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title: "中阿含經 · 191 大空經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
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### （一九一）中阿含雙品大空經第五第五後誦

> 一九一）中阿含双品大空経 第五<note>第五後誦</note>

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊釋中迦維羅衛，在尼拘類園。

> ある時、仏は釈迦族の地であるカピラヴァストゥにおられ、ニグローダ園に滞在されていました。

爾時，世尊過夜平旦，著衣持鉢，入迦維羅衛而行乞食，食訖中後，往詣加羅差摩釋精舍。爾時，加羅差摩釋精舍敷眾多床座，眾多比丘於中住止。彼時，世尊從加羅差摩釋精舍出，往詣加羅釋精舍。爾時，尊者阿難與眾多比丘在加羅釋精舍中集作衣業，尊者阿難遙見佛來，見已出迎，取佛衣鉢，還敷床座，汲水洗足。佛洗足已，於加羅釋精舍坐尊者阿難所敷之座，告曰：「阿難！加羅差摩釋精舍敷眾多床座，眾多比丘於中住止。」

> ある時、世尊は夜が明けて早朝、衣を着け鉢を持ち、カピラヴァストゥに入って托鉢をされた。食事を終え、午後になって、カラーチャマ・サキャの精舎へ向かわれた。その時、カラーチャマ・サキャの精舎には多くの床座が敷かれ、多くの比丘たちがそこで滞在していた。そこで世尊はカラーチャマ・サキャの精舎を出て、カーラ・サキャの精舎へ向かわれた。その時、尊者アーナンダは多くの比丘たちと共に、カーラ・サキャの精舎で衣を縫う作業をしていた。尊者アーナンダは遠くから仏が来られるのを見て、出迎え、仏の衣と鉢を取り、床座を敷き、水を汲んで足を洗った。仏は足を洗われた後、カーラ・サキャの精舎で尊者アーナンダが敷いた座に坐り、こう告げられた。「アーナンダよ、カラーチャマ・サキャの精舎には多くの床座が敷かれ、多くの比丘たちがそこで滞在している。」

尊者阿難白曰：「唯然。世尊！加羅差摩釋精舍敷眾多床座，眾多比丘於中住止。所以者何？我今作衣業。」

> 阿難尊者がお答えしました。「かしこまりました、世尊。ガーラッチャマ・釈氏の精舎には多くの寝台や座席が整えられ、多くの比丘たちがそこで滞在しております。なぜなら、私は今、衣（ころも）の製作に従事しているからでございます。」

時，世尊復告阿難曰：「比丘不可欲嘩說、樂於嘩說、合會嘩說、欲眾、樂眾、合會於眾、不欲離眾、不樂獨住遠離之處。若有比丘欲嘩說、樂於嘩說、合會嘩說、欲眾、樂眾、合會於眾、不欲離眾、不樂獨住遠離處者，謂有樂、聖樂、無欲之樂、離樂、息樂、正覺之樂、無食之樂、非生死樂。若得如是樂，易不難得者，終無是處。阿難！若有比丘不欲嘩說，不樂嘩說，不合會嘩說，不欲於眾，不樂於眾，不合會眾，欲離於眾，常樂獨住遠離處者，謂有樂、聖樂、無欲之樂、離樂、息樂、正覺之樂、無食之樂、非生死樂。若得如是樂，易不難得者，必有是處。

> そこで、世尊は阿難に告げられた。 「僧侶たちは、騒がしい話し合いを好んだり、それを楽しんだり、集まって騒いだりしてはならない。大勢の人を求め、集まりを好み、人と交わることを楽しみ、人から離れようとせず、ひとり静かな場所にいることを好まないであってはならない。 もし、騒がしい話し合いを好み、それを楽しみ、集まって騒ぐことを好み、大勢の人を求め、集まりを楽しみ、人と交わることを喜び、人から離れようとせず、ひとり静かな場所にいることを好まない僧侶がいるならば、その者が、真の安らぎ、聖なる安らぎ、欲望のない安らぎ、執着を離れた安らぎ、静寂の安らぎ、正しい悟りの安らぎ、依存しない安らぎ、生死を超えた安らぎを、困難なく得ることができるとは、決してない。 阿難よ。もし、僧侶が騒がしい話し合いを好まず、それを楽しまず、集まって騒ぐことを好まず、大勢の人を求めず、集まりを楽しまず、人と交わることを喜ばず、人から離れることを望み、常にひとり静かな場所にいることを好むならば、その者が、真の安らぎ、聖なる安らぎ、欲望のない安らぎ、執着を離れた安らぎ、静寂の安らぎ、正しい悟りの安らぎ、依存しない安らぎ、生死を超えた安らぎを、困難なく得ることができることは、確かである。」

「阿難！比丘不可欲嘩說、樂於嘩說、合會嘩說、欲眾、樂眾、合會於眾、不欲離眾、不樂獨住遠離之處。若有比丘欲嘩說、樂於嘩說、合會嘩說、欲眾、樂眾、合會於眾、不欲離眾、不樂獨住遠離處者，得時愛樂心解脫，及不時不移動心解脫者，終無是處。阿難！若有比丘不欲嘩說，不樂嘩說，不合會嘩說，不欲於眾，不樂於眾，不合會眾，欲離於眾，常樂獨住遠離處者，得時愛樂心解脫，及不時不移動心解脫者，必有是處。所以者何？我不見有一色令我欲樂，彼色敗壞變易，異時生愁慼啼哭、憂苦、懊惱，以是故我此異住處正覺盡覺，謂度一切色想行於外空。

> 「阿難よ、比丘はおしゃべりを欲しがったり、おしゃべりを楽しんだり、集まっておしゃべりしたりしてはいけません。大勢を欲しがったり、大勢を楽しんだり、大勢と集まったりして、大勢から離れたがらず、一人で静かな所にいることを喜ばない者であってはいけません。 もしも、おしゃべりを欲しがり、おしゃべりを楽しみ、集まっておしゃべりし、大勢を欲しがり、大勢を楽しみ、大勢と集まり、大勢から離れたがらず、一人で静かな所にいることを喜ばない比丘がいたならば、その人が、時にかなった愛楽の心の解脱や、時を選ばない動かない心の解脱を得ることは、決してありえません。 阿難よ、しかしながら、もしもおしゃべりを欲しがらず、おしゃべりを楽しまず、集まっておしゃべりせず、大勢を欲しがらず、大勢を楽しまず、大勢と集まらず、大勢から離れ、常に一人で静かな所にいることを喜ぶ比丘がいたならば、その人が、時にかなった愛楽の心の解脱や、時を選ばない動かない心の解脱を得ることは、必ずありえます。 なぜならば、私には、欲しがり楽しむような、どのような物質的な形（色）も見えないからです。その形が壊れ変化し、異なったものになった時には、憂い、涙、苦しみ、悩みが生じます。だからこそ、私はこの独自の住まい方によって、正しく覚り、全てを覚り切ったのです。それは、あらゆる物質的な形（色）の想いを超えて、外なる空に安住することです。」

「阿難！我行此住處已，生歡悅，我此歡悅，一切身覺正念正智，生喜、生止、生樂、生定，如我此定，一切身覺正念正智。阿難！或有比丘、比丘尼、優婆塞、優婆私共來詣我，我便為彼行如是如是心，遠離，樂無欲，我亦復為彼說法，勸助於彼。阿難！若比丘欲多行空者，彼比丘當持內心住止令一定，彼持內心住止令一定已，當念內空。阿難！若比丘作如是說我不持內心住止，不令一定，念內空者，當知彼比丘大自疲勞。

> 「アーナンダよ、私はこの境地に安住して、歓喜を生じました。この歓喜において、全身の感覚は正しい気づきと正しい智慧を保ち、喜びが生まれ、静けさが生まれ、楽が生まれ、定（サマーディ）が生まれました。この定の状態において、全身の感覚は正しい気づきと正しい智慧によって保たれています。 アーナンダよ、ある時、比丘や比丘尼、在家の男女が私のもとに集まって来ました。その時、私は彼らのために、このように心を遠離（えんり）させ、欲望のない楽しみへと導く行いを実践しました。そして、彼らに対しても法を説き、励まし、助言を与えました。 アーナンダよ、もし比丘が空（くう）の境地を多く実践したいと望むなら、その比丘はまず自らの心を内に留めて、確かに一つに定めるべきです。心を内に留めて確かに一つに定めたならば、その後に内なる空を観じるべきです。 アーナンダよ、もし比丘が「私は心を内に留めて一つに定めることなく、内なる空を観じる」と言うなら、その比丘は大いに自らを疲れさせていると知るべきです。」

「阿難！云何比丘持內心住止令一定耶？比丘者，此身離生喜、樂，漬、盡潤漬，普遍充滿，離生喜、樂，無處不遍。阿難！猶人沐浴，器盛澡豆，以水澆和，和令作丸，漬盡潤漬，普遍充滿，內外周密，無處有漏。如是，阿難！比丘此身離生喜、樂，漬盡潤漬，普遍充滿，離生喜、樂，無處不遍。阿難！如是比丘持內心住止令得一定，彼持內心住止令一定已，當念內空。彼念內空已，其心移動，不趣向近，不得清澄，不住不解於內空也。阿難！若比丘觀時，則知念內空，其心移動，不趣向近，不得清澄，不住不解於內空者，彼比丘當念外空，彼念外空已，其心移動，不趣向近，不得清澄，不住不解於外空也。

> 「阿難よ。比丘はいかにして心を内に留め、それを確かに安定させるのか。比丘は、この身体に、離欲から生じる喜びと楽をもって浸し、潤し、満たし、遍く行き渡らせる。離欲から生じる喜びと楽が、身体のどこにも行き渡らない場所はない。阿難よ。ちょうど、人が沐浴する際に、器に澡豆（洗浄用の粉）を入れ、水で練って団子にするように。それは内も外もすみずみまで潤され、漏れ出るところがない。このように、阿難よ。比丘はこの身体を、離欲から生じる喜びと楽で浸し、潤し、満たし、遍く行き渡らせる。離欲から生じる喜びと楽が、身体のどこにも行き渡らない場所はない。阿難よ。このように比丘は心を内に留めて、確かに安定させる。そうして心を内に留めて確かに安定させたなら、次に「内の空」を観ずべきである。しかし、内の空を観じても、心は揺れ動き、その対象に近づかず、清らかに澄み渡らず、内の空に安住し、理解することができない。阿難よ。比丘が観察するとき、内の空を観じても心が揺れ動き、対象に近づかず、清らかに澄み渡らず、内の空に安住し理解できないと知ったなら、その比丘は次に「外の空」を観ずべきである。しかし、外の空を観じても、心は揺れ動き、その対象に近づかず、清らかに澄み渡らず、外の空に安住し、理解することができない。」

「阿難！若比丘觀時，則知念外空，其心移動，不趣向近，不得清澄，不住不解於外空者，彼比丘當念內外空。彼念內外空已，其心移動，不趣向近，不得清澄，不住不解於內外空也。阿難！若比丘觀時，則知念內外空，其心移動，不趣向近，不得清澄，不住不解於內外空者，彼比丘當念不移動。彼念不移動已，其心移動，不趣向近，不得清澄，不住不解於不移動也。

> 「阿難よ、もし比丘が観察するときに、外の空を思い描いていると心が揺れ動き、近づかず、澄み渡らず、留まらず、外の空を理解できないなら、その比丘は内と外の空を思い描くべきです。そうして内と外の空を思い描いても、やはり心が揺れ動き、近づかず、澄み渡らず、留まらず、内と外の空を理解できないなら、阿難よ、比丘は不動を思い描くべきです。そうして不動を思い描いても、なお心が揺れ動き、近づかず、澄み渡らず、留まらず、不動を理解できないなら——」

「阿難！若比丘觀時，則知念不移動，其心移動，不趣向近，不得清澄，不住不解於不移動者，彼比丘彼彼心於彼彼定，御復御，習復習，軟復軟，善快柔和，攝樂遠離。若彼心於彼彼定，御復御，習復習，軟復軟，善快柔和，攝樂遠離已，當以內空成就遊。彼內空成就遊已，心不移動，趣向於近，得清澄住，解於內空。阿難！如是比丘觀時，則知內空成就遊，心不移動，趣向於近，得清澄住，解於內空者，是謂正知。

> 「アーナンダよ。比丘が観察するとき、心が動かず、近づこうとせず、清らかに澄まず、不動にとどまらず解き放たれないと知るならば、その比丘は、様々な心を様々な禅定において、さらに調え、さらに修め、さらに柔らかにし、善く快く和らげ、楽を受け入れ遠離する。もしその心が、様々な禅定において、さらに調えられ、さらに修められ、さらに柔らかにされ、善く快く和らげられ、楽を受け入れ遠離せられたならば、内なる空によって成就し遊ぶべきである。彼が内なる空によって成就し遊ぶとき、心は動かず、近づこうとし、清らかに澄みとどまり、内なる空によって解き放たれる。アーナンダよ。このように、比丘が観察するとき、内なる空によって成就し遊び、心が動かず、近づこうとし、清らかに澄みとどまり、内なる空によって解き放たれることを知る。これを正知という。」

「阿難！比丘當以外空成就遊，彼外空成就遊已，心不移動，趣向於近，得清澄住，解於外空。阿難！如是比丘觀時，則知外空成就遊，心不移動，趣向於近，得清澄住，解於外空者，是謂正知。阿難！比丘當以內外空成就遊，彼內外空成就遊已，心不移動，趣向於近，得清澄住，解於內外空。阿難！如是比丘觀時，則知內外空成就遊，心不移動，趣向於近，得清澄住，解於內外空者，是謂正知。阿難！當以不移動成就遊，彼不移動成就遊已，心不移動，趣向於近，得清澄住，解於不移動。阿難！如是比丘觀時，則知不移動成就遊，心不移動，趣向於近，得清澄住，解於不移動者，是謂正知。

> 「アーナンダよ。比丘は、まず外的な空を修行して実践せよ。その外的な空を実践したならば、心は動かず、目標に近づき、清らかに落ち着き、外的な空を理解する。アーナンダよ。このように比丘が観察する時、すなわち外的な空を実践し、心が動かず、目標に近づき、清らかに落ち着き、外的な空を理解する、これを正知という。 アーナンダよ。比丘は、内外の空を修行して実践せよ。その内外の空を実践したならば、心は動かず、目標に近づき、清らかに落ち着き、内外の空を理解する。アーナンダよ。このように比丘が観察する時、すなわち内外の空を実践し、心が動かず、目標に近づき、清らかに落ち着き、内外の空を理解する、これを正知という。 アーナンダよ。さらに、不動の境地を修行して実践せよ。その不動の境地を実践したならば、心は動かず、目標に近づき、清らかに落ち着き、不動を理解する。アーナンダよ。このように比丘が観察する時、すなわち不動の境地を実践し、心が動かず、目標に近づき、清らかに落ち着き、不動を理解する、これを正知という。」

「阿難！彼比丘行此住處心，若欲經行者，彼比丘從禪室出，在室影中露地經行，諸根在內，心不向外，後作前想，如是經行已，心中不生貪伺、憂慼、惡不善法，是謂正知。阿難！彼比丘行此住處心，若欲坐定者，彼比丘從離經行，至經行頭，敷尼師檀，結跏趺坐，如是坐定已，心中不生貪伺、憂慼、惡不善法，是謂正知。阿難！彼比丘行此住處心，若欲有所念者，彼比丘若此三惡不善之念：欲念、恚念、害念，莫念此三惡不善之念。若此三善念：無欲念、無恚念、無害念，當念此三善念。如是念已，心中不生貪伺、憂慼、惡不善法，是謂正知。

> 「阿難よ、その比丘がこの住処において心を修めているとき、もし経行したいと思えば、その比丘は禅室から出て、室の影がある露地で経行します。諸々の根は内にあり、心は外に向かわず、後ろを前にする思いで、このように経行したならば、心の中に貪りの思い、憂い、悪しき善ならざる法が生じません。これを正知といいます。 阿難よ、その比丘がこの住処において心を修めているとき、もし坐禅をしたいと思えば、その比丘は経行を離れ、経行の終わりに坐具を敷き、結跏趺坐します。このように坐定したならば、心の中に貪りの思い、憂い、悪しき善ならざる法が生じません。これを正知といいます。 阿難よ、その比丘がこの住処において心を修めているとき、もし何かを念じたいと思えば、その比丘はこれらの三つの悪しき善ならざる念、すなわち欲望の念、怒りの念、害心の念を念じてはなりません。これらの三つの善い念、すなわち欲望なき念、怒りなき念、害心なき念を念じるべきです。このように念じたならば、心の中に貪りの思い、憂い、悪しき善ならざる法が生じません。これを正知といいます。」

「阿難！彼比丘行此住處心，若欲有所說者，彼比丘若此論非聖論，無義相應，謂論王論、賊論、鬪諍論、飲食論、衣被論、婦人論、童女論、婬女論、世間論、邪道論、海中論，不論如是種種畜生論。若論聖論與義相應，令心柔和，無諸陰蓋，謂論施論、戒論、定論、慧論、解脫論、解脫知見論、漸損論、不會論、少欲論、知足論、無欲論、斷論、滅論、燕坐論、緣起論，如是沙門所論。如是論已，心中不生貪伺、憂慼、惡不善法，是謂正知。

> 阿難よ、もし比丘がこの住処に心をとどめて修行している時、語りたいことがあるならば、その比丘は次のような非聖なる論、無益な議論をしてはならない。すなわち、王の話、盗賊の話、争いの話、食べ物の話、衣服の話、女の話、娘の話、淫女の話、世俗の話、邪道の話、海の話など、このような様々な無益な議論である。 もし聖なる論、意味にかなった話で、心を柔和にし、諸々の覆い（陰蓋）を生じさせないならば、すなわち布施の話、戒律の話、禅定の話、智慧の話、解脱の話、解脱の知見の話、徐々に煩悩を減らす話、執着しない話、少欲の話、知足の話、無欲の話、断ち切る話、滅する話、静坐の話、縁起の話など、このような修行者にふさわしい話をすべきである。 このように語った後、心の中に貪りや求め、憂いや苦しみ、悪しき不善の法が生じないこと、これを正知という。

「復次，阿難！有五欲功德，可樂、意所念，愛色欲相應，眼知色，耳知聲，鼻知香，舌知味，身知觸。若比丘心至到，觀此五欲功德，隨其欲功德，若心中行者。所以者何？無前無後，此五欲功德，隨其欲功德，心中行者。阿難！若比丘觀時，則知此五欲功德，隨其欲功德，心中行者。彼比丘彼彼欲功德，觀無常、觀衰耗、觀無欲、觀斷、觀滅、觀斷捨離，若此五欲功德有欲有染者，彼即滅也。阿難！若如是比丘觀時，則知者此五欲功德有欲有染，彼已斷也，是謂正知。

> また、阿難よ。五つの欲望の対象（五欲功德）がある。楽しく、心にかなって、愛しく、色欲に相応しいものだ。眼で色を知り、耳で声を聞き、鼻で香りをかぎ、舌で味を味わい、身で感触を得る。 もし比丘が心を集中して、この五つの欲望の対象を観察するとき、その欲望の対象に応じて、心の中にそれが現れる。なぜなら、前も後もなく、この五つの欲望の対象は、それぞれの欲望に従って、心の中に行き渡るからである。 阿難よ。比丘が観察するとき、この五つの欲望の対象は、それぞれの欲望に応じて心の中に現れることを知る。その比丘は、それぞれの欲望の対象について、無常であると観じ、衰えていくものと観じ、欲がないことと観じ、断ち切ることと観じ、滅することと観じ、断ち捨て離れることと観る。もしこの五つの欲望の対象に執着や染まりがあるならば、それは即座に滅び去る。 阿難よ。もし比丘がこのように観察するとき、「この五つの欲望の対象に執着や染まりがあったが、それはすでに断たれた」と知る。これを正知という。

「復次，阿難！有五盛陰，色盛陰，覺、想、行、識盛陰，謂比丘如是觀興衰，是色、是色習、是色滅，是覺、想、行、識，是識、是識習、是識滅。若此五盛陰有我慢者，彼即滅也。阿難！若有比丘如是觀時，則知五陰中我慢已滅，是謂正知。阿難！是法一向可、一向樂、一向意念，無漏無受，魔所不及，惡所不及，諸惡不善法、穢污、當來有本、煩熱苦報生老病死因亦所不及，謂成就此不放逸也。所以者何？因不放逸，諸如來、無所著、等正覺得覺，因不放逸根，生諸無量善法。若有隨道品，阿難！是故汝當如是學。我亦成就於不放逸，當學如是。阿難！以何義故，信弟子隨世尊行奉事至命盡耶？」

> 「さらに、阿難よ。五つの盛んな塊（五蘊）がある。物質の塊、感覚・想念・形成作用・認識の塊である。比丘がこのようにして盛衰を観察する。すなわち、『これが物質、これが物質の起こり、これが物質の滅び』であり、『これが感覚・想念・形成作用・認識、これが認識の起こり、これが認識の滅び』である。もしこの五つの盛んな塊に『我あり』という慢心があるなら、それは滅び去る。阿難よ。比丘がこのように観察する時、五蘊の中における我慢がすでに滅したと知る。これを正しい知り方という。阿難よ。この法は、ひたすらに善く、ひたすらに楽しく、ひたすらに心が向かうべきものであり、煩悩のない、執着のない境地である。悪魔の及ぶところではなく、悪の及ぶところではない。あらゆる悪しき不善の法、汚れ、未来の生存の基、悩み苦しみの報い、生・老・病・死の原因もまた及ばない。これを不放逸の成就というのである。なぜなら、不放逸によって、如来・阿羅漢・正等覚者は悟りを得たからである。不放逸を根として、無量の善法が生じる。もし道の区分に従うならば、阿難よ。ゆえに、あなたはこのように学ぶべきである。『私も不放逸を成就しよう』と、このように学ぶべきである。阿難よ。どんな理由で、信者は世尊の教えに従い、命が尽きるまで奉仕するのだろうか。」

尊者阿難白世尊曰：「世尊為法本，世尊為法主，法由世尊，唯願說之，我今聞已，得廣知義。」

> 阿難尊者が仏陀に申し上げました。「世尊は教えの根本です。世尊は教えの主です。教えは世尊から生まれます。どうかお説きください。私たちがそれを聞いて、その意味を深く理解できますように。」

佛便告曰：「阿難！諦聽，善思念之，我當為汝具分別說。」尊者阿難受教而聽。

> 仏陀は阿難尊者に告げられた。「阿難よ、よく聞き、心して受け止めなさい。これから詳しく説き明かそう。」阿難尊者はその教えを謹んで聞いた。

佛言：「阿難！不其正經、歌詠、記說故，信弟子隨世尊行奉事至命盡也。但，阿難！或彼長夜數聞此法，誦習至千，意所惟觀，明見深達，若此論聖論與義相應，令心柔和，無諸陰蓋，謂論施論、戒論、定論、慧論、解脫論、解脫知見論、漸損論、不會論、少欲論、知足論、無欲論、斷論、滅論、燕坐論、緣起論。如是沙門所論，得、易不難得，因此義故，信弟子隨世尊行奉事至命盡也。阿難！如是為煩師，為煩弟子，為煩梵行。

> 仏陀は言われた。「阿難よ、師を信じる弟子が世尊に従い尽くすのは、単に経典を詠唱し語り伝えるからではない。むしろ、阿難よ、彼が長い間これらの教えを繰り返し聞き、千回も学び、心で深く考察し、明らかに理解するからである。そのように聖なる教えが義にかなっており、心を柔和にし、あらゆる覆いを取り除く――すなわち、布施の教え、戒律の教え、禅定の教え、智慧の教え、解脱の教え、解脱の智見の教え、徐々に減らす教え、不執着の教え、少欲の教え、知足の教え、無欲の教え、断ち切りの教え、滅尽の教え、静坐の教え、縁起の教えなどの議論である。このような修行者の教えを、得ることができ、しかも難なく身につけられるからこそ、信じる弟子は世尊に従い尽くすのである。阿難よ、このようにして師も煩わしくなく、弟子も煩わしくなく、清らかな行いも煩わしくなくなるのだ。」

「阿難！云何為煩師？若師出世，有策慮思惟，往策慮地，有思惟觀雜，凡人有辯才，彼住無事處山林樹下，或居高巖，寂無音聲，遠離，無惡，無有人民，隨順宴坐，或住彼處，學遠離精勤，得增上心，現法樂居。彼學遠離，精勤安隱，快樂遊行已，隨弟子還梵志、居士、村邑、國人。彼隨弟子還梵志、居士、村邑、國人已，便功高還家。如是為煩師，是亦為惡不善法、穢污，當來有本，煩熱苦報、生老病死因所煩，是謂煩師。

> 「阿難よ、では何が『憂いをもたらす教師』か。もし師が出世し、思慮を巡らせ、分別を重ね、弁才を持つ凡夫がいたとする。その者が、人里離れた山林や樹下、高い岩の上など、静寂で騒がしくなく、民のいない場所に住み、静かに坐禅する。そこに留まり、遠離を学び、精進して、より高い心の境地を得て、現世の法における安楽に住する。その者は遠離を学び、安穏に楽しく修行した後、弟子たちと共に、バラモンや在家信者、村人や国人のもとへ帰って行く。そして、その弟子たちやバラモンたちのもとへ帰ると、すぐに威張り高ぶって家に帰ってしまう。このような者を『憂いをもたらす教師』という。これはまた、悪しき善からざる法であり、汚れであり、未来に苦の原因となる、熱苦の結果、生・老・病・死の因となる煩いである。このようにして、教師は憂いをもたらすのである。」

「阿難！云何為煩弟子？彼師弟子學彼遠離，彼住無事處山林樹下，或居高巖，寂無音聲，遠離，無惡，無有人民，隨順燕坐，或住彼處，學遠離精勤，得增上心，現法樂居，彼學遠離，精勤安隱，快樂遊行已，隨弟子還梵志、居士、村邑、國人。彼隨弟子還梵志、居士、村邑、國人已，便功高還家。如是為煩弟子，是亦為惡不善法，穢污，當來有本，煩熱苦報、生老病死因所煩，是謂煩弟子。

> 「阿難よ、ではどのような者が『弟子を煩わせる者』なのか。その師の弟子は、師から教えられた通りの遠離（隠遁）の修行を学ぶ。彼は人里離れた場所、山林や樹下、あるいは高い岩場などに住む。そこは静かで物音もなく、遠く離れており、悪しきものもなく人もいない。そうした場所で静かに座り、そこに留まって遠離の修行に励み、より高次の心を得て、現世において安らかな境地に住む。このように彼は遠離の修行に励み、安らかで楽しく過ごしていたが、やがて弟子たちが修行者や在家信者、村人や国の人々のもとへと戻ってくる。その師のところに弟子たちが戻って来ると、その師は増長し、思い上がって俗世に逆戻りしてしまう。これこそが『弟子を煩わせる者』である。これもまた悪しき不善の法であり、汚れであり、未来の生存の基となり、煩わしく熱苦しい報いをもたらし、生・老・病・死という苦しみの原因となるものなのである。これが『弟子を煩わせる者』と呼ばれる所以である。」

「阿難！云何為煩梵行？若如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐，彼住無事處山林樹下，或居高巖，寂無音聲，遠離，無惡，無有人民，隨順燕坐。阿難！如來以何義故，住無事處山林樹下，或居高巖，寂無音聲，遠離，無惡，無有人民，隨順燕坐耶？」

> 「阿難、何をもって梵行を汚すというのか。もし如来が世に現れ、執着なく、正しく覚り、明行足、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師、仏・世尊と称されるならば、その方は人里離れた山林の木の下、あるいは高い岩場に住まわれる。そこは静かで音もなく、遠く離れ、悪もなく、人々もおらず、静かに坐するにふさわしい。阿難よ、如来はどのような理由で、人里離れた山林の木の下、あるいは高い岩場に住まわれるのか。そこは静かで音もなく、遠く離れ、悪もなく、人々もおらず、静かに坐するにふさわしい場所である。」

尊者阿難白世尊曰：「世尊為法本，世尊為法主，法由世尊，唯願說之，我今聞已，得廣知義。」

> 阿難尊者が仏陀に申し上げました。「世尊は教えの根本です。世尊は教えの主です。教えは世尊から生まれます。どうかお説きください。私たちがそれを聞いて、その意味を深く理解できますように。」

佛便告曰：「阿難！諦聽，善思念之，我當為汝具分別說。」尊者阿難受教而聽。

> 仏陀は阿難尊者に告げられた。「阿難よ、よく聞き、心して受け止めなさい。これから詳しく説き明かそう。」阿難尊者はその教えを謹んで聞いた。

佛言：「阿難！如來非為未得欲得、未獲欲獲、未證欲證故，住無事處山林樹下，或居高巖，寂無音聲，遠離，無惡，無有人民，隨順燕坐。阿難！如來但以二義故，住無事處山林樹下，或居高巖，寂無音聲，遠離，無惡，無有人民，隨順燕坐，一者為自現法樂居故，二者慈愍後生人故。或有後生人效如來住無事處山林樹下，或居高巖，寂無音聲，遠離，無惡，無有人民，隨順燕坐。阿難！如來以此義故，住無事處山林樹下，或居高巖，寂無音聲，遠離，無惡，無有人民，隨順燕坐，或住彼處，學遠離精勤，得增上心，現法樂居。彼學遠離，精勤安隱，快樂遊行已，隨梵行還比丘、比丘尼、優婆塞、優婆私。彼隨梵行還比丘、比丘尼、優婆塞、優婆私已，便不功高而不還家。阿難！若彼不移動心解脫作證，我不說彼有障礙也。若彼得四增上心現法樂居，本為精勤，無放逸遊行故，此或可有失以弟子多集會故。

> 仏陀は言われた。「阿難よ、如来は、まだ得ていないものを得たい、まだ獲得していないものを獲得したい、まだ悟っていないものを悟りたいがために、人里離れた山や林の中、あるいは高い岩の上で、静かに音のない、遠く離れ、悪いものもなく、人のいない場所で、静かに座っているのではない。阿難よ、如来はただ二つの理由によって、人里離れた山や林の中、あるいは高い岩の上で、静かに音のない、遠く離れ、悪いものもなく、人のいない場所で、静かに座っているのだ。一つは、自ら現在の法（真理）における安楽に住むためであり、もう一つは、後の世に生まれる人々への慈しみのためである。後の世に生まれる人々が、如来に倣って、人里離れた山や林の中、あるいは高い岩の上で、静かに音のない、遠く離れ、悪いものもなく、人のいない場所で、静かに座るようになるかもしれないからだ。 阿難よ、如来はこの意味によって、人里離れた山や林の中、あるいは高い岩の上で、静かに音のない、遠く離れ、悪いものもなく、人のいない場所で、静かに座る。あるいはその場所に住んで、遠離のための精進を学び、優れた心の状態を得て、現在の法における安楽に住む。彼らは遠離のための精進を学び、穏やかで安らかに、楽しく過ごす。その後、共に清らかな行いを修める比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷が訪ねて来る。彼らが訪ねて来ても、彼は高ぶることなく、また家に帰ることもない。 阿難よ、もし彼が動かない心の解脱を現に証得しているなら、私が彼に妨げがあるとは言わない。しかし、もし彼が四つの優れた心の状態である現在の法における安楽に住むことができ、本来は精進し、怠りなく修行していたとしても、多くの弟子たちが集まることで、そこに欠けるところが生じることもあり得るのだ。」

「復次，阿難！彼師弟子效住無事處山林樹下，或居高巖，寂無音聲，遠離，無惡，無有人民，隨順燕坐。或住彼處，學遠離精勤，得增上心，現法樂居，彼學遠離，精勤安隱，快樂遊行已，隨梵行還比丘、比丘尼、優婆塞、優婆私。彼隨梵行還比丘、比丘尼、優婆塞、優婆私已，便功高還家。如是為煩梵行，是亦為惡不善法、穢污，當來有本，煩熱苦報、生老病死因所煩，是謂煩梵行。阿難！於煩師、煩弟子，此煩梵行最為不可、不樂、不愛，最意不念。阿難！是故汝等於我行慈事，莫行怨事。

> さらに、阿難よ。師の弟子たちは、人のいない静かな場所、山林や木の下、あるいは高い岩の上に留まり、音もなく、遠く離れ、悪もなく、人もいない場所で、静かに坐って修行する。そこに留まり、遠離（遠く離れること）に励み、心をより高みへと導き、現世の安らぎを楽しむ。彼らは遠離を学び、安らかに精進し、喜びのうちに修行を続ける。そして、修行を共にする比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷（在家の信者）のもとへ戻るのだ。 しかし、その弟子たちは、修行仲間のもとへ戻ると、すぐに驕り高ぶって家に帰ってしまう。これが神聖な修行を汚すこととなり、それは悪しき不善の法であり、汚れであり、未来の苦しみの原因となり、煩わしい苦報、生老病死の因となる。これを「煩梵行（神聖な修行を汚すこと）」という。 阿難よ。師を煩わせ、弟子を煩わせるこの「煩梵行」こそ、最も忌まわしく、好まれず、愛されず、心から遠ざけられるべきものである。 阿難よ。ゆえに、あなたがたは私に対して慈しみの行いをなさい。怨みの行いをしてはならない。

「阿難！云何弟子於師行怨事，不行慈事？若尊師為弟子說法，憐念愍傷，求義及饒益，求安隱快樂，發慈悲心，是為饒益，是為快樂，是為饒益樂。若彼弟子而不恭敬，亦不順行，不立於智，其心不趣向法次法，不受正法，違犯師教，不能得定者，如是弟子於師行怨事，不行慈事。

> 「阿難よ、どのようにして弟子が師に対して怨みの行いをし、慈しみの行いをしないのか。もし師が弟子のために法を説き、慈しみの心を持って憐れみ、義を求め、利益と安らぎと楽を与えようと努めるなら、それはまさに利益となり、楽となり、利益と楽をもたらすものである。しかし、もしその弟子が師に対して敬虔でなく、また教えに従って行わず、智慧に基づかず、その心が法や法の流れに向かわず、正しい法を受け入れず、師の教えに背き、心の定めを得ることができないなら、そのような弟子は師に対して怨みの行いをし、慈しみの行いをしないのである。」

「阿難！云何弟子於師行慈事，不行怨事？若尊師為弟子說法，憐念愍傷，求義及饒益，求安隱快樂，發慈悲心，是為饒益，是為快樂，是為饒益樂。若彼弟子恭敬順行而立於智，其心歸趣向法次法，受持正法，不違師教，能得定者，如是弟子於師行慈事，不行怨事。阿難！是故汝等於我行慈事，莫行怨事。所以者何？我不如是說，如陶師作瓦。阿難！我說嚴急至苦，若有真實者，必能往也。」

佛說如是。尊者阿難及諸比丘，聞佛所說，歡喜奉行。

> このように仏は説かれました。尊者アーナンダと諸々の比丘たちは、仏の説かれたことを聞き、歓喜してこれを行いました。

大空第五竟三千六百七十八字

> 大空第五・終わり<注釈：三千六百七十八字>

## 中阿含經卷第四十九萬一千五百八十字中阿含雙品第一竟萬一千五百八十字第五後誦

> 中阿含経 巻第四十九<note>一万一千五百八十字</note>