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title: "中阿含經 · 205 五下分結經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
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### （二〇五）中阿含晡利多品五下分結經第四第五後誦

> （二〇五）中阿含経　晡利多品　五下分結経　第四<note>第五後誦</

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊舍衛國，在勝林給孤獨園。

> ある時、お釈迦さまは舎衛国に滞在され、勝林給孤独園におられました。

爾時，世尊告諸比丘：「我曾說五下分結，汝等受持耶？」諸比丘默然不答。

> その時、世尊は比丘たちにお尋ねになりました。 「私はかつて五つの下分結（したぶんけつ）について説いたが、あなたがたはそれを心に刻んでいるだろうか。」 しかし、比丘たちは黙って何も答えませんでした。

世尊復再三告諸比丘：「我曾說五下分結，汝等受持耶？」諸比丘亦再三默然不答。

> 世尊は、さらに二度三度と比丘たちに告げられた。「私は五下分結について説いた。あなたがたは、それを理解し、受持しているか。」比丘たちは、やはり二度三度と、黙って答えようとしなかった。

爾時，尊者鬘童子在彼眾中。於是，尊者鬘童子即從坐起，偏袒著衣，叉手向佛，白曰：「世尊曾說五下分結，我受持之。」

> その時、尊者マールキャプトラがその会衆の中にいた。尊者マールキャプトラは座を立ち、衣を片方にかけ、手を合わせて仏に向かい、こう申し上げた。「世尊はかつて五下分結をお説きになりました。私はそれを承知しております。」

世尊問曰：「鬘童子！我曾說五下分結，汝受持耶？」

> 釈尊がお尋ねになりました。「マールンキヤ（鬘童子）よ、私はかつて五下分結（五つの下位の束縛）について説いたが、あなたはそれを理解しているか？」

尊者鬘童子答曰：「世尊曾說初下分結，是我受持，欲、恚、身見、戒取、疑，世尊說第五下分結，是我受持。」

> 尊者マールンキヤプトラが答えて言った。「世尊はかつて、五つの下分結（下位の束縛）について説かれました。それを私は心に留めています。すなわち、欲望、怒り、自己への執着、戒律や修行への執着、そして疑いです。世尊は第五番目の下分結として、疑いを挙げられました。それを私はしっかりと受け止めています。」

世尊訶曰：「鬘童子！汝云何受持我說五下分結？鬘童子！汝從何口受持我說五下分結耶？鬘童子！非為眾多異學來，以嬰孩童子責數喻詰責汝耶？鬘童子！嬰孩幼小，柔軟仰眠，意無欲想，況復欲心纏住耶？然彼性使故，說欲使。鬘童子！嬰孩幼小，柔軟仰眠，無眾生想，況復恚心纏住耶？然彼性使故，說恚使。鬘童子！嬰孩幼小，柔軟仰眠，無自身想，況復身見心纏住耶？然彼性使故，說身見使。鬘童子！嬰孩幼小，柔軟仰眠，無有戒想，況復戒取心纏住耶？然彼性使故，說戒取使。鬘童子！嬰孩幼小，柔軟仰眠，無有法想，況復疑心纏住耶？然彼性使故，說疑使。鬘童子！非為眾多異學來，以此嬰孩童子責數喻詰責汝耶？」於是，尊者鬘童子為世尊面訶責已，內懷憂慼，低頭默然，失辯無言，如有所伺。

> 世尊はお叱りになりました。「マールンキヤよ、お前はどうして私が説いた五つの下位の束縛をそのように理解しているのか。マールンキヤよ、お前はどの口から私の説いた五つの下位の束縛を聞いたのか。マールンキヤよ、多くの異教徒たちが、幼い子供のたとえを使ってお前を責め、問い詰めたのではないか。マールンキヤよ、幼い乳飲み子は柔らかく仰向けに寝ており、欲の心などない。ましてや欲望の心に縛られることがあろうか。しかし、その性質としての働きがあるからこそ、欲望の働きについて説いたのだ。マールンキヤよ、幼い乳飲み子は柔らかく仰向けに寝ており、生き物という認識すらない。ましてや怒りの心に縛られることがあろうか。しかし、その性質としての働きがあるからこそ、怒りの働きについて説いたのだ。マールンキヤよ、幼い乳飲み子は柔らかく仰向けに寝ており、自分自身という概念すらない。ましてや自己への執着の見解に縛られることがあろうか。しかし、その性質としての働きがあるからこそ、自己への執着の見解について説いたのだ。マールンキヤよ、幼い乳飲み子は柔らかく仰向けに寝ており、戒律という考えすらない。ましてや戒律や修行への執着に縛られることがあろうか。しかし、その性質としての働きがあるからこそ、戒律への執着について説いたのだ。マールンキヤよ、幼い乳飲み子は柔らかく仰向けに寝ており、真理という認識すらない。ましてや疑惑の心に縛られることがあろうか。しかし、その性質としての働きがあるからこそ、疑惑の働きについて説いたのだ。マールンキヤよ、多くの異教徒たちが、この幼い子供のたとえを使ってお前を責め、問い詰めたのではないか。」 そこで、尊きマールンキヤは世尊に面前で叱責され、心に憂いと苦しみを抱え、うつむいて黙り込み、言葉を失い、何かを待つように立ち尽くしたのでした。

彼時，世尊面前訶責鬘童子已，默然而住。爾時，尊者阿難立世尊後，執扇扇佛。於是，尊者阿難叉手向佛，白曰：「世尊！今正是時。善逝！今正是時。若世尊為諸比丘說五下分結者，諸比丘從世尊聞已，善受善持。」

> その時、世尊はマールンキヤ童子を叱責された後、黙っておられた。そこで、尊者アーナンダは世尊の後ろに立ち、扇子で佛を扇いでいた。尊者アーナンダは合掌して佛に向かい、申し上げた。「世尊よ、今が正にその時でございます。善逝よ、今が正にその時でございます。もし世尊が比丘たちに五下分結をお説きになれば、比丘たちは世尊から聞いて、よく受け止め、よく保つことでしょう。」

世尊告曰：「阿難！諦聽，善思念之。」

> 釈尊はおっしゃいました。「阿難よ、よく聞きなさい。しっかりと心に留めて考えなさい。」

尊者阿難白曰：「唯然。當受教聽。」

> はい、尊者アーナンダはお答えしました。「かしこまりました。その教えを謹んでお聞きいたします。」

佛言：「阿難！或有一為欲所纏，欲心生已，不知捨如真，彼不知捨如真已，欲轉熾盛，不可制除，是下分結。阿難！或有一為恚所纏，恚心生已，不知捨如真，彼不知捨如真已，恚轉熾盛，不可制除，是下分結。阿難！或有一為身見所纏，身見心生已，不知捨如真，彼不知捨如真已，身見轉盛，不可制除，是下分結。阿難！或有一為戒取所纏，戒取心生已，不知捨如真，彼不知捨如真已，戒取轉盛，不可制除，是下分結。阿難！或有一為疑所纏，疑心生已，不知捨如真，彼不知捨如真已，疑轉熾盛，不可制除，是下分結。

> 仏陀は言われた。「阿難よ、ある人は欲望に絡め取られ、欲望の心が生じても、それをあるがままに捨てる方法を知らない。そのようにあるがままに捨てる方法を知らないから、欲望はさらに激しくなり、制御できなくなる。これが下分結（下の束縛）である。 阿難よ、ある人は怒りに絡め取られ、怒りの心が生じても、それをあるがままに捨てる方法を知らない。そのようにあるがままに捨てる方法を知らないから、怒りはさらに激しくなり、制御できなくなる。これが下分結である。 阿難よ、ある人は身体への執着（身見）に絡め取られ、身体への執着の心が生じても、それをあるがままに捨てる方法を知らない。そのようにあるがままに捨てる方法を知らないから、身体への執着はさらに強くなり、制御できなくなる。これが下分結である。 阿難よ、ある人は戒律や修行への執着（戒取）に絡め取られ、その心が生じても、それをあるがままに捨てる方法を知らない。そのようにあるがままに捨てる方法を知らないから、戒律への執着はさらに強くなり、制御できなくなる。これが下分結である。 阿難よ、ある人は疑いに絡め取られ、疑いの心が生じても、それをあるがままに捨てる方法を知らない。そのようにあるがままに捨てる方法を知らないから、疑いはさらに激しくなり、制御できなくなる。これが下分結である。」

「阿難！若依道、依跡，斷五下分結；彼不依此道、不依此跡，斷五下分結者，終無是處。阿難！猶如有人欲得求實，為求實故，持斧入林，彼人見樹成就根、莖、枝、葉及實，彼人不截根、莖，得實歸者，終無是處。如是。阿難！若依道、依跡，斷五下分結；不依此道、不依此跡，斷五下分結者，終無是處。阿難！若依道、依跡，斷五下分結，彼依此道、依此跡，斷五下分結者，必有是處。阿難！猶如有人欲得求實，為求實故，持斧入林，彼人見樹成就根、莖、枝、葉及實，彼人截根、莖，得實歸者，必有是處。如是。阿難！若依道、依跡，斷五下分結，依此道、依此跡，斷五下分結者，必有是處。

> 「阿難よ、もし道や方法に従って、五つの下位の束縛を断ち切ろうとするならば、その道に従わず、その方法によらずして、五つの下位の束縛を断ち切ることは、決してありえません。 阿難よ、それはちょうど、ある人が果実を得ようとして、斧を持って森に入り、幹・茎・枝・葉・実が備わった木を見つけたとします。その人が根や茎を切らずに果実を得て帰ることができるでしょうか？そんなことは決してありえません。 まさにそのように、阿難よ、道や方法に従って五つの下位の束縛を断ち切ろうとするならば、その道に従わず、その方法によらずして断ち切ることは、決してありえないのです。 しかし、阿難よ、もし道や方法に従い、その道や方法によって五つの下位の束縛を断ち切るならば、それは必ず叶うのです。 阿難よ、それはちょうど、ある人が果実を得ようとして、斧を持って森に入り、幹・茎・枝・葉・実が備わった木を見つけ、根や茎を切って果実を得て帰ることができるように、必ず叶うのです。 まさにそのように、阿難よ、道や方法に従い、その道や方法によって五つの下位の束縛を断ち切るならば、それは必ず叶うのです。」

「阿難！依何道、依何跡，斷五下分結？阿難！或有一不為欲所纏，若生欲纏，即知捨如真，彼知捨如真已，彼欲纏便滅。阿難！或有一不為恚所纏，若生恚纏，即知捨如真，彼知捨如真已，彼恚纏便滅。阿難！或有一不為身見所纏，若生身見纏，即知捨如真，彼知捨如真已，彼身見纏便滅。阿難！或有一不為戒取所纏，若生戒取纏，即知捨如真，彼知捨如真已，彼戒取便滅。阿難！或有一不為疑所纏，若生疑纏，即知捨如真，彼知捨如真已，彼疑纏便滅。阿難！依此道、依此跡，斷五下分結。

> 「阿難よ、どのような道によって、どのような行いによって、五つの下分の束縛（五下分結）を断つことができるのか。阿難よ、例えばある者は欲望に絡め取られることなく、たとえ欲望の束縛が生じても、それをあるがままに知り、すぐに捨てる。そのようにあるがままに知り、捨てるならば、その欲望の束縛は消え去る。阿難よ、またある者は怒りに絡め取られることなく、たとえ怒りの束縛が生じても、それをあるがままに知り、すぐに捨てる。そのようにあるがままに知り、捨てるならば、その怒りの束縛は消え去る。阿難よ、またある者は自己という見解（身見）に絡め取られることなく、たとえ自己という見解の束縛が生じても、それをあるがままに知り、すぐに捨てる。そのようにあるがままに知り、捨てるならば、その自己という見解の束縛は消え去る。阿難よ、またある者は戒律や修行への執着（戒取）に絡め取られることなく、たとえ戒律や修行への執着の束縛が生じても、それをあるがままに知り、すぐに捨てる。そのようにあるがままに知り、捨てるならば、その戒律や修行への執着は消え去る。阿難よ、またある者は疑いに絡め取られることなく、たとえ疑いの束縛が生じても、それをあるがままに知り、すぐに捨てる。そのようにあるがままに知り、捨てるならば、その疑いの束縛は消え去る。阿難よ、このような道によって、このような行いによって、五つの下分の

「阿難！猶恒伽河，其水溢岸。若有人來彼岸，有事欲得度河，彼作是念：『此恒伽河，其水溢岸，我於彼岸有事欲度，身無有力令我安隱浮至彼岸。』阿難！當知彼人無力。如是，阿難！若有人覺、滅、涅槃，其心不向而不清淨，不住解脫。阿難！當知此人如彼羸人無有力也。阿難！猶恒伽河，其水溢岸。若有人來彼岸，有事欲得度河，彼作是念：『此恒伽河，其水溢岸，我於彼岸有事欲度，身今有力令我安隱浮至彼岸。』阿難！當知彼人有力。如是，阿難！若有人覺、滅、涅槃，心向清淨而住解脫。阿難！當知此人如彼力人。

> 「アーナンダ、例えばガンジス川の水が岸にあふれているとしよう。もしも向こう岸に用事があって川を渡りたい人がいて、こう思ったとする——『このガンジス川は水が岸にあふれている。私は向こう岸に用事があって渡りたいが、自分の身体に安らかに岸まで泳ぎ着く力はない』と。アーナンダ、その人が力がないことは明らかだ。同じように、アーナンダ、もしも人が目覚め、消滅し、涅槃を覚っても、心がそれに向かわず清らかでなく、解脱に安住しないならば。アーナンダ、その人はあの弱い人のように力がないと知るべきだ。 アーナンダ、またガンジス川の水が岸にあふれているとしよう。もしも向こう岸に用事があって川を渡りたい人がいて、こう思ったとする——『このガンジス川は水が岸にあふれている。私は向こう岸に用事があって渡りたいが、自分の身体には安らかに岸まで泳ぎ着く力がある』と。アーナンダ、その人には力があることは明らかだ。同じように、アーナンダ、もしも人が目覚め、消滅し、涅槃を覚ったなら、心がそれに向かい清らかで、解脱に安住するならば。アーナンダ、その人はあの力のある人のようだと知るべきだ。」

「阿難！猶如山水，甚深極廣，長流駛疾，多有所漂，其中無船，亦無橋梁。或有人來彼岸，有事則便求度，彼求度時而作是念：『今此山水甚深極廣，長流駛疾，多有所漂，其中無船，亦無橋梁而可度者。我於彼岸有事欲度，當以何方便令我安隱至彼岸耶？』復作是念：『我今寧可於此岸邊收聚草木，縛作椑栰，乘之而度。』彼便岸邊收聚草木，縛作椑栰，乘之而度，安隱至彼。如是，阿難！若有比丘攀緣厭離，依於厭離，住於厭離，止息身惡故，心入離、定故，離欲、離惡不善之法，有覺、有觀，離生喜、樂，得初禪成就遊。彼依此處，觀覺興衰，彼依此處，觀覺興衰已，住彼必得漏盡，設住彼不得漏盡者，必當昇進得止息處。

> 「アーナンダよ。譬えば、山からの流れが非常に深く広く、速く流れ、多くのものを押し流し、その中に船も橋もないとする。誰かが向こう岸に用事があって渡ろうとするとき、こう考える——『この流れは深く広く、速く流れ、多くのものを押し流す。船も橋もない。どうすれば安全に向こう岸に渡れるだろうか？』そしてこうも考える——『この岸辺で草木を集め、いかだを組んで渡ろう』。彼は草木を集めていかだを組み、それに乗って安全に向こう岸に渡る。 同じように、アーナンダよ。比丘が厭離（厭い離れること）に寄り添い、厭離に依って住し、厭離に安住することで、身体の悪を静め、心を離れ、定に入り、欲と悪しき法を離れ、尋（思考）と伺（考察）を伴い、離欲から生じる喜びと楽を伴う初禅を成就して安住する。彼はこの境地に依って、感覚の生じと滅びを観察する。そうして住しているなら、必ず煩悩を尽くすであろう。もしそこで煩悩を尽くせなくとも、必ず進んで安息の境地に達するであろう。」

「云何昇進得止息處？彼覺、觀已息，內靖、一心，無覺、無觀，定生喜、樂，得第二禪成就遊。彼依此處，觀覺興衰，彼依此處，觀覺興衰已，住彼必得漏盡，設住彼不得漏盡者，必當昇進得止息處。云何昇進得止息處？彼離於喜欲，捨無求遊，正念正智而身覺樂。謂聖所說聖所捨、念、樂住室，得第三禪成就遊。彼依此處，觀覺興衰，彼依此處，觀覺興衰已，住彼必得漏盡，設住彼不得漏盡者，必當昇進得止息處。云何昇進得止息處？彼樂滅、苦滅，喜、憂本已滅，不苦不樂、捨、念、清淨，得第四禪成就遊。彼依此處，觀覺興衰，彼依此處，觀覺興衰已，住彼必得漏盡，設住彼不得漏盡者，必當昇進得止息處。

> では、どのようにさらに進んで止息の境地に達するのでしょうか。彼は、粗い思考（覚）と細かい思考（観）がすでに静まり、心が内側に静まり統一され、粗い思考も細かい思考もなく、禅定から生じる喜びと安楽がある、第二禅の成就に安住します。彼はこの境地に依りて、感覚（覚）の生じ滅するのを観察します。このように感覚の生滅を観察して、その境地に安住すれば、必ず煩悩の滅尽（ろくじん）を得られるでしょう。たとえそこで煩悩を滅尽できなくても、必ずさらに進んで止息の境地に達するでしょう。 では、どのようにさらに進んで止息の境地に達するのでしょうか。彼は喜びへの欲望から離れ、捨てて無求のままに遊行し、正しい念いと正しい知恵をもって身体で安楽を感じます。これは聖者が説くところの、聖者が捨て、念い、安楽に住む境地であり、第三禅の成就に安住します。彼はこの境地に依りて、感覚の生じ滅するのを観察します。このように感覚の生滅を観察して、その境地に安住すれば、必ず煩悩の滅尽を得られるでしょう。たとえそこで煩悩を滅尽できなくても、必ずさらに進んで止息の境地に達するでしょう。 では、どのようにさらに進んで止息の境地に達するのでしょうか。彼は安楽も滅し、苦痛も滅し、喜びも憂いもすでに滅び、苦でもなく楽でもなく、捨て、念い、清らかである、第四禅の成就に安住します。彼はこの境地に依りて、感覚の生じ滅するのを観察します。このように感覚の生滅を観察して、その境地に安住すれば、必ず煩悩の滅尽を得られるでしょう。たとえそこで煩悩を滅尽できなくても、必ずさらに進んで止息の境地に達するでしょう。

「云何昇進得止息處？彼度一切色想，滅有礙想，不念若干想，無量空，是無量處成就遊，彼依此處，觀覺興衰，彼依此處、觀覺興衰已，住彼必得漏盡，設住彼不得漏盡者，必當昇進得止息處。云何昇進得止息處？彼度一切無量空處，無量識，是無量識處成就遊。彼依此處，觀覺興衰，彼依此處，觀覺興衰已，住彼必得漏盡，設住彼不得漏盡者，必當昇進得止息處。云何昇進得止息處？彼度一切無量識處，無所有，是無所有處成就遊。彼若有所覺，或樂或苦，或不苦不樂。彼觀此覺無常，觀興衰、觀無欲、觀滅、觀斷、觀捨。彼如是觀此覺無常，觀興衰、觀無欲、觀滅、觀斷、觀捨已，便不受此世，不受此世已，便不恐怖，因不恐怖，便般涅槃，生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。

> 「どのようにしてさらに進み、安らぎの境地に至るのか。まず、あらゆる色の想いを超え、障害となる想いを滅ぼし、様々な想いを心に留めず、無限の空なる領域に心を統一して安住する。その境地に立って、感覚の生じ滅びを見つめる。そうして見つめたなら、そこに安住して、必ず煩悩の滅尽を得る。しかし、そこに安住してもなお煩悩の滅尽を得られないなら、必ずさらに進んで安らぎの境地に至らねばならない。では、どのようにしてさらに進み、安らぎの境地に至るのか。無限の空なる領域をすべて超え、無限の識（認識）という領域、すなわち無限の識なる領域に心を統一して安住する。その境地に立って、感覚の生じ滅びを見つめる。そうして見つめたなら、そこに安住して、必ず煩悩の滅尽を得る。しかし、そこに安住してもなお煩悩の滅尽を得られないなら、必ずさらに進んで安らぎの境地に至らねばならない。では、どのようにしてさらに進み、安らぎの境地に至るのか。無限の識なる領域をすべて超え、何もないという領域、すなわち何もない領域に心を統一して安住する。そこにおいて何らかの感覚があるなら、それは楽であるか、苦であるか、苦でも楽でもないかのいずれかである。彼はその感覚が無常であると観察し、生じ滅びゆくものであると観察し、欲望を離れたものであると観察し、滅びゆくものであると観察し、断ち切るべきものであると観察し、手放すべきものであると観察する。このように、その感覚が無常であり、生じ滅び、欲望を離れ、滅び、断ち切られ、手放されるものであると観察したならば、もはやこの世のものに執着しなくなる。執着しなくなれば、恐れることがなくなる。恐れがないゆえに、完全な涅槃（ねはん）に入る。再生は尽き、清らかな行いは完成し、為すべきことは為し終え、再び迷いの生存を受けることはないと、あるがままに知るのである。」

「猶去村不遠，有大芭蕉，若人持斧破芭蕉樹，破作片，破為十分，或作百分。破為十分，或作百分已，便擗葉葉，不見彼節，況復實耶？阿難！如是比丘若有所覺，或樂或苦，或不苦不樂，彼觀此覺無常，觀興衰、觀無欲、觀滅、觀斷、觀捨。彼如是觀此覺無常，觀興衰、觀無欲、觀滅、觀斷、觀捨已，便不受此世，不受此世已，便不恐怖，因不恐怖已，便般涅槃，生已盡，梵行已立，所作已辦，不更受有，知如真。」

> 「たとえば、村から遠くないところに大きな芭蕉の木があるとしよう。人が斧を持ってその芭蕉の木を切り倒し、細かく砕いて十分、あるいは百分にする。十分や百分にした後、葉を一枚一枚はがしていくと、節（つなぎ目）は見つからず、ましてや実体があるだろうか？ 阿難よ、このように比丘は、もし何らかの感覚があるなら、快であれ苦であれ、あるいは苦でも楽でもないものであれ、その感覚を無常であると観察し、盛衰、無欲、消滅、断滅、捨離を観察する。このように観察して、その感覚が無常であり、盛衰、無欲、消滅、断滅、捨離であると見極めたならば、この世に執着しなくなる。この世に執着しなくなれば、恐怖しなくなる。恐怖しなくなったゆえに、涅槃に入る。すなわち、生は尽き、清らかな行いは完成し、なすべきことはなされ、再び迷いの生存を受けることはない、と如実に知るのである。」

於是，尊者阿難叉手向佛，白曰：「世尊！甚奇！甚特！世尊為諸比丘依依立依，說捨離漏，說過度漏，然諸比丘不速得無上，謂畢究竟盡。」

> そこで尊者の阿難は手を組んで仏に向かい、申し上げました。「世尊よ、実に稀であり、実に特別であります。世尊は比丘たちのために、よりどころに立つことを説き、漏れを捨てることを説き、漏れを超えることを説かれましたが、それでも比丘たちは速やかに無上の境地、すなわち究竟の尽きることを得ないのは、なぜでありましょうか。」

世尊告曰：「如是。阿難！如是。阿難！甚奇！甚特！我為諸比丘依依立依，說捨離漏，說過度漏，然諸比丘不速得無上，謂畢究竟盡。所以者何？人有勝如故，修道便有精麤，修道有精麤故，人便有勝如。阿難！是故我說人有勝如。」

> 世尊がおっしゃいました。「その通りだ、阿難。その通りだ、阿難。実に不思議で、特別なことだ。私は比丘たちのよりどころとなり、依り所を示し、煩悩を捨て去ること、煩悩を超え渡ることを説いてきた。それでも比丘たちが速やかに無上の境地、すなわち究極の完成を得られないことがある。それはなぜか。人には優れた差があるからだ。修行の道にも精妙さと粗雑さがあり、修行の道に精粗があるからこそ、人にも優れた差が生じるのだ。阿難よ、だからこそ私は、人には優れた差があると言うのだ。」

佛說如是。尊者阿難及諸比丘，聞佛所說，歡喜奉行。

> このように仏は説かれました。尊者アーナンダと諸々の比丘たちは、仏の説かれたことを聞き、歓喜してこれを行いました。

五下分結經第四竟二千三百二十六字

> 第五の下分結の経、第四終わり<note>二千三百二十六字</note>