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title: "雜阿含經 · 291"
description: "雜阿含經是佛教早期經典之一，由劉宋時期譯師求那跋陀羅翻譯為漢文。該經屬於原始佛教阿含部，記錄了佛陀與弟子間的對話，內容涵蓋四聖諦、八正道、緣起法等核心教義，被視為研究原始佛教思想的重要文獻。雜阿含經在佛教經典中地位崇高，與長阿含、中阿含、增一阿含並列為四阿含，是南傳佛教巴利語尼柯耶的對應漢譯版本。該經語言簡練，教義樸實，反映了佛陀時代的修行方法與解脫之道，為後世佛教各派共同尊奉的基礎經典。"
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### （二九一）

> （二九一）

如是我聞：

> 私はこのように聞いた。

一時，佛住王舍城迦蘭陀竹園。

> あるとき、お釈迦さまは王舎城の迦蘭陀竹林におられました。

爾時，世尊告諸比丘：「我說內觸法，汝等為取不？」

> その時、世尊は比丘たちに告げられた。「私は内なる触れる法について説いた。あなたたちはそれを理解したか？」

時，有異比丘從座起，整衣服，稽首禮足，合掌白佛言：「世尊！所說內觸法，我已取也。」時，彼比丘於佛前如是如是自記說。如是如是世尊不悅。

> その時、一人の比丘が座から立ち上がり、衣を整え、頭を地につけて礼拝し、合掌して仏に申し上げました。 「世尊、お説きくださった内触の法、私はすでに体得いたしました。」 その比丘は仏の前でこのように自ら証言しましたが、世尊はこれを喜ばれませんでした。

爾時，尊者阿難在佛後執扇扇佛，佛告阿難：「如聖法、律內觸法，異於此比丘所說。」

> その時、尊者アーナンダは仏陀の後ろに立ち、扇であおいでいました。 仏陀はアーナンダに告げました：「聖なる法と律に説かれる内なる触れ方（内触法）は、この比丘が語ったものとは異なる。」

阿難白佛：「今正是時，唯願世尊為諸比丘說賢聖法、律內觸法，諸比丘聞已，當受奉行。」

> 阿難は仏に申し上げました。「今こそまさにその時でございます。どうか世尊よ、比丘たちのために聖なる法と戒律、そして内なる触れる法をお説きください。比丘たちはそれを聞き、受け入れて実践いたします。」

佛告阿難：「善哉！諦聽，當為汝說。此諸比丘取內觸法，應如是思惟：『若眾生所有種種眾苦生，此苦何因、何集、何生、何觸？』作如是取時，當知此苦億波提因、億波提集、億波提生、億波提轉。

> 仏は阿難に告げられた。「よろしい。よく聞きなさい。あなたのために説きましょう。これらの比丘たちは内なる触れる法を取って、このように思惟すべきです。『もし衆生のあらゆる種々の苦が生じるならば、この苦は何が因で、何が集まり、何から生じ、何に触れて起こるのか？』と。このように取る時、この苦はエーパッティ（執着）が因であり、エーパッティが集まり、エーパッティから生じ、エーパッティによって転じるものであると知るべきです。」

「復次，比丘內觸法，又億波提何因、何集、何生、何觸？彼取時當復知億波提愛因、愛集、愛生、愛觸。

> さらに、比丘よ、内なる法に触れるとき、また、何が原因で、何が集まって、何が生じて、何が触れることで、憂いが起こるのか。彼が執着するとき、憂いが愛を原因とし、愛が集まり、愛が生じ、愛が触れることを知るべきである。

「復次，比丘取內觸法，當復知愛何因、何集、何生、何觸。如是取時當知世間所念端正之色，於彼愛生而生、繫而繫、住而住。

> さらに、比丘は内なる触れる法をとらえるとき、愛が何によって生じ、何によって集まり、何によって生まれ、何によって触発されるかを知るべきである。このようにとらえるとき、世間が思い描く端正な色について、愛がそこに生じて生じ、縛られて縛られ、住まって住むことを知るべきである。

「若諸沙門、婆羅門於世間所念端正之色，作常想、恒想、安隱想、無病想、我想、我所想而見，則於此色愛增長；愛增長已，億波提增長，億波提增長已，苦增長；苦增長已，則不解脫生、老、病、死、憂、悲、惱、苦，我說彼不解脫苦。譬如路側清涼池水，香味具足，有人以毒著中，陽春之月，諸行路者風熱渴逼，競來欲飲。有人語言：『士夫！此是清涼池，色香味具足，然中有毒，汝等勿飲。若當飲者，或令汝死，或近死苦。而彼渴者不信而飲，雖得美味，須臾或死，或近死苦。』如是，沙門婆羅門見世間可念端政之色，作常見、恒見、安隱見、無病見、我、我所見，乃至不得解脫生、老、病、死、憂、悲、惱、苦。

> もし、諸々の沙門や婆羅門が、世間において端正な色（物質的なもの）を、常なるもの、変わらぬもの、安穏なもの、無病のもの、我（自己）のもの、我が所有するもの、と見なすならば、この色に対する愛が増長する。愛が増長すれば、執着が増長し、執着が増長すれば、苦が増長する。苦が増長すれば、生・老・病・死・憂い・悲しみ・悩み・苦しみから解き放たれることはない。私は、彼らが苦から解き放たれないと言う。 たとえば、道端に清涼な池水があり、香りも味も十分に備わっている。そこに誰かが毒を入れたとする。陽春の月、旅人たちは風熱に苛まれ、喉の渇きに迫られて、争うように飲もうとやってくる。ある人が言う。『皆さん、これは清涼な池で、色も香りも味も十分に備わっています。しかし、中には毒が入っています。どうか飲まないでください。もし飲んでしまえば、あなた方を死なせたり、死に近い苦しみを与えたりするかもしれません。』しかし、喉の渇いた者はそれを信じずに飲んでしまう。美味しさは味わえても、たちまち死んでしまったり、死に近い苦しみを味わったりする。 このように、沙門や婆羅門が世間の愛すべき端正な色を、常なるもの、変わらぬもの、安穏なもの、無病のもの、我のもの、我が所有するもの、と見なすならば、ついには生・老・病・死・憂い・悲しみ・悩み・苦しみから解き放たれることができないのである。

「若諸沙門、婆羅門於世間可念端政之色觀察如病、如癰、如刺、如殺、無常、苦、空、非我，彼愛則離，愛離故億波提離，億波提離故則苦離，苦離故則生、老、病、死、憂、悲、惱、苦離。譬如路側清涼池水，香味具足，有人以毒著中，陽春之月，諸行路者風熱渴逼，競來欲飲，有人語言：『此水有毒！汝等勿飲，若當飲者，或令汝死，或近死苦。』彼則念言：『此水有毒，若當飲者，或令我死，或近死苦，我且忍渴，食乾󰉓飯，不取水飲。』如是，沙門、婆羅門於世間可念之色觀察如病、如癰、如刺、如殺、無常、苦、空、非我，乃至解脫生、老、病、死、憂、悲、惱、苦。是故，阿難！於此法如是見、如是聞、如是覺、如是知，於過去、未來亦如此道。如是觀察。」

> もし、沙門や婆羅門たちが、この世において愛おしく端正な色（物質）を、病のごとく、腫れ物のごとく、刺のごとく、殺しのごとく、無常であり、苦であり、空であり、我がものではないと観察するならば、彼らの愛着は離れる。愛着が離れるゆえに執着も離れ、執着が離れるゆえに苦も離れ、苦が離れるゆえに生・老・病・死・憂い・悲しみ・悩み・苦しみが離れる。 たとえば、道端に涼やかな池があり、その水は香りも味も満ちている。しかし、そこに誰かが毒を入れたとする。春の陽ざしの下、旅人たちが風と暑さに喉を乾かし、争うようにしてその水を飲もうとする。その時、ある人が言う。「この水には毒が入っている！ 飲んではいけない。もし飲めば、死ぬかもしれない、死に近い苦しみを味わうかもしれない」と。すると彼らは考える。「この水には毒がある。もし飲めば、死ぬかもしれない、死に近い苦しみを受けるかもしれない。それならば、喉の渇きをこらえて乾いた飯だけを食べ、水は飲まないでおこう」と。 このように、沙門や婆羅門たちは、この世の愛おしい色（物質）を、病のごとく、腫れ物のごとく、刺のごとく、殺しのごとく、無常であり、苦であり、空であり、我がものではないと観察し、ついには生・老・病・死・憂い・悲しみ・悩み・苦しみから解脱するのである。 それゆえ、阿難よ。この教えをこのように見、このように聞き、このように覚り、このように知り、過去においても、未来においても、この道のままであると、このように観察しなさい。

佛說此經已，諸比丘聞佛所說，歡喜奉行。

> お釈迦様がこの経をお説きになると、比丘たちはその教えを聞き、喜んで実践に移しました。