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title: "中阿含經 · 206 心穢經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
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### （二〇六）中阿含晡利多品心穢經第五

> （二〇六）中阿含経 晡利多品 心穢経 第五

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊舍衛國，在勝林給孤獨園。

> ある時、お釈迦さまは舎衛国に滞在され、勝林給孤独園におられました。

爾時，世尊告諸比丘：「若比丘、比丘尼不拔心中五穢，不解心中五縛者，是為比丘、比丘尼說必退法。云何不拔心中五穢？或有一疑世尊，猶豫、不開意、不解意、意不靖。若有一疑世尊，猶豫、不開意、不解意、意不靖者，是謂不拔第一心穢，謂於世尊也，如是法、戒、教。若有諸梵行，世尊所稱譽，彼便責數、輕易、觸嬈、侵害，不開意、不解意、意不靖，是謂第五不拔心中穢，謂於梵行也。

> ある時、世尊は比丘たちに告げられた。「比丘や比丘尼が、心の五つの汚れを取り除かず、心の五つの束縛を解かないならば、その比丘や比丘尼は退転する法（おしえ）を説いていると言える。では、心の五つの汚れを取り除かないとは何か。 ある者は世尊（仏陀）に対して疑いを抱き、ためらい、心を開かず、理解せず、心が静まらない。これが第一の心の汚れであり、世尊に関するものである。同様に、法（教え）、戒（道徳規範）、教え導くことについてもそうである。 また、世尊が称賛する清らかな修行者たちに対して、その者を非難し、軽んじ、邪魔をし、害を与え、心を開かず、理解せず、心が静まらない。これが第五の心の汚れであり、清らかな修行者に関するものである。」

「云何不解心中五縛？或有一身不離染、不離欲、不離愛、不離渴。若有身不離染、不離欲、不離愛、不離渴者，彼心不趣向，不靖、不住、不解，自方便斷燕坐。若有此心不趣向，不靖、不住、不解，自方便斷燕坐者，是謂第一不解心縛，謂身也。復次，於欲不離染、不離欲、不離愛、不離渴。若有於欲不離染、不離欲、不離愛、不離渴者，彼心不趣向，不靖、不住、不解，自方便斷燕坐。若有此心不趣向，不靖、不住、不解，自方便斷燕坐者，是謂第二不解心縛，謂欲也。

> 心の五つの束縛が解けないとは、どういうことか。 ある人は、自分の身体に対する執着から離れていない。すなわち、染まり、欲望、愛着、渇望を離れていない。身体に対する執着から離れていない人は、心が（正しい道に）向かわず、静まらず、とどまらず、解き放たれず、自らの努力によっても静かな坐禅を断ち切ることができない。このような心の状態こそ、第一の解けていない束縛、すなわち身体への執着である。 さらに、欲望に対する執着から離れていない。すなわち、染まり、欲望、愛着、渇望を離れていない。欲望に対する執着から離れていない人は、心が向かわず、静まらず、とどまらず、解き放たれず、自らの努力によっても静かな坐禅を断ち切ることができない。このような心の状態こそ、第二の解けていない束縛、すなわち欲望への執着である。

「復次，有一所說聖義相應，柔軟無疑蓋，謂說戒、說定、說慧、說解脫、說解脫知見、說損、說不聚會、說少欲、說知足、說斷、說無欲、說滅、說燕坐、說緣起，如是比丘，沙門所說者，彼心不趣向，不靖、不住、不解，自方便斷燕坐。若有此心不趣向，不靖、不住、不解，自方便斷燕坐者，是謂第三不解心縛，謂說也。復次，數道俗共會，調亂、憍慠、不學問。若有數道俗共會，調亂、憍慠、不學問者，彼心不趣向、不靖、不住、不解，自方便斷燕坐。若此心不趣向，不靖、不住、不解，自方便斷燕坐者，是謂第四不解心縛，謂聚會也。

> さらに、聖なる義にかなう教えがあり、それはやわらかく、疑いの覆いがないものとされています。すなわち、戒律についての説法、瞑想についての説法、智慧についての説法、解脱についての説法、解脱の知見についての説法、減らすことについての説法、群れないことについての説法、少欲についての説法、知足についての説法、断ち切ることについての説法、無欲についての説法、消滅についての説法、静かに座すことについての説法、縁起についての説法です。このようなことを修行者が語るとき、その心はそれに向かわず、静まらず、とどまらず、解きほぐれず、自らの努力で静かに座すことを断ち切ってしまいます。このように心が向かわず、静まらず、とどまらず、解きほぐれず、自らの努力で静かに座すことを断ち切ってしまうこと――これを第三の、心が解き放たれない束縛といいます。すなわち「説法」のことです。 さらに、在家者との交わりを数多く持ち、心が乱れ、高ぶり、学ぼうとしないことがあります。このように在家者との交わりを数多く持ち、心が乱れ、高ぶり、学ぼうとしない者は、その心は向かわず、静まらず、とどまらず、解きほぐれず、自らの努力で静かに座すことを断ち切ってしまいます。このように心が向かわず、静まらず、とどまらず、解きほぐれず、自らの努力で静かに座すことを断ち切ってしまうこと――これを第四の、心が解き放たれない束縛といいます。すなわち「交わり」のことです。

「復次，少有所得故，於其中間住，不復求昇進。若有少所得故，於其中間住，不復求昇進者，彼心不趣向，不靖、不住、不解，自方便斷燕坐。若此心不趣向，不靖、不住、不解，自方便斷燕坐者，是謂第五不解心縛，謂昇進也。若有比丘、比丘尼不拔此心中五穢，及不解此心中五縛者，是謂比丘、比丘尼必退法也。若有比丘、比丘尼善拔心中五穢，善解心中五縛者，是謂比丘、比丘尼清淨法。

> さらに、少しでも何かを得たと思うと、その中途の状態で立ち止まり、さらなる向上を求めようとしません。もし少しでも何かを得たと思い、その中途の状態で立ち止まり、さらなる向上を求めようとしないなら、その心は進んでいこうとせず、静まらず、とどまらず、解き放たれず、自らの力で雑念を断つ坐禅をやめてしまいます。この心が進んでいこうとせず、静まらず、とどまらず、解き放たれず、自らの力で雑念を断つ坐禅をやめてしまうこと、これを第五の心を縛る結び目（向上への足かせ）といいます。 比丘や比丘尼が、この心の中にある五つの汚れを取り除かず、また心を縛る五つの結び目を解かないならば、その比丘や比丘尼は必ず退いてしまう法（状態）にあるといえます。一方、比丘や比丘尼が、心の中にある五つの汚れをよく取り除き、心を縛る五つの結び目をよく解くならば、その比丘や比丘尼は清らかな法（状態）にあるといえるのです。

「云何善拔心中五穢？或有一不疑世尊，不猶豫、開意、意解、意靖。若有不疑世尊，不猶豫、開意、意解、意靖者，是謂第一善拔心中穢，謂於世尊也，如是法、戒、教。若有梵行，世尊所稱譽，彼不責數、不輕易、不觸嬈、不侵害，開意、意解、意靖，是謂第五善拔心中穢，謂於梵行也。

> 【問う】どのようにすれば心の中の五つの汚れをうまく取り除けるのか？ ある人は世尊（ Buddha）を疑わず、ためらわず、心を開き、心を理解し、心を静める。もし世尊を疑わず、ためらわず、心を開き、心を理解し、心を静めるなら、これが第一に心の穢れをうまく取り除くことである。これは世尊についてである。同様に、法（教え）と戒（戒律）と教え（修行の指針）についてもそうである。 また、梵行（清らかな修行者）がいて、世尊に称賛されるならば、その人を非難せず、軽んじず、邪魔せず、害さず、心を開き、心を理解し、心を静める。これが第五に心の穢れをうまく取り除くことである。これは梵行についてである。

「云何解心中五縛？或有一身離染、離欲、離愛、離渴。若有身離染、離欲、離愛、離渴者，彼心趣向，靖、住、解，自方便斷燕坐。若有此心趣向，靖、住、解，自方便斷燕坐者，是謂第一解心中縛，謂身也。復次，於欲離染、離欲、離愛、離渴。若有於欲離染、離欲、離愛、離渴者，彼心趣向，靖、住、解，自方便斷燕坐。若有此心趣向，靖、住、解，自方便斷燕坐者，是謂第二解心中縛，謂欲也。

> 心の中の五つの束縛を解くとは、どのようなことか。 ある人は、身体に対して、汚れを離れ、欲望を離れ、愛着を離れ、渇きを離れる。身体に対して汚れを離れ、欲望を離れ、愛着を離れ、渇きを離れた人は、その心は静けさへと向かい、落ち着き、解き放たれ、自らの力で雑念を断ち切る。 このように心が静けさへと向かい、落ち着き、解き放たれ、自らの力で雑念を断ち切るなら、これを心の中の束縛を解く第一のものとする。すなわち、「身体」による束縛である。 さらに、欲に対して、汚れを離れ、欲望を離れ、愛着を離れ、渇きを離れる。欲に対して汚れを離れ、欲望を離れ、愛着を離れ、渇きを離れた人は、その心は静けさへと向かい、落ち着き、解き放たれ、自らの力で雑念を断ち切る。 このように心が静けさへと向かい、落ち着き、解き放たれ、自らの力で雑念を断ち切るなら、これを心の中の束縛を解く第二のものとする。すなわち、「欲」による束縛である。

「復次，有一所說，聖義相應，柔軟無疑葢，謂說戒、說定、說慧、說解脫、說解脫知見、說損、說不聚會、說少欲、說知足、說斷、說無欲、說滅、說燕坐、說緣起，如是比丘，沙門所說者，彼心趣向，靖、住、解，自方便斷燕坐。若有此心趣向，靖、住、解，自方便斷燕坐者，是謂第三解心中縛，謂說也。復次，不數道俗共會，不調亂、不憍慠學問。若有不數道俗共會，不調亂、不憍慠學問者，彼心趣向，靖、住、解，自方便斷燕坐。若有此心趣向，靖、住、解，自方便斷燕坐者，是謂第四解心中縛，謂不聚會也。

> さらに、次のような教えがあります。それは聖なる真理にかなった、やわらかく、疑いの覆いがない説法です。すなわち、戒律についての説法、禅定についての説法、智慧についての説法、解脱についての説法、解脱の智慧についての説法、煩悩を減らすことについての説法、徒党を組まないことについての説法、欲を少なくすることについての説法、満足を知ることについての説法、煩悩を断つことについての説法、無欲についての説法、消滅についての説法、静かに坐すことについての説法、縁起についての説法です。このように、比丘（修行者）に対し修行者が説くとき、その心は静けさへと向かい、とどまり、解き放たれ、自らの努力で静かに坐すことを実践します。このように心が静けさへと向かい、とどまり、解き放たれ、自らの努力で静かに坐すことを実践するとき、これを心の束縛を解く第三の方法といい、それは「説法」と呼ばれます。 さらに、在家者と出家者の集まりにあまり交わらず、心が乱れず、学問に対して驕り高ぶらないことです。もし在家者と出家者の集まりにあまり交わらず、心が乱れず、学問に対して驕り高ぶらないならば、その心は静けさへと向かい、とどまり、解き放たれ、自らの努力で静かに坐すことを実践します。このように心が静けさへと向かい、とどまり、解き放たれ、自らの努力で静かに坐すことを実践するとき、これを心の束縛を解く第四の方法といい、それは「徒党を組まないこと」と呼ばれます。

「復次，少有所得故，於其中間不住，復求昇進。若有少所得故，於其中間不住，復求昇進者，彼心趣向，靖、住、解，自方便斷燕坐。若此心趣向，靖、住、解，自方便斷燕坐者，是謂第五解心中縛，謂昇進也。若有比丘、比丘尼善拔此心中五穢，及善解此心中五縛者，是謂比丘、比丘尼清淨法。彼住此十支已，復修習五法。

> また、少しでも何かを得たと思い込むと、その途中で立ち止まらず、さらに上の境地を求めます。もし少しでも何かを得たと思い込み、その途中で立ち止まらずにさらに上の境地を求めるなら、その心は静けさ、とどまり、解放へと向かい、自らの修行によって坐禅への固執を断ち切ります。このように心が静けさ、とどまり、解放へと向かい、自らの修行によって坐禅への固執を断ち切るなら、これを第五の心の束縛を解くこと、すなわち「上の境地を求めること」と呼びます。 比丘や比丘尼が、この心の中にある五つの汚れをよく取り除き、この心の中にある五つの束縛をよく解くなら、これこそが比丘、比丘尼の清らかな生き方です。彼らはこの十の支えに安住した後、さらに五つの修行を修めます。

「云何為五？修欲定心成就斷如意足，依離、依無欲、依滅、依捨，趣向非品，修精進定、心定、思惟定成就斷如意足，依離、依無欲、依滅、依捨，趣向非品，堪任第五，彼成就此堪任等十五法。成就自受者，必知必見，必正盡覺，至甘露門，近住涅槃，我說無不至涅槃。猶如雞生十卵，或十二，隨時覆蓋，隨時溫暖，隨時看視，雞設有放逸者，彼中或雞子以𭪿以足，啄破其卵，自安隱出者，彼為第一。如是比丘成就此堪任等十五法自受者，必知必見，必正盡覺，必至甘露門，近住涅槃，我說無不得涅槃。」

> 「どのような五つか。欲に向かう心の統一（定）を修め、それを完成させることで煩悩を断つための足（如意足）とする。それは、執着を離れ、欲を離れ、滅へと向かい、手放すことに依拠し、煩わしいものではない境地へと向かう。 同様に、精進の定・心の定・観察の定を修め完成させ、煩悩を断つための足とする。それらもまた、執着を離れ、欲を離れ、滅へと向かい、手放すことに依拠し、煩わしいものではない境地へと向かう。 このようにして第五の条件に適う者となる。彼はこのような十五の法を備えているのである。このような自己の受け持つ法を成就した者は、必ず知り、必ず見て、必ず正しく完全に悟りを得る。甘露の門に至り、涅槃に近づいて住む。私は、彼が涅槃に至らないことはないと説く。 たとえば、雌鳥が十個の卵、あるいは十二個の卵を産み、それらを常に覆い、常に温め、常に見守る。もし雌鳥が少しでも気を緩めることがあれば、その卵のうち、あるひな鳥が、嘴や爪で卵の殻をつつき破って、安全に・苦しみなく出てくるものがいる。そのようなひな鳥が最も優れている。 このように、比丘がこれらの十五の法を成就し、自己の受け持つ法を成就するならば、必ず知り、必ず見て、必ず正しく完全に悟りを得る。必ず甘露の門に至り、涅槃に近づいて住む。私は、彼が涅槃を得ないことはないと説く。」

佛說如是。彼諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。

> このように仏は説かれました。比丘たちは仏の説かれたことを聞き、喜んでお受け取りになりました。

心穢經第五竟一千三百九十九字

> 心を汚す経　第五　終わり<note>千三百九十九字</note>

## 中阿含經卷第五十六七千八百四十六字第五後誦

> 中阿含経 第五十六巻