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title: "雜阿含經 · 109"
description: "雜阿含經是佛教早期經典之一，由劉宋時期譯師求那跋陀羅翻譯為漢文。該經屬於原始佛教阿含部，記錄了佛陀與弟子間的對話，內容涵蓋四聖諦、八正道、緣起法等核心教義，被視為研究原始佛教思想的重要文獻。雜阿含經在佛教經典中地位崇高，與長阿含、中阿含、增一阿含並列為四阿含，是南傳佛教巴利語尼柯耶的對應漢譯版本。該經語言簡練，教義樸實，反映了佛陀時代的修行方法與解脫之道，為後世佛教各派共同尊奉的基礎經典。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma8xhkxc0pu4l404ok868h9g"
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### （一〇九）

> （一〇九）

如是我聞：

> このように私は聞きました。

一時，佛住舍衛國祇樹給孤獨園。

> 一時、仏は舎衛国の祇樹給孤独園に住したまえり。

爾時，世尊告諸比丘：「譬如池水方五十由旬，深亦如是，其水盈滿。復有士夫，以毛、以草，或以指爪，以渧彼水。諸比丘！於意云何？彼士夫水渧為多，池水為多？」

> その時、世尊は比丘たちにこう告げられました。 「たとえば、一つの池があるとしよう。広さは五十由旬（約数百キロメートル）、深さも同じで、水で満ちている。そこに一人の男が、毛や草や指の先で、その水を少しだけすくい取った。比丘たちよ、どう思うか？その男がすくい取った水と、池の水とでは、どちらが多いだろうか？」

比丘白佛：「彼士夫以毛、以草，或以指爪，所渧之水少，少不足言；池水甚多，百千萬倍，不可為比。」

> 比丘が仏に申し上げました。「あの人が毛や草、または爪でくみ取った水はごくわずかで、言うまでもありません。池の水はそれよりはるかに多く、百倍、千倍、万倍もの差があり、比べることはできません。」

「如是。諸比丘！見諦者所斷眾苦，如彼池水，於未來世，永不復生。」

> 「そうなのです。比丘たちよ、真理を見極めた者が断ち切る苦しみの数々は、まるでその池の水のようなものです。未来において、二度と再び生じることはありません。」

爾時，世尊說是法已，入室坐禪。時，尊者舍利弗於眾中坐，世尊入室去後，告諸比丘：「未曾所聞！世尊今日善說池譬。所以者何？聖弟子具足見諦，得無間等果，若凡俗邪見、身見根本、身見集、身見生、身見起；謂憂慼隱覆，慶吉保惜，說我、說眾生、說奇特矜舉。如是眾邪，悉皆除滅，斷除根本，如折多羅樹，於未來世更不復生。

> その時、世尊はこの教えを説き終えられて、室内に入り坐禅に入られた。尊者舎利弗は大衆の中におられたが、世尊がお部屋に入られた後、比丘たちに告げられた。 「これまで聞いたことのない教えです。世尊は今日、見事に『池の譬え』を説かれました。それはなぜか。聖なる弟子が真理を完全に見極め、無間等の果を得れば、もし凡夫の誤った見解や、『我』という根本的な思い、その『我』への執着の発生や成長、その現れ方、すなわち憂いや心の覆い、幸運を祝い保ち、『私』や『衆生』と言い、特別であると誇示するような、あらゆる誤った考えは、すべて滅ぼし尽くされ、根こそぎ断たれます。それは多羅の木を根本から断ち切ったように、未来において再び生じることはありません。」

「諸比丘！何等為見諦聖弟子斷上眾邪，於未來世永不復起？愚癡無聞凡夫見色是我、異我、我在色、色在我；見受、想、行、識，是我、異我、我在識、識在我。

> 「比丘たちよ。では、見諦の聖弟子がどのような高い邪見を断ち切り、未来世に二度と起こさないのか？ 無知な凡夫は、色を見て『これが私だ』『私とは別だ』『私が色の中にいる』『色が私の中にある』と執着する。また、受・想・行・識を見て、『これが私だ』『私とは別だ』『私が識の中にいる』『識が私の中にある』と執着する。」

「云何見色是我？得地一切入處正受，觀已，作是念：『地即是我，我即是地，我及地唯一無二，不異不別。』如是水、火、風、青、黃、赤、白一切入處正受，觀已，作是念：『行即是我，我即是行，唯一無二，不異不別。』如是於一切入處，一一計我，是名色即是我。云何見色異我？若彼見受是我，見受是我已，見色是我所，或見想、行、識即是我，見色是我所。

> 「どのようにして『色が我である』と見るのか。地の遍一切処の正受に入り、観察してこう思う。『地がすなわち我であり、我がすなわち地である。我と地は唯一つであり、二つではなく、異ならず別れない。』同様に、水・火・風・青・黄・赤・白の遍一切処の正受に入り、観察してこう思う。『行がすなわち我であり、我がすなわち行である。唯一つであり、二つではなく、異ならず別れない。』このように、すべての遍一切処において、一つ一つに我を計る。これを『色がすなわち我である』という。 では、どのようにして『色は我と異なる』と見るのか。もし彼が、受が我であると見るならば、受が我であると見た後に、色は我の所有すると見なす。あるいは、想・行・識がすなわち我であると見て、色は我の所有すると見なす。」

「云何見我中色？謂見受是我，色在我中；又見想、行、識即是我，色在我中。云何見色中我？謂見受即是我，於色中住，入於色，周遍其四體；見想，行，識是我，於色中住，周遍其四體，是名色中我。

> 「わたしのうちに色がある」とは、どういうことか。それは、感受作用（受）をわたしと見なし、色（物質的なもの）がわたしのうちにあると見ることである。さらに、表象作用（想）、意思作用（行）、認識作用（識）をわたしと見なし、色がわたしのうちにあると見ることである。 「色のうちにわたしがある」とは、どういうことか。それは、感受作用（受）をわたしと見なし、それが色のうちにとどまり、色に入り込み、その四つの部分（手足や胴体）に満ちていると見ることである。さらに、表象作用（想）、意思作用（行）、認識作用（識）をわたしと見なし、それが色のうちにとどまり、その四つの部分に満ちていると見ることである。これを「色のうちにわたしがある

「云何見受即是我？謂六受身——眼觸生受，耳、鼻、舌、身、意觸生受。此六受身一一見是我，我是受，是名受即是我。云何見受異我？謂見色是我，受是我所；謂想、行、識是我，受是我所，是名受異我。

> 「どのようにして『受けることがそのまま自己である』と見なすのか？それは六つの感受の集まり——眼の接触から生じる感受、耳、鼻、舌、身体、意の接触から生じる感受——を指す。これら六つの感受の集まりの一つ一つを自己と見なし、自己は感受であると捉える。これを『感受がそのまま自己である』という見解と呼ぶ。 では、どのようにして『感受が自己とは異なる』と見なすのか？それは、物質（色）を自己と見なし、感受を自己の所有物と捉えること。また、認識（想）、意志（行）、識別（識）を自己と見なし、感受を自己の所有物と捉えること。これを『感受が自己とは異なる』という見解と呼ぶ。」

「云何見我中受？謂色是我，受在其中，想、行、識是我，受在其中。云何見受中我？謂色是我，於受中住，周遍其四體；想、行、識是我，於受中住，周遍其四體，是名受中我。

> どのようにして我（自我）を認識の中に見るのか。すなわち、形体（色）が我であり、認識はその中にあると見る。また、感受（受）・概念（想）・意思（行）・識別（識）が我であり、認識はその中にあると見る。 どのようにして認識の中に我を見るのか。すなわち、形体が我であり、認識の中に留まり、その全体に遍く存在すると見る。また、感受・概念・意思・識別が我であり、認識の中に留まり、その全体に遍く存在すると見る。これを「認識の中の我」と呼ぶ。

「云何見想即是我？謂六想身——眼觸生想，耳、鼻、舌、身、意觸生想。此六想身一一見是我，是名想即是我。云何見想異我？謂見色是我，想是我所，受、行、識是我，想是我所，是名想異我。

> 「どのような場合に、想（イメージ）がそのまま自分自身であると見なすのか？六つの想の集まり——眼の接触から生じる想、耳、鼻、舌、身、意の接触から生じる想——これら六つの想の集まりの一つ一つを自分自身と見なすこと。これが『想がすなわち自分である』という見解である。では、どのような場合に想が自分とは異なると思うのか？色を自分自身と見なし、想を自分の所有物と見なし、受・行・識を自分自身と見なし、想を自分の所有物と見なすこと。これが『想が自分とは異なる』という見解である。」

「云何見我中想？謂色是我，想在中住，受、行、識是我，想在中住。云何見想中我？謂色是我，於想中住，周遍其四體，是名想中我。

> 「どのようにして我（わたし）の中に想い（イメージ）を見るのでしょうか。それは、色（物質的なもの）を我と見て、その想いがそこに住まっていると捉え、また感受作用・意志作用・認識作用を我として、想いがその中に住まっていると見なすことです。では、想いの中に我を見るとはどういうことでしょうか。それは、色を我として、想いの内に住まい、その全身に行き渡っていると見なすこと、これを想いの中の我といいます。」

「云何見行是我？謂六思身——眼觸生思，耳、鼻、舌、身意觸生思。於此六思身一一見是我，是名行即是我。云何見行異我？謂色是我，行是我所。受、想、識是我，行是我所，是名行異我。

> 「どのように行を見て我とするのか。すなわち六つの思（思い）の集まり――眼の接触から生じる思い、耳、鼻、舌、身、意の接触から生じる思いである。この六つの思の集まりの一つ一つにこれを我と見なす、これを行すなわち我とするという。では、どのように行を我と異なるものと見るのか。すなわち色を我とし、行を我の所有物とする。受・想・識を我とし、行を我の所有物とする、これを行を我と異なるものと見るという。」

「云何見我中行？謂色是我，行在中住。受、想、識是我，行在中住，是謂我中行。云何見行中我？謂色是我，於行中住，周遍其四體，謂受、想、識是我，於行中住，周遍其四體，是名行中我。

> (原文省略) どうして「我の中に行がある」と見るのか。例えば、「色は我である」と見て、「行はその中に住んでいる」と見ること。「受・想・識は我である」と見て、「行はその中に住んでいる」と見ること——これを「我の中に行がある」と言う。 どうして「行の中に我がある」と見るのか。例えば、「色は我である」と見て、「行の中に住み、その四肢に満ちている」と見ること。「受・想・識は我である」と見て、「行の中に住み、その四肢に満ちている」と見ること——これを「行の中に我がある」と言う。

「云何見識即是我？謂六識身——眼識，耳、鼻、舌、身、意識身。於此六識身一一見是我，是名識即是我。云何見識異我？見色是我，識是我所，見受、想、行是我，識是我所，是名識異我。

> 「識が私である」とはどういうことか。それは六つの識、すなわち眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の集まりを指す。この六つの識のそれぞれに対して「これが私である」と見なすこと、これを「識が私である」という。 では、「識が私とは別である」とはどういうことか。それは「色（物質的なもの）が私であり、識は私の所有物である」と見なすことや、「受・想・行が私であり、識は私の所有物である」と見なすことである。これを「識が私とは別である」という。

「云何見我中識？謂色是我，識在中住。受、想、行是我，識在中住，是名我中識。云何識中我？謂色是我，於識中住，周遍其四體。受、想、行是我，於識中住，周遍其四體，是名識中我。

> 「どのようにして自己の中に識があるというのか？色が自己であり、識はその中に宿る想いや思考や行為が自己であり、識はその中に宿る。これを「自己の中に識がある」という。 では、識の中に自己があるとは何か？色が自己であり、識の中に宿って全身に行き渡る。想いや思考や行為が自己であり、識の中に宿って全身に行き渡る。これを「識の中に自己がある」という。

「如是聖弟子見四真諦，得無間等果，斷諸邪見，於未來世永不復起。所有諸色，若過去、若未來、若現在、若內、若外、若麤、若細、若好、若醜、若遠、若近，一向積聚，作如是觀：『一切無常、一切苦、一切空、一切非我，不應愛樂、攝受、保持。受、想、行、識亦復如是，不應愛樂、攝受、保持。』如是觀，善繫心住，不愚於法。復觀精進，離諸懈怠，心得喜樂，身心猗息，寂靜捨住，具諸道品，修行滿足，永離諸惡，非不消煬，非不寂滅。滅而不起，減而不增，斷而不生，不取不著，自覺涅槃：『我生已盡，梵行已立，所作已作，自知不受後有。』」

> このように、聖なる弟子たちは四つの聖なる真理を見極め、無間等（無間の悟り）の果実を得て、あらゆる邪見を断ち切り、未来永劫に再び起こることがありません。あらゆる色（物質）について、過去のものも、未来のものも、現在のものも、内なるものも、外なるものも、粗いものも、細かいものも、美しいものも、醜いものも、遠いものも、近いものも、すべてを一つのまとまりとして、次のように観じます。「すべては無常であり、すべては苦であり、すべては空であり、すべては我ならざるものである。よって、愛執したり、執着して保持したりすべきではない。」受（感覚）、想（知覚）、行（心の作用）、識（認識）についてもまた同様に、愛執したり、執着して保持したりすべきではありません。このように観じて、心をしっかりと留め、法に対して迷うことがありません。さらに、精進を観じて、怠りを離れ、心は歓喜と安楽を得て、身も心も休息し、静寂に安住し、すべての修行の要素を備え、修行を円満に成し遂げ、永遠に諸々の悪を離れます。消えずして滅することなく、滅しては起こらず、減じては増えず、断ち切っては生じず、取らず、執着せず、自ら涅槃を覚ります。「我が生は尽きた。清らかな行いは既に確立された。為すべきことは為し終えた。もはや後の生存を受けることはないと自ら知る。」

舍利弗說是法時，六十比丘不受諸漏，心得解脫。佛說此經已，諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。

> 舎利弗がこの法を説いたとき、六十人の比丘たちは、すべての煩悩から解放されて、心に悟りを得ました。 仏がこの経を説き終えられると、比丘たちは仏の教えを聞いて、喜び、その教えの通りに実践しました。