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title: "五燈會元 · 六祖慧能大師"
description: "五燈會元由宋代高僧普濟編撰，成書於南宋淳祐年間，是中國禪宗重要典籍之一。該書彙編了禪宗五家七宗的傳法譜系與公案語錄，包括法眼、雲門、曹洞、臨濟、溈仰五宗祖師的機鋒對話與悟道因緣，系統整理了禪宗從初祖達摩至唐宋時期的發展脈絡。全書共二十卷，以燈燈相傳為喻，展現了禪宗心法傳承的歷史軌跡。作為研究唐宋禪宗思想的核心文獻，五燈會元不僅是佛教史學的重要資料，更是禪門修行者參究心性的權威指南，在中國佛教史上具有不可替代的地位。"
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### 六祖慧能大師者

> 六祖慧能大師

俗姓盧氏。其先范陽人。父行瑫。武德中左官于南海之新州。遂占籍焉。三歲喪父。其母守志。鞠養及長。家尤貧窶。師樵採以給。一日負薪至市中。聞客讀金剛經。至應無所住而生其心。有所感悟。而問客曰。此何法也。得於何人。客曰。此名金剛經。得於黃梅忍大師。祖遽告其母以為法尋師之意。直抵韶州。遇高行士劉志略。結為交友。尼無盡藏者。即志略之姑也。常讀涅槃經。師暫聽之。即為解說其義。尼遂執卷問字。祖曰。字即不識。義即請問。尼曰。字尚不識。曷能會義。祖曰。諸佛妙理。非關文字。尼驚異之。告鄉里耆艾曰。能是有道之人。宜請供養。於是居人競來瞻禮。近有寶林古寺舊地。眾議營緝。俾祖居之。四眾霧集。俄成寶坊。祖一日忽自念曰。我求大法。豈可中道而止。明日遂行。至昌樂縣西山石室間遇智遠禪師。祖遂請益。遠曰。觀子神姿爽拔。殆非常人。吾聞西域菩提達磨傳心印於黃梅。汝當往彼參決。祖辭去。直造黃梅之東山。即唐咸亨二年也。忍大師一見。默而識之。後傳衣法。令隱于懷集四會之間。至儀鳳元年丙子正月八日。屆南海。遇印宗法師於法性寺講涅槃經。祖寓止廊廡間。暮夜。風颺剎幡。聞二僧對論。一曰幡動。一曰風動。往復酬答。曾未契理。祖曰。可容俗流輙預高論否。直以風幡非動。動自心耳。印宗竊聆此語。竦然異之。明日。邀祖入室。徵風幡之義。祖具以理告。印宗不覺起立曰。行者定非常人。師為是誰。祖更無所隱。直敘得法因由。於是印宗執弟子之禮。請授禪要。乃告四眾曰。印宗具足凡夫。今遇肉身菩薩。乃指座下盧居士曰。即此是也。因請出所傳信衣。悉令瞻禮。至正月十五日。會諸名德。為之剃髮。二月八日。就法性寺智光律師授滿分戒。其戒壇。即宋朝求那䟦陀三藏之所置也。三藏記云。後當有肉身菩薩在此壇受戒。又梁末真諦三藏於壇之側手植二菩提樹。謂眾曰。却後一百二十年。有大開士於此樹下演無上乘。度無量眾。祖具戒已。於此樹下開東山法門。宛如宿契。明年二月八日。忽謂眾曰。吾不願此居。欲歸舊隱。即印宗與緇白千餘人。送祖歸寶林寺。韶州刺史韋據。請於大梵寺轉妙法輪。并受無相心地戒。門人紀錄。目為壇經。盛行于世。後返曹溪。雨大法雨。學者不下千數。中宗神龍元年降詔云。朕請安秀二師宮中供養。萬機之暇。每究一乘。二師並推讓曰。南方有能禪師。密受忍大師衣法。可就彼問。今遣內侍薛簡馳詔迎請。願師慈念。速赴上京。祖上表辭疾。願終林麓。簡曰。京城禪德皆云。欲得會道。必須坐禪習定。若不因禪定而得解脫者。未之有也。未審師所說法如何。祖曰。道由心悟。豈在坐也。經云。若見如來。若坐若臥。是行邪道。何故。無所從來。亦無所去。若無生滅。是如來清淨禪。諸法空寂。是如來清淨坐。究竟無證。豈況坐邪。簡曰。弟子回。主上必問。願和尚慈悲。指示心要。祖曰。道無明暗。明暗是代謝之義。明暗無盡。亦是有盡。相待立名。故經云。法無有比。無相待故。簡曰。明喻智慧。暗況煩惱。修道之人。儻不以智慧照破煩惱。無始生死。憑何出離。祖曰。煩惱即是菩提。無二無別。若以智慧照煩惱者。此是二乘小見。羊鹿等機。大智上根。悉不如是。簡曰。如何是大乘見解。祖曰。明與無明。其性無二。無二之性。即是實性。實性者。處凡愚而不減。在賢聖而不增。住煩惱而不亂。居禪定而不寂。不斷不常。不來不去。不在中間。及其內外。不生不滅。性相如如。常住不遷。名之曰道。簡曰。師說不生不滅。何異外道。祖曰。外道所說不生不滅者。將滅止生。以生顯滅。滅猶不滅。生說無生。我說不生不滅者。本自無生。今亦無滅。所以不同外道。汝若欲知心要。但一切善惡都莫思量。自然得入清淨心體。湛然常寂。妙用恒沙。簡蒙指教。豁然大悟。禮辭歸闕。表奏祖語。有詔謝師。并賜磨衲袈裟．絹五百匹．寶鉢一口。十二月十九日。勑改古寶林為中興寺。三年十一月十八日。又　勑韶州刺史重加崇飾。賜額為法泉寺。祖新州舊居為國恩寺。一日。祖謂眾曰。諸善知識。汝等各各淨心。聽吾說法。汝等諸人。自心是佛。更莫狐疑。外無一物而能建立。皆是本心生萬種法故。經云。心生種種法生。心滅種種法滅。若欲成就種智。須達一相三昧。一行三昧。若於一切處而不住相。彼相中不生憎愛。亦無取捨。不念利益成壞等事。安閑恬靜。虗融澹泊。此名一相三昧。若於一切處。行住坐臥。純一直心。不動道場。真成淨土。名一行三昧。若人具二三昧。如地有種。能含藏長養。成就其實。一相一行。亦復如是。我今說法。猶如時雨溥潤大地。汝等佛性。譬諸種子。遇茲霑洽。悉得發生。承吾旨者。決獲菩提。依吾行者。定證妙果。先天元年告諸四眾曰。吾忝受忍大師衣法。今為汝等說法。不付其衣。葢汝等信根淳熟。決定不疑。堪任大事。聽吾偈曰。心地含諸種。普雨悉皆生。頓悟華情已。菩提果自成。說偈已。復曰。其法無二。其心亦然。其道清淨。亦無諸相。汝等慎勿觀淨及空其心。此心本淨。無可取捨。各自努力。隨緣好去。甞有僧舉臥輪禪師偈曰。臥輪有伎倆。能斷百思想。對境心不起。菩提日日長。祖聞之曰。此偈未明心地。若依而行之。是加繫縛。因示一偈曰。慧能沒伎倆。不斷百思想。對境心數起。菩提作麼長臥輪非名即住處也。祖說法利生。經四十載。其年七月六日。命弟子往新州國恩寺。建報恩塔。仍令倍工。又有蜀僧。名方辯。來謁曰。善揑塑。祖正色曰。試塑看。方辯不領旨。乃塑祖真。可高七尺。曲盡其妙。祖觀之曰。汝善塑性。不善佛性。酬以衣物。辯禮謝而去。先天二年七月一日。謂門人曰。吾欲歸新州。汝速理舟檝。時大眾哀慕。乞師且住。祖曰。諸佛出現。猶示涅槃。有來必去。理亦常然。吾此形骸。歸必有所。眾曰。師從此去。早晚却回。祖曰。葉落歸根。來時無口。又問。師之法眼。何人傳受。祖曰。有道者得。無心者通。又問。後莫有難否。祖曰。吾滅後五六年。當有一人來取吾首。聽吾記曰。頭上養親。口裏須飱。遇滿之難。楊柳為官。又曰。吾去七十年。有二菩薩從東方來。一在家。一出家。同時興化。建立吾宗。締緝伽藍。昌隆法嗣。言訖。往新州國恩寺。沐浴跏趺而化。異香襲人。白虹矚地。即其年八月三日也。時韶新兩郡。各修靈塔。道俗莫決所之。兩郡刺史。共焚香祝曰。香烟引處。即師之欲歸焉。時鑪香騰涌。直貫曹溪。以十一月十三日入塔。壽七十六。時韶州刺史韋據撰碑。門人憶念取首之記。遂先以鐵葉漆布固護師頸。塔中有達磨所傳信衣。西域屈眴布也。緝木𦄋華心織成。後人以碧絹為裏。中宗賜磨衲寶鉢。以辯塑真道具等。主塔侍者尸之。開元十年壬戌八月三日。夜半。忽聞塔中如拽鐵索聲。僧眾驚起。見一孝子從塔中走出。尋見師頸有傷。具以賊事聞於州縣。縣令楊侃．刺史柳無忝得牒。切加擒捉。五月於石角村捕得賊人。送韶州鞠問。云。姓張名淨滿。汝州梁縣人。於洪州開元寺受新羅僧金大悲錢二十千。令取六祖大師首。歸海東供養。柳守聞狀。未即加刑。乃躬至曹溪。問祖上足令韜曰。如何處斷。韜曰。若以國法論。理須誅夷。但以佛教慈悲。冤親平等。況彼欲求供養。罪可恕矣。柳守嘉歎曰。始知佛門廣大。遂赦之爾後。甚有名賢贊述。檀施珍異。文繁不錄。上元元年肅宗遣使就請師衣鉢。歸內供養。至永泰元年五月五日。代宗夢六祖大師請衣鉢。七日。勑刺史楊瑊曰。朕夢感禪師請傳法袈裟却歸曹溪。今遣鎮國大將軍劉崇景頂戴而送。朕謂之國寶。卿可於本寺如法安置。專令僧眾。親承宗旨者。嚴加守護。勿令遺墜。後或為人偷竊。皆不遠而獲。如是者數四。憲宗諡大鑒禪師。塔曰元和靈照。皇朝開寶初。王師平南海劉氏。殘兵作梗。祖之塔廟。鞠為煨燼。而真身為守塔僧保護。一無所損。尋有制興修。功未竟。會太宗皇帝即位。留心禪宗。頗增壯麗焉。

> 師は俗姓が盧氏で、その先祖は范陽の人である。父は行瑫といい、武徳年間に南海の新州で官職に左遷され、そのままそこに籍を置いた。三歳で父を失い、母は志を守って孤児を育てた。成長するにつれて家はますます貧しくなり、師は薪を刈り採って生計を立てた。 ある日、薪を背負って市に行ったとき、客が『金剛経』を読むのを聞いた。そこに「応無所住而生其心」（住するところなくしてその心を生ず）という句に至ったとき、師は感銘を受けた。客に問うた、「これは何という教えですか。どなたから得られたのですか」。客は言った、「これは『金剛経』と申します。黄梅の忍大師から得ました」。師はすぐに母に告げ、法を求めて師を尋ねる意志を伝えた。 直接韶州に向かい、高行の士である劉志略に出会って友人となった。尼の無尽蔵という者は、志略の叔母であった。常に『涅槃経』を読んでいたが、師がしばしばその言葉を聞いた後、すぐにその義を解説した。尼は巻物を持って文字を問うた。師は言った、「文字は分かりません。義であればお尋ねください」。尼は言った、「文字さえ分からないのに、どうして義が分かるのですか」。師は言った、「諸仏の妙理は、文字に関わるものではない」。尼は驚き異とし、郷里の年長者たちに告げて言った、「慧能は有道の人です。どうか招いて供養すべきです」。そこで住民たちが競って参拝した。近くに寶林古寺の旧地があり、人々が相談して修営し、師をそこに住まわせた。四衆が雲のように集まり、やがて寶坊となった。 師はある日、突然自ら思った、「私は大法を求める身だ。どうして中道で止まることができようか」。翌日、すぐに出発した。昌楽県の西山の石室で智遠禅師に出会い、師は教えを請うた。遠は言った、「あなたの神采爽抜なのを見ると、普通の人ではないようだ。私は西域の菩提達磨が心印を黄梅に伝えたと聞いている。あなたはそこに行って参究すべきだ」。師は辞して去り、直接黄梅の東山に向かった。これは唐の咸亨二年のことである。 忍大師は一目見て、黙ってその器であると知った。後に衣法を伝え、懐集・四会の間に隠れるよう命じた。儀鳳元年丙子正月八日に至り、南海に到着した。印宗法師が法性寺で『涅槃経』を講説しているのに出会った。師は廊下の片隅に宿を取った。夜になり、風が剎の幡を揺らした。二人の僧が議論しているのを聞いた。一人は「幡が動く」と言い、一人は「風が動く」と言い、往復してやり取りしたが、いまだに理にかなわなかった。師は言った、「俗人が高論に加わることは許されますか。風幡が動くのではなく、心が動くのです」。印宗はひそかにこの言葉を聞いて、驚き異とした。 翌日、印宗は師を招いて部屋に入れ、風幡の義を問いただした。師は完全に理で答えた。印宗は思わず立ち上がって言った、「行者は必ず普通の人ではありません。師はどなたですか」。師はもはや隠すことなく、直接、法を得た因由を語った。そこで印宗は弟子の礼を執り、禅要の授与を請うた。そして四衆に告げて言った、「印宗は凡夫の身ですが、今、肉身の菩薩に出会いました」。そこで座下の盧居士を指して言った、「これがその方です」。 そこで伝えられた信衣を取り出させ、すべてを瞻礼させた。正月十五日に至り、諸々の名徳を集めて、師の剃髪を行った。二月八日に、法性寺の智光律師のもとで満分戒を受けた。その戒壇は、宋朝の求那跋陀三蔵が設けたものである。三蔵は記して言った、「後になると肉身の菩薩がこの壇で戒を受けるだろう」。また梁の末に真諦三蔵が壇の側に二本の菩提樹を手植えし、人々に言った、「百二十年後、大きな開士がこの樹の下で無上の乗を演説し、無量の衆生を度するだろう」。 師は戒を具えた後、この樹の下で東山の法門を開いた。ちょうど昔の約束のようであった。翌年二月八日、突然人々に言った、「私はこの場所を望まず、旧隠に帰りたい」。そこで印宗と僧俗千余人が師を送って宝林寺に帰した。韶州刺史の韋拠は、大梵寺で妙法輪を転じるよう請い、無相心地戒を受けた。門人が記録して『壇経』と名付け、世に行われた。後に曹溪に帰り、大法の雨を降らせた。学ぶ者は千人を下らなかった。 中宗の神龍元年、詔が下った、「朕は安・秀二師を宮中に請じて供養し、万機の暇に毎に一乗を究めた。二師は共に推して譲って言った、『南方に能禅師がいて、ひそかに忍大師の衣法を受けています。そのもとで問うべきです』。今、内侍の薛簡を遣わして馳せて詔を届け、迎え請う。願わくは師は慈念して、速やかに上京せよ」。師は表を奉じて病気を辞し、林麓の中で終わりたいと願った。 簡は言った、「京城の禅徳たちは皆言います、『道に会おうと思うなら、必ず坐禅習定しなければならない。禅定によらずして解脱を得る者は、いまだかつてない』と。師の説法はどのようなものかお聞かせください」。師は言った、「道は心によって悟るのであって、坐にあるではない。経に言う、『もし如来を見るとき、坐りあるいは臥しているなら、これは邪道を行くのである』と。なぜか。来たるところもなく、去るところもないからだ。もし生滅がなければ、それが如来の清浄禅である。諸法は空寂であり、それが如来の清浄坐である。究極的には証もない。どうして況して坐だけがあろうか」。 簡は言った、「弟子が帰ったら、主上は必ずお尋ねになるでしょう。願わくは和尚は慈悲をもって、心要を示してください」。祖は言った、「道に明暗はない。明暗は交代する意味である。明暗は尽きることがないと言うが、それもまた尽きることがある。互いに対立して名が立てられたからだ。だから経に言う、『法には比べるものがない。相待することがないからである』と」。 簡は言った、「明は智慧に喩えられ、暗は煩悩を喩えます。修道の人は、もし智慧をもって煩悩を照らし破らなければ、無始の生死からどのようにして出離できましょうか」。祖は言った、「煩悩すなわち菩提であり、二つではなく別もない。もし智慧をもって煩悩を照らすと言うなら、これは二乗の小さな見解であり、羊・鹿の機根である。大智の上根は、そのようではない」。 簡は言った、「どのようなものが大乗の見解ですか」。祖は言った、「明と無明は、その性に二つがない。二つない性がすなわち実性である。実性とは、凡愚にあっても減ぜず、賢聖にあっても増えない。煩悩の中にいても乱れず、禅定の中にいても寂しない。断でもなく常でもなく、来もなく去もなく、中間にもなく内外にもない。生もなく滅もなく、性も相もそのまま一体である。常住して移らない。これを名づけて道という」。 簡は言った、「師の説く不生不滅は、外道と何が違いましょうか」。祖は言った、「外道の説く不生不滅は、滅をもって生を止め、生をもって滅を示す。滅はとうてい滅せず、生は無生と言う。私の説く不生不滅は、本来すでに無生であり、今また無滅である。だから外道とは異なる。もし心要を知りたいなら、ただ一切の善悪を思量せずにいればよい。自然に清浄な心体に入り、湛然として常に寂しくなり、妙用は恒沙のごとくである」。 簡は指教を受けて、はたと大悟した。礼辞して宮廷に帰り、祖の言葉を奏上した。詔があって師に謝し、磨衲袈裟・絹五百匹・寶鉢一つを賜った。十二月十九日、勅があって古宝林を中興寺と改めた。三年十一月十八日、また勅して韶州刺史に重ねて崇飾させ、額を賜って法泉寺とした。祖の新州の旧居を国恩寺とした。 ある日、祖は人々に言った、「善知識たちよ。あなたたちはそれぞれ心を清めて、私の説法を聞きなさい。あなたたちの心がそのまま仏である。もはや疑ってはならない。外に一物も建立できるものはない。すべては本心が万種の法を生むからである。経に言う、『心が生ずれば種々の法が生じ、心が滅すれば種々の法が滅する』と。もし種智を成就したいなら、一相三昧と一行三昧を体得しなければならない。もし一切の処で相にとどまらず、その相の中に憎愛を生ぜず、また取捨もなく、利益・成敗などのことを念じなければ、安閑恬静、虚融澹泊である。これを名づけて一相三昧という。もし一切の処で行住坐臥、純直な一心で、道場を動かさず、真に浄土を成ずるなら、これを一行三昧という。もし人がこの二つの三昧を具えれば、大地に種があるようなもので、よく含み蓄え育み長じて、その実を成就する。一相と一行もまた同じである」。 「私が今説法するのは、ちょうど時雨が大地を広く潤すようなものである。あなたたちの仏性は、たとえば種子のようなものだ。この潤いに遇って、ことごとく発生を得る。私の宗旨を受け継ぐ者は、きっと菩提を得るだろう。私の行いに従う者は、定めて妙果を証するだろう」。先天元年、四衆に告げて言った、「私は忍大師の衣法を辱く受けた。今、あなたたちのために説法するが、衣を渡すことはしない。それはあなたたちの信根が淳熟して、決定して疑わず、大事を担うに堪えられるからである。我が偈を聞きなさい。 心地は諸種を含み、普雨すればすべて皆生ず。頓悟して華の情を了すれば、菩提の果も自然に成る。 偈を説き終えて、また言った、「その法は二つでなく、その心も同じである。その道は清浄であって、諸々の相もない。あなたたちは慎んで、浄を観じ、あるいは心を空しくすることをしてはならない。この心は本来清浄であり、取捨するものはない。それぞれ努力して、縁に随ってよろしく去りなさい」。 かつて僧が臥輪禅師の偈を挙げて言ったことをある、 臥輪には伎倆あり、能く百思想を断ず。境に対して心起こさず、菩提日日長ず。 祖はこれを聞いて言った、「この偈は未だ心地を明らかにしていない。もしこれに依って行ずるなら、縛を加えるようなものである」。そこで一偈を示した、 慧能には伎倆なく、百思想を断ぜず。境に対して心しばしば起こる、菩提をどうして長ぜん。 祖は法を説いて衆生を利すること、四十年に及んだ。その年の七月六日、弟子に命じて新州の国恩寺に行き、報恩塔を建てさせた。なお工を倍加させた。また蜀の僧、方辯という者が来て謁し、「塑造が巧みです」と言った。祖は厳しい顔で言った、「試しに塑ってみよ」。方辯は旨を領会できず、祖の像を塑った。高さ七尺ほどで、その妙を尽くしていた。祖がこれを見て言った、「あなたは塑性に巧みだが、仏性には巧みでない」。衣物を与えて、辯は礼をして去った。 先天二年七月一日、門人に言った、「私は新州に帰りたい。あなたたちは早く舟を整えなさい」。その時、大衆は哀慕して、師にしばらく留まるよう願った。祖は言った、「諸仏の出現も、なお涅槃を示す。来たる者には必ず去りがある。道理もまた常にそのとおりである。私のこの肉体は、帰するに必ずところがある」。人々は言った、「師がここから去られたら、いつ頃帰られますか」。祖は言った、「葉が落ちて根に帰る。来たときには口がない」。また問うた、「師の法眼は、どのような人が受け伝えるのですか」。祖は言った、「道ある者が得て、心ない者が通じる」。また問うた、「後に難がありますか」。祖は言った、「私が滅した後五六年、ひとりの人が來て私の首を取ろうとするだろう。私の記を聞きなさい。 頭の上で親を養い、口の中には食を須いる。満の難に遇えば、楊柳が官となる。 また言った、「私が去ってから七十年、二人の菩薩が東の方から来るだろう。一人は在家で、一人は出家であり、同時に教化を興し、我が宗旨を建立し、伽藍を造営し、法嗣を隆盛にするだろう」。言い終わり、新州の国恩寺に行き、沐浴して跏趺を組んで化した。異香が人を襲い、白虹が地を貫いた。その年の八月三日のことである。 この時、韶・新の両郡でそれぞれ霊塔を修した。道俗はどこに行くべきか決められなかった。両郡の刺史が共に香を焚いて祈って言った、「香煙が導くところが、師の帰りたもうところである」。その時、炉の香煙が涌き立ち、直ちに曹溪に貫いた。十一月十三日に塔に入れた。寿は七十六歳であった。 この時、韶州刺史の韋拠が碑文を撰した。門人たちは、首を取られるという記を念い、先に鉄の葉と漆布で師の頸を保護し固めた。塔の中には達磨が伝えた信衣があった。それは西域の屈眴布で、木綿華の心を編んで織り上げたものである。後の人は碧絹を裏とした。中宗が賜った磨衲・寶鉢もあり、方辯の塑像の道具などもあって、塔を守る侍者が保管した。 開元十年壬戌八月三日の夜半、突然、塔の中から鉄の鎖を引きずるような音が聞こえた。僧衆は驚き起きて、ひとりの孝子が塔の中から出てくるのを見た。尋ねると師の頸には傷があった。すべてを賊の事として州県に告げた。県令の楊侃・刺史の柳無忝は訴えを得て、厳重に追跡逮捕した。五月、石角村で賊人を捕まえ、韶州に送って糾問した。曰く、「姓は張、名は浄満。汝州梁県の人です。洪州の開元寺で新羅の僧金大悲から銭二十千を受け、六祖大師の首を取り、海東に帰って供養するよう命じられました」。柳守は罪状を聞いてもすぐには刑せず、自ら曹溪に行き、祖の高弟の令韜に問うた、「どのように処断すべきか」。韜は言った、「国法で論じれば、誅するのが理です。ただ仏教は慈悲を以てし、怨親平等です。まして彼は供養を求めようとしたのです。罪は赦し得ましょう」。柳守は嘉嘆して言った、「初めて仏門の広大さを知った」。そこで赦した。 上元元年、粛宗が使いを遣わして師の衣鉢を請い、宮中に持って帰って供養した。永泰元年五月五日に至り、代宗が六祖大師が衣鉢を請う夢を見た。七日、刺史の楊瑊に勅して言った、「朕、夢に禅師が伝法袈裟の曹溪への返却を感ずる。今、鎮国大将軍の劉崇景を遣わして、頂戴して送らせる。朕はこれを国宝と謂う。卿は本寺で法の如く安置し、僧衆の中で親しく宗旨を受け継いだ者を専らに守らせ、失われ落ちることがないようにせよ」。後に誰かが盗もうとしたが、いずれも遠からず捕まった。このようなことが四度あった。 憲宗のとき、大鑒禅師と諡し、塔を元和霊照といった。皇朝の開宝の初めに至り、王師が南海の劉氏を平定したが、残兵が妨害した。祖の塔廟は灰燼に帰したが、真身は守塔僧に保護されて、少しも損なわれなかった。やがて制があって興修が始まり、工事が未だ終わらないうちに、太宗皇帝が即位された。禅宗に心を留められ、塔廟はかなり壮大華麗になった。

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