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title: "雜阿含經 · 42"
description: "雜阿含經是佛教早期經典之一，由劉宋時期譯師求那跋陀羅翻譯為漢文。該經屬於原始佛教阿含部，記錄了佛陀與弟子間的對話，內容涵蓋四聖諦、八正道、緣起法等核心教義，被視為研究原始佛教思想的重要文獻。雜阿含經在佛教經典中地位崇高，與長阿含、中阿含、增一阿含並列為四阿含，是南傳佛教巴利語尼柯耶的對應漢譯版本。該經語言簡練，教義樸實，反映了佛陀時代的修行方法與解脫之道，為後世佛教各派共同尊奉的基礎經典。"
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### （四二）

> （四二）

如是我聞：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛住舍衛國祇樹給孤獨園。

> ある時、お釈迦さまは舎衛国の祇園精舎におられました。

爾時，世尊告諸比丘：「有七處善、三種觀義。盡於此法得漏盡，得無漏，心解脫、慧解脫，現法自知身作證具足住：『我生已盡，梵行已立，所作已作，自知不受後有。』云何比丘七處善？比丘！如實知色、色集、色滅、色滅道跡、色味、色患、色離如實知；如是受、想、行、識，識集、識滅、識滅道跡、識味、識患、識離如實知。

> その時、世尊は比丘たちに告げられた。 「七つの処における善き理解と、三つの観察の義がある。この法を完全に実践すれば、煩悩が尽き、無漏となり、心の解脱と智慧の解脱を得る。現在の世において自ら悟り、『私の生は既に尽きた。清らかな修行は既に確立された。なすべきことは既になし終えた。もはや次の世の存在は受けない』と自ら知って、確かに安住する。 比丘よ、七つの処における善き理解とは何か。 比丘よ、色（物質的な現象）をありのままに知る。色の生起、色の消滅、色の消滅に至る道筋、色の味わい、色の過患、色からの離脱をありのままに知る。 同様に、受（感覚）、想（知覚）、行（心の働き）、識（認識）についても、それぞれの生起、消滅、消滅に至る道筋、味わい、過患、離脱をありのままに知る。

「云何色如實知？諸所有色、一切四大及四大造色，是名為色，如是色如實知。云何色集如實知？愛喜是名色集，如是色集如實知。云何色滅如實知？愛喜滅是名色滅，如是色滅如實知。云何色滅道跡如實知？謂八聖道——正見、正志、正語、正業、正命、正方便、正念、正定，是名色滅道跡，如是色滅道跡如實知。云何色味如實知？謂色因緣生喜樂，是名色味，如是色味如實知。云何色患如實知？若色無常、苦、變易法，是名色患，如是色患如實知。云何色離如實知？謂於色調伏欲貪、斷欲貪、越欲貪，是名色離，如是色離如實知。

> 色をありのままに知るとはどういうことか。 すべての色、すなわち四大（地・水・火・風）と、それによって造られたもの、これを色と言う。 このように色をありのままに知ることである。 色の集まりをありのままに知るとはどういうことか。 愛し楽しむことが、色の集まりと言われる。 このように色の集まりをありのままに知ることである。 色の滅びをありのままに知るとはどういうことか。 愛し楽しむことが滅ぶことが、色の滅びと言われる。 このように色の滅びをありのままに知ることである。 色の滅びに至る道をありのままに知るとはどういうことか。 それは八つの聖なる道、すなわち正しい見解、正しい思い、正しい言葉、正しい行い、正しい生き方、正しい努力、正しい気づき、正しい集中である。 これを色の滅びに至る道と言う。 このように色の滅びに至る道をありのままに知ることである。 色の味わいをありのままに知るとはどういうことか。 色が縁となって喜びや楽しみが生じること、これを色の味わいと言う。 このように色の味わいをありのままに知ることである。 色の危険をありのままに知るとはどういうことか。 色が無常であり、苦であり、移り変わるものであること、これを色の危険と言う。 このように色の危険をありのままに知ることである。 色からの離れをありのままに知るとはどういうことか。 色に対する欲や貪りを調え、断ち、超えていくこと、これを色からの離れと言う。 このように色からの離れをありのままに知ることである。

「云何受如實知？謂六受——眼觸生受，耳、鼻、舌、身、意觸生受，是名受，如是受如實知。云何受集如實知？觸集是受集，如是受集如實知。云何受滅如實知？觸滅是受滅，如是受滅如實知。云何受滅道跡如實知？謂八聖道——正見乃至正定，是名受滅道跡，如是受滅道跡如實知。云何受味如實知？受因緣生喜樂，是名受味，如是受味如實知。云何受患如實知？若受無常、苦、變易法，是名受患，如是受患如實知。云何受離如實知？若於受調伏欲貪、斷欲貪、越欲貪，是名受離，如是受離如實知。

> どのようにして受をありのままに知るのでしょうか。六つの受、すなわち眼の触によって生じる受、耳・鼻・舌・身・意の触によって生じる受、これを受といいます。このように受をありのままに知るのです。 どのようにして受の生起をありのままに知るのでしょうか。触の生起が受の生起です。このように受の生起をありのままに知るのです。 どのようにして受の滅をありのままに知るのでしょうか。触の滅が受の滅です。このように受の滅をありのままに知るのです。 どのようにして受の滅に至る道をありのままに知るのでしょうか。八つの聖なる道、すなわち正見から正定まで、これを受の滅に至る道といいます。このように受の滅に至る道をありのままに知るのです。 どのようにして受の味わいをありのままに知るのでしょうか。受が縁となって喜びや楽しみが生じる、これを受の味わいといいます。このように受の味わいをありのままに知るのです。 どのようにして受の危険をありのままに知るのでしょうか。受が無常であり、苦であり、変わりゆくものであるならば、これを受の危険といいます。このように受の危険をありのままに知るのです。 どのようにして受からの離脱をありのままに知るのでしょうか。もし受について欲や貪りを調伏し、断ち、超えていくならば、これを受からの離脱といいます。このように受からの離脱をありのままに知るのです。

「云何想如實知？謂六想——眼觸生想，耳、鼻、舌、身、意觸生想，是名為想，如是想如實知。云何想集如實知？觸集是想集，如是想集如實知。云何想滅如實知？觸滅是想滅，如是想滅如實知。云何想滅道跡如實知？謂八聖道——正見乃至正定，是名想滅道跡，如是想滅道跡如實知。云何想味如實知？想因緣生喜樂，是名想味，如是想味如實知。云何想患如實知？若想無常、苦、變易法，是名想患，如是想患如實知。云何想離如實知？若於想調伏欲貪、斷欲貪、越欲貪，是名想離，如是想離如實知。

> 想とは何かをありのままに知るとはどういうことか。 六つの想がある——眼の触れから生じる想、耳、鼻、舌、身、意の触れから生じる想、これらを想と呼ぶ。このように想をありのままに知るのである。 想の生じる原因をありのままに知るとはどういうことか。 触れが集まることが想の集まる原因である。このように想の生じる原因をありのままに知るのである。 想の滅びをありのままに知るとはどういうことか。 触れが滅びることが想の滅びである。このように想の滅びをありのままに知るのである。 想の滅びに至る道をありのままに知るとはどういうことか。 八つの聖なる道——正しい見解から正しい禅定まで——これが想の滅びに至る道である。このように想の滅びに至る道をありのままに知るのである。 想の味わいをありのままに知るとはどういうことか。 想が縁となって喜びや楽しみが生じること、これが想の味わいである。このように想の味わいをありのままに知るのである。 想の危険をありのままに知るとはどういうことか。 想が無常であり、苦であり、移り変わるものであること、これが想の危険である。このように想の危険をありのままに知るのである。 想からの離脱をありのままに知るとはどういうことか。 想に対して欲や貪りを調伏し、断ち、超えていくこと、これが想からの離脱である。このように想からの離脱をありのままに知るのである。

「云何行如實知？謂六思身——眼觸生思，耳、鼻、舌、身、意觸生思，是名為行，如是行如實知。云何行集如實知？觸集是行集，如是行集如實知。云何行滅如實知？觸滅是行滅，如是行滅如實知。云何行滅道跡如實知？謂八聖道——正見乃至正定，是名行滅道跡，如是行滅道跡如實知。云何行味如實知？行因緣生喜樂，是名行味，如是行味如實知。云何行患如實知？若行無常、苦、變易法，是名行患，如是行患如實知。云何行離如實知？若於行調伏欲貪、斷欲貪、越欲貪，是名行離，如是行離如實知。

> 行をありのままに知るとはどういうことか。それは六つの思（意志作用）のことである——眼の接触から生じる思、耳、鼻、舌、身、意の接触から生じる思、これを行と呼ぶ。このように行をありのままに知るのである。 行の集起をありのままに知るとはどういうことか。触の集起こそが行の集起である。このように行の集起をありのままに知るのである。 行の滅尽をありのままに知るとはどういうことか。触の滅尽こそが行の滅尽である。このように行の滅尽をありのままに知るのである。 行の滅尽に至る道をありのままに知るとはどういうことか。それは八つの聖なる道——正見から正定に至るまで——である。これを行の滅尽に至る道と呼ぶ。このように行の滅尽に至る道をありのままに知るのである。 行の味わいをありのままに知るとはどういうことか。行が縁となって喜びや楽しみが生じること、これを行の味わいと呼ぶ。このように行の味わいをありのままに知るのである。 行の危険をありのままに知るとはどういうことか。行が無常であり、苦であり、変化するものであること、これを行の危険と呼ぶ。このように行の危険をありのままに知るのである。 行からの離脱をありのままに知るとはどういうことか。行に対して欲や貪りを調伏し、欲や貪りを断ち切り、欲や貪りを超えていくこと、これを行からの離脱と呼ぶ。このように行からの離脱をありのままに知るのである。

「云何識如實知？謂六識身——眼識，耳、鼻、舌、身、意識身，是名為識，如是識如實知。云何識集如實知？名色集是識集，如是識集如實知。云何識滅如實知？名色滅是識滅，如是識滅如實知。云何識滅道跡如實知？謂八聖道——正見乃至正定，是名識滅道跡，如是識滅道跡如實知。云何識味如實知？識因緣生喜樂，是名識味，如是識味如實知。云何識患如實知？若識無常、苦、變易法，是名識患，如是識患如實知。云何識離如實知？若識調伏欲貪、斷欲貪、越欲貪，是名識離如實知。比丘！是名七處善。

> 認識（識）をあるがままに知るとは何か？すなわち、六つの認識（六識身）——眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識——これらを認識（識）と呼び、このように認識をあるがままに知るのである。 認識の集まり（識集）をあるがままに知るとは何か？名前と形（名色）の集まりが認識の集まりである。このように認識の集まりをあるがままに知るのである。 認識の消滅（識滅）をあるがままに知るとは何か？名前と形の消滅が認識の消滅である。このように認識の消滅をあるがままに知るのである。 認識の消滅に至る道筋（識滅道跡）をあるがままに知るとは何か？すなわち八つの聖なる道（八聖道）——正しい見解（正見）から正しい集中（正定）に至るまで——これを認識の消滅に至る道筋と呼び、このように認識の消滅に至る道筋をあるがままに知るのである。 認識の味わい（識味）をあるがままに知るとは何か？認識に縁って生じる喜びや楽しみ、これを認識の味わいと呼び、このように認識の味わいをあるがままに知るのである。 認識の過患（識患）をあるがままに知るとは何か？認識が無常であり、苦であり、変化する性質を持つこと、これを認識の過患と呼び、このように認識の過患をあるがままに知るのである。 認識からの離脱（識離）をあるがままに知るとは何か？認識に対する欲望や執着（欲貪）を調伏し、断ち切り、超え越すこと、これを認識からの離脱をあるがままに知るというのである。 比丘たちよ、これが七つの巧み

「云何三種觀義？比丘！若於空閑、樹下、露地，觀察陰、界、入，正方便思惟其義，是名比丘三種觀義。是名比丘七處善、三種觀義。盡於此法得漏盡，得無漏，心解脫、慧解脫，現法自知作證具足住：『我生已盡，梵行已立，所作已作，自知不受後有。』」

> 「では、三つの観察の意味とは何か？ 比丘（修行者）よ、もし静かな場所、木の下、または野外で、 五蘊（ごうん）・十八界・十二処を観察し、 正しい方法でその意味を考えるならば、 これを比丘の三つの観察の意味という。 これが、比丘にとっての七つの優れた修行と、 三つの観察の意味である。 この教えを完全に実践すれば、 煩悩の漏れが尽き、 無漏（汚れのない状態）に達し、 心の解脱と智慧の解脱を得る。 現世において自ら悟り、 『私は生を終え、清らかな修行を完成し、 なすべきことを全てなし、 もはや迷いの世界に生まれ変わることはない』と 知って、確かにその境地に安住するのである。」

佛說此經已，諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。

> お釈迦さまがこのお経をお説きになると、比丘たちは皆、その教えを聞いて大いに喜び、深く心に刻んで実践しました。