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title: "中阿含經 · 190 小空經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
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### （一九〇）中阿含雙品小空經第四第五後誦

> （一九〇）中阿含双品 小空経 第四<note>第五後誦</note>

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊舍衛國，在於東園鹿子母堂。

> ある時、仏様はシャーラヴァスティー（舎衛国）に滞在され、東の園にある「鹿子母堂」におられました。

爾時，尊者阿難則於晡時從燕坐起，往詣佛所，稽首佛足，却住一面，白曰：「世尊一時遊行釋中，城名釋都邑，我於爾時從世尊聞說如是義。『阿難！我多行空。』彼世尊所說，我善知、善受，為善持耶？」

> その時、尊き阿難尊者は夕暮れに坐禅から立ち上がり、お釈迦様のもとへ向かい、足を礼拝してから片側に立ち、こう申し上げました。「世尊はかつて、釈迦族の里である釈提桓因の都をお遍路になられました。その折、私は世尊から次のような意味をお聞きしました。『阿難よ、私はしばしば空の境地を行じている。』と。この世尊がお説きになった教えを、私は正しく理解し、正しく受け止め、よく心に留めているでしょうか？」

爾時，世尊答曰：「阿難！彼我所說，汝實善知、善受、善持。所以者何？我從爾時及至於今，多行空也。阿難！如此鹿子母堂，空無象、馬、牛、羊、財物、穀米、奴婢，然有不空，唯比丘眾。是為，阿難！若此中無者，以此故我見是空，若此有餘者，我見真實有。阿難！是謂行真實、空、不顛倒也。阿難！比丘若欲多行空者，彼比丘莫念村想，莫念人想，當數念一無事想。彼如是知空於村想，空於人想，然有不空，唯一無事想。若有疲勞，因村想故，我無是也。若有疲勞，因人想故，我亦無是。唯有疲勞，因一無事想故。若彼中無者，以此故，彼見是空，若彼有餘者，彼見真實有。阿難！是謂行真實、空、不顛倒也。

> 爾時、世尊は答えられました。「アーナンダよ、あなたは私が説いたことを実によく理解し、よく受け止め、よく保持している。なぜなら、私はその時から現在に至るまで、『空』を多く実践してきたからである。アーナンダよ、ちょうどこの鹿子母堂が、象、馬、牛、羊、財物、穀物、奴婢などは空であるが、比丘たちの群れがいることで空ではないように。アーナンダよ、ここにないものについては、それゆえに私はそれを空と見る。ここに残っているものについては、私はそれを実に存在すると見る。アーナンダよ、これが真実の空、倒錯のない行いである。 アーナンダよ、比丘が空を多く行いたいと望むなら、その比丘は村の想いにも人の想いにもとらわれず、ただ一つの『無事の想い』を繰り返し念じるべきである。彼はそのようにして、村の想いに対して空であり、人の想いに対しても空であると知る。しかし、ただ一つの『無事の想い』だけは空ではない。もし村の想いによって疲れが生じるなら、私にはそれはない。もし人の想いによって疲れが生じるなら、私にはそれもない。ただ、一つの『無事の想い』によって疲れが生じることがあるのみである。そこにないものについては、それゆえに彼はそれを空と見る。そこに残っているものについては、彼はそれを実に存在すると見る。アーナンダよ、これが真実の空、倒錯のない行いである。」

「復次，阿難！比丘若欲多行空者，彼比丘莫念人想，莫念無事想，當數念一地想。彼比丘若見此地有高下，有蛇聚，有棘刺叢，有沙有石，山嶮深河，莫念彼也。若見此地平正如掌，觀望處好，當數念彼。阿難！猶如牛皮，以百釘張，極張挓已，無皺無縮。若見此地有高下，有蛇聚，有棘刺叢，有沙有石，山嶮深河，莫念彼也。若見此地平正如掌，觀望處好，當數念彼。彼如是知，空於人想，空無事想，然有不空，唯一地想。若有疲勞，因人想故，我無是也。若有疲勞，因無事想故，我亦無是。唯有疲勞，因一地想故。若彼中無者，以此故，彼見是空，若彼有餘者，彼見真實有。阿難！是謂行真實、空、不顛倒也。

> また、阿難よ。比丘がもし空を多く行じようと思うなら、その比丘は人の想いを念じず、無事の想いも念じず、ただ一つの地の想いを常に念じなさい。 その比丘は、もしこの地に高低があり、蛇の群れや茨の茂み、砂や石、険しい山や深い川があるのを見ても、それを念じてはなりません。もしこの地が掌のように平らで、見渡しが良いのを見たら、それを常に念じなさい。 阿難よ、例えば牛皮を百本の釘で張り、十分に張り伸ばして、しわや縮みがなくなったようなものです。 もしこの地に高低があり、蛇の群れや茨の茂み、砂や石、険しい山や深い川があるのを見ても、それを念じてはなりません。もしこの地が掌のように平らで、見渡しが良いのを見たら、それを常に念じなさい。 そのようにして彼は知る——人の想いについては空であり、無事の想いについても空である。しかし、空でないものがある。ただ一つの地の想いだけである。 もし疲労があるとしても、それは人の想いによるものだからであり、私にはそのようなことはありません。もし疲労があるとしても、それは無事の想いによるものだからであり、私にもそのようなことはありません。ただ疲労があるとすれば、それは一つの地の想いによるものです。 もしそこに存在しないものがあれば、そのことによって、彼はそれを空と見る。もしそこに残るものがあれば、彼はそれを真実に存在すると見る。 阿難よ、これこそが真実の空、顛倒しない空の行じ方である。

「復次，阿難！比丘若欲多行空者，彼比丘莫念無事想，莫念地想，當數念一無量空處想。彼如是知，空無事想，空於地想，然有不空，唯一無量空處想。若有疲勞，因無事想故，我無是也。若有疲勞，因地想故，我亦無是。唯有疲勞，因一無量空處想故。若彼中無者，以此故，彼見是空，若彼有餘者，彼見真實有。阿難！是謂行真實、空、不顛倒也。

> 「また、阿難よ。比丘がさらに空の実践を深めようとするなら、その比丘は無事の想いにも地の想いにもとらわれず、ただ一つの無量空処の想いを常に保つべきである。彼はこのように知る。『無事の想いは空であり、地の想いも空である。しかし、完全に空なのではなく、ただ一つの無量空処の想いが存在する』と。もし無事の想いによる疲れがあれば、私はそれに執着しない。もし地の想いによる疲れがあれば、それにも執着しない。ただ、一つの無量空処の想いによる疲れのみがある。もしそこに存在しないものがあれば、それによって、彼はそれを空と見る。もしそこに残るものがあれば、彼はそれを真実に存在すると見る。阿難よ、これこそが真実の空、倒れのない実践と呼ばれるのである。」

「復次，阿難！比丘若欲多行空者，彼比丘莫念地想，莫念無量空處想，當數念一無量識處想。彼如是知，空於地想，空無量空處想，然有不空，唯一無量識處想。若有疲勞，因地想故，我無是也。若有疲勞，因無量空處想故，我亦無是。唯有疲勞，因一無量識處想故。若彼中無者，以此故，彼見是空，若彼有餘者，彼見真實有。阿難！是謂行真實、空、不顛倒也。

> さらに、阿難よ。比丘がもっと空の修行を多く行いたいと思うなら、その比丘は地の想いを思い浮かべてはならない。無量空処の想いも思い浮かべてはならない。ただ一つの無量識処の想いを常に念じなさい。彼はこう知る——「地の想いからは空であり、無量空処の想いからも空である。しかし、空ではないものがある。ただ一つの無量識処の想いだけがある」と。もし疲れがあるとしても、地の想いに原因するものは、私にはない。もし疲れがあるとしても、無量空処の想いに原因するものも、私にはない。ただ、一つの無量識処の想いに原因する疲れだけがある。もしその中にないものがあるなら、それによって、彼はそれを空と見る。もしそこに残るものがあるなら、彼はそれを真実に有ると見る。阿難よ。これが真実の空、顛倒しない空の修行と呼ばれるのである。

「復次，阿難！比丘若欲多行空者，彼比丘莫念無量空處想，莫念無量識處想，當數念一無所有處想。彼如是知，空無量空處想，空無量識處想，然有不空，唯一無所有處想。若有疲勞，因無量空處想故，我無是也。若有疲勞，因無量識處想故，我亦無是。唯有疲勞，因一無所有處想故。若彼中無者，以此故，彼見是空，若彼有餘者，彼見真實有。阿難！是謂行真實、空、不顛倒也。

> 「また、アーナンダよ。比丘がさらに空の想いを深めたいと思うなら、その比丘は無量空処の想いに執着せず、無量識処の想いにも執着せず、ただ一つの無所有処の想いを常に念じるがよい。彼はこうして知る。『無量空処の想いは空であり、無量識処の想いも空である。しかし、唯一の無所有処の想いは、なお空ならざるものとして存在する。』 もし無量空処の想いから疲れが生じるなら、私にはそれはない。もし無量識処の想いから疲れが生じるなら、私にはそれもない。ただ、一つの無所有処の想いから生じる疲れのみがある。 そこにないものがあるから、彼はそれを『空である』と見る。そこに残るものがあるから、彼はそれを『真實に存在する』と見る。 アーナンダよ。これこそが、真實であり、空であり、顛倒しない行いである、と説かれたのだ。」

「復次，阿難！比丘若欲多行空者，彼比丘莫念無量識處想，莫念無所有處想，當數念一無想心定。彼如是知，空無量識處想，空無所有處想，然有不空，唯一無想心定。若有疲勞，因無量識處想故，我無是也。若有疲勞，因無所有處想故，我亦無是。唯有疲勞，因一無想心定故。若彼中無者，以此故，彼見是空，若彼有餘者，彼見真實有。阿難！是謂行真實、空、不顛倒也。

> 「さらには、アーナンダよ。比丘がもっと空を実践しようと望むなら、その比丘は無量識処の想いにも、無所有処の想いにもとらわれず、ただ一つの無想心定を常に念じなさい。彼はこうして知る――無量識処の想いは空であり、無所有処の想いは空である。しかし、空ではないものがある。それはただ一つの無想心定である。もし疲れがあるとすれば、それは無量識処の想いによるものだが、私にはそれはない。もし疲れがあるとすれば、それは無所有処の想いによるものだが、私にもそれはない。ただ、一つの無想心定による疲れだけがある。もしその中に存在しないものがあれば、それによって彼はそれを空と見る。もし残るものがあれば、彼はそれを真実に存在すると見る。アーナンダよ、これこそが真実の空であり、倒錯のない行いである。」

「彼作是念：『我本無想心定，本所行、本所思，若本所行、本所思者，我不樂彼，不求彼，不應住彼，如是知、如是見，欲漏心解脫，有漏、無明漏心解脫，解脫已，便知解脫，生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。』彼如是知，空欲漏、空有漏、空無明漏，然有不空，唯此我身六處、命存。若有疲勞，因欲漏故，我無是也。若有疲勞，因有漏、無明漏故，我亦無是。唯有疲勞，因此我身六處、命存故。若彼中無者，以此故，彼見是空；若彼有餘者，彼見真實有。阿難！是謂行真實、空、不顛倒也。謂漏盡、無漏、無為、心解脫。

> 彼はこう思った。「私はもともと、心が定まっていて想念のない状態を望んでいなかった。そもそも私が行い、思っていたこと――それに基づくものを私は好まず、求めず、とどまるべきではない。このように知り、このように見ると、欲望の煩悩から心が解き放たれ、存在の煩悩や無明の煩悩からも心が解き放たれる。解脱したならば、すでに解脱したと知る。生は尽き、清らかな行いは完成し、なすべきことはなされ、再び迷いの生存を受けることはないと、あるがままに知る。」 彼はこのように知って、欲望の煩悩は空であり、存在の煩悩は空であり、無明の煩悩は空であると知る。しかし、空でないものもある。すなわち、この私の身体という六つの感覚器官と、命が存続していることだけである。もし欲望の煩悩に基づく疲労があれば、私にはそれはない。もし存在の煩悩や無明の煩悩に基づく疲労があれば、私にはそれもない。ただ、この私の身体という六つの感覚器官と命が存続していることによる疲労だけがある。 もしそこに存在しないものがあれば、それによって彼はそれを「空」と見る。もし残っているものがあれば、彼はそれを「真実に存在する」と見る。アーナンダよ、これを行じた真実の空、顛倒しないものという。すなわち、煩悩が尽き、煩悩なく、作為なく、心の解脱をいう。

「阿難！若過去諸如來、無所著、等正覺，彼一切行此真實、空、不顛倒，謂漏盡、無漏、無為、心解脫。阿難！若當來諸如來、無所著、等正覺，彼一切行此真實、空、不顛倒，謂漏盡、無漏、無為、心解脫。阿難！若今現在我如來、無所著、等正覺，我亦行此真實、空、不顛倒，謂漏盡、無漏、無為、心解脫。阿難！汝當如是學，我亦行此真實、空、不顛倒，謂漏盡、無漏、無為、心解脫。是故，阿難！當學如是。」

> 阿難よ。過去の如来たち、阿羅漢たち、正しく覚った方々は、みなこの真実、空、誤りのない境地を実践されました。それはすなわち、煩悩が尽きたこと、執着を離れたこと、作為を超えたこと、心の解脱です。 阿難よ。未来の如来たち、阿羅漢たち、正しく覚った方々も、みなこの真実、空、誤りのない境地を実践されるでしょう。それはすなわち、煩悩が尽きたこと、執着を離れたこと、作為を超えたこと、心の解脱です。 阿難よ。そして今現在の私、如来、阿羅漢、正しく覚った者も、この真実、空、誤りのない境地を実践しています。それはすなわち、煩悩が尽きたこと、執着を離れたこと、作為を超えたこと、心の解脱です。 阿難よ。あなたはこのように学ぶべきです。「私もまた、この真実、空、誤りのない境地を実践しよう。すなわち、煩悩を尽くし、執着を離れ、作為を超え、心の解脱を得よう」と。 ですから、阿難よ。このように学びなさい。

佛說如是。尊者阿難及諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。

> 仏様はこのようにお説きになりました。尊者アーナンダや修行者たちは、仏様の教えを聞いて、喜び、その通りに実践しました。

小空經第四竟千四百二十三字

> 第四経「小空経」おわり<note>千四百二十三字</note>