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title: "中阿含經 · 119 說處經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
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### （一一九）中阿含大品說處經第三第三念誦

> （一一九）中阿含大品 処経 第三<note>第三念誦</note>

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊舍衛國，在勝林給孤獨園。

> ある時、お釈迦さまは舎衛国に滞在され、勝林給孤独園におられました。

爾時，世尊告諸比丘：「此有三說處，無四無五。若比丘見已，因彼故說而說我見、聞、識、知，比丘說而說是我所知。云何為三？比丘，因過去世說，而說如是過去世時有；比丘！因未來世說，而說如是未來世時有；比丘！因現在世說，而說如是現在世時有；是謂三說處，無四無五。若比丘見已，因彼故說而說我見、聞、識、知，比丘說而說是我所知，因所說善習得義，因不說不善習得義。

> ある時、世尊は比丘たちに告げられた。 「三つの談話の場がある。四つでも五つでもない。比丘がそれを観察し、それに基づいて語る時、『私は見た、聞いた、識った、知った』と言い、また『それは私が知っていることだ』と語る。その三つとは何か。 比丘よ、過去世に基づいて語り、『このように過去世が存在した』と説く。 比丘よ、未来世に基づいて語り、『このように未来世が存在する』と説く。 比丘よ、現在世に基づいて語り、『このように現在世が存在する』と説く。 これらが三つの談話の場であり、四つでも五つでもない。 比丘がそれを観察し、それに基づいて語る時、『私は見た、聞いた、識った、知った』と言い、また『それは私が知っていることだ』と語る。その語るところによって善く習熟し、義を得る。語らないことによっては、善く習熟せず、義を得ない。」

「賢聖弟子兩耳一心聽法，彼兩耳一心聽法已，斷一法、修一法、一法作證，彼斷一法、修一法、一法作證已，便得正定。賢聖弟子心得正定已，便斷一切婬、怒、癡，賢聖弟子如是得心解脫。解脫已便知解脫，我生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。因其所說有四處，當以觀人，此賢者可共說、不可共說？若使此賢者一向論、不一向答者，分別論、不分別答者，詰論、不詰答者，止論、不止答者，如是此賢者不得共說，亦不得共論。若使此賢者一向論、使一向答者，分別論、分別答者，詰論、詰答者，止論、止答者，如是此賢者得共說，亦得共論。

> 賢聖の弟子は、両耳で一心に法を聴く。両耳で一心に法を聴いたならば、一つの法を断ち、一つの法を修め、一つの法を証する。その一つの法を断ち、一つの法を修め、一つの法を証したならば、正しい定を得る。賢聖の弟子が心に正しい定を得たならば、すべての欲望、怒り、無知を断つ。賢聖の弟子はこのようにして心の解脱を得る。解脱したならば、解脱したことを知る。「我が生は尽きた。清らかな修行は既に立ち、為すべきことは既に成し遂げ、再び存在を受けることはない」と、真理の如く知る。 その語るところによって、四つの場合がある。これをもって人を観察すべきである。「この賢者は共に語るに値するか、値しないか」と。 もしこの賢者が、一方的な論には一方的に答えず、分別ある論には分別して答えず、詰問する論には詰問して答えず、制止する論には制止して答えないならば、この賢者とは共に語ることも、共に論じることもできない。 もしこの賢者が、一方的な論には一方的に答え、分別ある論には分別して答え、詰問する論には詰問して答え、制止する論には制止して答えるならば、この賢者とは共に語ることも、共に論じることもできる。

「復次，因其所說，更有四處，當以觀人，此賢者可共說、不可共說？若使此賢者於處、非處不住者，所知不住者，說喻不住者，道跡不住者，如是此賢者不可共說，亦不可共論。若此賢者於處、非處住者，所知住者，說喻住者，道跡住者，如是此賢者可得共說，亦可得共論。因所說時止息口行，捨已所見，捨怨結意，捨欲、捨恚、捨癡、捨慢、捨不語、捨慳嫉、不求勝、不伏他，莫取所失，說義說法。說義說法已，教復教止，自歡喜、令彼歡喜，如是說義，如是說事，是聖說義，是聖說事，謂至竟漏盡。」

> さらに、これに関連して賢者と話し合うことができるかどうかを判断するための、四つの観点があります。 もしその賢者が、道理にかなったことと道理にかなわないことについて確信がなく、知るべきことを確信せず、たとえ話を理解せず、修行の道筋を確信していないなら、そのような賢者とは話し合うべきではなく、議論すべきでもありません。 もしその賢者が、道理にかなったことと道理にかなわないことについて確信を持ち、知るべきことを確信し、たとえ話を理解し、修行の道筋を確信しているなら、そのような賢者とは話し合うことができ、議論することもできます。 話し合いを行う際には、軽率な発言を慎み、自分の見解に固執せず、恨みや怒りの心を捨て、欲望、怒り、無知、慢心、沈黙、吝嗇や嫉妬を捨て、勝とうとせず、他人を打ち負かそうとせず、相手の過失を責めないようにしなさい。そして、意味と教えについて語りなさい。意味と教えについて語ったならば、さらに教えを重ねて励まし、自分も喜び、相手も喜ばせなさい。このように意味を語り、このように事柄を語ることを、聖なる語りといい、聖なる行いといいます。それは最終的に煩悩の滅尽に至るものだからです。

於是，世尊說此頌曰：

> そこで、世尊は次の偈を説かれました。

「若有諍論議， 雜意懷貢高，非聖毀呰德， 各各相求便。但求他過失， 意欲降伏彼，更互而求勝， 聖不如是說。若欲得論議， 慧者當知時，有法亦有義， 諸聖論如是。慧者如是說， 無諍無貢高，意無有厭足， 無結無有漏。隨順不顛倒， 正知而為說，善說則然可， 自終不說惡。不以諍論議， 亦不受他諍，知處及說處， 是彼之所論。如是聖人說， 慧者俱得義，為現法得樂， 亦為後世安。當知聰達者， 非倒非常說。」

> もし争いや論議が起こり、心に思い上がりや高ぶりがあるなら、 それは聖者ではなく、徳を傷つけ、互いに欠点を求め合う者である。 他人の過失ばかりを求め、相手を打ち負かそうとし、 互いに勝とうと争う——聖者はそのように語らない。 議論をしたいのなら、賢い者は時機を知るべきだ。 そこには法（真理）もあり、意味もある——聖者の論議はそのようなものだ。 賢者はこのように語る。争いもなく、思い上がりもなく、 心に満ち足りなさもなく、束縛もなく、煩悩の汚れもない。 順応して倒錯せず、正しく知って語る。 善く説かれればそれを受け入れ、自らは決して悪口を言わない。 議論で争うこともなく、また他人の争いを受け入れることもない。 論じる場と、語る場とをよく知る——それが賢者の論義である。 このように聖者は語り、賢者はともに意味を得る。 現世の安らぎのためであり、未来世の平安のためでもある。 知るべきである、聡明な人は、倒錯しておらず、永遠に変わらぬ真理を語ると。

佛說如是。彼諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。

> このように仏は説かれました。比丘たちは仏の説かれたことを聞き、喜んでお受け取りになりました。

說處經第三竟七百二十三字

> 説処経第三 終わり