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title: "中阿含經 · 215 第一得經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
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### （二一五）中阿含例品第一得經第四第五後誦

> 例品第一 得経第四<note>第五後誦</note>

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊舍衛國，在勝林給孤獨園。

> ある時、お釈迦さまは舎衛国に滞在され、勝林給孤独園におられました。

爾時，世尊告諸比丘：「若拘薩羅王波斯匿所有境界，教令所及，彼中拘薩羅王波斯匿最為第一。拘薩羅王波斯匿者，變易有異，多聞聖弟子如是觀則厭彼，厭彼已，尚不欲第一，況復下賤？所謂日月境界，光明所照，所照諸方，謂千世界。此千世界，有千日、千月、千弗于逮、千閻浮洲、千拘陀尼洲、千欝單越洲、千須彌山、千四大王天、千四天王子、千三十三天、千釋天因陀羅、千㷔摩天、千須焰摩天子，千兜率哆天、千兜率哆天子，千化樂天、千善化樂天子、千他化樂天、千自在天子，千梵世界及千別梵。彼中有一梵大梵，富祐作化尊，造眾生父，已有當有。彼大梵者，變易有異。多聞聖弟子如是觀則厭彼，厭彼已，尚不欲第一，況復下賤？後時此世敗壞，此世敗壞時，眾生生晃昱天中。彼中有色乘意生，具足一切，支節不減，諸根不壞，以喜為食，形色清淨，自身光照，飛乘虛空，住彼久遠。晃昱天者，變易有異。多聞聖弟子如是觀則厭彼，厭彼已，尚不欲第一，況復下賤？

> その時、世尊は比丘たちに告げられた。「コーサラ王パセーナディがその領土において支配権を及ぼす限り、その範囲内ではコーサラ王パセーナディが最も優れている。しかし、そのコーサラ王パセーナディもまた、変化し、異なるものとなる。よく学んだ聖なる弟子は、このように観察して、それに厭い、厭い終われば、最高のものとさえ望まず、ましてや下賤なものを望むだろうか。 いわゆる日月の領域、光明が照らす範囲、それが照らす方々、すなわち千の世界。この千の世界には、千の太陽、千の月、千の弗于逮（フダティ）、千の閻浮洲（エンブジュ）、千の拘陀尼洲（クダニジュ）、千の鬱単越洲（ウッタンエツジュ）、千の須弥山（シュミセン）、千の四大王天（シ・ダイ・オウ・テン）、千の四天王子、千の三十三天（トウサンテン）、千の釈天因陀羅（シャクテン・インタラ）、千の焔摩天（エンマテン）、千の須焔摩天子、千の兜率哆天（トソツタテン）、千の兜率哆天子、千の化楽天（ケラクテン）、千の善化楽天子、千の他化楽天（タケラクテン）、千の自在天子、千の梵世界（ボンセカイ）、そして千の別の梵天がある。その中に一人の大梵天（ダイ・ボン・テン）がいる。富み、恵み、造化を司り、尊く、あらゆるものを創造し、衆生の父であり、すでに存在し、これからも存在する。その大梵天もまた、変化し、異なるものとなる。よく学んだ聖なる弟子は、このように観察して、それに厭い、厭い終われば、最高のものとさえ望まず、ましてや下賤なものを望むだろうか。 その後、この世界が壊れゆく時、世界が壊れゆく時、衆生は晃昱天（コウイク・テン）に生まれる。そこでは、色をもって意によって生まれ、すべての支分が欠けず、諸根が壊れず、喜びを食物とし、形や色は清らかで、自身の光が輝き、虚空を飛び、そこに長く住む。その晃昱天もまた、変化し、異なるものとなる。よく学んだ聖なる弟子は、このように観察して、それに厭い、厭い終われば、最高のものとさえ望まず、ましてや下賤なものを望むだろうか。」

「復次，有四想，有比丘想小、想大、想無量、想無所有，眾生如是樂想意解者，變易有異。多聞聖弟子如是觀則厭彼，厭彼已，尚不欲第一，況復下賤？復次有八除處。云何為八？比丘，內有色想，外觀色，少善色惡色，彼色除已知、除已見，作如是想：『是謂第一除處。』復次，比丘！內有色想，外觀色，無量善色惡色，彼色除已知、除已見，作如是想：『是謂第二除處。』復次，比丘！內無色想，外觀色，少善色惡色，彼色除已知、除已見，作如是想：『是謂第三除處。』復次，比丘！內無色想，外觀色，無量善色惡色，彼色除已知、除已見，作如是想：『是謂第四除處。』

> さらに、四つの想（イメージ）があります。比丘は、小さな想、大きな想、無量の想、無所有の想を持ちます。生き物たちはこのように想を楽しみ、心で理解し、変化し、異なった状態になります。 多くのことを学んだ聖なる弟子は、このように観察すると、それに厭离します。厭离したならば、第一のものをも欲しがらず、ましてや下賤なものを欲しがるでしょうか。 さらに、八つの除処（解放の境地）があります。八つとは何でしょうか。 比丘よ、内に色の想いがあり、外に色を観る。わずかな善い色、悪い色がある。その色を除いて、すでに知り、すでに見て、こう想います。『これが第一の除処である。』 さらに、比丘よ、内に色の想いがあり、外に色を観る。無量の善い色、悪い色がある。その色を除いて、すでに知り、すでに見て、こう想います。『これが第二の除処である。』 さらに、比丘よ、内に色の想いがなく、外に色を観る。わずかな善い色、悪い色がある。その色を除いて、すでに知り、すでに見て、こう想います。『これが第三の除処である。』 さらに、比丘よ、内に色の想いがなく、外に色を観る。無量の善い色、悪い色がある。その色を除いて、すでに知り、すでに見て、こう想います。『これが第四の除処である。』

「復次，比丘！內無色想，外觀色，青青色，青見青光。猶如青水華，青青色，青見青光。猶如成就波羅㮈衣，熟擣磨碾，光色悅澤，青青色，青見青光。如是，比丘！內無色想，外觀色，青青色，青見青光，無量無量，淨意潤意，樂不憎惡。彼色除已知、除已見，作如是想：『是謂第五除處。』復次，比丘！內無色想，外觀色，黃黃色，黃見黃光。猶如頻頭歌羅華，黃黃色，黃見黃光。猶如成就波羅㮈衣，熟擣磨碾，光色悅澤，黃黃色，黃見黃光。如是，比丘！內無色想，外觀色，黃黃色，黃見黃光，無量無量，淨意潤意，樂不憎惡。彼色除已知、除已見，作如是想：『是謂第六除處。』

> また、比丘たちよ。心の中に色の想いがないまま、外に向かって色を観察する。それは青く、青い色、青い光である。まるで青い蓮の花が、青く、青い色、青い光であるかのように。また、よく作られたベナレスの布を、よく搗き、磨き、碾いたように、その光沢は美しく、青く、青い色、青い光である。このように、比丘たちよ。心の中に色の想いがないまま、外に向かって色を観察する。それは青く、青い色、青い光である。限りなく、限りなく、心は清らかで、潤い、楽しく、嫌悪の念はない。その色を、すでに知り、すでに見たものとして退けて、こう想いなさい。『これが第五の解脱の境地である。』 また、比丘たちよ。心の中に色の想いがないまま、外に向かって色を観察する。それは黄色く、黄色い色、黄色い光である。まるでキンズバラの花が、黄色く、黄色い色、黄色い光であるかのように。また、よく作られたベナレスの布を、よく搗き、磨き、碾いたように、その光沢は美しく、黄色く、黄色い色、黄色い光である。このように、比丘たちよ。心の中に色の想いがないまま、外に向かって色を観察する。それは黄色く、黄色い色、黄色い光である。限りなく、限りなく、心は清らかで、潤い、楽しく、嫌悪の念はない。その色を、すでに知り、すでに見たものとして退けて、こう想いなさい。『これが第六の解脱の境地である。』

「復次，比丘！內無色想，外觀色，赤赤色，赤見赤光。猶如加尼歌羅華，赤赤色，赤見赤光。猶如成就波羅㮈衣，熟擣磨碾，光色悅澤，赤赤色，赤見赤光。如是，比丘！內無色想，外觀色，赤赤色，赤見赤光，無量無量，淨意潤意，樂不憎惡。彼色除已知、除已見，作如是想：『是謂第七除處。』復次，比丘！內無色想，外觀色白，白色、白見、白光；猶如太白，白色、白見、白光；猶如成就波羅㮈衣熟擣磨碾、光色悅澤白，白色、白見、白光。如是，比丘！內無色想，外觀色白，白色、白見、白光，無量無量淨意、潤意，樂不憎惡。彼色除已知、除已見，作如是想：『是謂第八除處。』眾生如是樂除處意解者，變易有異。多聞聖弟子如是觀則厭彼，厭彼已，尚不欲第一，況復下賤？

> また、比丘たちよ。心の中で色の想いを離れ、外に向かって色を観察する。その色は赤く、まさに赤く、赤く見え、赤い光を放つ。あたかもガニカローラの花のように、赤く、まさに赤く、赤く見え、赤い光を放つ。また、よく仕上げられたバラナシの布を、よく搗き、よく磨き、色艶が美しく、赤く、まさに赤く、赤く見え、赤い光を放つように。そのように、比丘たちよ。心の中で色の想いを離れ、外に向かって色を観察する。その色は赤く、まさに赤く、赤く見え、赤い光を放つ。無限に、無量に、心は清らかで潤い、楽しく、嫌悪することがない。その色を、すでに知り、すでに見たものとして除き、こう想い描く。「これが第七の解脱処である」と。 さらに、比丘たちよ。心の中で色の想いを離れ、外に向かって色を観察する。その色は白く、白く見え、白い光を放つ。あたかも明るい星のように、白く、白く見え、白い光を放つ。また、よく仕上げられたバラナシの布を、よく搗き、よく磨き、色艶が美しく白く、白く見え、白い光を放つように。そのように、比丘たちよ。心の中で色の想いを離れ、外に向かって色を観察する。その色は白く、白く見え、白い光を放つ。無限に、無量に、心は清らかで潤い、楽しく、嫌悪することがない。その色を、すでに知り、すでに見たものとして除き、こう想い描く。「これが第八の解脱処である」と。 こうして、人々がこれらの解脱処に心を解き放ち楽しんでも、それらは変化し異なるものとなる。聡明な聖弟子たちは、このように観察してそれらに厭離する。厭離したならば、最も優れたものにさえ執着せず、ましてや劣ったものに執着することはない。

「復次，有十一切處。云何為十？有比丘無量地處修一，思惟上下諸方不二，無量水處，無量火處，無量風處，無量青處，無量黃處，無量赤處，無量白處，無量空處，無量識處第十修一，思惟上下諸方不二。眾生如是樂一切處意解者，變易有異。多聞聖弟子如是觀則厭彼，厭彼已，尚不欲第一，況復下賤？是謂第一清淨說，施設最第一，謂我無、我不有，及為彼證故，施設於道，是謂第一外依見處、最依見處，謂度一切色想，乃至得非有想非無想處成就遊。是謂於現法中第一，求趣至涅槃，於現法中最施設涅槃，謂六更樂處生、滅、味、離、慧見如真，及為彼證故，施設於道。

> さらに、十遍処（すべてに行き渡る観想の対象）というものがある。どのような十かというと、比丘が無量の地の処を一つとして修め、上下・諸方において一つと異なることがないと観想する。無量の水の処、無量の火の処、無量の風の処、無量の青の処、無量の黄の処、無量の赤の処、無量の白の処、無量の空の処、無量の識の処を第十として一つと修め、上下・諸方において一つと異なることがないと観想する。 このように、衆生が「一切処」を楽しみ、それを理解して安らうとしても、それは移り変わり、違いがあるものである。 多く聞いた聖なる弟子は、このように観察すると、それらに厭離する。厭離したならば、たとえ最上のものさえも欲せず、ましてや下賤なものを望むことはない。これが第一の清らかな説であり、最も優れた教えとして定められたものである。すなわち「私がある」ということもなく、「私が存在する」ということもないと理解し、そのことを証するために道を施すことである。 これが第一の外的な見解に依る処、最も優れた見解に依る処である。すなわち、あらゆる物質的な想いを超越し、非想非非想処（あるともないとも言えない境地）に達して安住することである。 これが現世における第一の、涅槃へと向かう求め方であり、現世において最もすぐれた涅槃の教えである。すなわち、六つの接触による感受の生じ、滅し、味わい、離れ、智慧によってありのままに見ること、そしてそのことを証するために道を施すことである。

「復次，有四斷。云何為四？有斷樂遲，有斷樂速，有斷苦遲，有斷苦速，於中若有斷樂遲者，是樂遲故，說下賤。於中若有斷樂欲，若有人習此法初無厭足，若復有人習飲酒者初無厭足，若復有人修習睡眠初無厭足，是謂比丘若人有習此三法者初無厭足，亦復不能至滅盡處。是故諸比丘常當捨離此三法不親近之，如是諸比丘當作是學。」爾時諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。

> さらに、四つの「断ち切り」がある。どのような四つか？ 楽しくても遅い断ち切り、楽しくて速い断ち切り、苦しくても遅い断ち切り、苦しくて速い断ち切りである。 このうち、楽しくても遅い断ち切りは、楽しいけれども遅いという理由で、下劣であると言われる。 また、この中で、欲望を楽しむ断ち切りがある。もしある人がこの法を修行しても、最初から満足することがない。もしある人が酒を飲むことを修行しても、最初から満足することがない。もしある人が睡眠を修行しても、最初から満足することがない。比丘たちよ、これが、ある人がこの三つの法を修行しても、最初から満足することがなく、また滅尽の境地に至ることもできない、ということである。 だからこそ、比丘たちよ、常にこの三つの法を捨て去り、近づいてはならない。このように、比丘たちよ、学ぶべきである。」 その時、比丘たちは仏の説かれたことを聞き、喜んで実践した。

供養、三善根 三痛、三覆露相法、三不覺 愛敬、無厭足

> 供養と三善根、 三つの苦しみと三つの覆い隠し。 諸相と三つの無明、 敬愛と飽くことなき執着。

第一得經第四竟一千三百七十一字

> 第一の法を得ること　第四の章　了<note>千三百七十一字</note>

## 中阿含經卷第五十九一萬七百七十二字第五後誦

> 中阿含経 第59巻

「若有斷樂速者，此斷樂速故，此斷亦說下賤。於中若有斷苦遲者，此斷苦遲故，此斷亦說下賤。於中若有斷苦速者，此斷苦速故，此斷非廣布、不流布，乃至天人亦不稱廣布，我斷廣布流布，乃至天人亦稱廣布。云何我斷廣布流布，乃至天人亦稱廣布？謂八支正道，正見乃至正定為八，是謂我斷廣布流布，乃至天人亦稱廣布。我如是，諸沙門、梵志虛偽妄言，不善不真，實誣謗於我，彼實有眾生施設斷壞，沙門瞿曇無所施設，彼實有眾生施設斷壞。若此無我不如是說，彼如來於現法中斷知一切，得息、止、滅、涅槃。」

> 「もしも楽を捨てるのが遅い修行があるなら、その楽を捨てるのが遅いという理由で、その捨て方は『劣ったもの』と言われる。また、苦を捨てるのが遅い修行があるなら、その苦を捨てるのが遅いという理由で、その捨て方も『劣ったもの』と言われる。さらに、苦を捨てるのが速やかな修行があるなら、その苦を捨てるのが速いという理由で、その捨て方は広く行われず、人々の間に流布せず、天人の間でも広く称賛されることはない。 しかし、私の捨て方は広く行われ、人々の間に流布し、天人の間でも広く称賛されている。では、どのような私の捨て方が広く行われ、流布し、天人の間でも称賛されているのか。それは八正道、すなわち正しい見解から正しい心の統一に至る八つの道である。これこそが、広く行われ、流布し、天人の間でも称賛されている私の捨て方である。 このように私は説いているのに、ある沙門やバラモンたちは、偽りで嘘をつき、善からず真実ではなく、私に対して根拠のない非難をしている。すなわち、『確かに生きとし生けるものはあり、それを“断ち壊す”と説くが、沙門ゴータマは何も説かない。確かに生きとし生けるものはあり、それを“断ち壊す”と説くが、それなのに無我を説くゴータマはそのように語らない』と。しかし、如来は現世において一切をあるがままに知り尽くし、心の静けさ、止滅、涅槃に達しているのである。」

佛說如是。彼諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。

> このように仏は説かれました。比丘たちは仏の説かれたことを聞き、喜んでお受け取りになりました。