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title: "中阿含經 · 196 周那經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
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## 中阿含經卷第五十二

> 中阿含経 第五十二巻

東晉罽賓三藏瞿曇僧伽提婆譯

> 東晋・罽賓三蔵・瞿曇僧伽提婆 訳

### （一九六）大品周那經第五第五後誦

> 大品周那経 第五<note>第五後誦</note>

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊󰍑耆，在舍彌村。

> ある時、お釈迦さまはフッカイ（仏遊耆）の地を巡り、シェミ（舍彌）という村に滞在されました。

爾時，沙彌周那於彼波和中而受夏坐，彼波和中有一尼揵，名曰親子，在彼命終。終後不久，尼揵親子諸弟子等各各破壞，不共和合，各說破壞，不和合事，鬪訟相縛，相憎共諍：「我知此法，汝不知也。汝知何法，如我所知？我齊整，汝不齊整。我相應，汝不相應。應說前而說後，應說後而說前。我勝，汝不如。我問汝事，汝不能答。我已伏汝，當復更問。若汝動者，我重縛汝。」更互憍慠，但求勝說，而無訶者。尼揵親子若有在家白衣弟子，彼皆厭患此尼揵親子諸弟子等。所以者何？以其所說惡法、律故，非是出要，不趣正覺，亦非善逝之所說也。崩壞無柱，無所依怙，彼所尊師，亦非如來、無所著、等正覺也。

> その時、沙弥の周那は波和という地で夏の安居を行っていた。その波和には、親子という名の一ニガンタ\[^1\]がおり、そこで命を終えた。その死後間もなく、ニガンタ親子の弟子たちは互いに分裂し、和合することなく、破壊と不和の事柄を語り合い、争い、縛り合い、互いに憎み合い、論争した。「私はこの法を知っている。お前は知らない。お前は何を知っているというのか。私の知るところでは、私は正しく整っており、お前は整っていない。私は理にかなっているが、お前は理にかなっていない。前に語るべきことを後に語り、後に語るべきことを前に語る。私は勝っており、お前は劣っている。私が問うたことに、お前は答えることができない。私はすでにお前を屈服させた。さらに問いただすつもりだ。もしお前が動けば、私はお前を再び縛り上げる」と。互いに驕り高ぶり、ただ勝ち誇った言葉を求めるばかりで、それを戒める者は誰もいなかった。ニガンタ親子のもとに在家の白い衣を着た弟子たちがいたが、彼らは皆、このニガンタ親子の弟子たちを嫌い、うんざりしていた。なぜなら、彼らの説くところは悪法であり、悪律であって、解脱へと導くものではなく、正覚へと向かうものでもなく、また善逝\[^2\]の説かれたものではなかったからである。それは崩れ落ちた柱のない家のように壊れており、頼るべき拠り所もなく、彼らが尊ぶ師も、如来・無所著・等正覚\[^3\]ではなかったのである。 \[^1\]: ジャイナ教の修行者 \[^2\]: 仏陀（如来）の称号の一つ \[^3\]: 如来、執着のない者、正しく目覚めた者

於是，沙彌周那受夏坐訖，過三月已，補治衣竟，攝衣持鉢，往舍彌村，住舍彌村北尸攝和林。沙彌周那往詣尊者阿難所，到已禮足，却坐一面，尊者阿難問曰：「賢者周那！從何所來，何處夏坐？」

> そこである沙弥（見習い僧）のジュンダは、安居（夏の修行期間）を終え、三か月が過ぎてから、衣の補修を終え、衣や鉢を整えて、シェーミー村へと向かい、シェーミー村の北にあるシシャサー林に滞在しました。沙弥のジュンダは、尊者アーナンダの許に参り、到着後、足に礼拝してから、一方的に座りました。尊者アーナンダは尋ねました：「賢者のジュンダよ、どこから来たのか？どこで安居をしたのか？」

沙彌周那答曰：「尊者阿難！我從波和來，於波和中而受夏坐。尊者阿難！彼波和中有一尼揵，名曰親子，在彼命終。終後不久，尼揵親子諸弟子等各各破壞，不共和合，各說破壞，不和合事，鬪訟相縛，相憎共諍：『我知此法，汝不知也。汝知何法，如我所知？我齊整，汝不齊整。我相應，汝不相應。應說前而說後，應說後而說前。我勝，汝不如。我問汝事，汝不能答。我已伏汝，當復更問。若汝動者，我重縛汝。』更互憍慠，但求勝說，而無訶者。尼揵親子若有在家白衣弟子，彼皆厭患此尼揵親子諸弟子等。所以者何？以其所說惡法、律故，非是出要，不趣正覺，亦非善逝之所說也。崩壞無柱，無所依怙，彼所尊師，亦非如來、無所著、等正覺也。」

> 沙彌の周那が答えた。「尊者アーナンダよ、私はポーヴァから参りました。ポーヴァで夏安居をしておりました。尊者アーナンダよ、そのポーヴァにニガンタ（ジャイナ教の修行者）の親子という者がおりましたが、彼は亡くなりました。亡くなって間もなく、ニガンタ親子の弟子たちは互いに分裂し、和合せず、互いに破壊や不調和の言葉を語り、争い、縛り合い、憎み合い、論じ合いました。『私はこの法を知っている。お前は知らない。お前は何の法を知っているのか。私の知るように。私は整っているが、お前は整っていない。私は相応しているが、お前は相応していない。前に言うべきことを後に言い、後に言うべきことを前に言う。私は勝っている、お前は及ばない。私がお前に問うたことにお前は答えられない。私は既にお前を打ち負かした。さらにもう一度問おう。もしお前が動くなら、私は改めてお前を縛る』と。互いに驕り高ぶり、ただ勝ち誇った言葉を求めるばかりで、それを戒める者はいませんでした。ニガンタ親子のもとにいた在家の弟子たちは、皆このニガンタ親子の弟子たちに嫌気がさしていました。なぜなら、彼らが説く教えは悪法であり、律であったからです。それは解脱へ導くものではなく、正しい覚りに趣くものではなく、また善逝（如来）の説かれたものでもありませんでした。柱もなく崩れ去るような、頼るべきものもないものであり、彼らが尊ぶ師は、如来や阿羅漢や正等覚者ではなかったのです。」

尊者阿難聞已，語曰：「賢者周那！得因此說，可往見佛，奉獻世尊。賢者周那！今共詣佛，具向世尊而說此事，儻能因此得從世尊聞異法也。」

> 尊者アーナンダはこれを聞いて、こう言いました。「尊者チュンダよ、この話を持ってお釈迦様のもとへ参り、このお話を献上しましょう。さあ、私たちは共にお釈迦様のもとへ参り、このことを詳しく申し上げましょう。あるいはこの機会に、お釈迦様から別の教えを聞くことができるかもしれません。」

於是，尊者阿難與沙彌周那俱往詣佛，稽首佛足，尊者阿難却住一面，沙彌周那却坐一面。

> そこで、尊者アーナンダは、沙弥チュンダと共に仏のもとへ赴き、仏の足に頭を接して礼拝した。尊者アーナンダは一方に立ち、沙弥チュンダは一方に腰を下ろした。

尊者阿難白曰：「世尊！今日沙彌周那來詣我所，稽首我足，却坐一面，我問曰：『賢者周那！從何所來？何處夏坐？』沙彌周那即答我曰：『尊者阿難！我從波和來，於波和中而受夏坐。尊者阿難！彼波和中有一尼揵，名曰親子，在彼命終，終後不久，尼揵親子諸弟子等各各破壞，不共和合，各說破壞，不和合事，鬪訟相縛，相憎共諍：「我知此法，汝不知也。汝知何法，如我所知？我齊整，汝不齊整。我相應，汝不相應。應說前而說後，應說後而說前。我勝，汝不如。我問汝事，汝不能答。我已伏汝，當復更問。若汝動者，我重縛汝。」更互憍慠，但求勝說，而無訶者。尼揵親子若有在家白衣弟子，彼皆厭患此尼揵親子諸弟子等。所以者何？以其所說惡法、律故，非是出要，不趣正覺，亦非善逝之所說也。崩壞無柱，無所依怙，彼所尊師，亦非如來、無所著、等正覺也。』

> 尊者アーナンダがおっしゃった：「世尊よ。今日、沙弥（見習い僧）のチュンダが私のところに来て、私の足に礼拝し、一方に座りました。私は彼に尋ねました。『賢者チュンダよ。あなたはどこから来たのですか。どこで雨安居（夏の修行）をされましたか。』沙弥チュンダは私にこう答えました。『尊者アーナンダよ。私はパーヴァーから来ました。パーヴァーで雨安居をしました。尊者アーナンダよ。あのパーヴァーには、親子と名乗る一ニガンタ（ジャイナ教の修行者）がいました。彼が亡くなり、その死後間もなく、ニガンタ親子の弟子たちはそれぞれ分裂し、調和せず、互いに破壊と不調和の言葉を吐き、争い、縛り合い、憎み合い、論じ合って言いました。「私はこの法を知っている。お前は知らない。お前は何の法を知っているというのか、私の知るとおりに？私は整っているが、お前は整っていない。私は道理にかなっているが、お前は道理にかなっていない。前に言うべきことを後に言い、後に言うべきことを前に言う。私は勝っている。お前は及ばない。私がお前に問うたことに、お前は答えられない。私はすでにお前を打ち負かした。さらに問いただそう。もしお前が動くなら、私はお前をしっかり縛る。』互いに驕り高ぶり、勝った議論だけを求め、非難する者はいませんでした。ニガンタ親子のもとで在家の白衣の弟子たちがいたなら、彼らは皆、このニガンタ親子の弟子たちを嫌い憎みました。なぜなら、彼らの説く悪法、悪律のゆえであり、それは出離すべきものではなく、正覚へ向かうものではなく、また善逝（如来）の説かれたものではないからです。崩壊して柱がなく、よりどころがありません。彼らの尊ぶ師もまた、如来でもなく、無著でもなく、等正覚者でもありません。」』

「世尊！我聞此已，恐怖驚懼，舉身毛竪，莫令有比丘於世尊去後而在眾中起如是鬪諍，謂此鬪諍不益多人，多人有苦，非義非饒益，非安隱快樂，乃至天人生極苦患。世尊！我見一比丘坐世尊前，至心敬重世尊，善護善逝。世尊！我見此已，便作是念：『若令此比丘於世尊去後，而在眾中起如是鬪諍，謂此鬪諍不益多人，多人有苦，非義非饒益，非安隱快樂，乃至天人生極苦患。』」

> 「世尊よ、私はこのことを聞いて、恐怖のあまり全身の毛が逆立つほど驚きました。どうか、世尊がお去りになった後、僧伽の中でこのような争いが起こるような比丘が出ませんように。その争いは多くの人々のためにならず、多くの人々に苦しみをもたらし、理に適わず、利益もなく、安らぎや幸せをもたらさず、天や人々に至るまで極めて大きな苦しみと苦難を生むものですから。世尊よ、私は世尊の御前におられる一人の比丘が、心から世尊を敬い、よくお守りしているのを見ました。世尊よ、私はそれを見て、このように考えました。『もしこの比丘が、世尊がお去りになった後、僧伽の中でこのような争いを起こすなら、その争いは多くの人々のためにならず、多くの人々に苦しみをもたらし、理に適わず、利益もなく、安らぎや幸せをもたらさず、天や人々に至るまで極めて大きな苦しみと苦難を生むであろう』と。」

於是，世尊問曰：「阿難！汝見何等眾中有鬪諍者，謂此鬪諍不益多人，多人有苦，非義非饒益，非安隱快樂，乃至天人生極苦患耶？」

> そこで、世尊はお尋ねになりました。「阿難よ、あなたはどのような人々の間に争いがあるのを見るか。その争いは多くの人々にとって有益ではなく、多くの人々に苦しみをもたらし、意味がなく、利益にもならず、安心や安楽をもたらさない。そして、天界や人間にまで極めて大きな苦しみと悩みを生じさせるのではないか。」

尊者阿難答曰：「世尊！謂有鬪諍，因增上戒、增上心、增上觀，於其眾中生而生者。世尊！謂此鬪諍不益多人，多人有苦，非義非饒益，非安隱快樂，乃至天人生極苦患。」

> 尊者アーナンダがお答えしました。「世尊よ、戒律、心、観察という三つの向上した修行に関して、僧団の中で争いが生じることがあります。世尊よ、このような争いは多くの人々の利益にならず、多くの人々に苦しみをもたらし、意味もなく、利益もなく、安らぎや幸せもなく、天や人間に至るまで大きな苦しみと悩みをもたらすものです。」

世尊告曰：「阿難！此鬪諍甚少，謂因增上戒、增上心、增上觀。阿難！若有鬪諍，因道、因道迹，於其眾中生而生者，阿難！謂此鬪諍不益多人，多人有苦，非義非饒益，非安隱快樂。阿難！汝見其中有二比丘，各各異意而起鬪諍，是法、是非法，是律、是非律，是犯、是非犯，或輕、或重，可悔、不可悔，可護、不可護，有餘、無餘，起、不起。阿難！於意云何？若我法聚，自知自覺自作證，四念處、四正斷、四如意足、五根、五力、七覺支、八支聖道。阿難！尼揵親子實非薩云若，而自稱薩云若。阿難！若尼揵親子一切知、一切見者，彼為弟子施設六諍本，謂可聞而止。」

> 世尊はお告げになりました。「阿難よ、戒を増上すること、心を増上すること、観を増上することに関連する争いは、実に少ないものである。阿難よ、もし道や道の実践を原因として、僧伽の中で生じる争いがあるならば、阿難よ、その争いは多くの人々のためにならず、多くの人々に苦しみをもたらし、利益や安らぎ、楽しい境地にはつながらない。 阿難よ、あなたは二人の比丘が互いに異なる見解によって争いを起こすのを見たことがあるだろう。それは、これが正しい法か否か、これが正しい律か否か、これが犯戒か否か、軽いか重いか、悔過すべきか否か、守るべきか否か、余りがあるか無いか、生じるか生じないか、といったことである。 阿難よ、あなたはどう思うか。私が自ら悟り、自ら証得した法の集まり――すなわち、四念処、四正断、四如意足、五根、五力、七覚支、八支聖道――について。 阿難よ、ニガンタの子であるジナは、実際には一切智者ではないのに、自らを一切智者と称している。阿難よ、もしニガンタの子ジナが本当に一切を知り、一切を見る者であるならば、彼は弟子たちのために六つの争いの根本を設けることはなかっただろう。それらは、聞くことによって止むべきものなのだ。」

於是，尊者阿難叉手向佛，白曰：「世尊！今正是時。善逝！今正是時。若世尊為諸比丘說六諍本者，諸比丘從世尊聞，當善受持。」

> そこで、尊者アーナンダは合掌して仏に向かい、申し上げた。「世尊よ、まさに今がその時です。善逝よ、まさに今がその時です。もし世尊が比丘たちのために六つの争いの根本をお説きになれば、比丘たちは世尊のお言葉を聞いて、よく理解し実践するでしょう。」

世尊告曰：「阿難！諦聽，善思念之，我當為汝具分別說。」

> 世尊がおっしゃいました。「阿難よ、よく聞きなさい。しっかりと心に留めて考えなさい。私があなたに詳しく説き明かしましょう。」

尊者阿難白曰：「唯然。當受教聽。」

> はい、尊者アーナンダはお答えしました。「かしこまりました。その教えを謹んでお聞きいたします。」

佛言：「阿難！或有一人瞋惱者結纏。阿難！謂人瞋惱者結纏，彼不敬師，不見法，不護戒，彼不敬師，不見法，不護戒已，便於眾中起如是諍。謂此鬪諍不益多人，多人有苦，非義非饒益，非安隱快樂，乃至天人生極苦患。阿難！如是鬪諍，汝於內外見而不盡者，為斷此諍故，汝當速求方便，學極精勤，正念正智，忍莫令退。阿難！猶人為火燒頭、燒衣，急求方便，救頭、救衣。如是鬪諍，汝於內外見而不盡者，為斷此諍故，汝當速求方便，學極精勤，正念正智，忍莫令退。阿難！如是鬪諍，汝於內外見盡者，汝當重護彼心，常無放逸，欲止此諍故，如是此諍，汝斷根本。阿難！猶人為火燒頭、燒衣，急求方便，救頭、救衣。如是鬪諍，汝於內外見盡者，汝當重護彼心，常無放逸，欲止此諍故，如是此諍，汝斷根本。

> 仏陀は言われた。「阿難よ、ある人は怒りや悩みによって結ばれ、絡まれている。阿難よ、怒りや悩みによって結ばれ、絡まれている人は、師を敬わず、法を見ず、戒を守らない。師を敬わず、法を見ず、戒を守らないならば、やがて集まりの中でこのような争いを起こす。この争いは多くの人々に利益をもたらさず、多くの人々に苦しみをもたらし、義なく、益なく、安らぎや幸せを与えず、天や人々に至るまで極めて大きな苦しみと悩みをもたらす。阿難よ、このような争いについて、あなたが内外においてまだ完全に尽くしていないならば、この争いを断ち切るために、速やかに方法を求め、極めて精進し、正しい念いと正しい智慧をもって忍耐し、退いてはならない。阿難よ、例えば、人が頭や衣服に火がついたならば、急いで方法を求め、頭や衣服を救うようなものだ。このように、この争いについて、あなたが内外においてまだ完全に尽くしていないならば、この争いを断ち切るために、速やかに方法を求め、極めて精進し、正しい念いと正しい智慧をもって忍耐し、退いてはならない。阿難よ、このような争いについて、あなたが内外において完全に尽くしたならば、あなたはその心を大切に守り、常に放逸であってはならない。この争いを止めるために、このようにしてこの争いの根本を断ち切りなさい。阿難よ、例えば、人が頭や衣服に火がついたならば、急いで方法を求め、頭や衣服を救うようなものだ。このように、この争いについて、あなたが内外において完全に尽くしたならば、あなたはその心を大切に守り、常に放逸であってはならない。この争いを止めるために、このようにしてこの争いの根本を断ち切りなさい。」

「如是不語結、慳、嫉、諂誑、無慚、無愧、惡欲、邪見、惡性不可制。阿難！若有一人惡欲、邪見、惡性不可制，彼不敬師，不見法，不護戒，彼不敬師，不見法，不護戒已，便於眾中起如是諍，謂此鬪諍不益多人，多人有苦，非義非饒益，非安隱快樂，乃至天人生極苦患。阿難！如是鬪諍，汝於內外見而不盡者，為斷此諍故，汝當速求方便，學極精勤，正念正智，忍莫令退。阿難！猶人為火燒頭、燒衣，急求方便，救頭、救衣。如是鬪諍，汝於內外見而不盡者，為斷此諍故，汝當速求方便，學極精勤，正念正智，忍莫令退。阿難！如是鬪諍，汝於內外見盡者，汝當重護彼心，常無放逸，欲止此諍故，如是此諍，汝斷根本。阿難！猶人為火燒頭、燒衣，急求方便，救頭、救衣。如是鬪諍，汝於內外見盡者，汝當重護彼心，常無放逸，欲止此諍故，如是此諍，汝斷根本。

> このように、語らず結ぶこと、慳吝（けち）、嫉妬、へつらい・偽り、無慚、無愧、悪しき欲、邪見、悪性で制しがたいものがある。 阿難よ、もし一人の者が悪しき欲を持ち、邪見を持ち、悪性で制しがたく、師を敬わず、法を見ず、戒を守らなければ、その者は師を敬わず、法を見ず、戒を守らないがゆえに、僧団のうちにこのような争いを起こす。すなわち、この争いは多くの人々のためにならず、多くの人々に苦しみをもたらし、利益なく、安楽なく、天や人に至るまで極めて大きな苦悩をもたらす。 阿難よ、このような争いについて、あなたが内外においてまだ完全に断ち切れていないと見るならば、この争いを断つために、あなたは速やかに方法を求め、極めて精進し、正念・正智をもって忍耐し、退いてはならない。 阿難よ、ちょうど人が火のために頭や衣を焼かれたとき、急いで方法を求め、頭や衣を救おうとするように、このような争いについても、あなたが内外においてまだ完全に断ち切れていないと見るならば、この争いを断つために、速やかに方法を求め、極めて精進し、正念・正智をもって忍耐し、退いてはならない。 阿難よ、このような争いについて、あなたが内外においてすでに完全に断ち切ったと見るならば、あなたはその心を大切に守り、常に放逸であってはならず、この争いを止めるために努めよ。このようにして、この争いの根本を断つのである。 阿難よ、ちょうど人が火のために頭や衣を焼かれたとき、急いで方法を求め、頭や衣を救おうとするように、このような争いについても、あなたが内外においてすでに完全に断ち切ったと見るならば、あなたはその心を大切に守り、常に放逸であってはならず、この争いを止めるために努めよ。このようにして、この争いの根本を断つのである。

「復次，阿難！有七止諍，一者應與面前止諍律。二者應與憶止諍律。三者應與不癡止諍律。四者應與自發露止諍律。五者應與君止諍律。六者應與展轉止諍律。七者應與如棄糞掃止諍律。阿難！云何應與面前止諍律？云何斷此諍？謂因面前止諍律也。阿難！一人者一人教訶，護以法、律如尊師教，面前令歡喜。一人者二人、一人者多人、一人者眾教訶，護以法、律，如尊師教，面前令歡喜。二人者二人教訶，護以法、律，如尊師教，面前令歡喜。二人者多人、二人者眾、二人者一人教訶，護以法、律，如尊師教，面前令歡喜。多人者多人教訶，護以法、律，如尊師教，面前令歡喜。多人者眾、多人者一人、多人者二人教訶，護以法、律，如尊師教，面前令歡喜。眾者眾教訶，護以法、律，如尊師教，面前令歡喜。眾者一人、眾者二人、眾者多人教訶，護以法、律，如尊師教，面前令歡喜。阿難！是謂應與面前止諍律，如是斷此諍，謂因面前止諍律也。

> また、阿難よ。七つの諍いを止める方法がある。第一に、面前において諍いを止めるべきである。第二に、記憶によって諍いを止めるべきである。第三に、正気でない者のために諍いを止めるべきである。第四に、自ら告白して諍いを止めるべきである。第五に、多数決によって諍いを止めるべきである。第六に、互いに話し合って諍いを止めるべきである。第七に、塵芥を捨てるようにして諍いを止めるべきである。 阿難よ。どのように面前において諍いを止めるべきなのか。どのようにしてこの諍いを断ち切るのか。それは面前において諍いを止める方法によるのである。 阿難よ。一人の者が一人の者を教え戒める場合、法と律に従い、尊師の教えのように守って、面前において喜ばせる。一人の者が二人の者を、一人の者が多くの者を、一人の者が大勢を教え戒める場合も、法と律に従い、尊師の教えのように守って、面前において喜ばせる。 二人の者が二人の者を教え戒める場合、法と律に従い、尊師の教えのように守って、面前において喜ばせる。二人の者が多くの者を、二人の者が大勢を、二人の者が一人の者を教え戒める場合も、同様に、面前において喜ばせる。 多くの者が多くの者を教え戒める場合、法と律に従い、尊師の教えのように守って、面前において喜ばせる。多くの者が大勢を、多くの者が一人の者を、多くの者が二人の者を教え戒める場合も、同様である。 大勢が大勢を教え戒める場合、法と律に従い、尊師の教えのように守って、面前において喜ばせる。大勢が一人の者を、大勢が二人の者を、大勢が多くの者を教え戒める場合も、同様である。 阿難よ。これが面前において諍いを止めるべき方法であり、このようにしてこの諍いを断ち切るのである。すなわち、面前において諍いを止める方法によるのである。

「阿難！云何應與憶止諍律？云何斷此諍？謂因憶止諍律也。阿難！若有一人犯戒而不憶，諸比丘見已，便語彼曰：『汝曹犯戒而不自憶，汝應從眾求於憶律，眾當共與賢者憶律。』阿難！若處有眾和集會者，彼比丘應詣，偏袒著衣，脫屣入眾，稽首禮長老上尊比丘足，長跪叉手，白長老上尊比丘曰：『諸尊！聽我曾犯戒而不憶，我今從眾求於憶律，願眾和合與我憶律。』阿難！為彼比丘故，眾共和集，應與憶律，以法以律，如尊師教，面前令歡喜。阿難！是謂應與憶止諍律，如是斷此諍，謂因憶止諍律也。

> 「アーナンダでは、どのようにして『記憶による決議』（憶止諍律）を与えるべきなのでしょうか。また、どのようにしてこの争いを解消するのでしょうか。それは、まさに『記憶による決議』に基づくのです。 アーナンダ例えば、ある比丘が戒律を犯したけれども、自分ではそのことを覚えていないとします。他の比丘たちがそれを見て、その比丘にこう言います。『あなたは戒律を犯しましたが、自分では覚えていませんね。あなたは僧伽に『記憶による決議』を求めるべきです。僧伽はあなたに『記憶による決議』を与えるでしょう。』 アーナンダもし、僧伽が集まっている場所があれば、その比丘はそこに赴き、衣を片方の肩にかけ、履物を脱いで僧伽の中に入り、長老や尊い比丘たちの足に礼拝し、ひざまずいて両手を合わせ、長老や尊い比丘たちにこう言います。『尊い方々、私はかつて戒律を犯しましたが、それを覚えていません。今、私は僧伽に『記憶による決議』を求めます。どうか僧伽が和合して、私に『記憶による決議』をお与えください。』 アーナンダその比丘のために、僧伽は和合して集まり、『記憶による決議』を与えるべきです。それは法と律に従い、尊師の教えの通りに行い、その場で皆を喜ばせるものとします。 アーナンダこれが『記憶による決議』を与えるべき方法であり、このようにして争いを解消するのです。すなわち、それは『記憶による決議』に基づくものです。」

「阿難！云何應與不癡止諍律？云何斷此諍？謂因不癡止諍律也。阿難！若有一人狂發而心顛倒，彼狂發心顛倒已，多不淨行，非沙門法，不順法行而說違犯。彼於後時還得本心，諸比丘見已，便語彼曰：『汝曹狂發而心顛倒，狂發心顛倒已，多不淨行，非沙門法，不順法行而說違犯。賢者於後還得本心，賢者可從眾求不癡律，眾當共與賢者不癡律。』阿難！若處有眾和集會者，彼比丘應詣，偏袒著衣，脫屣入眾，稽首禮長老上尊比丘足，長跪叉手，白長老上尊比丘曰：『諸尊！聽我曾狂發而心顛倒，狂發心顛倒已，多不淨行，非沙門法，不順法行而說違犯。我於後時還得本心，我今從眾求不癡律，願眾和合與我不癡律。』阿難！為彼比丘故，眾共和集，應與不癡律，以法以律，如尊師教，面前令歡喜。阿難！是謂應與不癡止諍律，如是斷此諍，謂因不癡止諍律也。

> 「アーナンダ、どのようにして『無癡律』（心の乱れによる違反を許す規則）によって静めるべき法があるのか。また、どのようにしてこの静めを断つのか。それは無癡律によって静める法の故である。 アーナンダ、もしある人が発狂して心が乱れたとする。その人が発狂して心が乱れた後、多く不浄な行いをし、沙門の法に従わず、法に順わない行いをして違犯を言いふらす。その後、彼が本来の心を取り戻した時、比丘たちはそれを見て彼にこう言う。『あなたは発狂して心が乱れていた。発狂して心が乱れた後、多く不浄な行いをし、沙門の法に従わず、法に順わない行いをして違犯を言いふらした。賢者よ、あなたは今本来の心を取り戻した。どうか僧伽に無癡律を求めなさい。僧伽はあなたに無癡律を与えるでしょう。』 アーナンダ、もし僧伽が和合して集まる場があるなら、その比丘はそこに行くべきです。上衣を偏袒し、履物を脱いで僧伽に入り、長老や上座の比丘の足に礼拝し、長跪して合掌し、長老や上座の比丘に申し上げます。『尊い方々、お聞きください。私はかつて発狂して心が乱れていました。発狂して心が乱れた後、多く不浄な行いをし、沙門の法に従わず、法に順わない行いをして違犯を言いふらしました。私は後に本来の心を取り戻しました。今、私は僧伽に無癡律を求めます。どうか僧伽が和合して私に無癡律を与えてください。』 アーナンダ、その比丘のために、僧伽は和合して集まり、彼に無癡律を与えるべきです。法と律に従い、尊師の教えのままに、本人の前で喜ばせなさい。 アーナンダ、これが無癡律によって静めるべき法であり、このようにして静めを断つのです。それは無癡律によって静める法の故です。」

「阿難！云何應與自發露止諍律？云何斷此諍？謂因自發露止諍律也。阿難！若有一人犯戒，或有語者，或不語者，或有憶者，或不憶者。阿難！若處有眾和集會者，彼比丘應詣，偏袒著衣，脫屣入眾，稽首禮長老上尊比丘足，長跪叉手，白長老上尊比丘曰：『諸尊！聽！我犯某戒，我今向長老上尊比丘至心發露，自說顯示，不敢覆藏，更善護持，後不復作。』阿難！諸比丘眾當問彼比丘曰：『賢者自見所犯耶？』彼應答曰：『實自見所犯。』眾當語彼：『更善護持，莫復作也。』阿難！是謂應與自發露止諍律，如是斷此諍，謂因自發露止諍律也。

> 「阿難よ。どのようにして自ら発露して争いを止める律を与えるべきなのか。どのようにしてこの争いを断つのか。それは、自ら発露することに因って争いを止める律というのである。 阿難よ。もし一人の比丘が戒を犯した場合、それを指摘する者もいれば、指摘しない者もいる。覚えている者もいれば、覚えていない者もいる。 阿難よ。もし大勢の僧が集まっている場所があるならば、その比丘はそこに赴き、衣を偏袒（へんたん）し、履物を脱いで僧の中に入り、長老や上座の比丘の足に頭を觸れて礼拝し、長跪（ちょうき）して合掌し、こう言いなさい。『諸尊よ、お聞きください。私は某（しかじか）の戒を犯しました。今、長老・上座の比丘に対して心から発露し、自ら語り示します。隠し覆うことはなく、今後はよりよく護持し、再び犯しません』と。 阿難よ。僧たちはその比丘に問うべきである。『尊者よ、自ら犯したことを見ましたか』と。彼は答えるべきである。『確かに自ら犯したことを見ました』と。僧たちは彼に言うべきである。『よりよく護持し、再び犯してはなりません』と。 阿難よ。これが、自ら発露して争いを止める律を与えるべきであり、このようにして争いを断つのである。すなわち、自ら発露することに因って争いを止める律というのである。」

「阿難！云何應與君止諍律？云何斷此諍？謂因與君止諍律也。阿難！若有一人不知羞恥，不悔見聞，從他疑者惡欲，彼犯戒已，稱一處知，稱一處見，稱一處知已，稱一處見，稱一處見已，稱一處知，在眾中稱一處知，在眾中稱一處見，稱一處知已，稱一處見，稱一處見已，稱一處知。阿難！為彼比丘故，眾共和集，應與君律，君無道無理，君惡不善。所以者何？謂君犯戒已，稱一處知，稱一處見，稱一處知已，稱一處見，稱一處見已，稱一處知，在眾中稱一處知，在眾中稱一處見，稱一處知已，稱一處見，稱一處見已，稱一處知。阿難！是謂應與君止諍律，如是斷此諍，謂因與君止諍律也。

> 「阿難、どのようにして『君止諍律（くんしじょうりつ）』を行うべきなのか。どのようにしてこの争いを鎮めるのか。それは『君止諍律』によるのです。 阿難、もし一人の比丘がいて、恥を知らず、見聞きしたことについて悔い改めず、他人から疑われ、悪い欲望を持っているとします。彼は戒律を破った後、ある部分を知っていると言い、ある部分を見たと言い、ある部分を知っていると言ってからある部分を見たと言い、ある部分を見たと言ってからある部分を知っていると言います。また、大衆の中で同じように、ある部分を知っている、ある部分を見たと主張します。 阿難、その比丘のために、僧団は集まって『君律』を与えなければなりません。彼には道も道理もなく、悪くて善くないからです。なぜなら、彼は戒律を破った後、ある部分を知っている、ある部分を見たと主張し、そのように言い続けるからです。 阿難、これが『君止諍律』を与えるべき場合であり、このようにして争いを鎮めるのです。それは『君止諍律』によるのです。」

「阿難！云何應與展轉止諍律？云何斷此諍？謂因展轉止諍律也。阿難！有二比丘於其中間若干意起諍，謂是法、非法，是律、非律，是犯、非犯，或輕、或重，可說、不可說，可護、不可護，有餘、無餘，可悔、不可悔。阿難！彼比丘猥處止此諍，若猥處止者，此諍當言止，若猥處不止者，此諍可白眾，若於眾中止者，此諍當言止，若於眾中不止者，阿難！相近住者，於中若有比丘持經、持律、持母者，此比丘共往至彼，說此諍事，若在道路止者，此諍當言止，若道路不止者，此諍當復向眾說，若在眾止者，此諍當言止，若在眾不止者，阿難！若多伴助者，持經、持律、持母者，阿難！彼比丘應者止此諍，以法以律，如尊師教，面前令歡喜。阿難！是謂應與展轉止諍律，如是斷此諍，謂因展轉止諍律也。

> 「アーナンダ、どのようにして『互いに諍いを止めるための規則』を実践すべきなのか。また、どのようにしてこの諍いを断ち切るのか。それは、まさに互いに諍いを止めるための規則によるのです。 アーナンダ、二人の比丘の間に、様々な思いから諍いが生じることがあります。それは、これが法であるか非法であるか、これが律であるか非律であるか、これが犯しであるか犯しでないか、あるいは軽いか重いか、語るべきか語るべからざるか、守るべきか守るべからざるか、余りがあるか無いか、懺悔すべきか懺悔すべからざか、といったことです。 アーナンダ、その比丘たちは、まず隠れた場所でこの諍いを止めようとします。もし隠れた場所で止められたなら、この諍いは止んだと言えるでしょう。もし隠れた場所で止められなければ、この諍いは僧伽に告げることができます。もし僧伽の中で止められたなら、この諍いは止んだと言えるでしょう。もし僧伽の中でも止められなければ、アーナンダ、同じ場所に住んでいる者たちの中で、経典を保有する者、律を保有する者、母経典（論蔵）を保有する者がいるなら、この比丘たちは共にその者のもとへ行き、この諍いの事柄について話し合います。もしその道中で止められたなら、この諍いは止んだと言えるでしょう。もし道中でも止められなければ、この諍いは再び僧伽に告げられるべきです。もし僧伽の中で止められたなら、この諍いは止んだと言えるでしょう。もし僧伽の中でも止められなければ、アーナンダ、多くの支援者を持つ者、すなわち経典を保有する者、律を保有する者、母経典を保有する者がいるなら、アーナンダ、その比丘は努めてこの諍いを止めるべきです。法と律に従い、尊師の教えのままに、その面前で喜びをもたらすのです。 アーナンダ、これが『互いに諍いを止めるための規則』と呼ばれるものです。このようにしてこの諍いは断ち切られるのです。それは、まさに互いに諍いを止めるための規則によるのです。」

「阿難！云何應與如棄糞掃止諍律？云何斷此諍？謂因如棄糞掃止諍律也。阿難！若有住處諸比丘眾鬪訟憎嫉，相憎共諍。阿難！彼諸比丘分立二部，分立二部已，若於一部中有長老上尊者，或有次者，有宗主者，或有次者。阿難！此比丘語彼比丘曰：『諸賢！聽！我等無道無理，我等惡不善。所以者何？我等於此善說法、律，至信、捨家、無家、學道，鬪訟憎嫉，相憎共諍。諸賢！因此諍，我等犯戒者除偷羅柘，除家相應，我自為己，亦為彼諸賢故，今向賢至心發露，自說顯示，不敢覆藏，更善護持，後不復作。』

> 「アーナンダ、どのような場合に「糞掃（ふんぞう）のような戒律」を適用すべきか、またどのようにしてその争いを解決するのかを説明しよう。それが「糞掃のような戒律」と呼ばれる理由だ。 アーナンダ、もし修行者たちが集う場所で、僧侶たちが言い争い、憎しみ合い、非難し合い、互いに争っているとする。アーナンダ、彼ら僧侶たちは二つの派に分かれる。二つの派に分かれた後、それぞれの派の中に、年長で尊敬される者や、それに次ぐ者、指導者や、それに続く者がいる。 アーナンダ、そのとき、一方の派の僧侶が他方の派の僧侶にこう言うのだ。 『皆さん、聞いてください。私たちは道理から外れ、正しくありません。私たちは悪く、善くありません。なぜなら、私たちはこのよく説かれた教えと戒律において、深く信じ、家を捨て、無一物の修行生活に入りながらも、言い争い、憎しみ合い、非難し合い、互いに争っているからです。皆さん、この争いによって、私たちは戒律を破りました（ただし、サンガ追放に値する重罪と、在家者に関わるものを除きます）。私は、自分自身のためにも、また皆さんのためにも、今ここに皆さんに対して心から告白し、自らの過ちを示します。隠し立てはせず、今後はよりよく戒律を守り、二度と同じ過ちを犯さないようにします。』」

「阿難！若此部中無一比丘應者，阿難！此比丘應往至彼第二部，到已稽首，禮長老上尊比丘足，長跪叉手，白長老上尊比丘曰：『諸尊！聽！我等無道無理，我等惡不善。所以者何？我等於此善說法、律，至信、捨家、無家、學道，鬪訟憎嫉，相憎共諍。諸賢！因此諍，我等犯戒者除偷羅柘，除家相應，我自為己，亦為彼諸賢故，今向長老上尊至心發露，自說顯示，不敢覆藏，更善護持，後不復作。』阿難！彼比丘當語此比丘曰：『賢者！汝自見犯戒耶？』彼應答曰：『實自見所犯。』彼當語此：『更善護持，莫復作也。』第二部亦復如是。阿難！是謂應與如棄糞掃止諍律，如是斷此諍，謂因如棄糞掃止諍律也。

> 「阿難よ、もしその部の中で一人の比丘も応答がないならば、阿難よ、その比丘は第二の部へ赴くべきです。そこに到ったならば、頭を下げて長老や上座の比丘たちの足に礼をし、ひざまずいて両手を合わせ、長老や上座の比丘たちにこう申し上げなさい。『尊き方々よ、お聞きください。私たちは道に外れ、理に適わず、不善でありました。なぜなら、私たちはこの善く説かれた法と律において、深く信じて家を捨て、家なき者として学びの道に入りながら、争い、憎み、恨み合い、互いに諍ってしまったからです。諸賢よ、この諍いのために、私たちは戒を犯しました。ただし、僧残罪（とうろじゃ）や在家に関するものは除きます。私は自らのため、また諸賢のために、今、長老や上座の方々に対し、心から懺悔し、自ら告白し、示します。隠し立てせず、今後はより善く守り、再び犯さないようにします。』」 阿難よ、その比丘はこの比丘にこう言うべきです。『賢者よ、あなたは自ら戒を犯したと見ますか？』彼は答えるべきです。『確かに、自ら犯したと見ました。』その比丘は彼にこう言うべきです。『今後はより善く守り、再び犯さないようにしなさい。』第二の部もまた、同様にすべきです。阿難よ、これが「塵芥（くず）を捨てるが如き」と呼ばれる静諍律です。このようにして、この諍いは断たれます。すなわち、「塵芥を捨てるが如き静諍律」によってです。

「阿難！我今令汝說六慰勞法，諦聽，諦聽，善思念之。」

> 「アーナンダよ、汝に六つの慰めとなる教えを説かせよう。よく聞き、よく聞き、心して思惟しなさい。」

尊者阿難白曰：「唯然。當受教聽。」

> はい、尊者アーナンダはお答えしました。「かしこまりました。その教えを謹んでお聞きいたします。」

佛言：「云何為六？慈身業，向諸梵行，法是慰勞法、愛法、樂法，令愛令重，令奉令敬，令修令攝，得沙門，得一心，得精進，得涅槃，慈口業，慈意業。若法利如法得，自所得飯食，至在鉢中，如是利分布，施諸梵行，是法慰勞法、愛法、樂法，令愛令重，令奉令敬，令修令攝，得沙門，得一心，得精進，得涅槃。若有戒不缺不穿，無穢無黑，如地不隨他，聖所稱譽，具足善受持如是戒分，布施諸梵行，是法慰勞法、愛法、樂法，令愛令重，令奉令敬，令修令攝，得沙門，得一心，得精進，得涅槃。若有聖見出要，明見深達，能正盡苦，如是見分布，施諸梵行，是法慰勞法、愛法、樂法，令愛令重，令奉令敬，令修令攝，得沙門，得一心，得精進，得涅槃。阿難！我向所說六慰勞法者，因此故說。

> 仏陀が言われた。「では、その六つとは何か。慈しみの身体的行為をもって、共に修行する仲間たちに向かうこと。これこそが慰めの法、愛の法、喜びの法であり、愛され、重んじられ、敬われ、尊ばれ、共に修行され、取り入れられる法である。これにより沙門の境涯を得、一心を得、精進を得、涅槃を得る。慈しみの言葉による行為、慈しみの心による行為もまた同じである。 また、法に従って得た正当な利得、自ら得た食物が鉢の中にあるならば、そのような利得を分かち合い、共に修行する仲間たちに施すこと。これこそが慰めの法、愛の法、喜びの法であり、愛され、重んじられ、敬われ、尊ばれ、共に修行され、取り入れられる法である。これにより沙門の境涯を得、一心を得、精進を得、涅槃を得る。 また、戒律に欠けるところがなく、破るところがなく、汚れも黒きもなく、地のように何ものにも動じず、聖者たちが称賛する、完全によく受持された戒律の部分を、共に修行する仲間たちに施すこと。これこそが慰めの法、愛の法、喜びの法であり、愛され、重んじられ、敬われ、尊ばれ、共に修行され、取り入れられる法である。これにより沙門の境涯を得、一心を得、精進を得、涅槃を得る。 また、聖なる見解が出離へと導き、明らかに見通し深く達し、正しく苦しみを尽くすことができる。そのような見解を分かち合い、共に修行する仲間たちに施すこと。これこそが慰めの法、愛の法、喜びの法であり、愛され、重んじられ、敬われ、尊ばれ、共に修行され、取り入れられる法である。これにより沙門の境涯を得、一心を得、精進を得、涅槃を得る。 アーナンダよ、私が先に説いた六つの慰めの法とは、この故に説かれたのである。」

「阿難！若汝等此六諍本止絕斷者，及此七止諍，眾中起鬪諍，以如棄糞掃止諍律止者，復行此六慰勞法。阿難！如是汝於我去後共同和合，歡喜不諍，同一一心，同一一教，合一水乳，快樂遊行，如我在時。」

> 「アーナンダよ、もしあなたたちがこれらの六つの争いの根本を断ち切り、さらに七つの争いを静める法（七滅諍）によって、僧団の中で起こる争いを、まるで汚物を捨てるかのごとく鎮めるならば、さらにこの六つの慰め合う法（六和敬）を実践しなさい。アーナンダよ、このようにあなたたちは、私が去った後も、互いに和合し、喜んで争わず、同じ心、同じ教えを持ち、水と乳が混ざり合うように一つとなり、私が在世の時と変わらず、安らかに修行の道を歩みなさい。」

佛說如是。尊者阿難及諸比丘，聞佛所說，歡喜奉行。

> このように仏は説かれました。尊者アーナンダと諸々の比丘たちは、仏の説かれたことを聞き、歓喜してこれを行いました。

周那經第五竟四千二百三十字

> ジュナへの教えの経典　第五　終わり<note>四千二百三十字</note>