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title: "中阿含經 · 176 行禪經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
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## 中阿含經卷第四十六

> 中阿含経 第四十六巻

東晉罽賓三藏瞿曇僧伽提婆譯

> 東晋・罽賓三蔵・瞿曇僧伽提婆 訳

### （一七六）心品行禪經第五第四分別誦

> （一七六）心品 禅経 第五<note>第四分別誦</note>

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊舍衛國，在勝林給孤獨園。

> ある時、お釈迦さまは舎衛国に滞在され、勝林給孤独園におられました。

爾時，世尊告諸比丘：「世間真實有四種行禪者。云何為四？或有行禪者熾盛而謂衰退，或有行禪者衰退而謂熾盛，或有行禪者衰退則知衰退如真，或有行禪者熾盛則知熾盛如真。

> その時、世尊は比丘たちに告げられた。「世の中には、実に四種類の禅修行者がいる。その四つとは何か。 ある禅修行者は、心が活発でありながら、それを衰退していると誤って捉える。 ある禅修行者は、心が衰退しているのに、それを活発であると誤って捉える。 ある禅修行者は、心が衰退している時は、それを衰退しているとありのままに知る。 ある禅修行者は、心が活発である時は、それを活発であるとありのままに知る。」

「云何行禪者熾盛而謂衰退？彼行禪者離欲、離惡不善之法，有覺、有觀，離生喜、樂，得初禪成就遊。彼心修習正思，則從初禪趣第二禪，是勝息寂。彼行禪者便作是念：『我心離本相，更趣餘處，失初禪，滅定也。』彼行禪者不知如真，『我心修習正思，快樂息寂，則從初禪趣第二禪，是勝息寂。』彼不知如真已，於如退轉，意便失定，如是行禪者熾盛而謂衰退。

> 「どのように禅修行者は、盛んであるのに衰退していると言われるのか。その禅修行者は、欲望を離れ、悪しき善ならざる法を離れ、尋・伺を伴い、離欲から生じる喜びと楽を有する初禅を成就して安住する。しかし、その心は正しく思惟を修めることができず、初禅から第二禅へと進み、より優れた寂静へと向かわない。そこで禅修行者は考える。『我が心は本来の相を失い、他の境地へと向かい、初禅を失い、定も滅してしまった』と。その禅修行者は、ありのままに知ることができない。『我が心が正しく思惟を修め、快楽と寂静を得れば、則ち初禅から第二禅へと進み、より優れた寂静となる』と。そのことをありのままに知ることができないので、その境地から退転し、心は定を失う。このように、禅修行者は盛んであるのに衰退していると言われるのである。」

「復次，行禪者覺、觀已息，內靖、一心，無覺、無觀，定生喜、樂，得第二禪成就遊。彼心修習正思，從第二禪趣第三禪，是勝息寂。彼行禪者便作是念：『我心離本相，更趣餘處，失第二禪，滅定也。』彼行禪者不知如真，『我心修習正思，快樂息寂，從第二禪趣第三禪，是勝息寂。』彼不知如真已，於如退轉，意便失定，如是行禪者熾盛而謂衰退。

> 修行者は、思考と観察が静まり、内面が静かになり、心が一つに統一される。思考も観察もなく、禅定から生まれる喜びと安らぎがあり、第二禅の境地を達成して安住する。 その修行者は心を正しい思惟によって修習し、第二禅から第三禅へと進む。これはより勝れた静寂である。 そこで修行者はこう思う。「私の心は本来の在り方を離れ、別の境地へと移ってしまった。第二禅を失い、禅定が消滅した」と。 しかし修行者は、このように如実に知らない。「私の心は正しい思惟によって修習され、喜びと静寂を楽しみ、第二禅から第三禅へと進んでいる。これこそがより勝れた静寂である」と。 如実に知らないがゆえに、真実から退転し、心は禅定を失う。このように、修行者は盛んでありながら、衰退していると誤って認識するのである。

「復次，行禪者離於喜欲，捨無求遊，正念正智而身覺樂，謂聖所說聖所捨、念、樂住室，得第三禪成就遊。彼心修習正思，從第三禪趣第四禪，是勝息寂。彼行禪者便作是念：『我心離本相，更趣餘處，失第三禪，滅定也。』彼行禪者不知如真，『我心修習正思，快樂息寂，從第三禪趣第四禪，是勝息寂。』彼不知如真已，於如退轉，意便失定，如是行禪者熾盛而謂衰退。

> さらに、瞑想を修行する者は、喜びや欲を離れ、無欲の境地に遊び、正しい念（おもい）と正しい智慧（ちえ）によって身体的な安らぎを感じる。これは聖者が説き、聖者が手放し、念と安らぎに満ちた境地であり、第三禅の成就に遊ぶのである。その心は正しい思考を修め、第三禅から第四禅へと進む。これが優れた静寂（しじま）である。その瞑想修行者はこう思うであろう。「我が心は本来の相（すがた）を離れ、他の場所へ向かい、第三禅を失い、心の統一を滅ぼしてしまった」と。その瞑想修行者は、「我が心は正しい思考を修め、安らぎと静寂に喜び、第三禅から第四禅へと進む。これが優れた静寂である」ということを、あるがままに理解していない。あるがままに理解しないと、真理から退き、心は統一を失う。このように、瞑想修行者は盛んになっているのに、衰退していると錯覚するのである。

「復次，行禪者樂滅、苦滅，喜、憂本已滅，不苦不樂、捨、念、清淨，得第四禪成就遊，彼心修習正思，從第四禪趣無量空處，是勝息寂。彼行禪者便作是念：『我心離本相，更趣餘處，失第四禪，滅定也。』彼行禪者不知如真，『我心修習正思，快樂息寂，從第四禪趣無量空處，是勝息寂。』彼不知如真已，於如退轉，意便失定，如是行禪者熾盛而謂衰退。

> さらに、瞑想修行者は、楽と苦が滅し、喜びも憂いもすでに滅した状態に達し、苦でもなく楽でもない、捨・念・清浄を具えた第四禅を得て安住します。その心は正しい思惟を修め、第四禅から無量空処へと進みます。これは、より優れた静寂の境地です。ところが、ある瞑想修行者はこう考えます。「私の心は本来の相（第四禅）を離れ、他の境地へと向かった。第四禅を失い、定が消滅した」と。この瞑想修行者は、次のことをあるがままに知りません。「私の心は正しい思惟を修め、楽しく静寂なる境地へと進んでいる。第四禅から無量空処へ進むことは、より優れた静寂である」と。彼は、あるがままに知らないため、真理から退転し、心は定を失います。このように、瞑想修行者は、実際には進歩しているのに、衰退していると誤って思い込むのです。

「復次，行禪者度一切色想，滅有對想，不念若干想，無量空，是無量空處成就遊，彼心修習正思，從無量空處趣無量識處，是勝息寂。彼行禪者便作是念：『我心離本相，更趣餘處，失無量空處，滅定也。』彼行禪者不知如真，『我心修習正思，快樂息寂，從無量空處趣無量識處，是勝息寂。』彼不知如真已，於如退轉，意便失定，如是行禪者熾盛而謂衰退。

「復次，行禪者度一切無量空處，無量識，是無量識處成就遊，彼心修習正思，從無量識處趣無所有處，是勝息寂。彼行禪者便作是念：『我心離本相，更趣餘處，失無量識處，滅定也。』彼行禪者不知如真，『我心修習正思，快樂息寂，從無量識處趣無所有處，是勝息寂。』彼不知如真已，於如退轉，意便失定，如是行禪者熾盛而謂衰退。

> さらに、瞑想を修行する者は、全ての無量空処を超え、無量の識を超えて、この無量識処において成就し安住する。その心を修め正しく思惟し、無量識処から無所有処へと進む。これは優れた寂静である。その瞑想を修行する者は、「私の心は本来の相を離れ、さらに他の境地へと向かい、無量識処を失い、定が消滅した」と考える。その瞑想を修行する者は、真実の如く知らない。「私の心は正しく思惟し修められ、楽しく寂静であり、無量識処から無所有処へと進む。これは優れた寂静である」と。そのように真実の如く知らないことから、真理から退転し、心は定を失う。これにより、瞑想を修行する者は、盛んでありながら衰退していると誤って捉えるのである。

「復次，行禪者度一切無量識處，無所有，是無所有處成就遊，彼心修習正思，從無所有處趣非有想非無想處，是勝息寂。彼行禪者便作是念：『我心離本相，更趣餘處，失無所有處，滅定也。』彼行禪者不知如真，『我心修習正思，快樂息寂，從無所有處趣非有想非無想處，是勝息寂。』彼不知如真已，於如退轉，意便失定，如是行禪者熾盛而謂衰退。

> さらに、瞑想を行う者は、あらゆる無量識処を超え、何もない状態、すなわち無所有処を成就してそこに安住する。その心は正しく思惟を修め、無所有処から非有想非無想処へと向かい、これこそが優れた寂静である。しかし、瞑想を行う者はこう思う。「私の心は本来の状態を離れ、別の場所へと移り、無所有処を失い、定が消滅した」と。その瞑想者は、真実のとおりに理解していない。「私の心は正しく思惟を修め、楽しく寂静であり、無所有処から非有想非無想処へと向かい、これこそが優れた寂静である」と。真実のとおりに理解していないので、その如きものから退転し、心は定を失う。このように、瞑想を行う者は盛んであるのに、衰退していると考えるのである。

「云何行禪者衰退而謂熾盛？彼行禪者離欲、離惡不善之法，有覺、有觀，離生喜、樂，得初禪成就遊。彼思餘小想，修習第二禪道，彼行禪者便作是念：『我心修習正思，快樂息寂，則從初禪趣第二禪，是勝息寂。』彼行禪者不知如真，『寧可思厭相應想入初禪，不應思餘小想入第二禪。』彼不知如真已，不覺彼心而便失定，如是行禪者衰退而謂熾盛。

> 禅を行う者が、衰退しているのに「盛んである」と誤って考えるとは、どのようなことか。その禅を行う者は、欲望を離れ、善からぬ不善の法を離れ、尋（はっきりとした思考）・伺（微細な思考）を伴い、離欲から生じる喜びと楽（安らぎ）を得て、初禅を成就して安住する。そこで彼は、「他の微細な想い」を思って、第二禅の道を修習しようとする。その禅を行う者は、このように考える。「我心は正しい思惟を修習し、楽（安らぎ）にして息滅しており、まさに初禅から第二禅へと進むべきである。この第二禅こそ、より優れた息滅である」と。しかし、この禅を行う者は、真理をありのままに知らない。「むしろ、嫌悪に相応する想いを思って初禅に入るべきであって、他の微細な想いを思って第二禅に入るべきではない」と。彼は真理をありのままに知らないがゆえに、その心を自覚することができず、たちまち禅定を失ってしまう。このように、禅を行う者は衰退しているのに「盛んである」と誤って考えるのである。

「復次，行禪者覺、觀已息，內靖、一心，無覺、無觀，定生喜、樂，得第二禪成就遊。彼思餘小想，修習第三禪道，彼行禪者便作是念：『我心修習正思，快樂息寂，從第二禪趣第三禪，是勝息寂。』彼行禪者不知如真，『寧可思厭相應想入第二禪，不應思餘小想入第三禪。』彼不知如真已，不覺彼心而便失定，如是行禪者衰退而謂熾盛。

> 次に、瞑想する者は、思考と観察が静まり、内が静まり、心が一つになり、思考も観察もなく、定から生じる喜びと楽を体得して、第二禅を成就して安住する。彼は、他の小さな想念を思って、第三禅の道を修行する。その瞑想する者は、こう思うだろう。『私の心は正しく思惟を修習し、楽しく、息災であり、第二禅から第三禅へと進む。これは優れた息災である。』しかし、その瞑想する者は、真実のままに知らない。『むしろ、厭離に相応する想いを思って第二禅に入るべきである。他の小さな想念を思って第三禅に入るべきではない。』と。彼は真実のままに知らないので、その心を覚らず、たちまち定を失う。このように、瞑想する者は衰退しながら、それを盛んであると錯覚するのである。

「復次，行禪者離於喜欲，捨無求遊，正念正智而身覺樂。謂聖所說聖所捨、念、樂住室，得第三禪成就遊。彼思餘小想，修習第四禪道，彼行禪者便作是念：『我心修習正思，快樂息寂，從第三禪趣第四禪，是勝息寂。』彼行禪者不知如真，『寧可思厭相應想入第三禪，不應思餘小想入第四禪。』彼不知如真已，不覺彼心而便失定，如是行禪者衰退而謂熾盛。

> さらに、修行者は、喜びや欲を離れ、執着なく、心を落ち着け、正しい気づきと智慧をもって、身体そのものに安らぎを感じる。これは聖者が説き、聖者が執着を離れ、気づきと安らぎの境地に住むとされる、第三禅の境地を成就してそこに遊ぶのである。彼は他の小さな想いを思うことをやめ、第四禅の道を修習する。すると、その修行者はこう考える。「私は心を修め、正しく思いを巡らせ、喜びと静けさを得ている。第三禅から第四禅へと進むのは、より優れた静けさである」と。 しかし、修行者はこれをあるがままに理解していない。「むしろ、厭離に相応する想いをもって第三禅に入るべきであり、他の小さな想いをもって第四禅に入るべきではない」と。彼はあるがままに理解していないので、その心が気づかれず、そのまま禅定を失ってしまう。このように、修行者は退歩しているのに、それを進歩していると誤って思うのである。

「復次，行禪者樂滅、苦滅，喜、憂本已滅，不苦不樂、捨、念、清淨，得第四禪成就遊。彼思餘小想，修習無量空處道，彼行禪者便作是念：『我心修習正思，快樂息寂，從第四禪趣無量空處，是勝息寂。』彼行禪者不知如真，『寧可思厭相應想入第四禪，不應思餘小想入無量空處。』彼不知如真已，不覺彼心而便失定，如是行禪者衰退而謂熾盛。

> さらに、瞑想修行者は、楽しみと苦しみを滅し、喜びと憂いがすでに滅した後、苦しくもなく楽しくもない、捨・念・清浄の第四禅を得て、その境地に安住します。彼は他の微細な想いを考え、無量空処の道を修習します。すると、その瞑想修行者はこう思います：「私の心は正しく思惟し、平静で安らかである。第四禅から無量空処へ向かうことこそ、より勝れた安らぎである」と。 しかし、瞑想修行者はこれをありのままに理解していません。「むしろ厭離に相応する想いを起こして第四禅に入るべきであって、他の微細な想いを考えて無量空処に入るべきではない」と。彼はこれをありのままに理解しないがゆえに、その心を自覚できず、さらに定を失ってしまいます。このように、瞑想修行者は衰退しているのに、それを盛んであると錯覚するのです。

「復次，行禪者度一切色想，滅有對想，不念若干想，無量空，是無量空處成就遊。彼思餘小想，修習無量識處道，彼行禪者便作是念：『我心修習正思，快樂息寂，從無量空處趣無量識處，是勝息寂。』彼行禪者不知如真，『寧可思厭相應想入無量空處，不應思餘小想入無量識處。』彼不知如真已，不覺彼心而便失定，如是行禪者衰退而謂熾盛。

> 次に、瞑想を実践する者は、あらゆる「色」（物質的なイメージ）の想いを超越し、「対」（対立する感覚）の想いを滅し、様々な（多様な）想いに執着せず、「無限の虚空」という境地に達する。これを「無量空処」の成就と遊ぶという。 その瞑想者は、その他の小さな想いを思い巡らせ、無限の認識（識）の境地へ向かう道を修行する。そして、こう考える。「私の心は正しい思惟を修め、安らかで静かな喜びを得ている。無量空処から無量識処へと進むことが、より優れた静寂なのだ」と。 しかし、この瞑想者は真実を如実に知らない。「むしろ、厭離（厭うこと）に相応する想いを修して無量空処に入るべきであって、他の小さな想いを思って無量識処に入るべきではない」と。 彼は真実を如実に知らないがゆえに、その心を自覚できず、たちまち禅定を失ってしまう。このように、瞑想を実践する者は退歩しているのに、かえって「盛んになった」と錯覚するのである。

「復次，行禪者度一切無量空處，無量識處，是無量識處成就遊。彼思餘小想，修習無所有處道，彼行禪者便作是念：『我心修習正思，快樂息寂，從無量識處趣至無所有處，是勝息寂。』彼行禪者不知如真，『寧可思厭相應想入無量識處，不應思餘小想入無所有處。』彼不知如真已，不覺彼心而便失定，如是行禪者衰退而謂熾盛。

> さらに、修行者は、あらゆる無量空処を超え、無量識処（無限の認識の領域）に達し、その無量識処において成就して安住します。その者は他の小さな観念を思って、無所有処（何ものもない領域）への道を修習します。すると、修行者はこのように思います。「私の心は正しい思惟を修習し、安らかに静まり、無量識処から無所有処へと進んだ。これこそが優れた静寂である。」しかし、この修行者は真理のままに知りません。「むしろ、厭離の心に対応する観念を思って無量識処に入るべきであり、他の小さな観念を思って無所有処に入るべきではない」ということを。彼は真理のままに知らないため、自らの心に気づかず、そのまま禅定を失います。このように、修行者は衰退しているのに、盛んになったと思い込むのです。

「復次，行禪者度一切無量識處，無所有，是無所有處成就遊。彼思餘小想，修習非有想非無想處道，彼行禪者便作是念：『我心修習正思，快樂息寂，從無所有處趣非有想非無想處，是勝息寂。』彼行禪者不知如真，『寧可思厭相應想入無所有處，不應思餘小想入非有想非無想處。』彼不知如真已，不覺彼心而便失定，如是行禪者衰退而謂熾盛。

> さらに、瞑想修行者は、あらゆる無量識処を超え、何もない状態である無所有処に達して、そこに安住します。その者は、他の小さな想いを思うのをやめて、非有想非無想処の道を修習します。そして、瞑想修行者はこう考えます。「我が心は正しく修習され、安らかで静まり返っている。無所有処から非有想非無想処へと趣くことこそ、この上ない安らぎである。」と。 しかし、その瞑想修行者は、真実の如く理解していません。「むしろ、厭離に相応する想いを思って無所有処に入るべきであり、他の小さな想いを思って非有想非無想処に入るべきではない。」と。 真実の如く理解していないため、その心は気づかぬうちに禅定を失ってしまいます。このように、瞑想修行者は衰退しているにもかかわらず、自らが盛んになっていると思い込むのです。

「云何行禪者衰退則知衰退如真？彼行禪者所行、所相、所標，度一切無所有處，非有想非無想，是非有想非無想處成就遊。彼不受此行，不念此，相、標，唯行無所有處相應念想本退具，彼行禪者便作是念：『我心離本相，更趣餘處，失非有想非無想處，滅定也。』彼知如真已，於如不退，意不失定，如是行禪者衰退則知衰退如真。

> 修行者が衰退を知り、衰退をあるがままに知るとは、どのようなことか。その修行者は、自らの修行、観想の対象、目標を超えて、一切無所有処を越え、非有想非無想の境地に達し、非有想非無想処の成就に遊ぶ。しかし、その修行者はこの境地に執着せず、この観想や目標に心を留めず、ただ無所有処に対応する念想の本来の退没の要素を修行する。そこで、その修行者はこのように思う。「我が心は本来の観想の対象から離れ、他の境地に向かい、非有想非無想処を失い、滅定を失った」と。彼はそれをあるがままに知り、そのあるがままにおいて退くことなく、心は定を失わない。このように、修行者は衰退を知るとき、衰退をあるがままに知るのである。

「復次，行禪者所行、所相、所標，度一切無量識處，無所有，是無所有處成就遊。彼不受此行，不念此相、標，唯行無量識處相應念想本所行。彼行禪者便作是念：『我心離本相，更趣餘處，失無所有處，滅定也。』彼知如真已，於如不退，意不失定，如是行禪者衰退則知衰退如真。

> 次に、瞑想修行者が実践する行、相、標識について。一切の無量識处を超え、無所有に達し、無所有処を成就して安住する。彼はこの行に執着せず、この相や標識に心を留めず、ただ無量識处に対応する念想、本来の行に心を向ける。その瞑想修行者はこう思う。「私の心は本来の相を離れ、他の場所へと向かい、無所有処を失い、定が消滅した」と。彼はこれを如実に知れば、真実から退かず、心は定を失わない。このように、瞑想修行者が退歩する場合は、その退歩を如実に知るのである。

「復次，行禪者所行、所相、所標，度一切無量空處，無量識，是無量識處成就遊。彼不受此行，不念此相、標，唯行無量空處相應念想本退具，彼行禪者便作是念：『我心離本相，更趣餘處，失無量識處，滅定也。』彼知如真已，於如不退，意不失定，如是行禪者衰退則知衰退如真。

> さらに、禅修行者が実践する行、相、標識により、あらゆる無量空処を超え、無量の識（認識）へと至り、無量識処の境地を成就して安住します。彼はこの行に執着せず、この相や標識を心に留めず、ただ無量空処に相応する念想（心のはたらき）の根本を退く備えだけを行います。その禅修行者はこう考えます——『私の心は根本の相から離れ、他の場所へと向かい、無量識処を失って、定から滅びてしまった』と。彼がこれを真実のままに知るとき、真実から退かず、心は定を失いません。このように禅修行者が衰退するならば、衰退を真実のままに知るのです。

「復次，行禪者所行、所相、所標，度一切色想，滅有對想，不念若干想，無量空，是無量空處成就遊。彼不受此行，不念此相、標，唯行色樂相應念想本退具，彼行禪者便作是念：『我心離本相，更趣餘處，失無量空處，滅定也。』彼知如真已，於如不退，意不失定，如是行禪者衰退則知衰退如真。

> 次に、瞑想を実践する者が、修行し、目印とし、標識としているもの、すなわち、すべての「色」の想いを超え、「対立」の想いを滅ぼし、さまざまな想いに心を向けず、「無限の空」を観じる――この「無限の空処」を成就して安住する境地がある。その者は、この境地に執着せず、その目印や標識に固執しない。ただ、「色」の楽に相応する想いと、根源へと還る準備の要素だけを修行する。その瞑想の実践者は、こう思うだろう：「私の心は本来の目印から離れ、別の場所へと向かい、『無限の空処』を失い、その定め（禅定）から退いてしまった」と。もしその者が、このことをあるがままに知れば、その真実から退かず、心は定めを失わない。このように、瞑想の実践者が衰退するなら、衰退をあるがままに知るのである。

「復次，行禪者所行、所相、所標，樂滅、苦滅，喜、憂本已滅，不苦不樂、捨、念、清淨，得第四禪成就遊。彼不受此行，不念此相、標，唯行第三禪相應念想本退具，彼行禪者便作是念：『我心離本相，更趣餘處，失第四禪，滅定也。』彼知如真已，於如不退，意不失定，如是行禪者衰退則知衰退如真。

> さらに、瞑想修行者が実践するもの、修行の対象（相）、目印（標）について述べる。楽しみが消え、苦しみが消え、喜悦と憂いがすでに消え去り、苦でも楽でもなく、捨・念・清浄を備えた第四禅の境地に達して安住する。その修行者はこの行いに執着せず、この相や標にとらわれることなく、ただ第三禅に対応する念・想・本退具を修行する。すると、その瞑想修行者はこう思うだろう——「我が心は本来の相を離れ、別の場所へと向かい、第四禅を失い、滅尽定を失ってしまった」と。彼はそれをあるがままに知れば、その境地に退かず、心は定を失わない。このように、瞑想修行者が退堕する時は、その退堕をあるがままに知るのである。

「復次，行禪者所行、所相、所標，離於喜欲，捨無求遊，正念正智而身覺樂，謂聖所說聖所捨、念、樂住室，得第三禪成就遊。彼不受此行，不念此相、標，唯行第二禪相應念想本退具，彼行禪者便作是念：『我心離本相，更趣餘處，失第三禪，滅定也。』彼知如真已，於如不退，意不失定，如是行禪者衰退則知衰退如真。

> さらに、瞑想を修行する者が、その行い、その相、その標を離れ、喜びへの欲を離れて、捨てて求めることなく遊ぶ。正しい念と正しい智慧をもって、身に楽を感じる。これを聖者が説くところの、聖なる捨て、念、楽の住まいという。第三禅の成就に遊ぶ。その者はこの行いを受けず、この相や標を念じない。ただ第二禅に対応する念と想いの根本から退くための備えだけを行う。そこで瞑想修行者はこう思うだろう。「私の心は根本の相を離れて、別のところへ向かい、第三禅を失い、定を滅してしまった。」と。彼はそれをあるがままに知り、そのような状態から退かず、心は定を失わない。このように、瞑想修行者が衰退する場合には、衰退をあるがままに知るのである。

「復次，行禪者所行、所相、所標，覺、觀已息，內靖、一心，無覺、無觀，定生喜、樂，得第二禪成就遊。彼不受此行，不念此相、標，唯行初禪相應念想本退具，彼行禪者便作是念：『我心離本相，更趣餘處，失第二禪，滅定也。』彼知如真已，於如不退，意不失定，如是行禪者衰退則知衰退如真。

> さらに、瞑想修行者にとって、その行い、対象、指標となるものがあります。意識的な思考と観察が静まり、内側が鎮まり、心が一つになり、思考も観察もない状態、すなわち禅定から生まれる喜びと楽を得て、第二禅の成就に達して修行します。その人はこの行いに執着せず、この対象や指標に心を留めず、ただ初禅に対応する想念という根本の退くための準備を修行します。その瞑想修行者はこう思います：「私の心は根本の対象から離れ、別の場所へ向かい、第二禅を失い、禅定が滅したのだ」。彼はそれをありのままに知ると、その真理から退かず、心は禅定を失いません。このように、瞑想修行者が退くときは、退くことをありのままに知るのです。

「復次，行禪者所行、所相、所標，離欲、離惡不善之法，有覺、有觀，離生喜、樂，得初禪成就遊。彼不受此行，不念此相、標，唯行欲樂相應念想本退具，彼行禪者便作是念：『我心離本相，更趣餘處，失初禪，滅定也。』彼知如真已，於如不退，意不失定，如是行禪者衰退則知衰退如真。

> さらに、禅修行者が修行する際の行い、対象、指標について述べよう。欲望を離れ、善でもない悪い性質を離れ、気づきと観察を伴い、離欲から生じる喜びと安楽を体得し、初禅の境地に達して安住する。彼はこの修行に執着せず、この対象や指標に執らわれない。ただ欲望による安楽に相応した想念という根本的な退失の要素だけを実践する。その禅修行者はこう思うだろう――「私の心は本来の対象から離れ、別の場所へと向かい、初禅を失い、定を滅ぼしてしまった」と。彼がこれを真実のままに知ると、真実から退かず、心は定を失わない。このように、禅修行者が退失する場合は、衰退を真実のままに知るのである。

「云何行禪者熾盛則知熾盛如真？彼行禪者離欲、離惡不善之法，有覺、有觀，離生喜、樂，得初禪成就遊。彼心修習正思，快樂息寂，則從初禪趣第二禪，是勝息寂。彼行禪者便作是念：『我心修習正思，快樂息寂，則從初禪趣第二禪，是勝息寂。』彼知如真已，便覺彼心而不失定，如是行禪者熾盛則知熾盛如真。

> 禅を行う者にとって、修行が盛んになるとは何か、その盛んになることをあるがままに知るとはどのようなことか。 禅を行う者は、欲望を離れ、悪く善くない法を離れ、思考と考察を有し、離欲から生じる喜びと楽を体得して、初禅を成就して安住する。その心は正しい思念を修習し、安楽であり、静寂である。そこで初禅から第二禅へと進み、それはより勝れた静寂である。 その禅を行う者は、このように考える。「私の心は正しい思念を修習し、安楽であり、静寂である。そこで初禅から第二禅へと進む。これはより勝れた静寂である。」 彼はそれをあるがままに知ると、その心を自覚し、定を失うことがない。このように、禅を行う者は修行が盛んになることを知り、その盛んになることをあるがままに知るのである。

「復次，行禪者覺、觀已息，內靖、一心，無覺、無觀，定生喜、樂，得第二禪成就遊，彼心修習正思，快樂息寂，從第二禪趣第三禪，是勝息寂。彼行禪者便作是念：『我心修習正思，快樂息寂，從第二禪趣第三禪，是勝息寂。』彼知如真已，便覺彼心而不失定，如是行禪者熾盛則知熾盛如真。

> さらに、瞑想を修行する者は、思考と観察が静まり、内面が静かで心が一つになり、思考も観察もなく、集中から生まれる喜びと安らぎを得て、第二禅を得て安住する。その心は正しい思考を修め、喜びと安らぎをもって静寂に達し、第二禅から第三禅へと進む。これが優れた静寂である。その瞑想を修行する者は、こう考える。「私の心は正しい思考を修め、喜びと安らぎをもって静寂に達し、第二禅から第三禅へと進む。これが優れた静寂である。」と。彼はそれをあるがままに知ると、その心を覚知し、集中を失わない。このようにして、瞑想を修行する者が盛んになれば、盛んであることをあるがままに知る。

「復次，行禪者離於喜欲，捨無求遊，正念正智而身覺樂，謂聖所說聖所捨、念、樂住室，得第三禪成就遊。彼心修習正思，快樂息寂，從第三禪趣第四禪，是勝息寂。彼行禪者便作是念：『我心修習正思，快樂息寂，從第三禪趣第四禪，是勝息寂。』彼知如真已，便覺彼心而不失定，如是行禪者熾盛則知熾盛如真。

> さらに、瞑想を修行する者は、喜びや欲望を離れ、求めずに進み、正しい心づかいと正しい気づきをもって、身体に安らぎを感じる。これは聖者が説くところの、聖者が手放し、心づかいと楽しみに安住する境地であり、第三禅の成就を得て安住する。その心は正しい思考を修め、喜びが静まり寂滅する至福の中にあり、第三禅から第四禅へと進む。これが勝れた寂滅の境地である。その瞑想者はこう思うであろう。「我が心は正しい思考を修め、喜びが静まり寂滅する至福の中にあり、第三禅から第四禅へと進む。これが勝れた寂滅の境地である。」と。彼はそれをありのままに知り、その心を自覚して、集中を失わない。このように瞑想を修行する者が勇猛に励む時、その勇猛さをありのままに知るのである。

「復次，行禪者樂滅、苦滅，喜、憂本已滅，不苦不樂、捨、念、清淨，得第四禪成就遊。彼心修習正思，快樂息寂，從第四禪趣無量空處，是勝息寂。彼行禪者便作是念：『我心修習正思，快樂息寂，從第四禪趣無量空處，是勝息寂。』彼知如真已，便覺彼心而不失定，如是行禪者熾盛則知熾盛如真。

> さらに、瞑想を修行する者は、楽と苦が滅し、喜びと憂いがすでに滅した状態に達します。苦でもなく楽でもない、捨、念、清らかさを備えた第四禅を成就して安住します。その心は正しい思考を修習し、安らぎと静寂を楽しみ、第四禅から無量空処へと進みます。これは優れた安らぎと静寂です。その瞑想修行者はこう考えます。「我が心は正しい思考を修習し、安らぎと静寂を楽しみ、第四禅から無量空処へと進む。これは優れた安らぎと静寂である」と。彼はそれをあるがままに知ると、その心を覚り、定を失うことはありません。このように瞑想修行者が盛んになるとき、盛んであることをあるがままに知るのです。

「復次，行禪者度一切色想，滅有對想，不念若干想，無量空，是無量空處成就遊。彼心修習正思，快樂息寂，從無量空處趣無量識處，是勝息寂。彼行禪者便作是念：『我心修習正思，快樂息寂，從無量空處趣無量識處，是勝息寂。』彼知如真已，便覺彼心而不失定，如是行禪者熾盛則知熾盛如真。

> さらに、瞑想修行者は、あらゆる「色」というイメージを超え、対立するイメージをなくし、様々なイメージを想わなくなります。そして「無限の虚空」を観じ、この「空無辺処」の境地に達して安住します。その心は正しい思惟を修め、平安な静寂を楽しみます。この「空無辺処」から「識無辺処」（無限の意識）の境地へと進むこと、これこそが勝れた平安な静寂です。そこで瞑想修行者はこう考えます。「私の心は正しい思惟を修め、平安な静寂を楽しんでいる。『空無辺処』から『識無辺処』へと進むこと、これこそが勝れた平安な静寂である」と。彼はこれをあるがままに知り、その心を覚知して、禅定を失うことはありません。このように、瞑想修行者は修行が盛んになると、その盛んであることをあるがままに知るのです。

「復次，行禪者度一切無量空處，無量識，是無量識處成就遊。彼心修習正思，快樂息寂，從無量識處趣無所有處，是勝息寂。彼行禪者便作是念：『我心修習正思，快樂息寂，從無量識處趣無所有處，是勝息寂。』彼知如真已，便覺彼心而不失定，如是行禪者熾盛則知熾盛如真。

> 次に、瞑想修行者は一切の無量空処を超え、無量の識を観じて、「無量識処」を成就して安住します。その心を正しく修め、安らぎを楽しみ、無量識処から無所有処へと進む――これが勝れた安らぎです。その瞑想修行者はこう思います。「我が心は正しく修められ、安らぎを楽しみ、無量識処から無所有処へと進む。これが勝れた安らぎである」と。彼はそれをあるがままに知ると、その心を覚り、禅定を失うことはありません。このように、瞑想修行者が盛んになれば、盛んであることをあるがままに知るのです。

「復次，行禪者度一切無量識處，無所有，是無所有處成就遊。彼心修習正思，快樂息寂，從無所有處趣非有想非無想處，是勝息寂。彼行禪者便作是念：『我心修習正思，快樂息寂，從無所有處趣非有想非無想處，是勝息寂。』彼知如真已，便覺彼心而不失定，如是行禪者熾盛則知熾盛如真。世間實有是四種行禪者，因此故說。」

> また、瞑想を実践する者は、あらゆる無量識処をすべて超え、「何もない」という無所有処に達して安住します。その心を正しく修め、静寂の安らぎを味わい、無所有処から非有想非無想処へと進みます。これは優れた静寂です。その瞑想者はこう考えます。「私の心は正しく修められ、静寂の安らぎを味わい、無所有処から非有想非無想処へと進んだ。これは優れた静寂である」と。彼はこのことをありのままに知ると、その心を自覚し、定（集中）を失うことがありません。このように、瞑想を実践する者が修行を盛んに行うならば、その盛んな状態をありのままに知るのです。世の中には確かにこの四種の瞑想を実践する者がおり、このゆえに説かれたのです。

佛說如是。彼諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。

> このように仏は説かれました。比丘たちは仏の説かれたことを聞き、喜んでお受け取りになりました。

行禪經第五竟二千五百七十七字

> 行禅経 第五<br><note>二千五百七十七字</note>