---
title: "中阿含經 · 189 聖道經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma7j48my05g5jl0af8p5o6en"
---

### （一八九）中阿含雙品聖道經第三第五後誦

> （一八九）中阿含双品聖道経第三<注>第五後誦</注>

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊拘樓瘦劒磨瑟曇拘樓都邑。

> ある時、仏陀はコーラヴィ国（拘樓）の、剣磨瑟曇（カンマーサダンマ）というコーラヴィ人の町に滞在しておられた。

爾時，世尊告諸比丘：「有一道令眾生得清淨，離愁慼啼哭，滅憂苦懊惱，便得如法，謂聖正定。有習、有助，亦復有具，而有七支，於聖正定說習、說助，亦復說具。云何為七？正見、正志、正語、正業、正命、正方便、正念。若有以此七支習、助、具，善趣向心得一者，是謂聖正定，有習、有助，亦復有具。所以者何？正見生正志，正志生正語，正語生正業，正業生正命，正命生正方便，正方便生正念，正念生正定，賢聖弟子如是心正定，頓盡婬、怒、癡，賢聖弟子如是正心解脫，頓知生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真，彼中正見最在其前。

> その時、世尊は比丘たちに告げられた。 「人々を清らかにし、憂いや悲しみ、涙や苦しみ、悩みや後悔を消し去り、正しい教えにかなう道がある。それは聖なる正しい定め（聖正定）である。この聖なる定めには、習慣となるもの、助けとなるもの、そしてその成就に備わるものがある。それには七つの支分がある。聖なる正しい定めについて、習慣となるもの、助けとなるもの、成就に備わるものを説こう。その七つとは何か？ 正しい見解（正見）、正しい思い（正志）、正しい言葉（正語）、正しい行い（正業）、正しい生活（正命）、正しい努力（正方便）、正しい気づき（正念）である。 これらの七つの支分を習慣とし、助けとし、成就に備えることで、心が巧みに一つの方向へ向かい、その状態を得る。これを聖なる正しい定めといい、習慣となるもの、助けとなるもの、成就に備わるものがあるのだ。 なぜなら、正しい見解から正しい思いが生まれ、正しい思いから正しい言葉が生まれ、正しい言葉から正しい行いが生まれ、正しい行いから正しい生活が生まれ、正しい生活から正しい努力が生まれ、正しい努力から正しい気づきが生まれ、正しい気づきから正しい定めが生まれるからである。 賢聖なる弟子はこのように心が正しく定められ、たちまち欲望、怒り、無知（三毒）を滅ぼし尽くす。賢聖なる弟子はこのように正しく心が解脱し、たちまち『生は尽きた。清らかな行いは完成した。なすべきことは成し遂げた。もはや迷いの生存を受けることはない』とありのままに知る。 それらのうちで、正しい見解が最も先にあるのである。」

「若見邪見是邪見者，是謂正見，若見正見是正見者，亦謂正見。云何邪見？謂此見無施、無齋、無有呪說，無善惡業，無善惡業報，無此世彼世，無父無母，世無真人往至善處、善去善向、此世彼世自知自覺自作證成就遊，是謂邪見。云何正見？謂此見：『有施有齋，亦有呪說；有善惡業，有善惡業報；有此世彼世，有父有母；世有真人往至善處，善去善向，此世彼世自知、自覺、自作證成就遊。』是謂正見。是為見邪見是邪見者，是謂正見。見正見是正見者，亦謂正見。彼如是知已，則便求學，欲斷邪見成就正見，是謂正方便。比丘以念斷於邪見，成就正見，是謂正念。此三支隨正見從見方便，是故正見最在前也。

> 「邪見を邪見と見ることが、すなわち正見である。正見を正見と見ることも、また正見である。では、何が邪見か。それは、布施もなく、供養もなく、祈りの言葉もなく、善悪の業もなく、善悪の業の報いもなく、この世もあの世もなく、父も母もなく、世に悟った人が善いところへ行き、善く去り、善く向かうこともなく、この世とあの世を自ら知り、自ら悟り、自ら証して成し遂げ遊ぶこともない、という見解である。これを邪見という。では、何が正見か。それは、『布施があり、供養があり、祈りの言葉もある。善悪の業があり、善悪の業の報いもある。この世とあの世があり、父も母もある。世に悟った人が善いところへ行き、善く去り、善く向かい、この世とあの世を自ら知り、自ら悟り、自ら証して成し遂げ遊ぶこともある』という見解である。これを正見という。これによって、邪見を邪見と見ることが、すなわち正見である。正見を正見と見ることも、また正見である。彼はこのように知って、学びを求め、邪見を断ち切り、正見を成就しようと欲する。これを正しい努力（正方便）という。比丘は、心を正しく保ち（念）、邪見を断ち、正見を成就する。これを正しい心の保ち方（正念）という。これらの三つの支分は、正見に従い、見解から生じる努力である。ゆえに、正見が最も先に立つのである。」

「若見邪志是邪志者，是謂正志。若見正志是正志者，亦謂正志。云何邪志？欲念、恚念、害念，是謂邪志。云何正志，無欲念、無恚念、無害念，是謂正志。是為見邪志是邪志者，是謂正志。見正志是正志者，亦謂正志。彼如是知已，則便求學，欲斷邪志成就正志，是謂正方便。比丘以念斷於邪志，成就正志，是謂正念。此三支隨正志從見方便，是故正見最在前也。

> 邪な志を「邪な志だ」と見ることが、正しい志である。 正しい志を「正しい志だ」と見ることも、また正しい志である。 では、何が邪な志か。 欲望の思い、怒りの思い、害そうとする思い、これらが邪な志である。 何が正しい志か。 欲望のない思い、怒りのない思い、害そうとしない思い、これらが正しい志である。 このように、邪な志を「邪な志だ」と見ることが、正しい志である。 正しい志を「正しい志だ」と見ることも、また正しい志である。 彼はこのように知って、学びを求める。すなわち、邪な志を断ち切り、正しい志を成就しようと努める。これが正しい努力（正精進）である。 比丘は、気づき（念）によって邪な志を断ち、正しい志を成就する。これが正しい気づき（正念）である。 これら三つの要素（正志・正精進・正念）は、正しい見解（正見）を基盤とし、智慧と努力によって生じる。ゆえに、正しい見解が最も先んじるのである。

「若見邪語是邪語者，是謂正語。若見正語是正語者，亦謂正語。云何邪語？妄言、兩舌、麤言、綺語，是謂邪語。云何正語？離妄言、兩舌、麤言、綺語，是謂正語。是為見邪語是邪語者，是謂正語。見正語是正語者，亦謂正語。彼如是知已，則便求學，欲斷邪語成就正語，是謂正方便。比丘以念斷於邪語，成就正語，是謂正念。此三支隨正語從見方便，是故正見最在前也。

> 「邪語を邪語と見ること、それが正語です。正語を正語と見ること、それもまた正語です。では、邪語とは何か。偽りの言葉、中傷の言葉、荒々しい言葉、飾った言葉、これらを邪語といいます。では、正語とは何か。偽りの言葉、中傷の言葉、荒々しい言葉、飾った言葉を離れること、これを正語といいます。このように、邪語を邪語と見ることが正語であり、正語を正語と見ることもまた正語なのです。そのように正しく知ったならば、修行に励み、邪語を断ち切り正語を成就しようと願います。これを正精進（正しい努力）といいます。比丘は、心を込めて邪語を断ち、正語を成就します。これを正念（正しい気づき）といいます。これら三つの支分（正語・正精進・正念）は、正見（正しい見解）に従い、そこから方便（実践の手段）が生まれます。ゆえに、正見が最も先に立つのです。」

「若見邪業是邪業者，是謂正業。若見正業是正業者，亦謂正業。云何邪業？殺生、不與取、邪婬，是謂邪業。云何正業？離殺、不與取、邪婬，是謂正業。是為見邪業是邪業者，是謂正業。見正業是正業者，亦謂正業。彼如是知已，則便求學，欲斷邪業成就正業，是謂正方便。比丘以念斷於邪業，成就正業，是謂正念。此三支隨正業從見方便，是故正見最在前也。

> 邪な行いを邪な行いと見ることが、正しい行いです。正しい行いを正しい行いと見ることも、また正しい行いです。では、何が邪な行いでしょうか。命あるものを殺すこと、与えられていないものを取ること、よこしまな性行為をすること、これらが邪な行いです。では、何が正しい行いでしょうか。命あるものを殺すことを離れること、与えられていないものを取ることを離れること、よこしまな性行為を離れること、これらが正しい行いです。これにより、邪な行いを邪な行いと見ることが正しい行いであり、正しい行いを正しい行いと見ることも正しい行いであると知ったならば、修行者は、邪な行いを断ち切り、正しい行いを成就しようと学び励むこと、これを正しい努力（正精進）といいます。比丘（修行者）は、心を一つにして（正念をもって）邪な行いを断ち、正しい行いを成就すること、これを正しい心の在り方（正念）といいます。これら三つの要素（正見、正精進、正念）は正しい行いに従い、正しい見解と努力から生じるものです。ゆえに、正しい見解（正見）が何よりも先に立つのです。

「若見邪命是邪命者，是謂正命。若見正命是正命者，亦謂正命。云何邪命？若有求無滿意，以若干種畜生之呪，邪命存命，彼不如法求衣被，以非法也。不如法求飲食、床榻、湯藥、諸生活具，以非法也，是謂邪命。云何正命？若不求無滿意，不以若干種畜生之呪，不邪命存命，彼如法求衣被，則以法也。如法求飲食、床榻、湯藥、諸生活具，則以法也，是謂正命。是為見邪命是邪命者，是謂正命。見正命是正命者，亦謂正命。彼如是知已，則便求學，欲斷邪命，成就正命，是謂正方便。比丘以念斷於邪命，成就正命，是謂正念。此三支隨正命從見方便，是故正見最在前也。

> 「邪命を邪命と見ること、これが正命である。正命を正命と見ること、これもまた正命である。では、邪命とは何か。求めても満足せず、様々な動物を使った呪術などで不正に生計を立てること。つまり、法にかなわない方法で衣服を求め、法にかなわない方法で食べ物や寝具、薬、生活に必要なものを求めること。これが邪命である。では、正命とは何か。求めずして満足し、様々な動物を使った呪術などで不正に生計を立てず、法にかなった方法で衣服を求め、法にかなった方法で食べ物や寝具、薬、生活に必要なものを求めること。これが正命である。このように、邪命を邪命と見ることが正命であり、正命を正命と見ることもまた正命である。そう知ったならば、学び求め、邪命を断ち切り、正命を成就しようとする。これが正精進である。比丘は、この正念によって邪命を断ち、正命を成就する。これが正念である。これらの三つの要素は、正命に従い、見解と実践から生じる。ゆえに、正見が最も先にあるのである。」

「云何正方便？比丘者，已生惡法為斷故，發欲求方便，精勤舉心滅。未生惡法為不生故，發欲求方便，精勤舉心滅。未生善法為生故，發欲求方便，精勤舉心滅。已生善法為住不忘不退，轉增廣布，修習滿具故，發欲求方便，精勤舉心滅，是謂正方便。

> 「では、正しい努力とは何でしょうか。修行者は、すでに生じた悪い行いを断ち切るために、強い意志をもって努力し、心を奮い立たせて精進します。まだ生じていない悪い行いが生じないように、強い意志をもって努力し、心を奮い立たせて精進します。まだ生じていない善い行いを生じさせるために、強い意志をもって努力し、心を奮い立たせて精進します。すでに生じた善い行いを持続させ、忘れず、退かず、さらに増大させ、広く行き渡らせ、修習して満ち足りたものとするために、強い意志をもって努力し、心を奮い立たせて精進します。これを正しい努力といいます。」

「云何正念？比丘者，觀內身如身，觀至覺、心、法如法，是謂正念。

> 正念とは何でしょうか。修行者は、自分の身体をあるがままに観察し、さらに感覚、心、そして現象（法）をあるがままに観察すること、これを正念といいます。

「云何正定？比丘者，離欲、離惡不善之法，至得第四禪成就遊，是謂正定。

> 「では、正しい定（正定）とは何か。修行者は、欲望を離れ、悪く善くない法（現象）を離れ、第四禅に至り、その境地を成就して安住する。これを正しい定と呼ぶ。」

「云何正解脫？比丘者，欲心解脫，恚、癡心解脫，是謂正解脫。

> 正しい解脱とは何か。修行者よ、欲望の心からの解脱、怒りの心からの解脱、無知の心からの解脱、これこそが正しい解脱である。

「云何正智？比丘者，知欲心解脫，知恚、癡心解脫，是謂正智也。是為學者成就八支，漏盡阿羅訶成就十支。

> 「では、正しい智慧とは何か。修行者とは、欲の心から解き放たれたことを知り、怒りや愚かさの心から解き放たれたことを知る。これを正しい智慧という。これが学びつつある者が八つの支分を成就した姿であり、煩悩を尽くした阿羅漢が十の支分を成就した姿である。」

「云何學者成就八支？學正見至學正定，是為學者成就八支。云何漏盡阿羅訶成就十支？無學正見至無學正智，是謂漏盡阿羅訶成就十支。所以者何？正見者，斷於邪見，若因邪見生無量惡不善法者，彼亦斷之。若因正見生無量善法者，彼則修習，令滿具足。至正智者斷於邪智，若因邪智生無量惡不善法者，彼亦斷之。若因正智生無量善法者，彼則修習，令滿具足。

> 「では、修行を積む者にとっての八つの支分（八支）とは何でしょうか。正しい見解から正しい集中に至るまでが、修行を積む者にとっての八つの支分です。では、煩悩を滅尽した阿羅漢にとっての十の支分（十支）とは何でしょうか。もはや学ぶ必要のない正しい見解から、もはや学ぶ必要のない正しい智慧に至るまでが、煩悩を滅尽した阿羅漢にとっての十の支分です。なぜなら、正しい見解は誤った見解を断ち切り、誤った見解から生じる無数の悪しき不善の法もまた断ち切ります。また、正しい見解から生じる無数の善の法は、修習して完全に満たし具えさせます。同様に、正しい智慧は誤った智慧を断ち切り、誤った智慧から生じる無数の悪しき不善の法もまた断ち切ります。そして、正しい智慧から生じる無数の善の法は、修習して完全に満たし具えさせるのです。」

「是為二十善品、二十不善品，是為說四十大法品轉於梵輪，沙門、梵志、天及魔、梵及餘世間，無有能制而言非者。若有沙門、梵志者，我所說四十大法品轉於梵輪，沙門、梵志、天及魔、梵及餘世間，無有能制而言非者。彼於如法有十詰責。云何為十？若毀呰正見，稱譽邪見。若有邪見沙門、梵志，若供養彼而稱譽彼。若有沙門、梵志者，我所說四十大法品轉於梵輪，沙門、梵志、天及魔、梵及餘世間，無有能制而言非者，彼於如法是謂一詰責。

> これらが二十の善なる法と二十の不善なる法である。これをもって、私は四十の大法を説き、梵天の輪を転じたのである。沙門、梵志、天、魔、梵天、そしてその他の世間において、これを否定して「それは正しくない」と言えるものは何ひとつない。 もし沙門や梵志が、私が説いたこの四十の大法、すなわち梵天の輪を否定しようとするならば、沙門、梵志、天、魔、梵天、その他の世間のいかなる者も、それを「正しくない」と言い張ることはできない。その者には、法に基づく十の問責がある。 その十とは何か。すなわち、正見を非難し、邪見を称賛することである。もし邪見を持つ沙門や梵志がいるならば、その者を供養し、称賛することである。 もし沙門や梵志が、私が説いたこの四十の大法、すなわち梵天の輪を否定して、「それは正しくない」と言うならば、その者には法に基づく第一の問責がある。

「若毀呰，至正智，稱譽邪智。若有邪智沙門、梵志，若供養彼而稱譽彼。若有沙門、梵志，我所說四十大法品轉於梵輪，沙門、梵志、天及魔，梵及餘世間，無有能制而言非者，彼於如法是謂第十詰責。若有沙門、梵志，我所說四十大法品轉於梵輪，沙門、梵志、天及魔、梵及餘世間，無有能制而言非者，是謂於如法有十詰責。若更有餘沙門、梵志，蹲踞說蹲踞，無所有說無所有，說無因、說無作、說無業，謂彼彼所作善惡施設，斷絕破壞彼此，我所說四十大法品轉於梵輪，沙門、梵志、天及魔、梵及餘世間，無有能制而言非者，彼亦有詰責、愁憂恐怖。」

> もし、正しい智慧を貶め、間違った智慧を称賛するなら。もし、間違った智慧を持つ修行者や宗教家がいるなら、その人を敬い、称賛するなら。修行者や宗教家よ、私が説いた四十の大法の中には、清らかな教えの輪を回転させるものがある。修行者や宗教家、天や悪魔、梵天、その他の世の中の者たちでさえ、これを否定することはできない。これを、この教えにおける第十の問答とする。 もし、修行者や宗教家よ、私が説いた四十の大法の中には、清らかな教えの輪を回転させるものがある。修行者や宗教家、天や悪魔、梵天、その他の世の中の者たちでさえ、これを否定することはできない。これこそが、この正しい教えに対する十の問答である。 さらに、他の修行者や宗教家が、うずくまって説法し、無意味なことを説き、原因なく説き、作為なく説き、業なく説き、あれこれの善悪の行為を並べ立てて、互いに断ち切り、壊し合うなら、私が説いた四十の大法の中には、清らかな教えの輪を回転させるものがある。修行者や宗教家、天や悪魔、梵天、その他の世の中の者たちでさえ、これを否定することはできない。彼らにもまた、問答や悲しみ、恐怖がある。

佛說如是。彼諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。

> このように仏は説かれました。比丘たちは仏の説かれたことを聞き、喜んでお受け取りになりました。

聖道經第三竟千八百五字

> 聖道経　第三終わり<note>千八百五字</note>