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title: "雜阿含經 · 63"
description: "雜阿含經是佛教早期經典之一，由劉宋時期譯師求那跋陀羅翻譯為漢文。該經屬於原始佛教阿含部，記錄了佛陀與弟子間的對話，內容涵蓋四聖諦、八正道、緣起法等核心教義，被視為研究原始佛教思想的重要文獻。雜阿含經在佛教經典中地位崇高，與長阿含、中阿含、增一阿含並列為四阿含，是南傳佛教巴利語尼柯耶的對應漢譯版本。該經語言簡練，教義樸實，反映了佛陀時代的修行方法與解脫之道，為後世佛教各派共同尊奉的基礎經典。"
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### （六三）

> 第六十三章

如是我聞：

> このように私は聞きました。

一時，佛住舍衛國祇樹給孤獨園。

> 一時、仏は舎衛国の祇樹給孤独園に住したまえり。

爾時，世尊告諸比丘：「有五受陰，謂色受陰，受、想、行、識受陰。比丘！若沙門、婆羅門計有我，一切皆於此五受陰計有我。何等為五？諸沙門、婆羅門於色見是我、異我、相在；如是受、想、行、識，見是我、異我、相在。如是愚癡無聞凡夫，計我、無明、分別如是觀，不離我所；不離我所者，入於諸根；入於諸根已，而生於觸；六觸入所觸，愚癡無聞凡夫生苦樂，從是生此等及餘。謂六觸身，云何為六？謂眼觸入處，耳、鼻、舌、身、意觸入處。比丘！有意界、法界、無明界，無明觸所觸。愚癡無聞凡夫言有、言無、言有無、言非有非無、言我最勝、言我相似，我知、我見。

> ある時、世尊は比丘たちに告げられた。 「五つの執着の集まりがある。すなわち、色の執着の集まり、受・想・行・識の執着の集まりである。 比丘たちよ。もし修行者やバラモンたちが『自己がある』と執着するならば、そのすべてはこの五つの執着の集まりにおいて自己を執着するのである。 どのような五つか。修行者やバラモンたちは、色について『これが我である』『我とは別のものである』『我の中にこれがある』と見る。同様に、受・想・行・識についても『これが我である』『我とは別のものである』『我の中にこれがある』と見る。 このように、無知で教えを聞いていない凡夫は、自己を執着し、無明によって分別し、このように観察するが、『我がもの』という執着を離れない。 『我がもの』という執着を離れない者は、諸々の感覚器官に入り込む。感覚器官に入り込んだ後、接触が生じる。六つの接触器官によって接触されると、無知で教えを聞いていない凡夫には苦と楽が生じ、そこからこれらおよびその他の様々なものが生じる。 すなわち、六つの接触の集まりである。どのような六つか。眼の接触器官、耳・鼻・舌・身・意の接触器官である。 比丘たちよ。意の領域、法の領域、無明の領域がある。無明の接触によって触れられるのである。 無知で教えを聞いていない凡夫は、『存在する』と言い、『存在しない』と言い、『存在し、かつ存在しない』と言い、『存在するのでもなく、存在しないのでもない』と言い、『私は最も優れている』と言い、『私は同等である』と言い、『私は知る』『私は見る』と言うのである。」

「復次，比丘！多聞聖弟子住六觸入處，而能厭離無明，能生於明。彼於無明離欲而生於明，不有、不無、非有無、非不有無、非有我勝、非有我劣、非有我相似，我知、我見。作如是知、如是見已，所起前無明觸滅，後明觸集起。」

> さらに、比丘たちよ。よく学んだ聖なる弟子は、六つの感覚の入り口（六触入処）に留まりながら、無明（無知）を厭い離れ、明（智慧）を生み出すことができる。 彼は無明に対する欲を離れ、明を生じる。そこには「有る」もなく、「無い」もなく、「有るとも無いとも」言えず、「有るのでもなく無いのでもない」のでもない。「私の方が優れている」もなく、「私の方が劣っている」もなく、「私と等しい」もない。ただ「私は知る」「私は見る」というだけである。 このように知り、このように見たならば、以前に生じていた無明に基づく触（接触）は消え去り、後に明に基づく触が生じ現れるのである。

佛說是經已，諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。

> 仏がこの経を説き終えると、比丘たちは皆、仏の教えを聞いて喜び、その教えの通りに実践しました。