---
title: "中阿含經 · 210 法樂比丘尼經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma7j49zj066bjl0a8btlu7uu"
---

## 中阿含經卷第五十八

> 中阿含経 第五十八巻

東晉罽賓三藏瞿曇僧伽提婆譯

> 東晋・罽賓三蔵・瞿曇僧伽提婆 訳

### （二一〇）晡利多品法樂比丘尼經第九第五後誦

> （二一〇）プーリタ品 法楽比丘尼経 第九<note>第五後誦</note>

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊舍衛國，在勝林給孤獨園。

爾時，毘舍佉優婆夷往詣法樂比丘尼所，稽首禮足，却坐一面，白法樂比丘尼曰：「賢聖！欲有所問，聽我問耶？」

> その時、毘舎佉という優婆夷（女性の在家信者）が、法楽比丘尼のところへ訪れました。 彼女は深く礼拝し、片隅に座ってから、こう申し上げました。 「尊い方よ。お尋ねしたいことがありますが、お聞きいただいてよろしいでしょうか。」

法樂比丘尼答曰：「毘舍佉！欲問便問，我聞已當思。」

> 法楽比丘尼が答えました。「ヴィサーカーよ、お尋ねになりたいことがあれば、そのままお尋ねください。私はそれを聞いて、よく考えましょう。」

毗舍佉優婆夷便問曰：「賢聖！自身，說自身。云何為自身耶？」

> 毘舎佉という在家の女性が尋ねました。「尊い聖者よ、『自身』と言われますが、その『自身』とは何を意味するのでしょうか？」

法樂比丘尼答曰：「世尊說五盛陰自身。色盛陰，覺、想、行、識盛陰，是謂世尊說五盛陰。」

> 法樂比丘尼がお答えしました。「世尊は五つの盛んな陰（五取蘊）についてお説きになりました。すなわち、色の盛んな陰、受・想・行・識の盛んな陰、これらを世尊は五つの盛んな陰とお説きになったのです。」

毗舍佉優婆夷聞已，歎曰：「善哉！善哉！賢聖。」毗舍佉優婆夷歎已，歡喜奉行。

> 毘舎佉の優婆夷（在家の女性信者）はこれを聞いて、感嘆して言いました。「素晴らしい、素晴らしい、賢聖（賢者聖者）よ。」毘舎佉の優婆夷は感嘆し終えると、喜んで教えの通りに実践しました。

復問曰：「賢聖！云何為自身見耶？」

法樂比丘尼答曰：「不多聞愚癡凡夫不見善知識，不知聖法，不御聖法，彼見色是神，見神有色，見神中有色，見色中有神也。見覺、想、行、識是神，見神有識，見神中有識，見識中有神也。是謂自身見也。」

> 法楽比丘尼が答えて言いました。「無知で愚かな凡夫は、善き師に出会えず、聖なる教えを知らず、聖なる教えを実践しません。そのような人は、物質（色）を自己と見なし、自己に物質があると見なし、自己の中に物質があると見なし、物質の中に自己があると見なします。また、感覚（受）・概念（想）・心の働き（行）・認識（識）についても同様に、それらを自己と見なし、自己にそれらがあると見なし、自己の中にそれらがあると見なし、それらの中に自己があると見なします。これを『身体に関する誤った見解（身見）』と呼びます。」

毗舍佉優婆夷聞已，歎曰：「善哉！善哉！賢聖！」毗舍佉優婆夷歎已，歡喜奉行。

> 毘舎佉優婆夷、これを聞いて歎じて曰く「善きかな、善きかな、賢聖よ！」 毘舎佉優婆夷、歎じ終えて、歓喜して奉行す。

復問曰：「賢聖！云何無身見耶？」

> さらに尋ねて言いました。「尊い聖者よ。どのようにすれば、自己への執着（身見）を無くすことができるのでしょうか？」

法樂比丘尼答曰：「多聞聖弟子見善知識，知聖法，善御聖法，彼不見色是神，不見神有色，不見神中有色，不見色中有神也。不見覺、想、行、識是神，不見神有識，不見神中有識，不見識中有神也。是謂無身見也。」

> 法楽比丘尼は答えて言いました。「多くの教えを聞いた聖なる弟子は、善き知識（善知識）に出会い、聖なる法を知り、聖なる法をよく実践します。その人は、色（物質的なもの）を自己（神・我）とは見ず、自己が色を持つとも見ず、自己の中に色があるとも見ず、色の中に自己があるとも見ません。また、感受（覚）、思考（想）、形成作用（行）、認識（識）を自己とは見ず、自己が認識を持つとも見ず、自己の中に認識があるとも見ず、認識の中に自己があるとも見ません。これが〈無身見〉（自我についての誤った見解がないこと）なのです。」

毗舍佉優婆夷聞已，歎曰：「善哉！善哉！賢聖！」毘舍佉優婆夷歎已，歡喜奉行。

> 毘舎佉（びしゃく）という在家の女性信者は、その教えを聞いて、こう称賛しました。「素晴らしい！素晴らしい！尊い方々よ！」と。毘舎佉は称賛し終えると、喜んでその教えを実践しました。

復問曰：「賢聖！云何滅自身耶？」

> そこで尋ねました。「賢聖よ、どのようにして自己を滅するのですか？」

法樂比丘尼答曰：「色盛陰斷無餘，捨、吐、盡、不染、滅、息、沒也。覺、想、行、識盛陰斷無餘，捨、吐、盡、不染、滅、息、沒也。是謂自身滅。」

> 法楽比丘尼は答えました。「色という盛んな五蘊の集まりを、余すところなく断ち切り、捨て、吐き出し、尽くし、執着せず、滅ぼし、静め、消滅させることです。そして、受・想・行・識という盛んな五蘊の集まりも、余すところなく断ち切り、捨て、吐き出し、尽くし、執着せず、滅ぼし、静め、消滅させることです。これを『自己の消滅』と言います。」

毗舍佉優婆夷聞已，歎曰：「善哉！善哉！賢聖！」毗舍佉優婆夷歎已，歡喜奉行。

> 毘舎佉優婆夷、これを聞いて歎じて曰く「善きかな、善きかな、賢聖よ！」 毘舎佉優婆夷、歎じ終えて、歓喜して奉行す。

復問曰：「賢聖！陰說陰盛，陰說盛陰，陰即是盛陰，盛陰即是陰耶？為陰異、盛陰異耶？」

> 「尊者よ。『五蘊』と『五取蘊』についてお尋ねしますが、『五蘊』と『五取蘊』というのは、五蘊がすなわち五取蘊であり、五取蘊がすなわち五蘊なのでしょうか？それとも、五蘊と五取蘊は別のものなのでしょうか？」

法樂比丘尼答曰：「或陰即是盛陰，或陰非盛陰。云何陰即是盛陰？若色有漏有受，覺、想、行、識有漏有受，是謂陰即是盛陰。云何陰非盛陰？色無漏無受，覺、想、行、識無漏無受，是謂陰非盛陰。」

> 法楽比丘尼が答えて言いました。 「ある場合、五陰そのものが五盛陰であることもあり、また、五陰が五盛陰ではないこともあります。 どのような場合に、陰がそのまま盛陰となるのでしょうか。 それは、色（物質的なもの）に煩悩のもととなる執着（漏）があり、それを感受し受容する場合、また、受・想・行・識のそれぞれにも煩悩のもととなる執着があり、それらを感受し受容する場合です。これを『陰すなわち盛陰』といいます。 では、どのような場合に、陰が盛陰ではないのでしょうか。 それは、色に煩悩のもととなる執着がなく、それを感受し受容することもなく、受・想・行・識にも同様に執着がなく、感受し受容することもない場合です。これを『陰にして盛陰

毗舍佉優婆夷聞已，歎曰：「善哉！善哉！賢聖！」毗舍佉優婆夷歎已，歡喜奉行。

> 毘舎佉優婆夷、これを聞いて歎じて曰く「善きかな、善きかな、賢聖よ！」 毘舎佉優婆夷、歎じ終えて、歓喜して奉行す。

復問曰：「賢聖！云何八支聖道耶？」

> 賢聖よ、八支の聖道とは何でしょうか？

法樂比丘尼答曰：「八支聖道者，正見乃至正定，是謂為八，是謂八支聖道。」

> 法楽比丘尼が答えた。「八つの正しい道とは、正しい見解から正しい心の統一に至るまでの八つの実践のことです。これが八つの正しい道と呼ばれるものです。」

毗舍佉優婆夷聞已，歎曰：「善哉！善哉！賢聖！」毗舍佉優婆夷歎已，歡喜奉行。

> 毘舎佉優婆夷、これを聞いて歎じて曰く「善きかな、善きかな、賢聖よ！」 毘舎佉優婆夷、歎じ終えて、歓喜して奉行す。

復問曰：「賢聖！八支聖道有為耶？」

> 尊者がお尋ねになりました。「聖者よ、八つの正しい道（八正道）には、作為（作為の要素）があるのでしょうか？」

法樂比丘尼答曰：「如是八支聖道有為也。」

> 法楽比丘尼は答えた。「その通り、八つの正道は『つくられたもの』（有為）であります。」

毗舍佉優婆夷聞已，歎曰：「善哉！善哉！賢聖！」毗舍佉優婆夷歎已，歡喜奉行。

> 毘舎佉優婆夷、これを聞いて歎じて曰く「善きかな、善きかな、賢聖よ！」 毘舎佉優婆夷、歎じ終えて、歓喜して奉行す。

復問曰：「賢聖！有幾聚耶？」

> 「賢聖には、いくつの集まりがあるのですか？」

法樂比丘尼答曰：「有三聚。戒聚、定聚、慧聚。」

> 法楽比丘尼が答えた。「三つの集まりがあります。戒の集まり、定の集まり、慧の集まりです。」

毗舍佉優婆夷聞已，歎曰：「善哉！善哉！賢聖！」毗舍佉優婆夷歎已，歡喜奉行。

> 毘舎佉優婆夷、これを聞いて歎じて曰く「善きかな、善きかな、賢聖よ！」 毘舎佉優婆夷、歎じ終えて、歓喜して奉行す。

復問曰：「賢聖！八支聖道攝三聚，為三聚攝八支聖道耶？」

> 「尊者よ。八つの正しい道（八支聖道）は、三つのまとまり（三聚）に含まれるのですか。それとも、三つのまとまりのほうが八つの正しい道に含まれるのですか？」

法樂比丘尼答曰：「非八支聖道攝三聚。三聚攝八支聖道。正語、正業、正命，此三道支聖戒聚所攝。正念、正定，此二道支聖定聚所攝。正見、正志、正方便，此三道支聖慧聚所攝。是謂非八支聖道攝三聚，三聚攝八支聖道。」

> 法楽比丘尼が答えました。「八支の聖なる道が三つの集まりを含むのではありません。三つの集まりが八支の聖なる道を含むのです。正しい言葉、正しい行い、正しい生活——この三つの道の支分は、聖なる戒の集まりに含まれます。正しい気づき、正しい心の統一——この二つの道の支分は、聖なる定の集まりに含まれます。正しい見解、正しい思考、正しい努力——この三つの道の支分は、聖なる慧の集まりに含まれます。このように、八支の聖なる道が三つの集まりを含むのではなく、三つの集まりが八支の聖なる道を含むのです。」

毗舍佉優婆夷聞已，歎曰：「善哉！善哉！賢聖！」毗舍佉優婆夷歎已，歡喜奉行。

> 毘舎佉優婆夷、これを聞いて歎じて曰く「善きかな、善きかな、賢聖よ！」 毘舎佉優婆夷、歎じ終えて、歓喜して奉行す。

復問曰：「賢聖！滅有對耶？」

> 再び問う。「賢聖よ、滅には対するものがあるのですか？」

法樂比丘尼答曰：「滅無對也。」

> 法楽比丘尼がお答えになりました。「滅には対するものがありません。」

毗舍佉優婆夷聞已，歎曰：「善哉！善哉！賢聖！」毗舍佉優婆夷歎已，歡喜奉行。

> 毘舎佉優婆夷、これを聞いて歎じて曰く「善きかな、善きかな、賢聖よ！」 毘舎佉優婆夷、歎じ終えて、歓喜して奉行す。

復問曰：「賢聖！初禪有幾支耶？」

> 再びお尋ねしました。「聖なる方よ、初禅にはいくつの要素があるのですか？」

法樂比丘尼答曰：「初禪有五支，覺、觀、喜、樂、一心，是謂初禪有五支。」

> 法楽比丘尼は答えられました。「初禅には五つの支分があります。すなわち、覚（はたらきかけの気づき）、観（とどまる気づき）、喜（よろこび）、楽（やすらぎ）、一心（こころの統一）です。これが初禅の五つの支分と呼ばれるものです。」

毗舍佉優婆夷聞已，歎曰：「善哉！善哉！賢聖！」毗舍佉優婆夷歎已，歡喜奉行。

> 毘舎佉優婆夷、これを聞いて歎じて曰く「善きかな、善きかな、賢聖よ！」 毘舎佉優婆夷、歎じ終えて、歓喜して奉行す。

復問曰：「賢聖！云何定？云何定相？云何定力？云何定功？云何修定耶？」

> さらに尋ねて言った。「賢聖よ。何が定でしょうか。何が定の相でしょうか。何が定の力でしょうか。何が定の功徳でしょうか。何が定を修めることでしょうか。」

法樂比丘尼答曰：「若善心得一者，是謂定也。四念處，是謂定相也。四正斷，是謂定力也。四如意足，是謂定功也。若習此諸善法服，數數專修精勤者，是謂修定也。」

> 法楽比丘尼は答えて言いました。「もし善心が一つに統一されているならば、それを『定』といいます。四つの念処（四念処）が、定の特徴です。四つの正しい努力（四正断）が、定の力です。四つの如意足（四如意足）が、定の働きです。これらの善い教えを身につけ、繰り返し専心して熱心に修行し続けるならば、それを『定の修行』といいます。」

毗舍佉優婆夷聞已，歎曰：「善哉！善哉！賢聖！」毘舍佉優婆夷歎已，歡喜奉行。

> 毘舎佉（びしゃく）という在家の女性信者は、その教えを聞いて、こう称賛しました。「素晴らしい！素晴らしい！尊い方々よ！」と。毘舎佉は称賛し終えると、喜んでその教えを実践しました。

復問曰：「賢聖！有幾法生身死已，身棄塚間，如木無情？」

> 「賢者よ、聖なる方よ。人がこの世に生まれ、やがて死に、その体が塚の間に棄てられ、木のように無情となるまでに、どれだけの法が生じるのでしょうか？」

法樂比丘尼答曰：「有三法生身死已，身棄塚間，如木無情。云何為三？一者壽，二者暖，三者識，是謂三法生身死已，身棄塚間，如木無情。」

> 法楽比丘尼は答えました。「身体が生まれ、死んだ後に、墓地に捨てられ、まるで木のように情（こころ）がなくなる原因となる三つのものがあります。その三つとは、第一に寿命（いのち）、第二に体温（ぬくもり）、第三に意識（しき）です。これら三つのものが身体を生じさせ、死後は身体が墓地に捨てられ、情のない木のようになるのです。」

毘舍佉優婆夷聞已，歎曰：「善哉！善哉！賢聖！」毘舍佉優婆夷歎已，歡喜奉行。

> ビシャーカー・ウパーシカーは、これを聞いて「素晴らしい、素晴らしい！聖なる方よ！」と称賛し、そのまま喜びをもって教えを実践したのでした。

復問曰：「賢聖！若死及入滅盡定者，有何差別？」

> 「尊者よ。死ぬことと、滅尽定に入ることには、どのような違いがあるのでしょうか？」

法樂比丘尼答曰：「死者壽命滅訖，溫暖已去，諸根敗壞。比丘入滅盡定者，壽不滅訖，暖亦不去，諸根不敗壞，若死及入滅盡定者，是謂差別。」

> 法楽比丘尼がお答えになりました。「死とは寿命が尽き、体温がなくなり、感覚器官が機能しなくなることです。しかし、比丘が滅尽定に入った場合は、寿命は尽きず、体温も失われず、感覚器官も損なわれることはありません。死と滅尽定に入ることの違いは、これがその相違点です。」

毘舍佉優婆夷聞已，歎曰：「善哉！善哉！賢聖！」毘舍佉優婆夷歎已，歡喜奉行。

> ビシャーカー・ウパーシカーは、これを聞いて「素晴らしい、素晴らしい！聖なる方よ！」と称賛し、そのまま喜びをもって教えを実践したのでした。

復問曰：「賢聖！若入滅盡定及入無想定者，有何差別？」

> またお尋ねしました。「聖なる方よ、もし人が滅尽定に入るのと、無想定に入るのとでは、どのような違いがあるのでしょうか？」

法樂比丘尼答曰：「比丘入滅盡定者，想及知滅。入無想定者，想知不滅。若入滅盡定及入無想定者，是謂差別。」

> 法樂比丘尼は答えました。「比丘が滅尽定に入る時は、想念と認識が消滅します。無想定に入る時は、想念と認識は消滅しません。この二つが、滅尽定と無想定の違いです。」

毘舍佉優婆夷聞已，歎曰：「善哉！善哉！賢聖！」毘舍佉優婆夷歎已，歡喜奉行。

> ビシャーカー・ウパーシカーは、これを聞いて「素晴らしい、素晴らしい！聖なる方よ！」と称賛し、そのまま喜びをもって教えを実践したのでした。

復問曰：「賢聖！若從滅盡定起及從無想定起者，有何差別？」

> さらに問う、「賢聖よ。もし滅尽定から起きた場合と、無想定から起きた場合には、どのような違いがあるのか？」

法樂比丘尼答曰：「比丘從滅盡定起時，不作是念：『我從滅盡定起。』比丘從無想定起時，作如是念：『我為有想，我為無想？』若從滅盡定起及從無想定起者，是謂差別。」

> 法楽比丘尼が答えて言われました。「比丘が滅尽定から起きる時、『私は滅尽定から起きた』とは思いません。しかし比丘が無想定から起きる時には、『私は有想なのだろうか、無想なのだろうか』とこのように考えます。滅尽定から起きる時と、無想定から起きる時とでは、これが違いなのです。」

毘舍佉優婆夷聞已，歎曰：「善哉！善哉！賢聖！」毘舍佉優婆夷歎已，歡喜奉行。

> ビシャーカー・ウパーシカーは、これを聞いて「素晴らしい、素晴らしい！聖なる方よ！」と称賛し、そのまま喜びをもって教えを実践したのでした。

復問曰：「賢聖！比丘入滅盡定時，作如是念：『我入滅盡定耶？』」

> さらに尋ねて言いました。「賢聖よ、比丘が滅尽定に入るとき、『私は滅尽定に入るのだろうか』とそのように考えますか。」

法樂比丘尼答曰：「比丘入滅盡定時，不作是念：『我入滅盡定。』然本如是修習心，以是故如是趣向。」

> 法楽比丘尼は答えました。「比丘が滅尽定に入るときに、『私は滅尽定に入ろう』とは思わないのです。しかし、もともとそのように心を修習してきたので、そのように向かっていくのです。」

毘舍佉優婆夷聞已，歎曰：「善哉！善哉！賢聖！」毘舍佉優婆夷歎已，歡喜奉行。

> ビシャーカー・ウパーシカーは、これを聞いて「素晴らしい、素晴らしい！聖なる方よ！」と称賛し、そのまま喜びをもって教えを実践したのでした。

復問曰：「賢聖！比丘從滅盡定起，作如是念：『我從滅盡定起耶？』」

> さらに尋ねた。「賢聖よ、比丘が滅尽定から出るとき、『私は滅尽定から出たのだろうか』と考えるのでしょうか。」

法樂比丘尼答曰：「比丘從滅盡定起時，不作是念：『我從滅盡定起。』然因此身及六處緣命根，是故從定起。」

> 法楽比丘尼が答えました。「比丘が滅尽定から出るとき、『私は滅尽定から出る』とは考えません。ただ、この身体と六つの感覚器官が命根によって結びついているからこそ、定から出るのです。」

毘舍佉優婆夷聞已，歎曰：「善哉！善哉！賢聖！」毘舍佉優婆夷歎已，歡喜奉行。

> ビシャーカー・ウパーシカーは、これを聞いて「素晴らしい、素晴らしい！聖なる方よ！」と称賛し、そのまま喜びをもって教えを実践したのでした。

復問曰：「賢聖！比丘從滅盡定起已，心何所樂，何所趣，何所順耶？」

> 尋ねて言った。「尊者よ。比丘が滅尽定から出た後、その心は何を楽しみ、何に向かい、何に従うのですか？」

法樂比丘尼答曰：「比丘從滅盡定起已，心樂離、趣離、順離。」

> 法楽比丘尼が答えた。「比丘が滅尽定から出たなら、その心は離れることを楽しみ、離れることを志し、離れることに随順します。」

毘舍佉優婆夷聞已，歎曰：「善哉！善哉！賢聖！」毘舍佉優婆夷歎已，歡喜奉行。

> ビシャーカー・ウパーシカーは、これを聞いて「素晴らしい、素晴らしい！聖なる方よ！」と称賛し、そのまま喜びをもって教えを実践したのでした。

復問曰：「賢聖！有幾覺耶？」

> また問う：「尊き聖者よ、自覚にはいくつの種類があるのですか？」

法樂比丘尼答曰：「有三覺：樂覺、苦覺、不苦不樂覺。此何緣有耶？緣更樂有。」

> 法楽比丘尼が答えて言いました。「三つの感覚があります。楽しい感覚、苦しい感覚、苦しくも楽しくもない感覚です。これらは何に緣ってあるのでしょうか。觸れることに緣ってあります。」

毘舍佉優婆夷聞已，歎曰：「善哉！善哉！賢聖！」毘舍佉優婆夷歎已，歡喜奉行。

> ビシャーカー・ウパーシカーは、これを聞いて「素晴らしい、素晴らしい！聖なる方よ！」と称賛し、そのまま喜びをもって教えを実践したのでした。

復問曰：「賢聖！云何樂覺？云何苦覺？云何不苦不樂覺耶？」

> またお尋ねしました。「賢聖よ、どのようなものが楽受であり、どのようなものが苦受であり、どのようなものが不苦不楽受なのでしょうか。」

法樂比丘尼答曰：「若樂更樂所觸生，身心樂善覺，是覺謂樂覺也。若苦更樂所觸生，身心苦不善覺，是覺謂苦覺也。若不苦不樂更樂所觸生，身心不苦不樂，非善非不善覺，是覺謂不苦不樂覺。」

> 法楽比丘尼は答えた。「喜びの感覚（楽受）とは、快い刺激に触れることで生じる、心身における楽しく善い感覚のことです。苦しみの感覚（苦受）とは、苦しい刺激に触れることで生じる、心身における苦しく善くない感覚のことです。苦しくも楽しくもない感覚（不苦不楽受）とは、苦楽でもない刺激に触れることで生じる、心身において苦しくも楽しくもなく、善でも不善でもない感覚のことです。」

毘舍佉優婆夷聞已，歎曰：「善哉！善哉！賢聖！」毘舍佉優婆夷歎已，歡喜奉行。

> ビシャーカー・ウパーシカーは、これを聞いて「素晴らしい、素晴らしい！聖なる方よ！」と称賛し、そのまま喜びをもって教えを実践したのでした。

復問曰：「賢聖！樂覺者，云何樂？云何苦？云何無常？云何災患？云何使耶？苦覺者，云何樂？云何苦？云何無常？云何災患？云何使耶？不苦不樂覺者，云何樂？云何苦？云何無常？云何災患？云何使耶？」

> 尊者にさらに尋ねました。「賢聖よ、楽受とは、何が楽であり、何が苦であり、何が無常であり、何が災いであり、何に執着させるのでしょうか。苦受とは、何が楽であり、何が苦であり、何が無常であり、何が災いであり、何に執着させるのでしょうか。不苦不楽受とは、何が楽であり、何が苦であり、何が無常であり、何が災いであり、何に執着させるのでしょうか。」

法樂比丘尼答曰：「樂覺者，生樂住樂，變易苦，無常者即是災患，欲使也。苦覺者，生苦住苦，變易樂，無常者即是災患，恚使也。不苦不樂覺者，不知苦、不知樂，無常者即是變易，無明使也。」

> 法楽比丘尼が答えて言いました。「楽の感覚（楽受）とは、生じる時も保たれる時も楽であり、変化する時には苦となります。無常であること、それがまさに災いであり、執着の煩悩（欲使）なのです。苦の感覚（苦受）とは、生じる時も保たれる時も苦であり、変化する時には楽となります。無常であること、それがまさに災いであり、怒りの煩悩（恚使）なのです。苦でも楽でもない感覚（不苦不楽受）とは、苦を知らず、楽も知りません。無常であること、それがまさに変化であり、無明の煩悩（無明使）なのです。」

毘舍佉優婆夷聞已，歎曰：「善哉！善哉！賢聖！」毘舍佉優婆夷歎已，歡喜奉行。

> ビシャーカー・ウパーシカーは、これを聞いて「素晴らしい、素晴らしい！聖なる方よ！」と称賛し、そのまま喜びをもって教えを実践したのでした。

復問曰：「賢聖，一切樂覺欲使耶？一切苦覺恚使耶？一切不苦不樂覺無明使耶？」

> また問われた。「賢聖よ、すべての楽しい感覚は欲望の束縛によるものでしょうか。すべての苦しい感覚は怒りの束縛によるものでしょうか。すべての苦しくも楽しくもない感覚は無明の束縛によるものでしょうか。」

法樂比丘尼答曰：「非一切樂覺欲使也，非一切苦覺恚使也，非一切不苦不樂覺無明使也。云何樂覺非欲使耶？若比丘離欲、離惡不善之法，有覺、有觀，離生喜、樂，得初禪成就遊，是謂樂覺非欲使也。所以者何？此斷欲故。云何苦覺非恚使耶？若求上解脫樂，求願悒悒生憂苦，是謂苦覺非恚使也。所以者何？此斷恚故。云何不苦不樂覺非無明使耶？樂滅、苦滅，喜、憂本已滅，不苦不樂、捨、念、清淨，得第四禪成就遊，是謂不苦不樂覺非無明使也。所以者何？此斷無明故。」

> 法楽比丘尼が答えて言った。 「すべての楽の感覚が欲望の束縛となるわけではなく、すべての苦の感覚が怒りの束縛となるわけでもなく、すべての苦でも楽でもない感覚が無明の束縛となるわけでもありません。 では、どのような楽の感覚が欲望の束縛ではないのでしょうか。 比丘が欲望や悪しき不善の法から離れ、思考と観察を伴い、離欲から生じる喜びと楽を味わいながら、初禅を成就して安住するとき、これが楽の感覚でありながら欲望の束縛ではないものです。 なぜなら、これは欲望を断ち切るからです。 では、どのような苦の感覚が怒りの束縛ではないのでしょうか。 より高次の解脱の楽を求め、その願いを熱望して憂い苦しむとき、これが苦の感覚でありながら怒りの束縛ではないものです。 なぜなら、これは怒りを断ち切るからです。 では、どのような苦でも楽でもない感覚が無明の束縛ではないのでしょうか。 楽が滅び、苦が滅び、喜びと憂いがすでに滅び、苦でも楽でもなく、捨・念・清浄の境地により、第四禅を成就して安住するとき、これが苦でも楽でもない感覚でありながら無明の束縛ではないものです。 なぜなら、これは無明を断ち切るからです。」

毗舍佉優婆夷聞已，歎曰：「善哉！善哉！賢聖！」毗舍佉優婆夷歎已，歡喜奉行。

> 毘舎佉優婆夷、これを聞いて歎じて曰く「善きかな、善きかな、賢聖よ！」 毘舎佉優婆夷、歎じ終えて、歓喜して奉行す。

復問曰：「賢聖！樂覺者有何對耶？」

> またお尋ねしました。「聖なる方よ、楽の感覚には、何が対になっているのでしょうか？」

法樂比丘尼答曰：「樂覺者以苦覺為對。」

> 法楽比丘尼は答えて言いました。「楽という感覚には、苦という感覚が対になっているのです。」

毗舍佉優婆夷聞已，歎曰：「善哉！善哉！賢聖！」毗舍佉優婆夷歎已，歡喜奉行。

> 毘舎佉優婆夷、これを聞いて歎じて曰く「善きかな、善きかな、賢聖よ！」 毘舎佉優婆夷、歎じ終えて、歓喜して奉行す。

復問曰：「賢聖！苦覺者有何對耶？」

> さらに質問しました。「尊者よ、苦しみと感じるものには、何が対になるのですか？」

法樂比丘尼答曰：「苦覺者以樂覺為對。」

> 法楽比丘尼は答えました。「苦しみの感覚には、楽しい感覚が対となっています。」

毘舍佉優婆夷聞已，歎曰：「善哉！善哉！賢聖！」毘舍佉優婆夷歎已，歡喜奉行。

> ビシャーカー・ウパーシカーは、これを聞いて「素晴らしい、素晴らしい！聖なる方よ！」と称賛し、そのまま喜びをもって教えを実践したのでした。

復問曰：「賢聖！樂覺苦覺者有何對耶？」

> また問う。「賢聖よ、楽の感覚と苦の感覚には、何が対となるのですか？」

法樂比丘尼答曰：「樂覺苦覺者以不苦不樂為對。」

> 法楽比丘尼が答えた。「楽しい感覚と苦しい感覚には、どちらでもない感覚が対となっています。」

毘舍佉優婆夷聞已，歎曰：「善哉！善哉！賢聖！」毘舍佉優婆夷歎已，歡喜奉行。

> ビシャーカー・ウパーシカーは、これを聞いて「素晴らしい、素晴らしい！聖なる方よ！」と称賛し、そのまま喜びをもって教えを実践したのでした。

復問曰：「賢聖！不苦不樂覺者有何對耶？」

> さらに問いました。「聖者よ、苦でも楽でもない感覚には、何が対となるのでしょうか？」

法樂比丘尼答曰：「不苦不樂覺者以無明為對。」

> 法楽比丘尼が答えた。「苦しくもなく楽しくもない感覚は、無明をその対（相手）とします。」

毘舍佉優婆夷聞已，歎曰：「善哉！善哉！賢聖！」毘舍佉優婆夷歎已，歡喜奉行。

> ビシャーカー・ウパーシカーは、これを聞いて「素晴らしい、素晴らしい！聖なる方よ！」と称賛し、そのまま喜びをもって教えを実践したのでした。

復問曰：「賢聖！無明者有何對耶？」

法樂比丘尼答曰：「無明者以明為對。」

> 法楽比丘尼は答えました。「無明の対となるものは、明（智慧）です。」

毘舍佉優婆夷聞已，歎曰：「善哉！善哉！賢聖！」毘舍佉優婆夷歎已，歡喜奉行。

> ビシャーカー・ウパーシカーは、これを聞いて「素晴らしい、素晴らしい！聖なる方よ！」と称賛し、そのまま喜びをもって教えを実践したのでした。

復問曰：「賢聖！明者有何對耶？」

> また尋ねて言った。「賢者や聖者。智者には、何か対となるものがあるのでしょうか？」

法樂比丘尼答曰：「明者以涅槃為對。」

> 法楽比丘尼は答えた、「智者は涅槃を対とします。」

毘舍佉優婆夷聞已，歎曰：「善哉！善哉！賢聖！」毘舍佉優婆夷歎已，歡喜奉行。

> ビシャーカー・ウパーシカーは、これを聞いて「素晴らしい、素晴らしい！聖なる方よ！」と称賛し、そのまま喜びをもって教えを実践したのでした。

復問曰：「聖賢！涅槃者有何對耶？」

> また問うて曰く、「聖賢よ、涅槃には何か対するものがあるのですか？」

法樂比丘尼告曰：「君欲問無窮事，然君問事不能得窮我邊也。涅槃者，無對也。涅槃者，以無羂過、羂羂滅訖。以此義故，從世尊行梵行。」

> 法楽比丘尼が答えました。 「あなたは尽きることのない問いをしようとしていますが、その問いによって私の智慧の限界を知ることはできません。 涅槃とは、対立するものがない状態です。涅槃とは、すべての束縛を超え、あらゆる束縛が完全に消え去った境地です。 このような理由から、私は世尊のもとで清らかな修行をしているのです。」

於是，毘舍佉優婆夷聞法樂比丘尼所說，善受善持，善誦習已，即從坐起，稽首禮法樂比丘尼足，繞三匝而去。

> そこで、毘舎佉という在家の女性信者は、法楽比丘尼が説いた教えを聞き、それをよく理解し、よく心に留め、よく繰り返し学んだ後、座を立って、法楽比丘尼の足もとに額をつけて礼拝し、三度右回りに巡ってから立ち去った。

於是，法樂比丘尼見毘舍佉優婆夷去後不久，往詣佛所，稽首佛足，却坐一面，與毘舍佉優婆夷所共論者，盡向佛說，叉手向佛，白曰：「世尊！我如是說、如是答，非為誣謗世尊耶？說真實、說如法、說法次法耶？於如法中，非有相違、有諍、有咎耶？」

> そこで、法楽比丘尼は、毘舎佉優婆夷が立ち去った後、すぐに仏のもとへ向かい、仏の足に頭を下げて礼拝し、片隅に座りました。そして、毘舎佉優婆夷と交わした議論のすべてを仏に伝え、合掌してこう言いました。「世尊よ、私がこのように語り、このように答えたのは、世尊を誹謗するものではないでしょうか？ 真実を語り、法に従い、法の順序にかなっているでしょうか？ この法の中において、矛盾や争い、過ちはないでしょうか？」

世尊答曰：「比丘尼！汝如是說、如是答，不誣謗我，汝說真實，說如法、說法次法，於如法中而不相違，無諍咎也。比丘尼！若毘舍佉優婆夷以此句、以此文來問我者，我為毘舍佉優婆夷亦以此義、以此句、以此文而答彼也。比丘尼！此義如汝所說，汝當如是持。所以者何？此說即是義故。」

> 世尊がお答えになりました。「比丘尼よ、あなたはそのように説き、そのように答えた。それは私を誹謗するものではなく、あなたは真実を語り、法に従い、法の次第に従って説き、その法の中において相違することなく、争いの過ちもない。比丘尼よ、もし毘舎佉優婆夷がこの句、この文をもって私に問うたならば、私は毘舎佉優婆夷に対しても、まさにこの義、この句、この文をもって答えるであろう。比丘尼よ、この義はあなたが説くところのとおりである。あなたはそのように受け止めなさい。なぜならば、この説はまさに義そのものであるからだ。」

佛說如是。法樂比丘尼及諸比丘，聞佛所說，歡喜奉行。

> 仏がこのようにお説きになられた。法楽比丘尼と比丘たちは、仏の教えを聞いて、喜び、心から実践に励んだ。

法樂比丘尼經第九竟三千四十九字

> 法楽比丘尼経　第九　了<note>三千四十九字</note>