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title: "雜阿含經 · 81"
description: "雜阿含經是佛教早期經典之一，由劉宋時期譯師求那跋陀羅翻譯為漢文。該經屬於原始佛教阿含部，記錄了佛陀與弟子間的對話，內容涵蓋四聖諦、八正道、緣起法等核心教義，被視為研究原始佛教思想的重要文獻。雜阿含經在佛教經典中地位崇高，與長阿含、中阿含、增一阿含並列為四阿含，是南傳佛教巴利語尼柯耶的對應漢譯版本。該經語言簡練，教義樸實，反映了佛陀時代的修行方法與解脫之道，為後世佛教各派共同尊奉的基礎經典。"
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### （八一）

> （八一）

如是我聞：

> このように私は聞きました。

一時，佛住毘耶離獼猴池側重閣講堂。

> ある時、仏は毘耶離の猿ヶ池のほとりにある重閣講堂におられた。

爾時，有離車名摩訶男，日日遊行，往詣佛所。時，彼離車作是念：「若我早詣世尊所者，世尊及我知識比丘皆悉禪思，我今當詣七菴羅樹阿耆毘外道所。」即往詣彼富蘭那迦葉住處。

> その頃、離車族の一人であるマハーナーマという人物が、毎日、仏陀のもとへ訪れていた。 ある時、この離車族の者はこう考えた。 「もし私が早く世尊のもとへ参上すれば、世尊も、私の知っている修行者たちも、皆、瞑想に没頭しておられるだろう。今は、七本のアーマラの木がある場所にいる、アジーヴィカの行者・アジタ・ケーサカンバラのもとへ行こう。」 こうして彼は、プーラナ・カッサパの住まいへと向かった。

時，富蘭那迦葉——外道眾主，與五百外道前後圍遶，高聲嬉戲，論說俗事。時，富蘭那迦葉遙見離車摩訶男來，告其眷屬，令寂靜住：「汝等默然！是離車摩訶男是沙門瞿曇弟子，此是沙門瞿曇白衣弟子，毘耶離中最為上首，常樂寂靜，讚歎寂靜，彼所之詣寂靜之眾，是故汝等應當寂靜。」

> 時、富蘭那迦葉という外道の指導者が、五百人の外道たちを前後に従え、大声で遊び戯れながら世俗の話を論じ合っていました。そこに離車の摩訶男がやって来るのを遠くに見た富蘭那迦葉は、その仲間たちに静かにするよう命じて言いました。「お前たちは黙っていなさい。あの離車の摩訶男は沙門ゴータマの弟子だ。この者は沙門ゴータマの在家の弟子で、ヴェーサーリーにおいて最も尊い立場にあり、常に静けさを好み、静けさを称賛している。彼が訪れる所は静かな集まりである。だからお前たちも静かにすべきだ。」

時，摩訶男詣彼眾富蘭那所，與富蘭那共相問訊，相慰勞已，却坐一面。時，摩訶男語富蘭那言：「我聞富蘭那為諸弟子說法：『無因、無緣，眾生有垢；無因、無緣，眾生清淨。』世有此論，汝為審有此，為是外人相毀之言？世人所撰，為是法、為非法，頗有世人共論、難問、嫌責以不？」

> さて、マハーナーマンは、かの富者のプラーナ師のもとを訪れ、プラーナ師と互いに挨拶を交わし、労わり合い、その後、片隅に座りました。 その時、マハーナーマンはプラーナ師にこう言いました。 「私は、プラーナ師が弟子たちに『原因もなく、条件もなく、生きとし生けるものには汚れがある。原因もなく、条件もなく、生きとし生けるものは清らかになる』と教えていると聞きました。世の中にこのような論がありますが、あなたは本当にそう教えているのですか？ それとも、外部の人々があなたを非難するための偽りの言葉なのですか？ また、世の人々が作り上げたものですか？ これは正しい教えですか、間違った教えですか？ 世の人々は、これについて議論し、疑問を投げかけ、非難したりするのでしょうか？」

富蘭那迦葉言：「實有此論，非世妄傳。我立此論，是如法論，我說此法，皆是順法，無有世人來共難問而呵責者。所以者何？摩訶男！我如是見、如是說：『無因、無緣，眾生有垢；無因、無緣，眾生清淨。』」

> 富蘭那迦葉は言った。「確かにそのような論はある。世間で根拠なく広まっているものではない。私がこの論を唱えているのは、正しい教えにかなった論であり、私が説くこの教えはすべて道理にかなっている。世の人々が異議を唱えて非難することもない。なぜかと言えば、マハーナーマよ、私は次のように見解を持ち、次のように説いているからだ。『原因もなく、縁起もなく、衆生には汚れがある。原因もなく、縁起もなく、衆生は清らかになる。』」

時，摩訶男聞富蘭那所說，心不喜樂，呵罵已，從坐起去，向世尊所，頭面禮足，却坐一面，以向與富蘭那所論事，向佛廣說。

> その時、マハーナーマはプラーナの話を聞いて、心に喜びを感じなかった。彼を叱責してから席を立ち、世尊のもとへ向かった。世尊の足に頭を付けて礼をし、一方に坐ってから、先にプラーナと議論したことを詳しく仏に語った。

佛告離車摩訶男：「彼富蘭那為出意語，不足記也。如是富蘭那愚癡，不辨、不善、非因而作是說：『無因、無緣，眾生有垢；無因、無緣，眾生清淨。』所以者何？有因、有緣，眾生有垢；有因、有緣，眾生清淨。

> 仏は離車のマハーナーマに告げられた。「あの富蘭那は、自分勝手な言葉を口にしたに過ぎず、それについては論じるに値しない。そのように富蘭那は愚かで、分別がなく、善くなく、原因もないのにこう言ったのだ。『原因もなく、条件もなく、衆生には汚れがある。原因もなく、条件もなく、衆生は清らかになる』と。なぜそう言うのか？ 実に、原因があり、条件があって、衆生には汚れがあり、原因があり、条件があって、衆生は清らかになるのだから。」

「摩訶男！何因、何緣眾生有垢，何因、何緣眾生清淨？摩訶男！若色一向是苦，非樂、非隨樂、非樂長養、離樂者，眾生不應因此而生樂著。摩訶男！以色非一向是苦，是樂、隨樂、樂所長養、不離樂，是故眾生於色染著；染著故繫，繫故有惱。摩訶男！若受、想、行、識一向是苦，非樂、非隨樂、非樂長養、離樂者，眾生不應因此而生樂著。摩訶男！以識非一向是苦，是樂，隨樂、樂所長養、不離樂，是故眾生於識染著；染著故繫，繫故生惱。摩訶男！是名有因、有緣眾生有垢。

> 摩訶男よ。では、どのような原因と条件によって、人々は汚れを帯び、どのような原因と条件によって、人々は清らかになるのでしょうか。 摩訶男よ。もし、色（物質的なもの）が初めから終わりまで苦しみだけであって、楽ではなく、楽に従うものでもなく、楽を育むものでもなく、楽から離れたものであったなら、人々はそのために楽に執着することはなかったでしょう。 摩訶男よ。しかし、色が初めから終わりまで苦しみだけではなく、楽であり、楽に従い、楽によって育まれ、楽から離れていないからこそ、人々は色に染まり執着するのです。染まり執着するからこそ束縛され、束縛されるからこそ悩みが生じるのです。 摩訶男よ。もし、感受・思考・形成・認識（受・想・行・識）が初めから終わりまで苦しみだけであって、楽ではなく、楽に従うものでもなく、楽を育むものでもなく、楽から離れたものであったなら、人々はそのために楽に執着することはなかったでしょう。 摩訶男よ。しかし、認識が初めから終わりまで苦しみだけではなく、楽であり、楽に従い、楽によって育まれ、楽から離れていないからこそ、人々は認識に染まり執着するのです。染まり執着するからこそ束縛され、束縛されるからこそ悩みが生じるのです。 摩訶男よ。これがすなわち、原因と条件があって人々に汚れがあるということです。

「摩訶男！何因、何緣眾生清淨？摩訶男！若色一向是樂，非苦、非隨苦、非憂苦長養、離苦者，眾生不應因色而生厭離。摩訶男！以色非一向樂，是苦、隨苦、憂苦長養、不離苦，是故眾生厭離於色；厭故不樂，不樂故解脫。摩訶男！若受、想、行、識一向是樂，非苦、非隨苦、非憂苦長養、離苦者，眾生不應因識而生厭離。摩訶男！以受、想、行、識非一向樂，是苦、隨苦、憂苦長養、不離苦，是故眾生厭離於識；厭故不樂，不樂故解脫。摩訶男！是名——有因、有緣，眾生清淨。」

> 「マハーナーマよ、何が原因で、何が条件で、人は清らかになるのか。マハーナーマよ、もしも色（物質的なもの）が常に楽であり、苦ではなく、苦に従うこともなく、苦を育てることもなく、苦を離れたものであるならば、人は色に対して厭い離れることはないだろう。マハーナーマよ、色は常に楽ではなく、苦であり、苦に従い、苦を育て、苦を離れていないからこそ、人は色を厭い離れるのである。厭うゆえに樂しまず、樂しまないゆえに解脱する。 マハーナーマよ、もしも受・想・行・識（感覚・表象・意志・認識）が常に楽であり、苦ではなく、苦に従うこともなく、苦を育てることもなく、苦を離れたものであるならば、人は識に対して厭い離れることはないだろう。マハーナーマよ、受・想・行・識は常に楽ではなく、苦であり、苦に従い、苦を育て、苦を離れていないからこそ、人は識を厭い離れるのである。厭うゆえに樂しまず、樂しまないゆえに解脱する。 マハーナーマよ、これこそが──原因と条件があって、人が清らかになるということである。」

時，摩訶男聞佛所說，歡喜隨喜，禮佛而退。

> そのとき、マハーナーマは仏の教えを聞き、喜びに満ちて随喜し、仏に礼拝してから退席した。

知法及重擔 往詣、觀、欲貪生及與略說 法印、富蘭那

> 法と重荷を知ること。 行き詣り、観察し、欲望の貪り。 生と、そして略説。 法印、富蘭那（ふらんな）。