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title: "中阿含經 · 179 五支物主經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
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### （一七九）中阿含心品五支物主經第八第四分別誦

> （一七九）中阿含経 心品 五支物主経 第八<note>第四分別誦</note>

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊舍衛國，在勝林給孤獨園。

> ある時、お釈迦さまは舎衛国に滞在され、勝林給孤独園におられました。

爾時，五支物主平旦出舍衛國，往詣佛所，欲見世尊供養禮事，五支物主便作是念：「且置往見佛世尊，或能宴坐及諸尊比丘，我今寧可詣一娑邏末利異學園。」於是，五支物主便至比道遊戲歡樂，近巾頭阿梨，往詣一娑邏末利異學園。

> その時、五支物主という者は朝早くに舎衛国を出て、世尊のもとへ参り、仏に会って供養し礼拝したいと思いました。しかし彼はこう考えました。「今すぐ仏世尊にお会いに行くのはやめておこう。もしかすると、仏は座禅をしておられるか、あるいは尊い比丘たちが集まっているかもしれない。それより、私はあの娑邏末利（サーラマーラ）の異学園（他宗派の修行所）に行ってみよう。」 そこで五支物主は、巾頭阿梨（キンドゥアリ）の近くにある遊び楽しむ場所を通り過ぎて、娑邏末利の異学園へと向かいました。

彼時，娑邏末利異學園中，有一異學沙門文祁子，在於彼中為大宗主，眾人之師，眾所敬重，統領大眾五百異學師。彼在擾亂眾發高大音聲，其聲喧閙，說若干種畜生之論，謂論王、論賊、論鬪諍、論飲食、論衣被、論婦人、論童女、論婬女、論世間、論邪道、論海中，如是比聚集，論若干種畜生之論。異學沙門文祁子遙見五支物主來，便自勅己眾，令默然住：「汝等默然，莫復語言，宜自收斂，此沙門瞿曇弟子五支物主來。若有沙門瞿曇在家弟子居舍衛國者，無過於五支物主。所以者何？彼愛樂默然，稱說默然，若彼見此眾默然者，或能來前。」彼時，異學沙門文祁子止己眾已，自默然住。

> その時、娑邏末利異学園の中に、文祁子という一人の異学沙門がいた。彼はその中で大宗主であり、衆人の師であり、衆から敬重され、五百人の異学の師たちを統率していた。彼は騒擾の中で人々に高声を発させ、その声は喧噪であり、様々な畜生の論を説いていた。すなわち、王の論、賊の論、闘争の論、飲食の論、衣服の論、婦人の論、童女の論、婬女の論、世間の論、邪道の論、海中の論などを語り、このように集まって、様々な畜生の論を論じていたのである。 異学沙門文祁子は、五支物主が遠くからやって来るのを見て、自らの弟子たちに命じて黙らせ、静かにさせた。「お前たちは黙れ。もう言葉を発してはならない。自らを収めなさい。この沙門瞿曇の弟子である五支物主が来るのだ。沙門瞿曇の在家の弟子で舎衛国に住む者の中に、五支物主に勝る者はいない。なぜなら、彼は沈黙を愛し、沈黙を称賛するからだ。もし彼がこの衆が静かであるのを見れば、進んでこちらに来るかもしれない。」その時、異学沙門文祁子は自らの集まりを静めさせた後、自らも黙って静かにしていた。

於是，五支物主往詣異學沙門文祁子所，共相問訊，却坐一面，異學沙門文祁子語曰：「物主！若有四事，我施設彼成就善、第一善、無上士，得第一義、質直沙門。云何為四？身不作惡業、口不惡言，不行邪命、不念惡念。物主！若有此四事者，我施設彼成就善、第一善、無上士，得第一義、質直沙門。」

> そこで、五支物主は異学の沙門・文祁子のところへ行き、互いに挨拶を交わしてから、片側に座った。異学の沙門・文祁子は言った。 「物主よ。もし四つの事柄があれば、私はその者を善を成就した者、最上の善を持つ者、この上ない者、第一義を得た正直な沙門であると認める。その四つとは何か。身体で悪業をなさず、口で悪い言葉を言わず、邪な生き方をせず、悪い念を抱かないことである。物主よ。もしこの四つの事柄を備えているならば、私はその者を善を成就した者、最上の善を持つ者、この上ない者、第一義を得た正直な沙門であると認めるのだ。」

五支物主聞異學沙門文祁子所說，不是不非，從坐起去。「如此所說，我自詣佛，當問此義。」便往詣佛，稽首作禮，却坐一面，與異學沙門文祁子所共論者，盡向佛說。

> 五支物主は、異学の沙門である文祁子の言葉を聞いても、是とも非ともせず、座を立って去った。「このように言うのなら、私が自ら仏のもとへ行き、この意味を尋ねよう。」そうして仏のもとへ赴き、頭を地につけて礼拝し、一方に退いて座り、異学の沙門・文祁子と共に論じたことを、すべて仏に語った。

世尊聞已，告曰：「物主！如異學沙門文祁子所說，若當爾者，嬰孩童子支節柔軟，仰向臥眠，亦當成就善、第一善、無上士，得第一義，質直沙門。物主！嬰孩童子尚無身想，況復作身惡業耶？唯能動身。物主！嬰孩童子，尚無口想，況復惡言耶？唯能得啼。物主！嬰孩童子，尚無命想，況復行邪命耶？唯有呻吟。物主！嬰孩童子，尚無念想，況復惡念耶？唯念母乳。物主！若如異學沙門文祁子說者，如是嬰孩童子成就善、第一善、無上士，得第一義、質直沙門。

> 世尊はこれを聞いてお答えになりました。「物主よ、もし異学の沙門文祁子の説く通りであるならば、柔らかな体を持ち仰向けに寝ている幼い子どももまた、善、最上の善、無上の者となり、第一義を得て、質直な沙門となるはずです。しかし、物主よ、幼い子どもには身体という想いすらありません。ましてや、身体で悪い行いをするなどありえません。ただ体を動かすことしかできません。物主よ、幼い子どもには言葉という想いすらありません。ましてや、悪い言葉を口にすることなどありえません。ただ泣くことしかできません。物主よ、幼い子どもには命という想いすらありません。ましてや、邪な生き方をするなどありえません。ただ呻くことしかできません。物主よ、幼い子どもには心に浮かぶ想いすらありません。ましてや、悪い念を抱くなどありえません。ただ母乳を欲しがるだけです。物主よ、もし異学の沙門文祁子の説く通りであるならば、このような幼い子どもこそが善、最上の善、無上の者となり、第一義を得て、質直な沙門となるはずです。」

「物主！若有四事，我施設彼成就善、第一善，然非無上士，不得第一義，亦非質直沙門。云何為四？身不作惡業，口不惡言，不行邪命，不念惡念。物主！若有此四事，我施設彼成就善、第一善，然非無上士，不得第一義，亦非質直沙門。物主！身業、口業者，我施設是戒；物主！念者，我施設是心所有與心相隨。物主！我說當知不善戒，當知不善戒從何而生？當知不善戒何處滅無餘？何處敗壞無餘？當知賢聖弟子云何行滅不善戒耶？物主！我說當知善戒，當知善戒從何而生？當知善戒何處滅無餘？何處敗壞無餘？當知賢聖弟子云何行滅善戒耶？物主！我說當知不善念，當知不善念從何而生，當知不善念何處滅無餘？何處敗壞無餘？當知賢聖弟子云何行滅不善念耶？物主！我說當知善念，當知善念從何而生？當知善念何處滅無餘？何處敗壞無餘？當知賢聖弟子云何行滅善念耶？

> 家主よ、もし四つのことがあるなら、私はその人を「善を成就し、第一の善を持つ者」と認めます。しかし、それは「無上士」ではなく、「第一義」を得た者でもなく、「質直な沙門」でもありません。その四つとは何か。身体で悪業を作らず、口で悪い言葉を言わず、邪な生業を行わず、悪い念を思わないことです。 家主よ、この四つのことがあるなら、私はその人を「善を成就し、第一の善を持つ者」と認めます。しかし、それは「無上士」ではなく、「第一義」を得た者でもなく、「質直な沙門」でもありません。 家主よ、身体の業と口の業は、私はそれを「戒」と認めます。家主よ、念（おもい）は、私はそれを「心に属し、心に従うもの」と認めます。 家主よ、私はこう説きます。「不善の戒をよく知るべきである。不善の戒が何から生じるかをよく知るべきである。不善の戒がどこで残りなく滅するかをよく知るべきである。どこで完全に消え去るかをよく知るべきである。賢聖の弟子がどのように実践すれば不善の戒を滅するかをよく知るべきである」 家主よ、私はこう説きます。「善の戒をよく知るべきである。善の戒が何から生じるかをよく知るべきである。善の戒がどこで残りなく滅するかをよく知るべきである。どこで完全に消え去るかをよく知るべきである。賢聖の弟子がどのように実践すれば善の戒を滅するかをよく知るべきである」 家主よ、私はこう説きます。「不善の念をよく知るべきである。不善の念が何から生じるかをよく知るべきである。不善の念がどこで残りなく滅するかをよく知るべきである。どこで完全に消え去るかをよく知るべきである。賢聖の弟子がどのように実践すれば不善の念を滅するかをよく知るべきである」 家主よ、私はこう説きます。「善の念をよく知るべきである。善の念が何から生じるかをよく知るべきである。善の念がどこで残りなく滅するかをよく知るべきである。どこで完全に消え去るかをよく知るべきである。賢聖の弟子がどのように実践すれば善の念を滅するかをよく知るべきである」

「物主！云何不善戒耶？不善身行，不善口、意行，是謂不善戒。物主！此不善戒從何而生？我說彼所從生，當知從心生。云何為心？若心有欲、有恚、有癡，當知不善戒從是心生。物主！不善戒何處滅無餘？何處敗壞無餘？多聞聖弟子捨身不善業，修身善業，捨口、意不善業，修口、意善業，此不善戒滅無餘，敗壞無餘。物主！賢聖弟子云何行滅不善戒？若多聞聖弟子觀內身如身，至觀覺、心、法如法，賢聖弟子如是行者，滅不善戒也。

> 物主よ。では、不善の戒めとは何か。それは、不善な身体の行い、不善な言葉と心の行いである。これを不善の戒めという。物主よ。この不善の戒めは、何から生じるのか。私はその生じる原因を説こう。心から生じると知るべきである。どのような心か。もし心に欲望があり、怒りがあり、無知があるならば、不善の戒めはその心から生じると知るべきである。物主よ。不善の戒めは、どこで余すことなく滅するのか。どこで完全に消え去るのか。それは、多くを学んだ聖なる弟子が、身体の不善な行いを捨て、身体の善い行いを修め、言葉と心の不善な行いを捨て、言葉と心の善い行いを修めることによって、この不善の戒めは余すことなく滅し、完全に消え去るのである。物主よ。賢聖なる弟子は、どのように修行して不善の戒めを滅するのか。多くを学んだ聖なる弟子が、内なる身体を身体として観察し、さらには感受、心、そして諸々の現象をそのままに観察する。賢聖なる弟子がこのように修行するならば、不善の戒めは滅するのである。

「物主！云何善戒耶？善身業，善口、意業，是謂善戒。物主！此善戒從何而生？我說彼所從生，當知從心生。云何為心？若心無欲、無恚、無癡，當知善戒從是心生。物主！善戒何處滅無餘？何處敗壞無餘？若多聞聖弟子行戒不著戒，此善戒滅無餘，敗壞無餘。物主！賢聖弟子云何行滅善戒？若多聞聖弟子觀內身如身，至觀覺、心、法如法，賢聖弟子如是行者，滅善戒也。

> 「家主。では、善い戒とは何か。身体による善い行い、言葉と心による善い行い、これを善い戒という。家主。では、この善い戒は何から生じるのか。私はその生じる由来を説こう。それは心から生じると知るべきである。では、心とは何か。心に欲がなく、怒りがなく、無知（むち）がなければ、善い戒はその心から生じると知るべきである。家主。善い戒は、どこで残りなく消滅し、どこで残りなく壊れるのか。多くの教えを聞いた聖なる弟子が、戒を行じても戒に執着しなければ、この善い戒は残りなく消滅し、残りなく壊れるのである。家主。賢聖（けんしょう）の弟子は、どのように行じて善い戒を消滅させるのか。多くの教えを聞いた聖なる弟子は、内なる身体を身体として観察し、さらには感受（じゅ）、心、法（真理）をそれぞれ法として観察する。賢聖の弟子がこのように行ずれば、善い戒は消滅するのである。」

「物主！云何不善念耶？欲念、恚念、害念，是謂不善念。物主！不善念從何而生？我說彼所從生，當知從想生。云何為想？我說想多種、無量種、若干種行，或欲想，或恚想，或害想。物主！眾生因欲界想故，生不善念，欲界相應。若有想者，因彼想故，生不善念，欲界相應。物主！眾生因恚、害界想故，生不善念，恚、害界相應。若有想者，因彼想故，生不善念，恚、害界相應，此不善念從是想生。物主！不善念何處滅無餘？何處敗壞無餘？若多聞聖弟子離欲、離惡不善之法，有覺、有觀，離生喜、樂，得初禪成就遊。此不善念滅無餘，敗壞無餘。物主！賢聖弟子云何行滅不善念？若多聞聖弟子觀內身如身，至觀覺、心、法如法，賢聖弟子如是行者，滅不善念也。

> 「物主よ、では不善の念とは何か？欲の念、怒りの念、害そうとする念、これらを不善の念という。物主よ、不善の念は何から生じるのか？私はその生じる原因を説こう。よく知りなさい、それは想い（表象）から生じる。では想いとは何か？私は想いには多くの種類、無数の種類、様々な働きがあると説く。あるいは欲の想い、あるいは怒りの想い、あるいは害そうとする想いがある。物主よ、生きとし生けるものは欲の領域に属する想いによって、不善の念を生じる。それは欲の領域と結びついている。もし想いがあるならば、その想いによって不善の念を生じ、欲の領域と結びつくのだ。物主よ、生きとし生けるものは怒りや害意の領域に属する想いによって、不善の念を生じる。それは怒りや害意の領域と結びついている。もし想いがあるならば、その想いによって不善の念を生じ、怒りや害意の領域と結びつく。この不善の念は、このように想いから生じるのである。物主よ、では不善の念はどこで残りなく滅し、どこで完全に消え去るのか？多く聞き学んだ聖なる弟子が、欲望を離れ、悪しき不善の法を離れ、思考と観察を伴い、離欲から生じる喜びと安楽を味わい、初めての禅定を得て安住する時、ここにおいて不善の念は残りなく滅し、完全に消え去るのである。物主よ、賢聖の弟子はどのように実践して不善の念を滅ぼすのか？多く聞き学んだ聖なる弟子が、内なる身体を身体として観察し、さらに感覚、心、そして諸々の法をありのままに観察する。賢聖の弟子がこのように実践する時、不善の念は滅びるのである。」

「物主！云何善念耶？無欲念、無恚念、無害念，是謂善念。物主！善念從何而生？我說彼所從生，當知從想生。云何為想？我說想多種、無量種、若干種行，或無欲想，或無恚想，或無害想。物主！眾生因無欲界想故，生善念，無欲界相應。若有想者，因彼想故，生善念，無欲界相應。物主！眾生因無恚、無害界故，生善念無恚、無害界相應。若有想者，因彼想故生善念，無恚、無害界相應，此善念從是想生。物主！善念何處滅無餘？何處敗壞無餘？若多聞聖弟子樂滅、苦滅，喜、憂本已滅，不苦不樂、捨、念、清淨，得第四禪成就遊。此善念滅無餘，敗壞無餘。物主！賢聖弟子云何行滅善念？若多聞聖弟子觀內身如身，至觀覺、心、法如法，賢聖弟子如是行者，滅善念也。

> 「家主。では、善い考えとは何か？それは、欲のない考え、怒りのない考え、害さない考えである。これらを善い考えという。家主。善い考えは、何から生じるのか？私は、それが生じる原因について説こう。知るがよい。それは、「想い」から生じる。では、その「想い」とは何か？私は説く。想いには多くの種類、無数の種類、様々な作用がある。例えば、欲のない想い、怒りのない想い、害さない想いがある。家主。人々は、欲のない領域の想いによって、善い考えを生じ、それは欲のない領域と調和する。もし想いがあれば、その想いによって善い考えを生じ、欲のない領域と調和する。家主。人々は、怒りのない領域、害さない領域によって、善い考えを生じ、それは怒りのない領域、害さない領域と調和する。もし想いがあれば、その想いによって善い考えを生じ、怒りのない領域、害さない領域と調和する。このように、善い考えはこの「想い」から生じるのである。家主。では、善い考えはどこで完全に滅し、どこで完全に消え去るのか？それは、多くのことを聞いた聖なる弟子が、楽と苦が共に滅し、喜びと憂いがすでに滅し、苦でも楽でもない、捨、念、清浄なる第四の禅定を成就して安住するときである。このとき、善い考えは完全に滅し、完全に消え去る。家主。聖なる弟子は、どのように修行して善い考えを滅ぼすのか？多くのことを聞いた聖なる弟子が、内なる身体を身体として観察し、さらには、感受、心、そして真理の現象を真理の現象として観察する。聖なる弟子がこのように修行するとき、善い考えは滅ぼされるのである。

「物主！若多聞聖弟子以慧觀不善戒知如真，從生不善戒知如真，此不善戒滅無餘，敗壞無餘，知如真，以慧觀。賢聖弟子如是行者，滅不善戒知如真。以慧觀善戒知如真，從生善戒知如真，此善戒滅無餘，敗壞無餘，知如真，以慧觀。賢聖弟子如是行者，滅善戒知如真。以慧觀不善念知如真，從生不善念知如真，此不善念滅無餘，敗壞無餘，知如真，以慧觀。賢聖弟子如是行者，滅不善念知如真。以慧觀善念知如真，從生善念知如真，此善念滅無餘，敗壞無餘，知如真，以慧觀。賢聖弟子如是行者，滅善念知如真。所以者何？因正見故生正志，因正志故生正語，因正語故生正業，因正業故生正命，因正命故生正方便，因正方便故生正念，因正念故生正定。賢聖弟子心如是定已，便解脫一切婬、怒、癡。

> 「在家の方々よ。よく学んだ聖なる弟子が、智慧によって善くない戒めをあるがままに観察し、その善くない戒めが生じる原因をあるがままに知り、その善くない戒めが残らず滅び、完全に消え去ることをあるがままに知ります。智慧によって観察するのです。聖なる弟子がこのように実践するならば、善くない戒めを滅ぼすことをあるがままに知ります。また、智慧によって善い戒めをあるがままに観察し、その善い戒めが生じる原因をあるがままに知り、その善い戒めが残らず滅び、完全に消え去ることをあるがままに知ります。智慧によって観察するのです。聖なる弟子がこのように実践するならば、善い戒めを滅ぼすことをあるがままに知ります。さらに、智慧によって善くない思いをあるがままに観察し、その善くない思いが生じる原因をあるがままに知り、その善くない思いが残らず滅び、完全に消え去ることをあるがままに知ります。智慧によって観察するのです。聖なる弟子がこのように実践するならば、善くない思いを滅ぼすことをあるがままに知ります。そして、智慧によって善い思いをあるがままに観察し、その善い思いが生じる原因をあるがままに知り、その善い思いが残らず滅び、完全に消え去ることをあるがままに知ります。智慧によって観察するのです。聖なる弟子がこのように実践するならば、善い思いを滅ぼすことをあるがままに知ります。なぜでしょうか？正しい見解があるからこそ正しい志が生まれ、正しい志があるからこそ正しい言葉が生まれ、正しい言葉があるからこそ正しい行いが生まれ、正しい行いがあるからこそ正しい生活が生まれ、正しい生活があるからこそ正しい努力が生まれ、正しい努力があるからこそ正しい気づきが生まれ、正しい気づきがあるからこそ正しい集中が生まれるからです。聖なる弟子の心がこのように安定すると、一切の欲望、怒り、無知から解き放たれます。」

「物主！賢聖弟子如是正心解脫已，便知一切生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。是謂學見跡成就八支，漏盡阿羅訶成就十支。物主！云何學見跡成就八支？謂學正見至學正定，是謂學見跡成就八支。物主！云何漏盡阿羅訶成就十支？謂無學正見至無學正智，是謂漏盡阿羅訶成就十支。物主！若有十支，我施設彼成就善、第一善、無上士，得第一義、質直沙門。」

> 「家主よ。賢聖の弟子がこのように正しく心の解脱を得たならば、一切の生は尽きた、梵行はすでに立てられた、なすべきことはなされた、再び迷いの生存を受けることはない、と如実に知る。これを『学びの見跡を成就した八支』といい、煩悩の尽きた阿羅漢は十支を成就するという。 家主よ。どのように『学びの見跡を成就した八支』というのか。それは、学びの正見から学びの正定に至るまでである。これを『学びの見跡を成就した八支』という。 家主よ。どのように『煩悩の尽きた阿羅漢は十支を成就する』というのか。それは、無学の正見から無学の正智に至るまでである。これを『煩悩の尽きた阿羅漢の十支成就』という。 家主よ。もし十支を具えているならば、私はその人を『善き者、最も善き者、無上の者、第一義を得た、直心の沙門』と説くのである。」

佛說如是。彼五支物主及諸比丘，聞佛所說，歡喜奉行。

> 仏はこのように説かれた。すると、物主と彼の五人の仲間、そして比丘たちは、仏の説法を聞いて、喜び、その教えの通りに実践した。

五支物主經第八竟二千一百七十八字

> 第五の章「ものの主の経」第八終了<note>二千百七十八字</note>