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title: "中阿含經 · 115 蜜丸喻經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
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### （一一五）中阿含林品蜜丸喻經第九第二小土城誦

> 115\. ミツダルマのたとえ経

我聞如是：

一時，佛遊釋羇瘦，在迦維羅衛。

> ある時、仏陀は釈迦族の地、カピラヴァストゥで遊行されていました。

爾時，世尊過夜平旦，著衣持鉢，為乞食故，入迦維羅衛。食訖，中後收舉衣鉢，澡洗手足，以尼師壇著於肩上，往詣竹林釋迦寺中，入彼大林，至一樹下敷尼師檀，結加趺坐。

> ある時、目覚めた方は夜明けに衣を整えて鉢を持ち、托鉢のためにカピラ城へ入られた。食事を終えた後、衣と鉢を片付け、手足を洗い、敷物を肩にかけて竹林の釈迦寺へと向かわれた。そこで大きな林の中の一本の木の下に敷物を敷いて、結跏趺坐（足を組んだ座り方）をされた。

於是，執杖釋拄杖而行，中後彷徉，往詣佛所，共相問訊，拄杖立佛前，問世尊曰：「沙門瞿曇！以何為宗本？說何等法？」

> そこで、杖をついたバラモンが杖を放して歩き、午後になってから仏のもとへと向かい、互いに挨拶を交わした後、杖を立てて仏の前に立ち、世尊に尋ねました。「沙門ゴータマよ、あなたは何を根本の教えとし、どのような法を説くのですか。」

世尊答曰：「釋！若一切世間，天及魔、梵、沙門、梵志，從人至天，使不鬪諍，修習離欲清淨梵志，捨離諂曲，除悔，不著有、非有，亦無想，是我宗本；說亦如是。」

> 世尊はお答えになりました。「釈よ、もし一切の世間——天や魔、梵天、修行者、梵志、人から天に至るまで——が争いをせず、欲を離れ清らかな梵行を修め、へつらいを捨て、後悔を除き、『有る』にも『無い』にも執着せず、さらに概念にも執らわれないならば、それが私の根本の教えです。説くところもまた同様です。」

於是，執杖釋聞佛所說，不是不非，執杖釋奮頭而去。

> そこで、杖を持つ釈は仏の説法を聞いて、是とも非ともせず、ただ頭を振りながら去って行った。

於是，世尊執杖釋去後不久，則於晡時，從燕坐起，往詣講堂，比丘眾前敷座而坐，告諸比丘：「我今平旦著衣持鉢，為乞食故，入迦維羅衛。食訖，中後收舉衣鉢，澡洗手足，以尼師檀著於肩上，往詣竹林釋迦寺中，入彼大林，至一樹下敷尼師檀，結跏趺坐。於是，執杖釋拄杖而行，中後彷徉，來詣我所，共相問訊，拄杖立我前，問我曰：『沙門瞿曇！以何為宗本？說何等法？』我答曰：『釋！若一切世間，天及魔、梵、沙門、梵志，從人至天，使不鬪諍，修習離欲清淨梵志，捨離諂曲，除悔，不著有、非有，亦無想，是我宗本；說亦如是。』彼執杖釋聞我所說，不是不非，執杖釋奮頭而去。」

> そこで、世尊は金杖の釈子が立ち去った後、夕方になり、静かな座から立ち上がって講堂へ向かわれました。比丘たちの前に座を敷き、お告げになりました。 「今朝、私は衣を着け、鉢を持って托鉢のためカピラヴァストゥに入った。食事を終え、昼後に衣と鉢を片付け、手足を洗い、座布を肩にかけて竹林の釈迦寺へ向かい、その大林の中に入り、一本の木の下に座布を敷いて結跏趺坐した。 そこへ、金杖の釈子が杖をついて歩き、夕方に 私のところへふらりとやって来た。互いに挨拶を交わした後、彼は杖をついたまま私の前に立ち、私に問うた。 『沙門ゴータマよ、あなたの根本的な教えは何か。どのような法を説くのか。』 私は答えた。 『釈子よ、あらゆる世間——天、魔、梵天、沙門、婆羅門、人々から天に至るまで——において、争いを起こさず、離欲と清らかさを修行し、梵行を実践し、へつらいや曲がった心を捨て、後悔を除き、「有る」にも「無い」にも執着せず、さらに想いをも持たないこと、これが私の根本的な教えであり、そのように説くのである。』 金杖の釈子は、私の言葉を聞いて、是とも非とも言わず、首を振りながら立ち去った。」

於是，有一比丘即從坐起，偏袒著衣，叉手向佛，白曰：「世尊！云何一切世間，天及魔、梵、沙門、梵志，從人至天，使不鬪諍？云何修習離欲，得清淨梵志？云何捨離諂曲，除悔，不著有、非有，亦無想耶？」

> そこで、一人の修行僧（比丘）が立ち上がり、衣を片方の肩にかけ、合掌して仏に向かい、こう問うた。 「世尊よ。いかにして、あらゆる世間の天・魔・梵天・修行者・梵志、人から天に至るまでを、争いのない状態にすることができるのでしょうか。いかにして修行し、欲を離れ、清らかな梵志を得ることができるのでしょうか。いかにして諂いや曲がった心を捨て、後悔を取り除き、『有る』にも『無い』にも執着せず、さらに想い（概念）さえも持たない境地に達するのでしょうか。」

世尊告曰：「比丘！若人所因念，出家學道，思想修習，及過去、未來、今現在法，不愛、不樂、不著、不住，是說苦邊欲使，恚使、有使、慢使、無明使、見使、疑使、鬪諍、憎嫉、諛諂、欺誑、妄言、兩舌及無量惡不善之法，是說苦邊。」

> 世尊がおっしゃいました。「比丘よ、もし人が何らかの思いに基づいて出家して道を学び、その考えを修め、そして過去・未来・現在のあらゆる現象に対して、愛着せず、楽しまず、執着せず、とどまらないならば、それを『苦の終わり』という。欲望の煩悩、怒りの煩悩、生存への執着の煩悩、慢心の煩悩、無明の煩悩、誤った見解の煩悩、疑いの煩悩、争い、憎しみ、嫉妬、お世辞、偽り、嘘、二枚舌、さらには無数の不善な悪法――これらをすべて離れることを『苦の終わり』という。」

佛說如是，即從坐起，入室燕坐。

> 仏はこのようにお話しになると、そのまま座を立ち、部屋に入って静かに座禅に入られた。

於是，諸比丘便作是念：「諸賢！當知世尊略說此義，不廣分別，即從坐起，入室燕坐。『若人所因念，出家學道，思想修習，及過去、未來、今現在法，不愛、不樂、不著、不住，是說苦邊。欲使、恚使、有使、慢使、無明使、見使、疑使、鬪諍、憎嫉、諛諂、欺誑、妄言、兩舌及無量惡不善之法，是說苦邊。』」彼復作是念：「諸賢！誰能廣分別世尊向所略說義？」彼復作是念：「尊者大迦旃延常為世尊之所稱譽，及諸智梵行人，尊者大迦旃延能廣分別世尊向所略說義。諸賢！共往詣尊者大迦旃延所，請說此義；若尊者大迦旃延為分別者，我等當善受持。」

> そこで、比丘たちは次のように考えました。「尊い方々よ、世尊がこの意味を簡潔に説き、詳しく分別せずに席を立って静かな部屋に入られたことを知るべきです。『人が執着する対象によって出家し、修行し、思いを巡らし、修習する。そして、過去・未来・現在のすべての法に対して、愛着せず、喜ばず、執着せず、とどまらないこと、これを苦の終わりと説く。欲望の束縛、怒りの束縛、生存への執着、慢心、無明、誤った見解、疑い、争い、憎しみ、嫉妬、お世辞、欺き、偽りの言葉、二枚舌、そして無数の悪しき不善の法々、これらを離れること、これを苦の終わりと説く。』」 さらに彼らは考えました。「尊い方々よ、誰が世尊が簡潔に説かれたこの意味を詳しく分別できるだろうか？」そして、「尊者マハーカッチャーナは常に世尊から称賛され、また智慧ある修行者たちからも尊敬されている。尊者マハーカッチャーナこそ、世尊が簡潔に説かれたこの意味を詳しく分別できるだろう。尊い方々よ、共に尊者マハーカッチャーナのもとへ行き、この意味について教えを請おう。尊者マハーカッチャーナが詳しく説明してくださるなら、私たちはそれをよく受持しよう。」と考えました。

於是，諸比丘往詣尊者大迦旃延所，共相問訊，却坐一面，白曰：「尊者大迦旃延！當知世尊略說此義，不廣分別。即從坐起，入室燕坐。『比丘！若人所因念，出家學道，思想修習，及過去、未來、今現在法，不愛、不樂、不著、不住，是說苦邊。欲使、恚使、有使、慢使、無明使、見使、疑使、鬪諍、憎嫉、諛諂、欺誑、妄言、兩舌及無量惡不善之法，是說苦邊。』我等便作是念：『諸賢！誰能廣分別世尊向所略說義？』我等復作是念：『尊者大迦旃延常為世尊之所稱譽，及諸智梵行人，尊者大迦旃延能廣分別世尊向所略說義。』唯願尊者大迦旃延為慈愍故而廣說之。」

> そこで、比丘たちは尊者大迦旃延のもとへ赴き、共に挨拶を交わしてから、一方に座ってこう言った。 「尊者大迦旃延よ、世尊はこの意味を簡潔に説かれ、詳しくは説かれませんでした。そのまま座を立ち、部屋に入って静かに坐しておられます。『比丘よ、人がその思いに基づいて出家して道を学び、心を修め、過去・未来・現在のあらゆる現象に対して、愛さず、喜ばず、執着せず、とどまらないこと、これを苦の終わりと説く。欲望の煩悩、怒りの煩悩、生存への執着の煩悩、慢心の煩悩、無明の煩悩、誤った見解の煩悩、疑いの煩悩、争い、憎しみ、嫉妬、お世辞、欺き、偽りの言葉、二枚舌、そして無数の悪しき善ならざる法、これらを苦の終わりと説く。』と。 そこで私たちはこう考えました。『諸賢よ、誰か世尊が簡潔に説かれたこの意味を詳しく説き明かしてくれるだろうか？』そしてまたこう考えました。『尊者大迦旃延は常に世尊から称賛され、また智慧ある修行者たちからも尊敬されている。尊者大迦旃延なら、世尊が簡潔に説かれたこの意味を詳しく説き明かしてくださるだろう。』どうか尊者大迦旃延よ、慈しみの心から、詳しくお説きください。」

爾時，尊者大迦旃延告曰：「諸賢！聽我說喻，慧者聞喻則解其義。諸賢！猶如有人欲得求實，為求實故，持斧入林，彼見大樹成根、莖、節、枝、葉、華、實，彼人不觸根、莖、節、實，但觸枝、葉。諸賢所說亦復如是，世尊現在，捨來就我而問此義。所以者何？諸賢！當知世尊是眼、是智、是義、是法、法主、法將，說真諦義，現一切義由彼世尊。諸賢應往詣世尊所而問此義：『世尊！此云何？此何義？』如世尊說者，諸賢等當善受持。」

> さて、尊者マハーカッチャーナは告げられた。「諸君よ、私はたとえ話をしよう。賢者はたとえ話を聞いてその意味を悟る。諸君よ、ちょうど、ある人が果実を得ようとして、それのために斧を持って森に入り、根、茎、節、枝、葉、花、実と揃った大きな木を見たとする。ところがその人は根、茎、節、実には触れず、ただ枝や葉に触れるだけだった。諸君が尋ねるのもこれと同じだ。世尊が今おられるのに、世尊を離れて私のもとに来てこの意味を問うとは。なぜか。諸君、知るがよい。世尊こそが眼であり、知恵であり、意味であり、法であり、法の主、法の将である。真実の意味を説き、すべての意味を明らかにされるのも世尊による。諸君は世尊のもとに赴き、この意味を問うべきである。『世尊よ、これはどういうことですか？ これは何の意味ですか？』と。世尊がお説きになられた通りに、諸君はしっかりと受け止め、実践しなさい。」

時，諸比丘白曰：「唯然。尊者大迦旃延！世尊是眼、是智、是義、是法、法主、法將，說真諦義，現一切義由彼世尊，我等應往詣世尊所而問此義：『世尊！此云何？此何義？』如世尊說者，我等當善受持。然，尊者大迦旃延常為世尊之所稱譽，及諸智梵行人，尊者大迦旃延能廣分別世尊向所略說義，唯願尊者大迦旃延為慈愍故而廣說之。」

> そこで、比丘たちは申し上げました。「かしこまりました。尊者マハーカッチャーナよ。世尊は眼であり、智慧であり、真理であり、法そのものであり、法の主、法の導師です。真実の意義を説き、あらゆる意義を明らかにされるのは、かの世尊によるものです。ゆえに、私たちは世尊のおられるところに参り、この意義について『世尊よ、これはどのような意味でしょうか。この意義は何でしょうか』とお尋ねすべきであり、世尊がお説きになられた通りに、よく受持いたしましょう。しかしながら、尊者マハーカッチャーナは常に世尊から称賛されており、また智慧ある修行者たちからも認められておられます。尊者マハーカッチャーナは、世尊がかつて簡潔にお説きになった意義を、広く詳しく解説することがおできになります。どうか尊者マハーカッチャーナが、私たちへの慈しみをもって、その意義を広くお説きくださいますように。」

尊者大迦旃延告諸比丘：「諸賢等共聽我所說。諸賢！緣眼及色，生眼識，三事共會，便有更觸，緣更觸便有所覺，若所覺便想，若所想便思，若所思便念，若所念便分別。比丘者因是念出家學道，思想修習，此中過去、未來、今現在法，不愛、不樂、不著、不住，是說苦邊。欲使、恚使、有使、慢使、無明使、見使、疑使、鬪諍、憎嫉、諛諂、欺誑、妄言、兩舌及無量惡不善之法，是說苦邊。如是耳、鼻、舌、身緣意及法，生意識，三事共會，便有更觸，緣更觸便有所覺，若所覺便想，若所想便思，若所思便念，若所念便分別。比丘者因是念出家學道，思想修習，此中過去、未來、今現在法，不愛、不樂、不著、不住，是說苦邊。欲使、恚使、有使、慢使、無明使、見使、疑使、鬪諍、憎嫉、諛諂、欺誑、妄言、兩舌及無量惡不善之法，是說苦邊。

> 尊き大迦旃延は、比丘たちにこう告げられました。「皆さん、私の話をよく聞いてください。皆さん、眼と色（形あるもの）とが縁となって眼の認識が生まれます。この三つのものが共に集まると、接触が生じます。接触を縁として、感覚（受）が生まれます。感覚されたものが、想い（想）となり、想われたものが、心の動き（思）となり、思われたものが、心の働き（念）となり、念じられたものが、分別となります。比丘は、このような心の働きをきっかけに出家して学び、思いを修習します。こうした中で、過去・未来・現在のあらゆる事柄に対して、愛着せず、楽しまず、執着せず、とどまらないこと、これを『苦の終わり』といいます。また、欲望、怒り、生存、慢心、無明、邪見、疑惑といった煩悩の働きや、争い、憎しみ、嫉み、へつらい、欺き、偽りの言葉、二枚舌、さらには無数の悪しき不善の法々、これらを『苦の終わり』といいます。同様に、耳・鼻・舌・身、そして意と法（認識の対象）とが縁となって意識が生まれます。三つのものが共に集まると接触が生じ、接触を縁として感覚が生まれます……（以下同文）。比丘は、このような心の働きをきっかけに出家して学び、思いを修習します。こうした中で、過去・未来・現在のあらゆる事柄に対して、愛着せず……（以下同文）これを『苦の終わり』といいます。」

「諸賢！比丘者，除眼、除色、除眼識，有更觸施設更觸者，是處不然。若不施設更觸，有覺施設覺者，是處不然。若不施設覺，有施設念、出家學道、思想修習者，是處不然。如是耳、鼻、舌、身，除意、除法、除意識，有更觸施設更觸者，是處不然。若不施設更觸，有覺施設覺者，是處不然。若不施設覺，有施設念、出家學道、思想修習者，是處不然。

> 「皆さん、比丘は、眼を除き、色を除き、眼識を除いて、更に触れることがあり、その触れ合いを説き示すことはできません。もし触れ合いを説き示さなければ、感じることを説き示すことはできません。もし感じることを説き示さなければ、心づくり、出家修行、思いを修めることを説き示すことはできません。同じく、耳、鼻、舌、身もまた、意を除き、法を除き、意識を除いて、更に触れることがあり、その触れ合いを説き示すことはできません。もし触れ合いを説き示さなければ、感じることを説き示すことはできません。もし感じることを説き示さなければ、心づくり、出家修行、思いを修めることを説き示すことはできません。」

「諸賢！比丘者，因眼、因色、因眼識，有更觸施設更觸者，必有此處。因施設更觸，有覺施設覺者，必有此處。因施設覺，有施設念、出家學道、思想修習者，必有此處。如是耳、鼻、舌、身，因意、因法、因意識，有更觸施設更觸者，必有此處。因施設更觸，有覺施設覺者，必有此處。因施設覺，有施設念、出家學道、思想修習者，必有此處。諸賢！謂世尊略說此義，不廣分別，即從坐起，入室燕坐。『比丘！若人所因念，出家學道，思想修習，及過去、未來、今現在法，不愛、不樂、不著、不住，是說苦邊。欲使、恚使、有使、慢使、無明使、見使、疑使、鬪諍、憎嫉、諛諂、欺誑、妄言、兩舌及無量惡不善之法，是說苦邊。』此世尊略說不廣分別義，我以此句、以此文廣說如是。諸賢！可往向佛具陳，若如世尊所說義者，諸賢等便可受持。」

> 皆さん、比丘たちは、目と色と眼識によって、接触という感覚が生じる基盤があります。接触が生じる基盤があるからこそ、感覚が生じる基盤があります。感覚が生じる基盤があるからこそ、気づきや出家修行、思考や修習が生じる基盤があります。同様に、耳、鼻、舌、身、そして意と法と意識によっても、接触が生じる基盤があります。接触が生じる基盤があるからこそ、感覚が生じる基盤があります。感覚が生じる基盤があるからこそ、気づきや出家修行、思考や修習が生じる基盤があります。 皆さん、世尊はこの意味を簡潔に説かれ、詳しく解説せずに座を立ち、部屋に入って静かに坐されました。『比丘たちよ、人が依って気づきを起こし、出家修行し、思考し修習するもの、また過去・未来・現在のあらゆる法に対して、愛着せず、喜ばず、執着せず、とどまらないこと、これを苦の終わりと説く。欲望の束縛、怒りの束縛、存在への執着、慢心、無明、誤った見解、疑い、争い、憎しみ嫉み、へつらい、欺き、偽りの言葉、両舌、そして無数の悪しき善ならざる法を離れること、これを苦の終わりと説く。』これが世尊が簡潔に説かれて詳しく解説されなかった意味です。私はこの句、この文によって詳しく説き明かしました。皆さん、どうか世尊のところへ行き、そのまま詳しくお伝えください。もし世尊の説かれた意味にかなっているならば、皆さんはそれを受持してください。」

於是，諸比丘聞尊者大迦旃延所說，善受持誦，即從坐起，遶尊者大迦旃延三匝而去，往詣佛所，稽首作禮，却坐一面，白曰：「世尊！向世尊略說此義，不廣分別，即從坐起，入室宴坐；尊者大迦旃延以此句、以此文而廣說之。」

> そこで、比丘たちは尊者マハーカッチャーナの説法を聞き、よく理解してその教えを保ち、受持し、誦した。そして、座から立ち上がり、尊者マハーカッチャーナの周りを三度右繞してから、仏のもとへと向かった。そこに到着すると、頭を地につけて敬礼し、一方に座って言った。「世尊よ、先ほど世尊はこの義を簡略にお説きになり、詳細に分別されずに座から立ち上がり、室に入って静かに坐されました。尊者マハーカッチャーナは、この句とこの文によって、その義を詳しく説かれました。」

世尊聞已，歎曰：「善哉！善哉！我弟子中有眼、有智、有法、有義。所以者何？謂師為弟子略說此義，不廣分別，彼弟子以此句、以此文而廣說之。如迦旃延比丘所說，汝等應當如是受持。所以者何？以說觀義，應如是也。比丘！猶如有人因行無事處、山林樹間，忽得蜜丸，隨彼所食而得其味，如是族姓子於我此正法、律，隨彼所觀而得其味，觀眼得味，觀耳、鼻、舌、身，觀意得味。」

> 世尊はこれを聞いて、感嘆しておっしゃいました。「善いかな、善いかな。我が弟子の中には、眼ある者、智慧ある者、法ある者、義ある者がいる。どうしてそのように言うのか。師が弟子のためにこの義を簡略に説き、詳細に分別しなかったとしても、その弟子がこの句、この文によって広く説き明かすからである。迦旃延比丘が説いたように、あなたがたもまた、このように受持すべきである。なぜなら、観の義を説くとは、まさにこのようであるべきだからである。比丘たちよ、たとえば、人が人里離れた場所や山林の木々の間を歩いていて、偶然に蜜の丸を得たとする。その人はそれを食べて、その味わいを十分に味わう。それと同じように、この良き家の子らは、私のこの正しい法と律において、それぞれ観察するものに従ってその味わいを得る。眼を観察してその味わいを得、耳、鼻、舌、身を観察してその味わいを得、意を観察してその味わいを得るのである。」

爾時，尊者阿難執拂侍佛。於是，尊者阿難叉手向佛，白曰：「世尊！此法名何等？我當云何奉持？」

> その時、尊者阿難が仏陀のそばで扇子を持ってお仕えしていた。 そこで、尊者阿難は手を合わせて仏陀に向かい、こう申し上げた。 「世尊よ、この教えの名前は何と申しますか。私はどのようにしてこれを守り行えばよいのでしょうか。」

世尊告曰：「阿難！此法名為蜜丸喻，汝當受持。」

> 世尊がおっしゃいました。「阿難よ、この法を『蜜丸のたとえ』という。お前はこれをよく受けとめ、実践しなさい。」

於是，世尊告諸比丘：「汝等受此蜜丸喻法，當諷誦讀。所以者何？比丘！此蜜丸喻有法有義，梵行之本，趣通趣覺，趣於涅槃。若族姓子剃除鬚髮，著袈裟衣，至信、捨家、無家、學道者，當善受持此蜜丸喻。」

佛說如是。尊者阿難及諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。

> 仏様はこのようにお説きになりました。尊者アーナンダや修行者たちは、仏様の教えを聞いて、喜び、その通りに実践しました。

蜜丸喻經第九竟二千二百七十二字

> 蜜丸喩経　第九　終わり<note>二千二百七十二字</note>