---
title: "中阿含經 · 177 說經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma7j47xk0576jl0a0flhs42p"
---

### （一七七）中阿含心品說經第六第四分別誦

> （一七七）中阿含心品‧説経第六<note>第四分別誦</note>

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊拘樓瘦劒摩瑟曇拘樓都邑。

> ある時、佛陀は拘楼瘦（コーラヴィヤ）という国にある、剣摩瑟曇（ケーマセータン）という町におられました。

爾時，世尊告諸比丘：「我今當為汝等說法，初妙、中妙、竟亦妙，有義有文，具足清淨，顯現梵行，名四種說經。如四種說經分別其義。諦聽，諦聽，善思念之，我今當說。」

> その時、世尊は比丘たちに告げられた。 「これからあなたたちに、教えを説こう。 その教えは、初めも素晴らしく、中も素晴らしく、終わりもまた素晴らしい。 意味があり、言葉があり、完全で清らかであり、清らかな生き方を明らかに示すものである。 その名を『四種の説示経（よんしゅのせつじきょう）』という。 四種の説示経の意味を、それぞれに説き明かそう。 よく聞きなさい。よく聞いて、心にしっかりと留め、よく考えなさい。 今から説き明かそう。」

時，諸比丘受教而聽。

> さあ、諸々の比丘たちは教えを受け、それを聞こうとしました。

佛言：「云何四種說經分別其義？若有比丘所行、所相、所標，離欲、離惡不善之法，有覺、有觀，離生喜、樂，得初禪成就遊。彼不受此行，不念此相、標，唯行欲樂相應念想退轉具。彼比丘應當知，『我生此法，不住、不進，亦復不厭，我生此法而令我退，然我此定不得久住。』彼比丘應如是知。

> 仏は言われた。「どのように四種の経説の意味を分別するのか。ある比丘が行い、相、標（目印）を持つ場合、欲を離れ、悪く不善な法を離れ、尋（はっきりした思考）と伺（微細な思考）を伴い、離欲から生じる喜びと楽を体得し、初禅を成就して安住する。その時、彼がこの行に執着せず、この相や標を思い描かず、ただ欲楽に対応する想念に従って退転する状態となるならば、その比丘は知るべきである。『私にこの法が生じたが、留まりもせず、進みもせず、また嫌悪もせず、この法が生じて私を退転させる。そして、この定は長く保つことができない』と。比丘はこのように知るべきである。」

「復次，比丘所行、所相、所標，離欲、離惡不善之法，有覺、有觀，離生喜、樂，得初禪成就遊。彼受此行，念此相、標，立念如法，令住一意。彼比丘應當知，『我生此法，不退、不進，亦復不厭，我生此法能令我住，而我此定必得久住。』彼比丘應如是知。

> また、比丘（修行者）が実践し、観想し、目標とするものとは、欲望や不善なものごとから離れ、分別と熟考を伴い、離欲から生じる喜びと安らぎを持つ、初禅の境地を達成して安住することである。その修行者はこの実践を受け入れ、この観想と目標を心に留め、法（教え）に従って心を確立し、一つの対象に集中させる。その比丘は次のように知るべきである。「私はこの法を生じさせた。退くこともなく、進みすぎることもなく、また嫌悪することもない。私はこの法を生じさせたことで安住でき、そしてこの禅定は必ず長く持続するだろう。」比丘はこのように知るべきである。

「復次，比丘所行、所相、所標，離欲、離惡不善之法，有覺、有觀，離生喜、樂，得初禪成就遊。彼不受此行，不念此相、標，唯行第二禪相應念想昇進具。彼比丘應當知，『我生此法，不退、不住，亦復不厭，我生此法令我昇進，如是不久當得第二禪。』彼比丘應如是知。

> 比丘は、行い、境相、目印を超越して、欲と悪しき不善の法を離れ、思考と考察を伴い、離欲から生じる喜びと楽を体得する初禅を成就して過ごします。彼はこの行いに執着せず、この境相や目印に心をとどめず、第二禅に対応する想念、すなわち向上に進む基盤をさらに実践します。 その比丘は、以下のように知るべきです——「私はこの法を生じさせた。退くことなく、とどまることもなく、また嫌悪することもない。私はこの法を生じさせ、これによって私は向上する。このようにして、まもなく第二禅を得るだろう。」比丘は、このように、自らを認識すべきなのです。

「復次，比丘所行、所相、所標，離欲、離惡不善之法，有覺、有觀，離生喜、樂，得初離成就遊。彼不受此行，不念此相、標，唯行滅息相應念想無欲具。彼比丘應當知，『我生此法，不退、不住，亦不昇進，我生此法能令我厭，如是不久當得漏盡。』彼比丘應如是知。

> さらには、修行者よ。 修行の道において、比丘が行い、目指し、基準とするものが、 欲から離れ、悪しき不善の法から離れ、 思考と考察を伴い、 離欲から生まれる喜びと楽を味わい、 第一の離欲の境地を達成して安住する。 しかし、その比丘はこの行いに執着せず、 その相や基準に心を留めず、 ただ、滅びと静まりに相応する、 欲なきことを具えた想念を修める。 その比丘は次のように知るべきである。 「私はこの法（修行の境地）を生じた。それは退転せず、停滞せず、 また、より高い境地へと進むものでもない。 私はこの法を生じたが、それは私に厭離の心を起こさせるものであり、 そうして遠からずして、煩悩の滅尽を得るであろう。」 比丘は、このように知るべきである。

「復次，比丘所行、所相、所標，覺、觀已息，內靖、一心，無覺、無觀，定生喜、樂，得第二禪成就遊。彼不受此行，不念此相、標，唯行初禪相應念想退轉具。彼比丘應當知，『我生此法，不住、不進，亦復不厭，我生此法而令我退，然我此定不得久住。』彼比丘應如是知。

> さらに、比丘たちよ。修行における行い、捉え方、目印。これらについて、気づきと観察がすでに静まり、内側が清らかで心が一つとなり、気づきも観察もなく、静寂から生まれる喜びと楽がある、第二禅定を成就して安住する。彼はこの行いに執着せず、この捉え方や目印を心に留めない。ただ、初禅に対応する、気づきと想いが退き転じるための備えを修行する。その比丘は次のように知るべきである。「私はこの法を生じた。しかし、そこに留まらず、進まず、また厭うこともない。私はこの法を生じたが、それが私を退転させている。しかし、この禅定は長く続かない。」比丘はこのように知るべきである。

「復次，比丘所行、所相、所標，覺、觀已息，內靖、一心，無覺、無觀，定生喜、樂，得第二禪成就遊。彼受此行，念此相、標，立念如法，令住一意。彼比丘應當知，『我生此法，不退、不進，亦復不厭，我生此法能令我住，而我此定必得久住。』彼比丘應如是知。

> さらに、比丘よ、修行者が歩む道、心に描く対象、目指すべき目標について。気づきと考察が静まり、内側が清らかになり、心が一つになると、気づきも考察もないまま、集中から生まれる喜びと安らぎがある。これが第二の禅定に達し、それを保つことである。 その修行者はこの状態を受け止め、この対象や目標を心に刻み、正しく心を一つにして留まる。その比丘は次のように知るべきである。「私はこの法を生じさせた。退くこともなく、進むこともなく、また厭うこともない。私はこの法を生じさせ、それによって心を留めることができる。そしてこの禅定は、必ず長く持続するだろう」と。比丘はこのように知るべきである。

「復次，比丘所行、所相、所標，覺、觀已息，內靖、一心，無覺、無觀，定生喜、樂，得第二禪成就遊。彼不受此行，不念此相、標，唯行第三禪相應念想昇進具。彼比丘應當知，『我生此法，不退、不住，亦復不厭，我生此法令我昇進，如是不久當得第三禪。』彼比丘應如是知。

> さらに、比丘が行い、捉え、目印とするところにおいて、覚（粗い思惟）と観（細かい思惟）が静まり、内に静まり、心が一つになり、覚も観もなく、定から生じる喜びと楽を体得し、第二禅を成就して安住する。彼はこの行いに執着せず、この捉えや目印を想い起こさない。ただ、第三禅に相応する想念を修行し、向上し、具足する。 その比丘は知るべきである。「私はこの法を生じさせた。退失せず、停滞せず、また厭うことなく、この法は私を向上させる。このようにして、やがて第三禅を得るであろう」と。その比丘はこのように知るべきである。

「復次，比丘所行、所相、所標，覺、觀已息，內靖、一心，無覺、無觀，定生喜、樂，得第二禪成就遊。彼不受此行，不念此相、標，唯行滅息相應念想無欲具。彼比丘應當知，『我生此法，不退、不住，亦不昇進，我生此法能令我厭，如是不久當得漏盡。』彼比丘應如是知。

> さらに、比丘たちよ。修行者が行う行い、捉える相、目印とするものがある。しかし、心の働きと深い考察が静まり、内心が清らかになり、心が一つに統合されると、心の働きも深い考察もない状態となる。そこで静寂から生まれる喜悦と安楽が現れ、修行者は第二禅定を成就して安住する。 修行者はこの体験に執着せず、この相や目印に心を留めない。ただ心の作用が消え静まることに対応した、望みのない気づきと静寂を実践するのである。 その修行者は次のように知るべきである。「私はこの法を生じた。これは退転せず、留まることもなく、さらに高い境地へ進むこともない。この法は私に厭離をもたらす。このようにして、やがて私は煩悩の滅尽を得るだろう」と。修行者はこのように知るべきである。

「復次，比丘所行、所相、所標，離於喜欲，捨無求遊，正念正智而身覺樂，謂聖所說聖所捨、念、樂住室，得第三禪成就遊。彼不受此行，不念此相、標，唯行第二禪相應念想退轉具。彼比丘應當知，『我生此法，不住、不進，亦復不厭，我生此法而令我退，然我此定不得久住。』彼比丘應如是知。

> 「さらに、比丘たちよ。修行者が、行じる対象や、心に浮かぶ相や、目印となるものが、喜びへの欲から離れていて、それを手放し、何も求めずに安らかに過ごし、正しい気づきと正しい智慧を保って、身体で安らぎを感じる――これは聖者が説き、聖者が捨て、気づきと安らぎに満ちた境地に住む、とされる第三禅の成就を体得したとする。 その修行者は、この行じる対象を捉えず、この相や目印を心に留めない。ただ、第二禅に対応した、心の回転を引き起こすような気づきと想いを修行する。 その修行者は、次のように知るべきである。『私はこの境地を生み出したが、そこに留まることもできず、さらに進むこともできない。また、それを嫌うこともできない。この境地を生み出したことが、かえって私を退歩させている。そして、この私の定は、長くは続かないのだ。』と。 修行者は、このように知るべきである。」

「復次，比丘所行、所相、所標，離於喜欲，捨無求遊，正念正智而身覺樂，謂聖所說聖所捨、念、樂住室，得第三禪成就遊。彼受此行，念此相、標，立念如法，令住一意。彼比丘應當知，『我生此法，不退、不進，亦復不厭，我生此法能令我住，而我此定必得久住。』彼比丘應如是知。

> さらに、比丘が行うところ、相（特徴）とするところ、目印とするところ、それは喜びへの欲から離れ、執着なく求めずに進み、正しい気づきと正しい智慧をもって身体に楽（安らぎ）を感じることです。これは聖者が説き、聖者が手放し、気づきと楽に安住する境地であり、第三禅を成就してそこに遊ぶのです。彼はこの行いを受け、この相と目印を念じ、法（真理）の通りに気づきを確立し、心を一つに留めます。その比丘は知るべきです。「私はこの法を生じた。退くこともなく、進むこともなく、また厭うこともない。私はこの法を生じたことで、私を安住させることができ、この私の定（三昧）は必ず長く続くであろう」と。比丘はこのように知るべきです。

「復次，比丘所行、所相、所標，離於喜欲，捨無求遊，正念正智而身覺樂，謂聖所說聖所捨、念、樂住室，得第三禪成就遊。彼不受此行，不念此相、標，唯行第四禪相應念想昇進具。彼比丘應當知，『我生此法，不退、不住，亦復不厭，我生此法令我昇進，如是不久當得第四禪。』彼比丘應如是知。

> さらに、比丘が修行する行（行い）、相（特徴）、標（目印）について、喜びの欲を離れ、執着せずに求めを捨てて進み、正しい念いと正しい智慧を持ちながら、身で楽を感じる。これは聖者が説き、聖者が捨て、念いと楽に住む境地であり、第三禅を成就してその中に安住する。比丘はこの行に執着せず、この相や標に捉われず、第四禅に相応する念いと智慧の向上修行を実践する。比丘はこのように知るべきである。「私はこの法を生じた。退くことなく、止まることなく、また飽きることもない。私はこの法を生じて、さらに向上する。このようにして、やがて第四禅を得るだろう。」比丘はこのように知るべきである。

「復次，比丘所行、所相，所標，離於喜欲，捨無求遊，正念正智而身覺樂，謂聖所說聖所捨、念、樂住室，得第三禪成就遊。彼不受此行，不念此相、標，唯行滅息相應念想無欲具。彼比丘應當知，『我生此法，不退、不住，亦不昇進，我生此法能令我厭，如是不久當得漏盡。』彼比丘應如是知。

> さらに、比丘たちよ、修行者が実践し、心にとどめ、目標とするものがある。喜びへの執着から離れ、求めずに遊ぶようにあり、正しい気づきと智慧をもって身体の安らぎを感じる。これは聖者が説き、聖者が手放し、気づきと安らぎの境地に住むとされる第三禅の成就である。修行者はこの行に執着せず、この心の状態や目標を思い描くことなく、ただ消滅と対応する気づきや考え、欲のない状態を実践する。 その修行者は知るべきである。「私はこの法を生じさせた。退くことなく、とどまることなく、さらに進むこともない。この法は私に厭離をもたらし、やがて煩悩の滅尽を得るであろう」と。修行者はこのように知るべきである。

「復次，比丘所行、所相、所標，樂滅、苦滅，喜、憂本已滅，不苦不樂、捨、念、清淨，得第四禪成就遊。彼不受此行，不念此相、標，唯行第三禪相應念想退轉具。彼比丘應當知，『我生此法，不住、不進，亦復不厭，我生此法而令我退，然我此定不得久住。』彼比丘應如是知。

> 「また、比丘よ、行い、相、目標があって、楽と苦が滅し、喜びと憂いもすでに滅し、苦でもなく楽でもなく、捨てることと、念と、清らかさをもって、第四禅を得て成就して安住する。彼はこの行いを受け入れず、この相や目標を念じず、ただ第三禅に相応する念と想いに専念し、退転する諸々の事柄を具足する。その比丘は知るべきである。『私はこの法を生じたが、留まることも進むこともなく、また厭うこともない。私はこの法を生じたことで、かえって退転させる。しかし、この私の定は久しく留まることができない。』比丘はこのように知るべきである。」

「復次，比丘所行、所相、所標，樂滅、苦滅，喜、憂本已滅，不苦不樂、捨、念、清淨，得第四禪成就遊。彼受此行，念此相、標，立念如法，令住一意。彼比丘應當知，『我生此法，不退、不進，亦復不厭，我生此法能令我住，而我此定必得久住。』彼比丘應如是知。

> 「さらに、比丘（修行者）が行い、観じ、目指すところは、安楽の消滅、苦しみの消滅、喜びと憂いがすでに消えた状態――苦しくもなく楽しくもなく、平静で、気づきがあり、清らかな境地――である。この第四禅定を達成して安住する。彼はこの行いを実践し、この観想と目標を心に留め、法のとおりに気づきを確立して、心を一つに保つ。その比丘は、『私はこの境地を生み出した。退くこともなく、進むこともなく、また厭うこともない。この境地は私を安住させ、この定は必ず長く続く』と知るべきである。比丘はこのように知るべきである。」

「復次，比丘所行、所相、所標，樂滅、苦滅，喜、憂本已滅，不苦不樂、捨、念、清淨，得第四禪成就遊。彼不受此行，不念此相、標，唯行無量空處相應念想昇進具。彼比丘應當知，『我生此法，不退、不住，亦復不厭，我生此法令我昇進，如是不久當得無量空處。』彼比丘應如是知。

> さらに、比丘よ。修行において歩み、表象し、目印とするものがある。楽の消滅、苦の消滅、喜びと憂いがすでに消え去り、苦でも楽でもない捨の心と、気づきと、清らかさによって、第四禅を成就して安住する。その行者は、この修行に執着せず、この表象や目印を思いにとどめず、ただ無量なる空の領域に相応する心の働きと共に、さらに高みへと進む。その比丘は、「私はこの法を生じた。退くことなく、留まることなく、また厭うこともない。この法が私を高みへと導く。このようにして、やがて無量の空の領域を得るであろう」と知るべきである。比丘よ、このように知るがよい。

「復次，比丘所行、所相、所標，樂滅、苦滅，喜、憂本已滅，不苦不樂、捨、念、清淨，得第四禪成就遊。彼不受此行，不念此相、標，唯行滅息相應念想無欲具。彼比丘應當知，『我生此法，不退、不住，亦不昇進，我生此法能令我厭，如是不久當得漏盡。』彼比丘應如是知。

> さらに、比丘（修行者）が行い、とらえ、目印とするもの——楽の消滅、苦の消滅、喜びも憂いもすでに消え去り、苦でも楽でもなく、捨て、念じ、清らかである第四禅に達し、そこに安住する。彼はこの行いにとらわれず、このとらえや目印を心に留めず、ただ消滅と静けさに相応した、欲望のない思念と気づきを保つ。 その比丘は次のように知るべきである。「私はこの法（教え）を生み出した。退くこともなく、留まることもなく、また高みに上ることもない。この法は私に厭離（あんり、執着を捨てる心）をもたらす。このまま長くないうちに、私は煩悩の滅尽（めつじん）を得るだろう」と。 比丘は、このように知るべきである。

「復次，比丘所行、所相、所標，度一切色想，滅有對想，不念若干想，無量空，是無量空處成就遊。彼不受此行，不念此相、標，唯行色樂相應念想退轉具。彼比丘應當知，『我生此法，不住、不進，亦復不厭，我生此法而令我退，然我此定不得久住。』彼比丘應如是知。

> さらに、比丘たちよ、修行において見られる状態、その特徴、目印について説こう。あらゆる色の想いを超え、対立する想いを滅ぼし、様々な想いにとらわれることなく、「無限の空間」という境地に達する。これを無量空処の成就と遊ぶという。 修行者がこの境地にとどまらず、この特徴や目印に執着せず、ただ色の楽しさに結びついた想いを追い求めると、退転してしまう。そのような比丘は次のように知るべきである。「私はこの法を生じたが、そこにとどまらず、進歩もせず、また厭うこともない。この法を生じたことでかえって退転し、この定は長く続かない」と。比丘はこのように知るべきである。

「復次，比丘所行、所相、所標，度一切色想，滅有對想，不念若干想，無量空，是無量空處成就遊。彼受此行，念此相、標，立念如法，令住一意。彼比丘應當知，『我生此法，不退、不進，亦復不厭，我生此法能令我住，而我此定必得久住。』彼比丘應如是知。

> さらに、比丘たちよ、修行者が実践し、心に描く対象と、目印となるものがここにある。すなわち、あらゆる「色」という概念を超越し、事物に対する「対立」の想いを消し去り、様々な「分別」の念を抱かず、無限の「空間」へと入る。これを「無量空処」の成就と遊ぶという。 彼はこの修行を受け止め、この対象と目印を心に刻み、正しく念を立てて、心を一点に集中させる。 その比丘はこう知るべきである。「私はこの法（教え）を生じさせた。後退もせず、進みすぎもせず、また倦むこともない。私にこの法が生じたことにより、私は安定して留まることができ、そしてこの定めは必ず長く続くことができるだろう」。 比丘は、このように知るべきなのである。

「復次，比丘所行、所相、所標，度一切色想，滅有對想，不念若干想，無量空，是無量空處成就遊。彼不受此行，不念此相、標，唯行無量識處相應念想昇進具。彼比丘應當知，『我生此法，不退、不住，亦復不厭，我生此法令我昇進，如是不久當得無量識處。』彼比丘應如是知。

> さらに、比丘が行うところ、相、標について。すべての色の想いを超え、対立する想いを滅し、さまざまな想いに心を留めず、無限の空を観じる。これが無量空処の成就であり、ここに安住する。しかし、彼はこの行に留まらず、この相や標に執着しない。ただ無量識処にふさわしい念と想いだけを修行し、それを高めてゆく。その比丘は知るべきである——「私はこの法を生じた。退くこともなく、留まることもなく、また嫌うこともない。この法は私を高め、そう遠くないうちに無量識処を得るであろう」と。比丘は、このように知らなくてはならない。

「復次，比丘所行、所相、所標，度一切色想，滅有對想，不念若干想，無量空，是無量空處成就遊。彼不受此行，不念此相、標，唯行滅息相應念想無欲具。彼比丘應當知，『我生此法，不退、不住，亦不昇進，我生此法能令我厭，如是不久當得漏盡。』彼比丘應如是知。

> さらに、比丘が修行する所行、所相、所標として、あらゆる色想を超え、対立する想いを滅し、種々の想いを念じず、無量の空を観じて、この無量空処に成就して安住する。彼はこの修行に執着せず、この相や標を心に留めず、ただ息滅に相応する念想、欲なき行を実践する。その比丘は知るべきである。「私はこの法を生じたが、退くこともなく、留まることもなく、また上昇することもない。この法は私に厭離を促し、このまま遠からずして煩悩の尽きることを得るであろう」と。比丘はこのように知るべきである。

「復次，比丘所行、所相、所標，度一切無量空處，無量識，是無量識處成就遊。彼不受此行，不念此相、標，唯行無量空處相應念想退轉具。彼比丘應當知，『我生此法，不住、不進，亦復不厭，我生此法而令我退，然我此定不得久住。』彼比丘應如是知。

> さらに、比丘が修行し、心に留め、目指すべきものとして、一切の無量なる空の領域を超越し、無量なる識を観じている。これが「無量識処」における成就した境地である。彼はこの行に執着せず、この相や目標に心を留めない。ただ無量なる空に対応した想念だけを行い、退転して具わることとなる。その比丘は次のように知るべきである。「私はこの法を生じたが、それに安住することなく、さらに進むこともなく、また嫌悪することもない。私はこの法を生じたが、かえって退転させてしまう。しかし、この私の定は長く留まることができない。」その比丘はこのように知るべきである。

「復次，比丘所行、所相、所標，度一切無量空處，無量識，是無量識處成就遊。彼受此行，念此相、標，立念如法，令住一意。彼比丘應當知，『我生此法，不退、不進，亦復不厭，我生此法能令我住，而我此定必得久住。』彼比丘應如是知。

> さらに、比丘が実践する行い、とらえる相、目印とする標について。一切の無量なる空の境地を超え、無量なる識に至る。これが無量識処の成就であり、そこに安住する。その比丘は、この行いを受け、この相と標を心に留め、法に従って念を確立し、心を一つに定めてとどまる。その比丘は次のように知るべきである。「私はこの法を生じた。退くこともなく、進むこともなく、また厭うこともない。私はこの法を生じたからこそ、安住することができる。そして、この私の定は必ずや長く安住するであろう」と。比丘はこのように知るべきである。

「復次，比丘所行、所相、所標，度一切無量空處，無量識，是無量識處成就遊。彼不受此行，不念此相、標，唯行無所有處相應念想昇進具。彼比丘應當知，『我生此法，不退、不住，亦復不厭，我生此法令我昇進，如是不久當得無所有處。』彼比丘應如是知。

> 「さらに、比丘（修行者）が歩み、捉え、目指すもの——あらゆる無量の空の領域を超え、無量の識（認識）そのものを対象とする、この無量識処を成就して安住する。彼はこの歩みに執着せず、この捉え方や目指すものを心に留めない。ただ、何もない領域（無所有処）に相応する、心の念と想いを高め、そちらへと進み具現する。その比丘は、こう知るべきである。『私はこの法（教え）を生じた。退くことなく、留まることなく、また厭うこともない。私はこの法を生じることで、さらに高みへと進ませる。このようにして、やがて間もなく、無所有処に至るであろう。』比丘は、このように知るべきである。」

「復次，比丘所行、所相、所標，度一切無量空處，無量識，是無量識處成就遊。彼不受此行，不念此相、標，唯行滅息相應念想無欲具。彼比丘應當知，『我生此法，不退、不住，亦不昇進，我生此法能令我厭，如是不久當得漏盡。』彼比丘應如是知。

> さらに、比丘が行い、特徴づけ、標識とするもの——あらゆる無量の空の領域を超え、無量の識に至る、その識無量処を成就して安住する。 彼はこの行いを受け入れず、この特徴や標識を念じず、ただ消滅と対応する念想・無欲の具足のみを行う。 その比丘はこう知るべきである——「私はこの法を生じた。退くことなく、留まることもなく、さらに上昇することもない。私がこの法を生じたのは、私を厭離させるためであり、そうして遠からずして漏尽を得るだろう。」 比丘はこのように知るべきである。

「復次，比丘所行、所相、所標，度一切無量識處，無所有，是無所有處成就遊。彼不受此行，不念此相、標，唯行無量識處相應念想退轉具。彼比丘應當知，『我生此法，不住、不進，亦復不厭，我生此法而令我退，然我此定不得久住。』彼比丘應如是知。

> さらに、比丘よ、修行者が行い、捉え、目印とするものが、すべての無量識処を超え、何もないところ――無所有処を成就してそこに安住する。その修行者は、この行い（無所有処への執着）を受け入れず、この捉え方や目印にこだわらず、ただ無量識処に対応する気づきや想念を退けていくことを完全に行う。その比丘は、次のように知るべきである。「私はこの法（無所有処への執着）を生じさせた。それは、そこに留まることも、進むこともなく、また嫌うこともない。しかし、この法を生じさせたことで、私は退いてしまう。この私の定は、長く続かないのだ。」と。比丘よ、このように知るべきである。

「復次，比丘所行、所相、所標，度一切無量識處，無所有，是無所有處成就遊。彼受此行，念此相、標，立念如法，令住一意。彼比丘應當知，『我生此法，不退、不進，亦復不厭，我生此法能令我住，而我此定必得久住。』彼比丘應如是知。

> さらに、比丘（修行者）が行い、心に捉え、目標とするところ、それはあらゆる無限の識の領域を超え、何もない状態、すなわち「無所有処」を達成し、そこにとどまることです。彼はこの行いを受け入れ、この心の捉え方と目標を念じ、法（教え）に従って心を確立させ、一つの思いに集中させます。その比丘は次のように知るべきです。「私はこの法（境地）を生み出した。退くこともなく、進むこともなく、また嫌になることもない。この法は私をとどまらせることができ、そしてこの禅定（集中状態）は必ず長く続く」と。比丘はこのように知らなければなりません。

「復次，比丘所行、所相、所標，度一切無量識處，無所有，是無所有處成就遊。彼不受此行，不念此相、標，唯行非有想非無想處相應念想昇進具。彼比丘應當知，『我生此法，不退、不住，亦復不厭，我生此法令我昇進，如是不久當得非有想非無想處。』彼比丘應如是知。

> 「さらに、比丘たちよ、修行者はあらゆる限りのある識別の領域を超え、『何ものも存在しない』という境地に達し、無所有処に安住します。しかし、そこに執着せず、その境地の特徴や目印に心を留めることなく、ただ非有想非無想処の境地にふさわしい気づきを高め、さらに上の段階へと進んでいきます。その比丘はこう自覚すべきです──『私はこの境地を生み出した。それは退くこともなく、留まることもなく、また嫌悪することもない。私はこの境地によってさらに上へと進み、そう遠くないうちに非有想非無想処に達するだろう』と。そのように、比丘は自らの境地を正しく知らねばなりません。」

「復次，比丘所行、所相、所標，度一切無量識處，無所有，是無所有處成就遊。彼不受此行，不念此相、標，唯行厭相應念想無欲具。彼比丘應當知，『我生此法，不退、不住，亦不昇進，我生此法能令我厭。如是，不久當得漏盡。』彼比丘應如是知。

> また、比丘たちよ。修行者が行い、心に留める対象や指標が、すべての無量識処を超え、何も存在しない状態、すなわち無所有処を成就して安住する。その修行者は、このような行いを受け入れず、その対象や指標を念じることもない。ただ厭離（あんり）に対応した想念と、欲望なき修行を重視する。その比丘は次のように知るべきである。「私はこの法を生じた。退転せず、停滞もせず、さらに上昇もしていない。私はこの法を生じることによって、厭離をもたらすことができる。このようにして、遠からず煩悩の滅尽に達するであろう」と。比丘はそのように知るべきである。

「有想有知，齊是得知，乃至非有想非無想處行餘第一有，行禪比丘者，從是起當為彼說。」

> 「想いや知識があることによって、このようにして認識を得る。そして、非有想非無想処に至るまでの、さらにその先の第一有における行（活動）について、禅を修行する比丘は、その境地から立ち上がったならば、その修行者に対して説くべきである。」

佛說如是。彼諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。

> このように仏は説かれました。比丘たちは仏の説かれたことを聞き、喜んでお受け取りになりました。

說經第六竟二千八百二十字

> 経典の説法、第六章終わり<note>二千八百二十字</note>

## 中阿含經卷第四十六六千三百九十七字

> 中阿含経 第四十六巻