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title: "中阿含經 · 162 分別六界經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
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### （一六二）中阿含根本分別品分別六界經第一

> （一六二）中阿含根本分別品分別六界經第一

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊摩竭陀國，往詣王舍城宿。於是，世尊往至陶家，語曰：「陶師！我今欲寄陶屋一宿，汝見聽耶？」

> ある時、お釈迦様はマガダ国を旅しておられ、王舎城へと向かわれました。そして、ある陶芸家の家に立ち寄り、こう仰いました。 「陶芸師よ、私は今夜、陶器作りの小屋をお借りしたい。あなたは許可してくれるだろうか？」

陶師答曰：「我無所違。然有一比丘先已住中，若彼聽者，欲住隨意。」

> 陶師が答えて言った。「私はあなたが留まるのに何の異存もありません。しかし、すでに一人の比丘がここに住んでいます。もしその方がお許しになれば、お好きなようにお過ごしください。」

爾時，尊者弗迦邏娑利先已在彼住陶屋中。於是，世尊出陶師家入彼陶屋，語尊者弗迦邏娑利曰：「比丘！我今欲寄陶屋一宿，汝見聽耶？」

> その時、尊者フガラショーリはすでにその陶器小屋に住んでいました。 そこで、世尊は陶工の家を出て、その陶器小屋に入り、尊者フガラショーリにこう言いました。 「比丘よ、私は今夜、この陶器小屋に一晩泊まりたいのですが、あなたはお許しくださいますか？」

尊者弗迦邏娑利答曰：「君！我無所違。且此陶屋草座已敷，君欲住者，自可隨意。」

> 尊師フガラシャリが答えて言いました。「あなた様、私は決して背くことはありません。さて、この陶器の小屋には草の座席がすでに敷かれております。あなた様がお泊まりになりたいのであれば、ご自由にお過ごしください。」

爾時，世尊從彼陶屋出外洗足訖，還入內，於草座上敷尼師檀，結跏趺坐，竟夜默然靖坐定意，尊者弗迦邏娑利亦竟夜默然靖坐定意。彼時，世尊而作是念：「此比丘住止寂靖，甚奇！甚特！我今寧可問彼比丘：『汝師是誰？依誰出家學道受法？』」

> その時、世尊は陶工の小屋から出て、足を洗い終えて再び中に入った。草の上に座布団を敷き、結跏趺坐（両足を組む坐法）をして、一晩中静かに瞑想に集中しておられた。尊者フガラ･ソーリ（弗迦邏娑利）もまた、一晩中静かに瞑想に集中していた。その時、世尊はこう考えられた。「この比丘は、実に静かに落ち着いて過ごしている。何と素晴らしく、何と特別なことだろう。私はこの比丘に尋ねてみよう。『あなたの師は誰か。誰に従って出家し、教えを学び、法を受けたのか』と。」

世尊念已，問曰：「比丘！汝師是誰？依誰出家學道受法？」

> 世尊はそうお思いになり、お尋ねになりました。「比丘よ、あなたの師は誰か。誰に依って出家し、教えを学び、法を受けたのか。」

尊者弗迦邏娑利答曰：「賢者！有沙門瞿曇釋種子，捨釋宗族，剃除鬚髮，著袈裟衣，至信、捨家、無家、學道，覺無上正盡覺，彼是我師，依彼出家學道受法。」

> 尊者フガラサリが答えました。「賢者よ、沙門ゴータマという方がおられます。釈迦族の出身ですが、一族を離れ、髪やひげを剃り、袈裟衣をまとい、深い信仰心から家を捨て、家なき者として修行し、無上の正しい悟りを開かれました。その方が私の師であり、私はそのもとで出家し、教えを学んでおります。」

世尊即復問曰：「比丘！曾見師耶？」

> 世尊がさらに尋ねられました。「比丘よ、あなたは師に会ったことがありますか？」

尊者弗迦邏娑利答曰：「不見。」

> 尊者フガラシャリがお答えになりました。「見えません。」

世尊問曰：「若見師者，為識不耶？」

> 世尊がお尋ねになりました。「もし師を見たら、あなたはその人だとわかるか？」

尊者弗迦邏娑利答曰：「不識。然，賢者！我聞世尊、如來、無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐，彼是我師，依彼出家學道受法。」

> 尊者フガラシャリが答えて言った。「いいえ、わかりません。しかし、賢者よ、私は世尊・如来・無所著・等正覚・明行成就・善逝・世間解・無上士・道法御・天人師、号して仏・衆祐と呼ばれるお方を聞いています。その方が私の師であり、その方に依って出家し、道を学び、法を受けています。」

彼時，世尊復作是念：「此族姓子依我出家學道受法，我今寧可為說法耶？」

> その時、世尊はこうお考えになりました。「この家柄の若者は、私のもとで出家し、教えを学び、法を受けている。今こそ、彼のために説法をしようか。」

世尊念已，語尊者弗迦邏娑利曰：「比丘！我為汝說法，初善、中善、竟亦善，有義有文，具足清淨，顯現梵行，謂分別六界，汝當諦聽，善思念之。」

> 世尊はそう思われて、尊者フガラサリに告げられた。「比丘よ、私はあなたに法を説こう。初めも善く、中も善く、終わりも善い。意味を備え、言葉を備え、清らかに完全で、清らかな行い（梵行）を明らかに示すものである。それは六つの要素（六界）を分別することである。あなたはよく聴き、よく考えなさい。」

尊者弗迦邏娑利答曰：「唯然。」

> 長老フガラシャリが答えた。「はい、その通りです。」

佛告彼曰：「比丘！人有六界聚、六觸處、十八意行、四住處。若有住彼，不聞憂慼事，不聞憂慼事已，意便不憎、不憂、不勞，亦不恐怖。如是有教，不放逸慧，守護真諦，長養惠施。比丘！當學最上，當學至寂，分別六界。如是，比丘！人有六界聚，此說何因？謂地界、水界、火界、風界、空界、識界。比丘！人有六界聚者，因此故說。

> 仏は彼に告げた。「比丘よ、人には六つの要素の集まり、六つの触れる場所、十八の心の働き、四つの心の住まいがある。もしそれらに安住するならば、憂いや苦しみのことを聞かず、それを聞かないゆえに、心は憎まず、憂えず、疲れず、また恐れることもない。このように教えがあり、怠りなく智慧を保ち、真実を守り、施しを育てるのだ。比丘よ、最も優れたものを学び、最も静かなものへと至り、六つの要素を分別せよ。このように、比丘よ、人には六つの要素の集まりがあるとは、何を因として説くのか。すなわち、地の要素、水の要素、火の要素、風の要素、空の要素、識の要素である。比丘よ、人には六つの要素の集まりがあるとは、このゆえに説かれたのである。」

「比丘！人有六觸處，此說何因？謂比丘眼觸見色，耳觸聞聲，鼻觸嗅香，舌觸嘗味，身觸覺觸，意觸知法。比丘！人有六觸處者，因此故說。比丘！人有十八意行，此說何因？謂比丘眼見色，觀色喜住，觀色憂住，觀色捨住，如是耳、鼻、舌、身，意知法，觀法喜住，觀法憂住，觀法捨住。比丘！此六喜觀、六憂觀、六捨觀，合已十八行。比丘！人有十八意行者，因此故說。

> 比丘よ、人には六つの触れる場所（六触処）がある。これは何を意味してそう言うのか。すなわち、比丘が眼で色を見て触れ、耳で音を聞いて触れ、鼻で香りを嗅いで触れ、舌で味を嘗めて触れ、身で触れることを感じ、意で法を知って触れることである。比丘よ、人に六つの触れる場所があるとは、この理由によってそう説かれるのである。 比丘よ、人には十八の心の働き（十八意行）がある。これは何を意味してそう言うのか。すなわち、比丘が眼で色を見て、その色に対して喜びの心でとどまり、憂いの心でとどまり、捨て置く心でとどまる。同様に、耳・鼻・舌・身、そして意で法を知り、その法に対して喜びの心でとどまり、憂いの心でとどまり、捨て置く心でとどまる。比丘よ、この六つの喜びの観察、六つの憂いの観察、六つの捨て置きの観察を合わせると、十八の働きとなる。比丘よ、人に十八の心の働きがあるとは、この理由によってそう説かれるのである。

「比丘！人有四住處，此說何因？謂真諦住處、慧住處、施住處、息住處。比丘！人有四住處者，因此故說。云何比丘不放逸慧？若有比丘分別身界，今我此身有內地界而受於生，此為云何？謂髮、毛、爪、齒、麤細膚、皮、肉、骨、筋、腎、心、肝、肺、脾、大腸、𦝩、糞。如斯之比，此身中餘在內，內所攝堅，堅性住內，於生所受，是謂比丘內地界也。比丘！若有內地界及外地界者，彼一切總說地界，彼一切非我有，我非彼有，亦非神也。如是慧觀，知其如真，心不染著於此地界，是謂比丘不放逸慧。

> 比丘よ、人には四つの住処がある。これは何を意味するかというと、真実の住処、智慧の住処、施しの住処、静まりの住処である。比丘よ、人が四つの住処を持つとは、この理由から説かれるのである。 では、比丘が怠らない智慧とは何か。もし比丘が身体の領域を分別して、「今この私の身体には内的な地の要素があり、それによって生を受けている。これは何かと言えば、髪、毛、爪、歯、粗い肌や細かい肌、皮、肉、骨、筋、腎臓、心臓、肝臓、肺、脾臓、大腸、胃、糞である。このように、この身体の中にあり、内に属し、堅く、堅い性質が内にあり、生において受けたもの」と見るとき、これを比丘の内的な地の要素という。 比丘よ、もし内的な地の要素も外的な地の要素も、それらすべてを総じて地の要素と言う。それらは私のものではなく、私はそれらのものではなく、また永遠の自己でもない。このように智慧で観察し、それをあるがままに知り、心がこの地の要素に染まらないこと、これを比丘の怠らない智慧という。

「復次，比丘不放逸慧。若有比丘分別身界，今我此身有內水界而受於生，此為云何？謂腦膜、眼淚、汗、涕、唾、膿、血、肪、髓、涎、淡、小便，如斯之比，此身中餘在內，內所攝水，水性潤內，於生所受，是謂比丘內水界也。比丘！若有內水界及外水界者，彼一切總說水界，彼一切非我有，我非彼有，亦非神也。如是慧觀，知其如真，心不染著於此水界，是謂比丘不放逸慧。

> さらに、比丘たちよ、放逸しない智慧について語ろう。 比丘が身体の要素を分别して観察する。すなわち、「今、この私の身体には内なる水の要素が存在し、それによって生命が保たれている。それは何か。すなわち、脳膜、涙、汗、鼻水、唾、膿、血、脂肪、髄、よだれ、粘液、小便などである。このように、この身体の内部にあって、内に属する水の要素で、水の性質を持ち、内側に潤いを与え、生命に受け継がれているもの。これが比丘にとっての内なる水の要素である。 比丘よ！内なる水の要素も外なる水の要素も、それらすべてを総じて水の要素と呼ぶ。それらはすべて『私のもの』ではなく、私はそれらのものではない。また、それらは永遠の魂（神）でもない。このように智慧をもって観察し、あるがままに知り、この水の要素に対して心が執着しないこと。これが比丘の放逸しない智慧である。」

「復次，比丘不放逸慧。若有比丘分別此身界，今我此身有內火界而受於生，此為云何？謂熱身、暖身、煩悶身、溫莊身，謂消飲食，如斯之比，此身中餘在內，內所攝火，火性熱內，於生所受，是謂比丘內火界也。比丘！若有內火界及外火界者，彼一切總說火界，彼一切非我有，我非彼有，亦非神也。如是慧觀，知其如真，心不染著於此火界，是謂比丘不放逸慧。

> また、比丘たちよ、怠ることなく智慧を保つことについて説こう。 比丘がこの身体の領域を観察し、「今、この我が身には内なる火の領域があり、生命を維持している。それは何かといえば、身体を温めるもの、熱をもたらすもの、煩わしさを感じさせるもの、温かく満たすものであり、飲食物を消化するものなどである。このように、この身体の中にあり、内側に属する火で、熱の性質を持ち、生命において受け継がれるもの、これを比丘よ、内なる火の領域という。 比丘よ、もし内なる火の領域と外なる火の領域があるならば、それらすべてを総じて火の領域と呼ぶ。それらすべては『私のもの』ではなく、私はそれらのものではなく、それらも霊的なものではない。このように智慧をもって観察し、あるがままに知り、心がこの火の領域に染まりつかないこと、これを比丘よ、怠ることなく智慧を保つという。

「復次，比丘不放逸慧。若有比丘分別身界，今我此身有內風界而受於生，此為云何？謂上風、下風、脇風、掣縮風、蹴風、非道風、節節風、息出風、息入風。如斯之比，此身中餘在內，內所攝風，風性動內，於生所受，是謂比丘內風界也。比丘！若有內風界及外風界者，彼一切總說風界，彼一切非我有，我非彼有，亦非神也。如是慧觀，知其如真，心不染著於此風界，是謂比丘不放逸慧。

> 「さらに、比丘たちよ、怠らない智慧について語ろう。 比丘がこの身体の要素を分別して、『今、この私の身体には内なる風の要素があり、それによって生を受けている。それは何か。すなわち、上の風、下の風、脇の風、引き締める風、突き上げる風、正しくない道の風、節々の風、息を吐く風、息を吸う風である。このように、この身体の中にあり、内側に属し、風の性質として内側で動き、生において受け取られるもの――これが比丘にとっての内なる風の要素である』と観察する。 比丘よ、内なる風の要素も外なる風の要素も、それらすべてを総じて『風の要素』と呼ぶ。それらすべては『私のもの』ではなく、私はそれらのものではない。また、それらは霊的なもの（神我）でもない。 このように智慧をもって観察し、あるがままに知り、心がこの風の要素に執着しないこと――これが比丘の怠らない智慧である、と私は説く。」

「復次，比丘不放逸慧。若有比丘分別身界，今我此身有內空界而受於生，此為云何？謂眼空、耳空、鼻空、口空、咽喉動搖，謂食噉含消，安徐咽住，若下過出。如斯之比，此身中餘在內，內所攝空，在空不為肉、皮、骨、筋所覆，是謂比丘內空界也。比丘！若有內空界及外空界者，彼一切總說空界，彼一切非我有，我非彼有，亦非神也。如是慧觀，知其如真，心不染著於此空界，是謂比丘不放逸慧。

> 「さらに、比丘たちよ、怠ることのない智慧について語ろう。比丘が身体の要素を分別するとき、『この私の身体には、内なる空の要素があり、それによって生を受ける。それは何かというと、目の虚空、耳の虚空、鼻の虚空、口の虚空、喉の動き、食べ物を噛み砕き、呑み込み、ゆっくりと体内に通過させ、下から排出されるものがある。このように、この身体の中にあり、内側に属する虚空、すなわち肉、皮、骨、筋に覆われていない空の部分、これを比丘よ、内なる空の要素というのである。比丘よ！内なる空の要素も外なる空の要素も、それらすべてを総じて空の要素という。それらすべては『私のもの』ではなく、私はそれらのものではなく、また霊的な実体でもない。このように智慧をもって観察し、あるがままに知るとき、心はこの空の要素に執着しない。これを比丘の怠ることのない智慧というのである。」

「比丘！若有比丘於此五界知其如真，知如真已，心不染彼而解脫者，唯有餘識，此何等識？樂識、苦識、喜識、憂識、捨識。比丘！因樂更樂故生樂覺，彼覺樂覺，覺樂覺已，即知覺樂覺。若有比丘滅此樂更樂，滅此樂更樂已，若有從樂更樂生樂覺者，彼亦滅息止，知已冷也。比丘！因苦更樂故生苦覺，彼覺苦覺，覺苦覺已，即知覺苦覺。若有比丘滅此苦更樂，滅此苦更樂已，若有從苦更樂生苦覺者，彼亦滅息止，知已冷也。比丘！因喜更樂故生喜覺，彼覺喜覺，覺喜覺已，即知覺喜覺。若有比丘滅此喜更樂，滅此喜更樂已，若有從喜更樂生喜覺者，彼亦滅息止，知已冷也。

> 比丘たちよ。もし比丘が、この五つの領域（五界）をあるがままに知り、あるがままに知ったならば、心はそれらに染まらず解脱する。ただ識だけが残る。その識とは何か？楽の識、苦の識、喜びの識、憂いの識、捨て置く識である。 比丘たちよ。楽の感覚（楽更楽）に基づいて楽の感情（楽覚）が生じる。その者はその楽の感情を感じ、楽の感情を感じたならば、すぐに楽の感情を感じていると知る。もし比丘がこの楽の感覚を滅ぼし、楽の感覚が滅びたならば、もはや楽の感覚から楽の感情が生じることはない。それもまた滅び、静まり、冷めたと知る。 比丘たちよ。苦の感覚に基づいて苦の感情が生じる。その者はその苦の感情を感じ、苦の感情を感じたならば、すぐに苦の感情を感じていると知る。もし比丘がこの苦の感覚を滅ぼし、苦の感覚が滅びたならば、もはや苦の感覚から苦の感情が生じることはない。それもまた滅び、静まり、冷めたと知る。 比丘たちよ。喜びの感覚に基づいて喜びの感情が生じる。その者はその喜びの感情を感じ、喜びの感情を感じたならば、すぐに喜びの感情を感じていると知る。もし比丘がこの喜びの感覚を滅ぼし、喜びの感覚が滅びたならば、もはや喜びの感覚から喜びの感情が生じることはない。それもまた滅び、静まり、冷めたと知る。

「比丘！因憂更樂故生憂覺，彼覺憂覺，覺憂覺已，即知覺憂覺。若有比丘滅此憂更樂，滅此憂更樂已，若有從憂更樂生憂覺者，彼亦滅息止，知已冷也。比丘！因捨更樂故生捨覺，彼覺捨覺，覺捨覺已，即知覺捨覺。若有比丘滅此捨更樂，滅此捨更樂已，若有從捨更樂生捨覺者，彼亦滅息止，知已冷也。比丘！彼彼更樂故生彼彼覺，滅彼彼更樂已，彼彼覺亦滅，彼知此覺從更樂，更樂本，更樂習，從更樂生，以更樂為首，依更樂行。

> 比丘たちよ、苦しみの感覚によって苦しみの認識が生じる。その認識を認識したならば、「これは苦しみの認識である」と知る。もし比丘がこの苦しみの感覚を滅ぼし、滅ぼしたならば、その苦しみの感覚から生じる苦しみの認識もまた消え去り、静まり、冷めたと知る。 比丘たちよ、捨てる感覚によって捨てる認識が生じる。その認識を認識したならば、「これは捨てる認識である」と知る。もし比丘がこの捨てる感覚を滅ぼし、滅ぼしたならば、その捨てる感覚から生じる捨てる認識もまた消え去り、静まり、冷めたと知る。 比丘たちよ、それぞれの感覚によってそれぞれの認識が生じる。その感覚が滅びれば、その認識もまた滅びる。彼はこう知る——「この認識は感覚から生じ、感覚を根源とし、感覚によって集まり、感覚から生まれ、感覚を拠り所とし、感覚に従って行われる」と。

「比丘！猶如火母，因鑽及人方便熱相故，而生火也。比丘！彼彼眾多林木相離分散，若從彼生火，火數熱於生數受，彼都滅止息，則冷樵木也。如是，比丘！彼彼更樂故生彼彼覺，滅彼彼更樂故彼彼覺亦滅，彼知此覺從更樂，更樂本，更樂習，從更樂生，以更樂為首，依更樂行。若比丘不染此三覺而解脫者，彼比丘唯存於捨，極清淨也。比丘！彼比丘作是念：『我此清淨捨，移入無量空處，修如是心，依彼、住彼、立彼、緣彼、繫縛於彼。我此清淨捨，移入無量識處、無所有處、非有想非無想處，修如是心，依彼、住彼、立彼、緣彼、繫縛於彼。』

> 比丘たちよ、火はその母なるものに依存して存在します。つまり、火打ち道具と人の努力という熱の因によって、火が生じるのです。比丘たちよ、さまざまな種類の木材は互いに離れて存在しています。もしそれらの木材から火が生じたとしても、その火は（特定の）木材に由来する熱を持ち、その木材に依存して燃え続けます。そして、その火が完全に消え去って止むならば、それは冷えた薪に過ぎません。 まったく同じように、比丘たちよ、様々な接触（触）があるからこそ、様々な感覚（受）が生じます。その接触が滅びれば、それに伴う感覚もまた滅びます。彼（修行者）は、この感覚は接触から生じ、接触を根源とし、接触を習い、接触から発生し、接触を最も重要とし、接触に従って存在することを知っています。 もし比丘が、これら三つの感覚（苦・楽・不苦不楽）に染まらず、解脱したならば、その比丘には清らかな捨（平等心）だけが残ります。比丘たちよ、その比丘はこう思うかもしれません。「私はこの清らかな捨を、無量空処へと移し、そのように心を修め、それに依り、それに住し、それに立ち、それに縁し、それに縛られている。私はこの清らかな捨を、無量識処、無所有処、非想非非想処へと移し、そのように心を修め、それに依り、それに住し、それに立ち、それに縁し、それに縛られている。」と。

「比丘！猶工煉金上妙之師，以火燒金，鍛令極薄，又以火燷，數數足火熟煉令淨，極使柔軟而有光明。比丘！此金者，於金師以數數足火熟煉令淨，極使柔軟而有光明已，彼金師者，隨所施設，或縺繒綵，嚴飾新衣，指鐶、臂釧、瓔珞、寶鬘，隨意所作。如是，比丘！彼比丘作是念：『我此清淨捨移入無量空處，修如是心，依彼、住彼、立彼、緣彼、繫縛於彼。我此清淨捨移入無量識處、無所有處、非有想非無想處，修如是心，依彼、住彼、立彼、緣彼、繫縛於彼。』

> 比丘たちよ。それはあたかも、すぐれた金細工の名人が、火で金を焼き、叩いて極限まで薄くのばし、また火に入れては幾度も幾度も加熱して精錬し、極めて柔らかく光り輝くものにするようなものです。そして、その金が幾度も加熱されて清められ、極めて柔らかく光り輝くようになったなら、金細工師はその金を使って思いのままに、あるいは糸で編んだ飾り布や、新しい衣の飾り、指輪、腕輪、首飾り、宝の花飾りなど、望むものを作り出します。 それと同じように、比丘たちよ。修行者（比丘）はこう考えます。『この清らかな心の捨（シャラ）の状態を、無限の虚空の領域へと移し入れよう。そのような心を修めて、それに依り、それに住し、それに立ち、それに縁り、それに結びつこう。』また、『この清らかな心の捨の状態を、無限の識別の領域へ、何もない領域へ、あるのでもなくないのでもあるまいという領域へと移し入れよう。そのような心を修めて、それに依り、それに住し、それに立ち、それに縁り、それに結びつこう。』と。

「彼比丘復作是念：『我此清淨捨，依無量空處者，故是有為。若有為者，則是無常，若無常者，即是苦也。若是苦者，便知苦，知苦已，彼此捨不復移入無量空處。我此清淨捨，依無量識處、無所有處、非有想非無想處者，故是有為。若有為者，則是無常，若無常者，即是苦也。若是苦者，便知苦，知苦已，彼此捨不復移入無量識處、無所有處、非有想非無想處。』比丘！若有比丘於此四處以慧觀之，知其如真，心不成就，不移入者。彼於爾時不復有為，亦無所思，謂有及無，彼受身最後覺，則知受身最後覺，受命最後覺，則知受命最後覺，身壞命終，壽命已訖，彼所覺一切滅息止，知至冷也。

> その比丘はまたこう考えました。 「この清らかな心の捨て方は、無量空処（むりょうくうしょ）に依っている。だから、それは作為（つくられたもの）である。作為あるものは、無常である。無常であるものは、苦である。苦であるならば、それを苦であると知る。苦であると知れば、この捨て方はもはや無量空処に入ることはない。 この清らかな心の捨て方は、無量識処（むりょうしきしょ）、無所有処（むしょゆうしょ）、非有想非無想処（ひうそうひむそうしょ）に依っている。だから、それらも作為である。作為あるものは、無常である。無常であるものは、苦である。苦であるならば、それを苦であると知る。苦であると知れば、この捨て方はもはや無量識処、無所有処、非有想非無想処に入ることはない。」 比丘たちよ、もし比丘がこれら四つの場所を智慧によって観察し、あるがままに知り、心がそれらに執着せず、そこに入らないならば、そのとき彼にはもはや作為はなく、思うところもない。すなわち「有る」「無い」ということもない。彼は身体における最後の感覚を受け取り、それが身体における最後の感覚であると知る。命における最後の感覚を受け取り、それが命における最後の感覚であると知る。身体が壊れ、命が終わり、寿命が尽きるとき、彼が感じていたすべてのものは消え去り、静まり、冷え切った状態であると知る。

「比丘！譬如燃燈，因油因炷，彼若無人更增益油，亦不續炷，是為前已滅訖，後不相續，無所復受。如是，比丘！受身最後覺，則知受身最後覺，受命最後覺，則知受命最後覺，身壞命終，壽命已訖，彼所覺一切滅息止，知至冷也。比丘！是謂比丘第一正慧，謂至究竟滅訖，漏盡比丘成就於彼，成就第一正慧處。比丘！此解脫住真諦，得不移動，真諦者，謂如法也，妄言者，謂虛妄法。比丘！成就彼第一真諦處。

> 比丘たちよ、例えば灯火が油と灯芯によって燃えているとしよう。もし誰も新たに油を加えず、灯芯も継ぎ足さなければ、先に燃え尽きたものが消え去り、後から新たに燃え続けるものもなく、もはや何も受けることはない。 同じように、比丘たちよ、最後の身体の感覚を受けるとき、それが最後の身体の感覚であると知る。最後の生命の感覚を受けるとき、それが最後の生命の感覚であると知る。身体が壊れ、命が終わり、寿命が尽きるとき、感じていたすべてのものは消え去り、静まり、冷え切った状態にあると知るのである。 比丘たちよ、これこそが比丘の第一の正しい智慧である。すなわち、完全な消滅に至ることである。煩悩を滅ぼした比丘は、その境地に達し、第一の正しい智慧の境地に安住する。 比丘たちよ、この解脱は真実の上に留まり、決して動かない。真実とは、すなわち法のままであることである。虚偽の言葉とは、法則に反した虚ろなもののことである。 比丘たちよ、このようにして、彼は第一の真実の境地に達するのである。

「比丘！彼比丘施說施若本必有怨家，彼於爾時放捨、吐離、解脫、滅訖。比丘！是謂比丘第一正惠施，謂捨離一切世盡，無欲、滅、息、止，比丘成就於彼，成就第一惠施處。比丘！彼比丘心為欲、恚、癡所穢，不得解脫。比丘！此一切婬、怒、癡盡，無欲、滅、息、止，得第一息。比丘！成就彼者成就第一息處。

> 比丘よ、その比丘が施しを行い、もとより怨みを持つ者にも施しを説くならば、その時、彼は〔執着を〕捨て、吐き出し、解き放ち、滅ぼし尽くす。比丘よ、これこそが比丘の第一の正しい施しである。すなわち、一切の世間を捨て去り、尽き、欲なく、滅し、静まり、止まることである。比丘がそれを成就するならば、第一の施しの境地を成就する。比丘よ、その比丘の心は欲、怒り、愚かさに汚染され、解脱していない。比丘よ、この一切の婬、怒り、愚かさを尽くし、欲なく、滅し、静まり、止まることを、第一の平安と呼ぶ。比丘よ、それを成就する者は、第一の平安の境地を成就する。

「比丘！我者是自舉，我當有是亦自舉，我當非有非無是亦自舉，我當色有是亦自舉，我當無色有是亦自舉，我當非有色非無色是亦自舉，我當有想是亦自舉，我當無想是亦自舉，我當非有想非無想是亦自舉。是貢高、是憍慠、是放逸，比丘！若無此一切自舉、貢高、憍慠、放逸者，意謂之息。比丘！若意息者，便不憎、不憂、不勞、不怖。所以者何？彼比丘成就法故，不復有可說憎者。若不憎則不憂，不憂則不愁，不愁則不勞，不勞則不怖，因不怖便當般涅槃，生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。」

> 「比丘たちよ、『私は存在する』というのは自己執着である。『私は将来も存在するであろう』というのも自己執着である。『私は存在するのでもなく、存在しないのでもない』というのも自己執着である。『私は物質的な形態（色）を有する』というのも自己執着である。『私は物質的形態を持たない』というのも自己執着である。『私は物質的形態を持つのでもなく、持たないのでもない』というのも自己執着である。『私は想念（想）を有する』というのも自己執着である。『私は想念を持たない』というのも自己執着である。『私は想念を持つのでもなく、持たないのでもない』というのも自己執着である。 これらは、高ぶり、驕り、そして放逸である。比丘たちよ、もしこれらのあらゆる自己執着、高ぶり、驕り、放逸が存在しなければ、心は静けさを得る。比丘たちよ、心が静けさを得たならば、怒りもなく、憂いもなく、苦しみもなく、恐怖もなくなる。なぜなら、その比丘は真理を成就したのであり、もはや怒りの対象となるものがないからである。怒りがなければ憂いがなく、憂いがなければ悲しみがなく、悲しみがなければ苦しみがなく、苦しみがなければ恐怖がない。恐怖がないことによって、彼は完全なる涅槃に達する。すなわち、生は尽き、清らかな行いは完成し、為すべきことは為され、再び生存を受けることはないと、如実に知るのである。」

說此法已，尊者弗迦邏娑利遠塵離垢，諸法法眼生。於是，尊者弗迦邏娑利見法得法，覺白淨法，斷疑度惑，更無餘尊，不復由他，無有猶豫，已住果證，於世尊法得無所畏，即從坐起，稽首佛足，白曰：「世尊！我悔過。善逝！我自首。如愚如癡，如不定，如不善解，不識良田，不能自知。所以者何？以我稱如來、無所著、等正覺為君也。唯願世尊聽我悔過，我悔過已，後不更作。」

> この法が説かれたとき、尊者フガラシャリ（弗迦邏娑利）は塵や汚れを離れ、清らかな法の眼が開かれた。 そこで、尊者フガラシャリは法を見、法を得、清らかな法を覚り、疑いや迷いを断ち切り、もはや他の師を仰ぐことなく、他人に頼ることもなく、ためらいもなく、悟りの境地に安住し、世尊の教えにおいて何の恐れもない境地に達した。 彼はすぐに席を立ち、仏の足にひれ伏して申し上げた。 「世尊よ、私は過ちを認めます。善逝よ、私は告白します。まるで愚かで、愚か者のように、心が定まらず、よく理解できず、善い田んぼを見分けられず、自分のことをわきまえておりませんでした。なぜなら、私は如来（来るべきところに来られた方）・無所著（執着のない方）・等正覚（正しく悟られた方）であるあなた様を『君』と呼んでしまったからです。 どうか世尊よ、私の悔い改めをお聞き入れください。こうして悔い改めた後は、再びこのような過ちを犯しません。」

世尊告曰：「比丘！汝實愚癡，汝實不定，汝不善解，謂稱如來、無所著、等正覺為君也。比丘！若汝能自悔過，見已發露，護不更作者，比丘！如是則於聖法、律中益而不損，謂能自悔過，見已發露，護不更作。」

> 世尊はおっしゃいました。 「比丘よ、あなたは実に愚かであり、実に心の定まらない者であり、実に正しく理解しない者である。如来、応供、正等覚者を『君』と呼ぶとは。 比丘よ、もしあなたが自ら過ちを悔い、それを見て告白し、再び犯さないよう慎むならば、比丘よ、そのようにすれば、聖なる法と律において、損なうことなく益を得るであろう。すなわち、自ら過ちを悔い、それを見て告白し、再び犯さないよう慎むことである。」

佛說如是。尊者弗迦邏娑利聞佛所說，歡喜奉行。

> 仏様はこのようにお説きになりました。尊者フチャラサリは仏様の教えを聞いて、喜び、その教えの通りに実践しました。

分別六界經第一竟三千一百三十一字

> 「分別六界経」第一 おわり<note>三千百三十一字</note>