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title: "雜阿含經 · 80"
description: "雜阿含經是佛教早期經典之一，由劉宋時期譯師求那跋陀羅翻譯為漢文。該經屬於原始佛教阿含部，記錄了佛陀與弟子間的對話，內容涵蓋四聖諦、八正道、緣起法等核心教義，被視為研究原始佛教思想的重要文獻。雜阿含經在佛教經典中地位崇高，與長阿含、中阿含、增一阿含並列為四阿含，是南傳佛教巴利語尼柯耶的對應漢譯版本。該經語言簡練，教義樸實，反映了佛陀時代的修行方法與解脫之道，為後世佛教各派共同尊奉的基礎經典。"
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### （八〇）

> （八〇）

如是我聞：

> このように私は聞きました。

一時，佛住舍衛國祇樹給孤獨園。

> 一時、仏は舎衛国の祇樹給孤独園に住したまえり。

爾時，世尊告諸比丘：「當說聖法印及見清淨。諦聽，善思。若有比丘作是說：『我於空三昧未有所得，而起無相、無所有、離慢知見。』者，莫作是說。所以者何？若於空未得者而言我得無相、無所有、離慢知見者，無有是處！若有比丘作是說：『我得空，能起無相、無所有、離慢知見。』者，此則善說。所以者何？若得空已，能起無相、無所有、離慢知見者，斯有是處！云何為聖法印及見清淨？」

> ある時、世尊は比丘たちに告げられた。「これから聖なる法の印と、見解の清らかさについて説こう。よく聞き、よく考えなさい。 もし比丘が、『私は空の三昧をまだ得ていないのに、無相、無所有、我執を離れた知見を起こす』と言ったなら、そのように言ってはならない。なぜなら、空をまだ得ていない者が、無相や無所有、我執を離れた知見を得たと言うことはありえないからだ。 しかし、もし比丘が、『私は空を得たので、無相、無所有、我執を離れた知見を起こすことができる』と言ったなら、それは正しい言葉である。なぜなら、空を得たならば、無相や無所有、我執を離れた知見を起こすことは可能だからだ。 では、聖なる法の印と見解の清らかさとは何か。」

比丘白佛：「佛為法根、法眼、法依，唯願為說！諸比丘聞說法已，如說奉行。」

> 比丘が仏に申し上げました。「仏様は、教えの根本であり、教えを見通す眼であり、教えのよりどころであります。どうか、その教えを説いてくださいますようお願いいたします。比丘たちは、その教えを聞いたならば、お説きになった通りに修行を実践いたします。」

佛告比丘：「若比丘於空閑處樹下坐，善觀色無常、磨滅、離欲之法。如是觀察受、想、行、識，無常、磨滅、離欲之法。觀察彼陰無常、磨滅、不堅固、變易法，心樂、清淨、解脫，是名為空。如是觀者，亦不能離慢、知見清淨。

> 仏は比丘たちに告げられた。「比丘が、静かな場所や木の下で坐り、色（物質的なもの）が無常であり、滅び去り、執着を離れるものであると、しっかりと観察するがよい。同じように、感受作用、表象作用、形成作用、識別作用も、無常であり、滅び去り、執着を離れるものであると観察する。それらの五つの構成要素（五蘊）が無常であり、滅び去り、堅固ではなく、変化してやまないものであると観察すれば、心は安らかで、清らかになり、解き放たれる。これを『空（くう）』という。しかし、このように観察しても、慢心を離れ、真実の智慧によって清らかになることは、まだできないのである。」

「復有正思惟三昧，觀色相斷，聲、香、味、觸、法相斷，是名無相。如是觀者，猶未離慢、知見清淨。

> さらに、正しい思索による三昧（瞑想）があります。それによって、色の形への執着を断ち、音、香り、味、触り、心の対象への執着を断ち切ること。これを「無相」と呼びます。しかし、このように観察しても、まだ慢心（思い上がり）から完全に離れているわけではなく、清らかな知恵と見解が得られたとはいえません。

「復有正思惟三昧，觀察貪相斷，瞋恚、癡相斷，是名無所有。如是觀者，猶未離慢、知見清淨。

> さらに、正しい思惟の三昧があります。貪りの相を断ち、怒りや無知の相を断つこと、これを「無所有」といいます。しかし、このように観察しても、まだ慢心を離れておらず、知見が清らかであるとは言えません。

「復有正思惟三昧，觀察我、我所從何而生？

> また、正しい思惟の三昧があり、我と我所が何から生じるのかを観察する。

「復有正思惟三昧，觀察我、我所，從若見、若聞、若嗅、若甞、若觸、若識而生。

> さらに、正しい思惟の三昧があります。それは、「私」や「私のもの」という考えが、見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、触れること、識ることから生じていると観察するものです。

「復作是觀察：『若因、若緣而生識者，彼識因、緣，為常、為無常？』

> さらに、このように観察せよ。「もし因（直接の原因）や縁（間接の条件）によって識（認識）が生じるならば、その識の因や縁は、常に変わらないものか、それとも無常なものか。」

「復作是思惟：『若因、若緣而生識者，彼因、彼緣皆悉無常。』復次，彼因、彼緣皆悉無常，彼所生識云何有常？

> また、こう考えた。「もし因や縁によって認識が生じるなら、その因も縁もすべて無常である。」さらに、その因も縁もすべて無常であるなら、それによって生じる認識にどうして常があるだろうか。

「無常者，是有為、行、從緣起，是患法、滅法、離欲法、斷知法，是名聖法印、知見清淨；是名比丘當說聖法印、知見清淨……」如是廣說。

> 「無常とは、これらは作り出されたものであり、行いであり、縁によって生じるものです。これは患いの法、滅びの法、欲を離れる法、断じて知るべき法です。これを聖なる法の証（あかし）、知見の清浄といいます。比丘（びく）は、この聖なる法の証と知見の清浄を説くべきです……」と、このように詳しく説かれた。

佛說此經已，諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。

> お釈迦さまがこのお経をお説きになると、比丘たちは皆、その教えを聞いて大いに喜び、深く心に刻んで実践しました。