろう。そして、今現在の如来・阿羅漢・正等覚者である私もまた、五つの蓋を断ち切り、心を正しく四念処に安住させ、七覚支を修行し、無上の正しい覚りを完成したのである。」

「云何為四？觀身如身念處，如是觀覺、心、法如法念處。云何觀身如身念處？比丘者，行則知行，住則知住，坐則知坐，臥則知臥，眠則知眠，寤則知寤，眠寤則知眠寤。如是比丘觀內身如身，觀外身如身，立念在身，有知有見，有明有達，是謂比丘觀身如身。復次，比丘觀身如身，比丘者，正知出入，善觀分別，屈伸低昂，儀容庠序，善著僧伽梨及諸衣鉢，行住坐臥，眠寤語默皆正知之。如是比丘觀內身如身，觀外身如身，立念在身，有知有見，有明有達，是謂比丘觀身如身。

> 「その四つとは何か。身体を身体として観察する念処、またこのように感覚、心、そして諸々の法（ものごと）を法として観察する念処である。では、どのように身体を身体として観察するのか。修行者は、歩く時には歩いていると知り、立つ時には立っていると知り、座る時には座っていると知り、横になる時には横になっていると知る。また、眠る時には眠っていると知り、目覚める時には目覚めていると知り、眠って目覚める時にもそれを知っている。このように修行者は、内なる身体を身体として観察し、外なる身体を身体として観察し、身体に気づきを確立する。そして、知るあり、観るあり、明らかさあり、悟りがある。これを、修行者が身体を身体として観察する、というのである。 さらに、修行者は身体を身体として観察する。修行者は、出入りの息を正しく知り、よく観察し区別する。手足を伸ばしたり曲げたり、うつむいたり見上げたり、ふるまいを整え、僧伽梨（上着）やその他の衣や鉢を適切に身に着ける。歩く、立つ、座る、横になる、眠る、目覚める、語る、沈黙する、そのすべてを正しく知る。このように修行者は、内なる身体を身体として観察し、外なる身体を身体として観察し、身体に気づきを確立する。そして、知るあり、観るあり、明らかさあり、悟りがある。これを、修行者が身体を身体として観察する、というのである。」

「復次，比丘觀身如身，比丘者，生惡不善念，以善法念治斷滅止，猶木工師、木工弟子，彼持墨繩，用拼於木，則以利斧斫治令直。如是比丘生惡不善念，以善法念治斷滅止。如是比丘觀內身如身，觀外身如身，立念在身，有知有見，有明有達，是謂比丘觀身如身。復次，比丘觀身如身，比丘者，齒齒相著，舌逼上齶，以心治心，治斷滅止。猶二力士捉一羸人，處處旋捉，自在打鍛。如是比丘齒齒相著，舌逼上齶，以心治心，治斷滅止。如是比丘觀內身如身，觀外身如身，立念在身，有知有見，有明有達，是謂比丘觀身如身。

> さらに、比丘は身体を身体として観察します。比丘は、不善の悪しき思いが生じたなら、善法の思いをもってそれを断ち、滅ぼし、止めます。ちょうど、大工やその弟子が墨縄で材木に線を引き、鋭い斧でまっすぐに削るようにです。同じように、比丘は悪しき不善の思いが生じたなら、善法の思いをもってそれを断ち、滅ぼし、止めます。このように比丘は、内なる身体を身体として観察し、外なる身体を身体として観察し、身体に念を確立し、知があり、見があり、明があり、達するのです。これを比丘の身体を身体として観察することといいます。 さらに、比丘は身体を身体として観察します。比丘は、歯をしっかりと合わせ、舌を上あごに当て、心をもって心を調御し、断ち、滅ぼし、止めます。ちょうど、二人の力持ちが一人の弱い人を捕まえ、あちこちに引き回して、自由に打ち鍛えるようにです。同じように、比丘は歯をしっかりと合わせ、舌を上あごに当て、心をもって心を調御し、断ち、滅ぼし、止めます。このように比丘は、内なる身体を身体として観察し、外なる身体を身体として観察し、身体に念を確立し、知があり、見があり、明があり、達するのです。これを比丘の身体を身体として観察することといいます。

「復次，比丘觀身如身，比丘者，念入息即知念入息，念出息即知念出息，入息長即知入息長，出息長即知出息長，入息短即知入息短，出息短即知出息短；覺一切身息入，覺一切身息出，覺止身行息入，覺止口行息出。如是比丘觀內身如身，觀外身如身，立念在身，有知有見，有明有達，是謂比丘觀身如身。

> また、比丘は、身体を身体として観察します。その比丘は、息を吸うとき、息を吸っていると知り、息を吐くとき、息を吐いていると知ります。息を吸うのが長いときは、息を吸うのが長いと知り、息を吐くのが長いときは、息を吐くのが長いと知ります。息を吸うのが短いときは、息を吸うのが短いと知り、息を吐くのが短いときは、息を吐くのが短いと知ります。全身の息の出入りを感じながら息を吸い、全身の息の出入りを感じながら息を吐きます。身体の動きを静めて息を吸い、口の動きを静めて息を吐きます。このように比丘は、内なる身体を身体として観察し、外なる身体を身体として観察し、身体に気づきを確立します。知ることをもち、見ることをもち、明らかにすることもち、理解することをもちます。これが、比丘が身体を身体として観察するということなのです。

「復次，比丘觀身如身，比丘者，離生喜樂，漬身潤澤，普遍充滿於此身中，離生喜樂無處不遍。猶工浴人器盛澡豆，水和成摶，水漬潤澤，普遍充滿無處不周。如是比丘離生喜樂，漬身潤澤，普遍充滿於此身中，離生喜樂無處不遍。如是比丘觀內身如身，觀外身如身，立念在身，有知有見，有明有達，是謂比丘觀身如身。

> また、比丘は、身体を身体として観察します。 比丘は、離欲から生まれた喜びと安楽によって、この身体を浸し、潤し、満たし、全身にわたって行き渡らせます。離欲から生まれた喜びと安楽が、身体のどこにも行き届かない場所はありません。 まるで、熟練した浴場係が、器に洗い粉を入れ、水で練って団子にし、水が全体に浸み込み、潤い、満ち、どこにも行き届かないところがないように。 このように比丘は、離欲から生まれた喜びと安楽によって、この身体を浸し、潤し、満たし、全身にわたって行き渡らせます。離欲から生まれた喜びと安楽が、身体のどこにも行き届かない場所はありません。 このように比丘は、内なる身体を身体として観察し、外なる身体を身体として観察し、身体に念を確立し、知と見を有し、明と達を有します。これを比丘の身体を身体として観察することといいます。

「復次，比丘觀身如身，比丘者，定生喜樂，漬身潤澤，普遍充滿於此身中，定生喜樂無處不遍。猶如山泉，清淨不濁，充滿流溢，四方水來，無緣得入，即彼泉底，水自涌出，流溢於外，漬山潤澤，普遍充滿無處不周。如是比丘定生喜樂，漬身潤澤，普遍充滿於此身中，定生喜樂無處不遍。如是比丘觀內身如身，觀外身如身，立念在身，有知有見，有明有達，是謂比丘觀身如身。

> また、比丘は、身体を身体として観察します。 比丘は、静まりから生まれる喜びと安らぎを得て、全身をその喜びと安らぎで潤し、満たし、浸します。その身体のどこにも、この喜びと安らぎが行き渡らないところはありません。 たとえば、山の泉が清らかで濁りがなく、水が満ちあふれているとします。四方から水が流れ込もうとしても、入り込む隙間はありません。泉の底から水が自然に湧き出て、あふれ出し、山を潤し、満たし、浸します。どこにも行き渡らないところはありません。 そのように、比丘は静まりから生まれる喜びと安らぎを得て、全身をその喜びと安らぎで潤し、満たし、浸します。その身体のどこにも、この喜びと安らぎが行き渡らないところはありません。 このように、比丘は内なる身体を身体として観察し、外なる身体を身体として観察し、身体に念を確立し、智慧と理解を伴って、明らかに見通し、悟りに達します。これを、比丘が身体を身体として観察する、といいます。

「復次，比丘觀身如身，比丘者，無喜生樂，漬身潤澤，普遍充滿於此身中，無喜生樂無處不遍。猶青蓮華，紅、赤、白蓮，水生水長，在於水底，彼根莖華葉悉漬潤澤，普遍充滿無處不周。如是比丘無喜生樂，漬身潤澤，普遍充滿於此身中，無喜生樂無處不遍。如是比丘觀內身如身，觀外身如身，立念在身，有知有見，有明有達，是謂比丘觀身如身。

> さらに、比丘は身体を身体として観察するのです。比丘は、喜びなくして生じる楽（安らぎ）によって、身体を浸し潤し、全体に行き渡らせ、この身体の中に喜びなくして生じる楽が行き渡らない場所はありません。 ちょうど、青い蓮、紅い蓮、赤い蓮、白い蓮が、水の中で生まれ水の中で育ち、水の底にあって、その根、茎、花、葉がすべて浸され潤され、全体に行き渡り、至らないところがないように、そのように比丘は、喜びなくして生じる楽によって身体を浸し潤し、全体に行き渡らせ、この身体の中に喜びなくして生じる楽が行き渡らない場所はありません。 このように比丘は、内なる身体を身体として観察し、外なる身体を身体として観察し、身体に念を立て、知るものあり、見るものあり、明らかにするものあり、達するものありと、これを比丘が身体を身体として観察する、というのです。

「復次，比丘觀身如身，比丘者，於此身中，以清淨心意解遍滿成就遊，於此身中，以清淨心無處不遍。猶有一人，被七肘衣或八肘衣，從頭至足，於其身體無處不覆。如是比丘於此身中，以清淨心無處不遍。如是比丘觀內身如身，觀外身如身，立念在身，有知有見，有明有達，是謂比丘觀身如身。

> さらに、比丘は、身体を身体として観察します。比丘は、この身体の中で、清らかな心で、あまねく満ち渡らせて、清らかな心で、至らないところなく、すべてに至って修行します。ちょうど一人の人が、七肘の衣か八肘の衣をまとい、頭から足まで、その身体のどこも覆われていないところがないように、比丘もまた、この身体の中で、清らかな心で至らないところがありません。 このように比丘は、内なる身体を身体として観察し、外なる身体を身体として観察し、身体に念を立て、知と見と明と達があります。これを、比丘が身体を身体として観察する、といいます。

「復次，比丘觀身如身，比丘者，念光明想，善受善持，善憶所念，如前後亦然，如後前亦然，如晝夜亦然，如夜晝亦然，如下上亦然，如上下亦然。如是不顛倒，心無有纏，修光明心，心終不為闇之所覆。如是比丘觀內身如身，觀外身如身，立念在身，有知有見，有明有達，是謂比丘觀身如身。

> さらに、比丘たちよ、身体を身体として観察するとはこういうことです。 比丘は、光明の想いを修め、それを善く受け止め、善く保ち、善く心に留めます。 前方から後方へも、後方から前方へも同様です。 昼から夜へも、夜から昼へも同様です。 下から上へも、上から下へも同様です。 このようにして、誤った見解なく、心に煩わしさがなく、光明の心を修めるとき、心は決して闇に覆われることはありません。 このように比丘は、内なる身体を身体として観察し、外なる身体を身体として観察し、身体に気づきを確立します。 知るものがあり、見るものがあり、明らかになるものがあり、悟りに至るものがあります。 これこそが、比丘が身体を身体として観察するという意味です。

「復次，比丘觀身如身，比丘者，善受觀相，善憶所念，猶如有人，坐觀臥人，臥觀坐人。如是比丘善受觀相，善憶所念。如是比丘觀內身如身，觀外身如身，立念在身，有知有見，有明有達，是謂比丘觀身如身。

> さらに、比丘は身体をあるがままに観察します。比丘は、観察すべき姿をしっかりと受け止め、よく心に留めます。まるで、座っている人が横になっている人を見、横になっている人が座っている人を見るかのようにです。このように比丘は、観察すべき姿をよく受け止め、よく心に留めます。このように比丘は、内なる身体をあるがままに観察し、外なる身体をあるがままに観察します。身体に常に気づきを留め、知り、見、明らかにし、悟りを達成します。これを「比丘は身体をあるがままに観察する」といいます。

「復次，比丘觀身如身，比丘者，此身隨住，隨其好惡，從頭至足，觀見種種不淨充滿：『我此身中有髮、髦、爪、齒、麁細薄膚、皮、肉、筋、骨、心、腎、肝、肺、大腸、小腸、脾、胃、摶糞、腦及腦根、淚、汗、涕、唾、膿、血、肪、髓、涎、膽、小便。』猶如器盛若干種子，有目之士，悉見分明，謂稻、粟種、蔓菁、芥子。如是比丘此身隨住，隨其好惡，從頭至足，觀見種種不淨充滿：『我此身中有髮、髦、爪、齒、麤細薄膚、皮、肉、筋、骨、心、腎、肝、肺、大腸、小腸、脾、胃、摶糞、腦及腦根、淚、汗、涕、唾、膿、血、肪、髓、涎、膽、小便。』如是比丘觀內身如身，觀外身如身，立念在身，有知有見，有明有達，是謂比丘觀身如身。

> さらに、比丘たちよ、身体を身体のままに観察しなさい。比丘は、この身体がありのままに存在し、その状態の良し悪しにかかわらず、頭から足の先まで、様々な不浄が満ちているのを観察します。「私のこの身体には、髪、毛、爪、歯、粗い皮膚、薄い皮膚、皮、肉、筋、骨、心臓、腎臓、肝臓、肺、大腸、小腸、脾臓、胃、食べかす、脳、脳髄、涙、汗、鼻水、よだれ、膿、血、脂肪、髄、涎、胆汁、小便がある」と。 例えば、器に様々な種子を入れたものを、目の明らかな人がはっきりと見分けるようなものです。つまり、稲、粟、大根、芥子の種子を。同じように、比丘はこの身体がありのままに存在し、その状態の良し悪しにかかわらず、頭から足の先まで、様々な不浄が満ちているのを観察します。「私のこの身体には、髪、毛、爪、歯、粗い皮膚、薄い皮膚、皮、肉、筋、骨、心臓、腎臓、肝臓、肺、大腸、小腸、脾臓、胃、食べかす、脳、脳髄、涙、汗、鼻水、よだれ、膿、血、脂肪、髄、涎、胆汁、小便がある」と。 このように比丘は、内なる身体を身体のままに観察し、外なる身体を身体のままに観察し、身体に気づきを確立し、知と見を有し、明と達を有する。これを比丘が身体を身体のままに観察する、というのです。

「復次，比丘觀身如身，比丘者，觀身諸界，我此身中有地界、水界、火界、風界、空界、識界。猶如屠兒殺牛，剝皮布地於上，分作六段。如是比丘觀身諸界，我此身中，地界、水界、火界、風界、空界、識界。如是比丘觀內身如身，觀外身如身，立念在身，有知有見，有明有達，是謂比丘觀身如身。

> さらに、比丘は身体を身体として観察します。比丘は身体の諸要素（界）を観察します。「この私の身体には、地の要素、水の要素、火の要素、風の要素、空の要素、識の要素がある」と。ちょうど屠者が牛を殺し、皮を剥いで地に敷き、その上で六つの部位に切り分けるように。そのように比丘は身体の諸要素を観察します。「この私の身体には、地の要素、水の要素、火の要素、風の要素、空の要素、識の要素がある」と。このように比丘は内なる身体を身体として観察し、外なる身体を身体として観察し、身体に念を確立し、知があり、見があり、明があり、達がある。これが比丘が身体を身体として観察するということです。

「復次，比丘觀身如身，比丘者，觀彼死屍，或一、二日，至六、七日，烏鵄所啄，犲狼所食，火燒埋地，悉腐爛壞，見已自比：『今我此身亦復如是，俱有此法，終不得離。』如是比丘觀內身如身，觀外身如身，立念在身，有知有見，有明有達，是謂比丘觀身如身。

> さらに、比丘たちよ、身体を身体として観察するとは、こういうことです。比丘は、死体が一日、二日、あるいは六、七日経つうちに、烏や鳶に啄まれ、山犬や狼に食われ、火に焼かれ、地に埋められ、すべてが腐敗し朽ち果てていくのを見ます。それを見て、自らをこう比較します。「今、この私の身体もまた同じである。すべてはこの道理に従い、決して逃れることはできない」と。このようにして、比丘は内なる身体を身体として観察し、外なる身体を身体として観察し、身体に念を確立し、知あり、見あり、明あり、達あり。これをもって、比丘は身体を身体として観察するというのです。

「復次，比丘觀身如身，比丘者，如本見息道骸骨青色，爛腐食半，骨璅在地，見已自比：『今我此身亦復如是，俱有此法，終不得離。』如是比丘觀內身如身，觀外身如身，立念在身，有知有見，有明有達，是謂比丘觀身如身。復次，比丘觀身如身，比丘者，如本見息道離皮肉血，唯筋相連，見已自比：『今我此身亦復如是，俱有此法，終不得離。』如是比丘觀內身如身，觀外身如身，立念在身，有知有見，有明有達，是謂比丘觀身如身。

> さらに、比丘たちよ、身体を身体として観察するとはこういうことです。比丘は、かつて墓地で見たように、青黒く変色し、腐敗し、半分が食い荒らされ、骨が散乱している死体を思い浮かべます。そして、自らにこう言います。「今、私のこの身体も全く同じである。このような性質を持ち、決してそれから逃れられない」と。このように比丘は、内なる身体を身体として観察し、外なる身体を身体として観察し、身体に念を確立し、智慧と見解、明らかな理解と悟りを得ます。これが比丘の身体を身体として観察するという意味です。 さらに、比丘たちよ、身体を身体として観察するとはこういうことです。比丘は、かつて墓地で見たように、皮や肉、血がなくなり、ただ骨と骨とが靭帯でつながっている死体を思い浮かべます。そして、自らに言います。「今、私のこの身体も全く同じである。このような性質を持ち、決してそれから逃れられない」と。このように比丘は、内なる身体を身体として観察し、外なる身体を身体として観察し、身体に念を確立し、智慧と見解、明らかな理解と悟りを得ます。これが比丘の身体を身体として観察するという意味です。

「復次，比丘觀身如身，比丘者，如本見息道骨節解散，散在諸方，足骨、膞骨、髀骨、髖骨、脊骨、肩骨、頸骨、髑髏骨，各在異處，見已自比：『今我此身亦復如是，俱有此法，終不得離。』如是比丘觀內身如身，觀外身如身，立念在身，有知有見，有明有達，是謂比丘觀身如身。復次，比丘觀身如身，比丘者，如本見息道骨白如螺，青猶鴿色，赤若血塗，腐壞碎粖，見已自比：『今我此身亦復如是，俱有此法，終不得離。』如是比丘觀內身如身，觀外身如身，立念在身，有知有見，有明有達，是謂比丘觀身如身。若比丘、比丘尼，如是少少觀身如身者，是謂觀身如身念處。

> さらに、比丘は身体を身体として観察します。比丘は、かつて墓地で見たように、骨が関節ごとにばらばらになり、あちこちに散らばっているのを思い浮かべます。足の骨、脛の骨、大腿の骨、腰の骨、背骨、肩の骨、首の骨、頭蓋骨が、それぞれ別の場所にあるのを見て、自分に言い聞かせます。「今のこの私の身体も、まさに同じである。すべてはこのような性質を持ち、決してそれから逃れられない」と。このように比丘は、内側の身体を身体として観察し、外側の身体を身体として観察し、身体に念を確立し、智慧と見解、明らかな理解と到達があります。これが比丘が身体を身体として観察するという意味です。 さらに、比丘は身体を身体として観察します。比丘は、かつて墓地で見たように、骨が螺鈿のように白く、鳩のような青みを帯び、血を塗ったように赤く、腐敗して粉々になっているのを思い浮かべ、自分に言い聞かせます。「今のこの私の身体も、まさに同じである。すべてはこのような性質を持ち、決してそれから逃れられない」と。このように比丘は、内側の身体を身体として観察し、外側の身体を身体として観察し、身体に念を確立し、智慧と見解、明らかな理解と到達があります。これが比丘が身体を身体として観察するという意味です。 比丘や比丘尼が、このように少しずつでも身体を身体として観察するならば、これが身体を身体として観察する念処と呼ばれます。

「云何觀覺如覺念處？比丘者，覺樂覺時，便知覺樂覺。覺苦覺時，便知覺苦覺。覺不苦不樂覺時，便知覺不苦不樂覺。覺樂身、苦身、不苦不樂身；樂心、苦心、不苦不樂心；樂食、苦食、不苦不樂食；樂無食、苦無食、不苦不樂無食；樂欲、苦欲、不苦不樂欲。樂無欲、苦無欲覺、不苦不樂無欲覺時，便知覺不苦不樂無欲覺。如是比丘觀內覺如覺，觀外覺如覺，立念在覺，有知有見，有明有達，是謂比丘觀覺如覺。若比丘、比丘尼如是少少觀覺如覺者，是謂觀覺如覺念處。

> 「受の観察における受の念処とは何か。比丘（修行者）は、楽しい感覚を感じた時には、『楽しい感覚を感じている』と知る。苦しい感覚を感じた時には、『苦しい感覚を感じている』と知る。苦しくも楽しくもない感覚を感じた時には、『苦しくも楽しくもない感覚を感じている』と知る。 また、身体における楽、身体における苦、身体における苦楽なし。心における楽、心における苦、心における苦楽なし。物質的なもの（食）による楽、物質的なものによる苦、物質的なものによる苦楽なし。非物質的なもの（無食）による楽、非物質的なものによる苦、非物質的なものによる苦楽なし。欲望に基づく楽、欲望に基づく苦、欲望に基づく苦楽なし。欲望のない状態に基づく楽、欲望のない状態に基づく苦、欲望のない状態に基づく苦も楽もない感覚を感じた時には、『欲望のない状態に基づく苦も楽もない感覚を感じている』と知る。 このようにして比丘は、内なる感覚を感覚として観察し、外なる感覚を感覚として観察し、感覚に念を確立する。智慧と理解があり、明らかに見て、深く悟る。これが比丘による感覚の観察である。 もし比丘や比丘尼が、このように少しでも感覚を観察するならば、それを『感覚の観察における念の確立』という。」

「云何觀心如心念處？比丘者，有欲心知有欲心如真，無欲心知無欲心如真，有恚，無恚，有癡，無癡，有穢污，無穢污。有合，有散，有下，有高，有小，有大，修，不修，定，不定，有不解脫心知不解脫心如真，有解脫心知解脫心如真。如是比丘觀內心如心，觀外心如心，立念在心，有知有見，有明有達，是謂比丘觀心如心。若有比丘、比丘尼如是少少觀心如心者，是謂觀心如心念處。

> 「心について、どのように心を観察し、心の意識の拠り所とするのでしょうか。 修行者は、欲の心があるときは、『欲の心がある』とありのままに知り、欲の心がないときは、『欲の心がない』とありのままに知ります。怒りの心がある、ない、迷いの心がある、ない、汚れた心がある、ない、まとまった心、散らばった心、低い心、高い心、小さな心、大きな心、修行している心、修行していない心、定まった心、定まっていない心、解脱していない心があるときは『解脱していない心がある』とありのままに知り、解脱した心があるときは『解脱した心がある』とありのままに知ります。 このように修行者は、内なる心を心として観察し、外なる心を心として観察し、心に意識を確かに立て、知ることがあり、見ることがあり、明らかにすることがあり、達することがあります。これを『修行者が心を心として観察する』といいます。 もし修行者や修行尼が、このように少しでも心を心として観察するならば、それを『心を心として観察する意識の拠り所』といいます。」

「云何觀法如法念處？眼緣色生內結，比丘者，內實有結知內有結如真，內實無結知內無結如真，若未生內結而生者知如真，若已生內結滅不復生者知如真；如是耳、鼻、舌、身，意緣法生內結，比丘者，內實有結知內有結如真，內實無結知內無結如真，若未生內結而生者知如真，若已生內結滅不復生者知如真。如是比丘觀內法如法，觀外法如法，立念在法，有知有見，有明有達，是謂比丘觀法如法，謂內六處。

> 「では、どのようにして『法』を観察し、そのまま如実に観念するのでしょうか。 まず、眼が色に対して縁（条件）を生じて内なる結び（煩悩）が起こるとき、修行者は、内に実際に結びがあれば『内に結びがある』とありのままに知り、内に実際に結びがなければ『内に結びがない』とありのままに知ります。また、まだ生じていない内なる結びが新たに生じるときも、それをありのままに知り、すでに生じた内なる結びが消えて再び生じないときも、それをありのままに知ります。 耳、鼻、舌、身についても同様です。また、意が法に対して縁を生じて内なる結びが起こるときも、修行者は、内に実際に結びがあれば『内に結びがある』とありのままに知り、内に実際に結びがなければ『内に結びがない』とありのままに知ります。まだ生じていない内なる結びが新たに生じるときも、それをありのままに知り、すでに生じた内なる結びが消えて再び生じないときも、それをありのままに知ります。 このように、修行者は内なる法を法のままに観察し、外なる法を法のままに観察し、法に念を立て、知るところがあり、見るところがあり、明らかとなり、悟りに達します。これを、修行者が法を法のままに観察

「復次，比丘觀法如法。比丘者，內實有欲知有欲如真，內實無欲知無欲如真，若未生欲而生者知如真，若已生欲滅不復生者知如真，如是瞋恚、睡眠、調悔。內實有疑知有疑如真，內實無疑知無疑如真，若未生疑而生者知如真，若已生疑滅不復生者知如真。如是比丘觀內法如法，觀外法如法，立念在法，有知有見，有明有達，是謂比丘觀法如法，謂五蓋也。

> さらに、比丘は法を法のままに観察します。比丘は、内に実際に欲があるならば、欲があるとありのままに知り、内に実際に欲がないならば、欲がないとありのままに知ります。まだ生じていない欲が生じるならば、それをありのままに知り、すでに生じた欲が消えて再び生じないならば、それをありのままに知ります。同様に、怒り、眠気、後悔や動揺についても、次のように観察します。内に実際に疑いがあるならば、疑いがあるとありのままに知り、内に実際に疑いがないならば、疑いがないとありのままに知ります。まだ生じていない疑いが生じるならば、それをありのままに知り、すでに生じた疑いが消えて再び生じないならば、それをありのままに知ります。このように比丘は内なる法を法のままに観察し、外なる法を法のままに観察し、念を法に安立し、知と見、明と達があるのです。これを比丘が法を法のままに観察するといい、それは五つの蓋のことです。

「復次，比丘觀法如法。比丘者，內實有念覺支知有念覺支如真，內實無念覺支知無念覺支如真，若未生念覺支而生者知如真，若已生念覺支便住不忘而不衰退，轉修增廣者知如真，如是法、精進、喜、息、定。比丘者，內實有捨覺支知有捨覺支如真，內實無捨覺支知無捨覺支如真，若未生捨覺支而生者知如真，若已生捨覺支便住不忘而不衰退，轉修增廣者知如真。如是比丘觀內法如法，觀外法如法，立念在法，有知有見，有明有達，是謂比丘觀法如法，謂七覺支。若有比丘、比丘尼如是少少觀法如法者，是謂觀法如法念處。

> また、比丘は法を法のままに観察します。比丘は、内に念覚支が実際にあるならば、念覚支があることを如実に知り、内に念覚支が実際にないならば、念覚支がないことを如実に知ります。まだ生じていない念覚支が生じるならば、そのことを如実に知り、すでに生じた念覚支がとどまり、忘れられず、衰退せず、さらに修行して広められるならば、そのことを如実に知ります。このように、法・精進・喜・息・定についても同様です。 比丘は、内に捨覚支が実際にあるならば、捨覚支があることを如実に知り、内に捨覚支が実際にないならば、捨覚支がないことを如実に知ります。まだ生じていない捨覚支が生じるならば、そのことを如実に知り、すでに生じた捨覚支がとどまり、忘れられず、衰退せず、さらに修行して広められるならば、そのことを如実に知ります。 このように比丘は、内の法を法のままに観察し、外の法を法のままに観察し、法に念を立てて、知と見があり、明と達があります。これを比丘が法を法のままに観察するといい、七覚支を指します。もし比丘や比丘尼が、このように少しでも法を法のままに観察するならば、これを法を法のままに観察する念処といいます。

「若有比丘、比丘尼七年立心正住四念處者，彼必得二果，或現法得究竟智，或有餘得阿那含。置七年，六五四三二一年，若有比丘、比丘尼七月立心正住四念處者，彼必得二果，或現法得究竟智，或有餘得阿那含。置七月，六五四三二一月，若有比丘、比丘尼七日七夜立心正住四念處者，彼必得二果，或現法得究竟智，或有餘得阿那含。置七日七夜，六五四三二，置一日一夜，若有比丘、比丘尼少少須臾頃立心正住四念處者，彼朝行如是，暮必得昇進，暮行如是，朝必得昇進。」

> 比丘や比丘尼が、七年の間、心を確固として四念処に安住させれば、必ず二つの果報のいずれかを得る。すなわち、現世において究竟の智慧を得るか、あるいは残余があって阿那含を得るのである。七年は措いて、六年、五年、四年、三年、二年、一年でも同様である。 比丘や比丘尼が、七ヶ月の間、心を確固として四念処に安住させれば、必ず二つの果報のいずれかを得る。すなわち、現世において究竟の智慧を得るか、あるいは残余があって阿那含を得るのである。七ヶ月は措いて、六ヶ月、五ヶ月、四ヶ月、三ヶ月、二ヶ月、一ヶ月でも同様である。 比丘や比丘尼が、七日七夜の間、心を確固として四念処に安住させれば、必ず二つの果報のいずれかを得る。すなわち、現世において究竟の智慧を得るか、あるいは残余があって阿那含を得るのである。七日七夜は措いて、六日六夜、五日五夜、四日四夜、三日三夜、二日二夜、一日一夜でも同様である。 比丘や比丘尼が、ほんのわずかな瞬間でも、心を確固として四念処に安住させるならば、朝にそのように修行すれば、夕方には必ず向上を得る。夕方にそのように修行すれば、朝には必ず向上を得るのである。

佛說如是。彼諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。

> このように仏は説かれました。比丘たちは仏の説かれたことを聞き、喜んでお受け取りになりました。

念處經第二竟三千一百三十七字

> 念処経 第二 終わり<note>三千百三十七字</note>

## 中阿含經卷第二十四八千六百九字第二小土城誦

> 中阿含経 第二十四巻