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title: "中阿含經 · 200 阿梨吒經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
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## 中阿含經卷第五十四

> 中阿含経 第五十四巻

東晉罽賓三藏瞿曇僧伽提婆譯

> 東晋・罽賓三蔵・瞿曇僧伽提婆 訳

### （二〇〇）大品阿梨吒經第九第五後誦

> （二〇〇）大品アリッタ経　第九<note>第五後誦</note>

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊舍衛國，在勝林給孤獨園。

> ある時、お釈迦さまは舎衛国に滞在され、勝林給孤独園におられました。

爾時，阿梨吒比丘本伽陀婆梨，生如是惡見：「我知世尊如是說法，行欲者無障礙。」諸比丘聞已，往至阿梨吒比丘所，問曰：「阿梨吒！汝實如是說：『我知世尊如是說法，行欲者無障礙耶？』」

> その時、比丘アリッタ（元は伽陀婆梨という名であった）は、このような誤った見解を抱いた。「私は世尊がこのように説法されたと理解している。すなわち、欲望を追い求めることは妨げられない、と。」多くの比丘たちはこれを聞き、アリッタ比丘のところへ行き、尋ねた。「アリッタよ、あなたは本当に『私は世尊がこのように説法されたと理解している。すなわち、欲望を追い求めることは妨げられない』と言ったのか？」

時，阿梨吒答曰：「諸賢！我實知世尊如是說法，行欲者無障礙。」

> その時、アリッタ比丘は答えて言いました。「尊者たちよ、私は確かに世尊がこのように説法されたのだと理解しています。すなわち、欲望を追求する者は妨げられることはない、と。」

諸比丘訶阿梨吒曰：「汝莫作是說，莫誣謗世尊，誣謗世尊者不善，世尊亦不如是說。阿梨吒！欲有障礙，世尊無量方便說欲有障礙。阿梨吒！汝可速捨此惡見也。」

> 比丘たちはアリッタにこう言った。「そのようなことを言ってはならない。世尊を誹謗してはならない。世尊を誹謗することは善いことではない。世尊はそのようなことはおっしゃっていない。アリッタよ、欲望には障りがある。世尊は無数の方法を用いて、欲望には障りがあると説かれたのだ。アリッタよ、あなたはすぐにその誤った見解を捨て去りなさい。」

阿梨吒比丘為諸比丘所訶已，如此惡見其強力執，而一向說：「此是真實，餘者虛妄。」如是再三。

> 阿梨吒比丘は他の比丘たちから叱責された後も、この誤った見解に強く執着し、一貫して「これだけが真実であり、他はすべて虚妄である」と言い続けました。これを二度、三度と繰り返しました。

眾多比丘不能令阿梨吒比丘捨此惡見，從坐起去，往詣佛所，稽首佛足，却坐一面，白曰：「世尊！阿梨吒比丘生如是惡見：『我知世尊如是說法：「行欲者無障礙。」』世尊！我等聞已，往詣阿梨吒比丘所，問曰：『阿梨吒！汝實如是說：「我知世尊如是說法：『行欲者無障礙耶？』」』阿梨吒比丘答我等曰：『諸賢！我實知世尊如是說法：「行欲者無障礙。」』世尊！我等訶曰：『阿梨吒！汝莫作是說，莫誣謗世尊，誣謗世尊者不善，世尊亦不如是說。阿梨吒！欲有障礙，世尊無量方便說欲有障礙。阿梨吒！汝可速捨此惡見。』我等訶已，如此惡見其強力執，而一向說：『此是真實，餘者虛妄。』如是再三。世尊！如我等不能令阿梨吒比丘捨此惡見，從坐起去。」

> 多くの比丘たちは、アリッタ比丘にこの邪な見解を捨てさせることができませんでした。彼らは座を立って仏の元へ向かい、仏の足に頭を触れて礼拝し、一方に座って申し上げました。「世尊よ、アリッタ比丘がこのような邪な見解を抱いています。『私は世尊がこのように説法されたと知っています。「欲望を楽しむ者には妨げがない」と。』世尊よ、私たちはこれを聞いてアリッタ比丘のところに行き、尋ねました。『アリッタよ、あなたは本当に「私は世尊がこのように説法されたと知っています。「欲望を楽しむ者には妨げがない」』と言ったのですか？』アリッタ比丘は私たちに答えました。『諸賢よ、私は確かに世尊がこのように説法されたと知っています。「欲望を楽しむ者には妨げがない」と。』世尊よ、私たちは諫めました。『アリッタよ、そのようなことを言ってはいけません。世尊を謗ってはなりません。世尊を謗るのは善くありません。世尊はそのようには説かれていません。アリッタよ、欲望には妨げがあります。世尊は無数の方法で「欲望には妨げがある」と説かれました。アリッタよ、あなたは速やかにこの邪な見解を捨てなさい。』このように諫めたにもかかわらず、彼はこの邪な見解に強く執着し、一貫して言い張りました。『これこそが真実であり、他は虚妄である。』このことを三度繰り返しました。世尊よ、私たちはアリッタ比丘にこの邪な見解を捨てさせることができず、座を立ってここに参りました。」

世尊聞已，告一比丘：「汝往阿梨吒比丘所，作如是語：『世尊呼汝！』」

> 世尊はそれを聞いて、一人の比丘に告げられました。「あなたはアリッタ比丘のところに行き、こう言いなさい。『世尊があなたをお呼びです』と。」

於是，一比丘受世尊教，即從坐起，稽首佛足，遶三匝而去，至阿梨吒比丘所，即語彼曰：「世尊呼汝！」阿梨吒比丘即詣佛所，稽首佛足，却坐一面。

> そこで、ある修行者が世尊の教えを受け、立ち上がって仏の足に額を付けて礼拝し、三度周り巡り歩いてから、アリッタという修行者のもとへ行き、こう告げました。「世尊があなたをお呼びです。」アリッタ修行者はすぐに世尊のもとへ行き、仏の足に額を付けて礼拝し、一方に座りました。

世尊問曰：「阿梨吒！實如是說：『我知世尊如是說法：「行欲者無障礙。」耶？』」

> 世尊がお尋ねになりました。「アリッタよ、本当にお前はこう言ったのか。『私は世尊がこう説法されたと知っている。すなわち、「欲望を楽しむ者には、妨げとなるものはない」と。』」

阿梨吒答曰：「世尊！我實知世尊如是說法：『行欲者無障礙。』」

> 阿梨吒が答えました。「世尊よ、私は確かに世尊がそのような教えを説かれたと理解しております。『欲望を楽しむ者には妨げがない』と。」

世尊訶曰：「阿梨吒！汝云何知我如是說法？汝從何口聞我如是說法？汝愚癡人！我不一向說，汝一向說耶？汝愚癡人！聞諸比丘共訶，汝時應如法答：『我今當問諸比丘也。』」

> 世尊は叱責して言われた。「阿梨吒よ、あなたはどうして私がそのように教えていると知ったのか。どの口から私がそのように説いたと聞いたのか。愚かな人よ、私は一方的に説いてはいないのに、あなたは一方的に説いているのか。愚かな人よ、他の比丘たちが共に叱るのを聞いたなら、あなたは法に従ってこう答えるべきであった——『私は今、諸比丘に問うべきだ』と。」

於是，世尊問諸比丘：「汝等亦如是知我如是說法：『行欲者無障礙。』耶？」

> そこで、世尊は比丘たちに問われました。「あなたがたも、私が『欲に従う者は妨げがない』と説法しているのを、そのように理解しているのですか。」

時，諸比丘答曰：「不也。」

> その時、比丘たちは答えた。「いいえ、そうではありません。」

世尊問曰：「汝等云何知我說法？」

> 世尊がお尋ねになりました。「あなたたちは、私の説く教えをどのように理解していますか？」

諸比丘答曰：「我等知世尊如是說法：『欲有障礙。』世尊說欲有障礙也。欲如骨鏁，世尊說欲如骨鏁也。欲如肉臠，世尊說欲如肉臠也。欲如把炬，世尊說欲如把炬也。欲如火坑，世尊說欲如火坑也。欲如毒蛇，世尊說欲如毒蛇也。欲如夢，世尊說欲如夢也。欲如假借，世尊說欲如假借也。欲如樹果，世尊說欲如樹果也。我等知世尊如是說法。」

> 比丘たちは答えた。「私たちは、世尊がこのように説法されるのを知っています。『欲望には障害がある』と。世尊は欲望に障害があると説かれました。欲望は骨の鎖のようなものであると、世尊は欲望を骨の鎖にたとえられました。欲望は一片の肉のようなものであると、世尊は欲望を肉片にたとえられました。欲望は手にした松明のようなものであると、世尊は欲望を松明にたとえられました。欲望は火の穴のようなものであると、世尊は欲望を火の穴にたとえられました。欲望は毒蛇のようなものであると、世尊は欲望を毒蛇にたとえられました。欲望は夢のようなものであると、世尊は欲望を夢にたとえられました。欲望は借り物のようなものであると、世尊は欲望を借り物にたとえられました。欲望は木の実のようなものであると、世尊は欲望を木の実にたとえられました。私たちは、世尊がこのように説法されるのを知っています。」

世尊歎曰：「善哉！善哉！諸比丘！汝等知我如是說法。所以者何？我亦如是說：『欲有障礙。』我說欲有障礙。欲如骨鏁，我說欲如骨鏁。欲如肉臠，我說欲如肉臠。欲如把炬，我說欲如把炬。欲如火坑，我說欲如火坑。欲如毒蛇，我說欲如毒蛇。欲如夢，我說欲如夢。欲如假借，我說欲如假借。欲如樹果，我說欲如樹果。」

> 世尊が称賛しておっしゃいました。「善いかな、善いかな。比丘たちよ、あなたがたは私の説法をその通りに理解している。なぜなら、私もまた次のように説いているからだ。『欲望には障りがある』と。私は欲望には障りがあると説く。欲望は骨のついた鎖のようなものだと、私は説く。欲望は生肉の塊のようなものだと、私は説く。欲望は火のついた松明のようなものだと、私は説く。欲望は火の穴のようなものだと、私は説く。欲望は毒蛇のようなものだと、私は説く。欲望は夢のようなものだと、私は説く。欲望は借り物のようなものだと、私は説く。欲望は木の実のようなものだと、私は説く。」

世尊歎曰：「善哉！善哉！汝等知我如是說法。然此阿梨吒愚癡之人，顛倒受解義及文也。彼因自顛倒受解故，誣謗於我，為自傷害，有犯有罪，諸智梵行者所不憙也，而得大罪。汝愚癡人！知有此惡不善處也。」

> 釈尊はおっしゃいました。「良きかな、良きかな。あなたがたは、私の説法をそのように理解している。しかし、この愚かなアリッタという者は、意味と表現を逆さまに受け取っている。その誤った解釈によって、私を誹謗し、自らを傷つけ、過ちと罪を犯し、賢明な修行者たちから嫌われる大罪を犯している。愚かな者よ、あなたはこのような悪しき不善の状態があることを知っているのだ。」

於是，阿梨吒比丘為世尊面訶責已，內懷憂慼，低頭默然，失辯無言，如有所伺。

> そこで、比丘のアリッタは世尊から直接厳しく叱責され、心に憂いと悲しみを抱え、うつむいて黙り込み、言い訳も言葉も失い、何かにとらわれたようになった。

於是，世尊面訶責數阿梨吒比丘已，告諸比丘：「若我所說法盡具解義者，當如是受持。若我所說法不盡具解義者，便當問我及諸智梵行者。所以者何？或有癡人，顛倒受解義及文也，彼因自顛倒受解故，如是如是知彼法，謂正經、歌詠、記說、偈他、因緣、撰錄、本起、此說、生處、廣解、未曾有法及說義，彼諍知此義，不受解脫知此義，彼所為知此法，不得此義，但受極苦，唐自疲勞。所以者何？彼以顛倒受解法故。

> そこで、世尊はアリッタ比丘を厳しく叱責された後、比丘たちに告げられた。「もし私が説いた法が、その意味を完全に解明しているならば、そのまま受け止めなさい。もし私が説いた法が、その意味を完全に解明していないならば、私や、智慧ある修行者たちに問いなさい。 なぜか。愚かな者の中には、意味や言葉を誤って解釈する者がいるからだ。彼らは誤った解釈によって、『経典、詩頌、説法、偈頌、因縁、記録、本生、未曾有法、広解、説義』といった正しい法を、そのように理解してしまう。彼らはこの意味を論じ争うが、解脱の智慧によって真実を理解することはない。彼らは法を知ろうとして、かえってその意味を得られず、ただ苦しみを受け、いたずらに疲れ果てるだけである。なぜなら、彼らは法を誤って解釈するからである。」

「譬若如人，欲得捉蛇，便行求蛇。彼求蛇時，行野林間，見極大蛇，便前以手捉其腰中，蛇迴舉頭，或蜇手足及餘支節。彼人所為求取捉蛇，不得此義，但受極苦，唐自疲勞。所以者何？以不善解取蛇法故。如是或有癡人，顛倒受解義及文也，彼因自顛倒受解故，如是如是知彼法，謂正經、歌詠、記說、偈他、因緣、撰錄、本起、此說、生處、廣解、未曾有法及說義。彼諍知此義，不受解脫知此義，彼所為知此法，不得此義，但受極苦，唐自疲勞。所以者何？彼以顛倒受解法故。

> 例えば、蛇を捕まえようとする人がいる。その人は蛇を捕まえようとして、野原や林の中を探し回る。ついに大きな蛇を見つけると、近づいてその胴体の真ん中を手で掴む。すると蛇が首を振り上げ、その人の手足や体の他の部分を噛む。この人は蛇を捕まえようとして求めた意味を全く得ることができず、ただひどい苦しみを受けるだけで、無駄に疲れ果ててしまう。なぜか？蛇の捕まえ方を正しく理解していなかったからである。 これと同じように、愚かな人々の中には、教えの意味と表現を誤って解釈する者がいる。彼らが間違った解釈をするがゆえに、正しい経典、詩歌、解説、偈頌、因縁談、編集録、本起譚、このように説かれたもの、誕生の物語、広範な解説、未曾有の法、そして教えの意味などを、あるがままに理解することができない。彼らはこの意味を争いながら知ろうとするが、そこから解脱する智慧を得ることはない。彼らがこの教えを知ろうとして求めた意味を全く得ることができず、ただひどい苦しみを受けるだけで、無駄に疲れ果ててしまう。なぜか？彼らが教えの解釈を誤って受け取っているからである。

「或有族姓子，不顛倒善受解義及文，彼因不顛倒善受解故，如是如是知彼法，謂正經、歌詠、記說、偈他、因緣、撰錄、本起、此說、生處、廣解、未曾有法及說義。彼不諍知此義，唯受解脫知此義，彼所為知此法，得此義，不受極苦，亦不疲勞。所以者何？以不顛倒受解法故。

> ある善男子（在家修行者）が、意味と文章とを正しく逆転なく理解し受け取るならば、その者は、正しく逆転なく理解し受け取るがゆえに、法（教え）をありのままに知る。すなわち、経典、偈頌、記別、偈頌（再度）、因縁、譬喩、本生、未曾有法、方広、論議などの教えについてである。その者は、この意味を争いながら知るのではなく、ただ解脱の智慧によってこの意味を受け取り理解する。その者は、この法を知るためにこの意味を得て、ひどい苦しみを受けることもなく、疲れ果てることもない。なぜならば、法を逆転なく正しく受け取り理解するからである。

「譬若如人，欲得捉蛇，便行求蛇。彼求蛇時，手執鐵杖，行野林間，見極大蛇，先以鐵杖押彼蛇頂，手捉其頭，彼蛇雖反尾迴，或纏手足及餘支節，然不能蜇。彼人所為求取捉蛇，而得此義，不受極苦，亦不疲勞。所以者何？彼以善解取蛇法故。如是或有族姓子，不顛倒善受解義及文，彼因不顛倒善受解故，如是如是知彼法，謂正經、歌詠、記說、偈他、因緣、撰錄、本起、此說、生處、廣解、未曾有法及說義，彼不諍知此義，唯受解脫知此義。彼所為知此法，得此義，不受極苦，亦不疲勞。所以者何？以不顛倒受解法故。我為汝等長夜說筏喻法，欲令棄捨，不欲令受故。

> 例えば、人が蛇を捕まえようとして蛇を探しに行くとします。蛇を探す時、鉄の杖を手に持ち、野原や林の中を歩き回り、とても大きな蛇を見つけたら、まず鉄の杖でその蛇の頭を押さえ、手で首を掴みます。すると蛇は尾を巻きつけてきたり、手足や他の体の部分に絡みついたりしますが、噛みつくことはできません。その人が蛇を捕まえようとして行ったことは、このような結果をもたらし、激しい苦しみを受けることもなく、疲れ果てることもありません。それはなぜかというと、その人が蛇を捕まえる方法をよく理解しているからです。 同じように、ある良家の子息が、意味や文を誤りなく正しく受け取り、理解します。その人は誤りなく正しく受け取り理解したことによって、その教え――すなわち経典、詩頌、授記、偈頌、因縁、撰録、本起、此説、生処、広解、未会有の法、および義の説示――をありのままに知ります。その人はこの義を論じ争うことなく、ただ解脱の智慧をもってこの義を知ります。その人がこの教えを知ろうとして行ったことは、このような結果をもたらし、激しい苦しみを受けることもなく、疲れ果てることもありません。それはなぜかというと、誤りなく正しく教えを受け取ったからです。 私はあなたがたに対して、長い夜にわたって「筏のたとえ」の教えを説いてきました。それは、執着を手放させるためであり、執着させようとしたからではありません。

「云何我為汝等長夜說筏喻法，欲令棄捨，不欲令受？猶如山水甚深極廣，長流駛疾，多有所漂，其中無舡，亦無橋梁。或有人來，而於彼岸有事欲度，彼求度時，而作是念：『今此山水甚深極廣，長流駛疾，多有所漂，其中無舡亦無橋梁而可度者，我於彼岸有事欲度，當以何方便，令我安隱至彼岸耶？』復作是念：『我今寧可於此岸邊收聚草木，縛作椑栰，乘之而度。』彼便岸邊收聚草木，縛作椑栰，乘之而度，安隱至彼。便作是念：『今我此栰多有所益，乘此栰已，令我安隱，從彼岸來，度至此岸，我今寧可以著右肩或頭戴去。』彼便以栰著右肩上或頭戴去。於意云何？彼作如是竟，能為栰有所益耶？」

> 「なぜ、私はあなたがたに長い間、筏（いかだ）のたとえを用いて教えを説き、それを捨てさせるようにし、執着させないようにしてきたのでしょうか？ たとえば、山から流れ出る川が非常に深くて広く、水の流れが速く、多くのものを押し流しているとしましょう。そこには船も橋もありません。 そこに、向こう岸に用事があって川を渡りたい人が来たとします。彼は渡る方法を考えて、こう思います。 『この川は非常に深くて広く、流れが速く、多くのものを押し流している。船も橋もなくて渡れない。しかし、向こう岸に用事があって渡らねばならない。どうすれば安全に向こう岸に渡れるだろうか？』 そして、さらにこう考えます。 『こうしよう。この岸辺で草や木を集めて、筏を組み、それに乗って渡ろう。』 そこで彼は岸辺で草や木を集め、筏を組み、それに乗って川を渡り、無事に向こう岸に着きました。 すると彼はこう思います。 『この筏はとても役に立った。これに乗ったおかげで、安全に向こう岸からこちら岸に渡って来られた。だから、この筏を肩に担いだり、頭の上に乗せて持って行こう。』 そして彼は筏を右肩に担いだり、頭の上に乗せたりしました。 さて、あなたがたはどう思いますか？彼がこのようにしたことは、筏にとって本当に役立つことでしょうか？」

時，諸比丘答曰：「不也。」

> その時、比丘たちは答えた。「いいえ、そうではありません。」

世尊告曰：「彼人云何為栰所作能有益耶？彼人作是念：『今我此栰多有所益，乘此栰已，令我安隱，從彼岸來，度至此岸。我今寧可更以此栰還著水中，或著岸邊而捨去耶？』彼人便以此栰還著水中，或著岸邊捨之而去。於意云何？彼作如是，為栰所作能有益耶？」

> 世尊がおっしゃいました。「あの人は、どのようにして筏としての役割を果たし、利益を得たのでしょうか。その人はこう考えました。『今、この筏は私にとって大きな利益をもたらしてくれた。この筏に乗ったおかげで、私は安らかに向こう岸からこの岸へ渡ってくることができた。では、今度はこの筏を再び水の中に戻そうか、あるいは岸辺に置き去りにするべきだろうか？』そして、その人は実際にその筏を水の中に戻すか、岸辺に置き去りにして去っていきました。あなた方はどう思いますか？そのようにしたことで、彼は筏としての役割を果たし、利益を得たことになるでしょうか？」

時，諸比丘答曰：「益也。」

> そのとき、比丘たちは答えて言った。「はい、その通りです。」

世尊告曰：「如是。我為汝等長夜說栰喻法，欲令棄捨，不欲令受。若汝等知我長夜說栰喻法者，當以捨是法，況非法耶？

> 世尊はおっしゃいました。「その通りです。私はあなたたちのために、長い間、筏（いかだ）のたとえを使って教えを説いてきました。それは、執着せずに手放すように教えるためであり、受け入れ続けるためではありません。もしあなたたちが、私が長い間説いてきたこの筏のたとえの教えを理解するなら、正しい教えでさえも手放すべきなのです。ましてや、間違った教えはなおさらのことです。」

「復次，有六見處。云何為六？比丘者，所有色，過去、未來、現在，或內或外，或精或麤，或妙或不妙，或近或遠，彼一切非我有，我非彼有，亦非是神，如是慧觀，知其如真。所有覺、所有想、所有此見非我有，我非彼有，我當無，我當不有，彼一切非我有，我非彼有，亦非是神，如是慧觀，知其如真。所有此見，若見聞識知，所得所觀，意所思念，從此世至彼世，從彼世至此世，彼一切非我有，我非彼有，亦非是神，如是慧觀，知其如真。所有此見，此是神，此是世，此是我，我當後世有，常不變易，恒不磨滅法，彼一切非我有，我非彼有，亦非是神，如是慧觀，知其如真。」

> さらに、見るべき場所が六つある。その六つとは何か。比丘よ、あらゆる色（かたちあるもの）について——過去・未来・現在のもの、内なるもの・外なるもの、粗いもの・細かなもの、優れたもの・劣ったもの、遠くのもの・近くのもの——それら全ては、「私のもの」ではない。私はそれらのものではない。それらは神（永遠の実体）でもない。このように智慧をもって観察し、あるがままに知るべきである。 あらゆる感受（感覚）・あらゆる想念（イメージ）・あらゆる「見解」（執着した考え）について——それらは「私のもの」ではない。私はそれらではない。私は無くなるだろう、私は存在しなくなるだろう——それら全ては、「私のもの」ではない。私はそれらのものではない。それらは神でもない。このように智慧をもって観察し、あるがままに知るべきである。 あらゆる「見解」について——見ること・聞くこと・識別すること・知ることによって得られたもの、観察されたもの、心によって思い巡らされたもの、この世からあの世へ、あの世からこの世へと至るもの——それら全ては、「私のもの」ではない。私はそれらのものではない。それらは神でもない。このように智慧をもって観察し、あるがままに知るべきである。 あらゆる「見解」について——「これが神である」「これが世界である」「これが私である」「私は来世においても存在し、永遠に変わらず、滅びることのない法（性質）である」という考え——それら全ては、「私のもの」ではない。私はそれらのものではない。それらは神でもない。このように智慧をもって観察し、あるがままに知るべきである。

於是，有一比丘從坐而起，偏袒著衣，叉手向佛，白曰：「世尊！頗有因內有恐怖耶？」

> そこで、一人の比丘が座から立ち上がり、衣を片方の肩にかけ、合掌して仏に向かい、申し上げました。「世尊よ、内に恐怖の原因があるのでしょうか？」

世尊答曰：「有也。」

> 世尊はお答えになりました。「あります。」

比丘復問曰：「世尊！云何因內有恐怖耶？」

> 比丘が再び尋ねました。「世尊（お釈迦様）、どのような理由で心の内に恐怖が生じるのでしょうか？」

世尊答曰：「比丘者，如是見、如是說，彼或昔時無，設有我不得。彼如是見、如是說，憂慼煩勞，啼哭椎胸而發狂癡。比丘！如是因內有恐怖也。」

> 釈尊がお答えになりました。「比丘たちよ、そのように見て、そのように語り、『過去には無かったものが、仮にあったとしても私はそれを得られなかった。』と見て、そのように語ると、憂い悲しみ、煩い苦しみ、涙を流し、胸を叩いて狂い痴れてしまう。比丘たちよ、このようにして内に恐怖が生じるのである。」

比丘歎世尊已，復問曰：「世尊！頗有因內無恐怖也。」

> 比丘が世尊を讃えた後、再び尋ねました。「世尊よ、内側に何の恐れもないという状態があるのでしょうか。」

世尊答曰：「有也。」

> 世尊はお答えになりました。「あります。」

比丘復問曰：「世尊！云何因內無恐怖也？」

> 比丘がまた尋ねました。「世尊よ、どのようにして心の内に恐怖がなくなるのでしょうか？」

世尊答曰：「比丘者，不如是見、不如是說，彼或昔時無，設有我不得。彼不如是見、不如是說，不憂慼，不煩勞，不啼哭，不椎胸，不發狂癡。比丘！如是因內無恐怖也。」

> 世尊がお答えになりました。「比丘よ、そのように見ず、そのように説かず、あるいは過去に存在しなかったとしても、『私は得られない』とは思わない。そのように見ず、そのように説かなければ、憂えず、悩まず、泣かず、胸を打たず、狂わない。比丘よ、このようにして内に恐怖はないのである。」

比丘歎世尊已，復問曰：「世尊！頗有因外有恐怖也？」

> 比丘は世尊を称えてから、さらに尋ねました。「世尊よ、外界に基づく恐怖というものはあるのでしょうか。」

世尊答曰：「有也。」

> 世尊はお答えになりました。「あります。」

比丘復問曰：「世尊！云何因外有恐怖也？」

> 比丘がさらに尋ねました。「世尊よ、どのような理由で外に恐怖があるのでしょうか？」

世尊答曰：「比丘者，如是見、如是說，此是神，此是世，此是我，我當後世有。彼如是見、如是說，或遇如來，或遇如來弟子，聰明智慧而善言語，成就智慧。彼或如來，或如來弟子，滅一切自身故說法，捨離一切漏、一切我、我所作，滅慢使故說法，彼或如來，或如來弟子，滅一切自身故說法，捨離一切漏、一切我、我所作，滅慢使故說法時，憂慼煩勞，啼哭椎胸而發狂癡，如是說，我斷壞不復有。所以者何？彼比丘所謂長夜不可愛、不可樂、不可意念，比丘多行彼便憂慼煩勞，啼哭椎胸而發狂癡。比丘！如是因外有恐怖也。」

> 世尊がお答えになりました。「比丘たちよ、次のように見て、次のように語る者がいる。『これが霊魂であり、これが世界であり、これが我である。我は来世においても存在する』と。 そのように見て、そのように語る者が、あるとき如来に出会い、あるいは如来の弟子に出会う。彼らは聡明で智慧があり、言葉に優れ、智慧を成就している。 その如来、あるいは如来の弟子が、あらゆる自己の執着を滅ぼすために法を説き、あらゆる煩悩や我、我が為したことを捨て去るように教え、慢心の煩悩を滅ぼすために法を説く。 そのとき、その者は憂い苦しみ、嘆き悲しみ、胸を叩いて狂乱し、こう言う。『私は断滅して、もはや存在しなくなる』と。 なぜか。その比丘は、長い間、愛しくなく、楽しくなく、意に適わないもの（身体や自我への執着）に慣れ親しんできたからである。その執着を多く行じてきたため、憂い苦しみ、嘆き悲しみ、胸を叩いて狂乱するのである。 比丘たちよ、このようにして、外的な要素によって恐怖が生じるのである。」

比丘歎世尊已，復問曰：「世尊！頗有因外無恐怖耶？」

> 比丘が世尊を称賛した後、さらに質問しました。「世尊よ、外的なものに依存せずに恐怖のない状態というものはあるのでしょうか？」

世尊答曰：「有也。」

> 世尊はお答えになりました。「あります。」

比丘復問曰：「世尊！云何因外無恐怖耶？」

> 比丘がまた尋ねました。「世尊（お釈迦様）、どのようにすれば、外に恐怖を感じることがなくなりますか？」

世尊答曰：「比丘者，不如是見、不如是說，此是神，此是世，此是我，我當後世有。彼不如是見、不如是說，或遇如來，或遇如來弟子，聰明智慧而善言語，成就智慧。彼或如來，或如來弟子，滅一切自身故說法，捨離一切漏、一切我、我所作，滅慢使故說法，彼或如來，或如來弟子，滅一切自身故說法，捨離一切漏、一切我、我所作，滅慢使故說法時，不憂慼，不煩勞，不啼哭，不椎胸，不發狂癡，不如是說，我斷壞不復有。所以者何？彼比丘所謂長夜可愛、可樂、可意念，比丘多行彼便不憂慼，不煩勞，不啼哭，不椎胸，不發狂癡，比丘！如是因外無恐怖也。」

> 世尊がこう答えられた。「比丘たちよ、そのように見たり、そのように説いたりしてはならない。『これが我であり、これが世界であり、これが自己である。私は来世においても存在する』と。そのような見解や説き方を持たない者が、あるいは如来に出会い、あるいは如来の弟子に出会うことがある。彼らは聡明で智慧があり、巧みに語り、智慧を成就している。その如来や如来の弟子は、あらゆる自己のあり方を滅ぼすために法を説き、あらゆる煩悩や自己、自己に由来するものを捨て去り、慢心という束縛を滅ぼすために法を説く。そのとき、彼らは憂えず、苦しまず、泣かず、胸を打たず、狂乱に陥らず、『私は断ち滅びて、もはや存在しない』などとは決して言わない。なぜか。比丘よ、その比丘が長い間愛し、楽しみ、心に留めて執着してきたものに、多くを費やしてきたなら、彼は憂えず、苦しまず、泣かず、胸を打たず、狂乱に陥らないからである。比丘よ、このようにして、外的なものに対する恐怖は存在しないのである。」

爾時，比丘歎世尊曰：「善哉！善哉！」歎善哉已，聞佛所說，善受持誦，則便默然。

> その時、比丘たちは世尊を讃えて「善きかな、善きかな」と言いました。そして、そのように讃えた後、仏の説法を聞き、よく受け止めて暗誦し、静かに黙りました。

於是，世尊歎諸比丘曰：「善哉！善哉！比丘受如是所可受，受已，不生憂慼，不煩勞，不啼哭，不椎胸，不發狂癡。汝等見所受所可受，不生憂慼，不煩勞，不啼哭，不椎胸，不發狂癡耶？」

> そこで、世尊は比丘たちにこう言われました。「善きかな、善きかな。比丘たちよ、あなたがたは、受けるべきものをそのまま受け、それによって憂いや苦しみ、嘆きや胸を打つこと、狂おしい思いを生じさせませんでした。あなたがたは、受けるべきものを見て、憂いや苦しみ、嘆き、胸を打つこと、狂おしい思いを生じさせなかったのですね？」

比丘答曰：「不也。世尊！」

> 比丘がお答えしました。「いいえ、世尊（お方）。」

世尊歎曰：「善哉！善哉！汝等依如是見所可依，見已，不生憂慼，不煩勞，不啼哭，不椎胸，不發狂癡。汝等見依如是見所可依，見已，不生憂慼，不煩勞，不啼哭，不椎胸，不發狂癡耶？」

> 世尊は称賛しておっしゃいました。「よい、よい。あなたがたは、そのような見解に基づいて、よりどころとすべきものを見出し、それを見た後、憂い悲しむことなく、煩わされることなく、泣き叫ぶことなく、胸を叩くことなく、狂乱に陥ることもないのですね。あなたがたは、そのような見解に基づいて、よりどころとすべきものを見出し、それを見た後、憂い悲しむことなく、煩わされることなく、泣き叫ぶことなく、胸を叩くことなく、狂乱に陥ることもないのですね？」

比丘答曰：「不也。世尊！」

> 比丘がお答えしました。「いいえ、世尊（お方）。」

世尊歎曰：「善哉！善哉！汝等受如是身，所有身常住不變易、不磨滅法。汝等見受如是身所可受身已，常住不變易、不磨滅法耶？」

> 世尊はお褒めになりました。「善いかな、善いかな。あなたがたはこのような身を受けているが、この身には常住で変わらず、滅びることのない法があるのだ。あなたがたは、このような身を受け、その受けるべき身がすでに常住で変わらず、滅びることのない法であると理解しているだろうか？」

比丘答曰：「不也。世尊！」

> 比丘がお答えしました。「いいえ、世尊（お方）。」

世尊歎曰：「善哉！善哉！所謂因神故有我，無神見無我，是為神、神所有，不可得、不可施設，及心中有見處、結著、諸使亦不可得，不可施設。比丘！非為具足說見及見所相續，猶如阿梨吒比丘本為伽陀婆利耶？」

> 世尊は称賛しておっしゃいました。「善い哉、善い哉。まさに『神（我）があるから自我があるのであり、神（我）がなければ自我を見ない』という。これがすなわち、神（我）と神（我）に属するものは、得られることもなく、仮に設定することもできない、という意味である。また、心の中にある見解の場所、束縛、煩悩の働きもまた、得られることもなく、仮に設定することもできない。比丘よ、これは見解と見解が連続する様子を完全に説いたものではない。あたかもアリッタ比丘がもともとガタバリヤ（伽陀婆利耶）であったように。」

比丘答曰：「如是。世尊！為具足說見及見所相續，猶如阿梨吒比丘本為伽陀婆梨。」

> 比丘が答えた。「その通りです、世尊。私どものために、見解と見解に続いて生じるものを完全にお説きください。あたかもアリッタ比車が以前、ガータバーリについて語ったように。」

「復次，有六見處。云何為六？比丘者，所有色，過去、未來、現在，或內或外，或精或麤，或妙或不妙，或近或遠，彼一切非我有，我非彼有，亦非是神。如是慧觀，知其如真。所有覺行、有想、所有此見，非我有，我非彼有，彼當無我，當不有，彼一切非我有，我非彼有，亦非是神。如是慧觀，知其如真。所有此見，若見聞識知，所得所觀，意所思念，從此世至彼世，從彼世至此世，彼一切非我有，我非彼有，亦非是神。如是慧觀，知其如真。所有此見，此是神，此是世，此是我，我當後世有，常不變易，恒不磨滅法，彼一切非我有，我非彼有，亦非是神。如是慧觀，知其如真。

> さらに、六つの観察すべき対象（六見処）がある。その六つとは何か。比丘（修行者）よ、あらゆる色かたちについて——過去・未来・現在のもの、内なるものか外なるものか、粗いものか細かいものか、優れたものか劣ったものか、遠いものか近いものか——それらのすべては、「私のもの」ではない。「私」がそれらのものではない。それらは永遠の魂（神）でもない。このように智慧で観察し、あるがままに知る。あらゆる感受作用・表象作用・認識作用についても、そのすべては「私のもの」ではない。「私」がそれらではない。それらには我（永遠の実体）はなく、ついには存在しない。それらのすべては「私のもの」ではない。「私」がそれらではない。永遠の魂でもない。このように智慧で観察し、あるがままに知る。また、このような見解——すなわち、見ること・聞くこと・識別すること・知ることによって得られたもの、観察されたもの、心が思量したもの、この世からあの世へ、あの世からこの世へと至る一切——そのすべては「私のもの」ではない。「私」がそれらではない。永遠の魂でもない。このように智慧で観察し、あるがままに知る。さらに、このような見解——「これが永遠の魂である」「これが世界である」「これが我（真我）である」「私は来世においても存在し、常に変わらず、永遠に滅びない法である」という考えについても、そのすべては「私のもの」ではない。「私」がそれらではない。永遠の魂でもない。このように智慧で観察し、あるがままに知る。

「所有比丘，此六見處不見是神，亦不見神所有，彼如是不見已，便不受此世，不受此世已，便無恐怖，因不恐怖已，便得般涅槃，生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。是謂比丘度壍、過壍、破墎、無門、聖智慧鏡。云何比丘度壍耶？無明壍已盡已知，拔絕根本，打破不復當生，如是比丘得度壍也。云何比丘過壍耶？有愛已盡已知，拔絕根本，打破不復當生，如是比丘得過壍也。云何比丘破墎耶？無窮生死已盡已知，拔絕根本，打破不復當生，如是比丘得破墎也。云何比丘無門耶？五下分結已盡已知，拔絕根本，打破不復當生，如是比丘得無門也。云何比丘聖智慧鏡？我慢已盡已知，拔絕根本，打破不復當生，如是比丘聖智慧鏡。是謂比丘度壍、過壍、破墎、無門、聖智慧鏡。

> 「比丘たちよ、この六つの認識の拠点について、これを我（アートマン）と見ず、また我の所有とも見ない。そのように見ると、この世に執着しなくなり、執着がなくなると恐怖がなくなり、恐怖がないゆえに完全なる涅槃（ニルヴァーナ）に至る。すなわち、生は尽き、清らかな行いは完成し、なすべきことは成し遂げられ、もはや迷いの生存を受けることはないと、如实に知るのである。 これこそが、比丘が堀を越え、塁を越え、城壁を破り、門をなくし、聖なる智慧の鏡を得た状態である。 比丘が堀を越えるとはどういうことか。無明（むみょう）の堀を完全に滅ぼし知り、根から断ち切り、打ち砕いて再び生じないようにする。これが比丘の堀を越えることである。 比丘が塁を越えるとはどういうことか。生存への執着（渇愛）を完全に滅ぼし知り、根から断ち切り、打ち砕いて再び生じないようにする。これが比丘の塁を越えることである。 比丘が城壁を破るとはどういうことか。果てしない生死の輪廻を完全に滅ぼし知り、根から断ち切り、打ち砕いて再び生じないようにする。これが比丘の城壁を破ることである。 比丘が門をなくすとはどういうことか。五つの下（した）の束縛（五下分結）を完全に滅ぼし知り、根から断ち切り、打ち砕いて再び生じないようにする。これが比丘の門をなくすことである。 比丘の聖なる智慧の鏡とはどういうことか。我執（慢）を完全に滅ぼし知り、根から断ち切り、打ち砕いて再び生じないようにする。これが比丘の聖なる智慧の鏡である。 これらこそが、比丘が堀を越え、塁を越え、城壁を破り、門をなくし、聖なる智慧の鏡を得た状態であると知るべきである。」

「如是正解脫如來，有因提羅及天伊沙那，有梵及眷屬，彼求不能得如來所依識，如來是梵，如來是冷，如來不煩熱，如來是不異。我如是說：『諸沙門、梵志誣謗我，虛妄言、不真實，沙門瞿曇御無所施設，彼實有眾生，施設斷滅壞，若此中無我不說，彼如來於現法中說無憂。若有他人罵詈如來，撾打如來，瞋恚責數者，如來因彼處不瞋恚、不憎嫉，終無害心。』若人罵詈如來，撾打、瞋恚責數時，如來意云何？如來作是念：『若我本所作、本所造者，因彼致此。』言然罵詈如來，撾打、瞋恚責數者，如來作是意。若有他人恭敬如來，供養禮事尊重者，如來因此不以為悅，不以為歡喜，心不以為樂。若他人恭敬如來，供養禮事尊重者，如來意云何？如來作是念：『若我今所知所斷，因彼致此。』若有他人恭敬如來，供養禮事尊重者，如來作是意。」

> まさにこのように正しく解脱した如来には、因提羅や天伊沙那、梵天とその眷属たちがいても、如来のよりどころとする識（認識）を求めることはできない。如来は梵天であり、如来は清涼であり、如来は煩わしい熱に悩まされず、如来は変わることのないものである。私はこう説く。『諸々の修行者やバラモンたちが私を誹謗し、虚偽の言葉で、真実ではないことを言い、「沙門ゴータマは何も施さない」と非難する。彼らは実に衆生が存在すると考え、それが断滅し壊れてしまうことを説く。しかし、ここに「我」がないと説くことがないならば、その如来は現世において憂いのないことを説くのである。』 たとえ他の人が如来を罵り、殴打し、怒り責め立てても、如来はその故に怒りも憎しみも持たず、決して害する心を起こさない。もし人が如来を罵り、殴打し、怒り責め立てる時、如来の心はどうであろうか。如来はこう思う。『私が過去に行い、造ったことにより、その故にこれを受けるのだ。』と。そのように、如来を罵り、殴打し、怒り責める者に対して、如来はそのような心を持つのである。 また、他の人が如来を敬い、供養し、礼拝し、尊重しても、如来はその故に喜びもせず、嬉しくも思わず、心から楽しいとも思わない。もし他の人が如来を敬い、供養し、礼拝し、尊重する時、如来の心はどうであろうか。如来はこう思う。『私が今、知り、断ち切ったことにより、その故にこれを受けるのだ。』と。他の人が如来を敬い、供養し、礼拝し、尊重する時、如来はそのような心を持つのである。

於是，世尊告諸比丘：「若有他人罵詈汝等，撾打、瞋恚責數者，若有恭敬供養、禮事尊重者，汝等因此亦當莫瞋恚憎嫉，莫起害心，亦莫歡悅歡喜，亦莫心樂。所以者何？我等無神、無神所有，猶如今此勝林門外燥草枯木，或有他人持去火燒，隨意所用，於意云何？彼燥草枯木頗作是念：『他人持我去火燒，隨意所用耶？』」

> そこで、世尊は比丘たちに告げられた。 「もし他の者がお前たちを罵ったり、打ったり、怒りの言葉を浴びせたりしても、また、もし他の者がお前たちを敬い、供養し、礼拝し、尊重しても、お前たちはそのことで怒ったり、憎んだり、害心を起こしてはならない。また、喜んだり、楽しんだり、心を弾ませてもならない。なぜならば、私たちには永遠の自我（神）も、自我に属するものもないからである。ちょうど今、この勝林の門の外にある乾いた草や枯れ木のように、誰かがそれを取り去って火に焼き、思いのままに使うかもしれない。お前たちはどう思うか。その乾いた草や枯れ木は、『誰かが私を取り去って火に焼き、思いのままに使う』などと考えるだろうか。」

諸比丘答曰：「不也。世尊！」

> 比丘たちは答えた。「いいえ、世尊（お釈迦さま）」。

「如是，若有他人罵詈汝等，撾打、瞋恚責數者，若有恭敬供養、禮事尊重者，汝因此亦當莫瞋恚憎嫉，莫起害心，亦莫歡悅歡喜，亦莫心樂。所以者何？我等無神、無神所有，有我法善說，發露廣布，無有空缺，流布宣傳，乃至天人。如是我法善說，發露廣布，無有空缺，流布宣傳，乃至天人。若正智慧解脫命終者，彼不施設有無窮，我法善說，發露廣布，無有空缺，流布宣傳，乃至天人。如是我法善說，發露廣布，無有空缺，流布宣傳，乃至天人。若有五下分結盡而命終者，生於彼間，便般涅槃，得不退法，不還此世。我法善說，發露廣布，無有空缺，流布宣傳，乃至天人。如是我法善說，發露廣布，無有空缺，流布宣傳，乃至天人。彼三結已盡，婬怒癡薄，得一往來天上人間，一往來已，便得苦邊。我法善說，發露廣布，無有空缺，流布宣傳，乃至天人。如是我法善說，發露廣布，無有空缺，流布宣傳，乃至天人。彼三結已盡，得須陀洹，不墮惡法，定趣正覺，極七往來天上人間，七往來已，便得苦邊。我法善說，發露廣布，無有空缺，流布宣傳，乃至天人。如是我法善說，發露廣布，無有空缺，流布宣傳，乃至天人。若有信樂於我而命終者，皆生善處，如上有餘。」

> 「このように、たとえ他の人々があなたがたを罵り、打ち叩き、怒りをもって責め立てることがあっても、また恭しく供養し、礼をもって敬い尊ぶことがあっても、あなたがたはそれによって怒りや憎しみや嫉妬を起こしてはなりません。害心を起こしてはならず、また喜び楽しんだり、心から嬉しがったりしてもなりません。なぜなら、私たちには永遠の自己（我）も、自己に属するもの（我所有）もないからです。私の教えは善く説かれ、明らかに示され、広く宣布され、欠けるところがなく、天の世界や人間にまで流布されているのです。このように私の教えは善く説かれ、明らかに示され、広く宣布され、欠けるところがなく、天の世界や人間にまで流布されています。 もし正しい智慧によって解脱して命終した者は、彼に関して『無限である』とか『有限である』といった概念を立てることはできません。私の教えは善く説かれ、明らかに示され、広く宣布され、欠けるところがなく、天の世界や人間にまで流布されているのです。 もし五つの下位の束縛（五下分結）が尽きて命終した者は、その間に生まれ変わり、そこで完全な涅槃に入り、退転しない法を得て、この世に戻ってくることはありません。私の教えは善く説かれ、明らかに示され、広く宣布され、欠けるところがなく、天の世界や人間にまで流布されています。 もし三つの束縛（三結）が尽き、貪り・怒り・迷いが薄らいだ者は、一度だけ天界と人間界を往来し、その往来の後に苦しみの終わりに達します。私の教えは善く説かれ、明らかに示され、広く宣布され、欠けるところがなく、天の世界や人間にまで流布されています。 もし三つの束縛が尽きて預流（須陀洹）を得た者は、悪しき法に堕ちることなく、必ず正しい悟りに向かい、せいぜい七回だけ天界と人間界を往来し、その往来の後に苦しみの終わりに達します。私の教えは善く説かれ、明らかに示され、広く宣布され、欠けるところがなく、天の世界や人間にまで流布されています。 もし私に対して信仰と喜びをもって命終した者は、みな善いところに生まれます。以上のように、さらに余すところなく説かれています。」

佛說如是。彼諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。

> このように仏は説かれました。比丘たちは仏の説かれたことを聞き、喜んでお受け取りになりました。

阿梨吒經第九竟四千五百七十字

> 阿梨吒経 第九 終わり<note>四千五百七十字</note>