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title: "中阿含經 · 124 八難經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
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### （一二四）中阿含大品八難經第八第三念誦

> （124）中阿含経 大品 八難経 第八<note>第三念誦</note>

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊舍衛國，在勝林給孤獨園。

> ある時、お釈迦さまは舎衛国に滞在され、勝林給孤独園におられました。

爾時，世尊告諸比丘：「人行梵行而有八難、八非時也。云何為八？若時如來、無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐，出世說法，趣向止息，趣向滅訖，趣向覺道，為善逝所演。彼人爾時生地獄中。是謂人行梵行第一難、第一非時。

> その時、世尊は比丘たちに告げられた。 「人が清らかな修行（梵行）を行おうとしても、八つの障害と八つの不適切な時がある。その八つとは何か。 例えば、如来・無著・等正覚・明行成就・善逝・世間解・無上士・道法御・天人師・仏・衆祐と称される方がこの世に現れ、苦しみを静め、滅びへと向かい、悟りの道へと向かう教えを説き、善逝が示される時がある。ところが、その人が地獄に生まれ落ちている。これが、人が清らかな修行を行おうとしても遭遇する第一の障害、第一の不適切な時である。」

「復次，若時如來、無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐，出世說法，趣向止息，趣向滅訖，趣向覺道，為善逝所演。彼人爾時生畜生中，生餓鬼中，生長壽天中，生在邊國夷狄之中，無信無恩，無有反復，若無比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷。是謂人行梵行第五難、第五非時。

> さらに、如来・無著・正等覚・明行足・善逝・世間解・無上士・道法御・天人師・仏・世尊が世に現れ、説法されるとき、それは止息に向かい、滅尽に向かい、覚りの道に向かい、善逝が説き示されるものです。しかし、その時に人が畜生の中に生まれ、餓鬼の中に生まれ、長寿天の中に生まれ、辺境の異国の地に生まれ、信仰心も恩義もなく、感謝の心もなく、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷に出会うことがないならば、これが梵行を修めるための第五の難、第五の時にあらずと説かれます。

「復次，若時如來、無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐，出世說法，趣向止息，趣向滅訖，趣向覺道，為善逝所演。彼人爾時雖生中國，而聾瘂如羊鳴，常以手語，不能知說善惡之義。是謂人行梵行第六難、第六非時。

> さらに、ある時、如来・阿羅漢・正等覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊がこの世に現れ、法を説かれます。その法は、安らぎへと向かい、苦しみの滅尽へと向かい、悟りへと向かうものであり、善逝によって説かれたものです。そのような時に、たとえ人が仏法の盛んな中央の国に生まれても、耳が聞こえず、言葉が話せず、羊のようにしか鳴けず、常に手真似で意思を伝え、善悪の意味を理解して語ることができません。これが、人が清らかな行い（梵行）を実践するための第六の困難、第六の不適切な時であると説かれています。

「復次，若時如來、無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐，出世說法，趣向止息，趣向滅訖，趣向覺道，為善逝所演。彼人爾時雖生中國，不聾、不瘂、不如羊鳴，不以手語，又能知說善惡之義，然有邪見及顛倒見，如是見、如是說：『無施、無齋，無有呪說，無善惡業，無善惡業報，無此世彼世，無父無母，世無真人往至善處、善去、善向，此世彼世自知自覺，自作證成就遊。』是謂人行梵行第七難、第七非時。

> 次に、ある時に如来（目覚めた方）、無著（執着のない方）、等正覚（完全に悟った方）、明行成就（智慧と行いを完成した方）、善逝（見事に赴く方）、世間解（世間を理解する方）、無上士（この上ない方）、道法御（道を教える方）、天人師（天と人の師）、仏（覚者）、衆祐（多くの者を救う方）と名高い方が世に現れ、教えを説き、止息へ、滅尽へ、覚りの道へと向かわせる、善逝が示す教えを説かれる。 その時に、人が中央の国に生まれ、耳が聞こえず、口がきけず、羊の鳴き声のような者ではなく、手話だけでなく、善悪の意味を語り理解できる者であっても、邪見や顛倒した見解を持ち、「施しもなく、供養もなく、呪文の効力もなく、善悪の業もなく、善悪の業の報いもなく、この世もあの世もなく、父も母もなく、世の中にこの世とあの世を自ら知り、悟り、実証して、完全にその境地に達する真実の者はいない」と見なし、説くならば、これをもって清净な行いを実践する第七の難、第七の時にあらずと言うのです。

「復次，若時如來、無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐，不出於世，亦不說法，趣向止息，趣向滅訖，趣向覺道，為善逝所演。彼人爾時生於中國，不聾、不瘂、不如羊鳴，不以手語，又能知說善惡之義，而有正見、不顛倒見，如是見、如是說：『有施有齋，亦有呪說；有善惡業，有善惡業報；有此世彼世，有父有母；世有真人往至善處，善去善向，此世彼世自知、自覺、自作證成就遊。』是謂人行梵行第八難、第八非時。

> さらに、如来（完全に悟りし者）、無所著（執着なき者）、等正覚（正しく目覚めた者）、明行成為（智慧と行いを完成した者）、善逝（善く赴く者）、世間解（世の中を理解した者）、無上士（この上ない者）、道法御（道を教え導く者）、天人師（天と人間の師）、仏（覚者）、衆祐（多くの者を救う者）と称される方が、世に現れず、また教えを説かず、安らぎへと向かい、滅び尽くすことへと向かい、悟りの道へと向かう、善逝によって示された法が存在しないとき、その時に人が中央の国に生まれ、耳が聞こえず、口がきけず、羊のように鳴くこともなく、手話だけでなく、善悪の意味を理解して言葉にでき、正しい見解を持ち、間違った見解に陥らず、次のように見て、次のように説くことです。「施しがあり、斎戒があり、祈りもある。善悪の業があり、その報いもある。この世とあの世があり、父と母がいる。世には真人がいて、善い場所へ赴き、善く去り、善く向かい、この世とあの世を自ら知り、自ら悟り、自ら証して、その境地に達して歩む」と。これを人が清らかな行いを実践する第八の難所、第八の時ならざる時と説くのです。

「人行梵行有一不難、有一是時。云何人行梵行有一不難、有一是時？若時如來、無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐，出世說法，趣向止息，趣向滅訖，趣向覺道，為善逝所演。彼人爾時生於中國，不聾、不瘂、不如羊鳴，不以手語，又能知說善惡之義，而有正見、不顛倒見，如是見、如是說：『有施有齋，亦有呪說；有善惡業，有善惡業報；有此世彼世，有父有母；世有真人往至善處，善去善向，此世彼世自知、自覺、自作證成就遊。』是謂人行梵行有一不難、有一是時。」

> 人が梵行を修行するには、一つの困難がなく、一つの時節がある。では、どのようにして人が梵行を修行する際に、一つの困難がなく、一つの時節があるのだろうか？ それは、如来、阿羅漢、正等覚者、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏陀、世尊が世に現れ、教えを説き、安息へと向かい、完全な消滅へと向かい、悟りの道へと向かう、善逝が示された法を説かれる時である。 その人が、その時に中央の国（インド）に生まれ、耳が不自由でなく、口がきけず、羊の鳴き声のようでなく、手話を用いず、善悪の意味をよく知り、正しい見解を持ち、逆転した見解を持たず、次のように見解し、次のように語る。 「布施があり、斎戒があり、また祈りや願いがある。善悪の業があり、善悪の業の報いがある。この世とあの世があり、父と母がいる。世には真人がいて、善き所に至り、善く去り、善く向かい、この世とあの世を自ら知り、自ら覚り、自ら証して成就して遊ぶ。」 これを、人が梵行を修行する際に、一つの困難がなく、一つの時節があるという。

於是，世尊說此頌曰：

> そこで、世尊は次の偈を説かれました。

「若得人身者， 說最微妙法，若有不得果， 必不遇其時。多說梵行難， 人在於後世，若得遇其時， 是世中甚難。欲得復人身， 及聞微妙法，當以精勤學， 人自哀愍故。談說聞善法， 莫令失其時，若失此時者， 必憂墮地獄。若不遇其時， 不聞說善法，如商人失財， 受生死無量。若有得人身， 聞說正善法，遵奉世尊教， 必遭遇其時。若遭遇此時， 堪任正梵行，成就無上眼， 日親之所說。彼為常自護， 進行離諸使，斷滅一切結， 降魔魔眷屬，彼度於世間， 謂得盡諸漏。」

> 人身を得たならば、　最も微妙な法を説こう。 もしも悟りを得られないなら、　それは時に出会えなかったからだ。 清らかな修行（梵行）は難しいとよく言われる、　人は後世にいるから。 もしその時に出会えるなら、　この世ではそれは非常に難しい。 再び人身を得たいと願い、　また微妙な法を聞きたいと願うなら、 熱心に学ぶべきだ、　人は自らを哀れむがゆえに。 善い法について語り聞くなら、　その時を逃してはならない。 もしこの時を逃せば、　必ず憂い、地獄に堕ちるだろう。 もしその時に出会えず、　善い法を聞くことができないなら、 それは商人が財産を失うようなもので、　無量の生死を繰り返す。 もし人身を得て、　正しい善い法を聞くなら、 世尊の教えに従い奉れば、　必ずその時に出会うだろう。 もしこの時に出会うなら、　正しい清らかな修行に耐えることができ、 無上の智慧の眼を成就する、　これは日親（太陽の親しき方＝仏）が説いたことである。 その人は常に自らを守り、　修行を進めて諸々の煩悩（使）を離れ、 一切の束縛（結）を断ち滅ぼし、　悪魔とその眷属を打ち負かす。 その人は世間を超える、　すなわち全ての漏（煩悩）を尽くしたと言われる。

佛說如是。彼諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。

> このように仏は説かれました。比丘たちは仏の説かれたことを聞き、喜んでお受け取りになりました。

八難經第八竟一千三十三字

> 八難経 第八 おわり