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title: "中阿含經 · 204 羅摩經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
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## 中阿含經卷第五十六

> 中阿含経 第五十六巻

東晉罽賓三藏瞿曇僧伽提婆譯

> 東晋・罽賓三蔵・瞿曇僧伽提婆 訳

### （二〇四）晡利多品羅摩經第三第五後誦

> （二〇四）プリヤット品 ラーマ経 第三<note>第五後誦</note>

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊舍衛國，在於東園鹿子母堂。

> ある時、仏様はシャーラヴァスティー（舎衛国）に滞在され、東の園にある「鹿子母堂」におられました。

爾時，世尊則於晡時從燕坐起，堂上來下，告尊者阿難：「我今共汝至阿夷羅婆提河浴。」

> その頃、世尊は夕方に静かな座り（瞑想）から起ち上がり、法堂から下りてこられ、尊者アーナンダに告げられました。「さあ、あなたと一緒にアキラヴァティー川へ沐浴に行こう。」

尊者阿難白曰：「唯然。」

> 尊者の阿難が申し上げた。「はい、そのとおりです。」

尊者阿難執持戶鑰，遍詣諸屋而彷徉，見諸比丘，便作是說：「諸賢！可共詣梵志羅摩家。」諸比丘聞已，便共往詣梵志羅摩家。世尊將尊者阿難往至阿夷羅婆提河，脫衣岸上，便入水浴，浴已還出，拭體著衣。

> 尊者アーナンダは、戸の鍵を手に取り、あちこちの部屋を訪ね歩きながら、比丘たちを見かけるとこう言いました。「皆さま、共に梵志（バラモン修行者）ラーマの家へ参りましょう。」その言葉を聞いた比丘たちは、共にラーマの家へと向かいました。 一方、世尊（ブッダ）は尊者アーナンダを連れてアヒラバティ河へと赴き、岸辺で衣を脱ぎ、川に入って沐浴されました。沐浴を終えて岸に上がり、体を拭き、衣をお着けになりました。

爾時，尊者阿難立世尊後，執扇扇佛。於是，尊者阿難叉手向佛，白曰：「世尊！梵志羅摩家極好整頓，甚可愛樂，唯願世尊以慈愍故，往至梵志羅摩家。」世尊為尊者阿難默然而受。於是世尊將尊者阿難往至梵志羅摩家。

> そのとき、尊者のアーナンダは世尊の後に立ち、扇子を持って仏を扇いでいた。 そこで尊者のアーナンダは両手を合わせて世尊に向かい、こう申し上げた。「世尊よ、バラモン・ラーマの家は非常によく整えられていて、たいへん心地よい場所でございます。どうか世尊様、慈しみの心をもって、バラモン・ラーマの家にお出ましくださいませ。」 世尊は尊者のアーナンダの願いを、黙ってお受け入れになった。 そこで世尊は尊者のアーナンダを連れて、バラモン・ラーマの家へと向かわれた。

爾時，梵志羅摩家，眾多比丘集坐說法，佛住門外，待諸比丘說法訖竟。眾多比丘尋說法訖，默然而住。世尊知已，謦欬敲門，諸比丘聞，即往開門，世尊便入梵志羅摩家，於比丘眾前敷座而坐，問曰：「諸比丘向說何等？以何事故集坐在此？」

> その時、ヴェーダ学者ラーマの家に多くの修行者たちが集まって座り、法について語っていました。仏陀は門の外で、彼らの説法が終わるのを待っていました。やがて修行者たちは説法を終え、静かに座っていました。世尊はそれを知り、軽く咳をして門を叩きました。修行者たちはその音を聞き、すぐに門を開けに行きました。世尊はヴェーダ学者ラーマの家に入り、修行者たちの前に座を設けて座り、尋ねました。「修行者たちよ、あなたがたは先ほど何について語っていたのですか？何のためにここに集まって座っていたのですか？」

時，諸比丘答曰：「世尊！向者說法，以此法事集坐在此。」

> その時、比丘たちは答えて言いました。「世尊よ、先ほど説法があり、その法事のためにここに集まって座っていました。」

世尊歎曰：「善哉！善哉！比丘集坐當行二事：一曰說法，二曰默然。所以者何？我亦為汝說法，諦聽，諦聽，善思念之。」

> 世尊はお褒めになりました。「善いかな、善いかな。比丘たちよ、集まって座るならば、二つのことを行うべきである。一つは法を説くこと、もう一つは沈黙することである。なぜならば、私もまたあなたがたに法を説くからである。よく聞け、よく聞け、そして善く思い念じなさい。」

時，諸比丘白曰：「唯然。當受教聽。」

> その時、比丘たちはお答えしました。「はい、謹んでお教えを承ります。」

佛言：「有二種求，一曰聖求，二曰非聖求。云何非聖求？有一實病法、求病法，實老法、死法、愁憂慼法，實穢污法、求穢污法。云何實病法求病法？云何病法耶？兒子、兄弟是病法也。象馬、牛羊、奴婢、錢財、珍寶、米穀是病害法，眾生於中觸染貪著，憍慠受入，不見災患，不見出要，而取用之。云何老法、死法、愁憂慼法，穢污法耶？兒子、兄弟是穢污法，象馬、牛羊、奴婢、錢財、珍寶、米穀是穢法害法，眾生於中染觸貪著，憍慠受入，不見災患，不見出要，而取用之。彼人欲求無病無上安隱涅槃，得無病無上安隱涅槃者，終無是處。求無老、無死、無愁憂慼，無穢污無上安隱涅槃，得無老、無死、無愁憂慼、無穢污無上安隱涅槃者，終無是處。是謂非聖求。

> 仏は言われた。「求めることには二種類ある。一つは聖なる求め、二つ目は聖ならざる求めである。では、聖ならざる求めとは何か。実際に病であるものを求め、実際に老い、死、憂い、苦しみであるものを求め、実際に汚れであるものを求めることである。実際に病であるものを求めるとはどういうことか。何が病であるのか。子や兄弟は病である。象、馬、牛、羊、奴婢、財貨、珍宝、穀物は病のもとであり害である。人々はそれらに触れ染まり執着し、驕り傲り受け入れ、その災いを見ず、そこから出る道を見ずに、これを取って用いるのである。老い、死、憂い、苦しみ、汚れとは何か。子や兄弟は汚れであり、象、馬、牛、羊、奴婢、財貨、珍宝、穀物は汚れのもとであり害である。人々はそれらに染まり触れ執着し、驕り傲り受け入れ、その災いを見ず、そこから出る道を見ずに、これを取って用いるのである。そのような人が、病なく、最も安らかな涅槃を望み、それを得ようとしても、決して叶うことはない。老いなく、死なく、憂い苦しみなく、汚れなく、最も安らかな涅槃を望み、それを得ようとしても、決して叶うことはない。これが聖ならざる求めである。」

「云何聖求耶？有一作是念：『我自實病法，無辜求病法，我自實老法、死法，愁憂慼法，穢污法，無辜求穢污法。我今寧可求無病無上安隱涅槃，求無老、無死，無愁憂慼，無穢污法無上安隱涅槃。』彼人便求無病無上安隱涅槃，得無病無上安隱涅槃者，必有是處。求無老、無死，無愁憂慼，無穢污無上安隱涅槃，得無老、無死，無愁憂慼，無穢污無上安隱涅槃者，必有是處。

> 「では、聖なる求めとは何か。ある人がこう考える。『私は自らが病の性質を持っているのに、理由もなく病の性質を持つものを求めている。私は自らが老い、死、憂い、汚れの性質を持っているのに、理由もなくそれらの性質を持つものを求めている。今こそ私は、病のない、最高に安らかな涅槃（ねはん）を求めよう。老いも死も、憂いも汚れもない、最高に安らかな涅槃を求めよう』と。そうしてその人は、病のない最高の安らぎを求め、それを得ることは確かに可能である。また、老いも死も、憂いも汚れもない涅槃を求め、それを得ることも確かに可能である。」

「我本未覺無上正盡覺時，亦如是念：『我自實病法，無辜求病法，我自實老法、死法，愁憂慼法，穢污法，無辜求穢污法，我今寧可求無病無上安隱涅槃，求無老、無死、無愁憂慼，無穢污無上安隱涅槃耶？』我時年少童子，清淨青髮，盛年年二十九，爾時極多樂戲，莊飾遊行。我於爾時，父母啼哭，諸親不樂，我剃除鬚髮，著袈裟衣，至信、捨家、無家、學道，護身命清淨，護口、意命清淨。我成就此戒身已，欲求無病無上安隱涅槃，無老、無死、無愁憂慼，無穢污無上安隱涅槃故，便往阿羅羅伽羅摩所，問曰：『阿羅羅！我欲於汝法行梵行，為可爾不？』阿羅羅答我曰：『賢者！我無不可，汝欲行便行。』我復問曰：『阿羅羅！云何汝此法自知自覺自作證耶？』阿羅羅答我曰：『賢者！我度一切識處，得無所有處成就遊。是故我法自知自覺自作證。』

> 私自身、かつて無上の正しい悟りを完全に得ていなかった時も、次のように考えました。『私は本来、病という性質を持つ者であるのに、無意味にも病を求めている。私は本来、老い、死、憂い、汚れという性質を持つ者であるのに、無意味にもそれらを求めている。今こそ、病のない、最高の安らぎである涅槃を求めよう。老いも死も憂いも汚れもない、最高の安らぎである涅槃を求めよう。』と。 その時、私はまだ若く、清らかな黒髪の、満二十九歳の青年でした。当時は遊びや楽しみを極めて好み、着飾って遊び歩いていました。そこで、両親が泣き、親族たちが悲しむ中、私は髪とひげを剃り、袈裟衣をまとい、清らかな信仰心から家を捨てて無一物の修行者の道に入りました。身体を清らかに保ち、言葉と心の命を清らかに保つよう努めました。こうした戒律の身を完成させた私は、病のない最高の安らぎである涅槃、老いも死も憂いも汚れもない最高の安らぎである涅槃を求めて、アーラーラ・カーラーマのもとへ赴き、尋ねました。「アーラーラよ、私はあなたの教えのもとで清らかな修行をしたいのですが、よろしいでしょうか？」 アーラーラは私に答えました。「賢者よ、私はそれを妨げません。あなたが修行したいのなら、どうぞなさい。」 私はさらに尋ねました。「アーラーラよ、あなたのこの教えは、どのように自ら覚り、自ら理解し、自ら体得されたのですか？」 アーラーラは私に答えました。「賢者よ、私はあらゆる認識の領域を超え、無所有処（何ものもない境地）に達して安住しています。このように、私の教えは自ら覚り、自ら理解し、自ら体得したものなのです。」

「我復作是念：『不但阿羅羅獨有此信，我亦有此信，不但阿羅羅獨有此精進，我亦有此精進，不但阿羅羅獨有此慧，我亦有此慧。阿羅羅於此法自知自覺自作證。』我欲證此法故，便獨住遠離、空安靖處，心無放逸，修行精勤。我獨住遠離、空安靖處，心無放逸，修行精勤已，不久得證彼法。證彼法已，復往詣阿羅羅加羅摩所，問曰：『阿羅羅！此法自知自覺自作證，謂度一切無量識處，得無所有處成就遊耶？』阿羅羅伽羅摩答我曰：『賢者！我是法自知自覺自作證，謂度無量識處，得無所有處成就遊。』阿羅羅伽羅摩復語我曰：『賢者！是為如我此法作證，汝亦然，如汝此法作證，我亦然。賢者！汝來共領此眾。』是為阿羅羅伽羅摩師處，我與同等，最上恭敬、最上供養、最上歡喜。

> 私はこう考えました。「アーラーラ・カーラーマだけがこの信を持っているわけではない。私にもこの信がある。アーラーラ・カーラーマだけがこの精進を持っているわけではない。私にもこの精進がある。アーラーラ・カーラーマだけがこの智慧を持っているわけではない。私にもこの智慧がある。アーラーラ・カーラーマは、この法を自ら知り、自ら悟り、自ら体得したのだ。」 私はこの法を体得しようと思い、一人で離れた静かな場所に身を置き、心を散らさず、精進して修行に励みました。そうして間もなく、その法を体得しました。 その法を体得した後、再びアーラーラ・カーラーマのところへ行き、尋ねました。「アーラーラよ。あなたは、あらゆる無量識処を超えて、無所有処に達し、そこに安住するという法を、自ら知り、自ら悟り、自ら体得なさったのですか？」 アーラーラ・カーラーマは私に答えました。「賢者よ。私はまさに、無量識処を超えて無所有処に達し、そこに安住するという法を、自ら知り、自ら悟り、自ら体得しました。」 さらにアーラーラ・カーラーマは私に言いました。「賢者よ。私がこの法を体得したのと同じように、あなたも体得した。あなたがこの法を体得したのと同じように、私も体得した。賢者よ。さあ、私とともにこの教団を治めなさい。」 このようにして、師であるアーラーラ・カーラーマのもとで、私は彼と同等と認められ、最高の敬意、最高の供養、最高の喜びを受けました。

「我復作是念：『此法不趣智，不趣覺，不趣涅槃，我今寧可捨此法，更求無病無上安隱涅槃，求無老、無死、無愁憂慼、無穢污無上安隱涅槃。』我即捨此法，便求無病無上安隱涅槃，求無老、無死、無愁憂慼、無穢污無上安隱涅槃已，往詣欝陀羅羅摩子所，問曰：『欝陀羅！我欲於汝法中學，為可爾不？』欝陀羅羅摩子答我曰：『賢者！我無不可，汝欲學便學。』我復問曰：『欝陀羅！汝羅摩子，自知自覺自作證何等法耶？』欝陀羅羅摩子答我曰：『賢者！度一切無所有處，得非有想非無想處成就遊。賢者！我父羅摩自知自覺自作證，謂此法也。』」

> 私はこう思いました。「この教えは、智慧へと向かわず、覚りへと向かわず、涅槃へと向かわない。ならば私はこの教えを捨てて、病のない、最高の安らぎである涅槃を求めよう。老いもなく、死もなく、憂い悲しみもなく、汚れのない、最高の安らぎである涅槃を求めよう。」そうして私はその教えを捨て、病のない、最高の安らぎである涅槃を求めました。老いもなく、死もなく、憂い悲しみもなく、汚れのない、最高の安らぎである涅槃を求めて、ウッダカ・ラーマプッタのもとへ行き、尋ねました。「ウッダカよ、私はあなたの教えを学びたいのですが、よろしいでしょうか？」ウッダカ・ラーマプッタは私にこう答えました。「賢者よ、私は構いません。学びたいのなら、学びなさい。」私はさらに尋ねました。「ウッダカよ、あなたの父ラーマは、自ら知り、自ら覚り、自ら体得した、どのような教えなのでしょうか？」ウッダカ・ラーマプッタは私にこう答えました。「賢者よ、一切の無所有処を超えて、非想非非想処を成就して安住することです。賢者よ、私の父ラーマが自ら知り、自ら覚り、自ら体得したのは、この教えなのです。」

「我復作是念：『不但羅摩獨有此信，我亦有此信。不但羅摩獨有此精進，我亦有此精進。不但羅摩獨有此慧，我亦有此慧。羅摩自知自覺自作證此法，我何故不得自知自覺自作證此法耶？』我欲證此法故，便獨住遠離、空安靖處，心無放逸，修行精勤。我獨住遠離、空安靖處，心無放逸，修行精勤已，不久得證彼法。證彼法已，復往欝陀羅羅摩子所，問曰：『欝陀羅！汝父羅摩，是法自知自覺自作證，謂度一切無所有處，得非有想非無想處成就遊耶？』欝陀羅羅摩子答我曰：『賢者！我父羅摩，是法自知自覺自作證，謂度一切無所有處，得非有想非無想處成就遊。』欝陀羅復語我曰：『如我父羅摩此法作證，汝亦然，如汝此法作證，我父亦然。賢者！汝來共領此眾。』欝陀羅羅摩子同師處，我亦如師，最上恭敬、最上供養、最上歡喜。

> このように私は考えました。「羅摩だけにこの信があるのではない。私にもこの信がある。羅摩だけにこの精進があるのではない。私にもこの精進がある。羅摩だけにこの慧があるのではない。私にもこの慧がある。羅摩は自ら知り、自ら覚り、自ら証してこの法を得た。それならば、なぜ私は自ら知り、自ら覚り、自ら証してこの法を得ることができないのか？」そこで私はこの法を証しようと志し、一人で遠く離れた静かな閑居の地に住み、心を放逸にせず、修行に励み精進した。そうして間もなく、その法を証することができた。その法を証した後、再び鬱陀羅羅摩子のところへ行き、こう尋ねた。「鬱陀羅よ。あなたの父君である羅摩は、この法を自ら知り、自ら覚り、自ら証し、『一切の無所有処を超えて、非有想非無想処に達し、そこに安住して遊ぶ』とされたというのは本当か？」すると鬱陀羅羅摩子が私に答えた。「尊者よ、私の父・羅摩は、まさにこの法を自ら知り、自ら覚り、自ら証し、『一切の無所有処を超えて、非有想非無想処に達し、そこに安住して遊ぶ』とされたのです。」そして鬱陀羅はさらに私に言った。「私の父・羅摩がこの法を証したように、あなたもまた同じです。あなたがこの法を証したように、私の父もまた同じです。尊者よ、どうかあなたも来て、この教団を共に治めてください。」こうして、私は鬱陀羅羅摩子と同じ師のもとで、最高の敬意と最高の供養と最高の歓喜を受けることとなった。（これは最も師として敬い、最も供養し、最も喜んだという意味である。）

「我復作是念：『此法不趣智，不趣覺，不趣涅槃，我今寧可捨此法，更求無病無上安隱涅槃，求無老、無死、無愁憂慼、無穢污無上安隱涅槃。』我即捨此法，便求無病無上安隱涅槃，求無老、無死、無愁憂慼、無穢污無上安隱涅槃已，往象頂山南，欝鞞羅梵志村，名曰斯那。於彼中地至可愛樂，山林欝茂，尼連禪河清流盈岸。我見彼已，便作是念：『此地至可愛樂，山林欝茂，尼連禪河清流盈岸，若族姓子欲有學者，可於中學，我亦當學，我今寧可於此中學。』即便持草往詣覺樹，到已布下敷尼師檀，結跏趺坐，要不解坐，至得漏盡，我便不解坐，至得漏盡。我求無病無上安隱涅槃，便得無病無上安隱涅槃。求無老、無死、無愁憂慼、無穢污無上安隱涅槃，便得無老、無死、無愁憂慼、無穢污無上安隱涅槃。生知生見，定道品法，生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。

> 「私はさらにこう考えました。『この修行方法では、真の智慧に至らず、悟りに至らず、涅槃に至らない。ならば私はこの方法を捨てて、病気のない、最高の安らぎである涅槃を求めよう。老いもなく、死もなく、憂いや悲しみもなく、汚れのない、最高の安らぎの涅槃を求めよう。』そこで私はこの方法を捨て、病気のない最高の安らぎの涅槃を求め、老いもなく、死もなく、憂いや悲しみもなく、汚れのない最高の安らぎの涅槃を求めて、象頭山の南、ウルヴェーラのバラモン村、セーナという場所へ向かいました。そこにはとても愛らしい土地があり、山や林は鬱蒼と茂り、ネーランジャナー川は清らかな流れで岸を満たしていました。それを見て、私はこう思いました。『この地はとても愛らしく、山や林は鬱蒼と茂り、ネーランジャナー川は清らかな流れで岸を満たしている。もし良家の子息で学びたいと思う者がいれば、ここで学ぶことができるだろう。私もここで学ぼう。今こそ、ここで学ぶことにしよう。』そしてすぐに草を取って菩提樹のもとへ行き、そこに到着すると草を敷いて坐布を置き、結跏趺坐して、『煩悩の滅尽に至るまで、この坐を解かない』と決意し、実際に煩悩の滅尽に至るまで坐を解きませんでした。こうして私は、病気のない最高の安らぎの涅槃を求め、病気のない最高の安らぎの涅槃を得ました。老いもなく、死もなく、憂いや悲しみもなく、汚れのない最高の安らぎの涅槃を求め、老いもなく、死もなく、憂いや悲しみもなく、汚れのない最高の安らぎの涅槃を得ました。生についての智慧と見解が生じ、聖なる道の修行法が確立され、迷いの生存は尽き、清らかな行いは完成し、なすべきことはすべて成し遂げられ、もはや再び迷いの世界に生まれることはないと、ありのままに知りました。」

「我初覺無上正盡覺已，便作是念：『我當為誰先說法耶？』我復作是念：『我今寧可為阿羅羅加摩先說法耶？』爾時有天，住虛空中，而語我曰：『大仙人！當知阿羅羅加摩彼命終來至今七日。』我亦自知阿羅羅加摩其命終來得今七日。我復作是念：『阿羅羅加摩！彼人長衰不聞此法，若聞此者，速知法次法。』

> 私は最初に（悟りを開き）無上の正しい覚りを完成した時、こう考えました。「いったい誰のために最初に教えを説くべきだろうか？」さらにこう考えました。「今、私はアーラーダ・カーラーマという人に最初に教えを説こうか。」するとその時、天人が虚空に立って、私にこう告げました。「大いなる仙人よ、アーラーダ・カーラーマは死んでから今日で七日になります。」私自身も、アーラーダ・カーラーマが死んでから今日で七日になることを知りました。そこで私はこう思いました。「アーラーダ・カーラーマは大きな損失を被った。この教えを聞くことができなかったのだ。もしこの教えを聞いたなら、すぐに法と、法に次ぐ法を理解したであろうに。」

「我初覺無上正盡覺已，作如是念：『我當為誰先說法耶？』我復作是念：『我今寧可為欝陀羅羅摩子先說法耶？』天復住空，而語我曰：『大仙人！當知欝陀羅羅摩子命終已來二七日也。』我亦自知欝陀羅羅摩子命終已來二七日也。我復作是念：『欝陀羅羅摩子！彼人長衰不聞此法，若聞法者，速知法次法。』

> 私は初めて無上の正しい悟りを完全に覚った時、このように思いました。『私は誰のために最初に説法すべきだろうか？』 さらにこう考えました。『私は今、ウッダカ・ラーマプトラ（鬱陀羅羅摩子）のために最初に説法すべきではないだろうか？』 すると天人が虚空に立ち止まって、私にこう告げました。『大仙人よ、知っておきなさい。ウッダカ・ラーマプトラは亡くなってからすでに十四日が経ちました。』 私自身も、ウッダカ・ラーマプトラが亡くなって十四日が経ったことを知っていました。 そこで私はこう思いました。『ウッダカ・ラーマプトラよ、その人は長く不運であり、この教えを聞くことができなかった。もしこの教えを聞いたなら、速やかに法の順序を理解したであろうに。』

「我初覺無上正盡覺已，作如是念：『我當為誰先說法耶？』我復作是念：『昔五比丘為我執勞，多所饒益，我苦行時，彼五比丘承事於我，我今寧可為五比丘先說法耶？』我復作是念：『昔五比丘今在何處？』我以清淨天眼出過於人，見五比丘在波羅㮈仙人住處鹿野園中，我隨住覺樹下，攝衣持鉢，往波羅㮈加尸都邑。爾時，異學優陀遙見我來，而語我曰：『賢者瞿曇！諸根清淨，形色極妙，面光照耀。賢者瞿曇！師為是誰？從誰學道？為信誰法？』我於爾時即為優陀說偈答曰：

> 私は初めて無上の正しい悟りを完全に得た後、こう思いました。『私は誰のために最初に説法すべきだろうか。』さらにこう考えました。『昔、五人の比丘たちが私に仕え、多くの利益をもたらしてくれた。私が苦行をしていた時、あの五人の比丘たちは私に仕えていた。今こそ、まず五人の比丘のために説法しよう。』さらに思いました。『昔の五人の比丘は、今どこにいるのだろうか。』私は清らかな天眼で人を超えて見通し、五人の比丘が波羅奈の仙人の住む鹿野苑にいるのを見ました。そこで私は菩提樹の下から衣を整え、鉢を持って、波羅奈のカシの都へと向かいました。その時、他教の修行者ウダカが遠くから私が来るのを見て、こう言いました。『尊きゴータマよ、あなたの諸根は清らかで、姿や色は非常に美しく、顔の光は輝いています。尊きゴータマよ、あなたの師は誰ですか。誰について道を学びましたか。誰の法を信じていますか。』私はその時、すぐにウダカに偈を説いて答えました。

「『我最上最勝， 不著一切法，諸愛盡解脫， 自覺誰稱師。無等無有勝， 自覺無上覺，如來天人師， 普知成就力。』

> 「私は最も優れ、最も勝れた者。 　あらゆるものに執着せず、 　すべての愛着を捨て去って、解脱した。 　自ら悟った者を、誰が師と呼べようか。 　比べる者なく、勝る者もない。 　自ら目覚めた、この上ない悟り。 　如来は天人の師であり、 　すべてを知り、力（智慧）を成就している。」

「優陀問我曰：『賢者瞿曇！自稱勝耶？』我復以偈而答彼曰：

> 優陀が私に尋ねました。「賢者ゴータマよ、あなたはご自身を勝者だとおっしゃるのですか？」私は再び詩をもって彼に答えました。

「『勝者如是有， 謂得諸漏盡，我害諸惡法， 優陀故我勝。』

> 「勝利者とは、このような者である── すなわち、全ての煩悩を尽くした者である。 私はあらゆる悪しきものを打ち破った。 その智慧によって、私は勝利したのだ。」

「優陀復問我曰：『賢者瞿曇！欲至何處？』我時以偈而答彼曰：

> 優陀が私に尋ねました。「賢者ゴータマよ、あなたはどこへ行こうとしているのですか？」 その時、私は偈で彼に答えました。

「『我至波羅㮈， 擊妙甘露鼓，轉無上法輪， 世所未曾轉。』

> 「私は波羅㮈（バラナシ）に至り、妙なる甘露の太鼓を打ち鳴らし、無上の法輪を転じる。これは世の中でまだ一度も転じられたことのないものである。」

「優陀語我曰：『賢者瞿曇！或可有是。』如是語已，即彼邪道經便還去，我自往至仙人住處鹿野園中。時，五比丘遙見我來，各相約勅而立制曰：『諸賢！當知此沙門瞿曇來，多欲多求，食妙飲食，好粳糧飯，及󰉓酥蜜，麻油塗體，今復來至，汝等但坐，慎莫起迎，亦莫作禮，豫留一座，莫請令坐。到已語曰：「卿！欲坐者，自隨所欲。」』我時往至五比丘所。時，五比丘於我不堪極妙威德，即從坐起，有持衣鉢者，有敷床者，有取水者，欲洗足者，我作是念：『此愚癡人！何無牢固？自立制度還違本要。』我知彼已，坐五比丘所敷之座。

> 優陀が私に言いました。「賢者ゴータマよ、そのようなこともあり得るでしょう。」そう言って、あの邪見の道を去って行きました。私は自ら仙人たちの住む鹿野園へ向かいました。その時、五人の比丘が遠くから私が来るのを見て、互いに約束して次のように決めました。「諸君よ、知っておけ。この沙門ゴータマが来る。彼は欲望が多く、食べ物を求め、上等な米飯や、酥、蜜、胡麻油を体に塗る。今またやって来るが、諸君はただ座っていて、決して立ち迎えてはならない。礼をしてはならない。前もって一つの座を用意しておき、座るように勧めてはならない。彼が来たら言うのだ。『君よ、座りたいなら、好きなように座りなさい。』」私は五人の比丘のところへ行きました。その時、五人の比丘は私の極めて優れた威徳に耐えられず、すぐに座を立ち、袈裟や鉢を持つ者、床を敷く者、水を取る者、足を洗おうとする者が出ました。私はこう思いました。「この愚か者どもよ！なんと確固たることのないことか。自ら立てた規則を、自ら破っている。」私は彼らの様子を知り、五人の比丘が敷いた座に座りました。

「時，五比丘呼我姓字，及卿於我。我語彼曰：『五比丘！我如來、無所著、正盡覺，汝等莫稱我本姓字，亦莫卿我。所以者何？我求無病無上安隱涅槃，得無病無上安隱涅槃。我求無老、無死、無愁憂慼、無穢污無上安隱涅槃，得無老、無死、無愁憂慼、無穢污無上安隱涅槃。生知生見，定道品法，生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。』彼語我曰：『卿瞿曇！本如是行，如是道跡，如是苦行，尚不能得人上法差降聖知聖見，況復今日多欲多求，食妙飲食，好粳糧飯，及󰉓酥蜜，麻油塗體耶？』我復語曰：『五比丘！汝等本時見我如是諸根清淨，光明照耀耶？』時，五比丘復答我曰：『本不見卿諸根清淨，光明照耀。卿瞿曇！今諸根清淨，形色極妙，面光照耀。』

> その時、五人の比丘が私を姓や「あなた」と呼んだ。 そこで私は彼らに言った。 「五人の比丘たちよ、私は如来、阿羅漢、正等覚者である。あなたがたは、私の元の姓名で呼んだり、『あなた』などと呼んではならない。 なぜなら、私は病のない、最高の安らぎである涅槃を求め、それを得たからである。 私は老いもなく、死もなく、憂いも悲しみも汚れもない、最高の安らぎである涅槃を求め、それを得たのである。 生に関する知と見が生じ、道の法が確立された。 すでに生は尽き、梵行は completed され、為すべきことは為し終え、もはや再び迷いの生存を受けることはないと、あるがままに知っている。」 すると彼らは私に言った。 「ゴータマよ、あなたはかつて、そのような修行、そのような道筋、そのような苦行をもってしても、人間を超えた法、聖なる知恵や聖なる見解を得ることができなかったのに、 ましてや今のように、多くの欲望や求めを持ち、美味しい食べ物や上等な米や粥、酥や蜂蜜や胡麻油を体に塗るという生活をしていて、どうしてそれが得られるだろうか？」 そこで私は再び言った。 「五人の比丘たちよ、あなたがたはかつて、私の諸根がこれほど清らかで、光明が輝いているのを見たことがあるか？」 すると、五人の比丘は再び私に答えた。 「かつては、あなたの諸根が清らかで、光明が輝いているのを見たことはありません。 ゴータマよ、今あなたは諸根が清らかで、姿形が非常に美しく、顔の光が輝いています。」

「我於爾時即告彼曰：『五比丘！當知有二邊行，諸為道者所不當學：一曰著欲樂下賤業，凡人所行；二曰自煩自苦，非賢聖求法，無義相應。五比丘！捨此二邊，有取中道，成明成智，成就於定，而得自在，趣智趣覺，趣於涅槃，謂八正道，正見乃至正定，是謂為八。』意欲隨順教五比丘，教化二人，三人乞食，三人持食來，足六人食；教化三人，二人乞食，二人持食來，足六人食。我如是教，如是化彼，求無病無上安隱涅槃，得無病無上安隱涅槃。求無老、無死、無愁憂慼、無穢污無上安隱涅槃，得無老、無死、無愁憂慼、無穢污無上安隱涅槃。生知生見，定道品法，生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。

> そこで私は彼らに告げました。 「比丘たちよ、知っておくべきだ。修行者が学ぶべきでない二つの極端な道がある。 第一は、低俗な欲望の快楽に執着することであり、これは凡人が行う下賤な行いである。 第二は、自らを煩わせ、苦しめることであり、これは賢聖が求める法とはならず、真の意味とは無縁である。 比丘たちよ、この二つの極端を捨て去り、中道を取るならば、智慧が明らかとなり、正しい知恵が生じ、心が定まり、自在を得ることができる。それは涅槃へと向かい、智慧へと向かい、覚りへと向かう道であり、八正道と呼ばれる。すなわち、正見より正定に至る八つの道である。」 こうして私は五人の比丘を教え導こうと志し、二人を教化し、三人に托鉢を命じた。三人が托鉢から戻り、食を持ち帰ると、六人分の食がそろった。また三人を教化し、二人に托鉢を命じると、二人が食を持ち帰り、やはり六人分の食がそろった。 このように私は彼らを教え、導き、彼らは病のない、最上の平安なる涅槃を求めて、それを得た。老いもなく、死もなく、憂いも苦しみもなく、汚れのない、最上の平安なる涅槃を求めて、それを得た。 そして彼らは、生まれながらの知恵と洞察を得て、修行の道とその教えが確立された。もはや生は尽き、清らかな行いは完成し、なすべきことは全て成し遂げられた。再び迷いの生存を受けることはないと、真実のままに知ったのである。

「於是，世尊復告彼曰：『五比丘！有五欲功德可愛、可樂、可意所念，善欲相應。云何為五？眼知色，耳知聲，鼻知香，舌知味，身知觸。五比丘！愚癡凡夫而不多聞，不見善友，不知聖法，不御聖法，彼觸染貪著，憍慠受入，不見災患，不見出要，而取用之。當知彼隨弊魔，自作弊魔，墮弊魔手，為魔網纏，魔羂所羂，不脫魔羂。五比丘！猶如野鹿，為羂所羂，當知彼隨獵師，自作獵師，墮獵師手，為獵師網纏，獵師來已，不能得脫。如是，五比丘！愚癡凡夫而不多聞，不見善友，不知聖法，不御聖法。彼於此五欲功德觸染貪著，憍慠受入，不見災患，不見出要，而取用之。當知彼隨弊魔，自作弊魔，墮弊魔手，為魔網纏，魔羂所羂，不脫魔羂。

> そこで、世尊は彼らにこう告げられた。「五比丘よ、五つの欲望の対象（五欲功徳）があり、それらは愛すべきもの、楽しいもの、心に留められるもの、善き欲望に相応するものです。その五つとは何か？眼で色を知り、耳で音を知り、鼻で香りを知り、舌で味を知り、身で触れを知ることです。五比丘よ、愚かで無知な凡夫は、多くを聞かず、善き友を見ず、聖なる法を知らず、聖なる法を実践しません。彼らはそれらに触れて染まり、執着し、傲慢に受け入れ、災いを見ず、超脱の道を見ずに、それらを用います。知るがよい、彼らは劣った魔に従い、自ら劣った魔となり、劣った魔の手に落ち、魔の網に絡まれ、魔の罠にかかり、魔の罠から逃れられないのです。五比丘よ、ちょうど野鹿が罠にかかるように、その鹿は狩人に従い、自ら狩人となり、狩人の手に落ち、狩人の網に絡まれ、狩人が来れば逃れられません。同様に、五比丘よ、愚かで無知な凡夫は、多くを聞かず、善き友を見ず、聖なる法を知らず、聖なる法を実践しません。彼らはこの五つの欲望の対象に触れて染まり、執着し、傲慢に受け入れ、災いを見ず、超脱の道を見ずに、それらを用います。知るがよい、彼らは劣った魔に従い、自ら劣った魔となり、劣った魔の手に落ち、魔の網に絡まれ、魔の罠にかかり、魔の罠から逃れられないのです。」

「『五比丘！多聞聖弟子見善知識，而知聖法，又御聖法，彼於此五欲功德，不觸、不染、不貪、不著，亦不憍慠、不受入，見災患，見出要，而取用之。當知彼不隨弊魔，不自作魔，不墮魔手，不為魔網所纏，不為魔羂所羂，便解脫魔羂。五比丘！猶如野鹿得脫於羂，當知彼不隨獵師，不自在獵師，不墮獵師手，不為獵師網所纏，獵師來已，則能得脫。如是，五比丘！多聞聖弟子見善知識而知聖法，又御聖法，彼於此五欲功德，不觸、不染、不貪、不著，亦不見憍慠、不受入，見災患，見出要，而取用之。當知彼不隨弊魔，不自在魔，不墮魔手，不為魔網所纏，不為魔羂所羂，便解脫魔羂。

> 「五比丘よ。よく学んだ聖なる弟子は、善き知識に親しみ、聖なる教えを理解し、さらにその教えを実践します。その者は、この五つの欲望の対象に対して、触れず、染まらず、貪らず、執着せず、そこに驕り高ぶることもなく、心を奪われることもありません。そこに災いを見て、そこから抜け出す道を見極め、必要な時だけそれを利用します。その者は、悪魔に従わず、自ら悪魔となることもなく、悪魔の手に落ちず、悪魔の網に絡め取られず、悪魔の縄に縛られることもなく、悪魔の束縛から解き放たれるのです。 五比丘よ。ちょうど、野の鹿が罠から逃れたようなものです。その鹿は、猟師に従わず、猟師の思うままにならず、猟師の手に落ちず、猟師の網に絡め取られず、猟師が来ても逃げ去ることができます。 これと同じように、五比丘よ。よく学んだ聖なる弟子は、善き知識に親しみ、聖なる教えを理解し、さらにその教えを実践します。その者は、この五つの欲望の対象に対して、触れず、染まらず、貪らず、執着せず、そこに驕り高ぶることもなく、心を奪われることもありません。そこに災いを見て、そこから抜け出す道を見極め、必要な時だけそれを利用します。その者は、悪魔に従わず、自ら悪魔となることもなく、悪魔の手に落ちず、悪魔の網に絡め取られず、悪魔の縄に縛られることもなく、悪魔の束縛から解き放たれるのです。」

「『五比丘！若時如來出興于世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐，彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，離欲，離惡不善之法，至得第四禪成就遊。彼如是定心清淨，無穢無煩，柔軟善住，得不動心，修學漏盡智通作證。彼知此苦如真，知此苦習、知此苦滅、知此苦滅道如真。知此漏如真，知此漏習、知此漏滅、知此漏滅道如真。彼如是知、如是見，欲漏心解脫，有漏、無明漏心解脫。解脫已便知解脫，生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。彼於爾時自在行，自在住、自在坐、自在臥。所以者何？彼自見無量惡不善法盡。是故彼自在行、自在住、自在坐、自在臥。

> 「五人の比丘たちよ。如来が世に現れるとき、執着なく、正しく悟り、行いと智慧が完全で、よく逝き、世間を理解し、最高の導き手、道の教え手、天と人の師、仏陀、一切衆生の帰依所と名づけられる。その方は、障害となる五つの覆い――心を汚し智慧を弱らせるものたち――を断ち切り、欲望や悪しき善ならざる法を離れ、第四の禅定に至り、そこに安住する。 そのように心が清らかに定まり、汚れなく、煩わしさもなく、柔らかく安らかにとどまり、動揺しない心を得て、煩悩の滅尽の智慧の修学を完成させる。彼はこの苦しみをあるがままに知り、この苦しみの集まりを、この苦しみの滅びを、この苦しみの滅びに至る道をあるがままに知る。この煩悩をあるがままに知り、この煩悩の集まりを、この煩悩の滅びを、この煩悩の滅びに至る道をあるがままに知る。 そのように知り、そのように見て、欲の煩悩から心が解放され、存在への執着や無知の煩悩からも心が解放される。解脱したならば『解脱した』と知る。『生は尽きた。清らかな行いは完成した。為すべきことは為し終えた。もはや新たな存在を受けることはない』と、あるがままに知る。 その時、彼は自在に行い、自在に立ち、自在に座り、自在に臥す。なぜなら、自分のうちに無数の悪しき善ならざる法が尽きたのを自ら見るからである。それ故に、彼は自在に行い、自在に立ち、自在に座り、自在に臥すのである。」

「『五比丘！猶如無事無人民處，彼有野鹿，自在行、自在住、自在伏、自在臥。所以者何？彼野鹿不在獵師境界。是故自在行、自在住、自在伏、自在臥。如是，五比丘！比丘漏盡得無漏，心解脫、慧解脫，自知自覺自作證成就遊，生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。彼於爾時自在行、自在住、自在坐、自在臥。所以者何？彼自見無量惡不善法盡。是故彼自在行、自在住、自在坐、自在臥。五比丘！是說無餘解脫，是說無病無上安隱涅槃，是說無老、無死、無愁憂慼、無穢污無上安隱涅槃。』」

> 「五人の比丘たちよ。例えば、人が住まず、何もない原野に、野生の鹿がいる。彼らは自由に歩き、自由に立ち、自由に伏し、自由に横たわる。なぜか。その鹿たちは狩人の領域にいないからである。それゆえ、自由に歩き、自由に立ち、自由に伏し、自由に横たわる。 そのように、五人の比丘たちよ。比丘が煩悩を滅尽して、もはや汚れなき状態となり、心の解脱と智慧の解脱を得て、自ら知り、自ら覚り、自ら実証して、修行を完成して歩む。すなわち、生は尽き、清らかな行いは成立し、なすべきことは成し遂げられ、再び迷いの生存を受けることはないと、あるがままに知る。 そのとき、彼は自由に歩き、自由に立ち、自由に坐り、自由に横たわる。なぜか。彼は自ら、無数の悪しき不善の法が尽きたことを見るからである。それゆえ、彼は自由に歩き、自由に立ち、自由に坐り、自由に横たわる。 五人の比丘たちよ。これを『余すところなき解脱』といい、これを『病なく、最上の安らかな涅槃』といい、これを『老いもなく、死もなく、憂いも苦しみもなく、汚れもない、最上の安らかな涅槃』というのである。」

佛說如是。尊者阿難及諸比丘，聞佛所說，歡喜奉行。

> このように仏は説かれました。尊者アーナンダと諸々の比丘たちは、仏の説かれたことを聞き、歓喜してこれを行いました。

羅摩經第三竟四千一百二十一字

> ラーマ経 第三巻 終わり<note>四千百二十一字</note>