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title: "雜阿含經 · 64"
description: "雜阿含經是佛教早期經典之一，由劉宋時期譯師求那跋陀羅翻譯為漢文。該經屬於原始佛教阿含部，記錄了佛陀與弟子間的對話，內容涵蓋四聖諦、八正道、緣起法等核心教義，被視為研究原始佛教思想的重要文獻。雜阿含經在佛教經典中地位崇高，與長阿含、中阿含、增一阿含並列為四阿含，是南傳佛教巴利語尼柯耶的對應漢譯版本。該經語言簡練，教義樸實，反映了佛陀時代的修行方法與解脫之道，為後世佛教各派共同尊奉的基礎經典。"
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### （六四）

> （六十四）

如是我聞：

> このように私は聞きました。

一時，佛住舍衛國東園鹿子母講堂。

> ある時、お釈迦様はサーヴァッティーの東の園にある鹿子母講堂におられました。

爾時，世尊晡時從禪起，出講堂，於堂陰中大眾前，敷座而坐。爾時，世尊歎優陀那偈：

> その時、世尊は午後の禅定から立ち上がり、講堂を出て、建物の陰で大衆の前に座を設けてお座りになりました。そして、世尊はこの優陀那の偈を称えられました。

「法無有吾我， 亦復無我所；我既非當有， 我所何由生？比丘解脫此， 則斷下分結。」

> 「この世に『自分』というものはなく、 『自分のもの』というものもない。 『自分』がもともと存在しないのに、 『自分のもの』がどうやって生じるだろうか。 比丘よ、この道理をよく理解すれば、 あらゆる執着の束縛から解き放たれる。」

時，有一比丘從座起，偏袒右肩，右膝著地，合掌白佛言：「世尊！云何『無吾我，亦無有我所；我既非當有，我所何由生？比丘解脫此，則斷下分結。』？」

> その時、一人の修行僧（比丘）が座を立ち、右肩を露わにし、右膝を地面につけて、合掌して仏に申し上げた。 「お釈迦さま。『私というものはなく、私のものというものもない。』『私というものは存在しないのだから、私のものというものはどこから生じるのか？』『これを理解した修行者は、下位の束縛（下分結）を断ち切る。』とおっしゃいますが、これはどのような意味でしょうか？」

佛告比丘：「愚癡無聞凡夫計色是我、異我、相在；受、想、行、識，是我、異我、相在。多聞聖弟子不見色是我、異我、相在，不見受、想、行、識，是我、異我、相在；亦非知者，亦非見者。此色是無常，受、想、行、識是無常；色是苦，受、想、行、識是苦；色是無我，受、想、行、識是無我；此色非當有，受、想、行、識非當有；此色壞有，受、想、行、識壞有；故非我、非我所，我、我所非當有。如是解脫者，則斷五下分結。」

> ブッダは比丘たちに告げました。 「無知な凡夫は、肉体（色）を『自己』と見なしたり、『自己とは別のもの』と見なしたり、『自己の中に肉体がある』とか『肉体の中に自己がある』と見なします。感受（受）、想念（想）、意志（行）、認識（識）についても同様に、『自己』と見なしたり、『自己とは別のもの』と見なしたり、それらが相互に含まれていると見なします。 しかし、よく学んだ聖なる弟子たちは、肉体を『自己』とは見なさず、『自己とは別のもの』とも見なさず、相互に含まれているとも見なしません。感受、想念、意志、認識についても同様です。また、それらを『知る者』や『見る者』とも見なしません。 この肉体は無常です。感受、想念、意志、認識も無常です。肉体は苦しみです。感受、想念、意志、認識も苦しみです。肉体には永遠の自己はありません。感受、想念、意志、認識にも永遠の自己はありません。この肉体は未来永劫存在するものではありません。感受、想念、意志、認識も未来永劫存在するものではありません。この肉体は壊れてなくなります。感受、想念、意志、認識も壊れてなくなります。ですから、それらは『自己』ではなく、『私のもの』でもありません。『自己』や『私のもの』は未来永劫存在しません。 このように悟りを得た者は、五つの下位の束縛（五下分結）を断ち切ります。」

時，彼比丘白佛言：「世尊！斷五下分結已，云何漏盡，無漏心解脫、慧解脫，現法自知作證具足住：『我生已盡，梵行已立，所作已作，自知不受後有。』？」

> 時に、その比丘が仏に申し上げた。「世尊よ、五下分結を断ち切った後、どのようにして煩悩が尽き、煩悩なき心の解脱と智慧の解脱を得て、現世において自ら知り、自ら悟りを完成して、『我が生は尽き、清らかな行いは完成し、為すべきことは為し終え、もはや次の生存を受けることはない』と自ら証し、確かにその境地に安住するのでしょうか。」

佛告比丘：「愚癡凡夫、無聞眾生於無畏處而生恐畏。愚癡凡夫、無聞眾生怖畏

> 仏は比丘たちに告げられた。「愚かな凡夫や教えを聞かない人々は、恐れる必要のないところに恐れを抱く。愚かな凡夫や教えを聞かない人々は、おののき恐れる。」

無我、無我所， 二俱非當生，攀緣四識住。何等為四？謂色識住，色攀緣、色愛樂、增進廣大生長；於受、想、行識住，攀緣、愛樂、增進廣大生長。比丘！識於此處，若來、若去、若住、若起、若滅，增進廣大生長。若作是說：『更有異法，識若來、若去、若住、若起、若滅、若增進廣大生長。』者，但有言說，問已不知，增益生癡，以非境界故。所以者何？比丘！離色界貪已，於色意生縛亦斷，於色意生縛斷已，識攀緣亦斷；識不復住，無復增進廣大生長，受、想、行界離貪已，於受、想、行意生縛亦斷。受、想、行意生縛斷已，攀緣亦斷，識無所住，無復增進廣大生長。識無所住故不增長，不增長故無所為作，無所為作故則住，住故知足，知足故解脫，解脫故於諸世間都無所取，無所取故無所著，無所著故自覺涅槃：『我生已盡，梵行已立，所作已作，自知不受後有。』比丘！我說識不住東方、南、西、北方、四維、上、下，除欲見法，涅槃、滅盡、寂靜、清涼。」

> 自我（アートマン）も、我がものも存在しない。 この両者は、未来において生じるべきものではない。 （認識は）四つの識住に執着する。 四つとは何か。 すなわち、色という識住、色に執着し、色を愛好し、増進し、広大に成長すること。 そして、受・想・行という識住においても、同じく執着し、愛好し、増進し、広大に成長すること。 比丘よ、識はここにおいて、来たり、去り、住し、生じ、滅し、増進し、広大に成長する。 もし、『これとは別の法があり、識が来たり、去り、住し、生じ、滅し、増進し、広大に成長する』と説く者があれば、それはただの言葉に過ぎず、問われても理解できず、かえって愚かさを増すだけである。なぜなら、それは認識の及ばない領域だからである。 なぜか。比丘よ、色という領域に対する貪りを離れたならば、色に対する意からの束縛も断たれる。色に対する意からの束縛が断たれたならば、識の執着も断たれる。 識はもはや住せず、再び増進し広大に成長することはない。 受・想・行という領域に対する貪りを離れたならば、受・想・行に対する意からの束縛も断たれる。受・想・行に対する意からの束縛が断たれたならば、執着も断たれる。 識は住するところがなく、再び増進し広大に成長することはない。 識は住するところがないゆえに成長せず、成長しないゆえに何もなすことがなく、何もなすことがないゆえに安住する。 安住するゆえに満足し、満足するゆえに解脱し、解脱するゆえに、あらゆる世間において何も執着することがない。 執着することがないゆえに、何にもとらわれず、とらわれないゆえに、自ら涅槃を覚る。 『我が生は尽きた。梵行は既に立ち、なすべきことは既になされた。もはや後の生を受けることはないと自知する』と。 比丘よ、私は識が東、南、西、北、四維、上、下に住すると説かない。ただし、法を見ること、涅槃、滅尽、寂静、清涼（の境地に至ること）は除く。

佛說此經已，諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。

> お釈迦さまがこのお経をお説きになると、比丘たちは皆、その教えを聞いて大いに喜び、深く心に刻んで実践しました。

生滅以不樂 及三種分別貪著等觀察 是名優陀那

> 生と滅が不快であること、および三種の分別、 そして貪りや執着などの観察──これを「ウダーナ(偈)」と呼ぶ。