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title: "雜阿含經 · 105"
description: "雜阿含經是佛教早期經典之一，由劉宋時期譯師求那跋陀羅翻譯為漢文。該經屬於原始佛教阿含部，記錄了佛陀與弟子間的對話，內容涵蓋四聖諦、八正道、緣起法等核心教義，被視為研究原始佛教思想的重要文獻。雜阿含經在佛教經典中地位崇高，與長阿含、中阿含、增一阿含並列為四阿含，是南傳佛教巴利語尼柯耶的對應漢譯版本。該經語言簡練，教義樸實，反映了佛陀時代的修行方法與解脫之道，為後世佛教各派共同尊奉的基礎經典。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma8xhkxc0pu0l404mvhx709o"
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### （一〇五）

> （一〇五）

如是我聞：

> このように私は聞きました。

一時，佛住王舍城迦蘭陀竹園。

> ある時、お釈迦さまは王舎城の迦蘭陀竹園におられました。

爾時，有外道出家名仙尼，來詣佛所，恭敬問訊，於一面坐。白佛言：「世尊！先一日時，若沙門、若婆羅門、若遮羅迦、若出家，集於希有講堂。如是義稱，富蘭那迦葉為大眾主，五百弟子前後圍遶。其中有極聰慧者、有鈍根者，及其命終，悉不記說其所往生處。復有末迦梨瞿舍利子為大眾主，五百弟子前後圍遶。其諸弟子有聰慧者、有鈍根者，及其命終，悉不記說所往生處。如是先闍那毘羅胝子、阿耆多翅舍欽婆羅、迦羅拘陀迦栴延、尼揵陀若提子等，各與五百弟子前後圍遶，亦如前者。沙門瞿曇爾時亦在彼論中言。沙門瞿曇為大眾主，其諸弟子，有命終者。即記說言：『某生彼處、某生此處。』我先生疑：『云何沙門瞿曇得如此法？』」

> その時、外道の出家者である仙尼（せんに）が、仏のもとに来て、恭しく挨拶し、一方に坐って申し上げました。 「世尊よ、先日、沙門や婆羅門、遮羅迦、出家者たちが、希有の講堂に集まりました。その席で、富蘭那迦葉（ふらんなかしょう）が大衆の指導者となり、五百人の弟子たちが前後に囲んでいました。その中には、非常に聡明な者もいれば、鈍根な者もいましたが、彼らが命を終えても、どこに生まれ変わるのかは全く語られませんでした。 また、末迦梨瞿舍利子（まっかりくしゃりし）も大衆の指導者で、五百人の弟子たちが前後に囲んでいました。その弟子たちにも聡明な者も鈍根な者もいましたが、命を終えても、生まれ変わる先は語られませんでした。 同様に、先闍那毘羅胝子（せんじゃなびらちし）、阿耆多翅舍欽婆羅（あぎたししゃきんばら）、迦羅拘陀迦栴延（からくたかせんねん）、尼揵陀若提子（にけんだにゃくだいし）といった人々も、それぞれ五百人の弟子たちに前後に囲まれながら、同じように語ることはありませんでした。 ところが、沙門瞿曇（しゃもんぐどん）は、その場にいながら、こう言ったのです。『沙門瞿曇が大衆の指導者となり、その弟子たちの中で命を終えた者があれば、すぐに「某はあの場所に生まれた」「某はこの場所に生まれた」と語った』と。私は以前から疑問に思っていました。『どうして沙門瞿曇は、このような法を得ることができたのだろうか』と。」

佛告仙尼：「汝莫生疑。以有惑故，彼則生疑。仙尼！當知有三種師。何等為三？有一師，見現在世真實是我，如所知說，而無能知命終後事，是名第一師出於世間。復次，仙尼！有一師，見現在世真實是我，命終之後亦見是我，如所知說。復次，仙尼！有一師，不見現在世真實是我，亦復不見命終之後真實是我。

> 仏が仙尼に告げられた。「疑いを抱いてはいけない。迷いがあるからこそ、疑いが生じるのだ。仙尼よ、知っておきなさい。世には三種の師がいる。その三種とは何か。 第一の師は、現在の世において真実の自己（我）があると見なし、その知るところを説くが、命終後のことは知らない。これが世に現れる第一の師である。 次に、仙尼よ、第二の師は、現在の世において真実の自己があると見なし、命終後もまた自己があると見なして、その知るところを説く。 さらに、仙尼よ、第三の師は、現在の世において真実の自己があるとも見なさず、命終後に真実の自己があるとも見なさない。」

「仙尼！其第一師見現在世真實是我，如所知說者，名曰斷見。彼第二師見今世後世真實是我，如所知說者，則是常見。彼第三師不見現在世真實是我，命終之後，亦不見我，是則如來、應、等正覺說，現法愛斷、離欲、滅盡、涅槃。」

> 「仙人よ、第一の師は現在の世において真実の我が存在すると見なし、その知見に基づいて説く者は、これを断見という。第二の師は現世と来世の両方に真実の我があると見なし、その知見に基づいて説く者は、常見である。第三の師は現在の世に真実の我があるとは見ず、命終えた後にも我を見ない。これこそが如来・応供・正等覚者が説くところであり、現世における執着を断ち、欲を離れ、滅尽し、涅槃に至るのである。」

仙尼白佛言：「世尊！我聞世尊所說，遂更增疑。」

> 仙尼が仏に申し上げました。「世尊よ、私は世尊のお説きになったことを伺い、ますます疑問が深まりました。」

佛告仙尼：「正應增疑。所以者何？此甚深處，難見、難知，應須甚深照微妙至到，聰慧所了，凡眾生類，未能辯知。所以者何？眾生長夜異見、異忍、異求、異欲故。」

> 仏は仙尼に告げられた。「まさに疑いを増すべきである。なぜなら、この非常に深いところは、見ることが難しく、知ることが難しく、深く照らして微妙な真理に到達することが必要であり、聡明な者のみが悟るところであり、凡夫の衆生は弁え知ることができないからである。なぜか。衆生は長い間、異なる見解、異なる忍び、異なる求め、異なる欲望を持つからである。」

仙尼白佛言：「世尊！我於世尊所，心得淨信，唯願世尊為我說法，令我即於此座，慧眼清淨。」

> 仙尼が仏に申し上げました。「世尊よ、私は世尊のもとで、心に清らかな信仰を得ました。どうか世尊が私のために法をお説きください。どうか私がこの座でただちに、智慧の眼を清らかにすることができますように。」

佛告仙尼：「今當為汝隨所樂說。」

> 仏は仙尼に告げられた。「今、あなたの望むままに説きましょう。」

佛告仙尼：「色是常耶？為無常耶？」

> ブッダは仙尼に告げられた。「色（物質的なもの）は永遠ですか。それとも無常でしょうか。」

答言：「無常。」

> 「無常です。」

世尊復問：「仙尼！若無常者，是苦耶？」

> 世尊はまた尋ねられた。「仙尼よ、もし無常であるならば、それは苦しみなのか？」

答言：「是苦。」

> 答えて言う：「これは苦しみです。」

世尊復問仙尼：「若無常、苦，是變易法，多聞聖弟子寧於中見我、異我、相在不？」

> 世尊が再び仙尼に問いかけました。「もし無常であり、苦しみであり、変化し移りゆく性質のものであるならば、よく教えを聞いた聖なる弟子たちは、その中に『これが私である』とか『私とは別のものだ』とか『私がその中に宿っている』などと見なすことがあるでしょうか。」

答言：「不也，世尊！」

> 答え: 「いいえ、世尊さま。」

「受、想、行、識亦復如是。」復問：「云何？仙尼！色是如來耶？」

> 「受・想・行・識もまた、同じです。」 さらに問われました。「では、仙尼よ。色（物質的なもの）が如来でしょうか？」

答言：「不也，世尊！」

> 答え: 「いいえ、世尊さま。」

「受、想、行、識是如來耶？」

> 「感受、概念、意志、認識というものは、如来なのでしょうか？」

答言：「不也，世尊！」

> 答え: 「いいえ、世尊さま。」

復問：「仙尼！異色有如來耶？異受、想、行、識有如來耶？」

> 再び問う。「仙尼よ。色と異なる如来がいるであろうか。受・想・行・識と異なる如来がいるであろうか。」

答言：「不也，世尊！」

> 答え: 「いいえ、世尊さま。」

復問：「仙尼！色中有如來耶？受、想、行、識中有如來耶？」

> 問いかけた。「仙尼よ、色（物質的なもの）の中に如来（悟りを開いた者）は存在するのか？　感受作用、表象作用、形成的な作用、識別作用の中に、如来は存在するのか？」

答言：「不也，世尊！」

> 答え: 「いいえ、世尊さま。」

復問：「仙尼！如來中有色耶？如來中有受、想、行、識耶？」

> 再び質問した。「仙尼よ。如来の中に色（物質的なもの）があると言うのか。如来の中に受、想、行、識（感覚、知覚、意志、認識）があると言うのか。」

答言：「不也，世尊！」

> 答え: 「いいえ、世尊さま。」

復問：「仙尼！非色，非受、想、行、識有如來耶？」

> また問う。「仙尼よ、色ではなく、受・想・行・識でもないものに、如来は存在するのか？」

答言：「不也，世尊！」

> 答え: 「いいえ、世尊さま。」

佛告仙尼：「我諸弟子聞我所說，不悉解義而起慢無間等；非無間等故，慢則不斷；慢不斷故，捨此陰已，與陰相續生。是故，仙尼！我則記說，是諸弟子身壞命終，生彼彼處。所以者何？以彼有餘慢故。

> 仏は仙尼に告げられた。「私の弟子たちの中には、私の教えを聞いても、その意味を完全に理解せずに、慢（おごり）の心を起こして、無間等（さとりの智慧）を得ない者もいる。無間等を得ないがゆえに、慢は断たれない。慢が断たれないがゆえに、この五陰の身体を捨てた後、次の五陰と相続して生まれるのである。 それゆえ、仙尼よ、私はそのように説く。これらの弟子たちは、身体が壊れ命が終わった後、それぞれの境遇に生まれる。なぜなら、彼らにはなお残りの慢があるからである。」

「仙尼！我諸弟子於我所說，能解義者，彼於諸慢得無間等；得無間等故，諸慢則斷；諸慢斷故，身壞命終，更不相續。仙尼！如是弟子我不說彼捨此陰已，生彼彼處。所以者何？無因緣可記說故。欲令我記說者，當記說：『彼斷諸愛欲，永離有結，正意解脫，究竟苦邊。』我從昔來及今現在常說慢根、慢集、慢生、慢起，若於慢無間等觀，眾苦不生。」

> 仙尼よ、私の弟子たちが私の教えをよく理解するならば、彼らはあらゆる慢（思い上がり）について無間等（完全な理解）を得る。無間等を得るがゆえに、慢は断たれる。慢が断たれるがゆえに、身体が壊れ命が終わるとき、再び生まれ続けることはない。 仙尼よ、そのような弟子については、私は「彼はこの一つの集合体（五蘊）を捨てて、あちらこちらに生まれる」とは言わない。なぜなら、それを記別（はっきり示す）するための因縁がないからである。もし私に記別させるなら、こう記別すべきである。「彼はすべての愛欲を断ち、有（存在）への結びつきを永遠に離れ、正しい心の解脱を得て、苦しみの果てに至った。」と。 私は過去から今日に至るまで、常に慢の根、慢の集まり、慢の生起、慢の起こりについて説いてきた。もし慢について無間等の観察があれば、様々な苦しみは生じないのである。

佛說此法時，仙尼出家遠塵離垢，得法眼淨。

> 仏がこの教えを説かれたとき、仙尼は出家し、塵や汚れを離れて清らかな法の眼を得た。

爾時，仙尼出家見法、得法，斷諸疑惑，不由他知，不由他度，於正法中，心得無畏。從座起，合掌白佛言：「世尊！我得於正法中出家修梵行不？」

> その時、仙尼（せんに）は真理を観じ、悟りを得て、さまざまな迷いを断ち切りました。もはや他人から教えられなくとも、他人から救われなくとも、正しい教えにおいて心に恐れはありませんでした。立ち上がり、合掌して仏に申し上げました。「世尊よ、私はこの正しい教えの中で出家し、清らかな修行（梵行）をさせていただいてもよろしいでしょうか？」

佛告仙尼：「汝於正法得出家、受具足戒、得比丘分。」

> 仏が仙尼に告げられた。「あなたは正しい教えのもとで出家し、具足戒を受け、比丘の仲間入りを果たした。」

爾時，仙尼得出家已，獨一靜處修不放逸，住如是思惟：「所以族姓子剃除鬚髮，正信非家，出家學道，修行梵行，見法自知得證：『我生已盡，梵行已立，所作已作，自知不受後有。』」得阿羅漢。

> その時、仙尼は出家してから、一人静かな場所で油断なく修行に励み、このように考えました。「良家の若者が髪やひげを剃り、確かな信心で家を離れ出家して学び、清らかな行いを修め、真理を体得し自ら悟るに至る——『私の生は尽きた。清らかな行いは完成した。なすべきことは成し遂げ、もはや次の生を受けることはない』と自ら知るのだ。」こうして彼は阿羅漢となりました。

聞佛所說，歡喜奉行。

> 仏さまのお説きになったことを聞いて、皆が喜び、その教えの通りに実践しました。