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title: "中阿含經 · 183 馬邑經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
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### （一八三）中阿含雙品馬邑經第二第四分別誦

> （一八三）中阿含双品馬邑経第二<note>第四分別誦</note>

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊鴦騎國，與大比丘眾俱，往至馬邑，住馬林寺，及比丘眾。

> ある時、ブッダは鴦騎国（アンギ国）を訪れ、大勢の修行者たちとともに馬邑に到着し、馬林寺という林の中で修行者たちと共に過ごされました。

爾時，世尊告諸比丘：「人見汝等沙門，是沙門，人問汝等沙門，汝自稱沙門耶？」

> その時、世尊は比丘たちに告げられました。「人々があなたたちを見て『沙門だ』と思い、あなたたちに『あなたは沙門ですか？』と尋ねたとき、あなたたちは自ら『私は沙門です』と名乗るのですか？」

諸比丘白曰：「爾也。世尊！」

> 比丘たちは答えた。「その通りです、世尊よ。」

佛復告曰：「是以汝等以此，要以此沙門，當學沙門道跡，莫非沙門；學沙門道跡已，要是真諦沙門、不虛沙門，若受衣被、飲食、床榻、湯藥及若干種諸生活具者，彼所供給，得大福，得大果，得大功德，得大廣報，汝等當學如是。

> 仏はさらに告げられました。「それゆえ、あなたがたはこの教えを胸に、沙門（修行者）としての道を歩むべきである。沙門の道を真摯に学び、ただ沙門と名乗るだけではいけない。沙門の道を学び終えたならば、真実の沙門、偽りのない沙門であれ。そうすれば、衣、食べ物、寝具、薬、そして様々な生活の道具を受けるとき、その施しは大きな福となり、大きな果報となり、大きな功徳となり、広大な報いとなる。あなたがたは、このように学ぶべきである。」

「云何非沙門道跡，非沙門？若有貪伺不息貪伺，有恚不息恚，有瞋不息瞋，有不語不息不語，有結不息結，有慳不息慳，有嫉不息嫉，有諛諂不息䛕諂，有欺誑不息欺誑，有無慙不息無慙，有無愧不息無愧，有惡欲不息惡欲，有邪見不息邪見，此沙門垢、沙門諛諂、沙門詐偽、沙門曲，趣至惡處未盡已，學非沙門道跡，非沙門。

> 「では、修行者の道とは言えず、修行者とは言えないのは、どのような状態か。それは、欲深い心が静まらず、怒りが収まらず、恨みが消えず、言葉を閉ざしたままになり、執着を手放せず、けちな心が続き、ねたみがやまず、お世辞やへつらいが直らず、欺きや騙しを続け、恥じる心が生まれず、はじる心がわかず、悪い欲望を持ち続け、誤った見解を改めない場合である。これらは修行者としての汚れ、へつらい、偽り、ねじれであり、それらが完全に除かれずに悪い境地に至るならば、それは修行者の道を学んでいるとは言えず、修行者とも言えない。」

「猶如鉞斧，新作極利，有頭有刃，僧伽梨所裹，我說彼癡學沙門道亦復如是。謂有貪伺不息貪伺，有恚不息恚，有瞋不息瞋，有不語不息不語，有結不息結，有慳不息慳，有嫉不息嫉，有諛諂不息諛諂，有無慙不息無慙，有無愧不息無愧，有惡欲不息惡欲，有邪見不息邪見，持僧伽梨，我不說是沙門。若持僧伽梨者，有貪伺息貪伺，有恚息恚，有瞋息瞋，有不語息不語，有結息結，有慳息慳，有嫉息嫉，有諛諂息諛諂，有無慙息無慙，有無愧息無愧，有惡欲息惡欲，有邪見息邪見者，彼諸親親朋友往詣而作是說：『賢人！汝當學持僧伽梨。賢！汝學持僧伽梨，有貪伺息貪伺，有恚息恚，有瞋息瞋，有不語息不語，有結息結，有慳息慳，有嫉息嫉，有諛諂息諛諂，有無慙息無慙，有無愧息無愧，有惡欲息惡欲，有邪見息邪見。』若以我見持僧伽梨，有貪伺、恚、瞋、不語、結、慳、嫉、諛諂、無慙、無愧、惡欲、邪見，是以我持僧伽梨。我說非是沙門。

> これは、まさによく研ぎ澄まされた新しい斧のようなものです。頭も刃もありながら、衣で包まれています。私は、その愚かな学びの沙門のあり方も全く同じだと言います。すなわち、貪りの思いが収まらず、怒りの思いが収まらず、憎しみの思いが収まらず、不機嫌が収まらず、煩わしさが収まらず、吝嗇が収まらず、妬みが収まらず、へつらいが収まらず、恥じる心がなく、愧じる心がなく、悪しき欲が収まらず、邪な見解が収まらないまま、僧伽梨を身にまとっていても、私はそれを沙門とは呼びません。 しかし、もし僧伽梨を身にまとう人で、貪りの思いが鎮まり、怒りの思いが鎮まり、憎しみの思いが鎮まり、不機嫌が鎮まり、煩わしさが鎮まり、吝嗇が鎮まり、妬みが鎮まり、へつらいが鎮まり、恥じる心がなくなることがなく、愧じる心がなくなることがなく、悪しき欲が鎮まり、邪な見解が鎮まるならば、その人の親しい人々や友人は訪ねて行って、こう言うでしょう。『賢者よ、あなたは僧伽梨を身にまとうことを学びなさい。賢者よ、あなたが僧伽梨を身にまとうことを学べば、貪りの思いが鎮まり、怒りの思いが鎮まり、……（中略）……悪しき欲が鎮まり、邪な見解が鎮まるでしょう。』 もし私の見解が、「僧伽梨を身にまとうこと」に執着し、そこに貪り、怒り、憎しみ、不機嫌、煩わしさ、吝嗇、妬み、へつらい、無慚、無愧、悪欲、邪見がなおあるならば、私は僧伽梨を身にまとっていても、それを沙門とは呼びません。

「如是無衣、編髮、不坐、一食、常揚水、持水，持水者，我說非是沙門。若持水，有貪伺息貪伺，有恚息恚，有瞋息瞋，有不語息不語，有結息結，有慳息慳，有嫉息嫉，有諛諂息諛諂，有無慙息無慙，有無愧息無愧，有惡欲息惡欲，有邪見息邪見，彼諸親親朋友往詣而作是說：『賢！汝當持水。持水已，有貪伺息貪伺，有恚息恚，有瞋息瞋，有不語息不語，有結息結，有慳息慳，有嫉息嫉，有諛諂息諛諂，有無慙息無慙，有無愧息無愧，有惡欲息惡欲，有邪見息邪見。』若以我見持水，貪伺、恚、瞋、不語、結、慳、嫉、諛諂、無慙、無愧、有惡欲、有邪見、是以持水者，我說不是沙門。是謂非沙門道跡，非是沙門。

> このように、裸で、髪を編まず、坐らず、一食のみで、常に水を乞い、水を受ける者も、水を受けるからといって、私は沙門であるとは言わない。もし水を受けることで、貪りの思いが静まり、怒りが静まり、恨みが静まり、無言の頑なさが静まり、心の結びつきが静まり、物惜しみが静まり、嫉妬が静まり、お世辞やへつらいが静まり、恥知らずが静まり、後ろめたさが静まり、悪い欲が静まり、邪な見解が静まるならば、その者に向かって親しい友人たちが訪ねて来てこう言うだろう。「あなたは水を受けるべきです。水を受ければ、貪りの思いが静まり、怒りが静まり、恨みが静まり、無言の頑なさが静まり、心の結びつきが静まり、物惜しみが静まり、嫉妬が静まり、お世辞やへつらいが静まり、恥知らずが静まり、後ろめたさが静まり、悪い欲が静まり、邪な見解が静まるでしょう」と。しかし、もし自分の考えで水を受けることによって、貪りや怒りや恨みや無言の頑なさや心の結びつきや物惜しみや嫉妬やお世辞や恥知らずや後ろめたさや悪い欲や邪な見解を静めようとするなら、そのように水を受ける者を、私は沙門とは言わない。これが沙門ではない道の跡であり、沙門ではないのである。

「云何沙門道跡，非不沙門？若有貪伺息貪伺，有恚息恚，有瞋息瞋，有不語息不語，有結息結，有慳息慳，有嫉息嫉，有諛諂息諛諂，有無慙息無慙，有無愧息無愧，有惡欲息惡欲，有邪見息邪見，此沙門嫉、沙門諛諂、沙門詐偽、沙門曲，趣至惡處盡已，學沙門道跡，非不沙門。是謂沙門道跡，非不沙門。

> 「では、修行者の道とは何であり、そうでないものとは何か？ もしも、むさぼりの心が静まり、怒りの心が静まり、恨みの心が静まり、言葉に出さない思いが静まり、こだわりが静まり、けちの心が静まり、ねたみの心が静まり、お世辞やへつらいが静まり、恥じる心のなさが静まり、恐れる心のなさが静まり、悪い欲望が静まり、誤った見解が静まったならば、その人は、修行者としてのねたみ、修行者としてのお世辞、修行者としての偽り、修行者としての曲がりを、すべて悪い状態へと至るものとして捨て去り、まさしく修行者の道を学んでいるのであり、修行者でない者ではない。これこそが修行者の道であり、そうでないものではない。」

「彼如是成就戒，身清淨，口、意清淨，無有貪伺，心中無恚，無有睡眠，無掉憍慠，斷疑度惑，正念正智，無有愚癡，彼心與慈俱，遍滿一方成就遊。如是二三四方、四維上下，普周一切，心與慈俱，無結無怨，無恚無諍，極廣甚大，無量善修，遍滿一切世間成就遊。如是悲、喜心與捨俱，無結無怨，無恚無諍，極廣甚大，無量善修，遍滿一切世間成就遊。彼作是念：『有麤、有妙、有想，來上出要，知如真。』彼如是知、如是見已，則欲漏心解脫，有漏、無明漏心解脫，解脫已，便知解脫，生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。

> 「このように戒を成就した者は、身が清らかになり、口と意も清らかになります。貪りの心はなく、心に怒りもなく、眠気もなく、掉挙・高慢もなく、疑いを断ち、惑いを超え、正念・正智であり、愚かさもありません。その心は慈しみと共にあり、一つの方向に遍く満たしながら、安住して修行します。同様に、二方、三方、四方、四隅、上下、すべての方向に、心は慈しみと共にあり、わだかまりなく、怨みなく、怒りなく、争いなく、極めて広く大きく、無量の善をよく修め、一切の世間に遍く満たしながら、安住して修行します。 同様に、悲しみ・喜び・捨ての心も共にあり、わだかまりなく、怨みなく、怒りなく、争いなく、極めて広く大きく、無量の善をよく修め、一切の世間に遍く満たしながら、安住して修行します。 その者はこう考えます：『粗いものもあり、細かいものもあり、想いもある。そこから出離するための要諦が、真理のままに知られる』と。その者は、このように知り、このように見ることで、欲望の煩悩から心が解脱し、存在の煩悩と無明の煩悩からも心が解脱します。解脱したならば、『解脱した』と知り、『生は尽きた。清らかな行いは既に確立された。なすべきことは成し遂げられた。もはや再び生存を受けることはない』と、真理のままに知ります。」

「猶去村不遠，有好浴池，清泉流盈，翠草被岸，花樹四周。或於東方有一人來，飢渴疲極，脫衣岸上，入池快浴，去垢除熱，亦除渴乏。如是南方、西方、北方有一人來，飢渴疲極，脫衣岸上，入池快浴，去垢除熱，亦除渴乏。如是，剎利族姓子剃除鬚髮，著袈裟衣，至信、捨家、無家、學道，內行止，令得內止，內止者，我說沙門，說梵志，說聖，說淨浴。如是梵志、居士、工師族姓子剃除鬚髮，著袈裟衣，至信、捨家、無家、學道，內行止，令得內止，內止者，我說沙門，說梵志，說聖，說淨浴。

> 村から遠くないところに、美しい浴場がありました。 清らかな泉が溢れ、青々とした草が岸を覆い、花の木々が四方を取り囲んでいます。 そこへ東方から一人の男がやって来ました。飢えと渇きに苦しみ、疲れきっています。 彼は衣を岸に脱ぎ捨て、池に入って気持ちよく身を洗いました。 汚れを落とし、暑さを癒し、喉の渇きも食欲も満たしました。 同じように、南方、西方、北方からもそれぞれ一人の男がやって来ました。 彼らも飢えと渇きに苦しみ、疲れきっており、衣を岸に脱ぎ捨て、池に入って気持ちよく身を洗いました。 汚れを落とし、暑さを癒し、喉の渇きも食欲も満たしました。 このように、クシャトリヤ（王族）の家に生まれた人は、髭や髪を剃り落とし、袈裟を身にまとって、 深い信仰心から家を捨て、世間を離れて出家し、修行に励みます。 彼が内なる行いによって、心の安らぎを得たなら、その人を私は「沙門」と呼び、修行者と言い、聖者と言い、清らかな沐浴をした者と言います。 また、修行者、在家の信者、職人の家に生まれた人も、同じく髭や髪を剃り落とし、袈裟を身にまとって、 深い信仰心から家を捨て、世間を離れて出家し、修行に励みます。 彼が内なる行いによって、心の安らぎを得たなら、その人を私は「沙門」と呼び、修行者と言い、聖者と言い、清らかな沐浴をした者と言います。

「云何沙門？謂息止諸惡不善之法、諸漏穢污，為當來有本，煩熱苦報，生、老、病、死因，是謂沙門。云何梵志？謂遠離諸惡不善之法、諸漏穢污，為當來有本，煩熱苦報，生、老、病、死因，是謂梵志。云何為聖？謂遠離諸惡不善之法、諸漏穢污，為當來有本，煩熱苦報，生、老、病、死因，是謂為聖。云何淨浴？謂淨浴諸惡不善之法、諸漏穢污，為當來有本，煩熱苦報，生、老、病、死因，是謂淨浴。是謂沙門，是謂梵志，是謂為聖，是謂淨浴。」

> では、沙門（しゃもん）とは何か。それは、あらゆる悪しき善からぬ行いをやめ、煩悩という汚れを静めることです。それらは未来の生存のもととなり、悩み苦しむ報いをもたらし、生・老・病・死の因となるものです。このようにする者を、沙門といいます。 では、バラモンとは何か。それは、あらゆる悪しき善からぬ行いから遠く離れ、煩悩という汚れを遠ざけることです。同様に、未来の生存のもととなり、悩み苦しむ報い、生・老・病・死の因から遠ざかる者を、バラモンといいます。 では、聖者（しょうじゃ）とは何か。それは、あらゆる悪しき善からぬ行いから遠く離れ、煩悩という汚れから遠ざかることです。同様に、未来の生存のもととなる煩悩から遠ざかる者を、聖者といいます。 では、沐浴（もくよく、清めの沐浴）とは何か。それは、あらゆる悪しき善からぬ行いを洗い清め、煩悩という汚れを洗い清めることです。同様に、未来の生存のもととなり、悩み苦しむ報い、生・老・病・死の因を洗い清めること。これを沐浴といいます。 このように、これが沙門であり、これがバラモンであり、これが聖者であり、これが沐浴なのです。

佛說如是。彼諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。

> このように仏は説かれました。比丘たちは仏の説かれたことを聞き、喜んでお受け取りになりました。

馬邑經第二竟千四百六十字

> 馬邑経第二終わり<note>千四百六十字</note>