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title: "中阿含經 · 175 受法經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
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### （一七五）中阿含心品受法經第四第四分別誦

> （一七五）中阿含心品受法経第四<note>第四分別誦</note>

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊拘樓瘦劍磨瑟曇拘樓都邑。

> ある時、仏陀はコーラヴィヤ国のカンマーサダンマという、コーリヤ人の町に滞在されました。

爾時，世尊告諸比丘：「此世間如是欲、如是望、如是愛、如是樂、如是意，令不喜、不愛、不可法滅，喜、愛、可法生。彼如是欲、如是望、如是愛、如是樂、如是意，然不喜、不愛、不可法生，喜、愛、可法滅，此是癡法。我法甚深，難見、難覺、難達。如是我法甚深，難見、難覺、難達，不喜、不愛、不可法滅，喜、愛、可法生，是不癡法。

> その時、世尊は比丘たちに告げられました。 「この世には、このような欲、このような願い、このような愛着、このような楽しみ、このような思いがあります。それらによって、好ましくないもの、愛しくないもの、正しくない法が消え去り、好ましいもの、愛しいもの、正しい法が生じます。 しかし、もしそのような欲、願い、愛着、楽しみ、思いがあるにもかかわらず、好ましくないもの、愛しくないもの、正しくない法が生じ、好ましいもの、愛しいもの、正しい法が消え去るならば、これは無知の法です。 私の教えは非常に深く、見ることも難しく、悟ることも難しく、到達することも難しいものです。 このように、私の教えは非常に深く、見ることも難しく、悟ることも難しく、到達することも難しいのですが、好ましくないもの、愛しくないもの、正しくない法が消え去り、好ましいもの、愛しいもの、正しい法が生じるならば、それは無知ではない法なのです。」

「世間真實有四種受法。云何為四？或有受法現樂、當來受苦報，或有受法現苦、當來受樂報，或有受法現苦、當來亦受苦報，或有受法現樂、當來亦受樂報。

> 世の中には、真実の四種類の受取り方があります。どのような四種類かといえば、ある受取り方は、現在は楽しいが将来苦しみの報いを受け、ある受取り方は、現在は苦しいが将来楽しい報いを受け、ある受取り方は、現在も苦しく将来も苦しい報いを受け、ある受取り方は、現在も楽しく将来も楽しい報いを受ける、というものです。

「云何受法現樂、當來受苦報？或有一自樂自喜殺生，因殺生，生樂生喜，彼自樂自喜不與取、邪婬、妄言乃至邪見，因邪見，生樂生喜。如是身樂、心樂，不善從、不善生，不趣智、不趣覺、不趣涅槃，是謂受法現樂、當來受苦報。

「云何受法現苦、當來受樂報？或有一自苦自憂斷殺，因斷殺，生苦生憂，彼自苦自憂斷不與取、邪婬、妄言乃至斷邪見，因斷邪見，生苦生憂。如是身苦、心苦，善從、善生，趣智、趣覺、趣於涅槃，是謂受法現苦、當來受樂報。

> ある修行のあり方として、現在は苦しみを伴うが、未来には楽しい報いをもたらすものがある。それは、ある人が自ら苦しみ、悩みながらも殺生を断つことである。殺生を断つことによって、苦しみや悩みが生じる。その人は、自ら苦しみ、悩みながらも、与えられていないものを取らないこと、邪な性的行為をしないこと、虚偽の言葉を語らないこと、さらには誤った見解を断つことを行う。誤った見解を断つことによっても、苦しみや悩みが生じる。このように、身体的な苦しみと心の苦しみを経つつも、善に従い、善を生み出し、智慧へ向かい、目覚めへ向かい、涅槃へと向かう。これを、現在は

「云何受法現苦、當來亦受苦報？或有一自苦自憂殺生，因殺生，生苦生憂，彼自苦自憂不與取、邪婬、妄言乃至邪見，因邪見生苦、生憂。如是身苦、心苦，不善從、不善生，不趣智、不趣覺、不趣涅槃，是謂受法現苦、當來亦受苦報。

> 「どのような行いが、現在も苦しみをもたらし、未来にも苦しい報いをもたらすのでしょうか。ある人は自ら苦しみ、悩みながら生き物を殺します。その殺生によって苦しみや悩みが生じます。同じように、自ら苦しみ、悩みながら、与えられていないものを取ったり、よこしまな行いをしたり、偽りの言葉を語ったり、さらには誤った見解に執着します。それらの悪しき見解によっても、苦しみと悩みが生じます。このように、身も心も苦しみ、善からぬ行いから生まれ、善からぬことを育て、智慧へ向かわず、悟りへ向かわず、涅槃へ向かいません。これが、現在も苦しみをもたらし、未来にも苦しい報いをもたらす行いなのです。」

「云何受法現樂、當來亦受樂報？或有一自樂自喜斷殺，因斷殺，生樂生喜，彼自樂自喜斷不與取、邪婬、妄言乃至斷邪見，因斷邪見，生樂生喜。如是身樂、心樂，善從、善生，趣智、趣覺、趣於涅槃，是謂受法現樂當來亦受樂報。

> 「どのような教えが、現世において楽をもたらし、未来においても楽の報いをもたらすのでしょうか。ある人は、自ら喜び楽しんで殺生を断ちます。殺生を断つことによって、楽が生まれ、喜びが生まれます。その人は、自ら喜び楽しんで、与えられていないものを取ること、邪な行い、偽りの言葉、さらには邪な見解を断ちます。邪な見解を断つことによって、楽が生まれ、喜びが生まれます。このように、身の楽、心の楽があり、善に従い、善から生まれ、智慧へと向かい、覚りへと向かい、涅槃へと向かいます。これを、現世において楽を受け、未来においても楽の報いを受ける教えといいます。」

「若有受法現樂、當來受苦報，彼癡者不知如真，此受法現樂、當來受苦報，不知如真已，便習行不斷，習行不斷已，便不喜、不愛、不可法生，喜、愛、可法滅。猶如阿摩尼藥，一分好色香味，然雜以毒，或有人為病故服，服時好色香味，可口而不傷咽，服已在腹，便不成藥。如是此受法現樂、當來受苦報，彼癡者不知如真，此受法現樂、當來受苦報，不知如真已，便習行不斷，習行不斷已，便不喜、不愛、不可法生，喜、愛、可法滅，是謂癡法。

> もし、現在は楽しいが将来苦しみの報いをもたらす教えがあるとすれば、愚かな者はそれをありのままに知りません。この「現在は楽しいが将来苦しみの報いをもたらす教え」をありのままに知らないため、それを繰り返し実践し、その実践を断ち切りません。実践を断ち切らないため、好ましくない・愛しくない・受け入れがたい現象が生じ、好ましい・愛しい・受け入れられる現象は消え去ります。 これはちょうど、アモウニ薬のようなものです。見た目も香りも味も良いが、毒が混ぜられているとします。ある人が病気のためにそれを服用するとき、服用中は見た目も香りも味も良く、喉を傷めません。しかし腹の中に入ると、薬としての効き目はありません。 このように、この「現在は楽しいが将来苦しみの報いをもたらす教え」について、愚かな者はそれをありのままに知りません。「現在は楽しいが将来苦しみの報いをもたらす教え」をありのままに知らないため、それを繰り返し実践し、断ち切りません。実践を断ち切らないため、好ましくない・愛しくない・受け入れがたい現象が生じ、好ましい・愛しい・受け入れられる現象は消え去ります。これが愚かな者の在り方です。

「若有受法現苦、當來受樂報，彼癡者不知如真，此受法現苦、當來受樂報，不知如真已，便不習行而斷之，不習行斷已，便不喜、不愛、不可法生，喜、愛、可法滅，是謂癡法。

> もし今は苦しい修行法であっても、未来に楽しい報いをもたらすものがある。しかし愚かな人は、これをあるがままに理解しない。この「今は苦しく未来に楽しい報いをもたらす教え」を正しく理解しないため、それを実践せずに断ち切ってしまう。実践せずに断ち切った結果、喜びも愛着も、心を楽しませるものも生まれず、喜びも愛着も楽しみも消え去ってしまう。これが愚かな人の道である。

「若有受法現苦、當來亦受苦報，彼癡者不知如真，此受法現苦、當來亦受苦報，不知如真已，便習行不斷，習行不斷已，便不喜、不愛、不可法生，喜、愛、可法滅。猶如大小便，復雜以毒，或有人為病故服，服時惡色臭無味，不可口而傷咽，服已在腹便不成藥。如是此受法現苦、當來亦受苦報，彼癡者不知如真，此受法現苦、當來亦受苦報，不知如真已，便習行不斷，習行不斷已，便不喜、不愛、不可法生，喜、愛、可法滅，是謂癡法。

> ある修行法があり、現在苦しく、未来にも苦しい報いがある。それを愚かな者は、あるがままに知らない。この修行法は現在苦しく、未来にも苦しい報いがあると、あるがままに知らないので、それに習い行い、やめない。習い行い、やめないことにより、好ましくない、愛着できない、受け入れがたい法が生じ、好ましい、愛着できる、受け入れられる法が滅する。それはちょうど、大小便に毒を混ぜたようなものである。ある人が病気のための薬としてそれを飲む。飲むときは、色は悪く、臭く、味がなく、口に合わず、喉を傷める。飲んだ後、腹の中では薬の効き目がない。このように、この修行法は現在苦しく、未来にも苦しい報いがある。愚かな者はそれをあるがままに知らない。この修行法は現在苦しく、未来にも苦しい報いがあると、あるがままに知らないので、それに習い行い、やめない。習い行い、やめないことにより、好ましくない、愛着できない、受け入れがたい法が生じ、好ましい、愛着できる、受け入れられる法が滅する。これを愚かな者の法という。

「若有受法現樂、當來亦受樂報，彼癡者不知如真，此受法現樂、當來亦受樂報，不知如真已，便不習行而斷之，不習行斷已，便不喜、不愛、不可法生，喜、愛、可法滅，是謂癡法。彼習行法不知如真，不習行法不知如真，習行法不知如真，不習行法不知如真已，不習行法習，習行法不習，不習行法習，習行法不習已，便不喜，不愛、不可法生，喜、愛、可法滅，是謂癡法。

> もし、現世において楽をもたらす修行法があり、来世にも楽の報いがあるとしても、愚かな人は、それをあるがままに知りません。現世に楽をもたらし、来世にも楽の報いがあるこの修行法を、あるがままに知らないので、それを実践せずに断ち切ってしまいます。実践せずに断ち切ってしまうと、喜びのない、愛着のない、好ましくない法（現象）が生じ、喜び、愛着、好ましい法は消え去ります。これを愚かな人の法といいます。 また、彼は実践すべき法をあるがままに知らず、実践すべきでない法も知りません。実践すべき法とすべきでない法を知らないので、実践すべきでない法を実践し、実践すべき法を実践しなくなります。そうなると、喜びのない、愛着のない、好ましくない法が生じ、喜び、愛着、好ましい法は消え去ります。これもまた、愚かな人の法なのです。

「若有受法現樂、當來受苦報，彼慧者知如真，此受法現樂、當來受苦報，知如真已，便不習行而斷之，不習行斷已，便喜、愛、可法生，不喜、不愛、不可法滅，是謂慧法。若有受法現苦、當來受樂報，彼慧者知如真，此受法現苦、當來受樂報，知如真已，便習行不斷，習行不斷已，便喜、愛、可法生，不喜、不愛、不可法滅。猶如大小便和若干種藥，或有人為病故服，服時惡色臭無味，不可口而傷咽，服已在腹便成藥。如是此受法現苦、當來受樂報，彼慧者知如真，此受法現苦、當來受樂報，知如真已，便習行不斷，習行不斷已，便喜、愛、可法生，不喜、不愛、不可法滅，是謂慧法。

> ある修行法は、今は楽でも将来苦しみの報いをもたらす。賢者はこれをあるがままに知る。その修行法が現世では楽で来世では苦しみの報いをもたらすと、あるがままに知ったならば、それを実践せずに断ち切る。実践せず断ち切ったならば、喜び・愛着・執着する心は生じ、喜ばない・愛着しない・執着しない心は滅する。これを智慧ある法という。 また、ある修行法は、今は苦しくとも将来楽しい報いをもたらす。賢者はこれをあるがままに知る。その修行法が現世では苦しく来世では楽しい報いをもたらすと、あるがままに知ったならば、それを実践し断ち切らない。実践し断ち切らなければ、喜び・愛着・執着する心は生じ、喜ばない・愛着しない・執着しない心は滅する。例えば、大小便と様々な薬を混ぜたものを、ある人が病気の治療のために服むとする。服むときは色も悪く匂いもなく味もなく、口に合わず喉を傷めるが、腹に入れば薬となる。まさにそのように、現世では苦しくとも来世では楽しい報いをもたらす修行法がある。賢者はこれをあるがままに知る。それをあるがままに知ったならば、実践して断ち切らない。実践して断ち切らなければ、喜び・愛着・執着する心が生じ、喜ばない・愛着しない・執着しない心は滅する。これを智慧ある法という。

「若有受法現苦、當來亦受苦報，彼慧者知如真，此受法現苦、當來亦受苦報，知如真已，便不習行而斷之，不習行斷已，便喜、愛、可法生，不喜、不愛、不可法滅，是謂慧法。若有受法現樂、當來亦受樂報，彼慧者知如真，此受法現樂、當來亦受樂報，知如真已，便習行不斷，習行不斷已，便喜、愛、可法生，不喜、不愛、不可法滅。猶如酥、蜜和若干種藥，或有人為病故服，服時好色香味，可口而不傷咽，服已在腹便成藥。如是此受法現樂、當來亦受樂報，彼慧者知如真，此受法現樂、當來亦受樂報，知如真已，便習行不斷，習行不斷已，便喜、愛、可法生，不喜、不愛、不可法滅，是謂慧法。彼習行法知如真，不習行法知如真，習行法知如真，不習行法知如真已，便習行法習，不習行法不習，習行法習，不習行法不習已，便喜、愛、可法生，不喜、不愛、不可法滅，是謂慧法。世間真實有是四種受法者，因此故說。」

> ある修行法が、現世では苦しく、来世でも苦しい報いをもたらす場合、賢い人はそれをありのままに知る。すなわち、「この修行法は現世で苦しく、来世でも苦しい報いをもたらす」とありのままに知ったならば、その修行法を実践せず、それを断ち切る。実践せず断ち切ったならば、喜び、愛着、執着の心が生まれ、喜びのないこと、愛着のないこと、執着のないことが現れる。これを智慧ある修行法という。 また、ある修行法が、現世では楽しく、来世でも楽しい報いをもたらす場合、賢い人はそれをありのままに知る。すなわち、「この修行法は現世で楽しく、来世でも楽しい報いをもたらす」とありのままに知ったならば、その修行法を実践し、断ち切らない。実践し断ち切らないならば、喜び、愛着、執着の心が生まれ、喜びのないこと、愛着のないこと、執着のないことが現れる。ちょうど、バターや蜂蜜に様々な薬を混ぜたものを、病人が治療のために飲むようなものである。飲むときには美しい色と香りと味がして、飲みやすく喉を傷めず、飲んだ後は体内で薬として効く。このように、ある修行法が現世で楽しく、来世でも楽しい報いをもたらす場合、賢い人はそれをありのままに知り、実践し断ち切らないことで、喜び、愛着、執着の心が生まれ、反対のものが滅する。これも智慧ある修行法という。 彼は、実践すべき法をありのままに知り、実践すべきでない法をありのままに知る。実践すべき法と、実践すべきでない法をありのままに知ったならば、実践すべき法を実践し、実践すべきでない法を実践しない。こうして、喜び、愛着、執着の心が生まれ、反対のものが滅する。これも智慧ある修行法という。 世の中には、実にこれらの四種類の修行法が存在する。このために、このように説かれたのである。

佛說如是。彼諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。

> このように仏は説かれました。比丘たちは仏の説かれたことを聞き、喜んでお受け取りになりました。

受法經第四竟一千五百七十五字

> 第四経「受法経」終わり<注>千五百七十五字</注>

## 中阿含經卷第四十五六千二百九十五字

> 中阿含経 第四十五巻<note>六二九五字</note>