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title: "雜阿含經 · 58"
description: "雜阿含經是佛教早期經典之一，由劉宋時期譯師求那跋陀羅翻譯為漢文。該經屬於原始佛教阿含部，記錄了佛陀與弟子間的對話，內容涵蓋四聖諦、八正道、緣起法等核心教義，被視為研究原始佛教思想的重要文獻。雜阿含經在佛教經典中地位崇高，與長阿含、中阿含、增一阿含並列為四阿含，是南傳佛教巴利語尼柯耶的對應漢譯版本。該經語言簡練，教義樸實，反映了佛陀時代的修行方法與解脫之道，為後世佛教各派共同尊奉的基礎經典。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma8xhibq0p8ll404wzzht9p0"
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### （五八）

> 五八

如是我聞：

> このように私は聞きました。

一時，佛住舍衛國東園鹿母講堂。

> ある時、釈尊は舎衛国の東園にある鹿子母講堂におられた。

爾時，世尊於晡時從禪覺，於諸比丘前敷座而坐，告諸比丘：「有五受陰。云何為五？謂色受陰，受、想、行、識受陰。」

> 夕方の時、世尊は瞑想から覚めると、比丘たちの前に座を整え、こう告げられました。 「五つの執着の集まりがある。その五つとは何か？ 物質的なものの集まり、感覚の集まり、知覚の集まり、心の働きの集まり、認識の集まりである。」

時，有一比丘從坐起，整衣服，偏袒右肩，右膝著地，合掌白佛言：「世尊！此五受陰，色受陰，受、想、行、識受陰耶？」

> その時、一人の修行僧が座を立ち、衣を整え、右肩をあらわにし、右膝を地につけて、合掌して仏に申し上げました。 「世尊よ、この五つの執着の要素――色の要素、受・想・行・識の要素――は、皆、執着の対象となるものなのでしょうか？」

佛告比丘：「還坐而問，當為汝說。」

> 仏は比丘たちに告げられた。「座に戻って尋ねなさい。あなたたちのために説きましょう。」

時，彼比丘為佛作禮，還復本坐，白佛言：「世尊！此五受陰，以何為根？以何集？以何生？以何觸？」

> その時、その修行僧は仏に礼拝し、自分の席に戻ってから仏に申し上げた。「尊き方よ、この五つの執着の集まり（五取蘊）は、何を根拠とし、何から集まり、何から生じ、何によって触れられるのでしょうか。」

佛告比丘：「此五受陰，欲為根，欲集、欲生、欲觸。」

> 仏は比丘たちに告げられました。「この五つの執着の集まり（五受陰）は、欲望を根源とし、欲望によって集まり、欲望から生まれ、欲望に触れることによって成り立っています。」

時，彼比丘聞佛所說，歡喜隨喜，而白佛言：「世尊！為說五陰即受，善哉所說！今當更問。世尊！陰即受，為五陰異受耶？」

> そのとき、その比丘は仏の説法を聞き、喜び、随喜して、仏に申し上げた。「世尊よ、おっしゃるには『五陰すなわち執受』とのこと、見事なお説きようでございます。ここでさらに伺います。世尊よ、『陰すなわち執受』なのでしょうか。それとも、五陰と執受は別のものなのでしょうか。」

佛告比丘：「非五陰即受，亦非五陰異受；能於彼有欲貪者，是五受陰。」

> 仏が比丘たちに告げられた。「五蘊そのものが執着なのではない。また、五蘊とは別に執着があるのでもない。それらに対して欲や貪りがあること、それが五取蘊である。」

比丘白佛：「善哉！世尊！歡喜隨喜，今復更問。世尊！有二陰相關耶？」

> 比丘が仏に申し上げました。「素晴らしいお言葉です。世尊よ、私は喜びと共に賛嘆し、さらに一つお尋ねいたします。世尊よ、五蘊には互いに関係し合うものがあるのでしょうか。」

佛告比丘：「如是，如是。猶若有一人如是思惟：『我於未來得如是色、如是受、如是想、如是行、如是識。』是名比丘陰陰相關也。」

> 仏は比丘たちにこう告げられた。「その通り、その通りです。例えば、ある人がこのように考えます——『私は未来において、このような色（物質的要素）、このような受（感覚）、このような想（知覚）、このような行（心の作用）、このような識（認識）を得るだろう』と。比丘たちよ、これを『諸々の蘊（集まり）が互いに関連している』と言うのです。」

比丘白佛：「善哉所說，歡喜隨喜。」

> 比丘が仏に申し上げました。「お説きになったことは素晴らしい。喜んで従います。」

更有所問：「世尊！云何名陰？」佛告比丘：「諸所有色，若過去、若未來、若現在，若內、若外，若麤、若細，若好、若醜，若遠、若近，彼一切總說陰，是名為陰。受、想、行、識亦復如是。如是，比丘！是名為陰。」

> さらに質問がありました。「世尊（せそん）」。どのようなものを「陰（いん）」と名づけるのでしょうか？」 お釈迦様は比丘（びく）にこうお答えになりました。 「あらゆる色（しき）——それが過去のものであれ、未来のものであれ、現在のものであれ、内なるものであれ、外なるものであれ、粗いものであれ、細かいものであれ、良いものであれ、悪いものであれ、遠くにあるものであれ、近くにあるものであれ——それらのすべてを総称して『陰』と言う。これが『陰』と呼ばれるものです。 受（じゅ）・想（そう）・行（ぎょう）・識（しき）についても、まったく同じです。 このように、比丘たちよ。これが『陰』と呼ばれるものです。」

比丘白佛：「善哉所說，歡喜隨喜。」

> 比丘が仏に申し上げました。「大変結構なお説きでございます。喜んでお受けいたします。」

更有所問：「世尊！何因何緣名為色陰？何因何緣名受、想、行、識陰？」

> さらに質問がありました。「世尊（せそん）様。どのような原因と、どのような縁（えん）からこれを色陰（しきいん）と名づけるのですか？また、どのような原因と縁から受陰（じゅいん）、想陰（そういん）、行陰（ぎょういん）、識陰（しきいん）と名づけるのですか？」

佛告比丘：「四大因、四大緣，是名色陰。所以者何？諸所有色陰，彼一切悉皆四大，緣四大造故。觸因、觸緣，生受、想、行，是故名受、想、行陰。所以者何？若所有受、想、行，彼一切觸緣故，名色因、名色緣，是故名為識陰。所以者何？若所有識，彼一切名色緣故。」

> 仏は比丘たちに告げられた。 「『四大』という因と縁によって、これを『色の集まり（色陰）』と呼ぶ。 なぜか。あらゆる色の集まりは、すべてこの四大に基づき、四大が縁となって作られるからである。 次に、『接触（触）』という因と縁によって、感覚（受）・イメージ（想）・意思（行）が生じる。ゆえに、これらを『受の集まり』『想の集まり』『行の集まり』と呼ぶ。 なぜか。あらゆる感覚・イメージ・意思は、すべて接触を縁として生じるからである。 さらに、『名前と形（名色）』という因と縁によって、これを『識の集まり（識陰）』と呼ぶ。 なぜか。あらゆる識は、すべて名前と形を縁として生じるからである。」

比丘白佛：「善哉所說，歡喜隨喜。」

> 比丘が仏に申し上げました。「お説きになったことは素晴らしい。喜んで従います。」

更有所問：「云何色味？云何色患？云何色離？云何受、想、行、識味？云何識患？云何識離？」

> さらに問う。「色の味わいとは何か。色の患いとは何か。色からの離脱とは何か。受・想・行・識の味わいとは何か。識の患いとは何か。識からの離脱とは何か。」

佛告比丘：「緣色生喜樂，是名色味；若色無常、苦、變易法，是名色患；若於色調伏欲貪、斷欲貪、越欲貪，是名色離。若緣受、想、行、識生喜樂，是名識味；受、想、行、識，無常、苦、變易法，是名識患；於受、想、行、識，調伏欲貪、斷欲貪、越欲貪，是名識離。」

> 仏は比丘たちに告げられた。「色（物質的なもの）に縁って喜びや楽しみが生じる。これを『色の味わい（魅力）』という。もし色が無常であり、苦であり、変化してやまない性質のものであるならば、これを『色の患い（過患）』という。もし色に対して、欲望や執着を調え、断ち、超え去るならば、これを『色の離脱（解放）』という。 また、受（感覚）、想（イメージ）、行（心の働き）、識（認識）に縁って喜びや楽しみが生じるならば、これを『受・想・行・識の味わい』という。受・想・行・識が無常であり、苦であり、変化してやまない性質のものであるならば、これを『受・想・行・識の患い』という。受・想・行・識に対して、欲望や執着を調え、断ち、超え去るならば、これを『受・想・行・識

比丘白佛：「善哉所說，歡喜隨喜。」

> 比丘が仏に申し上げました。「お説きになったことは素晴らしい。喜んで従います。」

更有所問：「世尊！云何生我慢？」

> さらに問う：「世尊、どのようにして我慢（自己への執着）が生じるのでしょうか？」

佛告比丘：「愚癡無聞凡夫於色見我、異我、相在，於受、想、行、識見我、異我、相在，於此生我慢。」

> 仏は比丘たちに告げられた。「無知で教えを受けていない凡夫は、色（物質的な現象）において、自分自身であると見たり、自分とは別のものと見たり、自分の内に存在すると見なす。また、受（感覚）、想（知覚）、行（意志の働き）、識（認識作用）においても同様に、自分自身であると見たり、自分とは別のものと見たり、自分の内に存在すると見なす。このことから、自我への執着（我慢）が生じるのである。」

比丘白佛：「善哉所說，歡喜隨喜。」

> 比丘が仏に申し上げました。「お説きになったことは素晴らしい。喜んで従います。」

更有所問：「世尊！云何得無我慢？」

> さらに問う「世尊よ。どのようにすれば無我の慢心（おごり）を得られるのでしょうか？」

佛告比丘：「多聞聖弟子不於色見我、異我、相在，不於受、想、行、識，見我、異我、相在。」

> 仏は比丘たちに告げられた。「よく学んだ聖なる弟子たちは、色（物質的なもの）の中に『私』を見たり、『私とは別のもの』と見たり、『私がその中にある』とも見ない。また、感受作用、表象作用、意志作用、認識作用についても、『私』、『私とは別のもの』、『私がその中にある』とは見ないのである。」

比丘白佛：「善哉所說，更有所問，何所知、何所見，疾得漏盡？」

> 比丘が仏に申し上げました。「よくお説きくださいました。さらにお尋ねしたいことがあります。どのように知り、どのように見れば、速やかに煩悩を尽くすことができるのでしょうか？」

佛告比丘：「諸所有色，若過去、若未來、若現在，若內、若外，若麤、若細，若好、若醜，若遠、若近，彼一切非我、不異我、不相在；受、想、行、識亦復如是。比丘！如是知，如是見，疾得漏盡。」

> 釈尊は比丘たちに告げられました。 「あらゆる形あるもの（色）は、過去のものであれ、未来のものであれ、現在のものであれ、内側のものであれ外側のものであれ、粗いものであれ細かいものであれ、美しいものであれ醜いものであれ、遠くにあるものであれ近くにあるものであれ、そのすべては『私』ではない。『私とは別のもの』でもなく、互いに『私』として存在するものでもない。同じように、感受作用（受）も、表象作用（想）も、意志作用（行）も、認識作用（識）もまた、そうである。 比丘たちよ、このように知り、このように見るならば、速やかに煩悩の滅尽を得るであろう。」

爾時，會中復有異比丘，鈍根無知，在無明㲉起惡邪見，而作是念：「若無我者，作無我業，於未來世，誰當受報？」爾時，世尊知彼比丘心之所念，告諸比丘：「於此眾中，若有愚癡人，無智、明，而作是念：『若色無我，受、想、行、識無我，作無我業，誰當受報？』如是所疑，先以解釋彼。云何比丘！色為常耶？為非常耶？」

> その時、会の中でまた別の比丘がいた。彼は鈍根で無知であり、無明の殻の中で悪しき邪見を起こし、こう考えた。「もし私が存在しないのなら、私のない業を作っても、未来において誰がその報いを受けるのだろうか？」 その時、世尊はその比丘の心の内にある考えを知って、諸比丘に告げられた。「この会衆の中に、もし愚かな者で、智慧も明察もなく、こう思う者がいるならば、『もし色が我ならず、受・想・行・識も我ならず、我なき業を作ったなら、誰が報いを受けるのか？』という疑問は、既にそれを説明した。 どうであろう、比丘たちよ。色は常であるか、それとも常ならざるか？」

答言：「無常。世尊！」

> 答え：「無常です、世尊よ。」

「若無常者，是苦耶？」

> もしそれが無常なら、それは苦なのですか？

答言：「是苦。世尊！」

> お答えします。「それは苦しみです、世尊よ。」

「若無常、苦，是變易法，多聞聖弟子於中寧見是我、異我、相在不？」

> 「もしそれが、無常であり、苦しみであり、変化していく性質のものならば、真理をよく聞いた聖なる弟子は、その中に『これが私である』『これは私とは別のものである』『これが私の本質である』と見なすだろうか？」

答言：「不也，世尊！」

> 答え: 「いいえ、世尊さま。」

「受、想、行、識亦復如是。是故，比丘！若所有色，若過去、若未來、若現在，若內、若外，若麤、若細，若好、若醜，若遠、若近，彼一切非我、非我所。如是見者，是為正見；受、想、行、識亦復如是。多聞聖弟子如是觀者便修厭，厭已離欲，離欲已解脫，解脫知見：『我生已盡，梵行已立，所作已作，自知不受後有。』」

> 「受・想・行・識もまた、まったく同じです。ですから、修行者の皆さん、あらゆる「色」について、過去のものも、未来のものも、現在のものも、内なるものも、外なるものも、粗いものも、細かいものも、美しいものも、醜いものも、遠いものも、近いものも、それらすべては「私」ではなく、「私のもの」でもありません。このように観察することが、正しい見方です。「受・想・行・識」もまた、まったく同じです。よく学んだ聖なる弟子が、このように観察すれば、嫌悪（厭わしさ）を感じるようになります。嫌悪を感じれば、執着から離れます。執着から離れれば、解脱します。解脱すると、次のような知恵と見方が生まれます。「私の生は尽きた。清らかな修行は完成した。為すべきことは為し終えた。もはや再び迷いの世界に生まれ変わることはない」と。

佛說此經時，眾多比丘不起諸漏，心得解脫。佛說此經已，諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。

> この経を仏が説かれたとき、多くの比丘たちは煩悩が起こることなく、心に解脱を得たのです。 仏がこの経をお説き終えられると、比丘たちは仏の説かれたことを聞いて、喜んでその教えを実践しました。

陰、根、陰即受 二陰共相關名字、因、二味 我慢、疾漏盡

> 五蘊（色・受・想・行・識）とその根（感官・対象など）は相互に関係し合っている。 それらに名前や原因、二つの味（執着と嫌悪）が加わり、 慢心（自己へのこだわり）があるなら、 速やかに煩悩を尽くすべきである。

## 雜阿含經卷第二

> 雑阿含経 第二巻