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title: "中阿含經 · 163 分別六處經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
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### （一六三）中阿含根本分別品分別六處經第二第四分別誦

> （一六三）中阿含根本分別品 分別六處經 第二<note>第四分別誦</note>

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊舍衛國，在勝林給孤獨園。

> ある時、お釈迦さまは舎衛国に滞在され、勝林給孤独園におられました。

爾時，世尊告諸比丘：「我當為汝說法，初妙、中妙、竟亦妙，有義有文，具足清淨，顯現梵行，謂分別六處經。諦聽，諦聽，善思念之。」

> その時、世尊は比丘たちに告げられました。 「これからお前に説法しよう。その教えは、初めも素晴らしく、中も素晴らしく、終わりもまた素晴らしい。意味もあり、言葉も整い、完全で清らかであり、清らかな実践を明らかにするものだ。その名を『六つの領域を分別する経』という。しっかりと聞き、よく心に留めておきなさい。」

時，諸比丘白曰：「世尊！唯當受教。」

> そのとき、僧侶たちは申し上げました。「尊き方よ、どうか私たちにお教えくださいませ。」

佛言：「汝等六處當知內也，六更樂處當知內，十八意行當知內，三十六刀當知內，於中斷彼成就是，無量說法當知內，三意止，謂聖人所習。聖人所習已，眾可教，無上調御士者，調御士趣一切方，是謂分別六處經事。

> 仏は言われた。「お前たちは、六つの内なる感覚の場を知るべきである。六つの内なる接触から生じる感受、十八の内なる心の働き、三十六の内なる執着の刃、これらを内において知るべきである。そこでそれらを断ち切って成就することがある。無量の教えは内において知るべきである。三つの心のよりどころ、これを聖者が修める。聖者が修めたならば、人々は教えを受けることができる。最高の調御者である者は、調御者としてあらゆる方角に向かう。これが六つの感覚の場を分別する経の教えである。」

「六處當知內者，此何因說？謂眼處，耳、鼻、舌、身、意處，六處當知內者，因此故說。

> 「内なる六つの場所（六処）とは何か」と知るべきです。なぜこのように説かれたのか。それは、眼の場所、耳、鼻、舌、体、心の場所――これらの六つを「内なる場所」と知るべきだからです。この理由によって説かれています。

「六更樂處當知內者，此何因說？謂眼更樂為見色，耳更樂為聞聲，鼻更樂為嗅香，舌更樂為嘗味，身更樂為覺觸，意更樂為知法，六更樂處當知內者，因此故說。

> 六つの接触による楽しい状態は「内なるもの」と知るべきである。なぜそう言うのか。すなわち、眼の接触による楽しい状態は色を見るためであり、耳の接触による楽しい状態は音を聞くためであり、鼻の接触による楽しい状態は香りを嗅ぐためであり、舌の接触による楽しい状態は味を味わうためであり、身の接触による楽しい状態は触れられる感覚を覚るためであり、意の接触による楽しい状態は法（現象）を知るためである。六つの接触による楽しい状態は「内なるもの」と知るべきである。ゆえにこのように説かれたのである。

「十八意行當知內者，此何因說？比丘者，眼見色已，分別色喜住，分別色憂住，分別色捨住，如是耳、鼻、舌、身，意知法已，分別法喜住，分別法憂住，分別法捨住，是謂分別六喜、分別六憂、分別六捨，總說十八意行，十八意行當知內者，因此故說。

> 十八の心の働きは「内的」として知られるべきであると説かれますが、その理由は何でしょうか。修行者よ、比丘が眼で色を見た後、その色に対して喜びの状態でいる、憂いの状態でいる、あるいは中立的な状態でいる、と区別します。同様に、耳・鼻・舌・身、そして意が法を知った後、その法に対して喜び・憂い・中立的な状態を区別します。これを、六種の喜びの区別、六種の憂いの区別、六種の中立の区別と説き、総合して十八の心の働きと呼びます。十八の心の働きは「内的」として知られるべきであり、この理由からそう説かれているのです。

「三十六刀當知內者，此何因說？有六喜依著，有六喜依無欲，有六憂依著，有六憂依無欲，有六捨依著，有六捨依無欲。

> いわゆる「三十六の刃は内に知るべきもの」とは、何を根拠に説かれたのか。 六つの執着に基づく喜び、六つの欲なきに基づく喜び、六つの執着に基づく憂い、六つの欲なきに基づく憂い、六つの執着に基づく捨、六つの欲なきに基づく捨があるからである。

「云何六喜依著？云何六喜依無欲？眼見色已生喜，當知二種，或依著，或依無欲。云何喜依著？眼知色可喜、意念、愛色、欲相應樂，未得者欲得，已得者憶已生喜，如是喜，是謂喜依著。云何喜依無欲？知色無常、變易，盡、無欲、滅、息，前及今一切色無常、苦、滅法，憶已生喜，如是喜，是謂喜依無欲。如是耳、鼻、舌、身，意知法已生喜，當知二種，或依著，或依無欲。云何喜依著？意知法可喜、意念、愛法、欲相應樂，未得者欲得，已得者憶已生喜，如是喜，是謂喜依著。云何喜依無欲？知法無常、變易，盡、無欲、滅、息，前及今一切法無常、苦、滅法，憶已生喜，如是喜，是謂喜依無欲。

> 六つの欲望に基づく喜びとは何でしょうか。また、六つの欲望を離れる喜びとは何でしょうか。 目で形を見て喜びが生まれた場合、それは二種類あると知るべきです。一つは執着に基づくもの、もう一つは欲望を離れることに基づくものです。 執着に基づく喜びとは何でしょうか。目で好ましい形を見て、心がそれに引き寄せられ、愛着し、欲望と結びついた快楽が生じます。まだ得ていないものは得たいと思い、すでに得たものは追憶して喜びが生まれます。このような喜びを、執着に基づく喜びといいます。 欲望を離れる喜びとは何でしょうか。形は無常であり、変化し、尽き、欲望がなくなり、消滅し、静まるものであると知ります。過去も現在も、すべての形は無常であり、苦しみであり、消滅する性質のものです。それを追憶して喜びが生まれます。このような喜びを、欲望を離れる喜びといいます。 同様に、耳、鼻、舌、身、意についても、それぞれの対象を認識して喜びが生まれた場合、それは二種類あると知るべきです。一つは執着に基づくもの、もう一つは欲望を離れることに基づくものです。 執着に基づく喜びとは何でしょうか。心で好ましい対象を認識して、心がそれに引き寄せられ、愛着し、欲望と結びついた快楽が生じます。まだ得ていないものは得たいと思い、すでに得たものは追憶して喜びが生まれます。このような喜びを、執着に基づく喜びといいます。 欲望を離れる喜びとは何でしょうか。対象は無常であり、変化し、尽き、欲望がなくなり、消滅し、静まるものであると知ります。過去も現在も、すべての対象は無常であり、苦しみであり、消滅する性質のものです。それを追憶して喜びが生まれます。このような喜びを、欲望を離れる喜びといいます。

「云何六憂依著？云何六憂依無欲？眼見色已生憂，當知二種，或依著，或依無欲。云何憂依著？眼知色可喜、意念、愛色、欲相應樂，未得者不得，已得者過去、散壞、滅、變易、生憂，如是憂，是謂憂依著。云何憂依無欲？知色無常、變易，盡、無欲、滅、息，前及今一切色無常、苦、滅法，憶已作是念：『我何時彼處成就遊，謂：處諸聖人成就遊。』是為上具觸願恐怖，知苦憂生憂。如是憂，是謂憂依無欲。如是耳、鼻、舌、身，意知法已生憂，當知二種，或依著，或依無欲。云何憂依著？意知法可喜、意念、愛法、欲相應樂，未得者不得，已得者過去、散壞、滅、變易、生憂，如是憂，是謂憂依著。云何憂依無欲？知法無常、變易，盡、無欲、滅、息，前及今一切法無常、苦、滅法，憶已作是念：『我何時彼處成就遊？謂：處諸聖人成就遊。』是為上具觸願恐怖，知苦憂生憂。如是憂，是謂憂依無欲。

> 六つの執着に基づく憂いと六つの無欲に基づく憂いとは何でしょうか。 眼で色を見て憂いが生じる場合、それは二種類あると知るべきです。すなわち、執着に基づくものか、無欲に基づくものかです。 では、執着に基づく憂いとは何か。 眼で認識する色が好ましく、心に留まり、愛着し、欲望に相応する楽しいものであるとき、まだ得ていないものは得られず、すでに得たものは過ぎ去り、散り失せ、消え、変化します。そうして憂いが生じます。このような憂いを、執着に基づく憂いといいます。 では、無欲に基づく憂いとは何か。 色は無常であり、変化し、尽き、無欲となり、消え、静まるものであると知ります。過去も現在も、すべての色は無常であり、苦であり、滅する法です。それを思い起こして、こう考えます。「私はいつ、あの聖者たちが成就して遊ぶ境地に、自らも成就して遊ぶことができるだろうか」と。これは最も優れた触れ合いと願いを伴うものであり、苦しみや憂いを知って生じる憂いです。このような憂いを、無欲に基づく憂いといいます。 同様に、耳、鼻、舌、身、意によって法を認識して憂いが生じる場合も、二種類あると知るべきです。すなわち、執着に基づくものか、無欲に基づくものかです。 では、執着に基づく憂いとは何か。 意で認識する法が好ましく、心に留まり、愛着し、欲望に相応する楽しいものであるとき、まだ得ていないものは得られず、すでに得たものは過ぎ去り、散り失せ、消え、変化します。そうして憂いが生じます。このような憂いを、執着に基づく憂いといいます。 では、無欲に基づく憂いとは何か。 法は無常であり、変化し、尽き、無欲となり、消え、静まるものであると知ります。過去も現在も、すべての法は無常であり、苦であり、滅する法です。それを思い起こして、こう考えます。「私はいつ、あの聖者たちが成就して遊ぶ境地に、自らも成就して遊ぶことができるだろうか」と。これは最も優れた触れ合いと願いを伴うものであり、苦しみや憂いを知って生じる憂いです。このような憂いを、無欲に基づく憂いといいます。

「云何六捨依著？云何六捨依無欲？眼見色已生捨，當知二種，或依著，或依無欲。云何捨依著？眼知色生捨，彼平等、不多聞、無智慧、愚、癡、凡夫，為色有捨，不離色，是謂捨依著。云何捨依無欲？知色無常、變易，盡、無欲、滅、息，前及今一切色無常、苦、滅法，憶已捨住。若有至意修習捨，是謂捨依無欲，如是耳、鼻、舌、身，意知法已生捨，當知二種，或依著，或依無欲。云何捨依著？意知法生捨，平等、不多聞、無智慧、愚、癡、凡夫，為法有捨，不離法，是謂捨依著。云何捨依無欲？意知法無常、變易，盡、無欲、滅、息，前及今一切法無常、苦、滅法，憶已捨住。若有至意修習捨，是謂捨依無欲。是為六喜依著、六喜依無欲、六憂依著、六憂依無欲、六捨依著、六捨依無欲，總說三十六刀，當知內者，因此故說。

> 「六つの捨（ウペッカー）の執着に基づくものと、六つの捨の執着なきものとは何か。目で形を見てから生じる捨には、二種類あると知るべきである。執着に基づくものか、あるいは執着なきものかである。 執着に基づく捨とは何か。目で形を知って捨が生じる。それは平等で、多くを聞かず、智慧なく、愚かで、無知な凡夫が、その形に執着して捨がある。形を離れていない。これを執着に基づく捨という。 では、執着なき捨とは何か。形は無常であり、変易し、尽き、執着なく、消滅し、静まるものと知る。過去も現在も、すべての形は無常であり、苦であり、消滅する性質のものであると、それを心に留めて、捨に安住する。もし心を込めて捨を修習するならば、これを執着なき捨という。 耳、鼻、舌、身についても同様である。 意で法を知ってから生じる捨にも、二種類あると知るべきである。執着に基づくものか、あるいは執着なきものかである。 執着に基づく捨とは何か。意で法を知って捨が生じる。それは平等で、多くを聞かず、智慧なく、愚かで、無知な凡夫が、その法に執着して捨がある。法を離れていない。これを執着に基づく捨という。 では、執着なき捨とは何か。意で法は無常であり、変易し、尽き、執着なく、消滅し、静まるものと知る。過去も現在も、すべての法は無常であり、苦であり、消滅する性質のものであると、それを心に留めて、捨に安住する。もし心を込めて捨を修習するならば、これを執着なき捨という。 これらが、六つの喜びの執着に基づくもの、六つの喜びの執着なきもの、六つの憂いの執着に基づくもの、六つの憂いの執着なきもの、六つの捨の執着に基づくもの、六つの捨の執着なきものである。これらを総じて三十六の刃（かみそり）という。内なるものを知るべきであり、このゆえに説かれたのである。」

「於中斷彼成就是者，此何因說？謂此六喜依無欲，取是、依是、住是也。謂此六喜依著，滅彼、除彼、吐彼，如是斷彼也。謂此六憂依無欲，取是、依是、住是也。謂此六憂依著，滅彼、除彼、吐彼，如是斷彼也。謂此六捨依無欲，取是、依是、住是也。謂此六捨依著，滅彼、除彼、吐彼，如是斷彼也。謂此六憂依無欲，取是、依是、住是也。謂此六喜依無欲，滅彼、除彼、吐彼，如是斷彼也。謂此六捨依無欲，取是、依是、住是也。謂此六憂依無欲，滅彼、除彼、吐彼，如是斷彼也。

> 六つの喜び――無欲に基づくもの。それを受け入れ、依り、とどまることが示されている。六つの喜び――執着に基づくもの。それを消し、除き、吐き出すこと。これが、それを断つことである。 六つの憂い――無欲に基づくもの。それを受け入れ、依り、とどまることが示されている。六つの憂い――執着に基づくもの。それを消し、除き、吐き出すこと。これが、それを断つことである。 六つの捨――無欲に基づくもの。それを受け入れ、依り、とどまることが示されている。六つの捨――執着に基づくもの。それを消し、除き、吐き出すこと。これが、それを断つことである。 六つの憂い――無欲に基づくもの。それを受け入れ、依り、とどまることが示されている。六つの喜び――無欲に基づくもの。それを消し、除き、吐き出すこと。これが、それを断つことである。 六つの捨――無欲に基づくもの。それを受け入れ、依り、とどまることが示されている。六つの憂い――無欲に基づくもの。それを消し、除き、吐き出すこと。これが、それを断つことである。

「有捨無量更樂，若干更樂，有捨一更樂，不若干更樂。云何有捨無量更樂，若干更樂？若捨為色、為聲、為香、為味、為觸，此捨無量更樂，若干更樂。云何捨一更樂，不若干更樂？謂捨或依無量空處，或依無量識處，或依無所有處，或依非有想非無想處，此捨一更樂，不若干更樂，謂此捨有一更樂，不若干更樂。取是、依是、住是也，謂此捨有無量更樂，若干更樂。滅彼、除彼、吐彼，如是斷彼也。取無量、依無量、住無量，謂此捨有一更樂，不若干更樂。取是、依是、住是也，謂此捨有無量更樂，若干更樂。滅彼、除彼、吐彼，如是斷彼也，於中斷彼成就是者，因此故說。

> ある種の「捨」（心の平等性）には、無数の感覚（受）が伴い、様々な感覚が存在します。また、ある種の「捨」には一つの感覚だけが伴い、様々な感覚はありません。 では、どのような「捨」に無数の感覚、様々な感覚が伴うのでしょうか。それは、色・声・香・味・触に対する「捨」です。この「捨」には無数の感覚、様々な感覚が伴います。 では、どのような「捨」に一つの感覚だけが伴い、様々な感覚がないのでしょうか。それは、無量空処、無量識処、無所有処、非有想非無想処に基づく「捨」です。この「捨」には一つの感覚だけが伴い、様々な感覚はありません。すなわち、この「捨」には一つの感覚のみがあり、様々な感覚がないのです。 もし、この「捨」を捉え、これに依り、これに住するならば、この「捨」には無数の感覚、様々な感覚が伴うことになります。それを滅し、除き、吐き出すことによって、断ち切るのです。 （逆に）無量のものを捉え、無量のものに依り、無量のものに住するならば、この「捨」には一つの感覚だけがあり、様々な感覚はありません。もし、この「捨」を捉え、これに依り、これに住するならば、この「捨」には無数の感覚、様々な感覚が伴うことになります。それを滅し、除き、吐き出すことによって、断ち切るのです。 その中で、それを断ち切って成就すること。この故に説かれたのです。

「無量說法當知內者，此何因說？如來有四弟子，有增上行、有增上意、有增上念、有增上慧，有辯才成就第一辯才，壽活百歲，如來為彼說法滿百年，除飲食時、大小便時、睡眠息時及聚會時，彼如來所說法，文句法句觀義，以慧而速觀義，不復更問於如來法。所以者何？如來說法無有極不可盡法，文句法句觀義，乃至四弟子命終，猶如四種善射之人，挽彊俱發，善學善知，而有方便，速徹過去。如是，世尊有四弟子，有增上行、有增上意、有增上念、有增上慧，有辯才成就第一辯才，壽活百歲，如來為彼說法滿百年，除飲食時、大小便時、睡眠息時及聚會時。彼如來所說法，文句法句觀義，以慧而速觀義，不復更問於如來法。所以者何？如來無極不可盡，無量說法當知內者，因此故說。

> 「説法に限りがなく、その内なるものを知るべきである」とは、なぜ説かれたのか。如来には四種類の弟子がいる。修行を増上させる者、心を増上させる者、念を増上させる者、智慧を増上させる者である。彼らは第一の弁才を成就した弁才を持ち、寿命は百歳である。如来は彼らのために、飲食の時、大小便の時、睡眠休息の時、そして集会の時を除いて、百年の間、説法をする。その如来が説いた法について、文句や法句の意味を観察し、智慧をもって素早くその意味を観じ、如来の法について再び問うことはない。なぜなら、如来の説法には極まりがなく、尽くすことができない法があるからである。文句や法句の意味を観じ、ついには四種類の弟子が命を終えるまで続く。それはちょうど、四人の巧みな射手が、強い弓を同時に引き絞り、巧みに学び巧みに知り、しかも方便を持って素早く的を射抜くようなものである。このように、世尊には四種類の弟子がいる。（以下、同文のため省略）如来には極まりがなく、尽くすことができない。無量の説法について、その内なるものを知るべきであると説かれたのは、この理由によるのである。

「三意止，謂聖人所習，聖人所習已，眾可教者。此何因說？若如來為弟子說法，憐念愍傷，求義及饒益，求安隱快樂，發慈悲心，是為饒益，是為快樂，是為饒益樂。若彼弟子而不恭敬，亦不順行，不立於智，其心不趣向法、次法，不受正法，違世尊教，不能得定者，世尊不以此為憂慼也。但世尊捨無所為，常念常智，是謂第一意止，謂聖人所習，聖人所習已，眾可教也。

> 三つの意止（心のよりどころ）とは、聖者たちが修めるものであり、聖者たちが修めたならば、多くの人々は教えを受けることができるようになるものです。これは何を根拠に説かれているのでしょうか。 例えば如来が弟子たちのために教えを説くとき、慈しみと哀れみをもって、真理を求め、人々の利益と安らぎを願い、慈悲の心を起こします。これは利益をもたらし、安らぎをもたらし、幸福をもたらすものです。 たとえ弟子たちが敬虔でなく、教えの通りに行動せず、智慧を身につけず、心を法と戒めに向けず、正しい教えを受け入れず、世尊の教えに背き、心の統一を得られなかったとしても、世尊はそれによって憂い悲しむことはありません。 世尊はただ静かに見守り、執着せず、常に心を保ち、智慧を保たれます。これを第一の意止といいます。すなわち、聖者たちが修めるものであり、聖者たちが修めたならば、多くの人々は教えを受けることができるというものです。

「復次，如來為弟子說法，憐念愍傷，求義及饒益，求安隱快樂，發慈悲心，是為饒益，是為快樂，是為饒益樂。若彼弟子恭敬順行而立於智，其心歸趣向法、次法，受持正法，不違世尊教，能得定者，世尊不以此為歡喜也。但世尊捨無所為，常念常智，是謂第二意止，謂聖人所習，聖人所習已，眾可教也。

> また、如来は弟子たちのために法を説き、彼らを哀れみ、慈しみ、義を求め、利益をもたらし、安らぎと楽しみを願い、慈悲の心を起こす。これをもって利益とし、これを楽しみとし、これを利益と楽しみとする。もしその弟子が敬い従い、善く行い、智慧に立つならば、その心は法に向かい、法に次ぎ、正法を受持し、世尊の教えに背かず、定を得ることができる。世尊はこれを喜びとはされない。ただ世尊は執着を離れ、常に念い、常に智慧である。これを第二の心の止まりという。これは聖者が修習するところであり、聖者が修習したならば、衆生は教え導かれるべきものとなるのである。

「復次，如來為弟子說法，憐念愍傷，求義及饒益，求安隱快樂，發慈悲心，是為饒益，是為快樂，是為饒益樂。或有弟子而不恭敬，亦不順行，不立於智，其心不趣向法、次法，不受正法，違世尊教，不能得定者。或有弟子恭敬順行而立於智，其心歸趣向法、次法，受持正法，不違世尊教，能得定者。世尊不以此為憂慼，亦不歡喜，但世尊捨無所為，常念常智，是謂第三意止。謂聖人所習，聖人所習已，眾可教也，三意止，謂聖人所習。聖人所習已，眾可教者，因此故說。

> さらに、如来は弟子たちのために法を説き、慈しみ、哀れみ、その義を求め、利益をもたらし、安らぎと楽を与えようと、慈悲の心を起こされる。これこそが利益であり、これこそが楽であり、これこそが利益と楽をもたらすものである。ある弟子は敬うことなく、また教えに従わず、智慧に留まらず、その心は法や、法に次ぐものへと向かわず、正しい法を受け入れず、世尊の教えに背き、心を定めることができない。ある弟子は敬い、教えに従い、智慧に留まり、その心は法や、法に次ぐものへと向かい、正しい法を受け持ち、世尊の教えに背かず、心を定めることができる。世尊はこれを憂え悲しむこともなく、また喜ぶこともない。ただ、世尊は執着を離れ、何もなさず、常に mindful で智慧ある状態にある。これを第三の「意止」という。これは聖者が修めるものであり、聖者が修めたならば、人々は教えを受けることができる。第三の「意止」とは、聖者が修めるものである。聖者が修めたならば、人々は教えを受けることができる。このゆえに、このように説かれたのである。

「無上調御士者，調御士趣一切方者。此何因說？調御士者，此說調御士趣一方，或東方、或南方、或西方、或北方；調御象者，調御象趣一方，或東方，或南、西、北方；調御馬者，調御馬趣一方，或東方，或南、西、北方；調御牛者，調御牛趣一方，或東方，或南、西、北方也。無上調御士者，調御士趣一切方，於中方者色觀色，是謂第一方。內無色想，外觀色，是謂第二方。淨解脫身觸成就遊，是謂第三方。度一切色想，滅有對想，不念若干想，無量空，是無量空處成就遊，是謂第四方。度一切無量空處，無量識，是無量識處成就遊，是謂第五方。度一切無量識處，無所有，是無所有處成就遊，是謂第六方。度一切無所有處，非有想非無想，是非有想非無想處成就遊，是謂第七方。度一切非有想非無想處，想知滅盡身觸成就遊，慧觀漏盡斷智，是謂第八方。無上調御士者，調御士趣一切方者，因此故說。」

佛說如是。彼諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。

> このように仏は説かれました。比丘たちは仏の説かれたことを聞き、喜んでお受け取りになりました。

分別六處經第二竟二千五百一十二字

> 「分別六處経」第二 おわり<note>二千五百十二字</note>