---
title: "中阿含經 · 143 傷歌邏經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma7j461w047zjl0aokugkuqu"
---

### （一四三）中阿含梵志品傷歌邏經第二第三念誦

> 傷歌邏経第二

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊舍衛國，在勝林給孤獨園。

> ある時、お釈迦さまは舎衛国に滞在され、祇園精舎におられました。

爾時，傷歌邏摩納中後彷徉，往詣佛所，共相問訊，却坐一面，白曰：「瞿曇！我欲有所問，聽乃敢陳。」

> その時、傷歌邏摩納は午後の散歩の途中、仏陀のもとを訪れ、挨拶を交わした後、一隅に座り、こう申し上げました。「瞿曇よ、お尋ねしたいことがございます。お許しいただければ、申し上げます。」

世尊告曰：「摩納！若有疑者，恣汝所問。」

> 世尊はお答えになりました。「若者よ、もし疑問があれば、どうぞ遠慮なくお尋ねください。」

傷歌邏摩納即便問曰：「瞿曇！梵志如法行乞財物，或自作齋，或教作齋。瞿曇！若自作齋，教作齋者，彼一切行無量福跡，以因齋故。沙門瞿曇弟子隨族剃除鬚髮，著袈裟衣，至信、捨家、無家、學道，自調御，自息止，自滅訖。如是沙門瞿曇弟子隨族行一福跡，不行無量福跡，因學道故。」

> 傷歌邏摩納はすぐに尋ねました。「瞿曇よ、バラモンは正しい方法で布施を受け、自ら祭祀を行い、あるいは他者に祭祀を行わせます。瞿曇よ、もし自ら祭祀を行い、他者に祭祀を行わせるならば、彼らはすべて無量の福徳の道を歩み、祭祀ゆえにそうなるのです。沙門瞿曇の弟子たちは、家系を離れ、髪と髭を剃り、袈裟をまとって、深く信じ、家を捨て、家を持たず、道を学びます。自らを調え、自らを鎮め、自らを滅ぼし尽くすのです。このように沙門瞿曇の弟子たちは、家系を離れて一つの福徳の道を歩むだけで、無量の福徳の道を歩むことはなく、道を学ぶゆえにそうなるのです。」

爾時，尊者阿難執拂侍佛。於是，尊者阿難問曰：「摩納！此二道跡，何者最上、最妙、最勝耶？」

> その時、尊者アーナンダは払子を執って仏陀に侍していた。そこで、尊者アーナンダは尋ねた。「若者よ、この二つの道の跡は、どちらが最も優れ、最も妙で、最も勝れているのでしょうか？」

傷歌邏摩納語曰：「阿難！沙門瞿曇及阿難，我俱恭敬、尊重、奉祠。」

> 傷歌邏摩納は言いました。「阿難よ、沙門瞿曇と阿難、私は共に敬い、尊重し、奉仕いたします。」

尊者阿難復語曰：「摩納！我不問汝恭敬、尊重、奉祠誰；我但問汝此二道跡，何者最上、最妙、最勝耶？」

> 尊者アーナンダは再び言われました。「若者よ、私はあなたが誰を敬い、尊重し、祀っているかを尋ねているのではありません。ただ、この二つの道のうち、どちらが最も優れ、最も素晴らしく、最も勝れているのかを問うているのです。」

尊者阿難至再三問曰：「摩納！此二道跡，何者最上、最妙、最勝耶？」

> 尊者アーナンダは、何度も尋ねました。「若者よ、この二つの道のうち、どちらが最も優れ、最も妙であり、最も勝れているのでしょうか？」

傷歌邏摩納亦再三語曰：「阿難！沙門瞿曇及阿難，我俱恭敬、尊重、奉祠。」

> 傷歌邏摩納は再び繰り返し言いました。「阿難よ、沙門瞿曇と阿難の両方に、私は深く敬意を払い、尊重し、お仕え申し上げます。」

尊者阿難復語曰：「摩納！我不問汝恭敬、尊重、奉祠誰；我但問汝此二道跡，何者最上、最妙、最勝耶？」

> 尊者アーナンダは再び言われました。「若者よ、私はあなたが誰を敬い、尊重し、祀るかを尋ねているのではありません。ただ、この二つの道のうち、どちらが最も優れ、最も素晴らしく、最も勝れているかを問うているのです。」

於是，世尊便作是念：「此傷歌邏摩納為阿難所屈，我寧可救彼。」

> そこで、世尊はこうお考えになりました。「このチャンガーラ婆羅門は阿難に論破された。私は彼を救ってあげよう。」

世尊知已，告曰：「摩納！昔日王及群臣普集大會，共論何事？以何事故共集會耶？」

> 世尊はこれを知り、告げられました。「若者よ、昔、王と家臣たちが一堂に会して、いかなることを論じたのか。何のためにお集まりになったのか。」

傷歌邏摩納答曰：「瞿曇！昔日王及群臣普集大會，共論如此事：『何因何緣，昔沙門瞿曇施設少戒，然諸比丘多得道者？何因何緣，今沙門瞿曇施設多戒，然諸比丘少得道耶？』瞿曇！昔日王及群臣普集大會，共論此事，以此事故共集會耳。」

> 傷歌邏摩納は答えました。「ゴータマよ、かつて王と家臣たちが一堂に会し、このようなことを議論したのです。『なぜ昔、沙門ゴータマは戒律を少なく定めたのに、多くの比丘が悟りを得たのか？なぜ今、沙門ゴータマは戒律を多く定めたのに、比丘たちが悟りを得る者は少ないのか？』ゴータマよ、かつて王と家臣たちが一堂に会し、このことを論じたのです。この問題について話し合うために、彼らは集まったのでした。」

爾時，世尊告曰：「摩納！我今問汝，隨所解答。於意云何？若使有一沙門梵志自行如是道、如是跡，行此道、行此跡已，諸漏已盡，得無漏，心解脫、慧解脫，自知自覺，自作證成就遊，生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。彼為他說，我自行如是道、如是跡，行此道、行此跡已，諸漏已盡，得無漏，心解脫、慧解脫，自知自覺，自作證成就遊，生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。汝等共來亦自行如是道、如是跡，行此道、行此跡已，諸漏已盡，得無漏，心解脫、慧解脫，自知自覺，自作證成就遊，生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。彼亦自行如是道、如是跡，行此道、行此跡已，諸漏已盡，得無漏，心解脫、慧解脫，自知自覺，自作證成就遊，生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。彼為他說，他為他說，如是展轉無量百千。於摩納意云何？我弟子隨族剃除鬚髮，著袈裟衣，至信、捨家、無家、學道，行一福跡，不行無量福跡，因學道故耶？」

> その時、世尊はおっしゃいました。「若者よ、私は今あなたに尋ねます。どうぞ思うままにお答えください。あなたはどう思いますか？もしある修行者やバラモンが、ある道を歩み、ある行いを実践し、その道を歩み、その行いを実践した結果、すべての煩悩が尽き、煩悩のない境地を得て、心が解き放たれ、智慧が解き放たれ、自ら知り自ら覚り、自ら証得して自在に生き、生の輪廻は終わり、清らかな行いは確立され、なすべきことは成し遂げられ、もはや再び存在を受けることがなく、真実のままに知る。その人が他の人にこう説きます。『私もこのような道を歩み、このような行いを実践し、その結果、すべての煩悩が尽き、煩悩のない境地を得て、心が解き放たれ、智慧が解き放たれ、自ら知り自ら覚り、自ら証得して自在に生き、生の輪廻は終わり、清らかな行いは確立され、なすべきことは成し遂げられ、もはや再び存在を受けることがなく、真実のままに知るのです。あなた方も共に、このような道を歩み、このような行いを実践し、その結果、すべての煩悩が尽き、煩悩のない境地を得て、心が解き放たれ、智慧が解き放たれ、自ら知り自ら覚り、自ら証得して自在に生き、生の輪廻は終わり、清らかな行いは確立され、なすべきことは成し遂げられ、もはや再び存在を受けることがなく、真実のままに知るのです。』その人もまた自らその道を歩み、その行いを実践し、その結果、すべての煩悩が尽き、煩悩のない境地を得て、心が解き放たれ、智慧が解き放たれ、自ら知り自ら覚り、自ら証得して自在に生き、生の輪廻は終わり、清らかな行いは確立され、なすべきことは成し遂げられ、もはや再び存在を受けることがなく、真実のままに知る。その人が他の人に説き、他の人もまた別の人に説き、こうして次々と無量百千の人々に広がっていくのです。若者よ、あなたはどう思いますか？私の弟子たちは、家を離れ、髪を剃り、袈裟をまとい、深く信じて出家し、家庭を捨てて無家となり、道を学ぶ者として、一つの福の道を歩むだけで、無量の福の道を歩まず、ただ学道のゆえにそうなるのでしょうか？」

傷歌邏摩納答曰：「瞿曇！如我解沙門瞿曇所說義，彼沙門瞿曇弟子隨族剃除鬚髮，著袈裟衣，至信、捨家、無家、學道、行無量福跡，不行一福跡，因學道故。」

> 傷歌邏摩納は答えました。「ゴータマよ、私が理解する限り、沙門ゴータマが説かれた意味によれば、その沙門ゴータマの弟子たちは、家系を捨て、髪とひげを剃り、袈裟をまとい、深い信仰をもって家を離れ、家を持たず、道を学び、無量の福の道を歩み、一つの福の道に留まることなく、道を学ぶことによってそうなるのです。」

世尊復告傷歌邏曰：「有三示現：如意足示現、占念示現、教訓示現。摩納！云何如意足示現？有一沙門梵志，有大如意足，有大威德，有大福祐，有大威神，於如意足心得自在，行無量如意足之功德，謂分一為眾，合眾為一，一則住一，有知有見，不礙石壁，猶如行空。沒地如水，履水如地，結加趺坐，上昇虛空，猶如鳥翔。今此日月有大如意足，有大威德，有大福祐，有大威神，以手捫摸，身至梵天。摩納！是謂如意足示現。

> 世尊は再び傷歌邏に告げられた。「三つの示現がある。如意足の示現、占念の示現、教訓の示現である。摩納よ、如意足の示現とは何か。ある沙門や梵志は、大いなる如意足を持ち、大いなる威徳と福祐と威神を備え、如意足の心を自在に得て、無量の如意足の功徳を行じる。すなわち、一を分けて衆とし、衆を合わせて一とし、一は一に住し、知見を有し、石壁を障げず、あたかも虚空を行くがごとくである。地に没して水のごとく、水を歩んで地のごとく、結跏趺坐して虚空に上昇し、鳥の翔けるがごとし。今この日月も大いなる如意足を持ち、大いなる威徳と福祐と威神を備え、手で触れ、身をもって梵天に至る。摩納よ、これを如意足の示現という。」

「摩納！云何占念示現？有一沙門梵志，以他相占他意，有是意、如是意、實有是意，無量占不少占，彼一切真諦而無有虛設。不以他相占他意者，但以聞天聲及非人聲而占他意，有是意、如是意、實有是意，無量占不少占，彼一切真諦而無有虛設。不以他相占他意，亦不聞天聲及非人聲占他意者，但以他念、他思、他說，聞聲已，占他意，有是意、如是意、實有是意，無量占不少占，彼一切真諦而無有虛設。不以他相占他意，亦不以聞天聲及非人聲占他意，亦不以他念、他思、他說，聞聲已占他意者，但以見他入無覺無觀定，見已，作是念：『如此賢者不念不思，如意所願。』彼賢者從此定寤，如是念。彼從此定寤即如是如是念，彼亦占過去，亦占未來，亦占現在，久所作、久所說，亦占安靜處、住安靜處，亦占至心、心所有法。摩納！是謂占念示現。

> マーナよ、何が「占念示現」であるか。 ある沙門や梵志が、他者の様子から他者の心を占うことがある。このような心、かくのごとき心、まさにこのような心があると、無量に占い、少しも欠けることなく、そのすべてが真実であって虚妄ではない。 他者の様子から他者の心を占わず、ただ天の声や非人の声を聞いて他者の心を占うことがある。このような心、かくのごとき心、まさにこのような心があると、無量に占い、少しも欠けることなく、そのすべてが真実であって虚妄ではない。 他者の様子から他者の心を占わず、また天の声や非人の声を聞いて他者の心を占わず、ただ他者の念い、他者の思い、他者の言葉を、声を聞いて他者の心を占うことがある。このような心、かくのごとき心、まさにこのような心があると、無量に占い、少しも欠けることなく、そのすべてが真実であって虚妄ではない。 他者の様子から他者の心を占わず、また天の声や非人の声を聞いて他者の心を占わず、また他者の念い、他者の思い、他者の言葉を、声を聞いて他者の心を占わず、ただ他者が無覚無観の定に入るのを見て、見た後にこのように思うことがある。『この賢者は念わず、思わず、意のままに願うところである』と。その賢者はこの定から覚め、かくのごとくに念う。彼がこの定から覚めて即ちかくのごとくかくのごとくに念うのである。彼はまた過去を占い、また未来を占い、また現在を占い、久しく行ったこと、久しく語ったことをも占い、また安静な処を占い、安静な処に住することをも占い、また心に至り、心の所有する法をも占うのである。 マーナよ、これを「占念示現」というのである。

「摩納！云何教訓示現？有一沙門梵志自行如是道、如是跡，行此道、行此跡已，諸漏已盡，得無漏，心解脫、慧解脫，自知自覺，自作證成就遊，生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。彼為他說：『我自行如是道、如是跡，行此道、行此跡已，諸漏已盡，得無漏，心解脫、慧解脫，自知自覺，自作證成就遊，生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。汝等共來，亦自行如是道、如是跡，行此道、行此跡已，諸漏已盡，得無漏，心解脫、慧解脫，自知自覺，自作證成就遊，生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。』彼亦自行如是道、如是跡，行此道、行此跡已，諸漏已盡，得無漏心解脫、慧解脫，自知自覺，自作證成就遊，生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。彼為他說，他為他說，如是展轉無量百千。摩納！是謂教訓示現。此三示現，何者示現最上、最妙、最勝耶？」

> マーナよ。どのようなものが「教え導き、示し現わす」ことでしょうか。 ある修行者やバラモンが、ある方法、ある道筋を自ら実践し、その方法、その道筋を歩んだ結果、すべての煩悩が尽き、煩悩のない境地を得て、心と智慧が解き放たれ、自ら知り自ら覚り、自ら証得して安らぎに住み、もはや生まれ変わることがなく、清らかな行いが確立し、なすべきことが成し遂げられ、再び存在を受けることがなく、あるがままに知るのです。 彼は他の人々にこう説きます。「私はある方法、ある道筋を自ら実践し、その方法、その道筋を歩んだ結果、すべての煩悩が尽き、煩悩のない境地を得て、心と智慧が解き放たれ、自ら知り自ら覚り、自ら証得して安らぎに住み、もはや生まれ変わることがなく、清らかな行いが確立し、なすべきことが成し遂げられ、再び存在を受けることがなく、あるがままに知るのです。 あなた方も共に、同じ方法、同じ道筋を自ら実践し、その方法、その道筋を歩んだなら、すべての煩悩が尽き、煩悩のない境地を得て、心と智慧が解き放たれ、自ら知り自ら覚り、自ら証得して安らぎに住み、もはや生まれ変わることがなく、清らかな行いが確立し、なすべきことが成し遂げられ、再び存在を受けることがなく、あるがままに知るでしょう。」 彼もまた、その方法、その道筋を自ら実践し、その方法、その道筋を歩んだ結果、すべての煩悩が尽き、煩悩のない境地を得て、心と智慧が解き放たれ、自ら知り自ら覚り、自ら証得して安らぎに住み、もはや生まれ変わることがなく、清らかな行いが確立し、なすべきことが成し遂げられ、再び存在を受けることがなく、あるがままに知るのです。 彼が他の人に説き、その人がまた他の人に説く、こうして限りなく多くの人々に広がっていくのです。 マーナよ。これを「教え導き、示し現わす」と言います。 この三つの示現の中で、どの示現が最も優れ、最も妙であり、最も勝れているでしょうか。

傷歌邏摩納答曰：「瞿曇！若有沙門、梵志有大如意足，有大威德，有大福祐，有大威神，於如意足心得自在，乃及身至梵天者，瞿曇！此自作自有，自受其報。瞿曇！於諸示現，此示現大法。瞿曇！若有沙門、梵志以他相占他意，乃至占心、心所有法者。瞿曇！此亦自作自有，自受其報。瞿曇！於諸示現，此亦示現大法。瞿曇！若有沙門、梵志自行如是道、如是跡，行此道、行此跡已，諸漏已盡，得無漏，心解脫、慧解脫，自知自覺，自作證成就遊，生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。彼為他說，他為他說，如是展轉無量百千者。瞿曇！於三示現，此示現最上、最妙、最勝。」

> 傷歌邏摩納は答えて言いました。「ゴータマよ、もし沙門や梵志が大いなる如意足を持ち、大いなる威徳と福祐と威神を備え、如意足において心自在を得て、ついには身をもって梵天に至る者がいるならば、ゴータマよ、これは自らが作り、自らが持ち、自らがその報いを受けるのです。ゴータマよ、様々な示現の中でも、これは大いなる法の示現です。ゴータマよ、もし沙門や梵志が他者の相をもって他者の意を占い、さらには心や心に伴う法を占う者がいるならば、ゴータマよ、これもまた自らが作り、自らが持ち、自らがその報いを受けるのです。ゴータマよ、様々な示現の中でも、これもまた大いなる法の示現です。ゴータマよ、もし沙門や梵志が自らこのような道を歩み、このような跡をたどり、この道を歩み、この跡をたどって、すべての煩悩が尽き、無漏を得て、心が解き放たれ、智慧が解き放たれ、自ら知り自ら覚り、自ら証し成就して遊行し、生は尽き、清らかな行いは確立し、なすべきことは成し遂げられ、もはや存在を受けることなく、真実のままに知る者があるならば。彼が他者に説き、その他者がまた他者に説き、このように転々と無量百千に広がっていくならば、ゴータマよ、三つの示現の中でも、この示現は最も優れ、最も妙であり、最も勝れているのです。」

世尊復問傷歌邏曰：「於三示現，稱歎何示現？」

> 世尊は再び傷歌邏に問われました。「三つの示現の中で、どの示現を称賛しますか？」

傷歌邏摩納答曰：「瞿曇！於三示現，我稱說沙門瞿曇。所以者何？沙門瞿曇有大如意足，有大威德，有大福祐，有大威神，心得自在，乃及身至梵天；沙門瞿曇以他相占他意，乃至占心、心所有法；沙門瞿曇示現如是道、如是跡，行此道、行此跡已，諸漏已盡，得無漏，心解脫、慧解脫，自知自覺，自作證成就遊，生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。沙門瞿曇為他說，他為他說，如是展轉無量百千。瞿曇！是故於三示現，我稱歎沙門瞿曇！」

> 傷歌邏摩納は答えて言いました。「ゴータマよ、三つの示現について、私は沙門ゴータマを称え申し上げます。なぜならば、沙門ゴータマは大いなる如意足を持ち、大いなる威徳を持ち、大いなる福祐を持ち、大いなる威神を持ち、心は自在を得て、ついには身体をもって梵天に至ることができるからです。沙門ゴータマは他者の相をもって他者の意を占い、さらには心や心に伴う法までも占うことができます。沙門ゴータマはこのような道、このような跡を示現し、この道を歩み、この跡を行じた後、すべての漏れは尽き、無漏を得て、心の解脱と慧の解脱を成し遂げ、自ら知り自ら覚り、自ら証し成就して遊行し、生は尽き、梵行は立ち、なすべきことは為し終え、もはや再び有を受けることなく、真実のごとく知るからです。沙門ゴータマは他者に説き、他者はまた他者に説き、このように展転して無量百千に及びます。ゴータマよ、このゆえに三つの示現について、私は沙門ゴータマを称歎するのです！」

於是，世尊告曰：「摩納！汝善達此論。所以者何？我有大如意足，有大威德，有大福祐，有大威神，於如意足心得自在，乃及身至梵天。摩納！我以他相占他意，乃至占心、心所有法。摩納！我自行如是道、如是跡，行此道、行此跡已，諸漏已盡，得無漏，心解脫、慧解脫，自知自覺，自作證成就遊，生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。我為他說，他為他說，如是展轉無量百千。摩納！是故汝善達此論，汝當如是善受善持。所以者何？此所說義，應當如是。」

> そこで、世尊はおっしゃいました。「若者よ、あなたはこの教えをよく理解している。なぜなら、私は偉大な如意足（神通力）を持ち、大いなる威徳と福祐、大いなる威神を備え、如意足において心自在を得て、ついにはこの身をもって梵天に至ることができるからです。若者よ、私は他者の様子からその心を推し量り、心や心の働きまでも見通すことができます。若者よ、私はこのような道を歩み、このような跡をたどり、この道と跡を歩んだ結果、すべての煩悩は尽き、無漏の境地を得ました。心は解き放たれ、智慧は解き放たれ、自ら知り自ら覚り、自ら証を得て自在に遊びます。生は尽き、清らかな行いは確立し、なすべきことは成し遂げられ、再び存在を受けることはなく、真実のままに知っています。私はこれを人々に説き、人々はまた他の人々に説きます。こうして教えは無量の衆生に広がっていくのです。若者よ、だからこそあなたはこの教えをよく理解しているのです。あなたはこのように善く受け取り、善く保ちなさい。なぜなら、この説かれた意味は、まさにこのように受け取るべきものだからです。」

於是，傷歌邏摩納白曰：「世尊！我已知。善逝！我已解。世尊！我今自歸於佛、法及比丘眾，唯願世尊受我為優婆塞，從今日始，終身自歸，乃至命盡。」

> そこで、傷歌邏摩納は申し上げました。「世尊よ、私はすでに知りました。善逝よ、私はすでに理解しました。世尊よ、私は今、仏と法と比丘衆に帰依いたします。どうか世尊が私を優婆塞としてお受け取りくださいますよう。今日より始めて、生涯にわたって自ら帰依し、命尽きるまで続けます。」

佛說如是。傷歌邏摩納、尊者阿難及諸比丘，聞佛所說，歡喜奉行。

> このように仏は説かれました。傷歌邏摩納、尊者阿難、および諸々の比丘たちは、仏の説かれたことを聞き、喜びをもって受け入れ、実践しました。

傷歌邏經第二竟二千二百五十二字

> 傷歌邏経 第二巻 終わり<note>二千二百五十二字</note>