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title: "中阿含經 · 103 師子吼經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
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## 中阿含經卷第二十六

> 中阿含経 第二十六巻

東晉罽賓三藏瞿曇僧伽提婆譯

> 東晋・罽賓三蔵・瞿曇僧伽提婆 訳

### （一〇三）因品師子吼經第七第二小土城誦

> （一〇三）因縁品 師子吼経 第七<note>第二小土城誦</note>

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊拘樓瘦，在劒磨瑟曇拘樓都邑。

> ある時、お釈迦様はクル国におられ、剣磨瑟曇という町に滞在されていました。

爾時，世尊告諸比丘：「此中有第一沙門，第二、第三、第四沙門，此外更無沙門、梵志，異道一切空無沙門、梵志。汝等隨在眾中，作如是正師子吼。比丘！或有異學來問汝等：『諸賢！汝有何行，有何力，有何智，令汝等作如是說：「此有第一沙門，第二、第三、第四沙門，此外更無沙門、梵志，異道一切空無沙門、梵志。汝等隨在眾中，作如是正師子吼。」』

> その時、世尊は比丘たちに告げられた。 「この教えの中には、第一の沙門（修行者）、第二、第三、第四の沙門が存在する。このほかに、沙門やバラモン（修行者）はいない。他の道はいずれも空しく、真の沙門やバラモンは存在しない。あなたがたは、衆の中でこのように正しい獅子吼（確信に満ちた宣言）をせよ。 比丘たちよ、あるいは異なる教えを学ぶ者たちがあなたがたに問うかもしれない。『諸賢よ、あなたがたはどのような行いを持ち、どのような力を持ち、どのような智慧によって、このように言うのか。「この教えには第一の沙門、第二、第三、第四の沙門がいる。このほかに沙門やバラモンはいない。他の道はすべて空しく、真の沙門やバラモンは存在しない。あなたがたは衆の中で、このように正しい獅子吼をする」と。』」

「比丘！汝等應如是答異學：『諸賢！我世尊有知有見，如來、無所著、等正覺說四法，因此四法故，令我等作如是說：「此有第一沙門，第二、第三、第四沙門，此外更無沙門、梵志，異道一切空無沙門、梵志，我等隨在眾中，作如是正師子吼。」云何為四？諸賢！我等信尊師、信法、信戒德具足，愛敬同道，恭恪奉事。諸賢！我世尊有知有見，如來、無所著、等正覺說此四法，因此四法故，令我等作如是說：「此有第一沙門，第二、第三、第四沙門，此外更無沙門、梵志，異道一切空無沙門、梵志，我等隨在眾中，作如是正師子吼。」』

> 「比丘たちよ、あなたがたは他の修行者たちに次のように答えるべきである。『皆さま、私たちの尊い師である如来（目覚めた方）、阿羅漢（煩悩を尽くした方）、正等覚者（真に悟った方）は、知り、見ておられます。その方が四つの法を説かれました。この四つの法によって、私たちはこう言うのです。「ここには第一の沙門（修行者）、第二、第三、第四の沙門がいる。これより外には沙門もバラモンもない。異なる教えにはすべて、沙門もバラモンも空しく存在しない。私たちは大衆の中にあって、このように正しく獅子吼（確固たる宣言）をするのだ。」その四つとは何か。皆さま、私たちは尊い師を信じ、法を信じ、戒と徳を完全に身につけ、共に修行する仲間を敬い愛し、恭しく仕えるのです。皆さま、私たちの尊い師である如来、阿羅漢、正等覚者は、知り、見ておられます。その方がこの四つの法を説かれました。この四つの法によって、私たちはこう言うのです。「ここには第一の沙門、第二、第三、第四の沙門がいる。これより外には沙門もバラモンもない。異なる教えにはすべて、沙門もバラモンも空しく存在しない。私たちは大衆の中にあって、このように正しく獅子吼をするのだ。」』

「比丘！異學或復作是說：『諸賢！我等亦信尊師，謂我尊師也。信法，謂我法也。戒德具足，謂我戒也。愛敬同道，恭恪奉事，謂我同道出家及在家者也。諸賢！沙門瞿曇及我等此二種說，有何勝，有何意，有何差別耶？』比丘！汝等應如是問異學：『諸賢！為一究竟，為眾多究竟耶？』比丘！若異學如是答：『諸賢！有一究竟，無眾多究竟。』比丘！汝等復問異學：『諸賢！為有欲者得究竟是耶？為無欲者得究竟是耶？』比丘！若異學如是答：『無欲者得究竟是，非有欲者得究竟是。』比丘！汝等復問異學：『諸賢！為有恚者得究竟是耶？為無恚者得究竟是耶？』比丘！若異學如是答：『無恚者得究竟是，非有恚者得究竟是。』比丘！汝等復問異學：『諸賢！為有癡者得究竟是耶？為無癡者得究竟是耶？』比丘，若異學如是答：『諸賢！無癡者得究竟是，非有癡者得究竟是。』

> 「比丘たちよ、もし他の教えを説く者たちがこう言うかもしれません。『尊者たちよ、私たちもまた尊師を信じています。それが私たちの尊師です。法を信じています。それが私たちの法です。戒と徳を具足しています。それが私たちの戒です。道友を愛し敬い、恭しく仕えています。それが私たちの道友であり、出家者や在家者も含まれます。尊者たちよ、沙門ゴータマと私たちのこの二つの教えには、どのような優れた点があり、どのような意味があり、どのような違いがあるのでしょうか？』と。 比丘たちよ、あなたたちはこのように他の教えを説く者たちに問い返すべきです。『尊者たちよ、最終的な真理は一つなのでしょうか、それとも多数あるのでしょうか？』と。 比丘たちよ、もし他の教えを説く者たちがこう答えたなら、『尊者たちよ、最終的な真理は一つであり、多数ではありません。』と。 比丘たちよ、あなたたちはさらに他の教えを説く者たちに問うべきです。『尊者たちよ、欲望を持つ者が最終的な真理に到達するのでしょうか、それとも欲望を持たない者が到達するのでしょうか？』と。 比丘たちよ、もし他の教えを説く者たちがこう答えたなら、『欲望を持たない者が最終的な真理に到達するのであり、欲望を持つ者が到達するのではありません。』と。 比丘たちよ、あなたたちはさらに他の教えを説く者たちに問うべきです。『尊者たちよ、怒りを持つ者が最終的な真理に到達するのでしょうか、それとも怒りを持たない者が到達するのでしょうか？』と。 比丘たちよ、もし他の教えを説く者たちがこう答えたなら、『怒りを持たない者が最終的な真理に到達するのであり、怒りを持つ者が到達するのではありません。』と。 比丘たちよ、あなたたちはさらに他の教えを説く者たちに問うべきです。『尊者たちよ、無知を持つ者が最終的な真理に到達するのでしょうか、それとも無知を持たない者が到達するのでしょうか？』と。 比丘たちよ、もし他の教えを説く者たちがこう答えたなら、『尊者たちよ、無知を持たない者が最終的な真理に到達するのであり、無知を持つ者が到達するのではありません。』と。

「比丘！汝等復問異學：『諸賢！為有愛、有受者得究竟是耶？為無愛、無受者得究竟是耶？』比丘！若異學如是答：『諸賢！無愛、無受者得究竟是，非有愛、有受者得究竟是。』比丘！汝等復問異學：『諸賢！為無慧、不說慧者得究竟是耶？為有慧、說慧者得究竟是耶？』比丘！若異學如是答：『諸賢！有慧、說慧者得究竟是，非無慧、不說慧者得究竟是。』比丘！汝等復問異學：『諸賢！為有憎、有諍者得究竟是耶？為無憎、無諍者得究竟是耶？』比丘！若異學如是答：『諸賢！無憎、無諍者得究竟是，非有憎、有諍者得究竟是。』

> 比丘たちよ、さらに尋ねなさい。「諸賢よ、執着がある者、執着される者が究極の境地に達するのか。それとも、執着がなく、執着されるものもない者が達するのか」と。 比丘たちよ、異学がこう答えるだろう。「諸賢よ、執着がなく、執着されるものもない者が究極の境地に達するのであり、執着のある者、執着されるもののある者は達しない」。 比丘たちよ、さらに問いなさい。「諸賢よ、智慧がなく、智慧を説かない者が究極の境地に達するのか。それとも、智慧があり、智慧を説く者が達するのか」と。 比丘たちよ、異学がこう答えるだろう。「諸賢よ、智慧があり、智慧を説く者が究極の境地に達するのであり、智慧がなく、智慧を説かない者は達しない」。 比丘たちよ、さらに問いなさい。「諸賢よ、憎しみや争いがある者が究極の境地に達するのか。それとも、憎しみや争いがない者が達するのか」と。 比丘たちよ、異学がこう答えるだろう。「諸賢よ、憎しみや争いがない者が究極の境地に達するのであり、憎しみや争いがある者は達しない」。

「比丘！汝等為異學應如是說：『諸賢！是為如汝等說有一究竟是，非眾多究竟是；無欲者得究竟是，非有欲者得究竟是；無恚者得究竟是，非有恚者得究竟是；無癡者得究竟是，非有癡者得究竟是；無愛、無受者得究竟是，非有愛、有受者得究竟是；有慧、說慧者得究竟是，非無慧、不說慧者得究竟是；無憎、無諍者得究竟是，非有憎、有諍者得究竟是。若有沙門、梵志依無量見，彼一切依猗二見，有見及無見也。若依有見者，彼便著有見，依猗有見，猗住有見，憎諍無見。若依無見者，彼便著無見，依猗無見，猗住無見，憎諍有見。

> 比丘たちよ、あなたがたは他宗の者たちにこう説くべきです。「諸賢よ、次のように説かれている通り、究極に至るのは一つであって、多数ではない。欲を離れた者が究極に至るのであって、欲に執着した者が至るのではない。怒りを離れた者が究極に至るのであって、怒りを抱く者が至るのではない。無知を離れた者が究極に至るのであって、無知な者が至るのではない。執着や受容を離れた者が究極に至るのであって、執着や受容を持つ者が至るのではない。智慧を持ち、それを説く者が究極に至るのであって、智慧なく説かない者が至るのではない。憎しみや争いを離れた者が究極に至るのであって、憎しみや争いを抱く者が至るのではない。 もし、ある沙門やバラモンが無数の見解に依っているなら、それらはすべて二つの見解に依拠している。すなわち、「有る」という見解と「無い」という見解である。「有る」という見解に依る者は、その見解に執着し、それに依り頼み、それに固執して、「無い」という見解を憎み争う。「無い」という見解に依る者は、その見解に執着し、それに依り頼み、それに固執して、「有る」という見解を憎み争う。」

「『若有沙門、梵志不知因、不知習、不知滅、不知盡、不知味、不知患、不知出要如真者，彼一切有欲、有恚、有癡、有愛、有受、無慧、非說慧、有憎、有諍，彼則不離生老病死，亦不能脫愁慼啼哭、憂苦懊惱，不得苦邊。若有沙門、梵志於此二見知因、知習、知滅、知盡、知味、知患、知出要如真者，彼一切無欲、無恚、無癡、無愛、無受、有慧、說慧、無憎、無諍，彼則得離生老病死，亦能得脫愁慼啼哭、憂苦懊惱，則得苦邊。

> もし修行者や聖者が、原因を知らず、発生を知らず、消滅を知らず、完全な消滅を知らず、その味わいを知らず、その危険性を知らず、そこからの真実の出離の道を知らないならば、彼らはすべて欲望・怒り・無知・執着・固執を持ち、智慧なく、智慧を説くこともなく、憎しみと争いを抱えている。その人々は生・老・病・死を離れることができず、また憂い・悲しみ・苦しみ・悩みから逃れることもできず、苦しみの終わりに達することはできない。 もし修行者や聖者が、この二つの見解について、原因を知り、発生を知り、消滅を知り、完全な消滅を知り、その味わいを知り、その危険性を知り、そこからの真実の出離の道を知るならば、彼らはすべて欲望・怒り・無知・執着・固執がなく、智慧があり、智慧を説き、憎しみと争いがない。その人々は生・老・病・死を離れることができ、また憂い・悲しみ・苦しみ・悩みから逃れることができ、苦しみの終わりに達するのである。

「『或有沙門、梵志施設斷受，然不施設斷一切受，施設斷欲受，不施設斷戒受、見受、我受。所以者何？彼沙門、梵志不知三處如真。是故彼雖施設斷受，然不施設斷一切受。復有沙門、梵志施設斷受，然不施設斷一切受，施設斷欲受、戒受，不施設斷見受、我受。所以者何？彼沙門、梵志不知二處如真，是故彼雖施設斷受，然不施設斷一切受。復有沙門、梵志施設斷受，然不施設斷一切受，施設斷欲受、戒受、見受，不施設斷我受，所以者何？彼沙門、梵志不知一處如真，是故彼雖施設斷受，然不施設斷一切受。如是法、律，若信尊師者，彼非正、非第一，若信法者，亦非正、非第一，若具足戒德者，亦非正、非第一，若愛敬同道、恭恪奉事者，亦非正、非第一。

> ある修行者やバラモンの中には、「受」を断つと説きながらも、すべての「受」を断つとは説かない者がいる。彼らは欲望の受を断つと説くが、戒の受、見解の受、自己の受を断つとは説かない。なぜなら、その修行者やバラモンは、三つの領域をありのままに知らないからである。そのため、彼らは受を断つと説きながらも、すべての受を断つとは説かないのである。 また、ある修行者やバラモンは、受を断つと説きながらも、すべての受を断つとは説かない。彼らは欲望の受と戒の受を断つと説くが、見解の受と自己の受を断つとは説かない。なぜなら、その修行者やバラモンは、二つの領域をありのままに知らないからである。そのため、彼らは受を断つと説きながらも、すべての受を断つとは説かないのである。 また、ある修行者やバラモンは、受を断つと説きながらも、すべての受を断つとは説かない。彼らは欲望の受、戒の受、見解の受を断つと説くが、自己の受を断つとは説かない。なぜなら、その修行者やバラモンは、一つの領域をありのままに知らないからである。そのため、彼らは受を断つと説きながらも、すべての受を断つとは説かないのである。 このような教えや戒律においては、もし師を信じる者があっても、それは正しくなく、最上のものではない。もし法を信じる者があっても、それも正しくなく、最上のものではない。もし戒と徳を完全に備える者があっても、それも正しくなく、最上のものではない。もし同道を敬愛し、恭しく仕える者があっても、それも正しくなく、最上のものではない。

「『若有如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐，彼施設斷受，於現法中施設斷一切受，施設斷欲受、戒受、見受、我受。此四受何因、何習，從何而生，以何為本？此四受因無明，習無明，從無明生，以無明為本。若有比丘無明已盡，明已生者，彼便從是不復更受欲受、戒受、見受、我受，彼不受已，則不恐怖，不恐怖已，便斷因緣，必般涅槃，生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。如是正法、律，若信尊師者，是正、是第一，若信法者，是正、是第一，若戒德具足者，是正、是第一，若愛敬同道、恭恪奉事者，是正、是第一。』

> 『もし如来がこの世に現れるならば、それは執着なく、正しく目覚め、智慧と行いを完全にそなえ、善く逝き、世間を理解し、最上の者であり、道を説き導く者、天人の師であり、仏陀、衆生の福徳を集める者と称されます。その方は、執着の断ち切りを説かれます。現世において、すべての執着を断ち切ることを説き、欲への執着、戒への執着、見解への執着、自我への執着を断ち切ることを説かれます。 この四つの執着は、何を因とし、何を習慣とし、何から生じ、何を根本とするのでしょうか？この四つの執着は、無明を因とし、無明を習慣とし、無明から生じ、無明を根本とします。 もし比丘が無明を尽くし、智慧を生じさせたならば、その者は欲への執着、戒への執着、見解への執着、自我への執着を新たに受けることはありません。執着を受けなくなったならば、恐れることはありません。恐れなくなったならば、因縁を断ち切り、必ず般涅槃（完全な涅槃）に達します。すなわち、生は尽き、清らかな行いは確立し、なすべきことは成し遂げられ、再び生存を受けることはないと、あるがままに知ります。 このように、正しい法と律において、もし尊い師を信じるならば、それは正しく、第一のものであり、もし法を信じるならば、それは正しく、第一のものであり、戒と徳を具足するならば、それは正しく、第一のものであり、もし道に共に励む者を敬い愛し、恭しく仕えるならば、それは正しく、第一のものです。』

「諸賢！我等有是行，有是力，有是智，因此故令我等作如是說，此有第一沙門，第二、第三、第四沙門，此外更無沙門、梵志，異道一切空無沙門、梵志。以是故，我等隨在眾中，作如是正師子吼。」

> 「皆さま、私たちにはこの修行があり、この力があり、この智慧があります。それによって、私たちはこう宣言いたします。『ここには第一の沙門、第二、第三、第四の沙門が存在する。そして、これ以外にはいかなる沙門も梵志もなく、他の道には沙門も梵志も全くいない。』だからこそ、私たちは人々の中にあっても、このように正しく獅子吼するのです。」

佛說如是。彼諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。

> このように仏は説かれました。比丘たちは仏の説かれたことを聞き、喜んでお受け取りになりました。

師子吼經第七竟一千六百九十字

> 獅子吼経 第七章 了<note>千六百九十字</note>