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title: "中阿含經 · 169 拘樓瘦無諍經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
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### （一六九）中阿含根本分別品拘樓瘦無諍經第八第四分別誦

> （一六九）根本分別品 無諍経 第八<note>第四分別誦</note>

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊婆奇瘦劍磨瑟曇拘樓都邑。

> ある時、仏陀はバーキ地方のケーサムッタという町を旅しておられた。

爾時，世尊告諸比丘：「我當為汝說法，初妙、中妙、竟亦妙，有義有文，具足清淨，顯現梵行，名分別無諍經。諦聽，諦聽，善思念之。」時，諸比丘受教而聽。

> その時、世尊は比丘たちに告げられました。「あなたがたに法（真理）を説きましょう。その教えは、初めも素晴らしく、中も素晴らしく、終わりも素晴らしく、意味も文章も備わり、完全に清らかで、清らかな行いを明らかに示すものです。その名を『分別無諍経』といいます。よく聞き、よく聞き、心して考えなさい。」そこで、比丘たちは教えを受け、耳を傾けました。

佛言：「莫求欲樂、極下賤業，為凡夫行。亦莫求自身苦行，至苦非聖行，無義相應，離此二邊，則有中道，成眼成智，自在成定，趣智、趣覺、趣於涅槃。有稱、有譏，有無稱、無譏而為說法。決定於齊，決定知已，所有內樂常求彼也。莫相導說，亦莫面前稱譽，齊限說，莫求齊限，隨國俗法，莫是莫非，此分別無諍經事。莫求欲樂、極下賤業，為凡夫行，亦莫求自身苦行，至苦非聖行，無義相應者。此何因說？莫求欲樂、極下賤業，為凡夫行，是說一邊，亦莫求自身苦行，至苦非聖行，無義相應者，是說二邊。莫求欲樂、極下賤業，為凡夫行，亦莫求自身苦行，至苦非聖行，無義相應者，因此故說。

> 仏陀は言われた。「快楽を求めてはならない。それは最も卑しい業であり、凡夫の行いである。また、自分自身に苦行を課してもならない。それは苦しく、聖者の行いではなく、無意味である。この二つの極端を離れたところに中道がある。それは眼を開き、智慧をもたらし、自在で安定した境地へと導き、覚りへ、涅槃へと向かう道である。 称賛や非難があろうとも、あるいは称賛も非難もなくとも、説法を行うのだ。心の基準を定め、それをよく知り、内なる安らぎを常に求めなさい。他人を先導して言い聞せようとしたり、目の前で誉めそやしたりしてはならない。適切な尺度をもって説き、その尺度に固執してはならない。その国の習慣に従い、これが正しい、これが間違っていると決めつけてはならない。これこそが、争いのない教えである。 問う『快楽を求めてはならない。それは最も卑しい業であり、凡夫の行いである』というのは一方の極端であり、『自分自身に苦行を課してもならない。それは苦しく、聖者の行いではなく、無意味である』というのはもう一方の極端である。この二つの極端を離れること、そのためにこの教えがあるのだ。」

「離此二邊，則有中道，成眼成智，自在成定，趣智、趣覺、趣涅槃者。此何因說？有聖道八支，正見乃至正定，是謂為八。離此二邊，則有中道，成眼成智，自在成定，趣智、趣覺、趣涅槃者，因此故說。有稱、有譏，有無稱、無譏而為說法者。此何因說？云何為稱？云何為譏，而不說法。若有欲相應與喜樂俱，極下賤業，為凡夫行，此法有苦、有煩、有熱、有憂慼邪行。彼知此已，則便自譏。所以者何？欲者，無常、苦、磨滅法，彼知欲無常已，是故彼一切有苦、有煩、有熱、有憂慼邪行，彼知此已，是故便自譏。

> この二つの極端から離れて、中道がある。それは眼を生じ、智を生じ、自在に定をもたらし、智へ、覚りへ、涅槃へと導くものである。これは何を理由に説かれたのか。八支の聖道、すなわち正見から正定に至る八つの道があるからである。この二つの極端を離れて、中道があり、眼を生じ、智を生じ、自在に定をもたらし、智へ、覚りへ、涅槃へと導く。そのために説かれたのである。 称賛があり、非難があり、あるいは称賛も非難もなく法を説くことがある。これは何を理由に説かれたのか。どのようなものが称賛であり、どのようなものが非難であり、そして法を説かないことなのか。 もし欲望に相応し、喜びと楽しさを伴うものがあるなら、それは極めて下劣な行いであり、凡夫の行いである。この法には苦しみがあり、煩わしさがあり、熱悩があり、憂いや悲しみの邪な行いがある。それを知ったならば、自らを非難する。なぜなら、欲望とは無常であり、苦しみであり、滅びゆく法であるからだ。彼は欲望が無常であると知るがゆえに、それゆえにそれら一切には苦しみがあり、煩わしさがあり、熱悩があり、憂いや悲しみの邪な行いがあると知る。それを知ったならば、自らを非難するのである。

「自身苦行，至苦非聖行，無義相應，此法有苦、有煩、有熱、有憂慼邪行，彼知此已，則便自譏。所以者何？彼沙門、梵志所可畏苦，剃除鬚髮，著袈裟衣，至信、捨家、無家、學道者，彼沙門、梵志復抱此苦，是故彼一切有苦、有煩、有熱、有憂慼邪行。彼知此已，是故便自譏。有結不盡，此法有苦、有煩、有熱、有憂慼邪行，彼知此已，則便自譏。所以者何？若有結不盡者，彼有亦不盡。是故彼一切有煩、有熱、有憂慼邪行，彼知此已，是故便自譏也。有結盡者，此法無苦、無煩、無熱、無憂慼正行，彼知此已，則便自稱。所以者何？若有結盡者，彼有亦盡，是故彼一切無苦、無煩、無熱、無憂慼正行，彼知此已，是故便自稱也。

> 自分を苦しめる修行は、苦しいだけで聖なる道ではなく、真理に沿わないものです。その修行には苦しみ、悩み、熱悩、憂いや悲しみという誤った行いが伴います。それを知った人は、自らを責めるのです。なぜなら、修行者やバラモンたちが恐れるその苦しみ―髪やひげを剃り、袈裟を着て、信仰の心から家を捨て、家なき者として出家して道を学ぶ者たちも、その苦しみを抱えているからです。それゆえ、彼らは皆、苦しみ・悩み・熱悩・憂いや悲しみという誤った行いを有しています。それを知った者は、自らを責めるのです。 また、煩悩の束縛が尽きていないなら、その修行には苦しみ・悩み・熱悩・憂いや悲しみという誤った行いが伴います。それを知った人は、自らを責めるのです。なぜなら、煩悩の束縛が尽きていない者には、その存在そのものも尽きていないからです。それゆえ、彼らは皆、悩み・熱悩・憂いや悲しみという誤った行いを有しています。それを知った者は、自らを責めるのです。 一方、煩悩の束縛が尽きているなら、その修行には苦しみも、悩みも、熱悩も、憂いや悲しみもなく、正しい行いが伴います。それを知った人は、自らを称えるのです。なぜなら、煩悩の束縛が尽きている者には、その存在も尽きているからです。それゆえ、彼らは皆、苦しみもなく、悩みもなく、熱悩もなく、憂いや悲しみもない正しい行いを有しています。それを知った者は、自らを称えるのです。

「不求內樂，此法有苦、有煩、有熱、有憂慼邪行，彼知此已，則便自譏。所以者何？若有不求內樂者，彼亦不求內，是故彼一切有苦、有煩、有熱、有憂慼邪行，彼知此已，是故便自譏也。求於內樂，此法無苦、無煩、無熱、無憂慼正行，彼知此已，則便自稱。所以者何？若有求內樂者，彼亦求內，是故彼一切無苦、無煩、無熱、無憂慼正行。彼知此已，是故便自稱。如是有稱有譏而不說法也，不稱不譏而為說法。

> 内なる安らぎを求めない生き方は、苦しみや悩み、煩わしさや心の乱れを伴う誤った行いである。そうと知れば、自らを省みて恥じ入るだろう。なぜなら、内なる安らぎを求めない者は、内に向かうこともない。ゆえに、その一切は苦しみや悩み、煩わしさ、心の乱れを伴う誤った行いとなり、それを知れば自らを恥じるのである。 一方、内なる安らぎを求める生き方は、苦しみも悩みも煩わしさも心の乱れもなく、正しい行いである。そうと知れば、自らを称えられるだろう。なぜなら、内なる安らぎを求める者は、まさに内に向かうからである。ゆえに、その一切は苦しみも悩みも煩わしさも心の乱れもない正しい行いとなり、それを知れば自らを称えるのである。 このように、ある者は自らを称え、ある者は自らを恥じるが、それは法を説くことではない。真の法を説くとは、称えることも恥じることもなく、ただ説くことにある。

「云何不稱不譏而為說法？若欲相應與喜樂俱，極下賤業，為凡夫行，此法有苦、有煩、有熱、有憂慼邪行，彼知此已，則便說法。所以者何？彼不如是說，欲無常、苦、磨滅法，彼知欲無常已，是故彼一切有苦、有煩、有熱、有憂慼邪行，不達此法，唯有苦法，有煩、有熱、有憂慼邪行。彼知此已，是故便說法。自身苦行，至苦非聖行，無義相應，此法有苦、有煩、有熱、有憂慼邪行，彼知此已，則便說法。所以者何？彼不如是說，自身苦行，至苦非聖行，無義相應，此法有苦、有煩、有熱、有憂慼邪行，不達此法，唯有苦法，有煩、有熱、有憂慼邪行，彼知此已，是故便說法也。

> どのようにして、非難せず誹らずに法を説くのか？ もし欲望に執着し、喜びと楽しみを伴うならば、それは極めて卑しい行為であり、凡夫の行いである。この法には苦しみ、煩悩、熱悩、憂いと悩みの邪な行いがある。それを知ったならば、その時に法を説くのである。 なぜなら、彼は「欲望は無常であり、苦しみであり、滅びゆく法である」とは説かないからだ。彼は欲望が無常であることを知っているので、それゆえ、そのすべてには苦しみ、煩悩、熱悩、憂いと悩みの邪な行いがある。しかし、この法に達しておらず、ただ苦しみの法、煩悩、熱悩、憂いと悩みの邪な行いがあるだけである。それを知ったならば、それゆえに法を説くのである。 また、自身の身体に苦行を課し、極めて苦しく聖者の行いではなく、無意味なものに執着する場合、この法には苦しみ、煩悩、熱悩、憂いと悩みの邪な行いがある。それを知ったならば、その時に法を説くのである。 なぜなら、彼は「自身の身体に苦行を課し、極めて苦しく聖者の行いではなく、無意味なものに執着するこの法には苦しみ、煩悩、熱悩、憂いと悩みの邪な行いがある」とは説かないからだ。この法に達しておらず、ただ苦しみの法、煩悩、熱悩、憂いと悩みの邪な行いがあるだけである。それを知ったならば、それゆえに法を説くのである。

「有結不盡，此法有苦、有煩、有熱、有憂慼邪行，彼知此已，則便說法。所以者何？彼不如是說，若有結不盡者，彼有亦不盡，是故彼一切有苦、有煩、有熱、有憂慼邪行，不達此法，唯有苦法，有煩、有熱、有憂慼邪行。彼知此已，是故便說法也。有結盡者，此法無苦、無煩、無熱、無憂慼正行。彼知此已，則便說法。所以者何？彼不如是說，若有結盡者，彼有亦盡，是故彼一切無苦、無煩、無熱、無憂慼正行，不達此法，唯無苦法，無煩、無熱、無憂慼正行。彼知此已，是故便說法也。

> 執著が尽きていないならば、この教えには苦しみ、悩み、熱悩、憂いと悲しみに満ちた誤った行いがある。それを知って、その人は法を説く。なぜなら、その人はこう言うからだ。「もし執着が尽きていないならば、『存在』もまた尽きていない。それゆえ、そのすべてには苦しみ、悩み、熱悩、憂いと悲しみに満ちた誤った行いがある。」この教えに達していないならば、ただ苦しみ、悩み、熱悩、憂いと悲しみに満ちた誤った行いのみがある。それを知って、その人は法を説くのである。 執着が尽きているならば、この教えには苦しみなく、悩みなく、熱悩なく、憂いと悲しみなく、正しい行いがある。それを知って、その人は法を説く。なぜなら、その人はこう言うからだ。「もし執着が尽きているならば、『存在』もまた尽きている。それゆえ、そのすべてには苦しみなく、悩みなく、熱悩なく、憂いと悲しみなく、正しい行いがある。」この教えに達していないならば、ただ苦しみなく、悩みなく、熱悩なく、憂いと悲しみなく、正しい行いのみがある。それを知って、その人は法を説くのである。

「不求內樂，此法有苦、有煩、有熱、有憂慼邪行，彼知此已，則便說法。所以者何？彼不如是說，若不求內樂者，彼亦不求內。是故彼一切有苦、有煩、有熱、有憂慼邪行，不達此法，唯有苦法，有煩、有熱、有憂慼邪行。彼知此已，是故便說法也。求於內樂，此法無苦、無煩、無熱、無憂慼正行。彼知此已，則便說法。所以者何？彼不如是說，若有求內樂者，彼亦求內，是故彼一切無苦、無煩、無熱、無憂慼正行，不達此法，唯無苦法，無煩、無熱、無憂慼正行。彼知此已，是故便說法，如是不稱、不譏而為說法，有稱有譏、有無稱無譏而為說法者，因此故說也。

> 内なる楽しみを求めなければ、この教えには苦しみ、悩み、熱悩、憂いや邪な行いがある。それを知ったなら、その人は教えを説く。なぜなら、内なる楽しみを求めない人は、内なるものを求めないからである。したがって、そのすべてに苦しみ、悩み、熱悩、憂いや邪な行いがあり、この教えに達しない。ただ苦しみの法、悩み、熱悩、憂いや邪な行いがあるのみである。それを知ったからこそ、教えを説くのである。 内なる楽しみを求めるなら、この教えには苦しみがなく、悩みがなく、熱悩がなく、憂いがなく、正しい行いがある。それを知ったなら、その人は教えを説く。なぜなら、内なる楽しみを求める人は、内なるものを求めるからである。したがって、そのすべてに苦しみがなく、悩みがなく、熱悩がなく、憂いがなく、正しい行いがあり、この教えに達しない。ただ苦しみのない法、悩みがなく、熱悩がなく、憂いがなく、正しい行いがあるのみである。それを知ったからこそ、教えを説くのである。 このように、褒めることも非難することもなく教えを説き、また褒めることと非難すること、褒めないことと非難しないことの両方によって教えを説くのは、この理由によるのである。

「決定於齊，決定知已，所有內樂當求彼者，此何因說？有樂，非聖樂是凡夫樂，病本、癰本、箭刺之本，有食有生死，不可修、不可習、不可廣布，我說於彼則不可修也。有樂，是聖樂、無欲樂、離樂、息樂、正覺之樂，無食無生死，可修、可習、可廣布，我說於彼則可修也。

> 斉（ひと）しきを決断し、斉しきを知ったならば、内なる楽（らく）において、それを求めるべきであるとは、これは何故に説かれたのか。 ある楽がある。それは聖者の楽ではなく、凡夫の楽である。病の根、癰（よう）の根、矢じりの根である。食（じき）あり、生死（しょうじ）あり。修すべからず、習うべからず、広く布（し）くべからず。私はそれを「修すべからざるもの」と説く。 またある楽がある。それは聖者の楽、欲なき楽、離れの楽、寂止（じゃくし）の楽、正覚（しょうがく）の楽である。食なく、生死なし。修すべく、習うべく、広く布くべし。私はそれを「修すべきもの」と説く。

「云何有樂，非聖樂是凡夫樂，病本、癰本、箭刺之本，有食有生死，不可修、不可習、不可廣布，我說於彼不可修也？彼若因五欲功德生喜生樂，此樂非聖樂，是凡夫樂，病本、癰本、箭刺之本，有食有生死，不可修、不可習、不可廣布，我說於彼則不可修。

> 「では、どのような楽しみが、聖なる楽しみではなく凡夫の楽しみであり、病の根源、癰（よう）の根源、矢が刺さるような苦しみの根源であり、食事や生死を伴い、修行すべきではなく、慣れ親しむべきではなく、広めるべきでもないのでしょうか。私は、それについては修行すべきではないと説きます。それは、五つの欲望の対象から生じる喜びと楽しみです。この楽しみは聖なる楽しみではなく、凡夫の楽しみであり、病の根源、癰の根源、矢が刺さるような苦しみの根源であり、食事や生死を伴うものです。修行すべきではなく、慣れ親しむべきではなく、広めるべきでもありません。私は、それについては修行すべきではないと説きます。」

「云何有樂，是聖樂、無欲樂、離樂、息樂、正覺之樂，無食無生死，可修、可習、可廣布，我說於彼則可修耶？若有比丘離欲、離惡不善之法，至得第四禪成就遊。此樂是聖樂、無欲樂、離樂、息樂、正覺之樂，無食無生死，可修、可習、可廣布，我說於彼則可修也。決定於齊，決定知已，所有內樂當求彼者，因此故說。

> 「何が聖なる楽しみ、欲なき楽しみ、離れの楽しみ、静けさの楽しみ、正覚の楽しみであり、執着も生死もなく、修めるべきであり、習うべきであり、広めるべきものであるのか。私はそれを、その人にとって修めるべきものと言うのである。 比丘が欲を離れ、悪しき不善の法を離れ、第四禅に達して成就して遊ぶならば、その楽しみこそが聖なる楽しみ、欲なき楽しみ、離れの楽しみ、静けさの楽しみ、正覚の楽しみであり、執着も生死もなく、修めるべきであり、習うべきであり、広めるべきものである。私はそれを、その人にとって修めるべきものと言うのである。 心を一つの対象に定め、その定めを知り尽くしたならば、内なるすべての楽しみを、それによって求めるべきである。ゆえにこのように説くのである。」

「莫相導說，亦莫面前稱譽者，此何因說？有相導說不真實、虛妄、無義相應，有相導說真實、不虛妄、無義相應，有相導說真實、不虛妄、與義相應。於中若有導說不真實、虛妄、無義相應者，此終不可說。於中若有導說真實、不虛妄、無義相應者，彼亦當學不說是也。於中若有導說真實、不虛妄、義相應者，彼為知時，正智正念，令成就彼，如是面前稱譽，莫相導說，亦莫面前稱譽者，因此故說。

> 「互いに誘導するように語ったり、その場で褒めたりしてはならない」とは、なぜ説かれたのか？──誘導するように語る中には、真実ではなく、虚偽であり、意味のないものに合致するものがある。また、誘導するように語る中には、真実であり、虚偽ではなく、意味のないものに合致するものがある。さらに、誘導するように語る中には、真実であり、虚偽ではなく、意味に合致するものがある。 そのうち、もし真実ではなく、虚偽であり、意味のないものに合致する誘導の語りがあるなら、それは決して語ってはならない。また、もし真実であり、虚偽ではなく、意味のないものに合致する誘導の語りがあるなら、それもまた語らないことを学ぶべきである。さらに、もし真実であり、虚偽ではなく、意味に合致する誘導の語りがあるなら、その人は時に応じて、正しい智慧と正しい気づきをもって、それを成就させるがよい。このように、その場で褒めることはあっても、互いに誘導するように語ったり、その場で褒めたりしてはならないという教えは、ゆえに説かれたのである。

「齊限說，莫不齊限者，此何因說？不齊限說者，煩身，念憙忘，心疲極，聲壞，向智者不自在也。齊限說者，不煩身，念不憙忘，心不疲極，聲不壞，向智者得自在也。齊限說，莫不齊限者，因此故說。

> 「話に区切りをつけて語るべきであり、区切りなく語るべきではない。なぜそう言うのか。区切りなく語ると、身体は疲れ、心は浮ついて忘れやすく、精神は疲弊し、声はかすれ、賢い人に対して自在さを失うからだ。区切りをつけて語れば、身体は疲れず、心は浮つかず忘れず、精神は疲れず、声はかすれず、賢い人に対して自在さを得られる。だからこそ、区切りをつけて語れ、区切りなく語るなと説くのである。」

「隨國俗法，莫是莫非者，此何因說？云何隨國俗法？是及非耶？彼彼方、彼彼人間、彼彼事，或說甌，或說𣟁，或說杅，或說椀，或說器。如彼彼方、彼彼人間、彼彼事，或說甌，或說𣟁，或說杅，或說椀，或說器，彼彼事隨其力，一向說此是真諦，餘者虛妄。如是隨國俗法，是及非也。云何隨國俗法？不是不非耶？彼彼方、彼彼人間、彼彼事，或說甌，或說𣟁，或說杅，或說椀，或說器。如彼彼方、彼彼人間、彼彼事，或說甌，或說𣟁，或說杅，或說椀，或說器。彼彼事不隨其力，不一向說此是真諦，餘者虛妄。如是隨國俗法，不是不非也。隨國俗法，莫是莫非者，因此故說。

> 「国の習慣に従って、『これが正しい』とも『これは正しくない』とも言わない」とは、どういう意味でしょうか。どのようにして国の習慣に従い、是と非を判断するのでしょうか。 例えば、様々な国や地域、人々の間で、同じ物を指して、ある地域では「甌（おう）」と言い、別の地域では「𣟁（ばん）」、また別の地域では「杅（う）」、あるいは「椀（わん）」、または「器（うつわ）」と呼びます。このように、地域や人々、物事によって呼び名が異なるにもかかわらず、ある人は自分の地域での呼び方だけに固執して、「これこそが真実の呼び名であり、他の呼び方は間違っている」と主張します。これが、国の習慣に従って是と非を決めつける態度です。 では、国の習慣に従いつつ、「これが正しい」とも「これは正しくない」とも言わないとはどういうことでしょうか。同じく、様々な地域や人々の間で、同じ物の呼び名が異なる場合にも、ある人は特定の呼び方にこだわらず、「これが真実の呼び名だ」とか「他は間違いだ」とは決めつけません。これが、国の習慣に従いながらも、是とも非とも言わない態度なのです。 以上が、「国の習慣に従って、是とも非とも言わない」という教えの理由です。

「有諍法、無諍法。云何有諍法？云何無諍法？若欲相應與喜樂俱，極下賤業，為凡夫行，此法有諍。以何等故此法有諍？此法有苦、有煩、有熱、有憂慼邪行，是故此法則有諍也。若自身苦行，至苦非聖行，無義相應，此法有諍。以何等故此法有諍？此法有苦、有煩、有熱、有憂慼邪行，是故此法則有諍也。離此二邊，則有中道，成眼成智，自在成定，趣智、趣覺、趣於涅槃，此法無諍。以何等故此法無諍？此法無苦、無煩、無熱、無憂慼正行，是故此法則無諍也。

> 争いのある法と、争いのない法について教えよう。 争いのある法とは何か？ 欲望に執着し、喜びや楽しみと結びつき、最も下賤な行いであり、凡夫の行いである。このような法には争いがある。 なぜ争いがあるのか？この法には苦しみがあり、悩みがあり、熱悩があり、憂いや悲しみをもたらす誤った行いがあるからである。ゆえに、この法には争いがある。 また、自分自身に苦しい行いを課し、極端な苦行に陥り、聖なる道に適わず、無意味な行いをする。この法にも争いがある。 なぜ争いがあるのか？この法にもやはり苦しみ、悩み、熱悩、憂いや悲しみをもたらす誤った行いがあるからである。ゆえに、この法には争いがある。 この二つの極端を離れたところに中道がある。それは、眼（見る力）を生み、智慧を生み、自在さと安定をもたらし、智慧へ、悟りへ、涅槃へと導く。この法には争いがない。 なぜ争いがないのか？この法には苦しみがなく、悩みがなく、熱悩がなく、憂いや悲しみのない正しい行いがあるからである。ゆえに、この法には争いがないのである。

「有結不盡，此法有諍。以何等故此法有諍？此法有苦、有煩、有熱、有憂慼邪行，是故此法則有諍也。有結滅盡，此法無諍。以何等故此法無諍？此法無苦、無煩、無熱、無憂慼正行，是故此法則無諍也。

> 執著が尽きていないこの教えには、争いがあります。なぜなら、この教えには苦しみ、煩わしさ、熱苦しさ、憂いや悲しみといった誤った生き方があるからです。それゆえ、この教えには争いがあるのです。 一方、執着が完全に滅び尽くしたこの教えには、争いがありません。なぜなら、この教えには苦しみも、煩わしさも、熱苦しさも、憂いや悲しみもなく、正しい生き方があるからです。それゆえ、この教えには争いがないのです。

「不求內樂，此法有諍。以何等故此法有諍？此法有苦、有煩、有熱、有憂慼邪行，是故此法則有諍也。求於內樂，此法無諍。以何等故此法無諍？此法無苦、無煩、無熱、無憂慼正行，是故此法則無諍也。

> 「心の内側に安らぎを求めない修行には、争いがあります。なぜなら、その修行には苦しみや悩み、熱苦しさ、憂いや悲しみといった、まちがった行いが伴うからです。だからこそ、その修行には争いがあるのです。一方、心の内側に安らぎを求める修行には、争いがありません。なぜなら、その修行には苦しみも悩みも熱苦しさもなく、憂いや悲しみのない正しい行いがあるからです。だからこそ、その修行には争いがないのです。」

「於中若有樂，非聖樂是凡夫樂，病本、癰本、箭刺之本，有食有生死，不可修、不可習、不可廣布，我說於彼則不可修，此法有諍。以何等故此法有諍？此法有苦、有煩、有熱、有憂慼邪行，是故此法則有諍也。於中若有樂，是聖樂、無欲樂、離樂、息樂、正覺之樂，無食無生死，可修、可習、可廣布，我說於彼則可修也，此法無諍。以何等故此法無諍？此法無苦、無煩、無熱、無憂慼正行，是故此法則無諍也。

> このうちに楽しみがあるとすれば、それは聖者の楽しみではなく、凡夫の楽しみである。 それは病の元、膿瘡の元、矢の刺さる元であり、 執着と生死を伴い、修行すべきではなく、習得すべきではなく、広めるべきでもない。 私はそれを修行すべきでないと説く。この教えには争いがある。 なぜこの教えに争いがあるのか。 この教えには苦しみ、煩悩、熱悩、憂いと悩みに満ちた誤った行いがあるからである。 ゆえに、この教えには争いがあるのである。 このうちに楽しみがあるとすれば、それは聖者の楽しみ、欲望なき楽しみ、離れる楽しみ、静まる楽しみ、正覚の楽しみであり、 執着なく生死を超え、修行すべきであり、習得すべきであり、広めるべきでもある。 私はそれを修行すべきであると説く。この教えには争いがない。 なぜこの教えに争いがないのか。 この教えには苦しみ、煩悩、熱悩、憂いなく、正しい行いがあるからである。 ゆえに、この教えには争いがないのである。

「於中若有導說不真實、虛妄、無義相應，此法有諍。以何等故此法有諍？此法有苦、有煩、有熱、有憂慼邪行，是故此法則有諍也。於中若有導說真實、不虛妄、無義相應，此法有諍。以何等故此法有諍？此法有苦、有煩、有熱、有憂慼邪行，是故此法則有諍也。於中若有導說真實、不虛妄、與義相應，此法無諍。以何等故此法無諍？此法無苦、無煩、無熱、無憂慼正行，是故此法則無諍也。

> この中で、もし教えが真実ではなく、虚偽であり、意味のないものに合致するなら、その教えには争いがあります。 なぜその教えには争いがあるのでしょうか？ その教えには苦しみがあり、悩みがあり、熱悩があり、憂いや悲しみを伴う誤った行いがあるからです。 したがって、その教えには争いがあるのです。 この中で、もし教えが真実であり、虚偽ではなく、意味のないものに合致するなら、その教えにも争いがあります。 なぜその教えには争いがあるのでしょうか？ その教えには苦しみがあり、悩みがあり、熱悩があり、憂いや悲しみを伴う誤った行いがあるからです。 したがって、その教えには争いがあるのです。 この中で、もし教えが真実であり、虚偽ではなく、意味のあるものに合致するなら、その教えには争いがありません。 なぜその教えには争いがないのでしょうか？ その教えには苦しみがなく、悩みがなく、熱悩がなく、憂いや悲しみを伴わない正しい行いがあるからです。 したがって、その教えには争いがないのです。

「無齊限說者，此法有諍。以何等故此法有諍？此法有苦、有煩、有熱、有憂慼邪行，是故此法則有諍也。齊限說者，此法無諍。以何等故此法無諍？此法無苦、無煩、無熱、無憂慼正行，是故此法則無諍也。

> 限定のない教えは、争いを生じさせるものです。なぜなら、この教えには苦しみ、煩わしさ、熱苦しさ、憂いや悩み、そして誤った行いが伴うからです。それゆえ、この教えには争いがあるのです。 一方、限定のある教えは、争いを生じさせません。なぜなら、この教えには苦しみも、煩わしさも、熱苦しさも、憂いや悩みもなく、正しい行いがあるからです。それゆえ、この教えには争いがないのです。

「隨國俗法，是及非，此法有諍。以何等故此法有諍？此法有苦、有煩、有熱、有憂慼邪行，是故此法則有諍也。隨國俗法，不是不非，此法無諍。以何等故此法無諍？此法無苦、無煩、無熱、無憂慼正行，是故此法則無諍也。是謂諍法。汝等當知諍法及無諍法，知諍法及無諍法已，棄捨諍法，修習無諍法，汝等當學。」

> 国や習慣によって「正しい」「間違い」とされることで、このような教えには争いが生じます。なぜ争いが生じるのか。それは、苦しみ、悩み、熱苦しさ、憂いや悩みを伴う誤った行いがあるからです。だからこそ、このような教えには争いがあるのです。 一方、国や習慣の「正しい」「間違い」に捉われない教えには、争いがありません。なぜ争いがないのか。それは、苦しみ、悩み、熱苦しさ、憂いや悩みのない正しい行いがあるからです。だからこそ、このような教えには争いがないのです。 これが「争いのある教え」と「争いのない教え」です。皆さんは、この争いのある教えと争いのない教えをよく理解しなさい。理解した上で、争いのある教えを捨て去り、争いのない教えを修行しなさい。そのように学びなさい。

如是須菩提族姓子以無諍道，於後知法如法。

> このように、須菩提よ、在家の善男子は、争いのない道によって、後に法を如実に知るのだ。

「知法如真實， 須菩提說偈，此行真實空， 捨此住止息。」

> 法を真実の如く知る 須菩提が詩句を説く この行いは真実にして空なり これを捨てて、ここに止まり静まり住す

佛說如是。彼諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。

> このように仏は説かれました。比丘たちは仏の説かれたことを聞き、喜んでお受け取りになりました。

拘樓瘦無諍經第八竟三千一十六字

> 拘樓瘦無諍経 第八 おわり<note>三千十六字</note>

## 中阿含經卷第四十三九千二百二十三字第四分別誦

> 中阿含経 第四十三巻<note>九千二百二十三字</note><note>第四分別誦</note>