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title: "雜阿含經 · 95"
description: "雜阿含經是佛教早期經典之一，由劉宋時期譯師求那跋陀羅翻譯為漢文。該經屬於原始佛教阿含部，記錄了佛陀與弟子間的對話，內容涵蓋四聖諦、八正道、緣起法等核心教義，被視為研究原始佛教思想的重要文獻。雜阿含經在佛教經典中地位崇高，與長阿含、中阿含、增一阿含並列為四阿含，是南傳佛教巴利語尼柯耶的對應漢譯版本。該經語言簡練，教義樸實，反映了佛陀時代的修行方法與解脫之道，為後世佛教各派共同尊奉的基礎經典。"
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### （九五）

> 第95章

如是我聞：

> このように私は聞きました。

一時，佛住舍衛國祇樹給孤獨園。

> 一時、仏は舎衛国の祇樹給孤独園に住したまえり。

時，有生聞婆羅門來詣佛所，與世尊面相問訊慰勞已，退坐一面，白佛言：「瞿曇！我聞瞿曇說言：『唯應施我，不應施餘人；施我得大果，非施餘人而得大果。應施我弟子，不應施餘弟子；施我弟子得大果報，非施餘弟子得大果報。』云何？瞿曇！作是語者，為實說耶？非為謗毀瞿曇乎？為如說說、如法說耶？法次法說，不為餘人以同法來訶責耶？」

> ある時、生聞という婆羅門が仏のもとにやって来て、世尊と互いに挨拶を交わし、ねぎらいの言葉をかわした後、一側に退いて座り、次のように尋ねました。 「ゴータマよ、私はあなたがこう言っていると聞きました。『私にのみ布施すべきであり、他の人に布施すべきではない。私に布施すれば大きな果報を得られるが、他の人に布施しても大きな果報は得られない。私の弟子に布施すべきであり、他の弟子に布施すべきではない。私の弟子に布施すれば大きな果報を得られるが、他の弟子に布施しても大きな果報は得られない。』と。ゴータマよ、このように言う人は、本当のことを言っているのでしょうか。それとも、ゴータマを誹謗中傷しているのでしょうか。また、その言葉はあなたがおっしゃった通りに語られ、真理にかなっているのでしょうか。真理の順序に従って語られ、他の人が同じ真理をもって非難するようなことはないのでしょうか。」

佛告婆羅門：「彼如是說者，謗毀我耳！非如說說、如法說、法次法說，不致他人來以同法呵責。所以者何？我不如是說：『應施於我，不應施餘；施我得大果報，非施餘人得大果報。應施我弟子，施我弟子得大果報，非施餘弟子得大果報。』然，婆羅門！我作如是說者，作二種障：障施者施、障受者利。婆羅門乃至士夫，以洗器餘食著於淨地，令彼處眾生即得利樂。我說斯等亦入福門，況復施人？婆羅門！然我復說，施持戒者得果報，不同犯戒。」

> 仏はバラモンに告げられた。「そのように言う者は、私を謗り毀つ者である。それは、私が説いたとおりに説くのではなく、正しい法に従い、法の順序に従って説くのでもなく、他人が同じ正しい法をもって非難するに値するものである。なぜなら、私は『私に施すべきであり、他の者に施すべきではない。私に施す者は大きな果報を得るが、他の者に施す者は大きな果報を得ない。私の弟子に施すべきであり、私の弟子に施す者は大きな果報を得るが、他の弟子に施す者は大きな果報を得ない』とは説かないからである。しかし、バラモンよ、私がそのように言うならば、二つの障りを生じることとなる。すなわち、施す者の布施を妨げ、受ける者の利益を妨げるのである。バラモンよ、たとえ一般の人であっても、食器を洗った後の食べかすを清らかな地に置いて、そこにいる生きとし生けるものに利益と安楽をもたらすならば、私はそのような行為さえも功徳の門に入ると説く。ましてや、人に布施する者がなおさらであろうか。バラモンよ、しかし私はまた、戒を保つ者に施すことは果報を得るが、戒を破る者に施すことはそうではないとも説くのである。」

生聞婆羅門白佛言：「如是，瞿曇！我亦如是說，施持戒者得大果報，非施犯戒。」

> 生聞婆羅門が佛陀に申し上げた。「その通りです、ゴータマさま。私も同じように、戒律を守る者に施しを行うと大きな果報が得られ、戒律を犯す者に施しを行ってもそうではない、と説いております。」

爾時，世尊復說偈言：

> その時、世尊は再び、次のような詩（偈）を説かれました。

「若黑若有白， 若赤若有色，犂雜及金色， 純黃及鴿色，如是等牸牛， 生犢姝好者，丁壯力具足， 調善行捷疾，但使堪運重， 不問本生色，人亦復如是， 各隨彼彼生，剎利婆羅門， 毘舍首陀羅，旃陀羅下賤， 所生悉不同，但使持淨戒， 離重擔煩惱，純一修梵行， 漏盡阿羅漢，於世間善逝， 施彼得大果，愚者無智慧， 未甞聞正法，施彼無大果， 不近善友故，若習善知識， 如來及聲聞，清淨信善逝， 根生堅固力，所住之善趣， 及生大姓家，究竟般涅盤， 大仙如是說。」

> 黒か白か、あるいは赤やその他の色、 まだら模様や金色、純粋な黄色、鳩色―― このような牝牛であっても、美しい子牛を生み、 力が強く、よく調教されて足が速く、 ただ荷を運ぶのに適しているならば、 その生まれの色など問わないものだ。 人間もまた同じである。どのような家に生まれようと、 クシャトリア（武士）、バラモン（司祭）、 ヴァイシャ（平民）、シュードラ（奴隷）、 さらにはチャンダラ（賤民）であっても、 生まれは確かに異なるけれども、 清らかな戒律を保ち、重い煩悩の荷を下ろし、 ひたすら清らかな行いを修め、煩悩を尽くした阿羅漢（聖者）は、 この世において究極の悟りを得た善逝（如来）である。 そのような尊い方に施しをすれば、大きな果報が得られる。 しかし、愚かで智慧のない者は、正しい教えを聞いたことがなく、 善き友に近づかないため、施しをしても大きな果報はない。 もし善き知識（師）や如来、そしてその弟子である声聞（修行者）に親しみ、 清らかな信心をもって善逝に帰依するならば、 その根は確かな力をもって育ち、 住むところは善い世界となり、高貴な家に生まれる。 そしてついには完全な涅槃に至る―― 大いなる聖者はこのように説かれたのである。

佛說此經已，生聞婆羅門聞佛所說，歡喜隨喜，作禮而去。

> 仏がこの経を説き終えると、生聞婆羅門は仏の教えを聞き、喜びと共感の念を抱き、礼をしてから去っていった。