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title: "雜阿含經 · 57"
description: "雜阿含經是佛教早期經典之一，由劉宋時期譯師求那跋陀羅翻譯為漢文。該經屬於原始佛教阿含部，記錄了佛陀與弟子間的對話，內容涵蓋四聖諦、八正道、緣起法等核心教義，被視為研究原始佛教思想的重要文獻。雜阿含經在佛教經典中地位崇高，與長阿含、中阿含、增一阿含並列為四阿含，是南傳佛教巴利語尼柯耶的對應漢譯版本。該經語言簡練，教義樸實，反映了佛陀時代的修行方法與解脫之道，為後世佛教各派共同尊奉的基礎經典。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma8xhibq0p8kl404k7k7be86"
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### （五七）

> 第五十七章

如是我聞：

> このように私は聞きました。

一時，佛住舍衛國祇樹給孤獨園。

> 一時、仏は舎衛国の祇樹給孤独園に住したまえり。

爾時，世尊著衣持鉢，入舍衛城乞食，還持衣鉢，不語眾，不告侍者，獨一無二，於西方國土人間遊行。

> そのとき、世尊は衣をまとい鉢を持って、舎衛城に入り托参をした。その後、衣と鉢を持ち帰り、誰にも語らず、侍者にも告げず、ただ独りで西方の国の人々の間を遊行された。

時，安陀林中有一比丘，遙見世尊不語眾，不告侍者，獨一無二。見已，進詣尊者阿難所，白阿難言：「尊者！當知世尊不語眾，不告侍者，獨一無二而出遊行。」

> その時、アンダの林にいた一人の比丘が、遠くに世尊がおられるのを目にしました。世尊は大衆に何も告げず、侍者にも伝えず、ただ一人で歩いておられました。それを見た比丘は、尊者アーナンダのところへ行き、申し上げました。「尊者よ、ご存知ですか。世尊は大衆にも侍者にも何も告げず、ただ独りで遊行に出かけられました。」

爾時，阿難語彼比丘：「若使世尊不語眾，不告侍者，獨一無二而出遊行，不應隨從。所以者何？今日世尊欲住寂滅滅少事故。」

> その時、阿難はその比丘に言った。「もし世尊が大衆に告げず、侍者にも知らせず、ただ独りでお出かけになるならば、従ってはならない。なぜなら、今日の世尊は静かな境地に留まり、わずらわしいことを避けようとしておられるからだ。」

爾時，世尊遊行北至半闍國波陀聚落，於人所守護林中，住一跋陀薩羅樹下。時有眾多比丘詣阿難所，語阿難言：「今聞世尊住在何所？」

> その時、世尊は北へ向かい、半闍国の波陀という村に到着されました。人々が守る林の中、一本の跋陀薩羅樹のもとにお住まいでした。そこへ多くの比丘たちが阿難のもとを訪ね、こう尋ねました。「今、世尊はどちらにおられますか。」

阿難答曰：「我聞世尊北至半闍國波陀聚落，人所守護林中跋陀薩羅樹下。」

> 阿難は答えました。「私は世尊が北の方、半闍国の波陀という村にある、人々が守る林の中の跋陀薩羅の木の下におられたのを聞きました。」

時，諸比丘語阿難曰：「尊者當知，我等不見世尊已久，若不憚勞者，可共往詣世尊？」哀愍故，阿難知時，默然而許。

> その時、比丘たちは阿難に語りました。「尊者よ、私たちは長い間、世尊をお見かけしておりません。もしご迷惑でなければ、共に世尊のもとへ参りましょうか？」哀れみの心から、阿難は時宜をわきまえ、黙って承諾しました。

爾時，尊者阿難與眾多比丘夜過晨朝，著衣持鉢，入舍衛城乞食。乞食已，還精舍，舉臥具，持衣鉢，出至西方人間遊行，北至半闍國波陀聚落人守護林中。時，尊者阿難與眾多比丘置衣鉢，洗足已，詣世尊所，頭面禮足，於一面坐。

> その夜が明け、朝の時間になりました。尊者のアーナンダは多くの修行僧たちとともに、衣を身にまとい、鉢を持って、舎衛城（ジェータヴァナ僧院のある都）に入り托鉢をしました。托鉢を終え僧院に戻ると、寝具を片付け、衣と鉢を持って、西方へと人々の間を遊行し、北はバンチャ国（半闍国）のパタ村（波陀聚落）にある、人々に守られた林に至りました。その時、尊者のアーナンダは多くの修行僧たちとともに、衣と鉢を置き、足を洗った後、世尊（ブッダ）のもとへと向かいました。世尊の頭と足に礼拝し、一方の側に座りました。

爾時，世尊為眾多比丘說法，示、教、利、喜。

> その時、世尊（お釈迦様）は大勢の修行者たちに教えを説き、真理を示し、教え導き、励まし、喜びを与えられました。

爾時，座中有一比丘作是念：「云何知、云何見，疾得漏盡？」爾時，世尊知彼比丘心之所念，告諸比丘：「若有比丘於此座中作是念：『云何知、云何見，疾得漏盡？』者，我已說法言：『當善觀察諸陰，所謂四念處、四正勤、四如意足、五根、五力、七覺分、八聖道分。』我已說如是法，觀察諸陰。而今猶有善男子不勤欲作、不勤樂、不勤念、不勤信，而自慢惰，不能增進得盡諸漏。若復善男子於我所說法，觀察諸陰，勤欲、勤樂、勤念、勤信，彼能疾得盡諸漏。愚癡無聞凡夫於色見是我，若見我者，是名為行。彼行何因？何集？何生？何轉？無明觸生愛，緣愛起彼行。彼愛何因？何集？何生？何轉？彼愛受因、受集、受生、受轉。彼受何因？何集？何生？何轉？彼受觸因、觸集、觸生、觸轉。彼觸何因？何集？何生？何轉？謂彼觸六入處因、六入處集、六入處生、六入處轉。彼六入處無常、有為、心緣起法；彼觸、受、愛、行，亦無常、有為、心緣起法……如是觀者，而見色是我……不見色是我，而見色是我所……不見色是我所，而見色在我……不見色在我，而見我在色……不見我在色，而見受是我……不見受是我，而見受是我所……不見受是我所，而見受在我……不見受在我，而見我在受……不見我在受，而見想是我……不見想是我，而見想是我所……不見想是我所，而見想在我……不見想在我，而見我在想……不見我在想，而見行是我……不見行是我，而見行是我所……不見行是我所，而見行在我……不見行在我，而見我在行……不見我在行，而見識是我……不見識是我，而見識是我所……不見識是我所，而見識在我……不見識在我，而見我在識……不見我在識，復作斷見、壞有見。不作斷見、壞有見，而不離我慢。不離我慢者，而復見我，見我者即是行。彼行何因？何集？何生？何轉？如前所說，乃至我慢。作如是知、如是見者，疾得漏盡。」

> あるとき、会場にいた一人の比丘がこう思いました。「どのように知り、どのように見れば、速やかに煩悩を尽くすことができるのだろうか？」 その時、世尊はその比丘の心の思いを知り、比丘たちに告げられました。「もしこの会場にいる比丘で、『どのように知り、どのように見れば、速やかに煩悩を尽くすことができるのか』と考える者がいるなら、私はすでに法を説いて言っている。『諸々の〔心身を構成する〕集まり（五蘊）をしっかりと観察しなさい。いわゆる四念処、四正勤、四如意足、五根、五力、七覚支、八聖道分である。』私はこのように法を説き、諸々の集まりを観察することを示した。それにもかかわらず、善き者たちの中には、努めようとせず、楽しまず、念じず、信じず、自ら怠り傲慢になって、諸々の煩悩を尽くすまでに進むことができない者がいる。 もし善き者が、私の説いた法に従って、諸々の集まりを観察し、欲し、楽しみ、念じ、信じて努めるなら、その者は速やかに諸々の煩悩を尽くすことができるであろう。 愚かで無知な凡夫は、物質的なもの（色）において『我』があると見る。もし『我』があると見るなら、それを『行』（心の形成作用）と呼ぶ。その『行』は何を原因とするのか？何によって集まるのか？何から生じるのか？何によって転じるのか？無明（無知）と触（接触）から愛（渇愛）が生じ、その愛に縁って『行』が生じる。その愛は何を原因とするのか？何によって集まるのか？何から生じるのか？何によって転じるのか？その愛は受（感受）を原因とし、受によって集まり、受から生じ、受によって転じる。その受は何を原因とするのか？何によって集まるのか？何から生じるのか？何によって転じるのか？その受は触を原因とし、触によって集まり、触から生じ、触によって転じる。その触は何を原因とするのか？何によって集まるのか？何から生じるのか？何によって転じるのか？その触は六つの感覚器官（六入処）を原因とし、六入処によって集まり、六入処から生じ、六入処によって転じる。これらの六入処は無常であり、条件づけられたものであり、心の縁によって生じる法である。また、触、受、愛、行も無常であり、条件づけられたものであり、心の縁によって生じる法である。 このように観察する者は、『色が我である』と見たり、『色が我ではないが、我の所有するものである』と見たり、『色は我の中にある』と見たり、『我は色の中にある』と見ることを超える。 さらに、受、想（観念）、行、識（認識）についても同様に、『これが我である』という見解や、我に執着する考えから離れる。 しかし、それでもなお、断滅論（死後に何もないと見る見解）や、存在を否定する見解を起こすことがある。断滅論や存在否定の見解を起こさなくても、我慢（自我への執着）から離れない。我慢から離れない者は、再び『我』を見る。『我』を見ることは、すなわち『行』である。その『行』は何を原因とするのか？何によって集まるのか？何から生じるのか？何によって転じるのか？前述した通りである。このように、我慢に至るまでを、このように知り、このように見るならば、速やかに煩悩を尽くすことができるのである。」

佛說此經已，諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。

> お釈迦さまがこのお経をお説きになると、比丘たちは皆、その教えを聞いて大いに喜び、深く心に刻んで実践しました。