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title: "中阿含經 · 222 例經"
description: "中阿含经是佛教重要经典之一，由东晋时期译经师瞿昙僧伽提婆翻译。该经属于原始佛教阿含部经典，收录于汉传佛教大藏经中，与长阿含经、杂阿含经、增一阿含经并称四阿含。内容主要记载佛陀与弟子们的对话，涵盖佛教基本教义如四谛、八正道、十二因缘等核心思想。经文以中篇形式呈现，结构严谨，是研究早期佛教教理的重要文献。作为原始佛教经典，中阿含经在佛教史上具有重要地位，为后世各宗派共同尊奉，对理解佛陀原始教法具有不可替代的价值。"
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### （二二二）中阿含例品例經第十一第五後誦

> （二二二）中阿含 例品 例経 第十一<note>第五 後誦</note>

我聞如是：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊舍衛國，在勝林給孤獨園。

> ある時、お釈迦さまは舎衛国に滞在され、勝林給孤独園におられました。

爾時，世尊告諸比丘：「若欲斷無明者，當修四念處。云何欲斷無明者，當修四念處？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，觀內身如身，至觀覺、心、法如法，是謂欲斷無明者，當修四念處。如是數斷、解脫、過度、拔絕、滅止、總知、別知，欲別知無明者，當修四念處。云何欲別知無明者，當修四念處？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，觀內身如身，至觀覺、心、法如法，是謂欲別知無明者，當修四念處。

> ある時、世尊は比丘たちに告げられた。「もし無明を断ち切りたいと思うなら、四念処を修めなさい。なぜ無明を断ち切りたいと思う者が、四念処を修めるべきなのか。それは、如来が世に現れ、執着なく、正しく悟り、明らかな行いと智慧を完成させ、善く逝き、世間を理解し、最高の者、道の法を導く者、天と人の師であり、仏陀、一切の福徳ある者と称される時である。その者は五つの障り（心を汚し、智慧を弱らせるもの）を断ち、身体をそのままに観察し、感覚、心、法をそのままに観察する。これが、無明を断ち切りたいと思う者が四念処を修めるべき理由である。このようにして、繰り返し断ち、解脱し、超え、抜き去り、滅ぼし、止め、全てを知り、個別に知る。無明を個別に知りたいと思う者は、四念処を修めなさい。では、なぜ無明を個別に知りたいと思う者が、四念処を修めるべきなのか。それは、如来が世に現れ、執着なく、正しく悟り、明らかな行いと智慧を完成させ、善く逝き、世間を理解し、最高の者、道の法を導く者、天と人の師であり、仏陀、一切の福徳ある者と称される時である。その者は五つの障り（心を汚し、智慧を弱らせるもの）を断ち、身体をそのままに観察し、感覚、心、法をそのままに観察する。これが、無明を個別に知りたいと思う者が四念処を修めるべき理由である。」

「欲斷無明者，當修四正斷。云何欲斷無明者，當修四正斷？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，已生惡不善法為斷故，發欲求方便，精勤舉心斷。未生惡不善法為不生故，發欲求方便，精勤舉心斷。未生善法為生故，發欲求方便，精勤舉心斷。已生善法為久住不忘、不退、增長、廣大修習具足故，發欲求方便，精勤舉心斷。是謂欲斷無明者，當修四正斷。如是數斷、解脫、過度、拔絕、滅止、總知、別知，欲別知無明者，當修四正斷。云何欲別知無明者，當修四正斷？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，已生惡不善法為斷故，發欲求方便，精勤舉心斷。未生惡不善法為不生故，發欲求方便，精勤舉心斷。未生善法為生故，發欲求方便，精勤舉心斷。已生善法為久住不忘、不退、增長、廣大修習具足故，發欲求方便，精勤舉心斷。是謂欲別知無明者，當修四正斷。

> 無明を断ち切りたいと望む人は、「四つの正しい努力」を実践すべきです。なぜなら、無明を断ち切ろうとする人が、この四つの正しい努力を修めるべきなのです。 例えば、如来がこの世に現れ、執着するものがなく、正しく悟りを開き、明と行いを完璧に成就し、善く逝き、世間を理解し、最上の者であり、道を示し、人々と天人の師であり、仏陀、衆生の帰依処と称されるお方がいる。 その如来は、心を汚し智慧を弱らせる五つの障り（五蓋）などを断ち切る。 すでに生じた悪しき不善の法を断ち切るために、願いや方法を起こし、精進し、心を奮い立たせて断つ。 まだ生じていない悪しき不善の法が生じないようにするために、願いや方法を起こし、精進し、心を奮い立たせて断つ。 まだ生じていない善い法を生じさせるために、願いや方法を起こし、精進し、心を奮い立たせて修める。 すでに生じた善い法が長く留まり、忘れず、退かず、増大し、広く完全に修習されるために、願いや方法を起こし、精進し、心を奮い立たせて修める。 これが、「無明を断ち切りたいと望む人は、四つの正しい努力を実践すべきである」ということです。 このようにして、繰り返し断ち切り、解脱し、乗り越え、根絶し、滅し、止め、全てを理解し、個々に知り尽くす。 無明を個別に知ろうと望む人は、四つの正しい努力を実践すべきです。 では、無明を個別に知ろうとする人が、なぜ四つの正しい努力を実践すべきなのでしょうか。 例えば、如来がこの世に現れ、執着するものがなく、正しく悟りを開き、明と行いを完璧に成就し、善く逝き、世間を理解し、最上の者であり、道を示し、人々と天人の師であり、仏陀、衆生の帰依処と称されるお方がいる。 その如来は、心を汚し智慧を弱らせる五つの障りなどを断ち切る。 すでに生じた悪しき不善の法を断ち切るために、願いや方法を起こし、精進し、心を奮い立たせて断つ。 まだ生じていない悪しき不善の法が生じないようにするために、願いや方法を起こし、精進し、心を奮い立たせて断つ。 まだ生じていない善い法を生じさせるために、願いや方法を起こし、精進し、心を奮い立たせて修める。 すでに生じた善い法が長く留まり、忘れず、退かず、増大し、広く完全に修習されるために、願いや方法を起こし、精進し、心を奮い立たせて修める。 これが、「無明を個別に知ろうと望む人は、四つの正しい努力を実践すべきである」ということです。

「欲斷無明者，當修四如意足。云何欲斷無明者，當修四如意足？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，修欲定如意足，成就斷行，依離、依無欲、依滅，趣非品，如是修精進定、心定也。修思惟定如意足，成就斷行，依離、依無欲、依滅，趣非品，是謂欲斷無明者，當修四如意足。如是數斷、解脫、過度、拔絕、滅止、總知、別知，欲別知無明者，當修四如意足。云何欲別知無明者，當修四如意足？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐，彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，修欲定如意足，成就斷行。依離、依無欲、依滅，趣非品，如是修精進定、心定也。修思惟定如意足，成就斷行，依離、依無欲、依滅，趣非品，是謂欲別知無明者，當修四如意足。

> 無明を断ち切りたいと願う人は、四つの如意足を修行すべきである。なぜ無明を断ち切りたいと願う人が四つの如意足を修行すべきなのか。もし時に如来がこの世に現れ、執着なく、正しく目覚め、明行を成就し、善く逝き、世間を理解し、無上の者であり、道を説き調御し、天人の師となり、仏、衆祐と称されるならば。その方は、五つの蓋（心の汚れと智慧の弱まり）を断ち、欲望に基づく定の如意足を修め、断行を成就し、離れ、無欲、滅びに依り、非品へと向かう。このように精進の定、心の定も修める。また、思考に基づく定の如意足を修め、断行を成就し、離れ、無欲、滅びに依り、非品へと向かう。これこそが、無明を断ち切りたいと願う人が、四つの如意足を修行すべき理由である。このようにして、繰り返し断ち、解き放ち、超え、抜き去り、滅し止め、総じて知り、別々に知る。無明を別々に知りたいと願う人は、四つの如意足を修行すべきである。なぜ無明を別々に知りたいと願う人が四つの如意足を修行すべきなのか。もし時に如来がこの世に現れ、執着なく、正しく目覚め、明行を成就し、善く逝き、世間を理解し、無上の者であり、道を説き調御し、天人の師となり、仏、衆祐と称されるならば。その方は、五つの蓋（心の汚れと智慧の弱まり）を断ち、欲望に基づく定の如意足を修め、断行を成就する。離れ、無欲、滅びに依り、非品へと向かう。このように精進の定、心の定も修める。また、思考に基づく定の如意足を修め、断行を成就し、離れ、無欲、滅びに依り、非品へと向かう。これこそが、無明を別々に知りたいと願う人が、四つの如意足を修行すべき理由である。

「欲斷無明者，當修四禪。云何欲斷無明者，當修四禪？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，離欲，離惡不善之法，至得第四禪成就遊。是謂欲斷無明者，當修四禪。如是數斷、解脫、過度、拔絕、滅止、總知、別知，欲別知無明者，當修四禪。云何欲別知無明者，當修四禪？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，離欲，離惡不善之法，至得第四禪成就遊。是謂欲別知無明者，當修四禪。

> 無明を断ち切りたいと思ったならば、四つの禅定（四禅）を修行すべきです。なぜ無明を断ち切ろうとする者が四禅を修行すべきなのでしょうか。例えば、如来がこの世に現れた時、執着するものがなく、正しく悟りを開き、明らかな智慧と行いを完成させ、善く逝き、世間を理解し、最も優れた者であり、道の法を巧みに説き、天と人間の師であり、仏陀、衆生の守護者と称される方です。その方は、心の汚れや智慧の弱さを生む五つの障り（五蓋）を断ち、欲望から離れ、悪しき善からざる法から離れて、第四禅に達し、そこに安住しました。これこそが、無明を断ち切ろうとする者が四禅を修行すべき理由です。このようにして、煩悩を断ち、解放され、超え、抜け出し、滅ぼし、静め、完全に知り、分別して知るのです。無明を分別して知りたいと思うならば、四禅を修行すべきです。なぜ無明を分別して知ろうとする者が四禅を修行すべきなのでしょうか。例えば、如来がこの世に現れた時、執着するものがなく、正しく悟りを開き、明らかな智慧と行いを完成させ、善く逝き、世間を理解し、最も優れた者であり、道の法を巧みに説き、天と人間の師であり、仏陀、衆生の守護者と称される方です。その方は、心の汚れや智慧の弱さを生む五つの障り（五蓋）を断ち、欲望から離れ、悪しき善からざる法から離れて、第四禅に達し、そこに安住しました。これこそが、無明を分別して知ろうとする者が四禅を修行すべき理由です。

「欲斷無明者，當修五根。云何欲斷無明者，當修五根？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，修信根、精進、念、定、慧根，是謂欲斷無明者，當修五根。如是發斷、解脫、過度、拔絕、滅止、總知、別知，欲別知無明者，當修五根。云何欲別知無明者，當修五根？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，修信根、精進、念、定、慧根，是謂欲別知無明者，當修五根。

> 無明を断ち切りたいと思うなら、五つの根（五根）を修行すべきである。では、なぜ無明を断ち切りたい者は五つの根を修行すべきなのか。それは、如来がこの世に現れ、執着なく、正しく目覚め、明らかな智慧と行いを具え、善く逝き、世間を理解し、無上なる者、道を説く調御者、天人の師となり、仏陀、世の宝と称される時である。その如来は、五つの蓋（心の汚れ、智慧の弱まり）を断ち切り、信の根、精進の根、念の根、定の根、慧の根を修行する。これが、無明を断ち切りたい者が五つの根を修行すべき理由である。このようにして、断ち切り、解脱し、超え、抜き去り、滅し、止め、完全に知り、分別して知る。無明を分別して知りたいと思うなら、五つの根を修行すべきである。では、なぜ無明を分別して知りたい者は五つの根を修行すべきなのか。それは、如来がこの世に現れ、執着なく、正しく目覚め、明らかな智慧と行いを具え、善く逝き、世間を理解し、無上なる者、道を説く調御者、天人の師となり、仏陀、世の宝と称される時である。その如来は、五つの蓋（心の汚れ、智慧の弱まり）を断ち切り、信の根、精進の根、念の根、定の根、慧の根を修行する。これが、無明を分別して知りたい者が五つの根を修行すべき理由である。

「欲斷無明者，當修五力。云何欲斷無明者，當修五力？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，修信力、精進、念、定、慧力，是謂欲斷無明者，當修五力。如是數斷、解脫、過度、拔絕、滅止、總知、別知，欲別知無明者，當修五力。云何欲別知無明者，當修五力？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，修信力、精進、念、定、慧力，是謂欲別知無明者，當修五力。

> 無明を断ち切りたいと願うならば、五つの力を修行すべきです。なぜ無明を断ち切りたい者は五つの力を修行すべきなのでしょうか。それは、如来がこの世に現れ、何にも執着せず、悟りを開き、行いと知恵を完成し、善く逝き、世間を理解し、最上無類の調御者、天人の師、仏陀、世の尊と称される時です。その如来は、心を汚し智慧を弱らせる五つの蓋を断ち切った上で、信の力・精進の力・念の力・定の力・慧の力を修行します。これこそが、無明を断ち切りたい者が五つの力を修行すべき理由です。 このようにして、数えきれないほどの煩悩を断ち、解脱し、超え、抜き去り、滅尽し、止滅させ、総じて知り、個別に知るのです。無明を個別に知りたいと願うならば、五つの力を修行すべきです。なぜ無明を個別に知りたい者は五つの力を修行すべきなのでしょうか。それは、如来がこの世に現れ、何にも執着せず、悟りを開き、行いと知恵を完成し、善く逝き、世間を理解し、最上無類の調御者、天人の師、仏陀、世の尊と称される時です。その如来は、心を汚し智慧を弱らせる五つの蓋を断ち切った上で、信の力・精進の力・念の力・定の力・慧の力を修行します。これこそが、無明を個別に知りたい者が五つの力を修行すべき理由です。

「欲斷無明者，當修七覺支。云何欲斷無明者，當修七覺支？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，修念覺支，依離、依無欲、依滅，趣非品，如是修法、精進、喜、息、定也。修捨覺支，依離、依無欲、依滅，趣非品，是謂欲斷無明者，當修七覺支。如是數斷、解脫、過度、拔絕、滅止、總知、別知，欲別知無明者，當修七覺支。云何欲別知無明者，當修七覺支？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，修念覺支，依離、依無欲、依滅，趣非品，如是修法、精進、喜、息、定也。修捨覺支，依離、依無欲、依滅，趣非品，是謂欲別知無明者，當修七覺支。

> 無明を断ち切りたい者は、七つの覚りの支分（七覚支）を修行すべきである。なぜ無明を断ち切りたい者は七覚支を修行すべきなのか。もしある時、如来がこの世に現れ、執着なく、正しく目覚め、智慧と行いを完成し、善き境地に赴き、世間を了解し、最も優れた者、道を示す調御者、天と人の師であり、仏、衆祐と称されるならば。その時、心の汚れである五つの障り（五蓋）さえも断ち切り、智慧を弱らせるものを除き、念覚支を修め、離欲に依り、無欲に依り、滅尽に依り、非品（煩悩なき境地）に向かう。同様に、法・精進・喜・息（軽安）・定（禅定）の各覚支も修める。また、捨覚支を修め、離欲に依り、無欲に依り、滅尽に依り、非品に向かう。これを、無明を断ち切りたい者は七覚支を修行すべきであると言うのである。 このようにして（無明を）断ち切り、解脱し、超越し、根絶し、滅尽し、完全に知り、個別に知る。無明を個別に知りたい者は、七覚支を修行すべきである。なぜ無明を個別に知りたい者は七覚支を修行すべきなのか。もしある時、如来がこの世に現れ、執着なく、正しく目覚め、智慧と行いを完成し、善き境地に赴き、世間を了解し、最も優れた者、道を示す調御者、天と人の師であり、仏、衆祐と称されるならば。その時、心の汚れである五つの障りさえも断ち切り、智慧を弱らせるものを除き、念覚支を修め、離欲に依り、無欲に依り、滅尽に依り、非品に向かう。同様に、法・精進・喜・息・定の各覚支も修める。また、捨覚支を修め、離欲に依り、無欲に依り、滅尽に依り、非品に向かう。これを、無明を個別に知りたい者は七覚支を修行すべきであると言うのである。

「欲斷無明者，當修八支聖道。云何欲斷無明者，當修八支聖道？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，修正見乃至修正定為八，是謂欲斷無明者，當修八支聖道。如是數斷、解脫、過度、拔絕、滅止、總知、別知，欲別知無明者，當修八支聖道。云何欲別知無明者，當修八支聖道？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，修正見乃至修正定為八，是謂欲別知無明者，當修八支聖道。

> 無明を断ち切りたいと望むなら、八支聖道を修行すべきです。では、なぜ無明を断ち切りたい者は八支聖道を修行すべきなのでしょうか。それは、如来がこの世に現れ、執着なく、正しく悟りを開き、明らかな智慧と行いを具え、善きところへ赴き、世の中を理解し、最高の教え手であり、道を説く導き手であり、天や人の師であり、仏陀、世の人々の依りどころと呼ばれる方である時、その方は五つの障り（心の汚れ、智慧の弱さ）を断ち切ります。そして、正しい見解から正しい禅定に至る八つの支分を修行します。このようにして、無明を断ち切りたいと望む者は、八支聖道を修行すべきなのです。このように修行することで、断ち切り、解脱し、超え、抜き去り、滅ぼし、止め、完全に知り、そして個別に知ることができます。無明を個別に知りたいと望むなら、八支聖道を修行すべきです。では、なぜ無明を個別に知りたい者は八支聖道を修行すべきなのでしょうか。それは、如来がこの世に現れ、執着なく、正しく悟りを開き、明らかな智慧と行いを具え、善きところへ赴き、世の中を理解し、最高の教え手であり、道を説く導き手であり、天や人の師であり、仏陀、世の人々の依りどころと呼ばれる方である時、その方は五つの障り（心の汚れ、智慧の弱さ）を断ち切ります。そして、正しい見解から正しい禅定に至る八つの支分を修行します。このようにして、無明を個別に知りたいと望む者は、八支聖道を修行すべきなのです。

「欲斷無明者，當修十一切處。云何欲斷無明者，當修十一切處？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，修第一地一切處，四維上下不二、無量。如是修水一切處、火一切處、風一切處、青一切處、黃一切處、赤一切處、白一切處、無量空處一切處。修第十無量識處一切處，四維上下不二、無量，是謂欲斷無明者，當修十一切處。如是數斷、解脫、過度、拔絕、滅止、總知、別知，欲別知無明者，當修十一切處。云何欲別知無明者，當修十一切處？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，修第一地一切處，四維上下不二、無量，如是修水一切處、火一切處、風一切處、青一切處、黃一切處、赤一切處、白一切處、無量空處一切處。修第十無量識處一切處，四維上下不二、無量。是謂欲別知無明者，當修十一切處。

> 無明を断ち切りたいと望む人は、十遍すべてを修めるべきです。なぜなら、無明を断ち切りたいと望む人は、十遍すべてを修めるべきだからです。 例えば、如来がこの世に現れ、執着がなく、正しく悟りを開き、明と行いを成就し、善き往生を遂げ、世間を理解し、比類なき者、道を説き導く者、天人の師となり、仏、衆生の守護者と称される時。 その方は、五つの蓋（五蓋）──心の汚れと智慧の弱さ──を断ち、まさに第一の地遍（すべては地であるという観想）を修め、四方上下に隔てなく無限に広がるものとします。 同じように、水遍、火遍、風遍、青遍、黄遍、赤遍、白遍、空無辺処遍を修めます。 そして第十の識無辺処遍を修め、四方上下に隔てなく無限に広がるものとします。 これが、無明を断ち切りたいと望む人は十遍すべてを修めるべきである、という意味です。 このように、断ち切り、解脱し、超え、抜け出し、滅し、止め、総じて知り、個別に知るために、無明を個別に知りたいと望む人は、十遍すべてを修めるべきです。 なぜなら、無明を個別に知りたいと望む人は、十遍すべてを修めるべきだからです。 例えば、如来がこの世に現れ、執着がなく、正しく悟りを開き、明と行いを成就し、善き往生を遂げ、世間を理解し、比類なき者、道を説き導く者、天人の師となり、仏、衆生の守護者と称される時。 その方は、五つの蓋──心の汚れと智慧の弱さ──を断ち、まさに第一の地遍を修め、四方上下に隔てなく無限に広がるものとします。 同じように、水遍、火遍、風遍、青遍、黄遍、赤遍、白遍、空無辺処遍を修めます。 そして第十の識無辺処遍を修め、四方上下に隔てなく無限に広がるものとします。 これが、無明を個別に知りたいと望む人は十遍すべてを修めるべきである、という意味です。

「欲斷無明者，當修十無學法。云何欲斷無明者，當修十無學法？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，修無學正見，乃至修無學正智，是謂欲斷無明者，當修十無學法。如是數斷、解脫、過度、拔絕、滅止、總知、別知，欲別知無明者，當修十無學法。云何欲別知無明者，當修十無學法？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，修無學正見，乃至修無學正智。是謂欲別知無明者，當修十無學法。

> 「無明を断ち切りたいと思うなら、十の無学法を修めるべきである。では、なぜ無明を断ち切りたい者は十の無学法を修めるべきなのか。 例えば、如来がこの世に現れたとする。彼は執着なく、正しく悟りを開き、明と行を完全に成就し、善逝であり、世間を理解し、比類なき導き手であり、道の法を調御し、天人の師であり、仏陀、衆生の救い主と呼ばれる。その者は、五つの蓋（貪欲、瞋恚、睡眠、掉悔、疑）という心の汚れと智慧の弱まりを断ち切り、無学の正見から無学の正智に至るまでを修める。これを、無明を断ち切りたい者は十の無学法を修めるべきだと言うのである。 このようにして、断ち切り、解脱し、超越し、根絶し、止滅させ、全知し、別知するのである。無明を別知したいと思うなら、十の無学法を修めるべきである。では、なぜ無明を別知したい者は十の無学法を修めるべきなのか。 例えば、如来がこの世に現れたとする。彼は執着なく、正しく悟りを開き、明と行を完全に成就し、善逝であり、世間を理解し、比類なき導き手であり、道の法を調御し、天人の師であり、仏陀、衆生の救い主と呼ばれる。その者は、五つの蓋という心の汚れと智慧の弱まりを断ち切り、無学の正見から無学の正智に至るまでを修める。これを、無明を別知したい者は十の無学法を修めるべきだと言うのである。」

「如無明，行亦如是，如行，識亦如是，如識，名色亦如是，如名色，六處亦如是，如六處，更樂亦如是，如更樂，覺亦如是，如覺，愛亦如是，如愛，受亦如是，如受，有亦如是，如有，生亦如是。欲斷老死者，當修四念處。云何欲斷老死者，當修四念處？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，觀內身如身，至觀覺、心、法如法，是謂欲斷老死者，當修四念處。如是數斷、解脫、過度、拔絕、滅止、總知、別知，欲別知老死者，當修四念處。云何欲別知老死者，當修四念處？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，觀內身如身，乃至觀覺、心、法如法，是謂欲別知老死者，當修四念處。

> 無明がそうであるように、行もまた同じです。行がそうであるように、識もまた同じです。識がそうであるように、名色もまた同じです。名色がそうであるように、六処もまた同じです。六処がそうであるように、触もまた同じです。触がそうであるように、受もまた同じです。受がそうであるように、愛もまた同じです。愛がそうであるように、取もまた同じです。取がそうであるように、有もまた同じです。有がそうであるように、生もまた同じです。 老いと死を断ち切ろうと思うなら、四念処を修行すべきです。では、なぜ老いと死を断ち切ろうと思うなら、四念処を修行すべきなのでしょうか？ それは、如来が世に現れた時、すなわち、執着するものなく、正しく目覚め、明と行を具え、よく逝き、世間を解し、無上の者、道を調御する者、天人の師であり、仏、世尊と称される方がおられるときです。その方は、五蓋——心を汚し、慧を弱らせるもの——を断ち、内身を身として観じ、さらには受、心、法を法として観じます。これが、老いと死を断ち切ろうと思うなら、四念処を修行すべきと言われる理由です。 このようにして断ち、解脱し、超え、抜き去り、滅し、止め、すべてを知り、個別に知るために、老いと死を個別に知ろうと思うなら、四念処を修行すべきです。では、なぜ老いと死を個別に知ろうと思うなら、四念処を修行すべきなのでしょうか？ それは、如来が世に現れた時、すなわち、執着するものなく、正しく目覚め、明と行を具え、よく逝き、世間を解し、無上の者、道を調御する者、天人の師であり、仏、世尊と称される方がおられるときです。その方は、五蓋——心を汚し、慧を弱らせるもの——を断ち、内身を身として観じ、さらに受、心、法を法として観じます。これが、老いと死を個別に知ろうと思うなら、四念処を修行すべきと言われる理由です。

「欲斷老死者，當修四正斷。云何欲斷老死者，當修四正斷？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，已生惡不善法為斷故，發欲求方便，精勤舉心斷。未生惡不善法為不生故，發欲求方便，精勤舉心斷。未生善法為生故，發欲求方便，精勤舉心斷。已生善法為久住不忘、不退、增長、廣大修習具足故，發欲求方便，精勤舉心斷。是謂欲斷老死者，當修四正斷。如是數斷、解脫、過度、拔絕、滅止、總知、別知，欲別知老死者，當修四正斷。云何欲別知老死者，當修四正斷？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，已生惡不善法為斷故，發欲求方便，精勤舉心斷。未生惡不善法為不生故，發欲求方便，精勤舉心斷。未生善法為生故，發欲求方便，精勤舉心斷。已生善法為久住不忘、不退、增長、廣大修習具足故，發欲求方便，精勤舉心斷。是謂欲別知老死者，當修四正斷。

> 老いと死を断ち切りたいと思うなら、四つの正しい努力（四正断）を修行すべきです。なぜ老いと死を断ち切るために四つの正しい努力を修行するのか？例えば、如来がこの世に現れ、執着がなく、完全なる悟りを開き、智慧と行いが円満で、よく行き、世間を理解し、無上の者であり、道を説く導き手であり、天の人々の師であり、仏陀、そして多くの者に敬われる方であるとします。その方は、五つの障り（五蓋）——心を汚し、智慧を弱らせるもの——を断ち切ります。すでに生じた悪しき善からぬ法を断ち切るために、意欲を起こして方便を求め、精進し、心を奮い立たせて断じます。まだ生じていない悪しき善からぬ法が生じないようにするために、意欲を起こして方便を求め、精進し、心を奮い立たせて断じます。まだ生じていない善い法を生じさせるために、意欲を起こして方便を求め、精進し、心を奮い立たせて断じます。すでに生じた善い法を長く保ち、忘れず、退失せず、増長させ、広大に修習し、円満にするために、意欲を起こして方便を求め、精進し、心を奮い立たせて断じます。これが、老いと死を断ち切りたいなら、四つの正しい努力を修行すべきだということです。 このようにして、繰り返し断ち切り、解脱し、超え、抜き去り、滅ぼし、止め、全てを知り、一つ一つを識別します。老いと死を一つ一つ識別したいと思うなら、四つの正しい努力を修行すべきです。なぜ老いと死を一つ一つ識別するために四つの正しい努力を修行するのか？例えば、如来がこの世に現れ、執着がなく、完全なる悟りを開き、智慧と行いが円満で、よく行き、世間を理解し、無上の者であり、道を説く導き手であり、天の人々の師であり、仏陀、そして多くの者に敬われる方であるとします。その方は、五つの障り（五蓋）——心を汚し、智慧を弱らせるもの——を断ち切ります。すでに生じた悪しき善からぬ法を断ち切るために、意欲を起こして方便を求め、精進し、心を奮い立たせて断じます。まだ生じていない悪しき善からぬ法が生じないようにするために、意欲を起こして方便を求め、精進し、心を奮い立たせて断じます。まだ生じていない善い法を生じさせるために、意欲を起こして方便を求め、精進し、心を奮い立たせて断じます。すでに生じた善い法を長く保ち、忘れず、退失せず、増長させ、広大に修習し、円満にするために、意欲を起こして方便を求め、精進し、心を奮い立たせて断じます。これが、老いと死を一つ一つ識別したいなら、四つの正しい努力を修行すべきだということです。

「欲斷老死者，當修四如意足。云何欲斷老死者，當修四如意足？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，修欲定如意足，成就斷行。依離、依無欲、依滅，趣非品，如是修精進定、心定也。修思惟定如意足，成就斷行，依離、依無欲、依滅，趣非品，是謂欲斷老死者，當修四如意足。如是數斷、解脫、過度、拔絕、滅止、總知、別知，欲別知老死者，當修四如意足。云何欲別知老死者，當修四如意足？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，修欲定如意足，成就斷行。依離、依無欲、依滅，趣非品，如是修精進定、心定也。修思惟定如意足，成就斷行，依離、依無欲、依滅，趣非品，是謂欲別知老死者，當修四如意足。

> 老いと死を断ち切りたいと思うなら、四つの如意足（思いのままに自在となる修行）を修めるべきです。では、なぜ老いと死を断ち切るために四つの如意足を修めるのでしょうか。 例えば、如来がこの世に現れ、執着なく、正しく目覚め、智慧と行いを完全に成就し、善逝（善き者として逝く）、世間を了解し、無上の士、道の法を巧みに導く者、天人の師となり、仏陀、衆生の助け主と称されることがあります。その方は、五つの蓋（心を覆い隠すもの、心の汚れ、智慧を弱らせるもの）を断ち、欲望に基づく定（集中）による如意足を修め、断ち切りの実践を成就します。それは、離れ、無欲、消滅に依り、執着のない境地へと向かいます。同様に、精進定、心定も修めます。さらに、思考に基づく定による如意足を修め、断ち切りの実践を成就します。これが、老いと死を断ち切るために四つの如意足を修めるべき理由です。 こうして、断ち、解脱し、超え、抜け出し、滅ぼし、止め、完全に知り、個別に知ることを行います。老いと死を個別に知りたいと願うなら、四つの如意足を修めるべきです。では、なぜ老いと死を個別に知るために四つの如意足を修めるのでしょうか。 例えば、如来がこの世に現れ、執着なく、正しく目覚め、智慧と行いを完全に成就し、善逝（善き者として逝く）、世間を了解し、無上の士、道の法を巧みに導く者、天人の師となり、仏陀、衆生の助け主と称されることがあります。その方は、五つの蓋（心を覆い隠すもの、心の汚れ、智慧を弱らせるもの）を断ち、欲望に基づく定による如意足を修め、断ち切りの実践を成就します。それは、離れ、無欲、消滅に依り、執着のない境地へと向かいます。同様に、精進定、心定も修めます。さらに、思考に基づく定による如意足を修め、断ち切りの実践を成就します。これが、老いと死を個別に知るために四つの如意足を修めるべき理由です。

「欲斷老死者，當修四禪。云何欲斷老死者，當修四禪？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，離欲，離惡不善之法，至得第四禪成就遊，是謂欲斷老死者，當修四禪。如是數斷、解脫、過度、拔絕、滅止、總知、別知，欲別知老死者，當修四禪。云何欲別知老死者，當修四禪？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐，彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，離欲，離惡不善之法，至得第四禪成就遊。是謂欲別知老死者，當修四禪。

> 老いと死を断ち切りたいと思うなら、四つの禅定を修めるべきです。なぜ老いと死を断ち切りたいなら四つの禅定を修めるのかと言えば、それは如来がこの世に現れ、執着なく、正しく悟り、智慧と行いが完成し、善き境地に赴き、世間を理解し、卓越した者、道を説き導く者、天と人の師であり、仏陀、衆生の救済者と称される時があるからです。その方は、心の汚れである五つの障り（五蓋）を断ち、欲望を離れ、悪しき不善の法を離れ、第四の禅定を成就して安住されます。これをもって、老いと死を断ち切りたいなら、四つの禅定を修めるべきだと言うのです。このようにして、繰り返し断ち切り、解脱し、超越し、根絶し、滅し、止め、完全に知り、個別に知ることができます。老いと死を個別に知りたいと思うなら、四つの禅定を修めるべきです。なぜ老いと死を個別に知りたいなら四つの禅定を修めるのかと言えば、それは如来がこの世に現れ、執着なく、正しく悟り、智慧と行いが完成し、善き境地に赴き、世間を理解し、卓越した者、道を説き導く者、天と人の師であり、仏陀、衆生の救済者と称される時があるからです。その方は、心の汚れである五つの障り（五蓋）を断ち、欲望を離れ、悪しき不善の法を離れ、第四の禅定を成就して安住されます。これをもって、老いと死を個別に知りたいなら、四つの禅定を修めるべきだと言うのです。

「欲斷老死者，當修五根。云何欲斷老死者，當修五根？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，修信根、精進、念、定、慧根，是謂欲斷老死者，當修五根。如是數斷、解脫、過度、拔絕、滅止、總知、別知，欲別知老死者，當修五根。云何欲別知老死者，當修五根？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，修信根、精進、念、定、慧根，是謂欲別知老死者，當修五根。

> 老いて死ぬことを断ち切りたいと思うならば、五つの根本（五根）を修行すべきである。なぜ老いて死ぬことを断ち切るために五つの根本を修行するのか。 もしその時に如来がこの世に現れ、執着がなく、正しく目覚め、智慧と行いが円満で、善きところへ逝き、世間を理解し、最も優れた者であり、道を示し導く者、天人の師であり、仏陀、世の宝と呼ばれる方であるならば、その方は（煩悩を）断つ。そして五つの覆い（五蓋）――心の汚れ、智慧の弱さ――に至るまでをも断ち切り、信の根本・精進の根本・念の根本・定の根本・慧の根本を修行する。これこそが、老いて死ぬことを断ち切ろうと思うならば、五つの根本を修行すべきである、ということである。 このように数々の断ち切り、解脱、超え越え、抜き去り、消し止め、全き知、区別して知ることがある。老いて死ぬことを区別して知ろうと思うならば、五つの根本を修行すべきである。 なぜ老いて死ぬことを区別して知るために五つの根本を修行するのか。 もしその時に如来がこの世に現れ、執着がなく、正しく目覚め、智慧と行いが円満で、善きところへ逝き、世間を理解し、最も優れた者であり、道を示し導く者、天人の師であり、仏陀、世の宝と呼ばれる方であるならば、その方は（煩悩を）断つ。そして五つの覆い（五蓋）――心の汚れ、智慧の弱さ――に至るまでをも断ち切り、信の根本・精進の根本・念の根本・定の根本・慧の根本を修行する。これこそが、老いて死ぬことを区別して知ろうと思うならば、五つの根本を修行すべきである、ということである。

「欲斷老死者，當修五力。云何欲斷老死者，當修五力？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，修信力、精進、念、定、慧力，是謂欲斷老死者，當修五力。如是數斷、解脫、過度、拔絕、滅止、總知、別知，欲別知老死者，當修五力。云何欲別知老死者，當修五力？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，修信力、精進、念、定、慧力，是謂欲別知老死者，當修五力。

> 老いと死を断ち切りたいと願うなら、五つの力（五力）を修めるべきです。 なぜ老いと死を断ち切るために五力を修めるのかと言えば、 例えば如来がこの世に現れ、 「無所著（執着なき者）」「等正覚（正しく目覚めた者）」「明行成為（智慧と行いを完成した者）」「善逝（善く逝く者）」「世間解（世間を解する者）」「無上士（この上ない者）」「道法御（道を調御する者）」「天人師（天と人の師）」「仏・衆祐（仏陀・衆生の尊）」 と称される。 その如来は、五つの蓋（心を汚し智慧を弱らせるもの）を断ち、 \*\*信の力・精進の力・念の力・定の力・慧の力\*\*を修めるのです。 これこそが、老いと死を断ち切るために五力を修めるべき理由です。 また、このようにして「断ち切る」「解脱する」「超える」「根絶する」「滅ぼし止める」「総じて知る」「個別に知る」ことが成就します。 特に老いと死を個別に知りたいと願うなら、同様に五力を修めるべきです。 なぜ老いと死を個別に知るために五力を修めるのかと言えば、 先に述べたように如来が現れ、五蓋を断ち、 \*\*信・精進・念・定・慧の五力\*\*を修めるからです。 これこそが、老いと死を個別に知るために五力を修めるべき理由です。

「欲斷老死者，當修七覺支。云何欲斷老死者，當修七覺支？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，修念覺支，依離、依無欲、依滅，趣非品，如是修法、精進、喜、息、定也。修捨覺支，依離、依無欲、依滅，趣非品，是謂欲斷老死者，當修七覺支。如是數斷、解脫、過度、拔絕、滅止、總知、別知，欲別知老死者，當修七覺支。云何欲別知老死者，當修七覺支？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，修念覺支，依離、依無欲、依滅，趣非品。如是修法、精進、喜、息、定也。修捨覺支，依離、依無欲、依滅，趣非品，是謂欲別知老死者，當修七覺支。

> 老いと死を断ち切りたいと思うなら、七つの覚りの支分を修行すべきです。では、なぜ老いと死を断ち切るために七つの覚りの支分を修行するのでしょうか？ その時、如来がこの世に現れ、執着なく、正しく目覚め、明らかな智慧と行いをそなえ、善く逝き、世間を理解し、無上の者であり、道を説き、人と天を導く師、仏陀、世の宝と呼ばれるお方であられる。その方は、五つの心の汚れ（五蓋）を断ち切られる。 心を曇らせ、智慧を弱らせるそれらを断ち、念の覚りの支分を修行する。それは、離欲に依り、無執着に依り、滅尽に依り、究極の境地に向かうものである。 同様に、法の選択、精進、喜び、軽安、定の覚りの支分も修行する。 また、捨の覚りの支分を修行する。それも離欲に依り、無執着に依り、滅尽に依り、究極の境地に向かうものである。 これが、老いと死を断ち切りたいと望むなら、七つの覚りの支分を修行すべきであるということの意味である。 このようにして、断ち切り、解脱し、超え、抜き去り、滅ぼし、止め、完全に知り、個別に知るのである。 老いと死を個別に知りたいと望むなら、七つの覚りの支分を修行すべきである。 では、なぜ老いと死を個別に知るために七つの覚りの支分を修行するのでしょうか？ その時、如来がこの世に現れ、執着なく、正しく目覚め、明らかな智慧と行いをそなえ、善く逝き、世間を理解し、無上の者であり、道を説き、人と天を導く師、仏陀、世の宝と呼ばれるお方であられる。その方は、五つの心の汚れ（五蓋）を断ち切られる。 心を曇らせ、智慧を弱らせるそれらを断ち、念の覚りの支分を修行する。それは、離欲に依り、無執着に依り、滅尽に依り、究極の境地に向かうものである。 同様に、法の選択、精進、喜び、軽安、定の覚りの支分も修行する。 また、捨の覚りの支分を修行する。それも離欲に依り、無執着に依り、滅尽に依り、究極の境地に向かうものである。 これが、老いと死を個別に知りたいと望むなら、七つの覚りの支分を修行すべきである

「欲斷老死者，當修八支聖道。云何欲斷老死者，當修八支聖道？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，修正見乃至修正定為八，是謂欲斷老死者，當修八支聖道。如是數斷、解脫、過度、拔絕、滅止、總知、別知，欲別知老死者，當修八支聖道。云何欲別知老死者，當修八支聖道？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，修正見乃至修正定為八，是謂欲別知老死者，當修八支聖道。

> 老いと死を断ち切りたいと願うならば、八支聖道（八正道）を修行すべきである。では、なぜ老いと死を断ち切るために八支聖道を修行すべきなのか。それは、如来がこの世に現れる時、すなわち、執着なく、完全に悟りを開き、智慧と行いを完成させ、善き境地に至り、世間を理解し、最高の教えを説き、道を巧みに導き、天と人間の師であり、仏陀、世の宝と称される方が現れる時である。その方は、心の汚れである五つの障害を断ち切り、智慧を弱めるものを取り除き、正しい見解から正しい禅定に至る八つの支分を修める。これが、老いと死を断ち切るために八支聖道を修行すべき理由である。 同様に、老いと死を断ち切り、解脱し、超え、根絶し、滅ぼし、完全に理解し、区別して知るために、八支聖道を修行すべきである。では、なぜ老いと死を区別して知るために八支聖道を修行すべきなのか。それもまた、如来がこの世に現れる時、上記のように五つの障害を断ち、智慧を弱めるものを取り除き、正しい見解から正しい禅定に至る八つの支分を修めるからである。これが、老いと死を区別して知るために八支聖道を修行すべき理由である。

「欲斷老死者，當修十一切處。云何欲斷老死者，當修十一切處？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，修第一地一切處，四維上下不二、無量。如是修水一切處、火一切處、風一切處、青一切處、黃一切處、赤一切處、白一切處、無量空處一切處，修第十無量識處一切處，四維上下不二、無量，是謂欲斷老死者，當修十一切處。如是數斷、解脫、過度、拔絕、滅止、總知、別知，欲別知老死者，當修十一切處。云何欲別知老死者，當修十一切處？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，修第一地一切處，四維上下不二、無量。如是修水一切處、火一切處、風一切處、青一切處、黃一切處、赤一切處、白一切處、無量空處一切處，修第十無量識處一切處，四維上下不二、無量。是謂欲別知老死者，當修十一切處。

> 老いと死を断ち切りたいと思うなら、十遍処を修めるべきである。では、なぜ老いと死を断ち切ろうとするなら、十遍処を修めるべきなのか。もし、如来がこの世に現れ、執着なく、正しく目覚め、智慧と行いを完全にそなえ、善く逝き、世間を理解し、無上の者であり、道を説く導き手であり、天と人の師であり、仏陀、衆生の利益となる者と称されるならば。その方は、心の汚れである五つの障りを断ち、智慧を弱らせるものを除き、第一の地遍処を修める。それは四方・上下において、区別なく無限である。同様に、水遍処、火遍処、風遍処、青遍処、黄遍処、赤遍処、白遍処、無量空処遍処を修め、第十の無量識処遍処を修める。それは四方・上下において、区別なく無限である。これが、老いと死を断ち切りたいと思うなら、十遍処を修めるべきである、ということである。このようにして、数々の煩悩を断ち、解脱し、超え、抜き去り、滅ぼし、止め、総体的に知り、個別に知るのである。老いと死を個別に知りたいと思うなら、十遍処を修めるべきである。では、なぜ老いと死を個別に知ろうとするなら、十遍処を修めるべきなのか。もし、如来がこの世に現れ、執着なく、正しく目覚め、智慧と行いを完全にそなえ、善く逝き、世間を理解し、無上の者であり、道を説く導き手であり、天と人の師であり、仏陀、衆生の利益となる者と称されるならば。その方は、心の汚れである五つの障りを断ち、智慧を弱らせるものを除き、第一の地遍処を修める。それは四方・上下において、区別なく無限である。同様に、水遍処、火遍処、風遍処、青遍処、黄遍処、赤遍処、白遍処、無量空処遍処を修め、第十の無量識処遍処を修める。それは四方・上下において、区別なく無限である。これが、老いと死を個別に知りたいと思うなら、十遍処を修めるべきである、ということである。

「欲斷老死者，當修十無學法。云何欲斷老死者，當修十無學法？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，修無學正見，乃至修無學正智，是謂欲斷老死者，當修十無學法。如是數斷、解脫、過度、拔絕、滅止、總知、別知，欲別知老死者，當修十無學法。云何欲別知老死者，當修十無學法？若時如來出世，無所著、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師，號佛、眾祐。彼斷，乃至五蓋——心穢、慧羸，修無學正見，乃至修無學正智，是謂欲別知老死者，當修十無學法。」

> 老いと死を断ち切りたいと願うなら、十の無学の法を修行すべきです。 なぜ老いと死を断ち切るために、十の無学の法を修行すべきなのでしょうか。 もし如来が世に現れ、執着なく、正しく悟り、明と行を成就し、善く赴き、世間を理解し、最高の調御者、道の法を導く者、天人の師、仏陀、世尊と称されるならば、その方は五つの蓋（心の汚れ、智慧の弱まり）を断ち、無学の正見から無学の正智に至るまでを修行します。これが老いと死を断ち切るために、十の無学の法を修行すべき理由です。 このようにして断ち、解脱し、超え、抜き去り、滅し、止め、総じて知り、個別に知るのです。 老いと死を個別に知りたいと願うなら、十の無学の法を修行すべきです。 なぜ老いと死を個別に知るために、十の無学の法を修行すべきなのでしょうか。 もし如来が世に現れ、執着なく、正しく悟り、明と行を成就し、善く赴き、世間を理解し、最高の調御者、道の法を導く者、天人の師、仏陀、世尊と称されるならば、その方は五つの蓋（心の汚れ、智慧の弱まり）を断ち、無学の正見から無学の正智に至るまでを修行します。これが老いと死を個別に知るために、十の無学の法を修行すべき理由です。

佛說如是。彼諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。

> このように仏は説かれました。比丘たちは仏の説かれたことを聞き、喜んでお受け取りになりました。

例經第十一竟四千八百七十三字

> 例経第十一、終わり<note>四千八百七十三字</note>

## 中阿含經卷第六十一萬一千三百七十七字中阿含例品第四竟二萬二千一百四十九字

> 中阿含経 巻第六十<note>一万一千三百七十七字</note>