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title: "中阿含經 · 195 阿濕貝經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
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### （一九五）中阿含大品阿濕貝經第四第五後誦

> 中阿含経 大品 アシベ経 第四 <note>第五後誦</note>

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊迦尸國，與大比丘眾俱，遊在一處，告諸比丘：「我日一食，日一食已，無為無求，無有病痛，身體輕便，氣力康強，安隱快樂。汝等亦應日一食，日一食已，無為無求，無有病痛，身體輕便，氣力康強，安隱快樂。」

> ある時、仏はガンジス川流域を遊行され、多くの大比丘たちと共に、ある場所におられました。そこで比丘たちに告げられました。「私は一日に一度の食事を実践している。一度食事を終えれば、余計なことを求めず、無理せず、病むこともなく、身体は軽やかで、気力は充実し、安らかで穏やかに暮らしている。あなたたちも一日に一度の食事を実践しなさい。そうすれば、余計なことを求めず、無理せず、病むこともなく、身体は軽やかで、気力は充実し、安らかで穏やかに暮らせるだろう。」

爾時，世尊為比丘眾施設日一食戒，諸比丘眾皆奉學戒及世尊境界諸微妙法。於是，世尊展轉到迦羅賴，住迦羅賴北村尸攝和林。

> その時、世尊は比丘たちに一日一食の戒律を定められました。比丘たちは皆、この戒律を守り、世尊の境地にある微細な教えを学びました。その後、世尊は旅を続けてカーララに向かい、カーララの北の村のシーサヴァ林に滞在されました。

爾時，迦羅賴中有二比丘，一名阿濕貝，二名弗那婆修，舊土地主、寺主、宗主，彼朝食、暮食、晝食、過中食。彼朝食、暮食、晝食、過中食已，無為無求，無有病痛，身體輕便，氣力康強，安隱快樂。眾多比丘聞已，往詣阿濕貝及弗那婆修比丘所，而語彼曰：「阿濕貝！弗那婆修！世尊遊迦尸國，與大比丘眾俱，遊在一處，告諸比丘：『我日一食，日一食已，無為無求，無有病痛，身體輕便，氣力康強，安隱快樂。汝等亦應日一食，日一食已，無為無求，無有病痛，身體輕便，氣力康強，安隱快樂。』爾時，世尊為比丘眾施設日一食戒，諸比丘眾皆奉學戒及世尊境界諸微妙法。阿濕貝！弗那婆修！汝等亦應日一食，日一食已，無為無求，無有病痛，身體輕便，氣力康強，安隱快樂；汝等莫違世尊及比丘眾。」

> その時、ガヤーラ（迦尸）の国に、アシヴァ（阿湿貝）という比丘と、プナバス（弗那婆修）という比丘の二人がいました。彼らはその地の地主、寺の主、宗派の主でした。彼らは朝に食事をし、夕方にも食事をし、昼にも食事をし、昼過ぎにも食事をしていました。朝に食べ、夕方に食べ、昼に食べ、昼過ぎに食べた後、「何もせず、何も求めず、病むこともなく、身体は軽やかで、気力は充実し、健やかで安らかで幸せだ」と思っていました。 多くの比丘たちがこれを聞き、アシヴァとプナバスのもとへ行き、こう言いました。「アシヴァよ、プナバスよ。世尊はカーシー（迦尸）国を巡遊され、大比丘衆と共に一つの場所におられました。そして比丘たちにこう告げられました。『私は一日に一度だけ食事をする。一日に一度だけ食事をすれば、何もせず、何も求めず、病むこともなく、身体は軽やかで、気力は充実し、健やかで安らかで幸せである。あなたたちも一日に一度だけ食事をしなさい。一日に一度だけ食事をすれば、何もせず、何も求めず、病むこともなく、身体は軽やかで、気力は充実し、健やかで安らかで幸せになるだろう。』その時、世尊は比丘たちのために一日一食の戒めを定められました。比丘たちは皆、その戒めと、世尊の境地における様々な微妙な教えを学び、実践しています。アシヴァよ、プナバスよ。あなたたちもまた、一日に一度だけ食事をしなさい。一日に一度だけ食事をすれば、何もせず、何も求めず、病むこともなく、身体は軽やかで、気力は充実し、健やかで安らかで幸せになるでしょう。あなたたちは世尊と比丘たちの教えに背いてはなりません。」

阿濕貝、弗那婆修聞已，報曰：「諸賢！我等朝食、暮食、晝食、過中食。朝食、暮食、晝食、過中食已，無為無求，無有病痛，身體輕便，氣力康強，安隱快樂，我等何緣捨現而須待後？」如是再三。

> アシベ尊者とフナバシュ尊者はこれを聞いて答えました。「皆さま、私たちは朝に食事をとり、夕方に食事をとり、昼に食事をとり、過ぎた時間にも食事をとっています。朝に食事をとり、夕方に食事をとり、昼に食事をとり、過ぎた時間にも食事をとった後は、何もせず何も求めず、病の痛みもなく、身体は軽やかで、気力は健やかで強く、安らかで穏やかに暮らしています。どうして私たちが現在の恵みを捨てて、後の機会を待つ必要があるのでしょうか？」こうして同じことを二度三度と重ねて言いました。

彼眾多比丘不能令阿濕貝及弗那婆修除惡邪見，即從坐起，捨之而去，往詣佛所，稽首佛足，却住一面，白曰：「世尊！此迦羅賴中有二比丘，一名阿濕貝，二名弗那婆修，舊土地主、寺主、宗主，彼朝食、暮食、晝食、過中食。彼朝食、暮食、晝食、過中食已，無為無求，無有病痛，身體輕便，氣力康強，安隱快樂。世尊！我等聞已，便往至阿濕貝及弗那婆修比丘所，而語彼曰：『阿濕貝！弗那婆修！世尊遊迦尸國，與大比丘眾俱，遊在一處，告諸比丘：「我日一食，日一食已，無為無求，無有病痛，身體輕便，氣力康強，安隱快樂。汝等亦應日一食，日一食已，無為無求，無有病痛，身體輕便，氣力康強，安隱快樂。」爾時，世尊為比丘眾施設日一食戒，諸比丘眾皆奉學戒及世尊境界諸微妙法。阿濕貝！弗那婆修！汝等亦應日一食，日一食已，無為無求，無有病痛，身體輕便，氣力康強，安隱快樂；汝等莫違世尊及比丘眾。』

> 多くの比丘たちは、アシェーヴァとプナーバスが邪悪な見解を取り除くように導くことができませんでした。そこで彼らは座を立ち、彼らのもとを去って、仏のもとへと向かいました。彼らは仏の足に額を付けて礼拝し、一方に立ってこう申し上げました。「世尊よ、このカーララーイカ(迦羅賴)の地に、アシェーヴァとプナーバスという二人の比丘がおります。彼らは元からの土地の主であり、寺の主であり、教団の主です。彼らは朝に食べ、夕方に食べ、昼に食べ、また過ぎた時間にも食べています。彼らはそのように朝・夕・昼・過ぎた時に食べた後、何もせず何も求めず、病むこともなく、身体は軽やかで、気力は健やかで、安らかで楽しく過ごしています。 世尊よ、私たちはそのことを聞き、アシェーヴァとプナーバスのもとへ行き、こう言いました。『アシェーヴァよ、プナーバスよ。世尊はカーシー国を遊行され、大比丘衆と共にあるところで、比丘たちにこう告げられました。「私は一日に一度だけ食事をする。一日一度の食事をした後は、何もせず何も求めず、病むこともなく、身体は軽やかで、気力は健やかで、安らかで楽しく過ごしている。あなたたちもまた、一日に一度だけ食事をしなさい。一日一度の食事をした後は、何もせず何も求めず、病むこともなく、身体は軽やかで、気力は健やかで、安らかで楽しく過ごしなさい。」その時、世尊は比丘たちのために一日一食の戒律を定められました。比丘たちは皆、その戒律と、世尊の境地における様々な微妙な法を学び、守っています。アシェーヴァよ、プナーバスよ。あなたたちもまた、一日に一度だけ食事をしなさい。一日一度の食事をした後は、何もせず何も求めず、病むこともなく、身体は軽やかで、気力は健やかで、安らかで楽しく過ごしなさい。あなたたちは世尊や比丘たちに背いてはいけません。』」

「阿濕貝、弗那婆修聞已，報我等曰：『諸賢！我等朝食、暮食、晝食、過中食，朝食、暮食、晝食、過中食已，無為無求，無有病痛，身體輕便，氣力康強，安隱快樂，我等何緣捨現而須待後？』如是再三。世尊！如我等不能令阿濕貝、弗那婆修除惡邪見，即從坐起，捨之而去。」

> アシビとフナバシュはこれを聞いて、私たちにこう言いました。「諸賢よ、私たちは朝食、夕食、昼食、日中以降の食事をとり、それらを終えた後は、何もせず何も求めず、病むことなく、身体は軽やかで、気力は健やかで、安らかで幸せです。それなのに、どうして現在を捨てて未来を待つ必要がありましょうか？」と、こう二度三度繰り返しました。世尊よ、私たちはアシビとフナバシュの誤った邪見を取り除くことができず、ただちに座を立ち、彼らを残して去りました。

世尊聞已，告一比丘：「汝往至阿濕貝、弗那婆修比丘所，語如是曰：『阿濕貝！弗那婆修！世尊呼汝等。』」

> 世尊はこれを聞いて、一人の比丘に告げられた。「あなたはアッシバとプナッバスカという比丘のところへ行き、こう告げなさい。『アッシバよ、プナッバスカよ、世尊があなたがたをお呼びです。』」と。

一比丘聞已：「唯然世尊！」即從坐起，稽首佛足，繞三匝而去，至阿濕貝及弗那婆修比丘所，語如是曰：「阿濕貝！弗那婆修！世尊呼賢者等。」

> ある比丘はこれを聞いて、「かしこまりました、世尊」と答え、席を立ち、仏の足に額を触れて礼拝し、三度右に回ってから、阿湿貝（アシェベ）と弗那婆修（フナバシュ）の比丘たちのところへ行き、こう言った。「阿湿貝よ、弗那婆修よ、世尊があなたがたをお呼びです。」

阿濕貝、弗那婆修聞已，即詣佛所，稽首佛足，却坐一面。

> 阿シベとフナバシュはその話を聞いて、すぐに仏のもとへ向かい、仏の足に頭を触れる礼をしてから、脇に座りました。

世尊問曰：「阿濕貝！弗那婆修！眾多比丘實語汝等：『阿濕貝、弗那婆修比丘，世尊遊迦尸國，與大比丘眾俱，遊在一處，告諸比丘：「我日一食，日一食已，無為無求，無有病痛，身體輕便，氣力康強，安隱快樂。汝等亦應日一食，日一食已，無為無求，無有病痛，身體輕便，氣力康強，安隱快樂。」爾時，世尊為比丘眾施設日一食戒，諸比丘眾皆奉學戒及世尊境界諸微妙法。阿濕貝！弗那婆修！汝等亦應日一食，日一食已，無為無求，無有病痛，身體輕便，氣力康強，安隱快樂；汝等莫違世尊及比丘眾。』

> 世尊がお尋ねになりました。「アシッバよ、プナッバスよ。大勢の比丘たちが、あなたたちにこう言ったのは本当ですか？『アシッバ、プナッバスという比丘たちよ、世尊がカーシー国に滞在され、大勢の比丘たちと共に一つの場所で過ごされた時、比丘たちにこうお告げになりました。「私は一日に一度だけ食事をする。一日に一度だけ食事をすると、何もせず何も求めず、病の痛みもなく、身体は軽やかで、気力は充実し、安らかで幸せである。あなたたちも一日に一度だけ食事をしなさい。一日に一度だけ食事をすれば、何もせず何も求めず、病の痛みもなく、身体は軽やかで、気力は充実し、安らかで幸せになれるだろう。」その時、世尊は比丘たちのために一日一食の戒めを定められました。比丘たちは皆、その戒めと、世尊の境地にある素晴らしい教えを学び守りました。アシッバよ、プナッバスよ。あなたたちも一日に一度だけ食事をしなさい。一日に一度だけ食事をすれば、何もせず何も求めず、病の痛みもなく、身体は軽やかで、気力は充実し、安らかで幸せになれるでしょう。あなたたちは世尊や比丘たちに背いてはいけません。』」

「阿濕貝！弗那婆修！汝等聞已，語諸比丘曰：『諸賢！我等朝食、暮食、晝食、過中食，朝食、暮食、晝食、過中食已，無為無求，無有病痛，身體輕便，氣力康強，安隱快樂，我等何緣捨現而須待後？』如是再三。阿濕貝！弗那婆修！諸比丘不能令汝捨惡邪見，即從坐起，捨之而去耶？」

> 「アシヴァカよ、プナバスよ、あなたがたはこれを聞いた後、こう言ったのですね――『尊者方よ、私たちは朝に食事し、夕方に食事し、昼に食事し、日中の過ぎに食事しております。朝に食事し、夕方に食事し、昼に食事し、日中の過ぎに食事した後には、することがなく、求めることもなく、病の苦しみもなく、身体は軽やかで、気力は強く健やかであり、安らかで幸せであります。それならば、どうして私たちが現にあるこの状態を捨てて、未来を待たねばならないのでしょうか？』と。このように二度、三度と述べました。アシヴァカよ、プナバスよ、比丘たちはあなたがたに邪悪な見解を捨てさせることができず、その場を立ち上がり、あなたがたを残して去っていったのではありませんか？」

阿濕貝、弗那婆修答曰：「實爾。」

> アシバ、フナバシュダは答えました。「その通りです。」

世尊告曰：「阿濕貝！弗那婆修！汝等知說如是法。若有覺樂覺者，彼覺樂覺已，惡不善法轉增，善法轉減。若有覺苦覺者，彼覺苦覺已，惡不善法轉減，善法轉增耶？」

> 世尊がおっしゃいました。「アシベーよ、プンナバシューよ、あなたがたは、こうした教えを説いているのか。もし人が楽しいという感覚（楽受）を楽しみ、それに執着すれば、その結果、悪しき善からざる法は増え、善い法は減ってしまう。逆に、もし人が苦しいという感覚（苦受）を自覚し、それを見つめれば、その結果、悪しき善からざる法は減り、善い法は増えるということを、あなたがたは知っているのか。」

阿濕貝、弗那婆修答曰：「唯然。我等如是知世尊說法。若有覺樂覺者，彼覺樂覺已，不善法轉增，善法轉減。若有覺苦覺者，彼覺苦覺已，不善法轉減，善法轉增。」

> アシタとプナヴァスは答えた。「はい、その通りです。私たちは世尊の説法をそのように理解しています。楽しい感覚を感じる人は、その楽しい感覚を感じることによって、善くない心の働きが増え、善い心の働きが減ります。苦しい感覚を感じる人は、その苦しい感覚を感じることによって、善くない心の働きが減り、善い心の働きが増えるのです。」

世尊呵阿濕貝、弗那婆修比丘：「汝等癡人！何由知我如是說法？汝等癡人！從何口聞知如是說法？汝等癡人！我不一向說，汝等一向受持。汝等癡人！為眾多比丘語時，應如是如法答：『我等未知，當問諸比丘！』」

> 世尊はアシバキとプナバスという比丘たちを叱られた。 「愚か者どもよ！ お前たちにどうして、わたしがそのように説法していると分かるのか。 愚か者どもよ！ いったい誰の口から、そのような説法を聞いたというのか。 愚か者どもよ！ わたしは常にそう説いてはいないのに、お前たちは全てをそのように受け取ってしまっている。 愚か者どもよ！ 多くの比丘たちと話す時には、このように法にかなって答えるべきだ。 『私たちには分かりません。他の比丘たちにお尋ねください』と。」

爾時，世尊告諸比丘：「汝等亦如是知我說法。若有覺樂覺者，彼覺樂覺已，不善法轉增，善法轉減。若有覺苦覺者，彼覺苦覺已，不善法轉減，善法轉增耶？」

> その時、世尊は比丘たちに告げられました。「あなたがたもまた、このように私の教えを理解しなさい。もし快い感覚を味わうならば、その快い感覚を味わった後、善からぬことが増え、善いことが減っていく。また、もし苦しい感覚を味わうならば、その苦しい感覚を味わった後、善からぬことが減り、善いことが増えていくのである。」

眾多比丘答曰：「不也。世尊！」

> 多くの比丘たちは答えました。「いいえ、世尊よ。」

世尊復問曰：「汝等云何知我說法？」

> 世尊が再びお尋ねになりました。「あなたがたは、わたしの説法をどのように理解しているのか。」

眾多比丘答曰：「世尊！我等如是知世尊說法，或有覺樂覺者，惡不善法轉增，善法轉減。或有覺樂覺者，惡不善法轉減，善法轉增。或有覺苦覺者，惡不善法轉增，善法轉減。或有覺苦覺者，惡不善法轉減，善法轉增。世尊！我等如是知世尊所說法。」

> 多くの修行僧たちは答えました。「世尊よ、私たちはこのように世尊の教えを理解しています。すなわち、楽しい感覚がある場合、悪くて善くない性質が増え、善い性質が減ることがあります。また、楽しい感覚がある場合でも、悪くて善くない性質が減り、善い性質が増えることもあります。苦しい感覚がある場合、悪くて善くない性質が増え、善い性質が減ることがあります。また、苦しい感覚がある場合でも、悪くて善くない性質が減り、善い性質が増えることもあります。世尊よ、私たちはこのように世尊の説かれた教えを理解しています。」

世尊聞已，歎諸比丘曰：「善哉！善哉！若汝如是說，或有覺樂覺者，惡不善法轉增，善法轉減。或有覺樂覺者，惡不善法轉減，善法轉增。或有覺苦覺者，惡不善法轉增，善法轉減。或有覺苦覺者，惡不善法轉減，善法轉增。所以者何？我亦如是說，或有覺樂覺者，惡不善法轉增，善法轉減。或有覺樂覺者，惡不善法轉減，善法轉增。或有覺苦覺者，惡不善法轉增，善法轉減。或有覺苦覺者，惡不善法轉減，善法轉增。

> 世尊はこれを聞いて、比丘たちを褒めて言われた。「善いかな、善いかな。もしあなた方がそのように説くならば、楽しい感覚を覚える者には、悪しき不善の法が増え、善い法が減ることがある。また、楽しい感覚を覚える者には、悪しき不善の法が減り、善い法が増えることもある。苦しい感覚を覚える者には、悪しき不善の法が増え、善い法が減ることがある。また、苦しい感覚を覚える者には、悪しき不善の法が減り、善い法が増えることもある。なぜなら、私もまた同じように説くからだ。すなわち、楽しい感覚を覚える者には、悪しき不善の法が増え、善い法が減ることがある。また、楽しい感覚を覚える者には、悪しき不善の法が減り、善い法が増えることもある。苦しい感覚を覚える者には、悪しき不善の法が増え、善い法が減ることがある。また、苦しい感覚を覚える者には、悪しき不善の法が減り、善い法が増えることもある。」

「若我不知如真，不見、不解、不得、不正盡覺者，或有樂覺者，不善法轉增，善法轉減，我不應說斷樂覺。若我不知如真，不見、不解、不得、不正盡覺者，或有樂覺者，惡不善法轉減，善法轉增，我不應說修樂覺。若我不知如真，不見、不解、不得、不正盡覺者，或有苦覺者，惡不善法轉增，善法轉減，我不應說斷苦覺。若我不知如真，不見、不解、不得、不正盡覺者，或有苦覺者，惡不善法轉減，善法轉增，我不應說修苦覺。

> もし私が、あるがままに知らず、見ず、理解せず、悟らず、完全に覚りきっていなかったならば、楽受についても、不善法が増え善法が減る場合があるだろう。そのような時に、私は楽受を断つべきだとは言わなかっただろう。また、もし私が、あるがままに知らず、見ず、理解せず、悟らず、完全に覚りきっていなかったならば、楽受についても、悪しき不善法が減り善法が増える場合があるだろう。そのような時に、私は楽受を修めるべきだとは言わなかっただろう。さらに、もし私が、あるがままに知らず、見ず、理解せず、悟らず、完全に覚りきっていなかったならば、苦受についても、悪しき不善法が増え善法が減る場合があるだろう。そのような時に、私は苦受を断つべきだとは言わなかっただろう。また、もし私が、あるがままに知らず、見ず、理解せず、悟らず、完全に覚りきっていなかったならば、苦受についても、悪しき不善法が減り善法が増える場合があるだろう。そのような時に、私は苦受を修めるべきだとは言わなかっただろう。

「若我知如真，見、解、得、正盡覺者，或有樂覺者，惡不善法轉增，善法轉減，是故我說斷樂覺。若我知如真，見、解、得、正盡覺者，或有樂覺，惡不善法轉減，善法轉增，是故我說修樂覺。若我知如真，見、解、得、正盡覺者，或有苦覺者，惡不善法轉增，善法轉減，是故我說斷苦覺。若我知如真，見、解、得、正盡覺者，或有苦覺者，惡不善法轉減，善法轉增，是故我說修苦覺。所以者何？我不說修一切身樂，亦不說莫修一切身樂。我不說修一切身苦，亦不說莫修一切身苦。我不說修一切心樂，亦不說莫修一切心樂。我不說修一切心苦，亦不說莫修一切心苦。

> 私が真実のままに知り、見、理解し、悟りを完全に得たところによれば、楽受というものがあっても、悪しき善からざる法が増え、善法が減る場合がある。ゆえに私は、そのような楽受を断つべきだと説くのである。 また、私が真実のままに知り、見、理解し、悟りを完全に得たところによれば、楽受というものがあっても、悪しき善からざる法が減り、善法が増える場合がある。ゆえに私は、そのような楽受を修めるべきだと説くのである。 また、私が真実のままに知り、見、理解し、悟りを完全に得たところによれば、苦受というものがあっても、悪しき善からざる法が増え、善法が減る場合がある。ゆえに私は、そのような苦受を断つべきだと説くのである。 また、私が真実のままに知り、見、理解し、悟りを完全に得たところによれば、苦受というものがあっても、悪しき善からざる法が減り、善法が増える場合がある。ゆえに私は、そのような苦受を修めるべきだと説くのである。 なぜそうなのか。私は、すべての身体的な楽を受けることを勧めるわけでもなく、すべての身体的な楽を受けることを避けるべきだと説くわけでもない。また、すべての身体的な苦を受けることを勧めるわけでもなく、すべての身体的な苦を受けることを避けるべきだと説くわけでもない。同様に、すべての心の楽を受けることを勧めるわけでもなく、すべての心の楽を受けることを避けるべきだと説くわけでもない。そして、すべての心の苦を受けることを勧めるわけでもなく、すべての心の苦を受けることを避けるべきだと説くわけでもない。

「云何身樂我說不修？若修身樂，惡不善法轉增，善法轉減者，如是身樂我說不修。云何身樂我說修耶？若修身樂，惡不善法轉減，善法轉增者，如是身樂我說修也。云何身苦我說不修？若修身苦，惡不善法轉增，善法轉減者，如是身苦我說不修。云何身苦我說修耶？若修身苦，惡不善法轉減，善法轉增者，如是身苦我說修也。云何心樂我說不修？若修心樂，惡不善法轉增，善法轉減者，如是心樂我說不修。云何心樂我說修耶？若修心樂，惡不善法轉減，善法轉增者，如是心樂我說修也。云何心苦我說不修？若修心苦，惡不善法轉增，善法轉減者，如是心苦我說不修。云何心苦我說修耶？若修心苦，惡不善法轉減，善法轉增者，如是心苦我說修也。彼可修法知如真，不可修法亦知如真，彼可修法知如真，不可修法亦知如真已，不可修法便不修，可修法便修，不可修法便不修，可修法便修已，便惡不善法轉減，善法轉增。

> 身体の楽しみについて、私が「修行すべきでない」と言うのは何か？身体の楽しみを修行することで、悪い善くない行いが増え、善い行いが減るなら、そのような身体の楽しみは修行すべきでないと言うのだ。 身体の楽しみについて、私が「修行すべきだ」と言うのは何か？身体の楽しみを修行することで、悪い善くない行いが減り、善い行いが増えるなら、そのような身体の楽しみは修行すべきだと言うのだ。 身体の苦しみについて、私が「修行すべきでない」と言うのは何か？身体の苦しみを修行することで、悪い善くない行いが増え、善い行いが減るなら、そのような身体の苦しみは修行すべきでないと言うのだ。 身体の苦しみについて、私が「修行すべきだ」と言うのは何か？身体の苦しみを修行することで、悪い善くない行いが減り、善い行いが増えるなら、そのような身体の苦しみは修行すべきだと言うのだ。 心の楽しみについて、私が「修行すべきでない」と言うのは何か？心の楽しみを修行することで、悪い善くない行いが増え、善い行いが減るなら、そのような心の楽しみは修行すべきでないと言うのだ。 心の楽しみについて、私が「修行すべきだ」と言うのは何か？心の楽しみを修行することで、悪い善くない行いが減り、善い行いが増えるなら、そのような心の楽しみは修行すべきだと言うのだ。 心の苦しみについて、私が「修行すべきでない」と言うのは何か？心の苦しみを修行することで、悪い善くない行いが増え、善い行いが減るなら、そのような心の苦しみは修行すべきでないと言うのだ。 心の苦しみについて、私が「修行すべきだ」と言うのは何か？心の苦しみを修行することで、悪い善くない行いが減り、善い行いが増えるなら、そのような心の苦しみは修行すべきだと言うのだ。 その人は、修行すべき方法をありのままに知り、修行すべきでない方法もありのままに知る。修行すべき方法をありのままに知り、修行すべきでない方法もありのままに知ったなら、修行すべきでない方法は修行せず、修行すべき方法を修行する。修行すべきでない方法を修行せず、修行すべき方法を修行したなら、悪い善くない行いは減り、善い行いは増えるのである。

「我不說一切比丘行無放逸，亦復不說一切比丘不行無放逸。云何比丘我說不行無放逸？若有比丘俱解脫者。云何比丘有俱解脫？若有比丘八解脫身觸成就遊，已慧見諸漏已盡已知，如是比丘有俱解脫，此比丘我說不行無放逸。所以者何？此賢者本已行無放逸，若此賢者本有放逸者，終無是處，是故我說此比丘不行無放逸。若有比丘非俱解脫，有慧解脫者，云何比丘有慧解脫？若有比丘八解脫身不觸成就遊，以慧見諸漏已盡已知，如是比丘有慧解脫，此比丘我說不行無放逸。所以者何？此賢者本已行無放逸，若此賢者本有放逸者，終無是處，是故我說此比丘不行無放逸。此二比丘我說不行無放逸。

> 私は、すべての修行者が不放逸（油断しないこと）を行っているとは言わない。また、すべての修行者が不放逸を行っていないとも言わない。 どのような修行者を、不放逸を行っていないと言うのか。それは、俱解脱（両方の解脱を具える者）である。 どのような修行者が俱解脱なのか。八解脱を身で体得し、その境地に遊び、智慧によって煩悩の尽きたことを見極め、知り尽くしている修行者、これが俱解脱である。このような修行者を、私は不放逸を行っていないと言う。 なぜか。この尊い方は、もともと不放逸を行ってきたのである。もしこの尊い方に、もともと放逸（油断）があったとすれば、そのようなことは決してありえない。だから私は、この修行者は不放逸を行っていないと言うのである。 また、俱解脱ではなく、慧解脱（智慧によって解脱した者）である修行者がいる。どのような修行者が慧解脱なのか。八解脱を身で体得せず、智慧によって煩悩の尽きたことを見極め、知り尽くしている修行者、これが慧解脱である。このような修行者を、私は不放逸を行っていないと言う。 なぜか。この尊い方も、もともと不放逸を行ってきたのである。もしこの尊い方に、もともと放逸があったとすれば、そのようなことは決してありえない。だから私は、この修行者は不放逸を行っていないと言うのである。 この二種類の修行者について、私は不放逸を行っていないと言うのである。

「云何比丘我為說行無放逸？若有比丘非俱解脫亦非慧解脫，而有身證。云何比丘而有身證？若有比丘八解脫身觸成就遊，不以慧見諸漏已盡已知，如是比丘而有身證。此比丘我為說行無放逸，我見此比丘行無放逸，為有何果，令我為此比丘說行無放逸耶？或此比丘求於諸根，習善知識，行隨順住止，諸漏已盡得無漏，心解脫、慧解脫，於現法中自知自覺自作證成就遊，生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。謂我見此比丘行無放逸，有如是果。是故我為此比丘說行無放逸。

> 「では、修行者に対し、私はどうやって『放逸ならざる行い』を説くのか？ もしも修行者が、『俱解脱』でもなく『慧解脱』でもなく、『身証』を得ているならば、どういう修行者が『身証』を得ていると言うのか？ ある修行者が、八つの解脱を自らの身で体験し実践しながらも、智慧によって全ての煩悩を尽くし、尽きたと知り尽くしていない——このような修行者を『身証』を得ているという。 この修行者に対し、私は『放逸ならざる行い』を説く。 では、この修行者が『放逸ならざる行い』を実践した結果、どんな果報があるというのか、そのために私はこの修行者に『放逸ならざる行い』を説くのか？ あるいは、この修行者が諸々の感覚器官を磨き、善き友人と親しみ、調和のとれた生活を送り、その結果、全ての煩悩を尽くし、漏れのない解脱、心の解脱、智慧の解脱を得て、この現世において自ら悟り、自ら覚り、自ら実証して実践を完成させる——すなわち、生は尽き、清らかな行いは確立され、なすべきことは成し遂げられ、再び迷いの生存を受けることはないと、あるがままに知る。 これこそが、私がこの修行者が『放逸ならざる行い』を実践するのを見て、そのような果報があると認める所以である。 だからこそ、私はこの修行者に『放逸ならざる行い』を説くのである。」

「若有比丘非俱解脫非慧解脫，亦非身證而有見到。云何比丘而有見到？若有比丘一向決定信佛、法、眾，隨所聞法，便以慧增上觀、增上忍，如是比丘而有見到。此比丘我說行無放逸，我見此比丘行無放逸，為有何果，令我為此比丘說行無放逸耶？或此比丘求於諸根，習善知識，行隨順住止，諸漏已盡得無漏，心解脫、慧解脫，於現法中自知自覺自作證成就遊，生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。謂我見此比丘行無放逸，有如是果。是故我為此比丘說行無放逸。

> ある比丘が、完全な解脱（倶解脱）を得ておらず、慧解脱でもなく、さらに身証でもなく、見到（けんとう）であるとするならば、どのような比丘が『見到』と呼ばれるのか。ある比丘が、ひたすらに仏、法、僧に対して決定した信を持ち、聞いたままの教えを、智慧をもってさらに観察し、さらに忍び受け入れる。このような比丘を、『見到』という。この比丘に対して、私は『不放逸に行え』と説く。なぜ私が、この比丘に『不放逸に行え』と説き、それによってどのような果があると見るのか。あるいは、この比丘は諸々の根を求め、善き知識（善友）と親しみ、教えに従って安定して住み、諸々の煩悩が尽きて無漏となり、心の解脱と智慧の解脱を得て、現世において自ら知り、自ら覚り、自ら証じて成就する。すなわち、生は尽き、梵行は立ち、なすべきことは終え、再び迷いの生存を受けることはない、とあるがままに知る。このように、私はこの比丘が不放逸に行うことで、このような果があるのを見る。ゆえに私はこの比丘に『不放逸に行え』と説くのである。

「若有比丘非俱解脫非慧解脫，又非身證亦非見到，而有信解脫。云何比丘有信解脫？若有比丘一向決定信佛、法、眾，隨所聞法，以慧觀忍，不如見到，如是比丘有信解脫。此比丘我為說行無放逸，我見此比丘行無放逸，為有何果，令我為此比丘說行無放逸耶？或此比丘求於諸根，習善知識，行隨順住止，諸漏已盡得無漏，心解脫、慧解脫，於現法中自知自覺自作證成就遊，生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。謂我見此比丘行無放逸，有如是果。是故我為此比丘說行無放逸。

> もし比丘が「倶解脱」でもなく、「慧解脱」でもなく、「身証」でもなく、「見到」でもなく、「信解脱」であるならば——。では、どのような比丘を「信解脱」というのか。ある比丘が、仏・法・僧（サンガ）に対して一貫して確信を抱き、聞いた教えを智慧によって観察し忍耐するが、「見到」には至らない——そのような比丘を「信解脱」という。私はこの比丘に対し、「怠らずに行いなさい」と説く。そう説くことには、どのような果があるのだろうか。あるいは、この比丘が諸々の感覚器官を正しく保ち、善き友人を学び、教えに従って安住し、煩悩を尽くして無漏となり、心の解脱・智慧の解脱を獲得し、現世において自ら知り自ら悟り自ら証し、修行を完成させている——生は尽き、清らかな行いは確立し、なすべきことは成し遂げられ、さらなる生存を受けることはないと、ありのままに知る——。私はこの比丘が怠らずに行うならば、そのような果があると見るがゆえに、この比丘に「怠らずに行いなさい」と説くのである。

「若有比丘非俱解脫非慧解脫，又非身證復非見到，亦非信解脫，而有法行。云何比丘而有法行？若有比丘一向決定信佛、法、眾，隨所聞法，便以慧增上觀、增上忍，如是比丘而有法行。此比丘我為說行無放逸，我見此比丘行無放逸，為有何果，令我為此比丘說行無放逸耶？或此比丘求於諸根，習善知識，行隨順住止，於二果中必得一也，或於現法得究竟智，若有餘者得阿那含。謂我見此比丘行無放逸，有如是果。是故我為此比丘說行無放逸。

> 僧侶の中には、「倶解脱」でもなく、「慧解脱」でもなく、「身証」でもなく、「見到」でもなく、「信解脱」でもないが、「法行」というものがある人がいます。では、どのような僧侶が「法行」なのでしょうか。 もし僧侶が、ひたすら仏・法・僧（サンガ）を確信し、聞いた教えを智慧でより深く観察し、より深く受け入れるならば、そのような僧侶を「法行」といいます。 私はこの僧侶のために、「放逸（ゆるみ）なく修行しなさい」と説きます。なぜ私がこの僧侶に「放逸なく修行しなさい」と言い、その結果、どのような果報があると見ているのでしょうか。 それは、この僧侶がもしかすると感官を整え、善き知識（指導者）に学び、教えに沿って生活するならば、二つの果報のうちの一つを必ず得るでしょう。すなわち、現世において究極の智慧（阿羅漢果）を得るか、もしそれが叶わなくとも、阿那含（あなごん、不還果）を得るのです。 私はこの僧侶が放逸なく修行することで、このような果報があると見ています。だからこそ、私はこの僧侶に「放逸なく修行しなさい」と説くのです。

「若有比丘非俱解脫非慧解脫，又非身證復非見到，非信解脫亦非法行，而有信行。云何比丘而有信行？若有比丘一向決定信佛、法、眾，隨所聞法，以慧觀忍，不如法行，如是比丘而有信行。此比丘我為說行無放逸，我見此比丘行無放逸，為有何果，令我為此比丘說行無放逸耶？或此比丘求於諸根，習善知識，行隨順住止，於二果中必得一也，或於現法得究竟智，若有餘者得阿那含。謂我見此比丘行無放逸，有如是果。是故我為此比丘說行無放逸。此諸比丘我說行無放逸。

> ある比丘がいて、倶解脱でもなく、慧解脱でもなく、また身証でもなく、見到でもなく、信解脱でもなく、法行でもなく、しかも信行を有するならば、いかなる比丘が信行を有するのか。もしある比丘がひたすら決定して仏・法・僧を信じ、聞いた法に随って、智慧によって観察し忍耐するが、法の通りに行わないならば、そのような比丘が信行を有するのである。この比丘に対して、わたしは「不放逸に行え」と説く。わたしはこの比丘が不放逸に行うのを見て、どのような果があるのか。なぜわたしはこの比丘に「不放逸に行え」と説くのか。あるいは、この比丘は諸根を求め、善知識に親しみ、随順して住処に留まり、二つの果のうちの一つを必ず得るであろう。現法において究竟の智を得るか、あるいは残りの者があって阿那含を得るかである。わたしはこの比丘が不放逸に行うのを見て、そのような果があると知る。それゆえ、わたしはこの比丘に「不放逸に行え」と説くのである。これらの比丘に対して、わたしは「不放逸に行え」と説くのである。

「我不說一切諸比丘得究竟智，亦復不說一切諸比丘初得究竟智，然漸漸習學趣迹，受教受訶，然後諸比丘得究竟智。此諸比丘所得究竟智，云何漸漸習學趣迹，受教受訶，然後諸比丘得究竟智。此諸比丘所得究竟智耶？或有信者便往詣，往詣已便奉習，奉習已便一心聽法，一心聽法已便持法，持法已便思惟，思惟已便平量，平量已便觀察，賢聖弟子觀察已，身諦作證，慧增上觀，彼作是念：『此諦我未曾身作證，亦非慧增上觀，此諦今身作證，以慧增上觀。』如是漸漸習學趣迹，受教受訶，然後諸比丘得究竟智，此諸比丘所得究竟智。」

> 私は、すべての比丘がすぐに最高の悟りを得るとは言わない。また、すべての比丘が最初から最高の悟りを得るとは言わない。しかし、少しずつ学び、修行の道を歩み、教えを受け、戒めを受けて、その後、比丘たちは最高の悟りを得るのである。 では、その比丘たちが得る最高の悟りとは、どのようにして少しずつ学び、修行の道を歩み、教えを受け、戒めを受けて、その後、得られるのだろうか。 ある者は、信仰を抱いて教師のもとを訪れる。訪れたならば、熱心に仕える。熱心に仕えたならば、一心に教えを聴く。一心に教えを聴いたならば、教えを心に留める。教えを心に留めたならば、その意味をよく考える。意味をよく考えたならば、よく検討する。よく検討したならば、深く観察する。賢い弟子がこうして観察した後、真理を自ら体得し、智慧によってさらに深く見通す。 その時、彼はこう思う。「この真理について、私はこれまで自ら体得したことがなく、智慧によって深く見通したこともなかった。今、この真理を自ら体得し、智慧によって深く見通すことができた。」 このようにして、少しずつ学び、修行の道を歩み、教えを受け、戒めを受けて、その後、比丘たちは最高の悟りを得るのである。それが比丘たちの得る最高の悟りである。

於是，世尊告曰：「阿濕貝！弗那婆修！有法名四句，我欲為汝說，汝等欲知耶？」

> そこで、世尊は言われた。「アシヴェイよ、フナバシュよ、『四句』という教えがある。あなたたちに説きたいと思うが、聞きたいか。」

阿濕貝及弗那婆修白曰：「世尊！我等是誰？何由知法？」

> 阿湿貝と弗那婆修が申し上げました。「世尊よ、私たちは何者なのでしょうか。どのようにして法を知るのでしょうか。」

於是，世尊便作是念：「此愚癡人！越過於我此正法、律極大久遠。若有法、律師貪著食、不離食者，彼弟子不應速行放逸，況復我不貪著食、遠離於食？信弟子者應如是說：『世尊是我師，我是世尊弟子。世尊為我說法，善逝為我說法，令我長夜得義、得饒益安隱快樂。』

> そこで、世尊（仏陀）はこうお考えになりました。 「この愚かな者は、私の正しい教えと戒律から、非常に長い間遠く離れてしまった。もし、食べ物に執着し、食べ物から離れられないような法や律の教師がいたなら、その弟子は安易に放逸になってはならない。ましてや、私は食べ物に執着せず、食べ物から離れている。それなのに、どうして弟子が放逸になってよいだろうか。真実の信仰を持つ弟子は、こう言うべきである。『世尊は私の師であり、私は世尊の弟子です。世尊は私のために法を説き、善逝（よく逝かれた方）は私のために法を説いてくださいました。それによって、私は長い夜の間、真の利益と安らかな幸せを得ることができました』と。」

「彼信弟子於世尊境界多有所作，於世尊境界多所饒益，於世尊境界多有所行，入世尊境界，止世尊境界者，若遊東方，必得安樂，無眾苦患；若遊南方、西方、北方者，必得安樂，無眾苦患。若信弟子於世尊境界多有所作，於世尊境界多所饒益，於世尊境界多有所行，入世尊境界，止世尊境界者，我尚不說諸善法住，況說衰退？但當晝夜增長善法而不衰退。若信弟子於世尊境界多有所作，於世尊境界多所饒益，於世尊境界多有所行，入世尊境界，止世尊境界者，於二果中必得一也，或於現世得究竟智，或復有餘得阿那含。」

> その信じる弟子は、世尊の境地において多くの働きをなし、世尊の境地において多くの利益をもたらし、世尊の境地において多くを行じ、世尊の境地に入り、世尊の境地に安住するならば、もし東方に赴いても必ず安楽を得て、苦しみの患いはありません。また、南方・西方・北方に赴いても、必ず安楽を得て、苦しみの患いはありません。 もし信じる弟子が、世尊の境地において多くの働きをなし、世尊の境地において多くの利益をもたらし、世尊の境地において多くを行じ、世尊の境地に入り、世尊の境地に安住するならば、わたしは彼の善法がとどまることさえ説きません。ましてや衰退することなどなおさらです。ただ、昼夜のうちに善法を増長させて、衰退することはありません。 もし信じる弟子が、世尊の境地において多くの働きをなし、世尊の境地において多くの利益をもたらし、世尊の境地において多くを行じ、世尊の境地に入り、世尊の境地に安住するならば、二つの果報のうち、必ず一つを得るでしょう。すなわち、現世において究竟の智を得るか、あるいは残りの有り様において阿那含を得るかです。

佛說如是。彼諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。

> このように仏は説かれました。比丘たちは仏の説かれたことを聞き、喜んでお受け取りになりました。

阿濕貝經第四竟四千一百九十九字

> 阿濕貝経の第四の章、ここに終わる<note>四千百九十九字</note>

## 中阿含經卷第五十一八千五百六字第五後誦

> 中阿含経　巻第五十一